戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0020人間七七四年
2011/12/17(土) 03:02:46.24ID:yoM7saFv刺青は火消し、職人などの所謂、『工』の文化でしょうね。
侠客はどこに当たる存在だったのかはわからないが、
武家で刺青は聞いたことない
0021人間七七四年
2011/12/17(土) 03:32:20.07ID:NFXBvnDA0022人間七七四年
2011/12/17(土) 04:48:05.83ID:4dV/u4oN倭寇が刺青してたとか、薩摩兵が腕に名前と年とを彫り込んでだとか
それくらいしか聞いたことない
0023人間七七四年
2011/12/17(土) 07:02:03.23ID:RgxO7CrL0025人間七七四年
2011/12/17(土) 09:29:52.36ID:hSTfvYgAってか、生年を彫ってたんじゃね?
0026人間七七四年
2011/12/17(土) 10:20:04.13ID:ZoC3icEv0027人間七七四年
2011/12/17(土) 10:53:35.34ID:bTX/X0fJ江戸時代よりは前。
罪人にその印として入れ墨をするのは中国由来じゃなかったかな?
聖徳太子の頃には有ったような
0028人間七七四年
2011/12/17(土) 11:08:57.77ID:W1n1x8Ipあと忘れたけど中国の史書で倭人の説明で刺青してるとかっての無かったっけ?
このころのは呪術的な意味合いが強かったんだろうけど
0029人間七七四年
2011/12/17(土) 11:12:35.56ID:bjAXG92K男子無大小、皆黥面文身。
あと、「魏略」には
自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
倭人は呉の太伯(刺青をしたと言われる)の子孫を称して、水中の怪物の害を避けるために刺青を彫ったとか
0030人間七七四年
2011/12/17(土) 12:08:10.02ID:yoM7saFv幕末ころになると武士のなかにも町人からの影響で、
刺青を彫る者が出てきたみたいで、
小見川藩の内田正容は一万石の大名ながら刺青していて、
幕府から隠居を命じられたとある。
遠山景元(金さんモデル)は若い頃に放蕩生活(家庭環境が複雑だったらしい)していたようで、
その時期に侠客と交わりがあって桜吹雪を入れたとする説があるらしい
0031人間七七四年
2011/12/17(土) 13:02:16.98ID:VbQPlDfX0032人間七七四年
2011/12/17(土) 13:27:01.31ID:xw8JMQTFしかし歳はともかく名前とか変わったらどうすんだろ
あと名前に一と正の字が使われてる奴はややこしくなるな
0033人間七七四年
2011/12/17(土) 13:30:36.13ID:bjAXG92K一→ニ→三→王→玉
0034人間七七四年
2011/12/17(土) 13:41:56.11ID:6mOja9IWネットから引っ張ってきたので恐縮なんだが
天正15年4月16日、豊臣秀長が三原弾正忠らが立てこもる高城を攻めた
薩摩勢は島津歳久の子三郎兵衛忠親で迎え撃ったが敗北
『島津勢先陣の内島津歳久の子三郎兵衞忠親を始めとして、五百餘り計たれけるに
皆二の腕に何氏何某、行年何十歳、何月何日討死と黙して在りけるとかや』
ttp://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/8767/1/irezumi26.pdf
豊臣軍が攻めてきて、決死を覚悟して名前と歳と討ち死にの日を彫った――ってニュアンスみたいね
陰徳太平記だから後世の潤色の可能性も高いけど
とりあえず、薩摩隼人マジ戦闘民族
0035人間七七四年
2011/12/17(土) 13:51:48.35ID:6mOja9IW× 何月何日討死と黙して在りけるとかや
○ 何月何日討死と黥(げい)して在りけるとかや
0036人間七七四年
2011/12/17(土) 16:27:38.75ID:RgxO7CrL降伏して酒宴で油断させて伏兵と追撃とか
息子の憂いを断つために赤子を殺して自宅に火をつけたり
0037人間七七四年
2011/12/17(土) 17:17:12.01ID:yoM7saFv九州武士の気質に影響しているのかな?
0039人間七七四年
2011/12/17(土) 18:04:18.46ID:bXQeE/ooあと完全に空気な肥前有馬
0040人間七七四年
2011/12/17(土) 19:26:54.38ID:8o5xeSA20041人間七七四年
2011/12/17(土) 20:12:25.05ID:ST1/3qCL0042人間七七四年
2011/12/17(土) 20:17:24.44ID:Sna30vY+鎌倉以来の雄菊池は滅ぶし
阿蘇・相良も二流
0043人間七七四年
2011/12/17(土) 20:34:37.74ID:yoM7saFv0044人間七七四年
2011/12/17(土) 20:35:05.59ID:3DFjjHzu別世界だよ
0047人間七七四年
2011/12/17(土) 21:20:19.46ID:xnDSckZN有馬氏は、お家存亡をかけた沖田畷の戦いにおける奮闘が
島津家久の存在感でかすんでるのが痛いなぁ
前線に鉄砲隊を並べてクマー軍団をよく防いでいたんだが
0049人間七七四年
2011/12/17(土) 22:20:39.83ID:o8iYRa5p./ ;ヽ
l _,,,,,,,,_,;;;;i
l l''|~___;;、_y__ lミ;l
゙l;| | `'",;_,i`'"|;i |
,r''i ヽ, '~rーj`c=/
,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ
/ ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄タイ(バイ・ゴワス.etc)! フゥハハハーハァー
|;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri
l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / |
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0050人間七七四年
2011/12/17(土) 22:42:22.68ID:3DFjjHzu九州はなんか異色みたい…なんでだろう 風土の差?
0051人間七七四年
2011/12/17(土) 22:49:55.33ID:W1n1x8Ipなんか合戦の雰囲気なんかに大陸の匂いを感じる
0052人間七七四年
2011/12/17(土) 23:03:36.50ID:PDPudzYh武の地関東、上方関西からも遠いんだよなw
航空技術が発展するまでは、
文化の受入、外敵の侵入どちらにしても玄関口だったから。
古くは支那、新羅、元にいつも警戒していなければならないし、
戦国時代にはキリシタン大名のメッカみたいなとこあるし、
保守的な精神と急進的な精神がごちゃ混ぜな土地柄かもしれんw
0053人間七七四年
2011/12/17(土) 23:06:21.79ID:s92pEdYn0054人間七七四年
2011/12/18(日) 00:10:00.01ID:0ugJX/PS島津に泣きついて助けてもらったのに
秀吉が来たらさっと手のひら返しした有馬さん
武功を誇るならその寝返り振りもセットで誇らないとねw
0055人間七七四年
2011/12/18(日) 00:20:11.18ID:IEnHNs4V0056人間七七四年
2011/12/18(日) 00:56:12.19ID:BVsUVmYi0057人間七七四年
2011/12/18(日) 01:02:16.67ID:VVd1dmAbと計画したから。
0058人間七七四年
2011/12/18(日) 01:18:48.47ID:k9rUVC8i摂津有馬氏であって肥前の有馬氏とは別系統なのね
0059人間七七四年
2011/12/18(日) 03:21:33.89ID:7NMiqQFQ0060人間七七四年
2011/12/18(日) 04:07:48.20ID:ev9ggljbなんちゃってw
0061人間七七四年
2011/12/18(日) 04:30:53.24ID:gtSpx03W【審議チュウ】
チュウ
+ ゚ ・ +
゚∧,,∧∧ ゚
チュウ (* ゚( ) チュウ
.+ ゚ ・ + l っと ヽ .+ ゚ ・ +
゚∧_ ∧∧ ゚ と__(__(^)(^) ∧∧ _∧
(*´・( ) ( )・`*)
l っと ヽ / つと l
と__(__(^)(^) (^)(^)_)_つ
0062人間七七四年
2011/12/18(日) 07:10:40.57ID:MDViqKTs唐入りの絵図とか資料とかもっとあったらいいのに。
海外遠征とか初めてだろうし、違う民族の武将農民風景とかいろいろ。
0065人間七七四年
2011/12/18(日) 12:11:04.77ID:0PMtCUPnえーと名前忘れたけど戦国時代の偉人が言ってた
0067人間七七四年
2011/12/18(日) 15:53:40.71ID:2PhTy4Yv家康の仲裁でお預けとなった佐竹義宣の領地から、友人に手紙を送った。
「このあいだ御状をいただきましたが、片便につきお知らせが遅くなってしまいました。
拙者は思いがけずこちら(常陸)に罷り下り、遠国に住むことになりました。
罷り退くことになった事の次第はきっとお聞き及びでしょう。
これ以上生きても仕方のない身ではありますが、是非もありません。
しかしながら、上様が御慈悲で少々堪忍料を仰せ付けられ、かたじけなき次第です。
ああ、今一度お目にかかりたい!(哀々今一度懸御目度念願迄候)
御事が親しい仲と思し召されてご連絡をくださったのは本当にありがたい。
できたら、隆景様にお取り成しをお頼みしたいと思っております。
道三(曲直瀬玄朔、秀次事件で連座して佐竹に預けられた)もこちらに逗留しています。
拙者が居住しているのはいかにも人通りの絶えた山中ですので、
折につけ道三と行き来して、寂しく語り合っています。どうかお察しください。
せがれ(職則)も連れてきており、一緒にいます。ご承知おきを。
それではまた。恐惶謹言
広家様へ 花房助兵衛尉入道 道恵より」(吉川家文書)
秀吉に悪態をつき、秀家に果敢に諫言し、後には家康にも噛み付いた助兵衛さんだって
虚しかったり人恋しかったり友への懐かしさに胸震わせることもあるんだね。
0068人間七七四年
2011/12/18(日) 16:24:06.14ID:2PhTy4Yv助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。
0069人間七七四年
2011/12/18(日) 16:48:56.73ID:23WqZsF8また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ
0071人間七七四年
2011/12/18(日) 18:52:12.47ID:7NMiqQFQ0072人間七七四年
2011/12/18(日) 19:50:43.33ID:xGSQNhVv当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。
書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。
0073人間七七四年
2011/12/18(日) 20:16:03.81ID:8efod3Ub>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?
0074人間七七四年
2011/12/19(月) 01:34:57.70ID:hDBjMLA8というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である
家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている
ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある
また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという
0076人間七七四年
2011/12/19(月) 13:09:08.77ID:NlzABSxd大友、相良、阿蘇の三氏が小川町の守山で会談した結果らしい(菊池政隆がいたが追っ払われた)>阿蘇惟長(菊池武経)の菊池相続
で、惟長相続に賛成した菊池家臣の面子が大友義長の次男を推戴するって起誓文を作成してたらしいね。
菊池の家督に旨みが無いのを悟り、ブチ切れて阿蘇に帰った惟長の後に大友がショートリリーフとして菊池武包を起用した後の大友義長次男にして最後の菊池家当主が菊池義武。
まあ肥後守護に欲出してみたはいいものの、実際は大友の支配下にあったのに気付いて帰ったのが阿蘇惟長だから、野心無かったってのはどうかなー?
0077人間七七四年
2011/12/19(月) 21:59:28.54ID:/vH8vLEp親しみやすかった…のか?
0078人間七七四年
2011/12/19(月) 22:38:32.67ID:JUi6MfnA景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて
0079人間七七四年
2011/12/20(火) 00:46:55.37ID:jrCuKj7t国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる
0080人間七七四年
2011/12/20(火) 00:49:57.34ID:mlSG59Ka0081人間七七四年
2011/12/20(火) 09:21:23.58ID:daJv0RXKあんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような
0083人間七七四年
2011/12/20(火) 19:53:20.65ID:XaSiufI90084人間七七四年
2011/12/21(水) 00:20:01.68ID:erYv2H5k0085人間七七四年
2011/12/21(水) 01:10:55.01ID:8EWMPkW+南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな
豊臣家を挑発したのはオマケ
0086人間七七四年
2011/12/21(水) 10:15:49.79ID:fgUdyRsF20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。
「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」
「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。
清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。
「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。
再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」
「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」
『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)
0087人間七七四年
2011/12/21(水) 12:03:51.03ID:vDA2dv5e0088人間七七四年
2011/12/21(水) 12:25:22.10ID:UH8Lun0Y0089人間七七四年
2011/12/21(水) 12:52:14.18ID:o9uRqK/q0090人間七七四年
2011/12/21(水) 17:29:19.00ID:8ogI3n2d0091人間七七四年
2011/12/21(水) 17:46:17.04ID:NdIid7by0092人間七七四年
2011/12/21(水) 18:27:00.20ID:fZQOQmGd0093人間七七四年
2011/12/21(水) 20:22:13.25ID:Fh8iFAIu0094人間七七四年
2011/12/21(水) 21:30:51.90ID:RBb21jY20096人間七七四年
2011/12/22(木) 01:03:54.54ID:PFNl98In最上義光から、とある商人へのプレゼント
1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。
この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。
豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話
0097人間七七四年
2011/12/22(木) 18:39:47.17ID:ZeKlTXhl0099人間七七四年
2011/12/22(木) 19:58:02.38ID:W64Iegsa0100人間七七四年
2011/12/22(木) 20:31:22.69ID:v0i82vYG悪政と言われながらもなんのかんので、鳥居家〜保科正之の間で、中世的勢力潰して
体制を近世化してるからね。
譜代ならシステム的に統治しやすい状況にもなっていたのでしょう。
0101人間七七四年
2011/12/23(金) 12:56:24.58ID:4iKk8bBw左遷先ってのが間違ってんじゃね?
現代じゃ、東北なんて全域(それこそ東京以外全て)左遷先だろうが。
出羽はズタズタに刻まなきゃならんくらい豊かな地だったんだろ?
逆にほぼ一国丸ごとの会津が、どれだけ貧しい国だったんだろと思った。
0102人間七七四年
2011/12/23(金) 13:12:45.30ID:4OzMeUBM「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だからって元長が出てくれることになった
そんなわけで私はこっちに残るので、もうずいぶん会ってないことだし、
おまえが訪ねてみようと思い立ってくれればいいなと思っています
馬とか人手のことは心配しなくていいぞ
迎えをやらせるから、必要なものを教えてくれ
ここ(隠居館)には初めて来ることになるんだな
早く来てくれればどんなにどんなに嬉しいだろう!
まあちょっと考えて、すぐ返事をください
待ってます
5月4日 もと春
七尾 五もじへ
重ね重ね、なるべくすぐ返事をするように
そちら(益田家)の出陣に差し障りが出ないように、いろいろ相談しよう」
婿君も留守になるし、お父さんはお休みだから新しい家に遊びにおいで、ってことらしい
鬼吉川で猛将の元春も、父としては現代のそこらのおっさんと何ら変わりはないようで
嫁いだ娘への溢れんばかりの愛情がひしひしと伝わってくる
でもこのおっさん、この一年と半年後には会いたくても会えないところに逝ってしまうんである
親元離れてる人は、たまには顔見せに帰ってやれよ!
もうすぐ正月だし、帰省する人はめいっぱい親孝行してこいよ!
0103人間七七四年
2011/12/23(金) 14:42:52.97ID:gmuiD/5F甲斐武田家のような例も多々あるし、
うまく行ってる家族もあれば、
うまく行かない家族もあるのは現代と同じだな
0105人間七七四年
2011/12/23(金) 17:54:59.99ID:days4KtP0106人間七七四年
2011/12/23(金) 19:10:55.89ID:k4Top3bJ0107人間七七四年
2011/12/23(金) 20:01:16.23ID:days4KtP0108人間七七四年
2011/12/23(金) 21:39:56.50ID:B4z754AOこういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?
0109人間七七四年
2011/12/23(金) 21:59:09.99ID:CHM1Kl4eそういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな
0110人間七七四年
2011/12/23(金) 22:07:31.89ID:oQoX1Z5W0111人間七七四年
2011/12/23(金) 22:08:35.09ID:6B9gwRF7娘宛だし、公文書じゃないし、気楽に書いた結果じゃ?
女性宛の書状って、かなまじりが多いし
0112人間七七四年
2011/12/23(金) 22:46:35.75ID:JlrIWAiJ0113人間七七四年
2011/12/23(金) 22:50:02.42ID:4OzMeUBM宛名とか差出人名がユルユルになってる印象がある
元就の「もと就」って署名の書状も多いし、隆元も隆景宛で「景へ、もとより」とか、
輝元の吉川広家宛なんて「ひろ家へ、てる元」「ヒイへ、(花押のみ)」とかw
場合によっては本文も、かな文字の含有量が多いときがあるけど、気が緩んだのかな?
0114人間七七四年
2011/12/23(金) 23:06:45.28ID:HJ8lQWr+なんでも、この像を持って現世・当来のことを祈るにその験あらずということ無しというのだ。
置塩城主・赤松則房も「奇なり」とし、則房の奉行人・鳥居安芸守や大路伊賀守によって保護され、寺は大いに栄えたが、赤松氏が阿波に移転すると檀家も減少し、ついには無縁の地となってしまった。
やがて寺は置塩から姫路に移され、河間(こはざま)と言う所に仮の茅舎を結ったのだが、隣家の失火で民家はことごとく焼失、寺も巻き込まれて経典も宝物も全て灰燼となってしまう。
住持の日受はこれを悲しみ嘆いていたが、一両日後に焼け跡から人の声が聞こえるので近付いてみると、聖像が一樹の梢に座しているではないか!
これには万人、感嘆せぬものは無かった。
慶長年中、池田輝政によって寺は現在の場所に移される。
聖像の奇妙を聞いた輝政の令室はこの寺に祈願を修せしめ、毎年佳節ごとに修法の巻数を奉ったためかこの寺にはとにかく奇瑞が多いのだ。
ある時、盗人が寺に侵入した際なども、聖像は声を発し、賊はたちまち逃げ去ったという。
(播磨鑑)
0115人間七七四年
2011/12/23(金) 23:55:53.25ID:w2HOH5sO仏像だけは無事(笑)
善くも悪くも日蓮宗らしくて、いい話だな
0116人間七七四年
2011/12/24(土) 09:39:20.30ID:RE9w6gXM藤堂高虎は、侍臣に語った。
・・・人、あるいはその妻に馴染めないのは、
特に人情と道理に欠けている。
妻は夫に身を委ねて、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても
連れ添って離れないものである。
人情と道理の重きこと、これに過ぎるものはない。
それをも疎んずるほどの者は極めて不人情であり、
頼みとするに足らない。
心得なければならないことである。(聿修録)
聖夜だしね。
愛があれば、たとえ・・・
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