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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0551人間七七四年2012/01/23(月) 16:39:43.06ID:Gwamdi+2
>>550
良かった
松の丸殿と淀殿の席次争いなんてなかったんですね
0552人間七七四年2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76
まあ北政所は良くも悪くも秀吉あっての存在感であり影響力だったようだ。
そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。

官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。

>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg
オメエはそれでいいよ
0554人間七七四年2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm
それでいいから皆お茶飲んで一服しようぜ!
西国から差し入れがあったんだ!
0555人間七七四年2012/01/23(月) 17:58:36.33ID:EKpAdN1W
>>554
お前まず飲んでみろ
0556人間七七四年2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA
粉雪舞う季節は いつもスレ違い
0557人間七七四年2012/01/23(月) 18:35:12.51ID:QYokWLzJ
>>533
京極龍子さんて、秀吉が死んだ後は高次のいた大津城に返されたんじゃなかったっけ?
0558人間七七四年2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV
てか奥さんが実力を持つなんてことあるのかね。
実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+1
つ尼将軍
0560人間七七四年2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo
孝蔵主には実力があったんだろ?
0561人間七七四年2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN
はるか遠い戦国時代の話である。

伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。

伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。

この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。

彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j
スレ違いだけど、カッコいい話過ぎてワロタ
0563人間七七四年2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n
残念だが伍員は春秋時代だからスレチだな
0564人間七七四年2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zw
>>しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた

ここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq
諫言じゃなくて讒言じゃないか?
0566人間七七四年2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n
スレ違いはまとめて彦左が罵る
0567人間七七四年2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW4
何度も何度も何故みなコイツに触れたがる
0568人間七七四年2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV
孫子の兵法で有名な孫武の時代かw
時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf
自分が幼稚園児だったころ、年長組の男子はお遊戯会で袴を履いて
通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ

「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」

ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…

山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf
ちなみになぜ戦国なのかというと
当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…

ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉田守隆
謎の人物?
0572人間七七四年2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w
250年ほど遅かったな
0573人間七七四年2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf
そうだったのか!スレチだったね
山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt
孫子といえば武田だけど、他の大名だってそれなりに孫子知ってたり、孫子使って作戦立てたりしてた?
0575人間七七四年2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f
孫子の兵法も孫武と孫ぴんでは大分違う
0576人間七七四年2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME
まあ六韜とか名門の大名家は読まされてそうだけどどんな兵法書であれ読み手で解釈は違うだろうし
信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCT
でも孫氏がその2人なのとどっちがどれ書いたかとか割とはっきりと分かったのって
ほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。

と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi
その吉川が写本した太平記が後に「私本太平記」と呼ばれたわけか
0579人間七七四年2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBa
某氏の聚楽第レポ


これはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!


だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!

こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!



安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6
戦国期の筆写が後世の歴史学に役立っている例というと、まず『吾妻鏡』がある。
陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。

他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。

こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp6
誠に申し訳ない。ミスって上げてしまった……。
0582人間七七四年2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjm
>>579
フロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS
吾妻鏡は家康も収集してた
0584人間七七四年2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s
頼朝マニアの家康が吾妻鏡読んだら、気を悪くしそうだ。
0585人間七七四年2012/01/25(水) 03:40:38.10ID:IYTivm79
>>584
むしろ出版して広めてますがな
0586人間七七四年2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD
家康「頼朝公も大変だな。御家人が言うこと聞かなくて・・・」
0587人間七七四年2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndC
写本させて教育した後は出版する
これが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e
家康流というか書物の管理・出版は立派な既得権益だよね。
0589人間七七四年2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg
>>582
血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0590人間七七四年2012/01/25(水) 11:59:24.52ID:QPlLZ0E+
>>576
氏康「戦わずして勝つ」
直家「戦わずして勝つ」

同じ事いっても明らかに意味と手段違うもんな
0591人間七七四年2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3
謙信「和議が相成ったからには誓いの盃じゃ」
直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0592人間七七四年2012/01/25(水) 13:24:10.36ID:lx9tGg+e
>>591
なぜ仙石が
0593人間七七四年2012/01/25(水) 13:49:27.21ID:PKYnQ7s3
>>592
ごめん、素で打ち間違えたようだ。漫画板に帰るね。
さあ古織殿も一緒に帰りましょうぞ。
0594人間七七四年2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96vo
センゴクを久秀と間違うのは何回か見たような
そのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA
爆弾正と仙石の何がアレかって語感が近すぎるとこだろ
十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNg
爆弾正は秀吉より地位が高かったから「久秀」

センゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV
久久でいいや
0598人間七七四年2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX
尼子秀久「たまには日の目を見たいな...」
0599人間七七四年2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo
織田信秀:秀吉の「秀」はここから?
織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi
佐久間信信殿は果報者にござるな
0601人間七七四年2012/01/25(水) 23:22:26.65ID:K5DM1WEs
>>599
丹羽長秀の可能性も
0602人間七七四年2012/01/26(木) 00:01:56.18ID:vtu5mV5x
つーか秀吉の「秀」に関しては、弟も最初から「秀」長(信長時代は長秀)を名乗っているところから、
秀吉の生家の通字が「秀」だったという可能性もある。
0603人間七七四年2012/01/26(木) 19:22:55.87ID:xCKS1zlX
>>602
秀吉の父は木下弥右衛門秀ナントカや竹阿弥秀ナニガシってことか
なんかちょっと偉い人に見えてくるな
異父弟の秀長は百姓出身だって言うには多芸だしやっぱりそれなりに富裕層だったのかな
秀吉って父に関して何で語らなかったんだろう
幼いうちに死んだにしても大政所から色々聞いてるだろうに
0604人間七七四年2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk
順序としては、
諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Eg
>>603
だれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg
そもそも竹阿弥って何者なんだよといつも思う
智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える

弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0607人間七七四年2012/01/27(金) 18:23:30.10ID:SnMkKwoq
>>579
風呂椅子ワロタw
0608人間七七四年2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ
竹阿弥で思い出した。

『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。

ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ
むしろそれが一番有名な説だと思ってた
地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+
どっちもあまり意味で使われないなw
0611人間七七四年2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3
偏諱にちなんだ笑える話。

大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。

だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN
鎮虎さんはいないのか
0613人間七七四年2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix
長政は?
0614人間七七四年2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f5
しげしげと眺めてしまったぜ
0615人間七七四年2012/01/28(土) 10:18:38.72ID:+wDDcbcQ
>>612
西の完璧超人さんが立花姓初期に名乗っていた模様
0616人間七七四年2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML
立花宗茂って晩年の名前なのな
変えすぎだろう…
0617人間七七四年2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1
あまり頻繁に変えられちゃ、名前変えた後に手紙送る時
相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h
花押があるから
0619人間七七四年2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1
ああそうか 花押があったか
それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV
諱は普段出ないんだろうから苗字+通称や官位(自称を含む)で区別してんじゃねぇの
0621人間七七四年2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1
んじゃどれだけ名前変えても、日常的な人付き合いでは
特に問題ないってことか
0622人間七七四年2012/01/28(土) 13:25:08.08ID:4faSkx4S
手紙に出てくる個人名のいい加減さは、このスレではお約束じゃないか・・・
0623人間七七四年2012/01/28(土) 13:31:43.60ID:pQaPwTAf
学者もそれで名前の比定に苦労してるしな
別人だと思ってた二つの名前が同一人物だったり
その逆もあったりするし
0624人間七七四年2012/01/28(土) 13:35:02.25ID:MPnlgZY1
当て字も多いから、名前が違うくらいなんでもなかったか…
0625人間七七四年2012/01/28(土) 14:09:40.30ID:XMVCfJ3m
上杉政虎→輝虎に改名した時、上杉憲政に今どんな気持ちか聞いてあげたい
0626人間七七四年2012/01/28(土) 14:13:12.39ID:6RNaz/r1
将軍相手ならしょうがない、もしくは喜ばしいだろ
0627人間七七四年2012/01/28(土) 14:25:59.94ID:cGf6rbGG
工場長とこも元が誰だかわからなくなるくらい乱発してるよな
0628人間七七四年2012/01/28(土) 14:27:44.79ID:MPnlgZY1
蒲生さん多すぎる…蒲生製造工場か
0629人間七七四年2012/01/28(土) 18:13:13.43ID:pLwH/qgN
工場長がもう連発しすぎ
0630人間七七四年2012/01/28(土) 19:01:42.01ID:qbaKdBiP
誰か>>614に突っ込んであげて〜
0631人間七七四年2012/01/28(土) 21:06:11.30ID:6YM77AK0
大友鎮鎮殿は果報者にござるな
0632人間七七四年2012/01/28(土) 22:38:07.32ID:hF5IVVvb
>>611
佐伯家とかの大神一族系の他門衆や
同門衆でも三大支族の志賀家と田原家は
偏諱を受けないみたいだけどね。
0633人間七七四年2012/01/28(土) 23:19:10.89ID:cgmmRaMB
>>625
輝政になられるよりは良かったんじゃ…
0634人間七七四年2012/01/29(日) 00:48:22.56ID:7B+B5ExM
ところで山之内上杉の代々の通字って『憲』だろうになんで『政虎』なん?
0635人間七七四年2012/01/29(日) 00:58:10.63ID:lzWD42wk
そういや輝も義輝の輝だな。なんかルールでもあんのかね
0636人間七七四年2012/01/29(日) 01:43:36.32ID:0W6epqBK
偏諱は下の字を相手の上の字に授けるのが一般的と聞いた
(長宗我部信親とか秀次の家臣団とか例外はあるけど)
0637人間七七四年2012/01/29(日) 01:44:25.70ID:TPZanYLJ
偏諱は基本通字じゃない方だった気がする
0638人間七七四年2012/01/29(日) 01:57:30.14ID:0W6epqBK
>>637
伊達氏の通字「宗」や千葉氏系の「胤」は当主の下の字になることが多いから
家臣で頭の字に頂いてるのをよく見る
0639人間七七四年2012/01/29(日) 07:55:09.96ID:RiiIGYll
>>625
赤の他人の人質に景虎の名前が付けられた時の景勝にもどんな気持ちか聞いてあげて
0640人間七七四年2012/01/29(日) 09:45:05.11ID:pwDUF/l5
>>611
戸次鑑連も特に武功を称されてとかいうことじゃないんだな
0641人間七七四年2012/01/29(日) 13:37:36.14ID:M6ettp4l
>>634
娘との縁組ですらない養子だからか?
0642人間七七四年2012/01/29(日) 13:44:15.87ID:szfVGw5T
>>634は家督をついだのに、通字じゃないのな、て話だったようなのに
いつの間にか偏諱全般の話に
0643人間七七四年2012/01/29(日) 13:58:43.83ID:4xQB+Gft
>>639
直江「それについては私がお答えしよう」
0644人間七七四年2012/01/29(日) 13:59:39.50ID:P0DDgbd7
大友家の同紋衆は、元々大友氏が通字としていた親の字を同じく通字としていた
みたいなんだけど、19代の大友義長から足利家から義の字の偏諱を受けて
通字としたため、通字じゃない方を慣習的に偏諱するようになっていったみたい。
同紋衆でも家格の高い田原家や志賀家は親を通字のままにしてたようだけど

佐伯家とかの大神一族系の他紋衆は、惟の字を平安の頃から通字にしてるから
基本的に偏諱は受けない信念があるようだ。
0645人間七七四年2012/01/29(日) 14:14:14.43ID:zB0rRwcG
>>634
簡単に言えば政虎と改名した時は正式に家督を継いでいなく
憲政個人の代理補佐役いわゆる陣代だったので、
山内の通字を使ってなかったと考察されている
0646人間七七四年2012/01/29(日) 14:55:33.71ID:FHD6h9E1
>>632
それも大体そうなんだが、結構例外も多い。
佐伯鎮忠(惟教の息子)とか田原鑑道(親賢の養父親資の弟)、統高親子とか
南志賀家の鑑隆・鎮隆親子とか。
そもそも吉弘ももともと田原一族だが、分離しちゃったし。

>>640
そう直参はみんなもらえる。
鑑連の代わりに加判衆になった戸次鎮秀も戸次の別家の当主。
だから鑑連も戸次一族の中でただ一人もらっているわけじゃなく、
みんなもらっている中の一人。
0647人間七七四年2012/01/29(日) 15:02:41.84ID:FHD6h9E1
>>644
「親」の他にも「直」「能」「氏」「秀」なんかもよく使う。

ついでに義長以前にも義右(第17代当主)がいる。
それ以前は将軍の下の字をもらっていたが、この頃から「義」の字を
もらうようになった。
なぜかというと「義」の字の方が高いからw


>>611に追加。

鎮忠
鎮則

2人どころかひどいのは3人同名さんがいる。
0648人間七七四年2012/01/29(日) 16:15:37.70ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
・清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)
0649人間七七四年2012/01/29(日) 18:35:56.38ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに
0650人間七七四年2012/01/29(日) 19:02:30.89ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・
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