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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0522人間七七四年2012/01/22(日) 10:51:04.50ID:+oBSMM0h
>>521
徳川実紀だと生きてる。
0523人間七七四年2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBU
新参者なのだが、何でこのスレでは福島正則のことを市松って呼ぶん?
もしかして幼名?
0524人間七七四年2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnL
鯉喰いと三方ヶ原身代わりでインパクト抜群なのに、どの鈴木家の誰のことなのかは
はっきりしないんだよな久三郎殿

個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h
>>523
幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)

まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Q
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
ついでにその他の愛称
0527人間七七四年2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGI
>>512まとめブログにある藤代御前の話だね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html

藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU
>>526
>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx
福島正則の幕・後日談

名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。

この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。

さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。

(「金城温古禄」)

正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH
>>523
肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smas
エ プ ロ ン 通 信 6 + 9 + α です よ ー ー ー ー ーーーーーーーーーーーー
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W
関ヶ原から何年も正則と北政所があった記録がないから親しくないって言う主張があるんじゃなかったっけ?
司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2
そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9A
まだ有力な仮説、ってレベルの話じゃないのかその通説とやらは
つうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0535人間七七四年2012/01/23(月) 01:38:43.16ID:PcnIZS0x
>>534
秀吉が死去してから関与したのは木下家程度だからな。
0536人間七七四年2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMA
>>501
ボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。


清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。

その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。

武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。


ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
0537人間七七四年2012/01/23(月) 02:49:59.57ID:DxU+oHdd
>>534
付き人の孝蔵主の名前もちょくちょく出てくるし
やっぱり力あったんだなと思ったりしたけど
0538人間七七四年2012/01/23(月) 07:55:50.21ID:tMsrIsrg
これまでの通説を否定して新説を語りたがるのは歴ヲタがかかる熱病みたいなものだからそっとしておく
0539人間七七四年2012/01/23(月) 09:37:01.78ID:vAlCKIW/
> そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし
0540人間七七四年2012/01/23(月) 09:56:06.56ID:q7T7grj2
また「現代の通説」とやらが出ちまったかww
0541人間七七四年2012/01/23(月) 10:01:17.38ID:I6FWk76y
元々通説以前に政治力なんて無いだろ
0542人間七七四年2012/01/23(月) 11:05:36.11ID:EKpAdN1W
なんか…いい感じに荒れてきたな

信雄「燃〜えろよ燃えろ〜〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
0543人間七七四年2012/01/23(月) 11:09:31.89ID:JnG48o0C
おれの○○観が正しいって押し付け始めると荒れるよね
0544人間七七四年2012/01/23(月) 11:12:53.18ID:nML09O3f
荒れそうになったら作左に叱ってもらうべき
0545人間七七四年2012/01/23(月) 11:15:51.75ID:DtkaCxxJ
たまには道雪さんに叱ってもらいたい
0546人間七七四年2012/01/23(月) 11:17:44.67ID:YdtnbgAD
松永久秀「この茶を飲んで落ち着かれよ」
0547人間七七四年2012/01/23(月) 11:23:41.48ID:FwHfxJjc
秋田さんが凍蚓に向かって切々と荒れる話はよくない、皆穏やかに、と語りかけ続けるのを拝聴

>>546
悪いスレに帰れw
0548人間七七四年2012/01/23(月) 12:33:27.09ID:WJK2O1mF
>>545
いきなり鉄扇でバシっと叩かれるのか
0549人間七七四年2012/01/23(月) 14:28:07.46ID:yVd2LSYW
>>547
おいやめろ
0550人間七七四年2012/01/23(月) 16:36:19.18ID:88JHLf0b
>>533
派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね
0551人間七七四年2012/01/23(月) 16:39:43.06ID:Gwamdi+2
>>550
良かった
松の丸殿と淀殿の席次争いなんてなかったんですね
0552人間七七四年2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76
まあ北政所は良くも悪くも秀吉あっての存在感であり影響力だったようだ。
そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。

官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。

>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg
オメエはそれでいいよ
0554人間七七四年2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm
それでいいから皆お茶飲んで一服しようぜ!
西国から差し入れがあったんだ!
0555人間七七四年2012/01/23(月) 17:58:36.33ID:EKpAdN1W
>>554
お前まず飲んでみろ
0556人間七七四年2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA
粉雪舞う季節は いつもスレ違い
0557人間七七四年2012/01/23(月) 18:35:12.51ID:QYokWLzJ
>>533
京極龍子さんて、秀吉が死んだ後は高次のいた大津城に返されたんじゃなかったっけ?
0558人間七七四年2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV
てか奥さんが実力を持つなんてことあるのかね。
実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+1
つ尼将軍
0560人間七七四年2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo
孝蔵主には実力があったんだろ?
0561人間七七四年2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN
はるか遠い戦国時代の話である。

伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。

伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。

この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。

彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j
スレ違いだけど、カッコいい話過ぎてワロタ
0563人間七七四年2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n
残念だが伍員は春秋時代だからスレチだな
0564人間七七四年2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zw
>>しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた

ここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq
諫言じゃなくて讒言じゃないか?
0566人間七七四年2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n
スレ違いはまとめて彦左が罵る
0567人間七七四年2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW4
何度も何度も何故みなコイツに触れたがる
0568人間七七四年2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV
孫子の兵法で有名な孫武の時代かw
時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf
自分が幼稚園児だったころ、年長組の男子はお遊戯会で袴を履いて
通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ

「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」

ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…

山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf
ちなみになぜ戦国なのかというと
当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…

ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉田守隆
謎の人物?
0572人間七七四年2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w
250年ほど遅かったな
0573人間七七四年2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf
そうだったのか!スレチだったね
山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt
孫子といえば武田だけど、他の大名だってそれなりに孫子知ってたり、孫子使って作戦立てたりしてた?
0575人間七七四年2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f
孫子の兵法も孫武と孫ぴんでは大分違う
0576人間七七四年2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME
まあ六韜とか名門の大名家は読まされてそうだけどどんな兵法書であれ読み手で解釈は違うだろうし
信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCT
でも孫氏がその2人なのとどっちがどれ書いたかとか割とはっきりと分かったのって
ほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。

と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi
その吉川が写本した太平記が後に「私本太平記」と呼ばれたわけか
0579人間七七四年2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBa
某氏の聚楽第レポ


これはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!


だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!

こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!



安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6
戦国期の筆写が後世の歴史学に役立っている例というと、まず『吾妻鏡』がある。
陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。

他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。

こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp6
誠に申し訳ない。ミスって上げてしまった……。
0582人間七七四年2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjm
>>579
フロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS
吾妻鏡は家康も収集してた
0584人間七七四年2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s
頼朝マニアの家康が吾妻鏡読んだら、気を悪くしそうだ。
0585人間七七四年2012/01/25(水) 03:40:38.10ID:IYTivm79
>>584
むしろ出版して広めてますがな
0586人間七七四年2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD
家康「頼朝公も大変だな。御家人が言うこと聞かなくて・・・」
0587人間七七四年2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndC
写本させて教育した後は出版する
これが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e
家康流というか書物の管理・出版は立派な既得権益だよね。
0589人間七七四年2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg
>>582
血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0590人間七七四年2012/01/25(水) 11:59:24.52ID:QPlLZ0E+
>>576
氏康「戦わずして勝つ」
直家「戦わずして勝つ」

同じ事いっても明らかに意味と手段違うもんな
0591人間七七四年2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3
謙信「和議が相成ったからには誓いの盃じゃ」
直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0592人間七七四年2012/01/25(水) 13:24:10.36ID:lx9tGg+e
>>591
なぜ仙石が
0593人間七七四年2012/01/25(水) 13:49:27.21ID:PKYnQ7s3
>>592
ごめん、素で打ち間違えたようだ。漫画板に帰るね。
さあ古織殿も一緒に帰りましょうぞ。
0594人間七七四年2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96vo
センゴクを久秀と間違うのは何回か見たような
そのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA
爆弾正と仙石の何がアレかって語感が近すぎるとこだろ
十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNg
爆弾正は秀吉より地位が高かったから「久秀」

センゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV
久久でいいや
0598人間七七四年2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX
尼子秀久「たまには日の目を見たいな...」
0599人間七七四年2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo
織田信秀:秀吉の「秀」はここから?
織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi
佐久間信信殿は果報者にござるな
0601人間七七四年2012/01/25(水) 23:22:26.65ID:K5DM1WEs
>>599
丹羽長秀の可能性も
0602人間七七四年2012/01/26(木) 00:01:56.18ID:vtu5mV5x
つーか秀吉の「秀」に関しては、弟も最初から「秀」長(信長時代は長秀)を名乗っているところから、
秀吉の生家の通字が「秀」だったという可能性もある。
0603人間七七四年2012/01/26(木) 19:22:55.87ID:xCKS1zlX
>>602
秀吉の父は木下弥右衛門秀ナントカや竹阿弥秀ナニガシってことか
なんかちょっと偉い人に見えてくるな
異父弟の秀長は百姓出身だって言うには多芸だしやっぱりそれなりに富裕層だったのかな
秀吉って父に関して何で語らなかったんだろう
幼いうちに死んだにしても大政所から色々聞いてるだろうに
0604人間七七四年2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk
順序としては、
諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Eg
>>603
だれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg
そもそも竹阿弥って何者なんだよといつも思う
智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える

弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0607人間七七四年2012/01/27(金) 18:23:30.10ID:SnMkKwoq
>>579
風呂椅子ワロタw
0608人間七七四年2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ
竹阿弥で思い出した。

『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。

ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ
むしろそれが一番有名な説だと思ってた
地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+
どっちもあまり意味で使われないなw
0611人間七七四年2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3
偏諱にちなんだ笑える話。

大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。

だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN
鎮虎さんはいないのか
0613人間七七四年2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix
長政は?
0614人間七七四年2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f5
しげしげと眺めてしまったぜ
0615人間七七四年2012/01/28(土) 10:18:38.72ID:+wDDcbcQ
>>612
西の完璧超人さんが立花姓初期に名乗っていた模様
0616人間七七四年2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML
立花宗茂って晩年の名前なのな
変えすぎだろう…
0617人間七七四年2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1
あまり頻繁に変えられちゃ、名前変えた後に手紙送る時
相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h
花押があるから
0619人間七七四年2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1
ああそうか 花押があったか
それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV
諱は普段出ないんだろうから苗字+通称や官位(自称を含む)で区別してんじゃねぇの
0621人間七七四年2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1
んじゃどれだけ名前変えても、日常的な人付き合いでは
特に問題ないってことか
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