トップページsengoku
1001コメント403KB

戦国ちょっといい話30

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0488人間七七四年2012/01/18(水) 00:02:51.96ID:FCoGG72T
>>487
まあまあ。まだ乱世だからといってみるテスト。好意的で徹してみよう。
0489人間七七四年2012/01/18(水) 00:29:03.58ID:XB8+aVzd
そりゃ資料に残っていない事情とかもあるんだろうな
0490人間七七四年2012/01/18(水) 01:34:01.55ID:xwullzVz
正直言えば品種改良でいい牡丹が出来たので
先祖の名を借りての売名行為だろうなと思う

そうだとしても
いい牡丹が広まるならそれでいいことかもしれないしな
0491人間七七四年2012/01/18(水) 04:07:29.58ID:FCoGG72T
>>490
徹することのできない人だなぁ!
0492人間七七四年2012/01/18(水) 13:47:05.32ID:2y+dcaG4
貞慶の時の住職がうっかり者だっただけなんだよ
0493人間七七四年2012/01/18(水) 19:52:35.75ID:fI82nRiW
貞慶は牡丹が嫌いだったから住職が空気読んだんだよ
0494人間七七四年2012/01/18(水) 23:11:45.33ID:gLtHvzOZ
観光誘致や地域活性化のためには
つくり話も必要だよな
0495人間七七四年2012/01/18(水) 23:56:35.09ID:dAE1MDAq
で、偽清洲城とか偽墨俣城には観光客が来てるのか?
0496人間七七四年2012/01/19(木) 00:07:20.58ID:rz6fE7kD
清洲城は平成20年度は39,095人
墨俣城は平成19年に26,379人

これはどんなもんなんだろう
0497人間七七四年2012/01/19(木) 20:27:17.62ID:o3UKwLsP
甲州は市川にある、偽上野城(歌舞伎文化公園)は大盛況ですぞ!
0498人間七七四年2012/01/20(金) 00:26:07.31ID:3I1sSiA1
岐阜在住だが、墨俣城って歴史資料館なんだけど、あんなとこに観光客が26000人とかありえないと思う。
あそこは桜並木があって花見シーズンにはそれなりに賑わうから、その人数をカウントに入れてそう。
0499人間七七四年2012/01/20(金) 01:01:54.39ID:D+3sOqhP
入場無料の平成18年度は42,931人になってるし、そんな訳のわからない計算法は取ってないはず
そも、博物館の平均入館者数は平成19年度で4.93万人だから(一部がものすごく底上げした結果だけど)
こんなもんなんじゃないの

うん、スレチだな
0500人間七七四年2012/01/20(金) 01:32:53.07ID:K+caqm2p
営業時間10時間として1時間に7人も来れば年間そのぐらいになるし
あるんじゃないの
0501人間七七四年2012/01/20(金) 01:39:07.28ID:XspuTWx2
ドラゴンクエスト1 〜甲斐の竜王〜

人から犬に至るまで戦闘力が高く、ロンダルキアに例えられる甲斐であるが、
なんと戦国時代初期にはドラゴンまでが多数生息し、人はその頭を竜王と呼んだ。


ショウキョウのころのことである。甲州巨摩郡に貧しい村があった。
ある時戦があり、道に迷ってボウキノカミという武士がやってきた。
村人達は宿をしつらえ、村を挙げて彼を歓迎した。

夜半、ボウキノカミは大きな物音に驚いて飛び起き、何事かと尋ねた。
村人はこれは大竜が叫び暴れている音なので、心配いりませんと答えた。

「なんと珍しい話だろう。それならば私が成敗して参らせよう」
といって、ボウキノカミは広い河原を歩いて行き、黒い淵をのぞき込んだ。

すると水面に泡が立ち、巨大な竜が躍り出て襲いかかった。
ボウキノカミは少しも慌てず、弓を引き絞り矢を放つと、矢は竜の片目を射貫いた。

竜は一度淵に沈み、これで落着かと思われたが、再び躍りかかってボウキノカミの
袖に食らいつき、彼を水の中に引きずり込もうとした。
ボウキノカミは刀を抜き、竜の鼻先を袖ごと両断した。
竜は刀を鼻先に食い込ませたまま再び淵に沈んで、ついに浮かんでこなかった。

ボウキノカミが「確かに大竜であった」と言うと、
村人は「あのような竜が数知れずおり、さらに巨大な竜王がいるのです」と答えた。

ボウキノカミは驚いて、「それでは私の手に負えない」と言った。
村人は「ありがとうごした」と言って彼をねぎらい、別れを告げようとした。

するとボウキノカミは、
「この貧しい村が私を歓待してくれた礼に、国主信昌公に申し参らそう」と言った。
村人達は相談して、嘆願状を作った。
0502人間七七四年2012/01/20(金) 01:43:27.62ID:XspuTWx2
ドラゴンクエスト2 〜甲斐の守り手〜

その時国主であった武田信昌はこれを重く見て、悪竜の討伐に数多の武者を派遣した。
武者達は三日三晩、竜王の軍勢と戦ったが、ついに勝利を得ることができなかった。

ボウキノカミが戻ってきて国主に言うには、
「これを武力で征伐することはできません。法力を持って調伏致したく存じます」。

そこで信昌は国中の僧侶・修験者を集めて派遣し、土を盛って祭壇を作り祈祷を行った。

ある晩ボウキノカミが寝ていると、どこからともなく大きな声が聞こえてきた。
「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである。ソウダ淵の河原に、
赤と青の大岩が山から落ちて、互いに圧し合っているので、これをどけて欲しい」。

ボウキノカミと村人たちは人をかき集め、この大岩をどけようとした。
ところが余りに巨岩であり、とても地上を転がすことは出来ない。
そこで岩の根本にくさびを打ち、巨木を巻き付け、河原に土手を築いて増水を待った。

やがて大水が出て河原まで水に沈んだ。巨木の浮力と抵抗で巨岩は転がりだし、
なんとかその場所から河下へとゆっくり離れていった。

見守っていた人々が小躍りして喜ぶと、黒い水面から光り輝く巨大な竜女が現れた。

「以前の大地震のとき、私は妊娠の身体で岩に挟まれ、みな非常に苦悶していた。
いま仏の功徳と汝らの労苦によって、ようやく済度を得た。これからは山にこもり、
人の恩に報いるため、子を授け産を安んじて進ぜよう」。
0503人間七七四年2012/01/20(金) 01:53:38.89ID:XspuTWx2

ドラゴンクエスト3 〜そして伝説へ〜

ボウキノカミは、竜神を鎮めたことを国主信昌に報告した。
信昌は大いに喜び、大竜のこもった山に寺を建てた。これが大竜山満福寺である。

いまボウキノカミが袖ごと竜を斬った淵は、袖淵といい、その刀を袖切という。
また、人々はこのあたりを竜王という地名で呼ぶようになった。

その後、国主の妻であった人が、子を授からないのを憂いて入水しようとした。
人がそれを止めて「満福寺の竜神様にお願いしましょう」と言った。
彼女がその通りにすると、やがて子を授かったので岩下殿と呼ばれるようになった。

信縄は大いに喜んで、三度舞った。これが後に武田氏中興の祖となる信虎である。

(「古老は語る-山梨の民話伝説-」から引用した小冊子より、現代標準語に意訳)


なお竜王討伐に乗り出すのが信昌でなくて信玄だったり、満福寺に祈願して生まれた
のが信虎でなくて信玄だったりするが、具体性などから恐らく後世の仮託だと思われる。

また、甲斐国志によると、ドウキノカミというのは山本道鬼齋勘助のことだとあるが、
この説を取るなら、年代的にあり得ない。

ドウキノカミというのは伯耆守とか、主鷹司(ようしのかみ)など官職名の転訛、
シンジョウというのは苗字か法名、或いは諱の有職読みだと考えられる。

年代は戦国時代であるのに、不思議に神話的なお話。
0504人間七七四年2012/01/20(金) 13:48:09.35ID:w9Xt6lnx
 青森県弘前市にある弘前城は昨年が築城400年ということで多数の
記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。

 初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html

 討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。

 他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。

 滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。
0505人間七七四年2012/01/20(金) 15:06:44.85ID:KW58J62k
弘前は青森県だけど、心は岩手県民って人が多いって聞いたが(笑)
0506人間七七四年2012/01/20(金) 15:13:10.21ID:X2Bo3mIW
十三湖とか青森西部はやっぱお慕いするのは安東さんなのかな?
0507人間七七四年2012/01/20(金) 15:22:35.00ID:KW58J62k
県割りと県庁所在地は官軍の心積もりだったらしいからね〜

佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね〜
0508人間七七四年2012/01/20(金) 19:53:09.86ID:eOYzXCPF
>>501
ドラクエwww 
竜王って地名が今も本当にあるのかwwww

