戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話29
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2011/12/12(月) 15:44:06.67ID:nkZ/zC5Mあ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
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また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
0003人間七七四年
2011/12/12(月) 19:58:47.60ID:ie6uGRP30004人間七七四年
2011/12/12(月) 20:41:01.92ID:ym+8L/Tghttp://s1.shard.jp/deer/0202/8/183_2.html
日本は、戦争から相撲・野球まで何でも八百長。
問題は、生まれた時から八百長を「正義」と教えられて大人になる多くの、
「気持ちの悪い」日本人がいることだ。
もちろん、こいつらは、天皇・徳川一族の下部組織の者たちで、
多くは、伊賀・甲賀などの多くの流派に分かれた現代版忍者部隊だ。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
0005人間七七四年
2011/12/14(水) 01:08:31.15ID:raBVvVqPを使者として友好関係にあった大名達に挙兵計画を伝えたとある。その際、計画の露見を防ぐ為に
宗安を追放したと見せかけて会津の上杉景勝のもとに派遣し、次に景勝にも追放された事にして常陸の佐竹義宣の
もとに送り込んだという。そして、佐和山に戻ってきた宗安に、かつて宗安から購入した茶器の唐来肩衝を渡し、
「これを持ち帰って、私が討ち死にしたら朝夕茶を点てて追悼して欲しい。もし私が志を遂げる事が出来た時は
また買い戻そう。」
と語ったという。 実は敗北を覚悟してたかもしれない、三成の逸話である。
どっちに書くか迷いましたがこっちに。
0006人間七七四年
2011/12/15(木) 18:37:30.70ID:LYjS0cQR三男の清水大蔵太夫義親、並びに舎弟である楯岡豊前守満茂を大将として5千の軍勢を差し向けた。
この軍、山形を出発すると月山の獄を越え、狩川を夜の間に渡り、酒田の城へと押し寄せた。
この頃酒田の城には上杉家より、川村兵蔵、志田修理と言う者が置かれていたが、最上軍の接近を聞くと
「さらば勝負を決せん!」
と、即座に城を出て最上川の岸に陣を取った。
最上軍の先陣もその対岸に進み、これを渡ろうとしたが、そこは水深も深く、音に聞こえた凄まじい急流であり、
また一町ほど下れば海になるという場所で、一向に渡るすべが見つからなかった。
暫く船を探しているところに、十町(約1q)ほど川上より、14,5艘の船団が現れた
「今度の御先駆け、下次右衛門である!!」
声高に名乗る。そう、新たに最上に臣従した、下次右衛門の部隊であった。
これに最上軍の者共大いに喜び、続々とこの船に打ち乗り、太刀を真向に差しひるがえし、喚き叫んで
攻め寄せた。
しかし敵もこの事は想定している。川村・志田は堤の上に伏せ置いていた数百丁の鉄砲を入れ替え入れ替え
射撃した。これに最上勢多数討たれ、進みかねているところに、下次右衛門の家臣、戸井半左衛門という者、
前に敵がいるとも思えぬ風情で叫んだ。
「これは何という怯えた者たちか!?ただひと揉みに、揉み崩せ!!」
これにて士卒の気色を励まし、自らは真っ先に馳せ向かうと後ろの者たちも『戸井を討たすな!』『半左衛門を討たすな!!』
と、下家の組子五百余人、喚き叫んで駆け入った!
