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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0020人間七七四年2011/12/17(土) 03:02:46.24ID:yoM7saFv
>>19
刺青は火消し、職人などの所謂、『工』の文化でしょうね。
侠客はどこに当たる存在だったのかはわからないが、
武家で刺青は聞いたことない
0021人間七七四年2011/12/17(土) 03:32:20.07ID:NFXBvnDA
金さん・・・
0022人間七七四年2011/12/17(土) 04:48:05.83ID:4dV/u4oN
戦国時代の刺青って史料が極端に少ないんだっけ?
倭寇が刺青してたとか、薩摩兵が腕に名前と年とを彫り込んでだとか
それくらいしか聞いたことない
0023人間七七四年2011/12/17(土) 07:02:03.23ID:RgxO7CrL
罪人に刺青は江戸から?
0024人間七七四年2011/12/17(土) 07:30:48.51ID:BbOhQ+RB
>>22
年って毎年変わるでしょ
毎年彫り直してたのか?
0025人間七七四年2011/12/17(土) 09:29:52.36ID:hSTfvYgA
毎年、正の字に棒を加えていったんだよ!!!!
ってか、生年を彫ってたんじゃね?
0026人間七七四年2011/12/17(土) 10:20:04.13ID:ZoC3icEv
火消しが刺青してたのは現場で顔が判らない死に方したときに個別認識できるようにするためとかまとめコメにあった気がする(見つけられなかった
0027人間七七四年2011/12/17(土) 10:53:35.34ID:bTX/X0fJ
>>23
江戸時代よりは前。
罪人にその印として入れ墨をするのは中国由来じゃなかったかな?
聖徳太子の頃には有ったような
0028人間七七四年2011/12/17(土) 11:08:57.77ID:W1n1x8Ip
中国だと有名どころは孫ピンとか黥布あたりか

あと忘れたけど中国の史書で倭人の説明で刺青してるとかっての無かったっけ?
このころのは呪術的な意味合いが強かったんだろうけど
0029人間七七四年2011/12/17(土) 11:12:35.56ID:bjAXG92K
つ「魏志倭人伝」

男子無大小、皆黥面文身。

あと、「魏略」には
自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

倭人は呉の太伯(刺青をしたと言われる)の子孫を称して、水中の怪物の害を避けるために刺青を彫ったとか
0030人間七七四年2011/12/17(土) 12:08:10.02ID:yoM7saFv
Wiki読んでみたけど、
幕末ころになると武士のなかにも町人からの影響で、
刺青を彫る者が出てきたみたいで、
小見川藩の内田正容は一万石の大名ながら刺青していて、
幕府から隠居を命じられたとある。
遠山景元(金さんモデル)は若い頃に放蕩生活(家庭環境が複雑だったらしい)していたようで、
その時期に侠客と交わりがあって桜吹雪を入れたとする説があるらしい
0031人間七七四年2011/12/17(土) 13:02:16.98ID:VbQPlDfX
しゃれこうべだか女の生首じゃなかったっけ?
0032人間七七四年2011/12/17(土) 13:27:01.31ID:xw8JMQTF
薩摩兵なら首級の数に応じて×マーク彫っててもおかしく無いな
しかし歳はともかく名前とか変わったらどうすんだろ
あと名前に一と正の字が使われてる奴はややこしくなるな
0033人間七七四年2011/12/17(土) 13:30:36.13ID:bjAXG92K
昔トリビアの泉で、江戸時代の数え方は「正」じゃなくて「玉」だったとか
一→ニ→三→王→玉
0034人間七七四年2011/12/17(土) 13:41:56.11ID:6mOja9IW
さらっと調べてみたら、薩摩の刺青は陰徳太平記の話みたいね
ネットから引っ張ってきたので恐縮なんだが

天正15年4月16日、豊臣秀長が三原弾正忠らが立てこもる高城を攻めた
薩摩勢は島津歳久の子三郎兵衛忠親で迎え撃ったが敗北

『島津勢先陣の内島津歳久の子三郎兵衞忠親を始めとして、五百餘り計たれけるに
皆二の腕に何氏何某、行年何十歳、何月何日討死と黙して在りけるとかや』
ttp://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/8767/1/irezumi26.pdf

豊臣軍が攻めてきて、決死を覚悟して名前と歳と討ち死にの日を彫った――ってニュアンスみたいね
陰徳太平記だから後世の潤色の可能性も高いけど
とりあえず、薩摩隼人マジ戦闘民族
0035人間七七四年2011/12/17(土) 13:51:48.35ID:6mOja9IW
あ、ミス
× 何月何日討死と黙して在りけるとかや
○ 何月何日討死と黥(げい)して在りけるとかや
0036人間七七四年2011/12/17(土) 16:27:38.75ID:RgxO7CrL
九州武士は島津に限らず末期の大友もマジキチレベルだからなぁ、特に奥方達
降伏して酒宴で油断させて伏兵と追撃とか
息子の憂いを断つために赤子を殺して自宅に火をつけたり
0037人間七七四年2011/12/17(土) 17:17:12.01ID:yoM7saFv
海外からの攻撃が一番直撃してきた地域というのも、
九州武士の気質に影響しているのかな?
0038人間七七四年2011/12/17(土) 17:18:16.04ID:yoM7saFv
>>31
桜吹雪、骸骨、女の生首と諸説あるみたいだよ
0039人間七七四年2011/12/17(土) 18:04:18.46ID:bXQeE/oo
九州武士でも日向は殺魔にボコボコにされて大友に燃やされるイメージしかないな
あと完全に空気な肥前有馬
0040人間七七四年2011/12/17(土) 19:26:54.38ID:8o5xeSA2
妙林尼と甲斐宗運か
0041人間七七四年2011/12/17(土) 20:12:25.05ID:ST1/3qCL
ところでクリンゴンと薩摩の人間どっちが凶暴なの?w
0042人間七七四年2011/12/17(土) 20:17:24.44ID:Sna30vY+
肥後も冴えないよな
鎌倉以来の雄菊池は滅ぶし
阿蘇・相良も二流
0043人間七七四年2011/12/17(土) 20:34:37.74ID:yoM7saFv
今じゃ九州は任侠の国だけどな
0044人間七七四年2011/12/17(土) 20:35:05.59ID:3DFjjHzu
九州でも、北と南を一緒にしちゃいけない
別世界だよ
0045人間七七四年2011/12/17(土) 21:01:03.33ID:6W52XKEv
>>42
阿蘇は諏訪みたいな神官だし、領土欲みたいなのはガツガツしてなかったかなと。
0046人間七七四年2011/12/17(土) 21:11:23.22ID:ZoC3icEv
>>45
菊池潰したの阿蘇氏じゃなかった?
0047人間七七四年2011/12/17(土) 21:20:19.46ID:xnDSckZN
>>39
有馬氏は、お家存亡をかけた沖田畷の戦いにおける奮闘が
島津家久の存在感でかすんでるのが痛いなぁ
前線に鉄砲隊を並べてクマー軍団をよく防いでいたんだが
0048人間七七四年2011/12/17(土) 21:35:39.80ID:NFXBvnDA
>>44
北は朝鮮とつながり、
南は沖縄と繋がってると
0049人間七七四年2011/12/17(土) 22:20:39.83ID:o8iYRa5p
戦国九州人ってこういう↓イメージしかない

      ./       ;ヽ
      l  _,,,,,,,,_,;;;;i 
      l l''|~___;;、_y__ lミ;l 
      ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 
     ,r''i ヽ, '~rーj`c=/
   ,/  ヽ  ヽ`ー"/:: `ヽ
  /     ゙ヽ   ̄、:::::  ゙l, ホント 戦場は地獄タイ(バイ・ゴワス.etc)! フゥハハハーハァー
 |;/"⌒ヽ,  \  ヽ:   _l_        ri                   ri
 l l    ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| |                   / |
 ゙l゙l,     l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
 | ヽ     ヽ   _|_  _       "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ
 /"ヽ     'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄  [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`"
/  ヽ    ー──''''''""(;;)   `゙,j"  |  | |
0050人間七七四年2011/12/17(土) 22:42:22.68ID:3DFjjHzu
戦国時代はみんな過酷だと思うけど
九州はなんか異色みたい…なんでだろう 風土の差?
0051人間七七四年2011/12/17(土) 22:49:55.33ID:W1n1x8Ip
残ってる軍記物とかのせいってのが大きいんだろうけど地理的なこともあるのかな
なんか合戦の雰囲気なんかに大陸の匂いを感じる
0052人間七七四年2011/12/17(土) 23:03:36.50ID:PDPudzYh
地理的に独自の風土は形成されやすいかも。
武の地関東、上方関西からも遠いんだよなw
航空技術が発展するまでは、
文化の受入、外敵の侵入どちらにしても玄関口だったから。
古くは支那、新羅、元にいつも警戒していなければならないし、
戦国時代にはキリシタン大名のメッカみたいなとこあるし、
保守的な精神と急進的な精神がごちゃ混ぜな土地柄かもしれんw
0053人間七七四年2011/12/17(土) 23:06:21.79ID:s92pEdYn
逆言うと、大陸や南方から新しい文物が入ってくるし、大陸に略奪に行くことも交易に行くこともできるってのもあるよね
0054人間七七四年2011/12/18(日) 00:10:00.01ID:0ugJX/PS
>>47
島津に泣きついて助けてもらったのに
秀吉が来たらさっと手のひら返しした有馬さん
武功を誇るならその寝返り振りもセットで誇らないとねw
0055人間七七四年2011/12/18(日) 00:20:11.18ID:IEnHNs4V
有馬と言えば大村や松浦や後藤やあのあたりとごたごたしていたイメージが
0056人間七七四年2011/12/18(日) 00:56:12.19ID:BVsUVmYi
有馬記念の有馬って、九州の有馬でしたかな?
0057人間七七四年2011/12/18(日) 01:02:16.67ID:VVd1dmAb
レースの開催開始時に、当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場で大レースを
と計画したから。
0058人間七七四年2011/12/18(日) 01:18:48.47ID:k9rUVC8i
久留米藩の殿様の家の当主だから九州の有馬ではあるけど、
摂津有馬氏であって肥前の有馬氏とは別系統なのね
0059人間七七四年2011/12/18(日) 03:21:33.89ID:7NMiqQFQ
本多正純「まったく有馬は…」
0060人間七七四年2011/12/18(日) 04:07:48.20ID:ev9ggljb
競馬とはぜんぜん関係有馬せん

なんちゃってw
0061人間七七四年2011/12/18(日) 04:30:53.24ID:gtSpx03W
>>60
【審議チュウ】
          チュウ
         +  ゚  ・ +
          ゚∧,,∧∧  ゚
  チュウ      (* ゚(   )       チュウ
.+  ゚  ・ +  l っと  ヽ  .+  ゚  ・ +
  ゚∧_ ∧∧  ゚ と__(__(^)(^)   ∧∧ _∧
  (*´・(   )            (   )・`*)
   l っと  ヽ           /   つと l
   と__(__(^)(^)          (^)(^)_)_つ
0062人間七七四年2011/12/18(日) 07:10:40.57ID:MDViqKTs
九州の名護屋城の布陣とかそうそうなもんだなぁ。
唐入りの絵図とか資料とかもっとあったらいいのに。
海外遠征とか初めてだろうし、違う民族の武将農民風景とかいろいろ。
0063人間七七四年2011/12/18(日) 10:44:50.20ID:h4Xplwk8
>>54
表裏比興「どこの家もやってんだから誇ることでもないだろう、常識的に考えて(AA略」
0064人間七七四年2011/12/18(日) 11:47:04.20ID:SJOs6g/J
>>54
それ真田昌幸レベルが評価基準だから
有馬さんは凡骨
0065人間七七四年2011/12/18(日) 12:11:04.77ID:0PMtCUPn
簡単そうなことを難なくこなすのが肝心だって
えーと名前忘れたけど戦国時代の偉人が言ってた
0066人間七七四年2011/12/18(日) 15:14:10.63ID:BVq1zqgy
>>46
大友
0067人間七七四年2011/12/18(日) 15:53:40.71ID:2PhTy4Yv
主君、宇喜多秀家の怒りをかって殺されそうになった花房助兵衛職之は、
家康の仲裁でお預けとなった佐竹義宣の領地から、友人に手紙を送った。

「このあいだ御状をいただきましたが、片便につきお知らせが遅くなってしまいました。
 拙者は思いがけずこちら(常陸)に罷り下り、遠国に住むことになりました。
 罷り退くことになった事の次第はきっとお聞き及びでしょう。
 これ以上生きても仕方のない身ではありますが、是非もありません。
 しかしながら、上様が御慈悲で少々堪忍料を仰せ付けられ、かたじけなき次第です。
 
 ああ、今一度お目にかかりたい!(哀々今一度懸御目度念願迄候)
 御事が親しい仲と思し召されてご連絡をくださったのは本当にありがたい。
 できたら、隆景様にお取り成しをお頼みしたいと思っております。
 
 道三(曲直瀬玄朔、秀次事件で連座して佐竹に預けられた)もこちらに逗留しています。
 拙者が居住しているのはいかにも人通りの絶えた山中ですので、
 折につけ道三と行き来して、寂しく語り合っています。どうかお察しください。
 せがれ(職則)も連れてきており、一緒にいます。ご承知おきを。
 それではまた。恐惶謹言
 
  広家様へ      花房助兵衛尉入道 道恵より」(吉川家文書)

秀吉に悪態をつき、秀家に果敢に諫言し、後には家康にも噛み付いた助兵衛さんだって
虚しかったり人恋しかったり友への懐かしさに胸震わせることもあるんだね。
0068人間七七四年2011/12/18(日) 16:24:06.14ID:2PhTy4Yv
>>67の余談ですが。
助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。
0069人間七七四年2011/12/18(日) 16:48:56.73ID:23WqZsF8
>67
また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ
0070人間七七四年2011/12/18(日) 16:55:18.81ID:PyQIR91i
>>69
珍しくないよ
口に出して呼ぶのは憚られるが
書状ならOKって感覚なのかな
0071人間七七四年2011/12/18(日) 18:52:12.47ID:7NMiqQFQ
諱って文書や書類用の呼び名なん?
0072人間七七四年2011/12/18(日) 19:50:43.33ID:xGSQNhVv
書状に諱を使うのは、現代でいう欧米でファーストネームを呼ぶような、親しみを込めた表現。
当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。

書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。
0073人間七七四年2011/12/18(日) 20:16:03.81ID:8efod3Ub
広家って吉川広家の事か
>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?
0074人間七七四年2011/12/19(月) 01:34:57.70ID:hDBjMLA8
鎌倉に浄土宗『大長寺』というお寺があるが、この寺の名前は元々『大頂寺』と言う
というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である

家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている

ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある

また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという
0075人間七七四年2011/12/19(月) 07:43:11.37ID:k3dqj9lD
>>66
阿蘇氏が先に菊池乗っ取ってなかった?(大友はそれをさらにのっとった
0076人間七七四年2011/12/19(月) 13:09:08.77ID:NlzABSxd
能運が正嫡なしに二十歳ちょっとで戦傷のせいで1505年に死去したから菊池の嫡流は断絶したからなあ。
大友、相良、阿蘇の三氏が小川町の守山で会談した結果らしい(菊池政隆がいたが追っ払われた)>阿蘇惟長(菊池武経)の菊池相続
で、惟長相続に賛成した菊池家臣の面子が大友義長の次男を推戴するって起誓文を作成してたらしいね。
菊池の家督に旨みが無いのを悟り、ブチ切れて阿蘇に帰った惟長の後に大友がショートリリーフとして菊池武包を起用した後の大友義長次男にして最後の菊池家当主が菊池義武。
まあ肥後守護に欲出してみたはいいものの、実際は大友の支配下にあったのに気付いて帰ったのが阿蘇惟長だから、野心無かったってのはどうかなー?
0077人間七七四年2011/12/19(月) 21:59:28.54ID:/vH8vLEp
政宗景勝輝元あたりは他家の書状に諱でほいほい登場するけど
親しみやすかった…のか?
0078人間七七四年2011/12/19(月) 22:38:32.67ID:JUi6MfnA
政宗が諱で呼ばれてると、きっと傾いてたんだなと思う
景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて
0079人間七七四年2011/12/20(火) 00:46:55.37ID:jrCuKj7t
清韓はアンコウが食べたかっただけという新説がある
国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる
0080人間七七四年2011/12/20(火) 00:49:57.34ID:mlSG59Ka
どっちにしろ、「家」と避諱してないからアウトじゃね
0081人間七七四年2011/12/20(火) 09:21:23.58ID:daJv0RXK
戦国時代にアンコウなんか食うのか?w
あんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような
0082人間七七四年2011/12/20(火) 09:37:08.84ID:Etv8ZtEY
>>81
吊るし切りをしてたかは知らんが食ってたよ
0083人間七七四年2011/12/20(火) 19:53:20.65ID:XaSiufI9
敵将を挑発するのにつかってそうだな
0084人間七七四年2011/12/21(水) 00:20:01.68ID:erYv2H5k
料理の包丁捌きは武士の嗜みの1つで、室町後期に流派が確立するんだっけ
0085人間七七四年2011/12/21(水) 01:10:55.01ID:8EWMPkW+
やっぱり、方広寺のあの事件は、鮟鱇を食べようとした清韓和尚を
南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな

豊臣家を挑発したのはオマケ
0086人間七七四年2011/12/21(水) 10:15:49.79ID:fgUdyRsF
寛永9年(1632)12月、加藤家に代わって肥後54万石を授かった細川忠利が、熊本城に入った。
20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。

「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」

「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。

清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。

「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。


再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」

「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」

『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)
0087人間七七四年2011/12/21(水) 12:03:51.03ID:vDA2dv5e
いつ三斎が嫌味を言い出すのかと思ったら、本当にいい話だった。
0088人間七七四年2011/12/21(水) 12:25:22.10ID:UH8Lun0Y
いつ生首が転がるのかと思って読んでいたら、ここはいい話スレだった。
0089人間七七四年2011/12/21(水) 12:52:14.18ID:o9uRqK/q
三歳様の逸話なのに良い話だった。
0090人間七七四年2011/12/21(水) 17:29:19.00ID:8ogI3n2d
こんなのボク達のアイドルである三斎様じゃない!!
0091人間七七四年2011/12/21(水) 17:46:17.04ID:NdIid7by
後日談がちょっと悪い話にあったりしないのかな?
0092人間七七四年2011/12/21(水) 18:27:00.20ID:fZQOQmGd
返ると植木が派手に壊されている。1首できました
0093人間七七四年2011/12/21(水) 20:22:13.25ID:Fh8iFAIu
ほう
0094人間七七四年2011/12/21(水) 21:30:51.90ID:RBb21jY2
いい話なのに反応がひどいw
0095人間七七四年2011/12/21(水) 22:08:33.50ID:K6rkdsfv
>>94
三斎様の日頃の人徳だなw
0096人間七七四年2011/12/22(木) 01:03:54.54ID:PFNl98In
前、酒田に行った時に聞いた話を

最上義光から、とある商人へのプレゼント


1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。

この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。

豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話
0097人間七七四年2011/12/22(木) 18:39:47.17ID:ZeKlTXhl
鮭ネタいらね
0098人間七七四年2011/12/22(木) 19:49:37.03ID:bRzaU7a+
>>96
元々何屋だったんだろう
何がきっかけで屋号を授けたんだ?
0099人間七七四年2011/12/22(木) 19:58:02.38ID:W64Iegsa
ところでさ、山形は左遷先ってイメージがあるけど幕府の人間にどんなのがきても大丈夫じゃね?と思えるぐらい元が安定してたのかな?
0100人間七七四年2011/12/22(木) 20:31:22.69ID:v0i82vYG
>>99
悪政と言われながらもなんのかんので、鳥居家〜保科正之の間で、中世的勢力潰して
体制を近世化してるからね。
譜代ならシステム的に統治しやすい状況にもなっていたのでしょう。
0101人間七七四年2011/12/23(金) 12:56:24.58ID:4iKk8bBw
>>99
左遷先ってのが間違ってんじゃね?
現代じゃ、東北なんて全域(それこそ東京以外全て)左遷先だろうが。
出羽はズタズタに刻まなきゃならんくらい豊かな地だったんだろ?
逆にほぼ一国丸ごとの会津が、どれだけ貧しい国だったんだろと思った。
0102人間七七四年2011/12/23(金) 13:12:45.30ID:4OzMeUBM
天正13年、吉川元春が娘(益田元祥室)に送った手紙

「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だからって元長が出てくれることになった
 そんなわけで私はこっちに残るので、もうずいぶん会ってないことだし、
 おまえが訪ねてみようと思い立ってくれればいいなと思っています
 馬とか人手のことは心配しなくていいぞ
 迎えをやらせるから、必要なものを教えてくれ
 ここ(隠居館)には初めて来ることになるんだな
 早く来てくれればどんなにどんなに嬉しいだろう!
 まあちょっと考えて、すぐ返事をください
 待ってます

  5月4日      もと春
  七尾 五もじへ

 重ね重ね、なるべくすぐ返事をするように
 そちら(益田家)の出陣に差し障りが出ないように、いろいろ相談しよう」

婿君も留守になるし、お父さんはお休みだから新しい家に遊びにおいで、ってことらしい
鬼吉川で猛将の元春も、父としては現代のそこらのおっさんと何ら変わりはないようで
嫁いだ娘への溢れんばかりの愛情がひしひしと伝わってくる

でもこのおっさん、この一年と半年後には会いたくても会えないところに逝ってしまうんである
親元離れてる人は、たまには顔見せに帰ってやれよ!
もうすぐ正月だし、帰省する人はめいっぱい親孝行してこいよ!
0103人間七七四年2011/12/23(金) 14:42:52.97ID:gmuiD/5F
戦乱の世だけに血の繋がった親子の結びつきはとても強くなりそうに思うけど、
甲斐武田家のような例も多々あるし、
うまく行ってる家族もあれば、
うまく行かない家族もあるのは現代と同じだな
0104人間七七四年2011/12/23(金) 15:39:21.27ID:zxoBPgH4
>>102
なんかじんわりと熱いものが込み上げた
いい手紙だ
0105人間七七四年2011/12/23(金) 17:54:59.99ID:days4KtP
まーくん「まったくだぜ」
0106人間七七四年2011/12/23(金) 19:10:55.89ID:k4Top3bJ
宗麟「ほんとになあ」
0107人間七七四年2011/12/23(金) 20:01:16.23ID:days4KtP
うっきー「家族は大切にするものだ」
0108人間七七四年2011/12/23(金) 21:39:56.50ID:B4z754AO
「もと春」
こういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?
0109人間七七四年2011/12/23(金) 21:59:09.99ID:CHM1Kl4e
こういう、親が子を思いながら書いてる手紙って良いよね
そういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな
0110人間七七四年2011/12/23(金) 22:07:31.89ID:oQoX1Z5W
作左「戦場で家族に手紙書くなんて、腑抜けたヤツめ」
0111人間七七四年2011/12/23(金) 22:08:35.09ID:6B9gwRF7
>108
娘宛だし、公文書じゃないし、気楽に書いた結果じゃ?
女性宛の書状って、かなまじりが多いし
0112人間七七四年2011/12/23(金) 22:46:35.75ID:JlrIWAiJ
そういえば、ネカマの元祖は紀貫之って言うしなw
0113人間七七四年2011/12/23(金) 22:50:02.42ID:4OzMeUBM
まだ毛利家関連しか読んでないけど、男性宛でも家族宛や仲のいい家臣宛の書状は
宛名とか差出人名がユルユルになってる印象がある
元就の「もと就」って署名の書状も多いし、隆元も隆景宛で「景へ、もとより」とか、
輝元の吉川広家宛なんて「ひろ家へ、てる元」「ヒイへ、(花押のみ)」とかw
場合によっては本文も、かな文字の含有量が多いときがあるけど、気が緩んだのかな?
0114人間七七四年2011/12/23(金) 23:06:45.28ID:HJ8lQWr+
置塩の妙国寺に、霊験あらたかな日蓮像が一人の苦行の者によってもたらされた。
なんでも、この像を持って現世・当来のことを祈るにその験あらずということ無しというのだ。
置塩城主・赤松則房も「奇なり」とし、則房の奉行人・鳥居安芸守や大路伊賀守によって保護され、寺は大いに栄えたが、赤松氏が阿波に移転すると檀家も減少し、ついには無縁の地となってしまった。

やがて寺は置塩から姫路に移され、河間(こはざま)と言う所に仮の茅舎を結ったのだが、隣家の失火で民家はことごとく焼失、寺も巻き込まれて経典も宝物も全て灰燼となってしまう。
住持の日受はこれを悲しみ嘆いていたが、一両日後に焼け跡から人の声が聞こえるので近付いてみると、聖像が一樹の梢に座しているではないか!
これには万人、感嘆せぬものは無かった。

慶長年中、池田輝政によって寺は現在の場所に移される。
聖像の奇妙を聞いた輝政の令室はこの寺に祈願を修せしめ、毎年佳節ごとに修法の巻数を奉ったためかこの寺にはとにかく奇瑞が多いのだ。
ある時、盗人が寺に侵入した際なども、聖像は声を発し、賊はたちまち逃げ去ったという。
(播磨鑑)
0115人間七七四年2011/12/23(金) 23:55:53.25ID:w2HOH5sO
寺は廃寺、民家は火事、泥棒は逃走しても、
仏像だけは無事(笑)

善くも悪くも日蓮宗らしくて、いい話だな
0116人間七七四年2011/12/24(土) 09:39:20.30ID:RE9w6gXM
夢見る高虎


藤堂高虎は、侍臣に語った。

・・・人、あるいはその妻に馴染めないのは、
特に人情と道理に欠けている。
妻は夫に身を委ねて、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても
連れ添って離れないものである。
人情と道理の重きこと、これに過ぎるものはない。

それをも疎んずるほどの者は極めて不人情であり、
頼みとするに足らない。
心得なければならないことである。(聿修録)


聖夜だしね。
愛があれば、たとえ・・・
0117人間七七四年2011/12/24(土) 12:41:31.57ID:fkjhNVRf
>>113
輝元だったら呑み過ぎて、手元が怪しくなってるのかもw
0118人間七七四年2011/12/24(土) 13:06:51.93ID:zOZUwXu3
>>116
高虎は現実的な話してるだろ
なんで題名が「夢みる高虎」?
0119人間七七四年2011/12/24(土) 13:49:53.76ID:BiM97kaq
>>118
理想論だからじゃね?
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