戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0437人間七七四年
2012/01/14(土) 03:39:29.53ID:qnI6JcJv0438人間七七四年
2012/01/14(土) 04:12:40.26ID:3aoZ5wqkこれと思った男の側で死ぬのもまた、女の花道よ。
しかし、四郎さんも年の差夫妻だったとは知らんかった
0439人間七七四年
2012/01/14(土) 07:39:15.36ID:COCtoorz0440人間七七四年
2012/01/14(土) 09:15:24.64ID:oZElkRTa※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316767827/鬼の女房に何を期待しているのやら
0441人間七七四年
2012/01/14(土) 14:02:35.26ID:WP5ixwv9勝頼らは首を信長に送られてるんだが北条夫人の遺体がどうなったかについてどこでも読んだ記憶がないんだが・・・
氏康が生きてたら怒るだろうなと思ったけどそもそも結婚させないか
0442人間七七四年
2012/01/14(土) 14:58:04.11ID:rWOLSkhk妹かと思ったら松姫でがっかりしたという話があったような。
0443人間七七四年
2012/01/14(土) 15:15:36.59ID:I+iO/EFY凄く凛としたイメージがある
幻庵さんの教えにもある通り、一族の女性として徹底されてるんだろうな
0444人間七七四年
2012/01/14(土) 15:24:34.91ID:4LFd4BvB0445人間七七四年
2012/01/14(土) 17:21:28.65ID:AoiLY2l1武田勝頼と天目山で殉死したその家臣らの菩提を弔うために建立された景徳院には、
勝頼夫妻の御墓とは別に没頭地蔵尊という史跡があって、
そこに首を失った勝頼、信勝のご遺体と北条夫人のご遺体が葬られているといわれているから、
北条夫人のご遺体は現地で葬られたとみてよいのではなかろうか。
0446人間七七四年
2012/01/14(土) 18:09:29.39ID:Txb+Pfqc北条嫁道連れの勝頼
0447人間七七四年
2012/01/14(土) 21:55:12.25ID:jMjEl+zA嫁の実家があるから返そうとしてずるずるそっちにつられたのか
信濃育ちの勝頼なら信濃方面に逃げたそうだが武田の当主としては甲斐は捨てられなかったか
景勝とか真田を巻き添えにしたくなかったか 嫁はどうせ景勝とか嫌ってそうだしな
0448人間七七四年
2012/01/14(土) 22:57:04.17ID:F5NdAd6S0449人間七七四年
2012/01/14(土) 23:07:59.55ID:floe4nr2少なくとも勝頼の嫁は助かっただろうけど
0450人間七七四年
2012/01/14(土) 23:10:40.73ID:jMjEl+zA0451人間七七四年
2012/01/14(土) 23:37:42.19ID:2CNYQG+B0452人間七七四年
2012/01/14(土) 23:43:33.63ID:F1o5IB5w0453人間七七四年
2012/01/15(日) 00:17:04.49ID:owoKT2iQ0454人間七七四年
2012/01/15(日) 00:23:15.57ID:RLEc3Yw50455人間七七四年
2012/01/15(日) 00:31:07.08ID:sB7d7dwk0456人間七七四年
2012/01/15(日) 00:57:38.40ID:njmSC6Lb0457人間七七四年
2012/01/15(日) 01:25:22.78ID:mVctGRs10458人間七七四年
2012/01/15(日) 01:58:21.11ID:yBz6KDJD0459人間七七四年
2012/01/15(日) 11:00:18.06ID:M7BTWqv90460人間七七四年
2012/01/15(日) 11:03:37.21ID:KmVqosCO0462人間七七四年
2012/01/15(日) 11:29:28.71ID:LxS+m1+T0463人間七七四年
2012/01/15(日) 11:57:50.18ID:JpRkT9YY出身:阿波国、勝瑞館東方の守将として活躍、勝瑞城落城後、江戸へ
0464人間七七四年
2012/01/15(日) 12:48:14.66ID:kZ5edQlN0465人間七七四年
2012/01/15(日) 13:03:50.17ID:sB7d7dwk0466人間七七四年
2012/01/15(日) 13:21:10.25ID:ufJ/ZaY+0467人間七七四年
2012/01/15(日) 14:17:58.79ID:PnXnnzPl彼はその頃、備中にあった。
ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして
「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」
と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、類題の重宝として大切に扱った。
その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。
長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)
伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。
0469人間七七四年
2012/01/15(日) 14:42:38.92ID:vdvFJhDw0470人間七七四年
2012/01/15(日) 18:34:14.48ID:VuOO3RbO0471人間七七四年
2012/01/16(月) 01:46:03.24ID:YL6C6JHoって笑われたが未だに理由が分からないorz
それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい
まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw
0474人間七七四年
2012/01/16(月) 10:49:52.19ID:eymfK7ns0475人間七七四年
2012/01/16(月) 10:56:22.77ID:UMtwRRff政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな
0476人間七七四年
2012/01/16(月) 11:17:25.92ID:UMCm6O+O0477人間七七四年
2012/01/16(月) 11:57:46.24ID:Z7H2vYjl0478人間七七四年
2012/01/16(月) 13:09:33.96ID:p91pD8I1義光「ムシャムシャしてやった」
04791/2
2012/01/16(月) 17:59:25.82ID:nEbxNjIs天文19年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。
「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
「やはり、いけませぬか。」
「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
「承りましょう。」
住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。
「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を
武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。
そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」
住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を焼き払い、山中を隠れ行き、上方目指して去った。
長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が
『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。
04802/2
2012/01/16(月) 18:00:10.48ID:nEbxNjIs昭和32年(1957)、小笠原氏本貫の地・松本市の市立図書館長に就任した忠統を、一人の青年が訪ねて来た。
「“殿様”、よくぞお戻りになられました。今こそ、これをお返しいたします。」
「これは・・・?」
青年の名は、久根下栄一。『殿様の白牡丹』を守り続けた、久根下氏の末裔であった。
栄一は、小笠原氏も一時居城とした松本城に、この牡丹を株分けする事を提案し、忠統もこれを快諾、
牡丹は松本城本丸庭園に移植され、『小笠原牡丹』と呼ばれるようになった。
戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。
ttp://www.shinmai.co.jp/flower/200005/00052302.htm
ttp://www.oshiro-m.org/quiz/g1_4.pdf (PDF注意)
0481人間七七四年
2012/01/16(月) 18:24:20.42ID:kVgPYhsu0482人間七七四年
2012/01/16(月) 18:40:24.10ID:LqaT6squ0484人間七七四年
2012/01/17(火) 00:57:33.45ID:WAh17nbXこんな見事なの、よくぞ守ってくれたねえ。
小笠原長時も久根下さんもいい仕事をなさったわ
0485人間七七四年
2012/01/17(火) 10:07:32.88ID:zEzPJ5T9旧主の小笠原家に託されてずっと貴方達の目に触れないように
守ってきた牡丹を株分けに行きますとは時代的に言えなそうですよね。
後で知られても面倒になりそうだし。
0486人間七七四年
2012/01/17(火) 12:16:20.88ID:y5jQAZXY0487人間七七四年
2012/01/17(火) 19:53:27.42ID:frhW3ahoでも、逸話の中にもあるように、小笠原長時の息子、小笠原貞慶は
1583年からの2年間、松本の領主だったこともあるわけで。
さらにその息子、小笠原秀政も1613年から松本の領主だし。
なぜその時ではなく明治維新まで待ったのか、激しく疑問。
0489人間七七四年
2012/01/18(水) 00:29:03.58ID:XB8+aVzd0490人間七七四年
2012/01/18(水) 01:34:01.55ID:xwullzVz先祖の名を借りての売名行為だろうなと思う
そうだとしても
いい牡丹が広まるならそれでいいことかもしれないしな
0492人間七七四年
2012/01/18(水) 13:47:05.32ID:2y+dcaG40493人間七七四年
2012/01/18(水) 19:52:35.75ID:fI82nRiW0494人間七七四年
2012/01/18(水) 23:11:45.33ID:gLtHvzOZつくり話も必要だよな
0495人間七七四年
2012/01/18(水) 23:56:35.09ID:dAE1MDAq0496人間七七四年
2012/01/19(木) 00:07:20.58ID:rz6fE7kD墨俣城は平成19年に26,379人
これはどんなもんなんだろう
0497人間七七四年
2012/01/19(木) 20:27:17.62ID:o3UKwLsP0498人間七七四年
2012/01/20(金) 00:26:07.31ID:3I1sSiA1あそこは桜並木があって花見シーズンにはそれなりに賑わうから、その人数をカウントに入れてそう。
0499人間七七四年
2012/01/20(金) 01:01:54.39ID:D+3sOqhPそも、博物館の平均入館者数は平成19年度で4.93万人だから(一部がものすごく底上げした結果だけど)
こんなもんなんじゃないの
うん、スレチだな
0500人間七七四年
2012/01/20(金) 01:32:53.07ID:K+caqm2pあるんじゃないの
0501人間七七四年
2012/01/20(金) 01:39:07.28ID:XspuTWx2人から犬に至るまで戦闘力が高く、ロンダルキアに例えられる甲斐であるが、
なんと戦国時代初期にはドラゴンまでが多数生息し、人はその頭を竜王と呼んだ。
ショウキョウのころのことである。甲州巨摩郡に貧しい村があった。
ある時戦があり、道に迷ってボウキノカミという武士がやってきた。
村人達は宿をしつらえ、村を挙げて彼を歓迎した。
夜半、ボウキノカミは大きな物音に驚いて飛び起き、何事かと尋ねた。
村人はこれは大竜が叫び暴れている音なので、心配いりませんと答えた。
「なんと珍しい話だろう。それならば私が成敗して参らせよう」
といって、ボウキノカミは広い河原を歩いて行き、黒い淵をのぞき込んだ。
すると水面に泡が立ち、巨大な竜が躍り出て襲いかかった。
ボウキノカミは少しも慌てず、弓を引き絞り矢を放つと、矢は竜の片目を射貫いた。
竜は一度淵に沈み、これで落着かと思われたが、再び躍りかかってボウキノカミの
袖に食らいつき、彼を水の中に引きずり込もうとした。
ボウキノカミは刀を抜き、竜の鼻先を袖ごと両断した。
竜は刀を鼻先に食い込ませたまま再び淵に沈んで、ついに浮かんでこなかった。
ボウキノカミが「確かに大竜であった」と言うと、
村人は「あのような竜が数知れずおり、さらに巨大な竜王がいるのです」と答えた。
ボウキノカミは驚いて、「それでは私の手に負えない」と言った。
村人は「ありがとうごした」と言って彼をねぎらい、別れを告げようとした。
するとボウキノカミは、
「この貧しい村が私を歓待してくれた礼に、国主信昌公に申し参らそう」と言った。
村人達は相談して、嘆願状を作った。