さてこの時、大将の清水義親は未だ対岸にあった。彼は眼前の戦況を見て心騒ぐ
「私がここにいるというのに、先駆けの味方を目の前で討たせるなどあってはならない!もし水に溺れるなら
溺れても良い!なんとしてもここを渡るぞ!!」
義親は馬を最上川に乗り入れる。この大将の姿に、従う者たちも我先にと川に乗り入れ渡り始めた。
本来なら船なくして渡りがたき場所であるのに、一騎の剛気には毀れぬ物はないとはこの事であろうか、
程無く向こう岸へと駆け上がった。その姿は治承の古の、宇治川合戦での足利又太郎もこれにはいかで勝るべきか、
というほどのものであった。
ここに川村兵蔵、志田修理も、これでは多勢に無勢、もはや叶うまじと、酒田の城へ撤退したが、これに
下次右衛門は城際まで追い打ちをかけ、百余人の頚を取った。
庄内平定戦、最上川合戦についての挿話である。
(最上出羽守義光物語)
0007人間七七四年
2011/12/16(金) 01:03:18.27ID:CQPWop3i天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。
「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。
だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。
成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。
この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。
この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。
wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。
ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。
天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。
この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。
そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。
天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない
時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。
0008人間七七四年
2011/12/16(金) 11:35:15.21ID:pA2EQ9vb0009人間七七四年
2011/12/16(金) 12:15:14.17ID:00Sec9i4個人の意向としての墓参り
全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど
0010人間七七四年
2011/12/16(金) 13:27:56.43ID:Xc9z9sap0011人間七七四年
2011/12/16(金) 18:14:42.13ID:kHDjjHyUその際、昌信は織田信長を例に挙げ
「あの男は粗野だが、人の目利きは上手で有能な家臣を取り立てている。扇や鼻紙は忘れても、刀や脇差は忘れない
タイプだ。その点、行儀は良いが家臣の陶晴賢に国を乗っ取られた大内義隆は信長とは全く逆だ。」
と話した。これに真田昌幸は
「では、信長の領地の治め方はどうでしょうか?」
と尋ねると
「有能な家臣に大国を与えている為に非常に危うい。もし信長が死ねば、そうした家臣たちが長男の信忠を
破るだろう。ただ、信忠や次男の信雄も優秀であるから、信長がうまく対処しておけば問題なく国は治まるだろう。」
と語ったという。 高坂弾正の信長に対する評価がわかる逸話である。
0013人間七七四年
2011/12/16(金) 18:19:44.38ID:8hQi/I4Z0014人間七七四年
2011/12/16(金) 18:25:20.26ID:zYbBIeJ1支配の浸透という意味では非常に強力だったと評価されている。
内政という面では優秀といっても良かったんじゃないかな?
0015人間七七四年
2011/12/16(金) 18:37:00.70ID:8hQi/I4Zもしも信雄が家康の元領地を引き受けていたら、どうなっていたんだろうか
0016人間七七四年
2011/12/16(金) 18:57:30.83ID:uOu9t0Znって山名豊国さんが言ってました
0017人間七七四年
2011/12/16(金) 20:01:50.86ID:V6rUBrdy0018人間七七四年
2011/12/16(金) 22:53:44.44ID:bny6EZPJ実用以外にも装飾の目的もあったとされる
さて、「大坂冬の陣図屏風」には馬鎧が多く描かれているが、
その中には「赤地に白玉」というものがあったりする
いまで言う、「デコトラ」か「痛車」というべきこの馬
敵も近付き難かったかもしれない
0019人間七七四年
2011/12/17(土) 02:15:43.32ID:y9bEILSz武将で刺青を入れていた人はいるのかな
0020人間七七四年
2011/12/17(土) 03:02:46.24ID:yoM7saFv刺青は火消し、職人などの所謂、『工』の文化でしょうね。
侠客はどこに当たる存在だったのかはわからないが、
武家で刺青は聞いたことない
0021人間七七四年
2011/12/17(土) 03:32:20.07ID:NFXBvnDA0022人間七七四年
2011/12/17(土) 04:48:05.83ID:4dV/u4oN倭寇が刺青してたとか、薩摩兵が腕に名前と年とを彫り込んでだとか
それくらいしか聞いたことない
0023人間七七四年
2011/12/17(土) 07:02:03.23ID:RgxO7CrL0025人間七七四年
2011/12/17(土) 09:29:52.36ID:hSTfvYgAってか、生年を彫ってたんじゃね?
0026人間七七四年
2011/12/17(土) 10:20:04.13ID:ZoC3icEv■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています