戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0278人間七七四年
2012/01/05(木) 13:09:24.89ID:lVAXxZttそうなのか。浅学失礼した、ご教授ありがとう。
そうするとこの逸話も、本当に初陣以降のスランプを慰めた話なのかもしれないね。
臆病と思っていても、見事に体は動いたんだな・・・・。
0280人間七七四年
2012/01/05(木) 15:41:32.78ID:ymtgiK8i土屋昌恒って人は、色んな逸話から知る限り
幼い時から英明で知られ
武勇については上で述べたとおり、修羅の国甲斐でも名が高く、
忠義についても、天目山だけでなく、長篠の戦から敗走するときも
初鹿野伝右衛門とともにただ二人勝頼の傍から離れず警護していて、
加えて、内政官としても、跡部勝資には及ばないものの、
10代のころから奏者として働き、結構な数の朱印状の発給している有能っぷり、
更に分をわきまえた性格良しっていう、
リアル完璧超人で、
武田家があと10年生き延びていたら、
東のミスターパーフェクトと呼ばれていてもおかしくない逸材なんだけど、
今一知名度が低いのが泣ける。
>>271の逸話も、昌恒の経歴を知ってから読むと、
実際にスランプだったってよりは、兄の土屋昌続と義父の土屋貞綱が共に長篠の戦で討死したせいで、
わずか16歳で、兄の土屋家と義父の土屋家を両方継ぐことになり、
かつ重臣総討死状態の武田家を若年の身で支えなくてはいけない立場になって、
武田家を守るべく、早く実力をつけるために
どんなことでもいいから先輩から学びたいっていう向上心の表れにしか見えなかったり。
よし、知名度の低さ払拭のために、ちょっと、手元史料から逸話をまとめてくるノシ
0281人間七七四年
2012/01/05(木) 17:25:04.42ID:ymtgiK8i武田家が長篠で手痛い敗戦を喫した際、敗走する武田勝頼の傍から離れることなく警護した土屋昌恒は
その忠義を賞されて、戦死した兄土屋昌続と義父土屋貞綱の遺領と同心衆を共に引き継ぐことを認められ、
更に勝頼の側近として取り立てられて重く用いられることになった。
このとき、昌恒はまだ16歳。
幼い時から英明で知られた昌恒は、バリバリ仕事をこなし、
内政官としてもその手腕を発揮していった。
しかし、いかに昌恒が優秀であったとしても、まだまだ若年・若造に過ぎず、
信玄代からの重臣で、出頭人と呼ばれた跡部勝資の権勢には遠く及ばなかった。
それから、約10年が経ち、いよいよ昌恒がその本領を発揮できる歳になった頃には、
武田家は幾多の外交的失策を重ね、昌恒がいかに一人頑張ろうとも
すでに挽回不可能な状況に陥っていた。
そして、天正10年、木曽義昌の寝返りから始まった織田信長の武田征伐により、
武田家家臣団はあっという間に瓦解。
武田勝頼主従は、一門衆小山田信茂を頼って本拠地新府城から甲斐郡内の岩殿城へ向かうが、
先行して態勢を整え、迎えを寄越すはずの小山田から一向に連絡が来ない。
やむを得ず武田家宿縁の地天目山に逃れようとした勝頼主従は、天目山の麓、田野あたりで、
一帯が戦場になることを嫌った地下人を引き連れた武田家臣大熊備前守、甘利左衛門尉、
秋山摂津守らに鉄砲を撃ちかけられる。
時を同じくして、小山田信茂は既に勝頼を裏切り、関を閉ざして郡内への入領を阻んでいるとの報が入る。
ここで武田勝頼に対していつものように忠言する跡部勝資を見ていた土屋昌恒が口を開く。
続きます
0282人間七七四年
2012/01/05(木) 17:27:13.85ID:ymtgiK8i跡部勝資「お館様。小山田が裏切ったからには、郡内への逃亡は不可能になりました。
ここは、地下人たちの目をなんとかくらまして、天目山に逃れ一旦情勢を窺うべきです。」
これを聞いた昌恒は、他の者が発言する前に、勝頼に向かってこう述べた。
「私のような若輩者が発言するのは角が立つかもしれませんが、このような最悪の状況下においては、
その者の年齢ではなく、その者の心が剛であるか否かでご判断ください。
尾張守(跡部勝資のこと)様のおっしゃることはちょっと未練がましいとしか言いようがありません。
こういう無分別な考え方こそが、今の最悪の状況を招き、
武田家が滅亡の憂き目に遭っている原因に他なりません。
よくよく分別をわきまえてください。
数代に亘る家臣の小山田出羽守(信茂のこと)が敵となり、天目山の地下人にさえ背かれては、
どんな鉄城鉄山に籠城したとしても、生き永らえられるとは到底思えません。
侍は、死すべき時に死ななくては恥というもの。
当家の祖、八幡太郎義家も侍は死すべきところを知るが肝要と言葉を残されております。
たとえ兵が少なくなったといえども、新府城に留まって敵を迎え撃ち、
命の限りに矢が尽き刀折れるまで戦った後
一門ひとつの場所で腹を召されてこそ、武田の武名を顕し、
信玄公以来の武勇の程を示せたというものです。
それを人の道に反する小山田なんぞを頼ってここまで逃げ、身分卑しき者の手にかかって、
御一門の屍を山野に晒すのは、後代までの恥辱だとは思いませんか?
戦の勝敗は時の運ですので、戦って負けることは恥のようであっても実は恥ではありません。
ただ戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死なないのは武門に傷をつけるものです。
とある書に曰く、進むべき時に進まないのを臆病な将(臆将)といい、
引くべき時に引かないのを暗愚な将(闇将)といいます。
とすれば合戦おける進退とは、結局のところ分別工夫によるものと言えます。
ところが、尾張守(勝資)のおっしゃることは軽率で分別がないとしか言いようがありません。」
0283人間七七四年
2012/01/05(木) 17:34:58.02ID:ymtgiK8iこれまで昌恒には色々と溜まっていたものがあったのだろう。
ここでついに思いの丈を、怒りをにじませながら、終いには悲涙を流しながら言上する。
「…この期に及んでこんなことを申し上げてもしょうがないが、
このまま胸の奥に仕舞っておくのも無念なのであえて言わせていただく。
先年、越後にて景虎と喜平次(上杉景勝の事)が争ったとき、
そこにいらっしゃる方々は欲をかいて黄金を欲しがり、
景虎に対して不義となる判断をしたために、天下に悪名を広め、諸人から嘲りをうける結果となりました。
そのため、武田家と北条家は同盟が崩れ、相互に怨敵とみなすことになり、
ついには、このような状況にまで至ってしまいました。
かつては、そこにいる方の邪欲によって当家は窮地に陥りました。
そして今回、小山田を始として恩顧の侍達が、我らを見放しましたが、
全ては、そこにいらっしゃる方の無分別な助言に起因します。
敵は余所にいるのではございません。」
この言葉を聞いた跡部尾張守(勝資)は、一言も返答できず、赤面して平伏したという。
その後、覚悟を決めた勝頼主従は、織田方に対して最後の攻撃を仕掛けることとし、
昌恒は40騎ばかりを率いて死にもの狂いで突撃し「数千騎の敵を東西南北へ切散す」戦いぶりを見せた。
そして勝頼夫妻が無事自害したことを聞き届けると、
「人切りたるが面白サに、大将の御伴を外れるのは残念だ。
さて皆の衆、最後の一戦をして、腹でも切るか」と言って、敵の大軍に向かって切っ先を並べて切り込み
一歩も引かず、戦場に屍が横たわり血が川のように流れるまで戦い、一人残らず討たれたという。
以上、軍記物のなかでは比較的信憑性が高いといわれる甲乱記より適当訳で。
ちょっと血生臭いけれど、バラバラになっていた主従が、最後の最期で一丸となった良い話?ということで。
長文失礼しました。
0284人間七七四年
2012/01/05(木) 23:43:50.09ID:AkHtTZ82長慶の甥で阿波国主の三好長治は急の用事があり、京の長慶に書簡を出すことにした。
その使者として長治に選ばれたのが、福成寺の住職である。
住職は長治から書簡を預かるとこれを寺に持ち帰り、書簡を文箱に収めてお堂の地蔵菩薩の前に保管した。
住職自身はその傍らで一睡もせずに夜を明かす。日の出と共に出立するつもりなのだ。
さて特段のこともなくその夜は明け、住職はいよいよ京へ向けて発つべく文箱から書簡を取り出そうとする。
そして一驚したことには、なんと長治から預かった書簡が箱の中にない!
ばかりか、代わって長慶からの返書がすでにそこに認められているではないか!
なんと弘法大師が彫ったという地蔵菩薩は、住職の長旅を哀れに思い、彼に代わって夜間に京の長慶の元を訪れ、
一晩で返書を持ち帰って来ていたのだ。
この事はたちまち阿波の人々の噂に上り、以来福成寺のこの地蔵は飛脚地蔵として親しまれたそうな。
民話の世界でまで長治さんの真言宗苛めっスかw
って思ったら、福成寺は住吉神社(三好義賢が幼少時神主を務めた)の別当寺でもあるそうで、
悪い話でもなさそうなのでこっちのほうに。
0285人間七七四年
2012/01/05(木) 23:49:44.00ID:7uO7wyLB阿波の地蔵菩薩は京まで行ってくれる
四国の十三仏のご利益はすごい
0287人間七七四年
2012/01/06(金) 00:42:02.93ID:qrdv8HGDでもどさくさにdisられる勝資さんカワイソス
最後までなんとか可能性を探るのもそれはそれで一つの見解だと思うし
0288281
2012/01/06(金) 01:30:55.58ID:8suojzJK当時16歳じゃなく19歳(数えで20歳)でした。すみません、訂正します。
>>287
結果論になっちゃうけど、あと3か月耐えれば、本能寺の変で信長が死ぬから、
勝頼はともかく信勝は、跡部勝資の助言に従って逃がしておいた方が良かったかもしれない。
でも、同じ甲乱記によれば、信勝は死の直前に
「ただ妄念なるは、新府城で信長を待ち受けて討死すべきところを、
臆病者どもの異見によってここまで逃げてきたのは残念だ」
とか言っちゃってるから、信勝も武士としては立派だけど、脱出ルートは無理筋みたい。
0289人間七七四年
2012/01/06(金) 01:36:34.63ID:Cv9UI7oY三ヶ月たっても本能寺が起こるとは限らない
0290人間七七四年
2012/01/06(金) 01:45:52.66ID:fIYQS0ECそうしてから>>271を見ると、「周りとうまくいかず」ってのも分かるね。
二十歳そこそこで一国に関わる大仕事していたら、それは気負いすぎてもしきれないくらいの辛さだろう。
責任感もものすごい重圧だろうし、他人に対して尊大な態度を取ってしまうのも分かる。
それで、どんな大事な仕事をしていても楽な仕事だと思えと言ったのかな。
臆病でもいいってのは、臆病と呼ばれても命を大事にって意味かも。
つらいなあ。
0291人間七七四年
2012/01/06(金) 01:51:13.97ID:d7QqeiGuもうちょっとニートで頑張るか
0292人間七七四年
2012/01/06(金) 01:59:41.35ID:9TxS8Mu8ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける >>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける (´;ω;`)
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
0293人間七七四年
2012/01/06(金) 02:01:49.21ID:9TxS8Mu80295人間七七四年
2012/01/06(金) 02:03:58.16ID:fIYQS0EC0296281
2012/01/06(金) 02:06:20.07ID:8suojzJK0297人間七七四年
2012/01/06(金) 02:07:28.44ID:16H/n99Mその昌恒から敬愛されるかがみんも凄いが、
この人は武田滅亡の折どうしていたんだ??
0298人間七七四年
2012/01/06(金) 02:14:59.12ID:fIYQS0ECと言いたいところだが
正行が「加々見長門」と同一人物なら、法善寺城で徳川方と戦い生害、と記述にぐふっ!!
0299人間七七四年
2012/01/06(金) 20:08:04.78ID:j6Hx395zどうせ北条は滅びるんだし景勝を支援したことに間違いはなかった
0300人間七七四年
2012/01/06(金) 20:22:29.99ID:BqXQrSPw0301人間七七四年
2012/01/06(金) 21:16:54.79ID:5BPs0VS5明智光秀と濃姫はいとこにあたる
しかしこの二人は恋をしていた
しかし信長のような一国をまとめる程の器が光秀にはなくてその想いを濃に打ち明ける事ができませんでした
光秀はまだ濃が信長に嫁ぐ前、濃に一通の手紙を渡します
それは別れの恋文でした
光秀はこの日から斉藤家を離れ将軍配下の細川家へ出仕する事になったのである
0304人間七七四年
2012/01/06(金) 21:30:00.69ID:u2paUtjr0305人間七七四年
2012/01/06(金) 21:37:50.89ID:OQDI4GyY0307人間七七四年
2012/01/06(金) 22:36:25.89ID:C7pI/7sg0308人間七七四年
2012/01/06(金) 22:39:32.39ID:yist9wDS信忠を大将にして対武田のメンツ+徳川連合軍で攻めるのかな?
滝川を与力にして、一門衆や池田、森で固めて、蒲生や堀みたいな次世代武将も
経験積ませるために参加させるのだろうか。
鬼武蔵がヒャッハーして坂東武者を刺激する姿が目に浮かぶぜ。
0310人間七七四年
2012/01/06(金) 23:19:42.78ID:5YBDsyKp0312人間七七四年
2012/01/06(金) 23:42:47.43ID:yist9wDS後世の評価は、無口で、内ゲバ起こして弱体化し、なすすべなく織田家に滅ぼされた大名
0313人間七七四年
2012/01/06(金) 23:46:17.82ID:kt2VdFrT北条は九州の後だろw
0314人間七七四年
2012/01/06(金) 23:48:18.92ID:z2nYJbSV天庵様くらいしか思いつかない
0315人間七七四年
2012/01/06(金) 23:55:00.86ID:C7pI/7sg0316人間七七四年
2012/01/07(土) 00:14:52.81ID:2dWjTK5b九州は織田とどういう関係だったのかな?
毛利との関係で大友はかなり交渉してたとは思うけど
島津だって猿関白みたいにうつけ右大臣とは言ってなかったんでしょ?
0317人間七七四年
2012/01/07(土) 00:26:05.62ID:mrYXyBDM信濃方面からは鬼武蔵軍団が
北越後では新発田さんが謀反&
本能寺が起きなかったら上杉滅んでるなw
0318人間七七四年
2012/01/07(土) 00:29:48.55ID:mtlsr2RHまあこれが成立しても北畠のような末路になりそうだが
0319人間七七四年
2012/01/07(土) 00:30:10.98ID:WGM1VMA90320人間七七四年
2012/01/07(土) 00:33:42.45ID:QngnlNrTまだ毛利と戦闘中・長曾我部と開戦目前の状態で九州まで手を伸ばすとかありえん
どう考えても北条が先
ちなみに伊達は鷹を送るくらいの親善はしていた…けど潰されるよなぁどのみち
南部くらいの僻地だと服従で済むかもしれんが
0322人間七七四年
2012/01/07(土) 00:43:19.63ID:QngnlNrTそうだよ。織田に対して北条はかなりへりくだってた
織田包囲網への参加要請ものらりくらりかわして、織田と関係悪化させなかったし、
武田を瞬殺した信忠を後継者として評価していたから、土下座して服従宣言した
対して上杉は>317に加えて南に滝川、東北で蘆名(織田とは別件)がにらみを利かせてた
0323人間七七四年
2012/01/07(土) 01:26:06.56ID:mrYXyBDM※※※※※※※※※※※※※※※※※※│ ┌─┘※※└佐渡※│発├──┘ │※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※│ │┌─┬─────┤田│ │※
───────┬──┐※※┌────┘ └┘ → 上杉家 └↓┤ 陸奥 │※
織田家 │ ┌┘※※│織田家北陸方面軍 ├─↑─┐ │ │※
中国 ┌──┘ └──┬┘ ┌────┬─┘ ┌┴─↑─┼───┬─┤※
方面軍 │ └───┘ │織田家 └┐ │ │ │※
(羽柴) │ ┌┐ │鬼武蔵軍団│ │宇都宮│ │※
← │ ││ ┌┴─────┘ └┐ │ │※
───┐│ └┘ ┌┘ 織田家 ┌───┴┬─┘ │※
※┌┐└┴┐ │ 関東方面軍 │ │佐竹家│※
※│淡 ※│ ┌──┴┐ ┌┐(滝川)│ 北条家└┐ │※
┐│路┌─┘ ┌─┐│ └──┘│ └┐ ┌─┐│ │※
│└┘│ │※└┤ 徳川 └─┬──┘┌┘※││ │※
│※※└┬──┐ └┐┐└────┐ │ └┐┌┴┴─┬┘※
┘※※※│雑賀│ ┌┘※※※※※└────┤ ┌──┘│里見 │※※
※※※※└┐ │ ┌┘※※※※※※※※※※※│ │※※※└───┘※※
※※※※※└┬┘ ┌─┘※※※※※※※※※※※※└─┘※※※※※※※※※※
※※※※※※└────┘※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
図にするとこんな感じか?
イジメってレベルじゃねーぞwwww
0324人間七七四年
2012/01/07(土) 01:35:23.46ID:jmrtBHjbもしこれで生き残れたら俺まじ英雄じゃね?」←決戦が起きない
0326人間七七四年
2012/01/07(土) 06:35:53.55ID:KkT78Psi大掛かりな軍隊出せるのも関東がせいぜいじゃないかね。
0327人間七七四年
2012/01/07(土) 08:47:25.38ID:gW1+rINP広げまくった戦線の空白を光秀がついた どのみち織田は滅びてた
0329人間七七四年
2012/01/07(土) 15:41:37.14ID:zS9x57hy南部と信長でふと思い出したんで投稿してみる。
南部但馬守信長 都会生活を満喫する
南部家から上洛した南部但馬守信長は、国元の七戸氏に書状を出した。
『今春の慶び、言い古されてはいますが、慶び終わることがありません。
去年は遠路にもかかわらず、鷲の尾を十尾も送っていただいて、ご懇切の段、お礼申し上げます。
当年は国元に下向するつもりでしたが、信虎(武田信虎か)に色々ととどまるよう言われちゃって
やむを得ないこともあり、(逗留を)引き延ばすこととなりました。来年は早々に下国するつもりです。
昨年は禁裏様(天皇・正親町天皇か)の前に置いて能が催された際に召し出されちゃいました!
また今月の五日には上意様(将軍・足利義輝か)のところで能の笛を吹かせていただきました。
上意様には特に懇ろにお言葉を掛けていただき、生前の思い出になりました、もうなにも言うことありません!
くわしくはかならず、助五郎から話があると思います。
追って申し上げますが、お届けした一枚起請文は梶井殿様の直筆のものなので、秘蔵されるなら本望です。
また、そちらに留め置いている足弱達を扶助していただいていること、祝着至極です。
来年は下国し、お目にかかりましょう。
南部但馬守
信長(花押)
四月十日
南部七戸殿』
ちょっと微笑ましい、笛の名手の南部但馬守信長さんのお手紙。
この書状、いまだに年代比定が定まってない(文明19年説・永正15年説・永禄6〜7年説等)のですが
個人的には、言継卿記の永禄12年の条に、『南部但馬守が知行のことについて話しに来たので、織田信長の奏者に引き合わせる』
という記事があるので、もしかしたら二人の信長が対面したこともあったかも、ということで永禄説を(勝手に)推してますw
0331人間七七四年
2012/01/07(土) 17:00:28.40ID:Kq6tDZwq0332人間七七四年
2012/01/07(土) 17:07:13.27ID:rmHIWuBj0333人間七七四年
2012/01/07(土) 17:31:33.36ID:MEn64Y+/これが陸戦型脳筋モンスター軍団だったら反攻したのかも知らんが…
0334人間七七四年
2012/01/07(土) 17:34:32.66ID:exucoFwt近江の信長直轄軍は健在だし伊勢には信雄、さらに当時大坂には信孝のもとに
丹羽らが軍勢を終結させる程度には残っていた
よく本能寺は畿内に軍事的空白を作ってしまったからだという説が唱えられるが
実際には本能寺の時点で、京の信長のすぐ傍に、いなかったというだけの話
それも二・三日後には京都に軍勢が集結する予定だった
光秀はそのほんのわずかな一瞬を突いた奇襲だったんだ
仮に光秀が二日迷ったら、京にはもう信長と信忠の数万の軍勢が終結していただろう
0335人間七七四年
2012/01/07(土) 21:34:53.42ID:dULsTHOk信孝・丹羽の軍団は本能寺の後、逃亡するものが続出し大混乱。
更に筒井順慶が河内の三好領に攻めて来るとの風聞が流れて動くに動けず。
とても京に進軍する力は無いよ。
0338人間七七四年
2012/01/07(土) 22:29:01.15ID:dULsTHOk0340人間七七四年
2012/01/08(日) 01:28:29.78ID:heKET7U90342人間七七四年
2012/01/08(日) 21:36:43.49ID:ckXvohHy>>335
織田家って情報操作と調略を有効活用していたけど、本能寺以降はより活発化するね
家中で最も優秀な諜報能力があった羽柴と明智の戦いだから当然なんだけど
調べてて面白い
0343人間七七四年
2012/01/08(日) 21:54:40.01ID:1lijqs2s0345人間七七四年
2012/01/09(月) 01:02:57.76ID:tSbJGvnE三河→関東への国替えが色々と影響でかかったんじゃないのかな〜
0346人間七七四年
2012/01/09(月) 01:06:28.05ID:ASeFSQgs中央集権の裏付けになった。
0347人間七七四年
2012/01/09(月) 01:17:21.51ID:tSbJGvnE0348人間七七四年
2012/01/09(月) 01:31:37.03ID:ukR0/HH/0349人間七七四年
2012/01/09(月) 01:38:22.77ID:ASeFSQgs与力大名や大身家臣の軍勢を除いた、大番などの徳川宗家直属軍だけで、
前田家全体の軍勢よりも多かった。
0350人間七七四年
2012/01/09(月) 03:15:40.85ID:TZMaBT0Y大番も、武田遺臣など小身の外様は活躍しているが……。
0353人間七七四年
2012/01/09(月) 14:20:06.18ID:ASeFSQgs西郷、戸田、小笠原、依田、真田、穴山、大須賀、あたりはそうだな。家康も大身だけにけっこういる。
関東に入ると本多、榊原、井伊をはじめとして万石以上がやはり一気に増える。
0354人間七七四年
2012/01/09(月) 14:25:25.90ID:cVZYs6l10355人間七七四年
2012/01/09(月) 14:55:44.49ID:lNZIHFOuあ、小諸6万石の依田康国は重要ですな。
あと、関東入府前だと、石川、小笠原は与力じゃないんじゃない? 石川数正は
河内に封土もらっていたし、小笠原貞慶は讃岐半国だし。
0356人間七七四年
2012/01/09(月) 16:01:45.19ID:cVZYs6l10357人間七七四年
2012/01/09(月) 16:06:21.90ID:cVZYs6l10358人間七七四年
2012/01/09(月) 16:44:47.42ID:jt+d33Sr0359人間七七四年
2012/01/09(月) 17:05:38.93ID:cQUIlE/I0361人間七七四年
2012/01/09(月) 22:23:05.63ID:jt+d33Sr武田が滅亡し加賀美正行が死んだ時、その子・正光は幼年であったので落ち延びていった。
天正16年、家康は正光を召しだし、烏帽子親を選んで元服させた上で直接対面した。
家康は亡き正行を褒め、その死を残念がり、正光に仕官を勧めた。正光は平伏して応諾した。
これは特別のことで、人々は不平を口にし、それが家康の耳にも届いた。
それに対して家康はこう諭した。
「お前達はわしが甲州の名門旧跡ばかり喜んで特別扱いするというが、そんなことはないぞ。
その家の者が優れていると思うからこれを重用するのであって、家名を選んでいるのではない。
例えばあの正光の父である加賀美正行は、比類ない剛の者であった。
わしが武田に勝利したときのことだ。追撃していたものが使いを寄こして、しんがりの抵抗が
激しいから加勢が欲しいと行って参った。わしは不思議に思って内藤四郎左衛門をやった。
眺めてみると、敵のしんがりは地勢ををうまく味方にしていて、こちらを近づけない。
飛び込んでは引き、引いては飛び込み、まさに鬼神のごとき働きとはこれであった。
ここが死に場所と、軽輩雑兵に至るまで根が張ったごとき必死の覚悟がみえた。
このようになった敵をよく追い払うことはできないものだ。
誰かと(内藤に?)聞けば、あれは加賀美殿の息子でしょうと言うので然りと思った。
ところが後から聞いた話によると、正行はこう言っていたそうだ。
『お味方敗軍のことまこと意外であり、また急に退くとなって動揺した。
自分が殿軍に指名されるとは、まったく思いもよらないことだった。』
しかし平素から覚悟が座っているからこそ、変にあってもこのように振る舞えるものなのだ。
ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり、手落ち傷を誇らしげに見せにきたり、
そういう浅はかな覚悟とは違うぞ。
旧家名跡の子というのは、それだけに却って重んじられないこともあるから、お前達にとって
意外な人事となり、それはわしがブランドに弱いからだと思うかもしれないがそうではない。」
(加々見呈譜)
最後のあたりはかなり意訳。主語がところどころ分からん…。
他国者の登用に不満たらたらの、譜代の子弟に皮肉を言っているのだと思われます。
なおその後正光は小田原征伐、九戸一揆、関ヶ原、大坂の戦いに参加、書替奉行となった。
加賀美家は次々に加増を受け本家は500石、一族で1000石を越えた。
息子は大阪で先手弓頭として活躍、孫達は将軍の子弟の小姓などに取り立てられて行く中、
正光は寛永5年(または6年)に57歳で死んだ。幸せであったことだろう。
正行シリーズ終わり。
0362人間七七四年
2012/01/10(火) 00:16:05.68ID:tK7p5aY4意外な人事となり、それはわしがブランドに弱いからだと思うかもしれないがそうではない。」
このようにして家康は、厚遇している新参・当参者たちの理由を列挙していったので、
彼らは大いに面目を施したという。
(加々見呈譜)
0363人間七七四年
2012/01/10(火) 00:22:08.15ID:gXZKP/FC本人の戦功じゃなくて、親の戦功で特別に召しだしたんだったら
三河者たちが納得するとも思えないなあ
0365人間七七四年
2012/01/10(火) 00:50:06.71ID:afxWu2oK親の武功で取り立てられた第二世代になっているとか?
0366人間七七四年
2012/01/10(火) 00:51:34.03ID:k1jYGRTeというものがあるので、武士社会においてこれは圧倒的美談だね。
0367人間七七四年
2012/01/10(火) 01:00:25.68ID:afxWu2oK圧倒的…………美談…………!!
源氏を名乗り始めたのは、ちょうどこの頃だっけ?
0368人間七七四年
2012/01/10(火) 01:18:51.07ID:k1jYGRTe源氏自体は祖父の清康の段階で名乗ってる。
というか家康の安城松平はその祖である松平長親の段階で既に新田源氏を名乗っていた、
という説もある。
0370人間七七四年
2012/01/10(火) 03:35:30.93ID:oYPii3Nq0371人間七七四年
2012/01/10(火) 03:56:42.21ID:tK7p5aY4すみません。
>>誰かと(内藤に?)聞けば、あれは加賀美殿の息子でしょうと言うので然りと思った。
とあるので勘違いされたかと思いますが、加賀美殿の息子=正行 です。正光のことではないです。
原文を直訳して書いたのですが、分かりづらくてすみません。
たぶんこの時まだ正行は若くて、父親の方が有名だったのではないでしょうか。
武田滅亡時に正光は10歳くらい、正行は40前といったところです。
この逸話がいつの話なのか分かりませんが、長篠だとしても30ちょいですね。
このころには武勲も立てているはずですが、それでも父親のほうがイメージが強かったのでしょうか。
0372人間七七四年
2012/01/10(火) 13:31:39.35ID:YhSPlZgv本人が気にするくらい。
0373人間七七四年
2012/01/10(火) 17:38:30.97ID:wNhN+rjs小牧長久手の戦いの最中、蟹江城が滝川一益に調略され秀吉方となると、
一益は九鬼嘉隆と共に三千の兵を率いて、まず一益が五百の兵と共に入城し、
次いで大野城を攻め始めた
このことを近場にいた井伊直政が家康に報告するために清須城に向かい、
入浴中の家康に告げると、家康は報を聞くなり浴衣のみを着て蟹江へ出陣し、
蟹江にいた一益と船上の嘉隆の間を分断してしまった
この時、随身したのは直政のみ、途中合流した五百余のみで行われたこの行動は
後に家康一代の勝事と言われた
0374人間七七四年
2012/01/10(火) 18:00:33.92ID:9nasp5MP. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
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0376人間七七四年
2012/01/11(水) 00:15:18.56ID:30dwQ4ZC0377人間七七四年
2012/01/11(水) 00:49:12.37ID:ie1TmtpUl / .r―――┐l
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l:,;'"`'、, .ニ=ミ.. ヾ= 〈 / l | 混ざりたいのか、家康?
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