戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0212人間七七四年
2012/01/01(日) 12:19:10.33ID:vVqoErRi0213人間七七四年
2012/01/01(日) 12:42:49.95ID:QnFMfllv馬に乗って竹刀を持ち、近習相手に馬上太刀の稽古をしているところだった。
権左衛門が直弘に近寄り挨拶すると、直弘は特に返礼も無く「権左衛門、できるかな。」と竹刀を向けた。
大木一門は、もと蒲池氏の重臣であり、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺されると佐賀に駆けつけ、隆信を罵倒した上で
切腹しようとしたが、その心意気に感動した隆信が、さんざん慰留して家臣にしたという硬骨の家柄である。
父の家臣とは言え家中名誉の一門出身で、はるかに年長である歴戦の士に、ロクに挨拶もせず竹刀を向けた
直弘の態度は、とても褒められたものではない。
しかし権左衛門は、直弘の近習から竹刀を受け取ると、「されば、一槍つかまつる・・・やーっ!!」
未だ体勢の整わぬ直弘に駆け寄ってその脇を突き、馬から真っ逆さまに突き落とした。
何とか起き上がった直弘は、「も、もう一槍!」と言ったが、見ていた直弘の弟・直長が馬にまたがった。
「いや兄者、今度はそれがしが参りましょう。ゆくぞ権左衛門!」
ところが権左衛門は直長の突撃をスルリとかわすと、これまたその脇を突き、直長をも落馬させてしまった。
「正月早々、武者の首を二つも取り申したわ。愉快ゆかい。」権左衛門はカラカラと笑って退出した。
(葉隠より)
0214人間七七四年
2012/01/01(日) 12:48:03.73ID:rceNDkdL0216人間七七四年
2012/01/01(日) 14:28:25.98ID:lCr3bJaw(戦国ちょっといい話30より)
0218人間七七四年
2012/01/01(日) 20:12:44.15ID:0Ztm13qz信玄に仕えた加賀美正行は、長身だが痩躯、頼りない態度で何かと侮られることが多かった。
しかしモヤシっぽい見た目、堂々とはほど遠い雰囲気によらず、この正行、実はクリーチャーであった。
正行は幼いころから甲府に致仕していたが、そこで他の少年たちから執拗ないじめを受けた。
ある時ついに逆上し、額を割り、首をねじ切って残らず殺してしまった。
相手は権門の家の子たちだったので、正行の父は驚いて、我が子を遠国の寺に入れてしまった。
ようやく甲斐に戻り、信玄の前で神垣(おそらく現在の武田八幡)に騎射を奉り、それが
見事であったのでついに許された。
初陣では敵中にあって縦横に馬を馳せ、五つの兜首を取り、以後敵から夜叉次郎と恐れられた。
例えば、正行の弭槍(弓の上に刃を立て、緊急時に槍代わりにする補助武器)は非常に強く、
本物の槍を持参する必要が無かった(それほどの強弓を使っていた)。
また、祖先の加賀美遠光が建てた寺である加賀美山法善寺で、あるとき大鐘を移動するために
転がしていたところ、(坂かくぼみか何かで)いくら押しても動かなくなってしまった。
そこへ正行が押す(のに加わる?)と、鐘は難なく転がったという。
(加々美呈譜)
なおwikiによると……
『重要文化財 山梨県指定文化財 鐘楼・銅鐘……(略)
法善寺所蔵の銅鐘は、総高147.7cm、鐘身高111.3cm、口径89.1cm、撞座(つきざ)高12.0cm、
梵字外縁円径19.3cmの中世鐘で、県内では塩山向嶽寺鐘と並ぶ巨鐘である。…(略)…
鐘身には疵が多く、何らかの事情で他所から移されたものであると考えられている。』
http://www.kagamisan.com/bunkazai/kenchiku
こんなもん、ヒト一人加わったところで転がり出すようなもんじゃないだろう……。
0219人間七七四年
2012/01/01(日) 20:25:20.25ID:wsfEYtf/0220人間七七四年
2012/01/02(月) 00:29:50.25ID:LKkpUcvV0221人間七七四年
2012/01/02(月) 01:56:32.34ID:/iIKiTgO堀尾吉晴や前田玄以らにこの事を伝える使者に任じた。この時、吉晴は秀吉から
「もし秀次が出頭を拒否した時はどうするか?」
と問われ、これに吉晴は
「ご安心ください。適当に処置しましょう。」
と返答。もしもの場合は秀次と刺し違える覚悟を見せた。それまでにも自分の為に幾度も吉晴を命の危険にさらしてきた
秀吉は、この言葉を聞いて涙ぐんだという。そして秀次の元に向かう途中、吉晴は
「用事がある。」
と言って玄以らを先に行かせた。そして吉晴はなじみの店に顔を出すと、
「もし自分が帰らなければ、注文した品の代金は払えなくなるが、その時は息子の忠氏に請求するように。」
と伝えたが、最終的に秀次は吉晴たちの説得で秀吉の召喚に応じたため、最悪の事態は免れたという。
0222人間七七四年