0502人間七七四年
2012/01/20(金) 01:43:27.62ID:XspuTWx2その時国主であった武田信昌はこれを重く見て、悪竜の討伐に数多の武者を派遣した。
武者達は三日三晩、竜王の軍勢と戦ったが、ついに勝利を得ることができなかった。
ボウキノカミが戻ってきて国主に言うには、
「これを武力で征伐することはできません。法力を持って調伏致したく存じます」。
そこで信昌は国中の僧侶・修験者を集めて派遣し、土を盛って祭壇を作り祈祷を行った。
ある晩ボウキノカミが寝ていると、どこからともなく大きな声が聞こえてきた。
「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである。ソウダ淵の河原に、
赤と青の大岩が山から落ちて、互いに圧し合っているので、これをどけて欲しい」。
ボウキノカミと村人たちは人をかき集め、この大岩をどけようとした。
ところが余りに巨岩であり、とても地上を転がすことは出来ない。
そこで岩の根本にくさびを打ち、巨木を巻き付け、河原に土手を築いて増水を待った。
やがて大水が出て河原まで水に沈んだ。巨木の浮力と抵抗で巨岩は転がりだし、
なんとかその場所から河下へとゆっくり離れていった。
見守っていた人々が小躍りして喜ぶと、黒い水面から光り輝く巨大な竜女が現れた。
「以前の大地震のとき、私は妊娠の身体で岩に挟まれ、みな非常に苦悶していた。
いま仏の功徳と汝らの労苦によって、ようやく済度を得た。これからは山にこもり、
人の恩に報いるため、子を授け産を安んじて進ぜよう」。
0503人間七七四年
2012/01/20(金) 01:53:38.89ID:XspuTWx2ドラゴンクエスト3 〜そして伝説へ〜
ボウキノカミは、竜神を鎮めたことを国主信昌に報告した。
信昌は大いに喜び、大竜のこもった山に寺を建てた。これが大竜山満福寺である。
いまボウキノカミが袖ごと竜を斬った淵は、袖淵といい、その刀を袖切という。
また、人々はこのあたりを竜王という地名で呼ぶようになった。
その後、国主の妻であった人が、子を授からないのを憂いて入水しようとした。
人がそれを止めて「満福寺の竜神様にお願いしましょう」と言った。
彼女がその通りにすると、やがて子を授かったので岩下殿と呼ばれるようになった。
信縄は大いに喜んで、三度舞った。これが後に武田氏中興の祖となる信虎である。
(「古老は語る-山梨の民話伝説-」から引用した小冊子より、現代標準語に意訳)
なお竜王討伐に乗り出すのが信昌でなくて信玄だったり、満福寺に祈願して生まれた
のが信虎でなくて信玄だったりするが、具体性などから恐らく後世の仮託だと思われる。
また、甲斐国志によると、ドウキノカミというのは山本道鬼齋勘助のことだとあるが、
この説を取るなら、年代的にあり得ない。
ドウキノカミというのは伯耆守とか、主鷹司(ようしのかみ)など官職名の転訛、
シンジョウというのは苗字か法名、或いは諱の有職読みだと考えられる。
年代は戦国時代であるのに、不思議に神話的なお話。
0504人間七七四年
2012/01/20(金) 13:48:09.35ID:w9Xt6lnx記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。
初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html
討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。
他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。
滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。
0505人間七七四年
2012/01/20(金) 15:06:44.85ID:KW58J62k0506人間七七四年
2012/01/20(金) 15:13:10.21ID:X2Bo3mIW0507人間七七四年
2012/01/20(金) 15:22:35.00ID:KW58J62k佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね〜
0508人間七七四年
2012/01/20(金) 19:53:09.86ID:eOYzXCPFドラクエwww
竜王って地名が今も本当にあるのかwwww
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2
ロンダルキアってどこだっけと調べてみたら、上九一色村とあるんだがwwww
あと、勇者は袖切の剣をどこで回収したんだろう?
0509人間七七四年
2012/01/20(金) 23:29:26.40ID:iGiKBQjW竜神が村人を苦しめる話は大体、
昔、河が氾濫して村人が苦しんでたって事を意味するらしいね。
で結果治水に成功したんだろう。
0510人間七七四年
2012/01/20(金) 23:54:41.51ID:tqLj9n+t0511人間七七四年
2012/01/20(金) 23:59:21.70ID:ysa3RWeN0512人間七七四年
2012/01/21(土) 00:28:23.96ID:wO1rsch3当然、その女性がなびくわけもなく、為信はその女性も攻め殺した
たしかまとめにあったかな
0513人間七七四年
2012/01/21(土) 00:52:46.22ID:/yrRuGqQ中央から派遣されたテクノクラートが、直轄領でない地域の治水に苦労した話なんだと思う。
ところで、
>>「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである
というのは、
『汝は「しんじやう(しんじょう)」という名であるから、私は汝を「しんじやう(信じよう)」でいいんだろうか。
0514人間七七四年
2012/01/21(土) 00:57:43.91ID:/yrRuGqQだね。しかしそういうのは大体は古代の話なのに、戦国に入ってからそれが信じられて、
地名にまで発展するってのも面白い。
このボウキノカミさんが、竜神を漠然と信じる農民をうまく騙って働かせたんだろうか。
ググってみたら、山梨での竜神信仰は明治のころまで盛んだったらしい。
0515人間七七四年
2012/01/21(土) 10:20:08.08ID:jaiZyrYOこっちは領主の娘に恋慕してクレクレするやつ
0517人間七七四年
2012/01/21(土) 19:19:18.63ID:eAk6pBiPこのスレでは『主君家康の鯉を食った男』として名前が出てきた鈴木久三郎。
彼は三方ヶ原の戦いでも従軍していた。
しかし味方は大苦戦、家康もあわやと言うところまで追い詰められる。
見かねた久三郎はこう言い放った。
鈴木「それがしが殿の旗印をいただき、身代わりとなりましょう!」
しかし家康は首を縦に振らない。
家康「お前一人に討ち死にさせて私が落ち延びることなどできん!」
と聞き入れなかった。
すると久三郎、大いに怒って家康に怒鳴りつけた。
鈴木「なんと、馬鹿なことを仰る! いいから貸しなさい!」
久三郎は家康の旗印をひったくると、ただ一人敵のほうへ引き返し、そのまま突っ込んでいった。
その後、久三郎や夏目吉信らの身代わりもあり、家康はなんとか浜松へ帰城した。
しかし、家康の顔は晴れない。
身代わりとなった家臣のことを気にかけていたのである。
家康「久三郎は討ち死にしたか……」
鈴木「殿ー! ただいま帰り申したー!」
家康「なにー!?」
が、久三郎、帰ってきた。
家康は驚くやら喜ぶやらで、久三郎を褒めた。
家康「よく切り抜けて帰ってきた!」
鈴木「いやあ、思ったよりも手強くない敵でした」
久三郎、あの武田軍相手に涼しい顔であったそうな。
身代わりになったと思いきや、生きて帰ってきた猛将のお話。
0519人間七七四年
2012/01/21(土) 22:17:46.44ID:KFOpj+4c. /;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
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l ; l ,:'=<_〇,>; ':,く〇,,>,= ' l、.l l
ヽ 、l/ ヽ_ ~ l l ~ / ヽ/./
゙、〈 '、,r‐:l l-、 / /.,ィ,)t、 <ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり
. ヽゝ、 .ゝ,r.、 ,riノ ,r'',r' ! /l、 <手落ち傷を誇らしげに見せにきたり
l.ト //゙;彡三三ミ;ヽ /" / |/ ス <そういう浅はかな覚悟とは違うぞ
__,,,,,,l ヽ リ!''‐´ ''' `ヤリ ./ ノ / ./┴''" ̄ ̄
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0520人間七七四年
2012/01/21(土) 23:14:24.18ID:1C5mp1ZK0523人間七七四年
2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBUもしかして幼名?
0524人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnLはっきりしないんだよな久三郎殿
個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)
まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年
2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Qついでにその他の愛称
0527人間七七四年
2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGIhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html
藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年
2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年
2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。
この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。
さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。
(「金城温古禄」)
正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年
2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink
2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smashttp://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年
2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年
2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年
2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9Aつうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0536人間七七四年
2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMAボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。
清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。
その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。
武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。
ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
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