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2
ロンダルキアってどこだっけと調べてみたら、上九一色村とあるんだがwwww

あと、勇者は袖切の剣をどこで回収したんだろう?
0509人間七七四年2012/01/20(金) 23:29:26.40ID:iGiKBQjW
>>501
竜神が村人を苦しめる話は大体、
昔、河が氾濫して村人が苦しんでたって事を意味するらしいね。
で結果治水に成功したんだろう。
0510人間七七四年2012/01/20(金) 23:54:41.51ID:tqLj9n+t
ちなみに信玄堤は竜王にあるな
0511人間七七四年2012/01/20(金) 23:59:21.70ID:ysa3RWeN
(´・ω・`)「きたない、さすが津軽はきたない」
0512人間七七四年2012/01/21(土) 00:28:23.96ID:wO1rsch3
津軽平定中に恋慕した女性の旦那を殺したことがあったらしいな

当然、その女性がなびくわけもなく、為信はその女性も攻め殺した


たしかまとめにあったかな
0513人間七七四年2012/01/21(土) 00:52:46.22ID:/yrRuGqQ
>>501
中央から派遣されたテクノクラートが、直轄領でない地域の治水に苦労した話なんだと思う。

ところで、
>>「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである

というのは、
『汝は「しんじやう(しんじょう)」という名であるから、私は汝を「しんじやう(信じよう)」でいいんだろうか。
0514人間七七四年2012/01/21(土) 00:57:43.91ID:/yrRuGqQ
>>509
だね。しかしそういうのは大体は古代の話なのに、戦国に入ってからそれが信じられて、
地名にまで発展するってのも面白い。

このボウキノカミさんが、竜神を漠然と信じる農民をうまく騙って働かせたんだろうか。
ググってみたら、山梨での竜神信仰は明治のころまで盛んだったらしい。
0515人間七七四年2012/01/21(土) 10:20:08.08ID:jaiZyrYO
信濃にも竜神だか鬼だかの話があったような
こっちは領主の娘に恋慕してクレクレするやつ
0516人間七七四年2012/01/21(土) 14:23:41.23ID:WnCpGCAY
>>514
つ足立重信
0517人間七七四年2012/01/21(土) 19:19:18.63ID:eAk6pBiP
身代わりとなった猛将

このスレでは『主君家康の鯉を食った男』として名前が出てきた鈴木久三郎。
彼は三方ヶ原の戦いでも従軍していた。
しかし味方は大苦戦、家康もあわやと言うところまで追い詰められる。
見かねた久三郎はこう言い放った。

鈴木「それがしが殿の旗印をいただき、身代わりとなりましょう!」

しかし家康は首を縦に振らない。

家康「お前一人に討ち死にさせて私が落ち延びることなどできん!」

と聞き入れなかった。
すると久三郎、大いに怒って家康に怒鳴りつけた。

鈴木「なんと、馬鹿なことを仰る! いいから貸しなさい!」

久三郎は家康の旗印をひったくると、ただ一人敵のほうへ引き返し、そのまま突っ込んでいった。


その後、久三郎や夏目吉信らの身代わりもあり、家康はなんとか浜松へ帰城した。
しかし、家康の顔は晴れない。
身代わりとなった家臣のことを気にかけていたのである。

家康「久三郎は討ち死にしたか……」






鈴木「殿ー! ただいま帰り申したー!」
家康「なにー!?」

が、久三郎、帰ってきた。
家康は驚くやら喜ぶやらで、久三郎を褒めた。

家康「よく切り抜けて帰ってきた!」
鈴木「いやあ、思ったよりも手強くない敵でした」

久三郎、あの武田軍相手に涼しい顔であったそうな。


身代わりになったと思いきや、生きて帰ってきた猛将のお話。
0518人間七七四年2012/01/21(土) 19:38:40.08ID:Xzb3jSHh
>>517
これは格好良いw
0519人間七七四年2012/01/21(土) 22:17:46.44ID:KFOpj+4c
             ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;l
.            /;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
          /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
.        /;;;;;;;;;;;;;;;;;;l;;;;;;;;;;;;;;',
        /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l;;;;;;;;;;;;;;;;;;',
       /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;';;;;;;;;;;;;;;;;;、L
.      /;;``''''ー--------‐''";;;:::;',
.     ,r':、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、:-i''ヽ,
    /;;:::  ``'''''''''''''''''''''''''"´   :;;;;l
.    l;;;::                :;;l
.    |;;:    _,,,,,,,,_ヽ  / _,,,,,,,,,,__  ;l. _
   ,r'ヘ;;  ''''" __,,,_`,'. ', ..._,,,,,_  _ ,'´ l
   l ; l  ,:'=<_〇,>;  ':,く〇,,>,= ' l、.l l
   ヽ 、l/ ヽ_  ~  l   l ~  / ヽ/./
   ゙、〈    '、,r‐:l    l-、 /  /.,ィ,)t、 <ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり
.    ヽゝ、   .ゝ,r.、   ,riノ   ,r'',r' ! /l、 <手落ち傷を誇らしげに見せにきたり
      l.ト  //゙;彡三三ミ;ヽ  /" / |/ ス <そういう浅はかな覚悟とは違うぞ
   __,,,,,,l ヽ   リ!''‐´ ''' `ヤリ ./ ノ / ./┴''" ̄ ̄
,,,,,,r'ヽ. ヽ  ヽ.         /   / ノ
  |  ヽ. ヽ   `':、  r‐‐-.、 ,、:'    ,イ
.  |  ヽ. ヽ    `'l;;;;;;;;;r'"    .t'"', ',
  |   ヽ ヽ    l;;;;;/      人. ゙,.゙,
   |   ヽ ヽ.    リハ,_,,、-‐''"´/\',.',
   l    ヽ. ヽ  l'!  ゝ、-、 \  \゙、
0520人間七七四年2012/01/21(土) 23:14:24.18ID:1C5mp1ZK
しかみ像がまさかAAになっていたとはww
0521人間七七四年2012/01/22(日) 09:05:32.00ID:dhSBtgGl
>>517
あれ?資料、というか一般的には戦死扱いだったよな?
じゃあ、彼はいつフェードアウトしたんだ?
0522人間七七四年2012/01/22(日) 10:51:04.50ID:+oBSMM0h
>>521
徳川実紀だと生きてる。
0523人間七七四年2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBU
新参者なのだが、何でこのスレでは福島正則のことを市松って呼ぶん?
もしかして幼名?
0524人間七七四年2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnL
鯉喰いと三方ヶ原身代わりでインパクト抜群なのに、どの鈴木家の誰のことなのかは
はっきりしないんだよな久三郎殿

個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h
>>523
幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)

まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Q
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
ついでにその他の愛称
0527人間七七四年2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGI
>>512まとめブログにある藤代御前の話だね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html

藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU
>>526
>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx
福島正則の幕・後日談

名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。

この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。

さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。

(「金城温古禄」)

正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH
>>523
肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smas
エ プ ロ ン 通 信 6 + 9 + α です よ ー ー ー ー ーーーーーーーーーーーー
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W
関ヶ原から何年も正則と北政所があった記録がないから親しくないって言う主張があるんじゃなかったっけ?
司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2
そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9A
まだ有力な仮説、ってレベルの話じゃないのかその通説とやらは
つうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0535人間七七四年2012/01/23(月) 01:38:43.16ID:PcnIZS0x
>>534
秀吉が死去してから関与したのは木下家程度だからな。
0536人間七七四年2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMA
>>501
ボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。


清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。

その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。

武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。


ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
0537人間七七四年2012/01/23(月) 02:49:59.57ID:DxU+oHdd
>>534
付き人の孝蔵主の名前もちょくちょく出てくるし
やっぱり力あったんだなと思ったりしたけど
0538人間七七四年2012/01/23(月) 07:55:50.21ID:tMsrIsrg
これまでの通説を否定して新説を語りたがるのは歴ヲタがかかる熱病みたいなものだからそっとしておく
0539人間七七四年2012/01/23(月) 09:37:01.78ID:vAlCKIW/
> そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし
0540人間七七四年2012/01/23(月) 09:56:06.56ID:q7T7grj2
また「現代の通説」とやらが出ちまったかww
0541人間七七四年2012/01/23(月) 10:01:17.38ID:I6FWk76y
元々通説以前に政治力なんて無いだろ
0542人間七七四年2012/01/23(月) 11:05:36.11ID:EKpAdN1W
なんか…いい感じに荒れてきたな

信雄「燃〜えろよ燃えろ〜〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
0543人間七七四年2012/01/23(月) 11:09:31.89ID:JnG48o0C
おれの○○観が正しいって押し付け始めると荒れるよね
0544人間七七四年2012/01/23(月) 11:12:53.18ID:nML09O3f
荒れそうになったら作左に叱ってもらうべき
0545人間七七四年2012/01/23(月) 11:15:51.75ID:DtkaCxxJ
たまには道雪さんに叱ってもらいたい
0546人間七七四年2012/01/23(月) 11:17:44.67ID:YdtnbgAD
松永久秀「この茶を飲んで落ち着かれよ」
0547人間七七四年2012/01/23(月) 11:23:41.48ID:FwHfxJjc
秋田さんが凍蚓に向かって切々と荒れる話はよくない、皆穏やかに、と語りかけ続けるのを拝聴

>>546
悪いスレに帰れw
0548人間七七四年2012/01/23(月) 12:33:27.09ID:WJK2O1mF
>>545
いきなり鉄扇でバシっと叩かれるのか
0549人間七七四年2012/01/23(月) 14:28:07.46ID:yVd2LSYW
>>547
おいやめろ
0550人間七七四年2012/01/23(月) 16:36:19.18ID:88JHLf0b
>>533
派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね
0551人間七七四年2012/01/23(月) 16:39:43.06ID:Gwamdi+2
>>550
良かった
松の丸殿と淀殿の席次争いなんてなかったんですね
0552人間七七四年2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76
まあ北政所は良くも悪くも秀吉あっての存在感であり影響力だったようだ。
そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。

官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。

>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg
オメエはそれでいいよ
0554人間七七四年2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm
それでいいから皆お茶飲んで一服しようぜ!
西国から差し入れがあったんだ!
0555人間七七四年2012/01/23(月) 17:58:36.33ID:EKpAdN1W
>>554
お前まず飲んでみろ
0556人間七七四年2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA
粉雪舞う季節は いつもスレ違い
0557人間七七四年2012/01/23(月) 18:35:12.51ID:QYokWLzJ
>>533
京極龍子さんて、秀吉が死んだ後は高次のいた大津城に返されたんじゃなかったっけ?
0558人間七七四年2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV
てか奥さんが実力を持つなんてことあるのかね。
実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+1
つ尼将軍
0560人間七七四年2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo
孝蔵主には実力があったんだろ?
0561人間七七四年2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN
はるか遠い戦国時代の話である。

伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。

伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。

この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。

彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j
スレ違いだけど、カッコいい話過ぎてワロタ
0563人間七七四年2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n
残念だが伍員は春秋時代だからスレチだな
0564人間七七四年2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zw
>>しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた

ここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq
諫言じゃなくて讒言じゃないか?
0566人間七七四年2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n
スレ違いはまとめて彦左が罵る
0567人間七七四年2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW4
何度も何度も何故みなコイツに触れたがる
0568人間七七四年2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV
孫子の兵法で有名な孫武の時代かw
時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf
自分が幼稚園児だったころ、年長組の男子はお遊戯会で袴を履いて
通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ

「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」

ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…

山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf
ちなみになぜ戦国なのかというと
当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…

ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉田守隆
謎の人物?
0572人間七七四年2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w
250年ほど遅かったな
0573人間七七四年2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf
そうだったのか!スレチだったね
山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt
孫子といえば武田だけど、他の大名だってそれなりに孫子知ってたり、孫子使って作戦立てたりしてた?
0575人間七七四年2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f
孫子の兵法も孫武と孫ぴんでは大分違う
0576人間七七四年2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME
まあ六韜とか名門の大名家は読まされてそうだけどどんな兵法書であれ読み手で解釈は違うだろうし
信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCT
でも孫氏がその2人なのとどっちがどれ書いたかとか割とはっきりと分かったのって
ほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。

と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi
その吉川が写本した太平記が後に「私本太平記」と呼ばれたわけか
0579人間七七四年2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBa
某氏の聚楽第レポ


これはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!


だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!

こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!



安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6
戦国期の筆写が後世の歴史学に役立っている例というと、まず『吾妻鏡』がある。
陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。

他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。

こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp6
誠に申し訳ない。ミスって上げてしまった……。
0582人間七七四年2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjm
>>579
フロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS
吾妻鏡は家康も収集してた
0584人間七七四年2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s
頼朝マニアの家康が吾妻鏡読んだら、気を悪くしそうだ。
0585人間七七四年2012/01/25(水) 03:40:38.10ID:IYTivm79
>>584
むしろ出版して広めてますがな
0586人間七七四年2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD
家康「頼朝公も大変だな。御家人が言うこと聞かなくて・・・」
0587人間七七四年2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndC
写本させて教育した後は出版する
これが家康流出版ビジネスか
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています