戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0128人間七七四年
2011/12/24(土) 18:55:05.06ID:KUt25q55地味な緑よりこのワシじゃ!」
直家「・・・・・・・・・・。殺るか。」
0129人間七七四年
2011/12/24(土) 18:59:11.73ID:U/N6RtH0それはそうと調べたら緑弾正という人物が長宗我部元親と戦った武将でいたそうな
0130人間七七四年
2011/12/24(土) 19:29:31.41ID:Yl6f52RA0131人間七七四年
2011/12/24(土) 20:04:45.43ID:rIXlvlUm松永久秀とクリスマス休戦は何も関係ない
当時の松永配下のキリシタンの国人が行ったのであって
松永=クリスマス休戦は尾ひれも良い所
松永久秀だからって本当は関係ないのに何でも結びつけるのは間違いだぞ。
これは松永以外の事でも言えるけど
0133人間七七四年
2011/12/24(土) 20:16:57.80ID:Sk23NQyx0134人間七七四年
2011/12/24(土) 21:20:35.49ID:IhOayrgk0135人間七七四年
2011/12/24(土) 22:56:30.18ID:71+Rm/no黄色、桃色、銀色とか思いつかないな・・・
地黄八幡は反則?
とか思ったら「北条五色備」がいたことに気付いた
0136人間七七四年
2011/12/24(土) 23:00:18.83ID:WJGz5thdまとめサイトでは仙桃院とか、織田信秀(戒名が萬松寺殿桃巌道見大禅定門)とか上がってた
261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 03:36:31.30 ID:oig6DICa
>>260じゃあ適当に
黒田官兵衛「黒田ブラック」
赤井直正「赤井レッド」
地黄八幡「北条イエロー」
白鳥長久「白鳥ホワイト」
森長可「森ピーチ」
0137人間七七四年
2011/12/24(土) 23:26:19.75ID:B4Hp9N1r0138人間七七四年
2011/12/25(日) 02:55:48.79ID:fSAjlyieシルバーよしかね
0139人間七七四年
2011/12/25(日) 17:26:44.03ID:J0wjrkZB元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。
その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちはとりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。
その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。
「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって治められておった。
広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。
さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で乗り切ることもできた。
このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」
「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。
早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。
後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。
また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。
なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、
赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、
城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。
大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。
0140人間七七四年
2011/12/25(日) 19:04:54.50ID:ptZR+4GR0141人間七七四年
2011/12/25(日) 20:26:51.40ID:4Mny2YgAおのれ亀井茲矩め
和尚さんGJ
0142人間七七四年
2011/12/25(日) 20:28:17.68ID:ekVvFgtH0143人間七七四年
2011/12/25(日) 21:45:14.33ID:J0wjrkZB「私たちは今でも、赤松さんに治めてもらったことを誇りに思ってるんです。」
という言葉が忘れられません。
0144人間七七四年
2011/12/25(日) 23:10:56.56ID:2LzmoaPT0145人間七七四年
2011/12/26(月) 03:54:43.43ID:71kzmdJL亀井さんが地元の殿様だったから
0146人間七七四年
2011/12/26(月) 07:57:58.18ID:d2WqDJyr竹田小学校校歌(1番)だって。
「虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代」
0147人間七七四年
2011/12/26(月) 08:05:29.24ID:Z+T6d6Py0148人間七七四年
2011/12/26(月) 09:20:59.43ID:nCx9g6Lh意味が無いどころか逃げ出して将来の収入増の可能性を無くすので害になる
3年かどうかは知らないが状況に応じてある程度の期間減免はありうる
0149人間七七四年
2011/12/26(月) 10:48:05.39ID:wEUFfWEOさすがに領国全域での全面免除はそうないと思うが
0150人間七七四年
2011/12/26(月) 11:30:15.96ID:8KH1fnb3やっぱ校歌はこういうのがいいよな土地に根ざしてような
おれは新設校の薄っぺらい校歌だったからあほくさかった
大人になって歌詞読んで色々感じられるのがいい
0151人間七七四年
2011/12/26(月) 12:41:28.78ID:azna+/Pd非常に優秀な統治をしていたんだろう。
0152人間七七四年
2011/12/26(月) 16:52:33.19ID:YOViG9M4巷はやれ伊達だ真田だ言ってるけどやっぱりこういう人達が評価されてほしいな・・。
0153人間七七四年
2011/12/26(月) 16:55:32.89ID:YOViG9M4決して隻眼や具体的に何したか分からん人をけなしたわけではないのであしからず・・。
森さんについては否定しません。
0154人間七七四年
2011/12/26(月) 22:37:58.62ID:oagGq/Hn0155人間七七四年
2011/12/27(火) 00:05:55.92ID:q1XTyam50156人間七七四年
2011/12/27(火) 08:53:01.28ID:VpQ0F4Q2あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
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愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
0158人間七七四年
2011/12/27(火) 13:12:26.91ID:4VVXyXjS父親信虎はなぜか長男信晴(信玄)を疎んじ、
信繁を殊の外可愛がり、家督は信繁に譲りたい、とまで言いだすようになる。
こうなると家臣団も晴信派、信繁派に分かれ武田家の行く末も危ういものと思われた。
しかしこんな中、信繁は信虎から珍しい玩具をプレゼントされた時でも、
「これは兄上様のものです」
と、晴信に届けていたという。
長幼の序を守ると同時に、父に疎んじられる兄を哀れむ仁の心情も多いにあったと思われる。
仁なき忠義は心なき礼儀作法であるが、
信繁には形式化したところはなく真心からの礼儀作法であった。
後、信繁が成人した後、自ら直属の家臣たちに言った。
「信玄様は兄ではない。甲斐武田家当主だ。
間違っても我ら信繁家臣団の者たちは、
信玄様の弟直属の家臣団などと誇ってはならぬ。」
と諭し、
有名な99箇条の家訓の第一にも兄信玄への忠義をあげていることは今に伝わる通りである
0159人間七七四年
2011/12/27(火) 13:16:29.90ID:4VVXyXjS訂正します
父親信虎はなぜか長男晴信(信玄)を疎んじ
0160人間七七四年
2011/12/27(火) 14:02:26.74ID:3dub6oDn信繁が家督を継いでいたら武田家の滅亡は無かったような気がする。
0161人間七七四年
2011/12/27(火) 16:13:58.02ID:tYipOkiR0162人間七七四年
2011/12/27(火) 17:21:39.00ID:7SKW+ANu甲斐の国の貧困を考えたら、誰か家督を継いでも同じ。
というか、信玄だから家康ボコボコにして、信長に本気出させようとする事も出来た。
0163人間七七四年
2011/12/27(火) 18:02:03.20ID:+XVPbf3Y0164人間七七四年
2011/12/27(火) 18:23:51.73ID:aHtAteDc0165人間七七四年
2011/12/27(火) 19:30:11.01ID:7SzPRQKk0166人間七七四年
2011/12/27(火) 19:48:42.10ID:2Phlz4nt0167人間七七四年
2011/12/27(火) 20:03:56.25ID:4VVXyXjS「能力的に兄上にはかなわない」
と言っていたと童門冬二の本にあったよ。
ただ歴史にifはないけど、信玄亡き後に信繁いたら、
武田家の分裂をどうにか対処していた気もするな。
信濃は信繁亡き後、反乱が発生するようになった話もあるし
0168人間七七四年
2011/12/27(火) 20:18:02.37ID:3j7hy7ZC親父だって追い出されたわけだし、兄も苦労した
0169人間七七四年
2011/12/27(火) 20:36:29.48ID:4VVXyXjSどう考えてもただの優等生ではないでしょ
信濃はうまく統治していたようだし、
戦場でも勇敢な話が伝わってる
0170人間七七四年
2011/12/27(火) 21:05:36.07ID:JblkKiXt優等生って言い方が悪ければアクの強さがないって感じかなw
有能であることは確かだと思う
まぁ、敢えて目立たないようにしてたのかもしれないけどね〜
0171人間七七四年
2011/12/27(火) 23:25:32.17ID:VVj4cljf0172人間七七四年
2011/12/27(火) 23:32:15.95ID:AGDGBLr/0173人間七七四年
2011/12/27(火) 23:39:43.03ID:Axa0Gn+00174人間七七四年
2011/12/28(水) 00:47:07.68ID:slXoE7q/0175人間七七四年
2011/12/28(水) 07:07:43.02ID:wlwSe0TW0176人間七七四年
2011/12/28(水) 07:15:34.50ID:G5ztUR24敵国諏訪の姫との子だった勝頼にも家中従順だったんじゃないだろうか。
てか信玄は優秀だけどなんだかなぁ。
村上義清や謙信に板垣甘利テンキュー勘助と多くの将失いすぎだろ・・。
駿府に執着するあまり後継者として認知されてた義信と飫富を失ってるし。
信玄だからこそ武田が滅亡したとも言える。
0177人間七七四年
2011/12/28(水) 07:55:19.14ID:uWhTuyD7優秀でしかも特殊な性格じゃないと戦国で台頭するのは難しいのかなあ。
信長や信玄や謙信や政宗とか。
北条みたいに優秀でしかもまともな人間って結局パッとしないし。
0178人間七七四年
2011/12/28(水) 09:01:47.40ID:qFyiZKB8ギャグ?
0179人間七七四年
2011/12/28(水) 09:30:50.47ID:uWhTuyD7法や町の整備、検地もしっかりしていたし、一族や家臣もまとまっていた。
加えて城は難攻不落だし、他国との外交においても下手を打つ事もなく
関東一円では最大の勢力を誇っていた。
優秀でまともと言えるのではないだろうか。
0180人間七七四年
2011/12/28(水) 09:52:16.94ID:lC5apNjG北条がもうちょっと粘って一族助命、相模伊豆の条件で和議結んでいたら、とかは
想像するのが面白い。
0181人間七七四年
2011/12/28(水) 11:03:01.84ID:/D0IQFV9そこへ兜を付けず、具足は黒、鹿毛の馬に乗り、金の才槌の指物を指した武者が向かってきた
家康本隊の先手衆は彼は先発した大名の使番と考え、特に心にも留めずにそのまま通した
その時の家康は駕籠に乗っていたが、二〇間(約36m)先に金の才槌がキラリと光るのを見て、
「あの指物の持ち主を改めよ」
と命じ、改めるとその武者が落人であることが判明し、その場で打ち捨てられた
おそらく家康は東軍全ての使番の指物を把握していたのであろう
家康の記憶力はこれまで何度も話題に登ったがこれも一つの例と言える
0182人間七七四年
2011/12/28(水) 11:12:44.09ID:ns5/rhHp0183人間七七四年
2011/12/28(水) 11:48:55.04ID:w54SnRVL一行目から四行目までは、優秀であることの根拠にはなるけど
人格がまともかどうかの証明にはならんだろ?
0184人間七七四年
2011/12/28(水) 12:05:06.69ID:pfUGMORd0185人間七七四年
2011/12/28(水) 12:15:20.88ID:hCXeXDtpそういう逸話がない=まともである
と言えない事もない
0186人間七七四年
2011/12/28(水) 12:21:57.15ID:OiC/YMMG0187人間七七四年
2011/12/28(水) 12:41:47.56ID:Mws3pA6+家康もだけど、昔の人の記憶力は半端ないな
どうすればここまで記憶力持てるんだろう ぜひ教えてほしいもんだ
0188人間七七四年
2011/12/28(水) 12:44:22.56ID:NQARnlSh戦場での仕事と言えないこともないし、大事な能力だよね
0189人間七七四年
2011/12/28(水) 12:45:19.91ID:BGxqyKX50190人間七七四年
2011/12/28(水) 12:47:51.92ID:slXoE7q/0191人間七七四年
2011/12/28(水) 13:01:57.29ID:ytd0werF軍監が複数の仕事を掛け持ちしてる場合が殆どで
0192人間七七四年
2011/12/28(水) 14:26:10.51ID:slXoE7q/含まれてると解釈しても良いんでないか
軍監=派遣本部将校
0193人間七七四年
2011/12/28(水) 16:48:51.96ID:/D0IQFV90194人間七七四年
2011/12/28(水) 17:58:29.63ID:DNQM9BAk家名と旗を必死に暗記したみたいで
しかも関東の事は私不案内だからよろしく教えてくださいねとか書いてるから
一気に家臣が増えると偉い人は大変みたいだよ…
0195人間七七四年
2011/12/28(水) 18:11:12.78ID:D2JP6LRn0196人間七七四年
2011/12/28(水) 19:03:19.08ID:GgNIP+Fbこういう大将の質問に答えられる側近がいないと発展しないよな
自分たちの活躍をちゃんと評価してくれることにもつながるし
0197人間七七四年
2011/12/28(水) 19:29:58.11ID:9VRagzuP0198人間七七四年
2011/12/28(水) 19:36:36.84ID:Mws3pA6+妻の麝香に、敵方の旗指物を逐一メモさせてたんだが
これって何か逸話を元にしているのか、探してるんだけど見当たらなかった
0199人間七七四年
2011/12/29(木) 01:08:22.97ID:8e7WJC6t0200人間七七四年
2011/12/29(木) 01:32:36.98ID:Lj3MJW25利常が晩年の頃、江戸城で能が催された時に、頭巾着用が禁止されているにもかかわらず、
利常だけは頭巾を着用してやってきた。
そこで儀式担当の目付が何度も注意するも、利常聞く耳もたず。
そこでこの目付、老中松平信綱に報告したところ信綱はこれに対して、
「馬鹿者が! 左様な心得ではお目付け役は務まらぬぞ!
そもそも殿中頭巾着用が禁止となったのは、前田殿のような老人に
御許しなさるためなのだ」
と、逆に目付を叱ったそうな。
0201人間七七四年
2011/12/29(木) 04:22:53.85ID:nJNmR+rR欲をかくと身を滅ぼすけどさ
0202人間七七四年
2011/12/29(木) 06:36:51.13ID:3kpymohH戦国いい話の前に「集団ストーカー犯罪」で検索してみてください。
先祖代々の日本人なら優秀な人ほどターゲットにされる恐れがあります。
防犯のために「集団ストーカー」で検索してください。
0203人間七七四年
2011/12/29(木) 10:41:12.65ID:U5fIl2pG0205人間七七四年
2011/12/31(土) 00:36:58.28ID:H7yZ3Oub毛利某「大人に」
北条某「なるって」
島津某「ことさ」
0206人間七七四年
2011/12/31(土) 20:37:16.02ID:4odn/nQC将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(現埼玉県八潮市)行い、舎人(現東京都足立区)の御殿で宿泊することとなったが、
その頃大原と舎人の間は草野が広がり、また沼も多く、人馬が進むのに誠に困難な場所であった。
そこで秀忠は旗本の大川図書に道の補修を命じた。
大川は近隣の領民を集め草木を刈りそれをもって低湿地を埋め、千住から越ヶ谷間までを、
ほぼ一直線に結ぶ新往還道を一挙に築き上げた。
この街道の完成に秀忠は大いに喜び、
「草を以て沼を埋め、往還の心安すきこと、これ一重に草の大功なり。このところ草加といふべし」
と命じた。「(沼地に)草を加えたことによって街道となった」ということである。
これによりその地は『草加』と呼ばれるようになったという。
家康に比べて地味な秀忠ですが、彼にもこんな命名伝説があるのですw
(草加宿由来)
0207人間七七四年
2011/12/31(土) 21:00:00.08ID:pmYKcd7y0208人間七七四年
2011/12/31(土) 21:39:21.91ID:Hhi2Ygrk0209人間七七四年
2011/12/31(土) 22:19:42.04ID:ea1ytrxg0210人間七七四年
2011/12/31(土) 22:20:16.18ID:ykG7ZBvs秀忠のネーミングセンスはこういう話もあるからな
なんというか、無難?
今年は 壬申の年ですね。
戦国期の壬申は1572年で後の天下人家康公が
うんこ漏らしながら逃げ出していた頃です。
どんな年になるのか楽しみですね。
0212人間七七四年
2012/01/01(日) 12:19:10.33ID:vVqoErRi0213人間七七四年
2012/01/01(日) 12:42:49.95ID:QnFMfllv馬に乗って竹刀を持ち、近習相手に馬上太刀の稽古をしているところだった。
権左衛門が直弘に近寄り挨拶すると、直弘は特に返礼も無く「権左衛門、できるかな。」と竹刀を向けた。
大木一門は、もと蒲池氏の重臣であり、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺されると佐賀に駆けつけ、隆信を罵倒した上で
切腹しようとしたが、その心意気に感動した隆信が、さんざん慰留して家臣にしたという硬骨の家柄である。
父の家臣とは言え家中名誉の一門出身で、はるかに年長である歴戦の士に、ロクに挨拶もせず竹刀を向けた
直弘の態度は、とても褒められたものではない。
しかし権左衛門は、直弘の近習から竹刀を受け取ると、「されば、一槍つかまつる・・・やーっ!!」
未だ体勢の整わぬ直弘に駆け寄ってその脇を突き、馬から真っ逆さまに突き落とした。
何とか起き上がった直弘は、「も、もう一槍!」と言ったが、見ていた直弘の弟・直長が馬にまたがった。
「いや兄者、今度はそれがしが参りましょう。ゆくぞ権左衛門!」
ところが権左衛門は直長の突撃をスルリとかわすと、これまたその脇を突き、直長をも落馬させてしまった。
「正月早々、武者の首を二つも取り申したわ。愉快ゆかい。」権左衛門はカラカラと笑って退出した。
(葉隠より)
0214人間七七四年
2012/01/01(日) 12:48:03.73ID:rceNDkdL0216人間七七四年
2012/01/01(日) 14:28:25.98ID:lCr3bJaw(戦国ちょっといい話30より)
0218人間七七四年
2012/01/01(日) 20:12:44.15ID:0Ztm13qz信玄に仕えた加賀美正行は、長身だが痩躯、頼りない態度で何かと侮られることが多かった。
しかしモヤシっぽい見た目、堂々とはほど遠い雰囲気によらず、この正行、実はクリーチャーであった。
正行は幼いころから甲府に致仕していたが、そこで他の少年たちから執拗ないじめを受けた。
ある時ついに逆上し、額を割り、首をねじ切って残らず殺してしまった。
相手は権門の家の子たちだったので、正行の父は驚いて、我が子を遠国の寺に入れてしまった。
ようやく甲斐に戻り、信玄の前で神垣(おそらく現在の武田八幡)に騎射を奉り、それが
見事であったのでついに許された。
初陣では敵中にあって縦横に馬を馳せ、五つの兜首を取り、以後敵から夜叉次郎と恐れられた。
例えば、正行の弭槍(弓の上に刃を立て、緊急時に槍代わりにする補助武器)は非常に強く、
本物の槍を持参する必要が無かった(それほどの強弓を使っていた)。
また、祖先の加賀美遠光が建てた寺である加賀美山法善寺で、あるとき大鐘を移動するために
転がしていたところ、(坂かくぼみか何かで)いくら押しても動かなくなってしまった。
そこへ正行が押す(のに加わる?)と、鐘は難なく転がったという。
(加々美呈譜)
なおwikiによると……
『重要文化財 山梨県指定文化財 鐘楼・銅鐘……(略)
法善寺所蔵の銅鐘は、総高147.7cm、鐘身高111.3cm、口径89.1cm、撞座(つきざ)高12.0cm、
梵字外縁円径19.3cmの中世鐘で、県内では塩山向嶽寺鐘と並ぶ巨鐘である。…(略)…
鐘身には疵が多く、何らかの事情で他所から移されたものであると考えられている。』
http://www.kagamisan.com/bunkazai/kenchiku
こんなもん、ヒト一人加わったところで転がり出すようなもんじゃないだろう……。
0219人間七七四年
2012/01/01(日) 20:25:20.25ID:wsfEYtf/0220人間七七四年
2012/01/02(月) 00:29:50.25ID:LKkpUcvV0221人間七七四年
2012/01/02(月) 01:56:32.34ID:/iIKiTgO堀尾吉晴や前田玄以らにこの事を伝える使者に任じた。この時、吉晴は秀吉から
「もし秀次が出頭を拒否した時はどうするか?」
と問われ、これに吉晴は
「ご安心ください。適当に処置しましょう。」
と返答。もしもの場合は秀次と刺し違える覚悟を見せた。それまでにも自分の為に幾度も吉晴を命の危険にさらしてきた
秀吉は、この言葉を聞いて涙ぐんだという。そして秀次の元に向かう途中、吉晴は
「用事がある。」
と言って玄以らを先に行かせた。そして吉晴はなじみの店に顔を出すと、
「もし自分が帰らなければ、注文した品の代金は払えなくなるが、その時は息子の忠氏に請求するように。」
と伝えたが、最終的に秀次は吉晴たちの説得で秀吉の召喚に応じたため、最悪の事態は免れたという。
0222人間七七四年
2012/01/02(月) 03:28:18.13ID:2Q8/+7XI仕方ないよなという諦めもある
TVじゃ毎日目にするし、仕事から町内まで勧められる機会は数あるし、何よりも簡単に手に入るこの環境じゃ
しかし許せないのは父の体や事情を知りながら勧めた酒呑みの屑爺ども
結局飲んだ父の問題だが、あいつらまじで勝手に飲んで肝硬変にでもなればいい
地獄への旅路は仲間が多い方が楽しいみたいな、そんな感覚で進めてるんだよ、あいつら
でももう仕方ない
あとは常習的に飲まないよう信じるだけ
また以前のようになったらもう父を守れないし助けだせれないわ
みんな次は許してくれない
残りの余生を1人で過ごしてもらうしかない
0224人間七七四年
2012/01/02(月) 10:28:57.52ID:W1FHsA2eお父さんは酒で身を滅ぼしたけど、立派な人だったよ
0226人間七七四年
2012/01/02(月) 11:18:02.05ID:+CSbaqZfお父さんが酒飲み公家さんだし…
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