戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0523人間七七四年
2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBUもしかして幼名?
0524人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnLはっきりしないんだよな久三郎殿
個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)
まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年
2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Qついでにその他の愛称
0527人間七七四年
2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGIhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html
藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年
2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年
2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。
この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。
さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。
(「金城温古禄」)
正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年
2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink
2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smashttp://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年
2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年
2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年
2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9Aつうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0536人間七七四年
2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMAボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。
清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。
その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。
武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。
ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
0538人間七七四年
2012/01/23(月) 07:55:50.21ID:tMsrIsrg0539人間七七四年
2012/01/23(月) 09:37:01.78ID:vAlCKIW/> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし
0540人間七七四年
2012/01/23(月) 09:56:06.56ID:q7T7grj20541人間七七四年
2012/01/23(月) 10:01:17.38ID:I6FWk76y0542人間七七四年
2012/01/23(月) 11:05:36.11ID:EKpAdN1W信雄「燃〜えろよ燃えろ〜〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
0543人間七七四年
2012/01/23(月) 11:09:31.89ID:JnG48o0C0544人間七七四年
2012/01/23(月) 11:12:53.18ID:nML09O3f0545人間七七四年
2012/01/23(月) 11:15:51.75ID:DtkaCxxJ0546人間七七四年
2012/01/23(月) 11:17:44.67ID:YdtnbgAD0547人間七七四年
2012/01/23(月) 11:23:41.48ID:FwHfxJjc>>546
悪いスレに帰れw
0550人間七七四年
2012/01/23(月) 16:36:19.18ID:88JHLf0b派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね
0552人間七七四年
2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。
官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。
>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年
2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg0554人間七七四年
2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm西国から差し入れがあったんだ!
0556人間七七四年
2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA0558人間七七四年
2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年
2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+10560人間七七四年
2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo0561人間七七四年
2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。
伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。
この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。
彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年
2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j0563人間七七四年
2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n0564人間七七四年
2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zwここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年
2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq0566人間七七四年
2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n0567人間七七四年
2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW40568人間七七四年
2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年
2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ
「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」
ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…
山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足
2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…
ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年
2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx謎の人物?
0572人間七七四年
2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w0573人間七七四年
2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年
2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt0575人間七七四年
2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f0576人間七七四年
2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年
2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCTほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。
と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年
2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi0579人間七七四年
2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBaこれはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!
だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!
こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!
安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage
2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。
他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。
こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年
2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp60582人間七七四年
2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjmフロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年
2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS0584人間七七四年
2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s0586人間七七四年
2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD0587人間七七四年
2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndCこれが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年
2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e0589人間七七四年
2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0591人間七七四年
2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0594人間七七四年
2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96voそのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年
2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年
2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNgセンゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年
2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV0598人間七七四年
2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX0599人間七七四年
2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年
2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi0602人間七七四年
2012/01/26(木) 00:01:56.18ID:vtu5mV5x秀吉の生家の通字が「秀」だったという可能性もある。
0603人間七七四年
2012/01/26(木) 19:22:55.87ID:xCKS1zlX秀吉の父は木下弥右衛門秀ナントカや竹阿弥秀ナニガシってことか
なんかちょっと偉い人に見えてくるな
異父弟の秀長は百姓出身だって言うには多芸だしやっぱりそれなりに富裕層だったのかな
秀吉って父に関して何で語らなかったんだろう
幼いうちに死んだにしても大政所から色々聞いてるだろうに
0604人間七七四年
2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年
2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Egだれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年
2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える
弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0608人間七七四年
2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。
ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年
2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年
2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+0611人間七七四年
2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。
だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年
2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN0613人間七七四年
2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix0614人間七七四年
2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f50616人間七七四年
2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML変えすぎだろう…
0617人間七七四年
2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年
2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h0619人間七七四年
2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年
2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV0621人間七七四年
2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1特に問題ないってことか
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