2012/01/02(月) 03:28:18.13ID:2Q8/+7XI仕方ないよなという諦めもある
TVじゃ毎日目にするし、仕事から町内まで勧められる機会は数あるし、何よりも簡単に手に入るこの環境じゃ
しかし許せないのは父の体や事情を知りながら勧めた酒呑みの屑爺ども
結局飲んだ父の問題だが、あいつらまじで勝手に飲んで肝硬変にでもなればいい
地獄への旅路は仲間が多い方が楽しいみたいな、そんな感覚で進めてるんだよ、あいつら
でももう仕方ない
あとは常習的に飲まないよう信じるだけ
また以前のようになったらもう父を守れないし助けだせれないわ
みんな次は許してくれない
残りの余生を1人で過ごしてもらうしかない
0224人間七七四年
2012/01/02(月) 10:28:57.52ID:W1FHsA2eお父さんは酒で身を滅ぼしたけど、立派な人だったよ
0226人間七七四年
2012/01/02(月) 11:18:02.05ID:+CSbaqZfお父さんが酒飲み公家さんだし…
0228人間七七四年
2012/01/02(月) 12:21:30.42ID:w6KoU8z30229人間七七四年
2012/01/02(月) 16:36:34.13ID:3yhI/wiuなんという逸材
たしか先祖の加賀美武光は犬に噛み殺されたんだっけ
そのときの教訓を生かしてその場で皆殺しw
0230人間七七四年
2012/01/03(火) 12:04:27.09ID:ooIkS/E20231人間七七四年
2012/01/03(火) 15:35:19.27ID:lNB70Z3A諏訪部定勝の息子さんの可能性も
0232人間七七四年
2012/01/03(火) 18:14:25.37ID:KEOch0MY天正10年(1582年)6月2日深夜、織田信長・信忠親子に謁見するべく堺から京へと向かう最中の飯盛山で徳川一行が休息を取っていると、
先に京へと向かわせていた本多忠勝と茶屋四郎次郎が慌てて引き返してきた。
ただならぬ様子に家康は井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の重臣たち以外を遠ざけ、
加えて織田家からの案内役である長谷川秀一のみが本多と茶屋からの報告を聞いた。
本能寺の変の仔細を聞いて一番動揺したのは他ならぬ家康であった。
家康「我はこのとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今少し手兵がいたならば、光秀を討って織田殿の仇を討つべきなのだが、この無勢ではそれも叶うまい。
生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。」
と言い出した。
すると長谷川秀一も「家康殿さえかく仰るならば、まして私は年来の主君。一番に腹を切ってこの程の如く御道しるべとなります。」と言う。
という訳で本多忠勝と茶屋四郎次郎の二人がまた先に掛けて京を目指したのだが、20町ほど進んだ所で忠勝は引き返してくると石川数正らに言った。
忠勝「我、君(家康)の御大事が今日に極まったので、若輩の身を顧みず思うところを申させて頂きたい。君が年頃の信義を守り、織田殿と死を共にするという事が
義のあたる所としてどうして適切と言えようか。織田殿の為に年頃の芳志に報じようというなら、本国に戻り軍勢を催して光秀を追討し、
その首を切って手向けとすれば織田殿の幽魂も祝着し給うでしょう。」
するとこれを聞いた石川数正や酒井忠次ら老臣達もこう述べた。
「年長けたる我々もここに心付したい。返すべすも恥ずかしいと思い由を聞いていたが、君はつくづくと聞き召されよ。
我ら本国に帰って軍勢を催促し、光秀を誅殺する事は元より望むところである。しかしながら主従共にここに来るのは初めてである。
だが、知らぬ野山に彷徨って山賊一揆の為にここかしこで討たれる口惜しさに、都にて腹を切るべきとは思わない」
これを聞いて家康も冷静になって三河に帰る事を考えたようだ。すると長谷川秀一は怒りに涙を流しながらこう言った。
秀一「我ら悔しくも此度、家康殿の道案内に参りて主君の最期の共もせず、また賊軍一人も切り捨てずにこのまま腹を切って死ねば冥土黄泉の下までも恨みなお深く残るでしょう。
家康殿がご帰国して光秀を誅伐する軍を挙げた時は、その先手に参じて討ち死にする所は本望です。ただし、帰路の事を危うく思うのであれば、
この辺りの国士どもは殿に参謁する時は、皆私が取り次ぐ事になっているので、私の申事に背くものは無いでしょう。
それ故にこそ、今度の道しるべの役にも参じさせていただきたい。」
どうやら長谷川も内心悔しく思いながらも十分に冷静さを取り戻しているようだ。
彼の言い分を聞いた酒井や石川や忠勝も「御道のことは長谷川殿に任せるべき」という事でまとまり、こうして伊賀越えへの旅が始まったのであった。
0233人間七七四年
2012/01/03(火) 19:36:07.27ID:+xcGHnOJ前から疑問だったんだが、
信長は京(本能寺)で襲われたのに京(知恩院)に行こうって発想はどうなんだろうか?
厳戒態勢だろうし捕まったりした方が「生半な事」になると思うんだが。
0234人間七七四年
2012/01/03(火) 19:43:21.23ID:TNzX3LXj創作ないし社交辞令だと思うが、
明智軍に捕まっても武士の情けとかいえば明智の将立ち会いのもと切腹はできたんじゃないかな。
伊賀越えは奇跡だったけど、もし家康が数百の精鋭を率いて信孝、丹羽長秀に合流して
山崎の戦いに加わっていたら面白そうだな。
0235人間七七四年
2012/01/03(火) 19:54:27.65ID:mrCHm2pM0236人間七七四年
2012/01/03(火) 20:01:58.14ID:ce7aIi/9家康って浄土宗だから、浄土宗の寺で腹切ろうって意味なのかと思ってたわ
0237人間七七四年
2012/01/03(火) 20:59:14.11ID:FtSiNovc0239人間七七四年
2012/01/03(火) 21:54:11.27ID:bHbVWmrv最近になってもそれを覆す様な話が出てきた記憶もないな
0240人間七七四年
2012/01/03(火) 21:54:59.48ID:XjxWbxf4それで合ってるんじゃない?
浄土宗の総本山で切腹しようという発送は自然だと思う
もちろん、無事に知恩院までたどり着けるかは疑問だけど
0242人間七七四年
2012/01/03(火) 21:56:33.23ID:XjxWbxf4○発想
0243人間七七四年
2012/01/03(火) 23:09:56.65ID:W4Eq7efQ0245人間七七四年
2012/01/04(水) 00:05:24.61ID:ZqQOCizz・・・奥方の話だけど
0246人間七七四年
2012/01/04(水) 00:18:27.22ID:YeUawEl+宇多天皇の黒猫日記のような和みエピ好きだけど
戦国時代じゃそんな余裕もなさそうだね…
0247人間七七四年
2012/01/04(水) 02:32:32.14ID:JQoc9hlE昔物凄く困窮してた天皇家の惨状を見かねて、
ある饅頭屋が饅頭を持って言った所、宮中は大喜び。
その後毎日続けられたお饅頭の宅配は、
天皇家の財政が安定した江戸時代以降も、
儀式的に毎日続きました。
なんて話を見た事があるな。
涙無しには語れない話だが。
0248人間七七四年
2012/01/04(水) 02:53:02.96ID:VsZC+9630249人間七七四年
2012/01/04(水) 08:09:01.42ID:qBGmZDc/0250人間七七四年
2012/01/04(水) 09:05:17.05ID:U9zUCjWAそれとも、そこまでして家を残したいのかと蔑まれるのか?
0251人間七七四年
2012/01/04(水) 09:08:10.41ID:4AXx5oKxそんなことは源平の昔からあった事。
0252人間七七四年
2012/01/04(水) 09:11:59.39ID:DqY5eRaL0255人間七七四年
2012/01/04(水) 13:25:27.59ID:gsgFSfj3てめーは謀反されまくり裏切られまくりの分際でわめくな糞長厨
0256人間七七四年
2012/01/04(水) 13:44:32.65ID:wq860xx/この二人で絵巻物の収集、編纂や、新しく小型の絵巻物の制作、普及みたいなことをやってるな。
義尚が、寺社なんかから古い絵巻物借り受けて天皇のところに「こんなの借りてきました!
これどう思います!?」なんて直ぐに報告していたり、非常に微笑ましいw
あまりに仲が良いので、義尚は実は天皇の子供、なんて噂まで流れた。
0258人間七七四年
2012/01/04(水) 16:05:52.62ID:LIg2dtGm既出だったら申し訳ない
宗茂の家老のひとりに十時摂津という男がいた。
彼は柳河一三万石の戦巧者であったが、宗茂が浪人し、京に渡ってからは虚無僧となり得意の尺八を吹いて、
主君の生活を他の家臣達とともに養っていた。
そんなあるとき宗茂は言った
「京じゃ天下の情勢がわからんから江戸に行くぞ」
当然誰も反対しない。
一行はすぐさま江戸へと向かうこととなった。
さて、江戸でも例によって尺八を吹きながら托鉢をして歩く十時。
ある工事現場を通りかかると、昼間から酒を飲んでいた男三人組が突然キレた。
「尺八のせいで酒が不味くなったから酒代よこせコルァ!」
明らかに屁理屈である。
当然これは華麗にスルーされた。が、
三人は十時の前に立ちはだかり、腕をつかんで悪態をつく。
さすがにイラッとしたのか、十時は掴まれていた腕を捻らせ、相手を突き飛ばした。
すると三人組は「やっ・・・やんのかよ!;;」と、脇差を抜き、構える。
あまりのへっぴり腰に十時は呆れた。
そして「お前等じゃ俺の相手になんねーから止めた方がいいぞww」と忠告した。もとい煽った。
続く
0259人間七七四年
2012/01/04(水) 16:37:15.33ID:cvYXFyMohttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3908.html
整備中の江戸城下で、チンピラに絡まれたある虚無僧
0260人間七七四年
2012/01/04(水) 16:55:49.53ID:LIg2dtGm煽られた三人組は十時に切りかかってくる。
十時は尺八でこれを受けて刀をはじき飛ばした。
それでもまた切りかかろうとする三人組に嫌気がさしたのか
「この蠅がぁ!幾ら言っても分からんならもう許さん!」と、彼は言った。
このあたりにくるともう自重の欠片すらない。
「うるせえ!虚無僧のくせに生意気なんだよ!」
これが三人の最期の言葉だった。
再度切りかかろうとした三人は一瞬のうちに刀を奪われ、
その刀によって一人残らず真っ二つになっていたのだ。
かくして十時のならずもの退治は幕を閉じた。
しかし江戸のド真ん中で殺人を犯したのである。
すぐさま十時は奉行所へ連行された。
そして自分が立花の家老であること、主君も江戸にいることが、取り調べにより発覚してしまう。
幸い十時は正当防衛として罪に問われなかったが、豊臣恩願の元大名を江戸に放置する訳にもいかないため、とりあえず本多正信が宗茂のもとを訪れることとなった。
この会談により宗茂が秀忠のお相伴衆となることが決まったとか。
ちなみに十時さんは土井利勝さんから町奉行を通しベタ誉めされたそう。
結果論&うろ覚えで申し訳ないです
0261人間七七四年
2012/01/04(水) 16:58:14.89ID:LIg2dtGmすみません;:
投稿後気づきました・・・
ありがとうございます
0262人間七七四年
2012/01/04(水) 17:03:29.84ID:Oy6tc19v一応まとめサイトで確認したんなら、それほど気に病まなくても
0263人間七七四年
2012/01/04(水) 19:08:55.98ID:6zEqLF9Dとかそういう話かと思ったw
0264人間七七四年
2012/01/04(水) 19:26:03.48ID:VsZC+9630265人間七七四年
2012/01/04(水) 20:20:39.53ID:LIg2dtGm吹いたww立花家臣もそういうこと言うのか
こういうバージョン違いも面白いよなw
0266人間七七四年
2012/01/04(水) 20:28:46.32ID:LIg2dtGm0268人間七七四年
2012/01/04(水) 21:20:47.91ID:A0IBL9z7気づかないだけで
0269人間七七四年
2012/01/04(水) 21:26:14.98ID:+wQ/g8nM自分の子のほうが武田の血が深いから武田家当主にふさわしいと思ってと織田や徳川と誼を深めて嫡子を当主にさせようとしてたんだよね。
長篠合戦で真っ先ににげたのもそのためかな。
0270人間七七四年
2012/01/04(水) 23:12:50.10ID:KOi8W1cB0271人間七七四年
2012/01/05(木) 00:18:20.79ID:57XaGzHKしかし正行はただの脳味噌筋肉ではなく、行政能力もそれなりに高かったらしい。
父の跡を継ぎ、義理の兄弟である飯富昌景、武田正昌らに与力し文書も発給している。
そのような功績もあり、父の死後、念願叶って本領を回復し直臣に取り立てられた。
その後は北条家との取次役をを務めており、北条武田間の贈答・交易について、
梶原景宗と取り交わした文書が残る(前後は不明だが、子は梶原の娘を娶っている)。
さて、かつての仇敵の家の子ながら、この正行に感服した才気溢れる若い侍がいた。
(調べてみると二人は年齢が一回りほど違う。それが良かったのかも知れない。)
ある時この若者が、正行に相談した。
「私は常日頃の働きでも周りとうまくいかず、臆病者で戦でも人並みには働けないのです」
正行は考えた後、彼らしく簡潔に答えた。
「自分の働きは大したことではないと常に考えることだ。大体自分の受け持った仕事は
大変に思え、他人を侮ってしまいがちだ。特に一人仕事のときはそう思いなさい。
また楽だと思ってやれば楽になるものだし、楽な働きをしていると思えば自然謙虚になる。
戦も同じだ。そもそも命を賭けるのに勇気がいる戦というのは、懸命する必要のない戦だ。
恩賞目当てでなければ別に臆病でも良い。男子一心あれば、必要なとき身体は勝手に動く」
若者はやがて頭角を現し、信玄から次代の中心人物と目されるようになる。
その名は金丸惣蔵、後に「片手千人斬り」で武田の末期に花を添える、土屋昌恒である。
(加々美呈譜)
しかしwikiによると昌恒は13の初陣で父の仇の部下を討ち取っているという。
決して臆病ではないと思うのだが。がむしゃらの初陣以来、スランプに陥っていたのだろうか。
正行はそれを慰めようとしたのかもしれない。
0272人間七七四年
2012/01/05(木) 00:55:56.33ID:bVHVn6AQ別の板でクソコテのIDとかぶって自演扱いされてワロタ
0273人間七七四年
2012/01/05(木) 01:21:54.20ID:EyaxHVcsこれ位場末の板だと比較的珍しいが。
まぁ自演ならもう少し分かり難くやるだろうw
0274人間七七四年
2012/01/05(木) 01:30:18.00ID:lVAXxZtt>>271
どこの系譜でもそうだが、後世名門で高禄なほど完全超人に近づくんだよなwww
かがみんならまだしも、大老を出した土屋さんの「十三の初陣で敵討ち」がどこまで本当か・・・・。
0275人間七七四年
2012/01/05(木) 02:13:59.78ID:fCq9P/8C偉くなるほど箔付けをしたがるものだけど
仮に本当だった場合、そんな話が掃いて捨てるほど武田家は猛者揃いだったのかもしれないw
0276人間七七四年
2012/01/05(木) 03:51:06.43ID:ymtgiK8i土屋昌恒の初陣の逸話は、別に後世に子孫によって先祖顕彰のために作られたわけじゃなくて、
たしか甲陽軍鑑に載ってる話で、
元今川水軍の岡部貞綱が昌恒を養子に迎える切っ掛けになる話
(駿河侵攻の際、昌恒が初陣で今川家臣だった岡部一族の家来の首級を上げた。
貞綱が武田家に降って信玄から土屋姓を与えられた後、初陣での昌恒の戦いぶりを覚えていて、
その武勇に惚れ込んで強く希望して昌恒を跡継ぎとして養子に迎えたってな感じの話だったはず)
だから、
甲陽軍鑑の信憑性を疑うっていうなら、まぁ別に異論はないけど、
子孫が箔づけに話を盛ったんじゃないかっていう突っ込みは的外れだと思う。
あと、土屋昌恒の天目山での戦いっぷりに関しては、甲乱記や武田三代記だけでなく、
信長公記でも褒め称えられているほどだから
(土屋昌恒は、弓を取り、矢をつがえては放ち、つがえては放ち、矢数が尽きるまで射尽くして
屈強の武士を多数射倒した末、勝頼の後を追って切腹した。高名を後代に伝える、比類なき働きであった。)
昌恒が当時甲斐によくいた猛者の一人だったってことは、間違いないと思われ。
土屋家が後に引き立てられたのは、孫の数直が家光とアレな関係になったってのも大きいけど、
もともとのきっかけは、昌恒の忠節と武勇が当時有名で、その七光りに子の忠直が与ったっていうのが素直な見方で、
子孫が出世したから昌恒の経歴が派手になったわけじゃないと思うよ。
0277人間七七四年
2012/01/05(木) 09:11:47.87ID:Vo6zjDew0278人間七七四年
2012/01/05(木) 13:09:24.89ID:lVAXxZttそうなのか。浅学失礼した、ご教授ありがとう。
そうするとこの逸話も、本当に初陣以降のスランプを慰めた話なのかもしれないね。
臆病と思っていても、見事に体は動いたんだな・・・・。
0280人間七七四年
2012/01/05(木) 15:41:32.78ID:ymtgiK8i土屋昌恒って人は、色んな逸話から知る限り
幼い時から英明で知られ
武勇については上で述べたとおり、修羅の国甲斐でも名が高く、
忠義についても、天目山だけでなく、長篠の戦から敗走するときも
初鹿野伝右衛門とともにただ二人勝頼の傍から離れず警護していて、
加えて、内政官としても、跡部勝資には及ばないものの、
10代のころから奏者として働き、結構な数の朱印状の発給している有能っぷり、
更に分をわきまえた性格良しっていう、
リアル完璧超人で、
武田家があと10年生き延びていたら、
東のミスターパーフェクトと呼ばれていてもおかしくない逸材なんだけど、
今一知名度が低いのが泣ける。
>>271の逸話も、昌恒の経歴を知ってから読むと、
実際にスランプだったってよりは、兄の土屋昌続と義父の土屋貞綱が共に長篠の戦で討死したせいで、
わずか16歳で、兄の土屋家と義父の土屋家を両方継ぐことになり、
かつ重臣総討死状態の武田家を若年の身で支えなくてはいけない立場になって、
武田家を守るべく、早く実力をつけるために
どんなことでもいいから先輩から学びたいっていう向上心の表れにしか見えなかったり。
よし、知名度の低さ払拭のために、ちょっと、手元史料から逸話をまとめてくるノシ
0281人間七七四年
2012/01/05(木) 17:25:04.42ID:ymtgiK8i武田家が長篠で手痛い敗戦を喫した際、敗走する武田勝頼の傍から離れることなく警護した土屋昌恒は
その忠義を賞されて、戦死した兄土屋昌続と義父土屋貞綱の遺領と同心衆を共に引き継ぐことを認められ、
更に勝頼の側近として取り立てられて重く用いられることになった。
このとき、昌恒はまだ16歳。
幼い時から英明で知られた昌恒は、バリバリ仕事をこなし、
内政官としてもその手腕を発揮していった。
しかし、いかに昌恒が優秀であったとしても、まだまだ若年・若造に過ぎず、
信玄代からの重臣で、出頭人と呼ばれた跡部勝資の権勢には遠く及ばなかった。
それから、約10年が経ち、いよいよ昌恒がその本領を発揮できる歳になった頃には、
武田家は幾多の外交的失策を重ね、昌恒がいかに一人頑張ろうとも
すでに挽回不可能な状況に陥っていた。
そして、天正10年、木曽義昌の寝返りから始まった織田信長の武田征伐により、
武田家家臣団はあっという間に瓦解。
武田勝頼主従は、一門衆小山田信茂を頼って本拠地新府城から甲斐郡内の岩殿城へ向かうが、
先行して態勢を整え、迎えを寄越すはずの小山田から一向に連絡が来ない。
やむを得ず武田家宿縁の地天目山に逃れようとした勝頼主従は、天目山の麓、田野あたりで、
一帯が戦場になることを嫌った地下人を引き連れた武田家臣大熊備前守、甘利左衛門尉、
秋山摂津守らに鉄砲を撃ちかけられる。
時を同じくして、小山田信茂は既に勝頼を裏切り、関を閉ざして郡内への入領を阻んでいるとの報が入る。
ここで武田勝頼に対していつものように忠言する跡部勝資を見ていた土屋昌恒が口を開く。
続きます
0282人間七七四年
2012/01/05(木) 17:27:13.85ID:ymtgiK8i跡部勝資「お館様。小山田が裏切ったからには、郡内への逃亡は不可能になりました。
ここは、地下人たちの目をなんとかくらまして、天目山に逃れ一旦情勢を窺うべきです。」
これを聞いた昌恒は、他の者が発言する前に、勝頼に向かってこう述べた。
「私のような若輩者が発言するのは角が立つかもしれませんが、このような最悪の状況下においては、
その者の年齢ではなく、その者の心が剛であるか否かでご判断ください。
尾張守(跡部勝資のこと)様のおっしゃることはちょっと未練がましいとしか言いようがありません。
こういう無分別な考え方こそが、今の最悪の状況を招き、
武田家が滅亡の憂き目に遭っている原因に他なりません。
よくよく分別をわきまえてください。
数代に亘る家臣の小山田出羽守(信茂のこと)が敵となり、天目山の地下人にさえ背かれては、
どんな鉄城鉄山に籠城したとしても、生き永らえられるとは到底思えません。
侍は、死すべき時に死ななくては恥というもの。
当家の祖、八幡太郎義家も侍は死すべきところを知るが肝要と言葉を残されております。
たとえ兵が少なくなったといえども、新府城に留まって敵を迎え撃ち、
命の限りに矢が尽き刀折れるまで戦った後
一門ひとつの場所で腹を召されてこそ、武田の武名を顕し、
信玄公以来の武勇の程を示せたというものです。
それを人の道に反する小山田なんぞを頼ってここまで逃げ、身分卑しき者の手にかかって、
御一門の屍を山野に晒すのは、後代までの恥辱だとは思いませんか?
戦の勝敗は時の運ですので、戦って負けることは恥のようであっても実は恥ではありません。
ただ戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死なないのは武門に傷をつけるものです。
とある書に曰く、進むべき時に進まないのを臆病な将(臆将)といい、
引くべき時に引かないのを暗愚な将(闇将)といいます。
とすれば合戦おける進退とは、結局のところ分別工夫によるものと言えます。
ところが、尾張守(勝資)のおっしゃることは軽率で分別がないとしか言いようがありません。」
0283人間七七四年
2012/01/05(木) 17:34:58.02ID:ymtgiK8iこれまで昌恒には色々と溜まっていたものがあったのだろう。
ここでついに思いの丈を、怒りをにじませながら、終いには悲涙を流しながら言上する。
「…この期に及んでこんなことを申し上げてもしょうがないが、
このまま胸の奥に仕舞っておくのも無念なのであえて言わせていただく。
先年、越後にて景虎と喜平次(上杉景勝の事)が争ったとき、
そこにいらっしゃる方々は欲をかいて黄金を欲しがり、
景虎に対して不義となる判断をしたために、天下に悪名を広め、諸人から嘲りをうける結果となりました。
そのため、武田家と北条家は同盟が崩れ、相互に怨敵とみなすことになり、
ついには、このような状況にまで至ってしまいました。
かつては、そこにいる方の邪欲によって当家は窮地に陥りました。
そして今回、小山田を始として恩顧の侍達が、我らを見放しましたが、
全ては、そこにいらっしゃる方の無分別な助言に起因します。
敵は余所にいるのではございません。」
この言葉を聞いた跡部尾張守(勝資)は、一言も返答できず、赤面して平伏したという。
その後、覚悟を決めた勝頼主従は、織田方に対して最後の攻撃を仕掛けることとし、
昌恒は40騎ばかりを率いて死にもの狂いで突撃し「数千騎の敵を東西南北へ切散す」戦いぶりを見せた。
そして勝頼夫妻が無事自害したことを聞き届けると、
「人切りたるが面白サに、大将の御伴を外れるのは残念だ。
さて皆の衆、最後の一戦をして、腹でも切るか」と言って、敵の大軍に向かって切っ先を並べて切り込み
一歩も引かず、戦場に屍が横たわり血が川のように流れるまで戦い、一人残らず討たれたという。
以上、軍記物のなかでは比較的信憑性が高いといわれる甲乱記より適当訳で。
ちょっと血生臭いけれど、バラバラになっていた主従が、最後の最期で一丸となった良い話?ということで。
長文失礼しました。
0284人間七七四年
2012/01/05(木) 23:43:50.09ID:AkHtTZ82長慶の甥で阿波国主の三好長治は急の用事があり、京の長慶に書簡を出すことにした。
その使者として長治に選ばれたのが、福成寺の住職である。
住職は長治から書簡を預かるとこれを寺に持ち帰り、書簡を文箱に収めてお堂の地蔵菩薩の前に保管した。
住職自身はその傍らで一睡もせずに夜を明かす。日の出と共に出立するつもりなのだ。
さて特段のこともなくその夜は明け、住職はいよいよ京へ向けて発つべく文箱から書簡を取り出そうとする。
そして一驚したことには、なんと長治から預かった書簡が箱の中にない!
ばかりか、代わって長慶からの返書がすでにそこに認められているではないか!
なんと弘法大師が彫ったという地蔵菩薩は、住職の長旅を哀れに思い、彼に代わって夜間に京の長慶の元を訪れ、
一晩で返書を持ち帰って来ていたのだ。
この事はたちまち阿波の人々の噂に上り、以来福成寺のこの地蔵は飛脚地蔵として親しまれたそうな。
民話の世界でまで長治さんの真言宗苛めっスかw
って思ったら、福成寺は住吉神社(三好義賢が幼少時神主を務めた)の別当寺でもあるそうで、
悪い話でもなさそうなのでこっちのほうに。
0285人間七七四年
2012/01/05(木) 23:49:44.00ID:7uO7wyLB阿波の地蔵菩薩は京まで行ってくれる
四国の十三仏のご利益はすごい
0287人間七七四年
2012/01/06(金) 00:42:02.93ID:qrdv8HGDでもどさくさにdisられる勝資さんカワイソス
最後までなんとか可能性を探るのもそれはそれで一つの見解だと思うし
0288281
2012/01/06(金) 01:30:55.58ID:8suojzJK当時16歳じゃなく19歳(数えで20歳)でした。すみません、訂正します。
>>287
結果論になっちゃうけど、あと3か月耐えれば、本能寺の変で信長が死ぬから、
勝頼はともかく信勝は、跡部勝資の助言に従って逃がしておいた方が良かったかもしれない。
でも、同じ甲乱記によれば、信勝は死の直前に
「ただ妄念なるは、新府城で信長を待ち受けて討死すべきところを、
臆病者どもの異見によってここまで逃げてきたのは残念だ」
とか言っちゃってるから、信勝も武士としては立派だけど、脱出ルートは無理筋みたい。
0289人間七七四年
2012/01/06(金) 01:36:34.63ID:Cv9UI7oY三ヶ月たっても本能寺が起こるとは限らない
0290人間七七四年
2012/01/06(金) 01:45:52.66ID:fIYQS0ECそうしてから>>271を見ると、「周りとうまくいかず」ってのも分かるね。
二十歳そこそこで一国に関わる大仕事していたら、それは気負いすぎてもしきれないくらいの辛さだろう。
責任感もものすごい重圧だろうし、他人に対して尊大な態度を取ってしまうのも分かる。
それで、どんな大事な仕事をしていても楽な仕事だと思えと言ったのかな。
臆病でもいいってのは、臆病と呼ばれても命を大事にって意味かも。
つらいなあ。
0291人間七七四年
2012/01/06(金) 01:51:13.97ID:d7QqeiGuもうちょっとニートで頑張るか
0292人間七七四年
2012/01/06(金) 01:59:41.35ID:9TxS8Mu8ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける >>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける (´;ω;`)
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
0293人間七七四年
2012/01/06(金) 02:01:49.21ID:9TxS8Mu80295人間七七四年
2012/01/06(金) 02:03:58.16ID:fIYQS0EC0296281
2012/01/06(金) 02:06:20.07ID:8suojzJK0297人間七七四年
2012/01/06(金) 02:07:28.44ID:16H/n99Mその昌恒から敬愛されるかがみんも凄いが、
この人は武田滅亡の折どうしていたんだ??
0298人間七七四年
2012/01/06(金) 02:14:59.12ID:fIYQS0ECと言いたいところだが
正行が「加々見長門」と同一人物なら、法善寺城で徳川方と戦い生害、と記述にぐふっ!!
0299人間七七四年
2012/01/06(金) 20:08:04.78ID:j6Hx395zどうせ北条は滅びるんだし景勝を支援したことに間違いはなかった
0300人間七七四年
2012/01/06(金) 20:22:29.99ID:BqXQrSPw0301人間七七四年
2012/01/06(金) 21:16:54.79ID:5BPs0VS5明智光秀と濃姫はいとこにあたる
しかしこの二人は恋をしていた
しかし信長のような一国をまとめる程の器が光秀にはなくてその想いを濃に打ち明ける事ができませんでした
光秀はまだ濃が信長に嫁ぐ前、濃に一通の手紙を渡します
それは別れの恋文でした
光秀はこの日から斉藤家を離れ将軍配下の細川家へ出仕する事になったのである
0304人間七七四年
2012/01/06(金) 21:30:00.69ID:u2paUtjr0305人間七七四年
2012/01/06(金) 21:37:50.89ID:OQDI4GyY0307人間七七四年
2012/01/06(金) 22:36:25.89ID:C7pI/7sg0308人間七七四年
2012/01/06(金) 22:39:32.39ID:yist9wDS信忠を大将にして対武田のメンツ+徳川連合軍で攻めるのかな?
滝川を与力にして、一門衆や池田、森で固めて、蒲生や堀みたいな次世代武将も
経験積ませるために参加させるのだろうか。
鬼武蔵がヒャッハーして坂東武者を刺激する姿が目に浮かぶぜ。
0310人間七七四年
2012/01/06(金) 23:19:42.78ID:5YBDsyKp■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています