戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2011/12/12(月) 15:44:06.67ID:nkZ/zC5Mあ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。
樓魔寧文へ真帆斃瑜も聾薆を禰伊れ偉ぷ武万葉其方を砂魑ね地魏とぞ廻れ倭嶺、あ蘭魔廼擢と他部釜无劣不ぞ哈密き貯寸那致䄅く釜奴辺戸は善魔慈魔梨た魃厦亜に嘉羅汰鬼戦弥踏み縷魔荼父母夛め都莉鎖圖師苑て魘巍衛恵る木歩雨他琉偉な。
愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
0003人間七七四年
2011/12/12(月) 19:58:47.60ID:ie6uGRP30004人間七七四年
2011/12/12(月) 20:41:01.92ID:ym+8L/Tghttp://s1.shard.jp/deer/0202/8/183_2.html
日本は、戦争から相撲・野球まで何でも八百長。
問題は、生まれた時から八百長を「正義」と教えられて大人になる多くの、
「気持ちの悪い」日本人がいることだ。
もちろん、こいつらは、天皇・徳川一族の下部組織の者たちで、
多くは、伊賀・甲賀などの多くの流派に分かれた現代版忍者部隊だ。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
0005人間七七四年
2011/12/14(水) 01:08:31.15ID:raBVvVqPを使者として友好関係にあった大名達に挙兵計画を伝えたとある。その際、計画の露見を防ぐ為に
宗安を追放したと見せかけて会津の上杉景勝のもとに派遣し、次に景勝にも追放された事にして常陸の佐竹義宣の
もとに送り込んだという。そして、佐和山に戻ってきた宗安に、かつて宗安から購入した茶器の唐来肩衝を渡し、
「これを持ち帰って、私が討ち死にしたら朝夕茶を点てて追悼して欲しい。もし私が志を遂げる事が出来た時は
また買い戻そう。」
と語ったという。 実は敗北を覚悟してたかもしれない、三成の逸話である。
どっちに書くか迷いましたがこっちに。
0006人間七七四年
2011/12/15(木) 18:37:30.70ID:LYjS0cQR三男の清水大蔵太夫義親、並びに舎弟である楯岡豊前守満茂を大将として5千の軍勢を差し向けた。
この軍、山形を出発すると月山の獄を越え、狩川を夜の間に渡り、酒田の城へと押し寄せた。
この頃酒田の城には上杉家より、川村兵蔵、志田修理と言う者が置かれていたが、最上軍の接近を聞くと
「さらば勝負を決せん!」
と、即座に城を出て最上川の岸に陣を取った。
最上軍の先陣もその対岸に進み、これを渡ろうとしたが、そこは水深も深く、音に聞こえた凄まじい急流であり、
また一町ほど下れば海になるという場所で、一向に渡るすべが見つからなかった。
暫く船を探しているところに、十町(約1q)ほど川上より、14,5艘の船団が現れた
「今度の御先駆け、下次右衛門である!!」
声高に名乗る。そう、新たに最上に臣従した、下次右衛門の部隊であった。
これに最上軍の者共大いに喜び、続々とこの船に打ち乗り、太刀を真向に差しひるがえし、喚き叫んで
攻め寄せた。
しかし敵もこの事は想定している。川村・志田は堤の上に伏せ置いていた数百丁の鉄砲を入れ替え入れ替え
射撃した。これに最上勢多数討たれ、進みかねているところに、下次右衛門の家臣、戸井半左衛門という者、
前に敵がいるとも思えぬ風情で叫んだ。
「これは何という怯えた者たちか!?ただひと揉みに、揉み崩せ!!」
これにて士卒の気色を励まし、自らは真っ先に馳せ向かうと後ろの者たちも『戸井を討たすな!』『半左衛門を討たすな!!』
と、下家の組子五百余人、喚き叫んで駆け入った!
さてこの時、大将の清水義親は未だ対岸にあった。彼は眼前の戦況を見て心騒ぐ
「私がここにいるというのに、先駆けの味方を目の前で討たせるなどあってはならない!もし水に溺れるなら
溺れても良い!なんとしてもここを渡るぞ!!」
義親は馬を最上川に乗り入れる。この大将の姿に、従う者たちも我先にと川に乗り入れ渡り始めた。
本来なら船なくして渡りがたき場所であるのに、一騎の剛気には毀れぬ物はないとはこの事であろうか、
程無く向こう岸へと駆け上がった。その姿は治承の古の、宇治川合戦での足利又太郎もこれにはいかで勝るべきか、
というほどのものであった。
ここに川村兵蔵、志田修理も、これでは多勢に無勢、もはや叶うまじと、酒田の城へ撤退したが、これに
下次右衛門は城際まで追い打ちをかけ、百余人の頚を取った。
庄内平定戦、最上川合戦についての挿話である。
(最上出羽守義光物語)
0007人間七七四年
2011/12/16(金) 01:03:18.27ID:CQPWop3i天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。
「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。
だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。
成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。
この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。
この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。
wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。
ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。
天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。
この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。
そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。
天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない
時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。
0008人間七七四年
2011/12/16(金) 11:35:15.21ID:pA2EQ9vb0009人間七七四年
2011/12/16(金) 12:15:14.17ID:00Sec9i4個人の意向としての墓参り
全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど
0010人間七七四年
2011/12/16(金) 13:27:56.43ID:Xc9z9sap0011人間七七四年
2011/12/16(金) 18:14:42.13ID:kHDjjHyUその際、昌信は織田信長を例に挙げ
「あの男は粗野だが、人の目利きは上手で有能な家臣を取り立てている。扇や鼻紙は忘れても、刀や脇差は忘れない
タイプだ。その点、行儀は良いが家臣の陶晴賢に国を乗っ取られた大内義隆は信長とは全く逆だ。」
と話した。これに真田昌幸は
「では、信長の領地の治め方はどうでしょうか?」
と尋ねると
「有能な家臣に大国を与えている為に非常に危うい。もし信長が死ねば、そうした家臣たちが長男の信忠を
破るだろう。ただ、信忠や次男の信雄も優秀であるから、信長がうまく対処しておけば問題なく国は治まるだろう。」
と語ったという。 高坂弾正の信長に対する評価がわかる逸話である。
0013人間七七四年
2011/12/16(金) 18:19:44.38ID:8hQi/I4Z0014人間七七四年
2011/12/16(金) 18:25:20.26ID:zYbBIeJ1支配の浸透という意味では非常に強力だったと評価されている。
内政という面では優秀といっても良かったんじゃないかな?
0015人間七七四年
2011/12/16(金) 18:37:00.70ID:8hQi/I4Zもしも信雄が家康の元領地を引き受けていたら、どうなっていたんだろうか
0016人間七七四年
2011/12/16(金) 18:57:30.83ID:uOu9t0Znって山名豊国さんが言ってました
0017人間七七四年
2011/12/16(金) 20:01:50.86ID:V6rUBrdy0018人間七七四年
2011/12/16(金) 22:53:44.44ID:bny6EZPJ実用以外にも装飾の目的もあったとされる
さて、「大坂冬の陣図屏風」には馬鎧が多く描かれているが、
その中には「赤地に白玉」というものがあったりする
いまで言う、「デコトラ」か「痛車」というべきこの馬
敵も近付き難かったかもしれない
0019人間七七四年
2011/12/17(土) 02:15:43.32ID:y9bEILSz武将で刺青を入れていた人はいるのかな
0020人間七七四年
2011/12/17(土) 03:02:46.24ID:yoM7saFv刺青は火消し、職人などの所謂、『工』の文化でしょうね。
侠客はどこに当たる存在だったのかはわからないが、
武家で刺青は聞いたことない
0021人間七七四年
2011/12/17(土) 03:32:20.07ID:NFXBvnDA0022人間七七四年
2011/12/17(土) 04:48:05.83ID:4dV/u4oN倭寇が刺青してたとか、薩摩兵が腕に名前と年とを彫り込んでだとか
それくらいしか聞いたことない
0023人間七七四年
2011/12/17(土) 07:02:03.23ID:RgxO7CrL0025人間七七四年
2011/12/17(土) 09:29:52.36ID:hSTfvYgAってか、生年を彫ってたんじゃね?
0026人間七七四年
2011/12/17(土) 10:20:04.13ID:ZoC3icEv0027人間七七四年
2011/12/17(土) 10:53:35.34ID:bTX/X0fJ江戸時代よりは前。
罪人にその印として入れ墨をするのは中国由来じゃなかったかな?
聖徳太子の頃には有ったような
0028人間七七四年
2011/12/17(土) 11:08:57.77ID:W1n1x8Ipあと忘れたけど中国の史書で倭人の説明で刺青してるとかっての無かったっけ?
このころのは呪術的な意味合いが強かったんだろうけど
0029人間七七四年
2011/12/17(土) 11:12:35.56ID:bjAXG92K男子無大小、皆黥面文身。
あと、「魏略」には
自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
倭人は呉の太伯(刺青をしたと言われる)の子孫を称して、水中の怪物の害を避けるために刺青を彫ったとか
0030人間七七四年
2011/12/17(土) 12:08:10.02ID:yoM7saFv幕末ころになると武士のなかにも町人からの影響で、
刺青を彫る者が出てきたみたいで、
小見川藩の内田正容は一万石の大名ながら刺青していて、
幕府から隠居を命じられたとある。
遠山景元(金さんモデル)は若い頃に放蕩生活(家庭環境が複雑だったらしい)していたようで、
その時期に侠客と交わりがあって桜吹雪を入れたとする説があるらしい
0031人間七七四年
2011/12/17(土) 13:02:16.98ID:VbQPlDfX0032人間七七四年
2011/12/17(土) 13:27:01.31ID:xw8JMQTFしかし歳はともかく名前とか変わったらどうすんだろ
あと名前に一と正の字が使われてる奴はややこしくなるな
0033人間七七四年
2011/12/17(土) 13:30:36.13ID:bjAXG92K一→ニ→三→王→玉
0034人間七七四年
2011/12/17(土) 13:41:56.11ID:6mOja9IWネットから引っ張ってきたので恐縮なんだが
天正15年4月16日、豊臣秀長が三原弾正忠らが立てこもる高城を攻めた
薩摩勢は島津歳久の子三郎兵衛忠親で迎え撃ったが敗北
『島津勢先陣の内島津歳久の子三郎兵衞忠親を始めとして、五百餘り計たれけるに
皆二の腕に何氏何某、行年何十歳、何月何日討死と黙して在りけるとかや』
ttp://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/8767/1/irezumi26.pdf
豊臣軍が攻めてきて、決死を覚悟して名前と歳と討ち死にの日を彫った――ってニュアンスみたいね
陰徳太平記だから後世の潤色の可能性も高いけど
とりあえず、薩摩隼人マジ戦闘民族
0035人間七七四年
2011/12/17(土) 13:51:48.35ID:6mOja9IW× 何月何日討死と黙して在りけるとかや
○ 何月何日討死と黥(げい)して在りけるとかや
0036人間七七四年
2011/12/17(土) 16:27:38.75ID:RgxO7CrL降伏して酒宴で油断させて伏兵と追撃とか
息子の憂いを断つために赤子を殺して自宅に火をつけたり
0037人間七七四年
2011/12/17(土) 17:17:12.01ID:yoM7saFv九州武士の気質に影響しているのかな?
0039人間七七四年
2011/12/17(土) 18:04:18.46ID:bXQeE/ooあと完全に空気な肥前有馬
0040人間七七四年
2011/12/17(土) 19:26:54.38ID:8o5xeSA20041人間七七四年
2011/12/17(土) 20:12:25.05ID:ST1/3qCL0042人間七七四年
2011/12/17(土) 20:17:24.44ID:Sna30vY+鎌倉以来の雄菊池は滅ぶし
阿蘇・相良も二流
0043人間七七四年
2011/12/17(土) 20:34:37.74ID:yoM7saFv0044人間七七四年
2011/12/17(土) 20:35:05.59ID:3DFjjHzu別世界だよ
0047人間七七四年
2011/12/17(土) 21:20:19.46ID:xnDSckZN有馬氏は、お家存亡をかけた沖田畷の戦いにおける奮闘が
島津家久の存在感でかすんでるのが痛いなぁ
前線に鉄砲隊を並べてクマー軍団をよく防いでいたんだが
0049人間七七四年
2011/12/17(土) 22:20:39.83ID:o8iYRa5p./ ;ヽ
l _,,,,,,,,_,;;;;i
l l''|~___;;、_y__ lミ;l
゙l;| | `'",;_,i`'"|;i |
,r''i ヽ, '~rーj`c=/
,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ
/ ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄タイ(バイ・ゴワス.etc)! フゥハハハーハァー
|;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri
l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / |
゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
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0050人間七七四年
2011/12/17(土) 22:42:22.68ID:3DFjjHzu九州はなんか異色みたい…なんでだろう 風土の差?
0051人間七七四年
2011/12/17(土) 22:49:55.33ID:W1n1x8Ipなんか合戦の雰囲気なんかに大陸の匂いを感じる
0052人間七七四年
2011/12/17(土) 23:03:36.50ID:PDPudzYh武の地関東、上方関西からも遠いんだよなw
航空技術が発展するまでは、
文化の受入、外敵の侵入どちらにしても玄関口だったから。
古くは支那、新羅、元にいつも警戒していなければならないし、
戦国時代にはキリシタン大名のメッカみたいなとこあるし、
保守的な精神と急進的な精神がごちゃ混ぜな土地柄かもしれんw
0053人間七七四年
2011/12/17(土) 23:06:21.79ID:s92pEdYn0054人間七七四年
2011/12/18(日) 00:10:00.01ID:0ugJX/PS島津に泣きついて助けてもらったのに
秀吉が来たらさっと手のひら返しした有馬さん
武功を誇るならその寝返り振りもセットで誇らないとねw
0055人間七七四年
2011/12/18(日) 00:20:11.18ID:IEnHNs4V0056人間七七四年
2011/12/18(日) 00:56:12.19ID:BVsUVmYi0057人間七七四年
2011/12/18(日) 01:02:16.67ID:VVd1dmAbと計画したから。
0058人間七七四年
2011/12/18(日) 01:18:48.47ID:k9rUVC8i摂津有馬氏であって肥前の有馬氏とは別系統なのね
0059人間七七四年
2011/12/18(日) 03:21:33.89ID:7NMiqQFQ0060人間七七四年
2011/12/18(日) 04:07:48.20ID:ev9ggljbなんちゃってw
0061人間七七四年
2011/12/18(日) 04:30:53.24ID:gtSpx03W【審議チュウ】
チュウ
+ ゚ ・ +
゚∧,,∧∧ ゚
チュウ (* ゚( ) チュウ
.+ ゚ ・ + l っと ヽ .+ ゚ ・ +
゚∧_ ∧∧ ゚ と__(__(^)(^) ∧∧ _∧
(*´・( ) ( )・`*)
l っと ヽ / つと l
と__(__(^)(^) (^)(^)_)_つ
0062人間七七四年
2011/12/18(日) 07:10:40.57ID:MDViqKTs唐入りの絵図とか資料とかもっとあったらいいのに。
海外遠征とか初めてだろうし、違う民族の武将農民風景とかいろいろ。
0065人間七七四年
2011/12/18(日) 12:11:04.77ID:0PMtCUPnえーと名前忘れたけど戦国時代の偉人が言ってた
0067人間七七四年
2011/12/18(日) 15:53:40.71ID:2PhTy4Yv家康の仲裁でお預けとなった佐竹義宣の領地から、友人に手紙を送った。
「このあいだ御状をいただきましたが、片便につきお知らせが遅くなってしまいました。
拙者は思いがけずこちら(常陸)に罷り下り、遠国に住むことになりました。
罷り退くことになった事の次第はきっとお聞き及びでしょう。
これ以上生きても仕方のない身ではありますが、是非もありません。
しかしながら、上様が御慈悲で少々堪忍料を仰せ付けられ、かたじけなき次第です。
ああ、今一度お目にかかりたい!(哀々今一度懸御目度念願迄候)
御事が親しい仲と思し召されてご連絡をくださったのは本当にありがたい。
できたら、隆景様にお取り成しをお頼みしたいと思っております。
道三(曲直瀬玄朔、秀次事件で連座して佐竹に預けられた)もこちらに逗留しています。
拙者が居住しているのはいかにも人通りの絶えた山中ですので、
折につけ道三と行き来して、寂しく語り合っています。どうかお察しください。
せがれ(職則)も連れてきており、一緒にいます。ご承知おきを。
それではまた。恐惶謹言
広家様へ 花房助兵衛尉入道 道恵より」(吉川家文書)
秀吉に悪態をつき、秀家に果敢に諫言し、後には家康にも噛み付いた助兵衛さんだって
虚しかったり人恋しかったり友への懐かしさに胸震わせることもあるんだね。
0068人間七七四年
2011/12/18(日) 16:24:06.14ID:2PhTy4Yv助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。
0069人間七七四年
2011/12/18(日) 16:48:56.73ID:23WqZsF8また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ
0071人間七七四年
2011/12/18(日) 18:52:12.47ID:7NMiqQFQ0072人間七七四年
2011/12/18(日) 19:50:43.33ID:xGSQNhVv当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。
書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。
0073人間七七四年
2011/12/18(日) 20:16:03.81ID:8efod3Ub>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?
0074人間七七四年
2011/12/19(月) 01:34:57.70ID:hDBjMLA8というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である
家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている
ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある
また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという
0076人間七七四年
2011/12/19(月) 13:09:08.77ID:NlzABSxd大友、相良、阿蘇の三氏が小川町の守山で会談した結果らしい(菊池政隆がいたが追っ払われた)>阿蘇惟長(菊池武経)の菊池相続
で、惟長相続に賛成した菊池家臣の面子が大友義長の次男を推戴するって起誓文を作成してたらしいね。
菊池の家督に旨みが無いのを悟り、ブチ切れて阿蘇に帰った惟長の後に大友がショートリリーフとして菊池武包を起用した後の大友義長次男にして最後の菊池家当主が菊池義武。
まあ肥後守護に欲出してみたはいいものの、実際は大友の支配下にあったのに気付いて帰ったのが阿蘇惟長だから、野心無かったってのはどうかなー?
0077人間七七四年
2011/12/19(月) 21:59:28.54ID:/vH8vLEp親しみやすかった…のか?
0078人間七七四年
2011/12/19(月) 22:38:32.67ID:JUi6MfnA景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて
0079人間七七四年
2011/12/20(火) 00:46:55.37ID:jrCuKj7t国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる
0080人間七七四年
2011/12/20(火) 00:49:57.34ID:mlSG59Ka0081人間七七四年
2011/12/20(火) 09:21:23.58ID:daJv0RXKあんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような
0083人間七七四年
2011/12/20(火) 19:53:20.65ID:XaSiufI90084人間七七四年
2011/12/21(水) 00:20:01.68ID:erYv2H5k0085人間七七四年
2011/12/21(水) 01:10:55.01ID:8EWMPkW+南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな
豊臣家を挑発したのはオマケ
0086人間七七四年
2011/12/21(水) 10:15:49.79ID:fgUdyRsF20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。
「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」
「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。
清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。
「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。
再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」
「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」
『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)
0087人間七七四年
2011/12/21(水) 12:03:51.03ID:vDA2dv5e0088人間七七四年
2011/12/21(水) 12:25:22.10ID:UH8Lun0Y0089人間七七四年
2011/12/21(水) 12:52:14.18ID:o9uRqK/q0090人間七七四年
2011/12/21(水) 17:29:19.00ID:8ogI3n2d0091人間七七四年
2011/12/21(水) 17:46:17.04ID:NdIid7by0092人間七七四年
2011/12/21(水) 18:27:00.20ID:fZQOQmGd0093人間七七四年
2011/12/21(水) 20:22:13.25ID:Fh8iFAIu0094人間七七四年
2011/12/21(水) 21:30:51.90ID:RBb21jY20096人間七七四年
2011/12/22(木) 01:03:54.54ID:PFNl98In最上義光から、とある商人へのプレゼント
1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。
この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。
豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話
0097人間七七四年
2011/12/22(木) 18:39:47.17ID:ZeKlTXhl0099人間七七四年
2011/12/22(木) 19:58:02.38ID:W64Iegsa0100人間七七四年
2011/12/22(木) 20:31:22.69ID:v0i82vYG悪政と言われながらもなんのかんので、鳥居家〜保科正之の間で、中世的勢力潰して
体制を近世化してるからね。
譜代ならシステム的に統治しやすい状況にもなっていたのでしょう。
0101人間七七四年
2011/12/23(金) 12:56:24.58ID:4iKk8bBw左遷先ってのが間違ってんじゃね?
現代じゃ、東北なんて全域(それこそ東京以外全て)左遷先だろうが。
出羽はズタズタに刻まなきゃならんくらい豊かな地だったんだろ?
逆にほぼ一国丸ごとの会津が、どれだけ貧しい国だったんだろと思った。
0102人間七七四年
2011/12/23(金) 13:12:45.30ID:4OzMeUBM「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だからって元長が出てくれることになった
そんなわけで私はこっちに残るので、もうずいぶん会ってないことだし、
おまえが訪ねてみようと思い立ってくれればいいなと思っています
馬とか人手のことは心配しなくていいぞ
迎えをやらせるから、必要なものを教えてくれ
ここ(隠居館)には初めて来ることになるんだな
早く来てくれればどんなにどんなに嬉しいだろう!
まあちょっと考えて、すぐ返事をください
待ってます
5月4日 もと春
七尾 五もじへ
重ね重ね、なるべくすぐ返事をするように
そちら(益田家)の出陣に差し障りが出ないように、いろいろ相談しよう」
婿君も留守になるし、お父さんはお休みだから新しい家に遊びにおいで、ってことらしい
鬼吉川で猛将の元春も、父としては現代のそこらのおっさんと何ら変わりはないようで
嫁いだ娘への溢れんばかりの愛情がひしひしと伝わってくる
でもこのおっさん、この一年と半年後には会いたくても会えないところに逝ってしまうんである
親元離れてる人は、たまには顔見せに帰ってやれよ!
もうすぐ正月だし、帰省する人はめいっぱい親孝行してこいよ!
0103人間七七四年
2011/12/23(金) 14:42:52.97ID:gmuiD/5F甲斐武田家のような例も多々あるし、
うまく行ってる家族もあれば、
うまく行かない家族もあるのは現代と同じだな
0105人間七七四年
2011/12/23(金) 17:54:59.99ID:days4KtP0106人間七七四年
2011/12/23(金) 19:10:55.89ID:k4Top3bJ0107人間七七四年
2011/12/23(金) 20:01:16.23ID:days4KtP0108人間七七四年
2011/12/23(金) 21:39:56.50ID:B4z754AOこういうふうに、一部かなで書くのって現在でいう絵文字みたいなもん?
0109人間七七四年
2011/12/23(金) 21:59:09.99ID:CHM1Kl4eそういや隆元も息子のお祝い時に戦場からおめでとうコール送ってたな
0110人間七七四年
2011/12/23(金) 22:07:31.89ID:oQoX1Z5W0111人間七七四年
2011/12/23(金) 22:08:35.09ID:6B9gwRF7娘宛だし、公文書じゃないし、気楽に書いた結果じゃ?
女性宛の書状って、かなまじりが多いし
0112人間七七四年
2011/12/23(金) 22:46:35.75ID:JlrIWAiJ0113人間七七四年
2011/12/23(金) 22:50:02.42ID:4OzMeUBM宛名とか差出人名がユルユルになってる印象がある
元就の「もと就」って署名の書状も多いし、隆元も隆景宛で「景へ、もとより」とか、
輝元の吉川広家宛なんて「ひろ家へ、てる元」「ヒイへ、(花押のみ)」とかw
場合によっては本文も、かな文字の含有量が多いときがあるけど、気が緩んだのかな?
0114人間七七四年
2011/12/23(金) 23:06:45.28ID:HJ8lQWr+なんでも、この像を持って現世・当来のことを祈るにその験あらずということ無しというのだ。
置塩城主・赤松則房も「奇なり」とし、則房の奉行人・鳥居安芸守や大路伊賀守によって保護され、寺は大いに栄えたが、赤松氏が阿波に移転すると檀家も減少し、ついには無縁の地となってしまった。
やがて寺は置塩から姫路に移され、河間(こはざま)と言う所に仮の茅舎を結ったのだが、隣家の失火で民家はことごとく焼失、寺も巻き込まれて経典も宝物も全て灰燼となってしまう。
住持の日受はこれを悲しみ嘆いていたが、一両日後に焼け跡から人の声が聞こえるので近付いてみると、聖像が一樹の梢に座しているではないか!
これには万人、感嘆せぬものは無かった。
慶長年中、池田輝政によって寺は現在の場所に移される。
聖像の奇妙を聞いた輝政の令室はこの寺に祈願を修せしめ、毎年佳節ごとに修法の巻数を奉ったためかこの寺にはとにかく奇瑞が多いのだ。
ある時、盗人が寺に侵入した際なども、聖像は声を発し、賊はたちまち逃げ去ったという。
(播磨鑑)
0115人間七七四年
2011/12/23(金) 23:55:53.25ID:w2HOH5sO仏像だけは無事(笑)
善くも悪くも日蓮宗らしくて、いい話だな
0116人間七七四年
2011/12/24(土) 09:39:20.30ID:RE9w6gXM藤堂高虎は、侍臣に語った。
・・・人、あるいはその妻に馴染めないのは、
特に人情と道理に欠けている。
妻は夫に身を委ねて、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても、たとえ乞食となっても
連れ添って離れないものである。
人情と道理の重きこと、これに過ぎるものはない。
それをも疎んずるほどの者は極めて不人情であり、
頼みとするに足らない。
心得なければならないことである。(聿修録)
聖夜だしね。
愛があれば、たとえ・・・
0121人間七七四年
2011/12/24(土) 13:58:27.34ID:oKwsF5D60122人間七七四年
2011/12/24(土) 13:59:01.99ID:IhOayrgk0123人間七七四年
2011/12/24(土) 14:31:39.68ID:zOZUwXu3これクリスマス的な妻に好かれてしょうがないっすわな恋愛の話じゃなくて、
妻や子供は最後は一家の主人を頼るしかないのだから、
家族を疎んじるような男は頼りにならないという現実的な話だろ?
クリスマスに堅い話して申し訳ないが(笑)
メリークリスマス!
0124人間七七四年
2011/12/24(土) 15:00:26.19ID:krJdR1d4( ´・ω・) みなさん、クリスマスということで休戦しませんか?
( つ旦O
と_)_) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦
0125人間七七四年
2011/12/24(土) 15:45:53.55ID:PyOqZD1e0126人間七七四年
2011/12/24(土) 18:05:40.17ID:41tc2wXx白「ホワイトサンタ」
青「ブルーサンタ」
茶「ブラウンサンタ」
黒「ブラックサンタ」
緑「グリーンサンタ」
全員「五人揃って、四天王!」
0127人間七七四年
2011/12/24(土) 18:19:22.09ID:RVFW6dxw0128人間七七四年
2011/12/24(土) 18:55:05.06ID:KUt25q55地味な緑よりこのワシじゃ!」
直家「・・・・・・・・・・。殺るか。」
0129人間七七四年
2011/12/24(土) 18:59:11.73ID:U/N6RtH0それはそうと調べたら緑弾正という人物が長宗我部元親と戦った武将でいたそうな
0130人間七七四年
2011/12/24(土) 19:29:31.41ID:Yl6f52RA0131人間七七四年
2011/12/24(土) 20:04:45.43ID:rIXlvlUm松永久秀とクリスマス休戦は何も関係ない
当時の松永配下のキリシタンの国人が行ったのであって
松永=クリスマス休戦は尾ひれも良い所
松永久秀だからって本当は関係ないのに何でも結びつけるのは間違いだぞ。
これは松永以外の事でも言えるけど
0133人間七七四年
2011/12/24(土) 20:16:57.80ID:Sk23NQyx0134人間七七四年
2011/12/24(土) 21:20:35.49ID:IhOayrgk0135人間七七四年
2011/12/24(土) 22:56:30.18ID:71+Rm/no黄色、桃色、銀色とか思いつかないな・・・
地黄八幡は反則?
とか思ったら「北条五色備」がいたことに気付いた
0136人間七七四年
2011/12/24(土) 23:00:18.83ID:WJGz5thdまとめサイトでは仙桃院とか、織田信秀(戒名が萬松寺殿桃巌道見大禅定門)とか上がってた
261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 03:36:31.30 ID:oig6DICa
>>260じゃあ適当に
黒田官兵衛「黒田ブラック」
赤井直正「赤井レッド」
地黄八幡「北条イエロー」
白鳥長久「白鳥ホワイト」
森長可「森ピーチ」
0137人間七七四年
2011/12/24(土) 23:26:19.75ID:B4Hp9N1r0138人間七七四年
2011/12/25(日) 02:55:48.79ID:fSAjlyieシルバーよしかね
0139人間七七四年
2011/12/25(日) 17:26:44.03ID:J0wjrkZB元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。
その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちはとりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。
その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。
「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって治められておった。
広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。
さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で乗り切ることもできた。
このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」
「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。
早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。
後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。
また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。
なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、
赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、
城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。
大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。
0140人間七七四年
2011/12/25(日) 19:04:54.50ID:ptZR+4GR0141人間七七四年
2011/12/25(日) 20:26:51.40ID:4Mny2YgAおのれ亀井茲矩め
和尚さんGJ
0142人間七七四年
2011/12/25(日) 20:28:17.68ID:ekVvFgtH0143人間七七四年
2011/12/25(日) 21:45:14.33ID:J0wjrkZB「私たちは今でも、赤松さんに治めてもらったことを誇りに思ってるんです。」
という言葉が忘れられません。
0144人間七七四年
2011/12/25(日) 23:10:56.56ID:2LzmoaPT0145人間七七四年
2011/12/26(月) 03:54:43.43ID:71kzmdJL亀井さんが地元の殿様だったから
0146人間七七四年
2011/12/26(月) 07:57:58.18ID:d2WqDJyr竹田小学校校歌(1番)だって。
「虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代」
0147人間七七四年
2011/12/26(月) 08:05:29.24ID:Z+T6d6Py0148人間七七四年
2011/12/26(月) 09:20:59.43ID:nCx9g6Lh意味が無いどころか逃げ出して将来の収入増の可能性を無くすので害になる
3年かどうかは知らないが状況に応じてある程度の期間減免はありうる
0149人間七七四年
2011/12/26(月) 10:48:05.39ID:wEUFfWEOさすがに領国全域での全面免除はそうないと思うが
0150人間七七四年
2011/12/26(月) 11:30:15.96ID:8KH1fnb3やっぱ校歌はこういうのがいいよな土地に根ざしてような
おれは新設校の薄っぺらい校歌だったからあほくさかった
大人になって歌詞読んで色々感じられるのがいい
0151人間七七四年
2011/12/26(月) 12:41:28.78ID:azna+/Pd非常に優秀な統治をしていたんだろう。
0152人間七七四年
2011/12/26(月) 16:52:33.19ID:YOViG9M4巷はやれ伊達だ真田だ言ってるけどやっぱりこういう人達が評価されてほしいな・・。
0153人間七七四年
2011/12/26(月) 16:55:32.89ID:YOViG9M4決して隻眼や具体的に何したか分からん人をけなしたわけではないのであしからず・・。
森さんについては否定しません。
0154人間七七四年
2011/12/26(月) 22:37:58.62ID:oagGq/Hn0155人間七七四年
2011/12/27(火) 00:05:55.92ID:q1XTyam50156人間七七四年
2011/12/27(火) 08:53:01.28ID:VpQ0F4Q2あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。
樓魔寧文へ真帆斃瑜も聾薆を禰伊れ偉ぷ武万葉其方を砂魑ね地魏とぞ廻れ倭嶺、あ蘭魔廼擢と他部釜无劣不ぞ哈密き貯寸那致䄅く釜奴辺戸は善魔慈魔梨た魃厦亜に嘉羅汰鬼戦弥踏み縷魔荼父母夛め都莉鎖圖師苑て魘巍衛恵る木歩雨他琉偉な。
愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
0158人間七七四年
2011/12/27(火) 13:12:26.91ID:4VVXyXjS父親信虎はなぜか長男信晴(信玄)を疎んじ、
信繁を殊の外可愛がり、家督は信繁に譲りたい、とまで言いだすようになる。
こうなると家臣団も晴信派、信繁派に分かれ武田家の行く末も危ういものと思われた。
しかしこんな中、信繁は信虎から珍しい玩具をプレゼントされた時でも、
「これは兄上様のものです」
と、晴信に届けていたという。
長幼の序を守ると同時に、父に疎んじられる兄を哀れむ仁の心情も多いにあったと思われる。
仁なき忠義は心なき礼儀作法であるが、
信繁には形式化したところはなく真心からの礼儀作法であった。
後、信繁が成人した後、自ら直属の家臣たちに言った。
「信玄様は兄ではない。甲斐武田家当主だ。
間違っても我ら信繁家臣団の者たちは、
信玄様の弟直属の家臣団などと誇ってはならぬ。」
と諭し、
有名な99箇条の家訓の第一にも兄信玄への忠義をあげていることは今に伝わる通りである
0159人間七七四年
2011/12/27(火) 13:16:29.90ID:4VVXyXjS訂正します
父親信虎はなぜか長男晴信(信玄)を疎んじ
0160人間七七四年
2011/12/27(火) 14:02:26.74ID:3dub6oDn信繁が家督を継いでいたら武田家の滅亡は無かったような気がする。
0161人間七七四年
2011/12/27(火) 16:13:58.02ID:tYipOkiR0162人間七七四年
2011/12/27(火) 17:21:39.00ID:7SKW+ANu甲斐の国の貧困を考えたら、誰か家督を継いでも同じ。
というか、信玄だから家康ボコボコにして、信長に本気出させようとする事も出来た。
0163人間七七四年
2011/12/27(火) 18:02:03.20ID:+XVPbf3Y0164人間七七四年
2011/12/27(火) 18:23:51.73ID:aHtAteDc0165人間七七四年
2011/12/27(火) 19:30:11.01ID:7SzPRQKk0166人間七七四年
2011/12/27(火) 19:48:42.10ID:2Phlz4nt0167人間七七四年
2011/12/27(火) 20:03:56.25ID:4VVXyXjS「能力的に兄上にはかなわない」
と言っていたと童門冬二の本にあったよ。
ただ歴史にifはないけど、信玄亡き後に信繁いたら、
武田家の分裂をどうにか対処していた気もするな。
信濃は信繁亡き後、反乱が発生するようになった話もあるし
0168人間七七四年
2011/12/27(火) 20:18:02.37ID:3j7hy7ZC親父だって追い出されたわけだし、兄も苦労した
0169人間七七四年
2011/12/27(火) 20:36:29.48ID:4VVXyXjSどう考えてもただの優等生ではないでしょ
信濃はうまく統治していたようだし、
戦場でも勇敢な話が伝わってる
0170人間七七四年
2011/12/27(火) 21:05:36.07ID:JblkKiXt優等生って言い方が悪ければアクの強さがないって感じかなw
有能であることは確かだと思う
まぁ、敢えて目立たないようにしてたのかもしれないけどね〜
0171人間七七四年
2011/12/27(火) 23:25:32.17ID:VVj4cljf0172人間七七四年
2011/12/27(火) 23:32:15.95ID:AGDGBLr/0173人間七七四年
2011/12/27(火) 23:39:43.03ID:Axa0Gn+00174人間七七四年
2011/12/28(水) 00:47:07.68ID:slXoE7q/0175人間七七四年
2011/12/28(水) 07:07:43.02ID:wlwSe0TW0176人間七七四年
2011/12/28(水) 07:15:34.50ID:G5ztUR24敵国諏訪の姫との子だった勝頼にも家中従順だったんじゃないだろうか。
てか信玄は優秀だけどなんだかなぁ。
村上義清や謙信に板垣甘利テンキュー勘助と多くの将失いすぎだろ・・。
駿府に執着するあまり後継者として認知されてた義信と飫富を失ってるし。
信玄だからこそ武田が滅亡したとも言える。
0177人間七七四年
2011/12/28(水) 07:55:19.14ID:uWhTuyD7優秀でしかも特殊な性格じゃないと戦国で台頭するのは難しいのかなあ。
信長や信玄や謙信や政宗とか。
北条みたいに優秀でしかもまともな人間って結局パッとしないし。
0178人間七七四年
2011/12/28(水) 09:01:47.40ID:qFyiZKB8ギャグ?
0179人間七七四年
2011/12/28(水) 09:30:50.47ID:uWhTuyD7法や町の整備、検地もしっかりしていたし、一族や家臣もまとまっていた。
加えて城は難攻不落だし、他国との外交においても下手を打つ事もなく
関東一円では最大の勢力を誇っていた。
優秀でまともと言えるのではないだろうか。
0180人間七七四年
2011/12/28(水) 09:52:16.94ID:lC5apNjG北条がもうちょっと粘って一族助命、相模伊豆の条件で和議結んでいたら、とかは
想像するのが面白い。
0181人間七七四年
2011/12/28(水) 11:03:01.84ID:/D0IQFV9そこへ兜を付けず、具足は黒、鹿毛の馬に乗り、金の才槌の指物を指した武者が向かってきた
家康本隊の先手衆は彼は先発した大名の使番と考え、特に心にも留めずにそのまま通した
その時の家康は駕籠に乗っていたが、二〇間(約36m)先に金の才槌がキラリと光るのを見て、
「あの指物の持ち主を改めよ」
と命じ、改めるとその武者が落人であることが判明し、その場で打ち捨てられた
おそらく家康は東軍全ての使番の指物を把握していたのであろう
家康の記憶力はこれまで何度も話題に登ったがこれも一つの例と言える
0182人間七七四年
2011/12/28(水) 11:12:44.09ID:ns5/rhHp0183人間七七四年
2011/12/28(水) 11:48:55.04ID:w54SnRVL一行目から四行目までは、優秀であることの根拠にはなるけど
人格がまともかどうかの証明にはならんだろ?
0184人間七七四年
2011/12/28(水) 12:05:06.69ID:pfUGMORd0185人間七七四年
2011/12/28(水) 12:15:20.88ID:hCXeXDtpそういう逸話がない=まともである
と言えない事もない
0186人間七七四年
2011/12/28(水) 12:21:57.15ID:OiC/YMMG0187人間七七四年
2011/12/28(水) 12:41:47.56ID:Mws3pA6+家康もだけど、昔の人の記憶力は半端ないな
どうすればここまで記憶力持てるんだろう ぜひ教えてほしいもんだ
0188人間七七四年
2011/12/28(水) 12:44:22.56ID:NQARnlSh戦場での仕事と言えないこともないし、大事な能力だよね
0189人間七七四年
2011/12/28(水) 12:45:19.91ID:BGxqyKX50190人間七七四年
2011/12/28(水) 12:47:51.92ID:slXoE7q/0191人間七七四年
2011/12/28(水) 13:01:57.29ID:ytd0werF軍監が複数の仕事を掛け持ちしてる場合が殆どで
0192人間七七四年
2011/12/28(水) 14:26:10.51ID:slXoE7q/含まれてると解釈しても良いんでないか
軍監=派遣本部将校
0193人間七七四年
2011/12/28(水) 16:48:51.96ID:/D0IQFV90194人間七七四年
2011/12/28(水) 17:58:29.63ID:DNQM9BAk家名と旗を必死に暗記したみたいで
しかも関東の事は私不案内だからよろしく教えてくださいねとか書いてるから
一気に家臣が増えると偉い人は大変みたいだよ…
0195人間七七四年
2011/12/28(水) 18:11:12.78ID:D2JP6LRn0196人間七七四年
2011/12/28(水) 19:03:19.08ID:GgNIP+Fbこういう大将の質問に答えられる側近がいないと発展しないよな
自分たちの活躍をちゃんと評価してくれることにもつながるし
0197人間七七四年
2011/12/28(水) 19:29:58.11ID:9VRagzuP0198人間七七四年
2011/12/28(水) 19:36:36.84ID:Mws3pA6+妻の麝香に、敵方の旗指物を逐一メモさせてたんだが
これって何か逸話を元にしているのか、探してるんだけど見当たらなかった
0199人間七七四年
2011/12/29(木) 01:08:22.97ID:8e7WJC6t0200人間七七四年
2011/12/29(木) 01:32:36.98ID:Lj3MJW25利常が晩年の頃、江戸城で能が催された時に、頭巾着用が禁止されているにもかかわらず、
利常だけは頭巾を着用してやってきた。
そこで儀式担当の目付が何度も注意するも、利常聞く耳もたず。
そこでこの目付、老中松平信綱に報告したところ信綱はこれに対して、
「馬鹿者が! 左様な心得ではお目付け役は務まらぬぞ!
そもそも殿中頭巾着用が禁止となったのは、前田殿のような老人に
御許しなさるためなのだ」
と、逆に目付を叱ったそうな。
0201人間七七四年
2011/12/29(木) 04:22:53.85ID:nJNmR+rR欲をかくと身を滅ぼすけどさ
0202人間七七四年
2011/12/29(木) 06:36:51.13ID:3kpymohH戦国いい話の前に「集団ストーカー犯罪」で検索してみてください。
先祖代々の日本人なら優秀な人ほどターゲットにされる恐れがあります。
防犯のために「集団ストーカー」で検索してください。
0203人間七七四年
2011/12/29(木) 10:41:12.65ID:U5fIl2pG0205人間七七四年
2011/12/31(土) 00:36:58.28ID:H7yZ3Oub毛利某「大人に」
北条某「なるって」
島津某「ことさ」
0206人間七七四年
2011/12/31(土) 20:37:16.02ID:4odn/nQC将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(現埼玉県八潮市)行い、舎人(現東京都足立区)の御殿で宿泊することとなったが、
その頃大原と舎人の間は草野が広がり、また沼も多く、人馬が進むのに誠に困難な場所であった。
そこで秀忠は旗本の大川図書に道の補修を命じた。
大川は近隣の領民を集め草木を刈りそれをもって低湿地を埋め、千住から越ヶ谷間までを、
ほぼ一直線に結ぶ新往還道を一挙に築き上げた。
この街道の完成に秀忠は大いに喜び、
「草を以て沼を埋め、往還の心安すきこと、これ一重に草の大功なり。このところ草加といふべし」
と命じた。「(沼地に)草を加えたことによって街道となった」ということである。
これによりその地は『草加』と呼ばれるようになったという。
家康に比べて地味な秀忠ですが、彼にもこんな命名伝説があるのですw
(草加宿由来)
0207人間七七四年
2011/12/31(土) 21:00:00.08ID:pmYKcd7y0208人間七七四年
2011/12/31(土) 21:39:21.91ID:Hhi2Ygrk0209人間七七四年
2011/12/31(土) 22:19:42.04ID:ea1ytrxg0210人間七七四年
2011/12/31(土) 22:20:16.18ID:ykG7ZBvs秀忠のネーミングセンスはこういう話もあるからな
なんというか、無難?
今年は 壬申の年ですね。
戦国期の壬申は1572年で後の天下人家康公が
うんこ漏らしながら逃げ出していた頃です。
どんな年になるのか楽しみですね。
0212人間七七四年
2012/01/01(日) 12:19:10.33ID:vVqoErRi0213人間七七四年
2012/01/01(日) 12:42:49.95ID:QnFMfllv馬に乗って竹刀を持ち、近習相手に馬上太刀の稽古をしているところだった。
権左衛門が直弘に近寄り挨拶すると、直弘は特に返礼も無く「権左衛門、できるかな。」と竹刀を向けた。
大木一門は、もと蒲池氏の重臣であり、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺されると佐賀に駆けつけ、隆信を罵倒した上で
切腹しようとしたが、その心意気に感動した隆信が、さんざん慰留して家臣にしたという硬骨の家柄である。
父の家臣とは言え家中名誉の一門出身で、はるかに年長である歴戦の士に、ロクに挨拶もせず竹刀を向けた
直弘の態度は、とても褒められたものではない。
しかし権左衛門は、直弘の近習から竹刀を受け取ると、「されば、一槍つかまつる・・・やーっ!!」
未だ体勢の整わぬ直弘に駆け寄ってその脇を突き、馬から真っ逆さまに突き落とした。
何とか起き上がった直弘は、「も、もう一槍!」と言ったが、見ていた直弘の弟・直長が馬にまたがった。
「いや兄者、今度はそれがしが参りましょう。ゆくぞ権左衛門!」
ところが権左衛門は直長の突撃をスルリとかわすと、これまたその脇を突き、直長をも落馬させてしまった。
「正月早々、武者の首を二つも取り申したわ。愉快ゆかい。」権左衛門はカラカラと笑って退出した。
(葉隠より)
0214人間七七四年
2012/01/01(日) 12:48:03.73ID:rceNDkdL0216人間七七四年
2012/01/01(日) 14:28:25.98ID:lCr3bJaw(戦国ちょっといい話30より)
0218人間七七四年
2012/01/01(日) 20:12:44.15ID:0Ztm13qz信玄に仕えた加賀美正行は、長身だが痩躯、頼りない態度で何かと侮られることが多かった。
しかしモヤシっぽい見た目、堂々とはほど遠い雰囲気によらず、この正行、実はクリーチャーであった。
正行は幼いころから甲府に致仕していたが、そこで他の少年たちから執拗ないじめを受けた。
ある時ついに逆上し、額を割り、首をねじ切って残らず殺してしまった。
相手は権門の家の子たちだったので、正行の父は驚いて、我が子を遠国の寺に入れてしまった。
ようやく甲斐に戻り、信玄の前で神垣(おそらく現在の武田八幡)に騎射を奉り、それが
見事であったのでついに許された。
初陣では敵中にあって縦横に馬を馳せ、五つの兜首を取り、以後敵から夜叉次郎と恐れられた。
例えば、正行の弭槍(弓の上に刃を立て、緊急時に槍代わりにする補助武器)は非常に強く、
本物の槍を持参する必要が無かった(それほどの強弓を使っていた)。
また、祖先の加賀美遠光が建てた寺である加賀美山法善寺で、あるとき大鐘を移動するために
転がしていたところ、(坂かくぼみか何かで)いくら押しても動かなくなってしまった。
そこへ正行が押す(のに加わる?)と、鐘は難なく転がったという。
(加々美呈譜)
なおwikiによると……
『重要文化財 山梨県指定文化財 鐘楼・銅鐘……(略)
法善寺所蔵の銅鐘は、総高147.7cm、鐘身高111.3cm、口径89.1cm、撞座(つきざ)高12.0cm、
梵字外縁円径19.3cmの中世鐘で、県内では塩山向嶽寺鐘と並ぶ巨鐘である。…(略)…
鐘身には疵が多く、何らかの事情で他所から移されたものであると考えられている。』
http://www.kagamisan.com/bunkazai/kenchiku
こんなもん、ヒト一人加わったところで転がり出すようなもんじゃないだろう……。
0219人間七七四年
2012/01/01(日) 20:25:20.25ID:wsfEYtf/0220人間七七四年
2012/01/02(月) 00:29:50.25ID:LKkpUcvV0221人間七七四年
2012/01/02(月) 01:56:32.34ID:/iIKiTgO堀尾吉晴や前田玄以らにこの事を伝える使者に任じた。この時、吉晴は秀吉から
「もし秀次が出頭を拒否した時はどうするか?」
と問われ、これに吉晴は
「ご安心ください。適当に処置しましょう。」
と返答。もしもの場合は秀次と刺し違える覚悟を見せた。それまでにも自分の為に幾度も吉晴を命の危険にさらしてきた
秀吉は、この言葉を聞いて涙ぐんだという。そして秀次の元に向かう途中、吉晴は
「用事がある。」
と言って玄以らを先に行かせた。そして吉晴はなじみの店に顔を出すと、
「もし自分が帰らなければ、注文した品の代金は払えなくなるが、その時は息子の忠氏に請求するように。」
と伝えたが、最終的に秀次は吉晴たちの説得で秀吉の召喚に応じたため、最悪の事態は免れたという。
0222人間七七四年
2012/01/02(月) 03:28:18.13ID:2Q8/+7XI仕方ないよなという諦めもある
TVじゃ毎日目にするし、仕事から町内まで勧められる機会は数あるし、何よりも簡単に手に入るこの環境じゃ
しかし許せないのは父の体や事情を知りながら勧めた酒呑みの屑爺ども
結局飲んだ父の問題だが、あいつらまじで勝手に飲んで肝硬変にでもなればいい
地獄への旅路は仲間が多い方が楽しいみたいな、そんな感覚で進めてるんだよ、あいつら
でももう仕方ない
あとは常習的に飲まないよう信じるだけ
また以前のようになったらもう父を守れないし助けだせれないわ
みんな次は許してくれない
残りの余生を1人で過ごしてもらうしかない
0224人間七七四年
2012/01/02(月) 10:28:57.52ID:W1FHsA2eお父さんは酒で身を滅ぼしたけど、立派な人だったよ
0226人間七七四年
2012/01/02(月) 11:18:02.05ID:+CSbaqZfお父さんが酒飲み公家さんだし…
0228人間七七四年
2012/01/02(月) 12:21:30.42ID:w6KoU8z30229人間七七四年
2012/01/02(月) 16:36:34.13ID:3yhI/wiuなんという逸材
たしか先祖の加賀美武光は犬に噛み殺されたんだっけ
そのときの教訓を生かしてその場で皆殺しw
0230人間七七四年
2012/01/03(火) 12:04:27.09ID:ooIkS/E20231人間七七四年
2012/01/03(火) 15:35:19.27ID:lNB70Z3A諏訪部定勝の息子さんの可能性も
0232人間七七四年
2012/01/03(火) 18:14:25.37ID:KEOch0MY天正10年(1582年)6月2日深夜、織田信長・信忠親子に謁見するべく堺から京へと向かう最中の飯盛山で徳川一行が休息を取っていると、
先に京へと向かわせていた本多忠勝と茶屋四郎次郎が慌てて引き返してきた。
ただならぬ様子に家康は井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の重臣たち以外を遠ざけ、
加えて織田家からの案内役である長谷川秀一のみが本多と茶屋からの報告を聞いた。
本能寺の変の仔細を聞いて一番動揺したのは他ならぬ家康であった。
家康「我はこのとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今少し手兵がいたならば、光秀を討って織田殿の仇を討つべきなのだが、この無勢ではそれも叶うまい。
生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。」
と言い出した。
すると長谷川秀一も「家康殿さえかく仰るならば、まして私は年来の主君。一番に腹を切ってこの程の如く御道しるべとなります。」と言う。
という訳で本多忠勝と茶屋四郎次郎の二人がまた先に掛けて京を目指したのだが、20町ほど進んだ所で忠勝は引き返してくると石川数正らに言った。
忠勝「我、君(家康)の御大事が今日に極まったので、若輩の身を顧みず思うところを申させて頂きたい。君が年頃の信義を守り、織田殿と死を共にするという事が
義のあたる所としてどうして適切と言えようか。織田殿の為に年頃の芳志に報じようというなら、本国に戻り軍勢を催して光秀を追討し、
その首を切って手向けとすれば織田殿の幽魂も祝着し給うでしょう。」
するとこれを聞いた石川数正や酒井忠次ら老臣達もこう述べた。
「年長けたる我々もここに心付したい。返すべすも恥ずかしいと思い由を聞いていたが、君はつくづくと聞き召されよ。
我ら本国に帰って軍勢を催促し、光秀を誅殺する事は元より望むところである。しかしながら主従共にここに来るのは初めてである。
だが、知らぬ野山に彷徨って山賊一揆の為にここかしこで討たれる口惜しさに、都にて腹を切るべきとは思わない」
これを聞いて家康も冷静になって三河に帰る事を考えたようだ。すると長谷川秀一は怒りに涙を流しながらこう言った。
秀一「我ら悔しくも此度、家康殿の道案内に参りて主君の最期の共もせず、また賊軍一人も切り捨てずにこのまま腹を切って死ねば冥土黄泉の下までも恨みなお深く残るでしょう。
家康殿がご帰国して光秀を誅伐する軍を挙げた時は、その先手に参じて討ち死にする所は本望です。ただし、帰路の事を危うく思うのであれば、
この辺りの国士どもは殿に参謁する時は、皆私が取り次ぐ事になっているので、私の申事に背くものは無いでしょう。
それ故にこそ、今度の道しるべの役にも参じさせていただきたい。」
どうやら長谷川も内心悔しく思いながらも十分に冷静さを取り戻しているようだ。
彼の言い分を聞いた酒井や石川や忠勝も「御道のことは長谷川殿に任せるべき」という事でまとまり、こうして伊賀越えへの旅が始まったのであった。
0233人間七七四年
2012/01/03(火) 19:36:07.27ID:+xcGHnOJ前から疑問だったんだが、
信長は京(本能寺)で襲われたのに京(知恩院)に行こうって発想はどうなんだろうか?
厳戒態勢だろうし捕まったりした方が「生半な事」になると思うんだが。
0234人間七七四年
2012/01/03(火) 19:43:21.23ID:TNzX3LXj創作ないし社交辞令だと思うが、
明智軍に捕まっても武士の情けとかいえば明智の将立ち会いのもと切腹はできたんじゃないかな。
伊賀越えは奇跡だったけど、もし家康が数百の精鋭を率いて信孝、丹羽長秀に合流して
山崎の戦いに加わっていたら面白そうだな。
0235人間七七四年
2012/01/03(火) 19:54:27.65ID:mrCHm2pM0236人間七七四年
2012/01/03(火) 20:01:58.14ID:ce7aIi/9家康って浄土宗だから、浄土宗の寺で腹切ろうって意味なのかと思ってたわ
0237人間七七四年
2012/01/03(火) 20:59:14.11ID:FtSiNovc0239人間七七四年
2012/01/03(火) 21:54:11.27ID:bHbVWmrv最近になってもそれを覆す様な話が出てきた記憶もないな
0240人間七七四年
2012/01/03(火) 21:54:59.48ID:XjxWbxf4それで合ってるんじゃない?
浄土宗の総本山で切腹しようという発送は自然だと思う
もちろん、無事に知恩院までたどり着けるかは疑問だけど
0242人間七七四年
2012/01/03(火) 21:56:33.23ID:XjxWbxf4○発想
0243人間七七四年
2012/01/03(火) 23:09:56.65ID:W4Eq7efQ0245人間七七四年
2012/01/04(水) 00:05:24.61ID:ZqQOCizz・・・奥方の話だけど
0246人間七七四年
2012/01/04(水) 00:18:27.22ID:YeUawEl+宇多天皇の黒猫日記のような和みエピ好きだけど
戦国時代じゃそんな余裕もなさそうだね…
0247人間七七四年
2012/01/04(水) 02:32:32.14ID:JQoc9hlE昔物凄く困窮してた天皇家の惨状を見かねて、
ある饅頭屋が饅頭を持って言った所、宮中は大喜び。
その後毎日続けられたお饅頭の宅配は、
天皇家の財政が安定した江戸時代以降も、
儀式的に毎日続きました。
なんて話を見た事があるな。
涙無しには語れない話だが。
0248人間七七四年
2012/01/04(水) 02:53:02.96ID:VsZC+9630249人間七七四年
2012/01/04(水) 08:09:01.42ID:qBGmZDc/0250人間七七四年
2012/01/04(水) 09:05:17.05ID:U9zUCjWAそれとも、そこまでして家を残したいのかと蔑まれるのか?
0251人間七七四年
2012/01/04(水) 09:08:10.41ID:4AXx5oKxそんなことは源平の昔からあった事。
0252人間七七四年
2012/01/04(水) 09:11:59.39ID:DqY5eRaL0255人間七七四年
2012/01/04(水) 13:25:27.59ID:gsgFSfj3てめーは謀反されまくり裏切られまくりの分際でわめくな糞長厨
0256人間七七四年
2012/01/04(水) 13:44:32.65ID:wq860xx/この二人で絵巻物の収集、編纂や、新しく小型の絵巻物の制作、普及みたいなことをやってるな。
義尚が、寺社なんかから古い絵巻物借り受けて天皇のところに「こんなの借りてきました!
これどう思います!?」なんて直ぐに報告していたり、非常に微笑ましいw
あまりに仲が良いので、義尚は実は天皇の子供、なんて噂まで流れた。
0258人間七七四年
2012/01/04(水) 16:05:52.62ID:LIg2dtGm既出だったら申し訳ない
宗茂の家老のひとりに十時摂津という男がいた。
彼は柳河一三万石の戦巧者であったが、宗茂が浪人し、京に渡ってからは虚無僧となり得意の尺八を吹いて、
主君の生活を他の家臣達とともに養っていた。
そんなあるとき宗茂は言った
「京じゃ天下の情勢がわからんから江戸に行くぞ」
当然誰も反対しない。
一行はすぐさま江戸へと向かうこととなった。
さて、江戸でも例によって尺八を吹きながら托鉢をして歩く十時。
ある工事現場を通りかかると、昼間から酒を飲んでいた男三人組が突然キレた。
「尺八のせいで酒が不味くなったから酒代よこせコルァ!」
明らかに屁理屈である。
当然これは華麗にスルーされた。が、
三人は十時の前に立ちはだかり、腕をつかんで悪態をつく。
さすがにイラッとしたのか、十時は掴まれていた腕を捻らせ、相手を突き飛ばした。
すると三人組は「やっ・・・やんのかよ!;;」と、脇差を抜き、構える。
あまりのへっぴり腰に十時は呆れた。
そして「お前等じゃ俺の相手になんねーから止めた方がいいぞww」と忠告した。もとい煽った。
続く
0259人間七七四年
2012/01/04(水) 16:37:15.33ID:cvYXFyMohttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3908.html
整備中の江戸城下で、チンピラに絡まれたある虚無僧
0260人間七七四年
2012/01/04(水) 16:55:49.53ID:LIg2dtGm煽られた三人組は十時に切りかかってくる。
十時は尺八でこれを受けて刀をはじき飛ばした。
それでもまた切りかかろうとする三人組に嫌気がさしたのか
「この蠅がぁ!幾ら言っても分からんならもう許さん!」と、彼は言った。
このあたりにくるともう自重の欠片すらない。
「うるせえ!虚無僧のくせに生意気なんだよ!」
これが三人の最期の言葉だった。
再度切りかかろうとした三人は一瞬のうちに刀を奪われ、
その刀によって一人残らず真っ二つになっていたのだ。
かくして十時のならずもの退治は幕を閉じた。
しかし江戸のド真ん中で殺人を犯したのである。
すぐさま十時は奉行所へ連行された。
そして自分が立花の家老であること、主君も江戸にいることが、取り調べにより発覚してしまう。
幸い十時は正当防衛として罪に問われなかったが、豊臣恩願の元大名を江戸に放置する訳にもいかないため、とりあえず本多正信が宗茂のもとを訪れることとなった。
この会談により宗茂が秀忠のお相伴衆となることが決まったとか。
ちなみに十時さんは土井利勝さんから町奉行を通しベタ誉めされたそう。
結果論&うろ覚えで申し訳ないです
0261人間七七四年
2012/01/04(水) 16:58:14.89ID:LIg2dtGmすみません;:
投稿後気づきました・・・
ありがとうございます
0262人間七七四年
2012/01/04(水) 17:03:29.84ID:Oy6tc19v一応まとめサイトで確認したんなら、それほど気に病まなくても
0263人間七七四年
2012/01/04(水) 19:08:55.98ID:6zEqLF9Dとかそういう話かと思ったw
0264人間七七四年
2012/01/04(水) 19:26:03.48ID:VsZC+9630265人間七七四年
2012/01/04(水) 20:20:39.53ID:LIg2dtGm吹いたww立花家臣もそういうこと言うのか
こういうバージョン違いも面白いよなw
0266人間七七四年
2012/01/04(水) 20:28:46.32ID:LIg2dtGm0268人間七七四年
2012/01/04(水) 21:20:47.91ID:A0IBL9z7気づかないだけで
0269人間七七四年
2012/01/04(水) 21:26:14.98ID:+wQ/g8nM自分の子のほうが武田の血が深いから武田家当主にふさわしいと思ってと織田や徳川と誼を深めて嫡子を当主にさせようとしてたんだよね。
長篠合戦で真っ先ににげたのもそのためかな。
0270人間七七四年
2012/01/04(水) 23:12:50.10ID:KOi8W1cB0271人間七七四年
2012/01/05(木) 00:18:20.79ID:57XaGzHKしかし正行はただの脳味噌筋肉ではなく、行政能力もそれなりに高かったらしい。
父の跡を継ぎ、義理の兄弟である飯富昌景、武田正昌らに与力し文書も発給している。
そのような功績もあり、父の死後、念願叶って本領を回復し直臣に取り立てられた。
その後は北条家との取次役をを務めており、北条武田間の贈答・交易について、
梶原景宗と取り交わした文書が残る(前後は不明だが、子は梶原の娘を娶っている)。
さて、かつての仇敵の家の子ながら、この正行に感服した才気溢れる若い侍がいた。
(調べてみると二人は年齢が一回りほど違う。それが良かったのかも知れない。)
ある時この若者が、正行に相談した。
「私は常日頃の働きでも周りとうまくいかず、臆病者で戦でも人並みには働けないのです」
正行は考えた後、彼らしく簡潔に答えた。
「自分の働きは大したことではないと常に考えることだ。大体自分の受け持った仕事は
大変に思え、他人を侮ってしまいがちだ。特に一人仕事のときはそう思いなさい。
また楽だと思ってやれば楽になるものだし、楽な働きをしていると思えば自然謙虚になる。
戦も同じだ。そもそも命を賭けるのに勇気がいる戦というのは、懸命する必要のない戦だ。
恩賞目当てでなければ別に臆病でも良い。男子一心あれば、必要なとき身体は勝手に動く」
若者はやがて頭角を現し、信玄から次代の中心人物と目されるようになる。
その名は金丸惣蔵、後に「片手千人斬り」で武田の末期に花を添える、土屋昌恒である。
(加々美呈譜)
しかしwikiによると昌恒は13の初陣で父の仇の部下を討ち取っているという。
決して臆病ではないと思うのだが。がむしゃらの初陣以来、スランプに陥っていたのだろうか。
正行はそれを慰めようとしたのかもしれない。
0272人間七七四年
2012/01/05(木) 00:55:56.33ID:bVHVn6AQ別の板でクソコテのIDとかぶって自演扱いされてワロタ
0273人間七七四年
2012/01/05(木) 01:21:54.20ID:EyaxHVcsこれ位場末の板だと比較的珍しいが。
まぁ自演ならもう少し分かり難くやるだろうw
0274人間七七四年
2012/01/05(木) 01:30:18.00ID:lVAXxZtt>>271
どこの系譜でもそうだが、後世名門で高禄なほど完全超人に近づくんだよなwww
かがみんならまだしも、大老を出した土屋さんの「十三の初陣で敵討ち」がどこまで本当か・・・・。
0275人間七七四年
2012/01/05(木) 02:13:59.78ID:fCq9P/8C偉くなるほど箔付けをしたがるものだけど
仮に本当だった場合、そんな話が掃いて捨てるほど武田家は猛者揃いだったのかもしれないw
0276人間七七四年
2012/01/05(木) 03:51:06.43ID:ymtgiK8i土屋昌恒の初陣の逸話は、別に後世に子孫によって先祖顕彰のために作られたわけじゃなくて、
たしか甲陽軍鑑に載ってる話で、
元今川水軍の岡部貞綱が昌恒を養子に迎える切っ掛けになる話
(駿河侵攻の際、昌恒が初陣で今川家臣だった岡部一族の家来の首級を上げた。
貞綱が武田家に降って信玄から土屋姓を与えられた後、初陣での昌恒の戦いぶりを覚えていて、
その武勇に惚れ込んで強く希望して昌恒を跡継ぎとして養子に迎えたってな感じの話だったはず)
だから、
甲陽軍鑑の信憑性を疑うっていうなら、まぁ別に異論はないけど、
子孫が箔づけに話を盛ったんじゃないかっていう突っ込みは的外れだと思う。
あと、土屋昌恒の天目山での戦いっぷりに関しては、甲乱記や武田三代記だけでなく、
信長公記でも褒め称えられているほどだから
(土屋昌恒は、弓を取り、矢をつがえては放ち、つがえては放ち、矢数が尽きるまで射尽くして
屈強の武士を多数射倒した末、勝頼の後を追って切腹した。高名を後代に伝える、比類なき働きであった。)
昌恒が当時甲斐によくいた猛者の一人だったってことは、間違いないと思われ。
土屋家が後に引き立てられたのは、孫の数直が家光とアレな関係になったってのも大きいけど、
もともとのきっかけは、昌恒の忠節と武勇が当時有名で、その七光りに子の忠直が与ったっていうのが素直な見方で、
子孫が出世したから昌恒の経歴が派手になったわけじゃないと思うよ。
0277人間七七四年
2012/01/05(木) 09:11:47.87ID:Vo6zjDew0278人間七七四年
2012/01/05(木) 13:09:24.89ID:lVAXxZttそうなのか。浅学失礼した、ご教授ありがとう。
そうするとこの逸話も、本当に初陣以降のスランプを慰めた話なのかもしれないね。
臆病と思っていても、見事に体は動いたんだな・・・・。
0280人間七七四年
2012/01/05(木) 15:41:32.78ID:ymtgiK8i土屋昌恒って人は、色んな逸話から知る限り
幼い時から英明で知られ
武勇については上で述べたとおり、修羅の国甲斐でも名が高く、
忠義についても、天目山だけでなく、長篠の戦から敗走するときも
初鹿野伝右衛門とともにただ二人勝頼の傍から離れず警護していて、
加えて、内政官としても、跡部勝資には及ばないものの、
10代のころから奏者として働き、結構な数の朱印状の発給している有能っぷり、
更に分をわきまえた性格良しっていう、
リアル完璧超人で、
武田家があと10年生き延びていたら、
東のミスターパーフェクトと呼ばれていてもおかしくない逸材なんだけど、
今一知名度が低いのが泣ける。
>>271の逸話も、昌恒の経歴を知ってから読むと、
実際にスランプだったってよりは、兄の土屋昌続と義父の土屋貞綱が共に長篠の戦で討死したせいで、
わずか16歳で、兄の土屋家と義父の土屋家を両方継ぐことになり、
かつ重臣総討死状態の武田家を若年の身で支えなくてはいけない立場になって、
武田家を守るべく、早く実力をつけるために
どんなことでもいいから先輩から学びたいっていう向上心の表れにしか見えなかったり。
よし、知名度の低さ払拭のために、ちょっと、手元史料から逸話をまとめてくるノシ
0281人間七七四年
2012/01/05(木) 17:25:04.42ID:ymtgiK8i武田家が長篠で手痛い敗戦を喫した際、敗走する武田勝頼の傍から離れることなく警護した土屋昌恒は
その忠義を賞されて、戦死した兄土屋昌続と義父土屋貞綱の遺領と同心衆を共に引き継ぐことを認められ、
更に勝頼の側近として取り立てられて重く用いられることになった。
このとき、昌恒はまだ16歳。
幼い時から英明で知られた昌恒は、バリバリ仕事をこなし、
内政官としてもその手腕を発揮していった。
しかし、いかに昌恒が優秀であったとしても、まだまだ若年・若造に過ぎず、
信玄代からの重臣で、出頭人と呼ばれた跡部勝資の権勢には遠く及ばなかった。
それから、約10年が経ち、いよいよ昌恒がその本領を発揮できる歳になった頃には、
武田家は幾多の外交的失策を重ね、昌恒がいかに一人頑張ろうとも
すでに挽回不可能な状況に陥っていた。
そして、天正10年、木曽義昌の寝返りから始まった織田信長の武田征伐により、
武田家家臣団はあっという間に瓦解。
武田勝頼主従は、一門衆小山田信茂を頼って本拠地新府城から甲斐郡内の岩殿城へ向かうが、
先行して態勢を整え、迎えを寄越すはずの小山田から一向に連絡が来ない。
やむを得ず武田家宿縁の地天目山に逃れようとした勝頼主従は、天目山の麓、田野あたりで、
一帯が戦場になることを嫌った地下人を引き連れた武田家臣大熊備前守、甘利左衛門尉、
秋山摂津守らに鉄砲を撃ちかけられる。
時を同じくして、小山田信茂は既に勝頼を裏切り、関を閉ざして郡内への入領を阻んでいるとの報が入る。
ここで武田勝頼に対していつものように忠言する跡部勝資を見ていた土屋昌恒が口を開く。
続きます
0282人間七七四年
2012/01/05(木) 17:27:13.85ID:ymtgiK8i跡部勝資「お館様。小山田が裏切ったからには、郡内への逃亡は不可能になりました。
ここは、地下人たちの目をなんとかくらまして、天目山に逃れ一旦情勢を窺うべきです。」
これを聞いた昌恒は、他の者が発言する前に、勝頼に向かってこう述べた。
「私のような若輩者が発言するのは角が立つかもしれませんが、このような最悪の状況下においては、
その者の年齢ではなく、その者の心が剛であるか否かでご判断ください。
尾張守(跡部勝資のこと)様のおっしゃることはちょっと未練がましいとしか言いようがありません。
こういう無分別な考え方こそが、今の最悪の状況を招き、
武田家が滅亡の憂き目に遭っている原因に他なりません。
よくよく分別をわきまえてください。
数代に亘る家臣の小山田出羽守(信茂のこと)が敵となり、天目山の地下人にさえ背かれては、
どんな鉄城鉄山に籠城したとしても、生き永らえられるとは到底思えません。
侍は、死すべき時に死ななくては恥というもの。
当家の祖、八幡太郎義家も侍は死すべきところを知るが肝要と言葉を残されております。
たとえ兵が少なくなったといえども、新府城に留まって敵を迎え撃ち、
命の限りに矢が尽き刀折れるまで戦った後
一門ひとつの場所で腹を召されてこそ、武田の武名を顕し、
信玄公以来の武勇の程を示せたというものです。
それを人の道に反する小山田なんぞを頼ってここまで逃げ、身分卑しき者の手にかかって、
御一門の屍を山野に晒すのは、後代までの恥辱だとは思いませんか?
戦の勝敗は時の運ですので、戦って負けることは恥のようであっても実は恥ではありません。
ただ戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死なないのは武門に傷をつけるものです。
とある書に曰く、進むべき時に進まないのを臆病な将(臆将)といい、
引くべき時に引かないのを暗愚な将(闇将)といいます。
とすれば合戦おける進退とは、結局のところ分別工夫によるものと言えます。
ところが、尾張守(勝資)のおっしゃることは軽率で分別がないとしか言いようがありません。」
0283人間七七四年
2012/01/05(木) 17:34:58.02ID:ymtgiK8iこれまで昌恒には色々と溜まっていたものがあったのだろう。
ここでついに思いの丈を、怒りをにじませながら、終いには悲涙を流しながら言上する。
「…この期に及んでこんなことを申し上げてもしょうがないが、
このまま胸の奥に仕舞っておくのも無念なのであえて言わせていただく。
先年、越後にて景虎と喜平次(上杉景勝の事)が争ったとき、
そこにいらっしゃる方々は欲をかいて黄金を欲しがり、
景虎に対して不義となる判断をしたために、天下に悪名を広め、諸人から嘲りをうける結果となりました。
そのため、武田家と北条家は同盟が崩れ、相互に怨敵とみなすことになり、
ついには、このような状況にまで至ってしまいました。
かつては、そこにいる方の邪欲によって当家は窮地に陥りました。
そして今回、小山田を始として恩顧の侍達が、我らを見放しましたが、
全ては、そこにいらっしゃる方の無分別な助言に起因します。
敵は余所にいるのではございません。」
この言葉を聞いた跡部尾張守(勝資)は、一言も返答できず、赤面して平伏したという。
その後、覚悟を決めた勝頼主従は、織田方に対して最後の攻撃を仕掛けることとし、
昌恒は40騎ばかりを率いて死にもの狂いで突撃し「数千騎の敵を東西南北へ切散す」戦いぶりを見せた。
そして勝頼夫妻が無事自害したことを聞き届けると、
「人切りたるが面白サに、大将の御伴を外れるのは残念だ。
さて皆の衆、最後の一戦をして、腹でも切るか」と言って、敵の大軍に向かって切っ先を並べて切り込み
一歩も引かず、戦場に屍が横たわり血が川のように流れるまで戦い、一人残らず討たれたという。
以上、軍記物のなかでは比較的信憑性が高いといわれる甲乱記より適当訳で。
ちょっと血生臭いけれど、バラバラになっていた主従が、最後の最期で一丸となった良い話?ということで。
長文失礼しました。
0284人間七七四年
2012/01/05(木) 23:43:50.09ID:AkHtTZ82長慶の甥で阿波国主の三好長治は急の用事があり、京の長慶に書簡を出すことにした。
その使者として長治に選ばれたのが、福成寺の住職である。
住職は長治から書簡を預かるとこれを寺に持ち帰り、書簡を文箱に収めてお堂の地蔵菩薩の前に保管した。
住職自身はその傍らで一睡もせずに夜を明かす。日の出と共に出立するつもりなのだ。
さて特段のこともなくその夜は明け、住職はいよいよ京へ向けて発つべく文箱から書簡を取り出そうとする。
そして一驚したことには、なんと長治から預かった書簡が箱の中にない!
ばかりか、代わって長慶からの返書がすでにそこに認められているではないか!
なんと弘法大師が彫ったという地蔵菩薩は、住職の長旅を哀れに思い、彼に代わって夜間に京の長慶の元を訪れ、
一晩で返書を持ち帰って来ていたのだ。
この事はたちまち阿波の人々の噂に上り、以来福成寺のこの地蔵は飛脚地蔵として親しまれたそうな。
民話の世界でまで長治さんの真言宗苛めっスかw
って思ったら、福成寺は住吉神社(三好義賢が幼少時神主を務めた)の別当寺でもあるそうで、
悪い話でもなさそうなのでこっちのほうに。
0285人間七七四年
2012/01/05(木) 23:49:44.00ID:7uO7wyLB阿波の地蔵菩薩は京まで行ってくれる
四国の十三仏のご利益はすごい
0287人間七七四年
2012/01/06(金) 00:42:02.93ID:qrdv8HGDでもどさくさにdisられる勝資さんカワイソス
最後までなんとか可能性を探るのもそれはそれで一つの見解だと思うし
0288281
2012/01/06(金) 01:30:55.58ID:8suojzJK当時16歳じゃなく19歳(数えで20歳)でした。すみません、訂正します。
>>287
結果論になっちゃうけど、あと3か月耐えれば、本能寺の変で信長が死ぬから、
勝頼はともかく信勝は、跡部勝資の助言に従って逃がしておいた方が良かったかもしれない。
でも、同じ甲乱記によれば、信勝は死の直前に
「ただ妄念なるは、新府城で信長を待ち受けて討死すべきところを、
臆病者どもの異見によってここまで逃げてきたのは残念だ」
とか言っちゃってるから、信勝も武士としては立派だけど、脱出ルートは無理筋みたい。
0289人間七七四年
2012/01/06(金) 01:36:34.63ID:Cv9UI7oY三ヶ月たっても本能寺が起こるとは限らない
0290人間七七四年
2012/01/06(金) 01:45:52.66ID:fIYQS0ECそうしてから>>271を見ると、「周りとうまくいかず」ってのも分かるね。
二十歳そこそこで一国に関わる大仕事していたら、それは気負いすぎてもしきれないくらいの辛さだろう。
責任感もものすごい重圧だろうし、他人に対して尊大な態度を取ってしまうのも分かる。
それで、どんな大事な仕事をしていても楽な仕事だと思えと言ったのかな。
臆病でもいいってのは、臆病と呼ばれても命を大事にって意味かも。
つらいなあ。
0291人間七七四年
2012/01/06(金) 01:51:13.97ID:d7QqeiGuもうちょっとニートで頑張るか
0292人間七七四年
2012/01/06(金) 01:59:41.35ID:9TxS8Mu8ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける >>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。
片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける (´;ω;`)
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
0293人間七七四年
2012/01/06(金) 02:01:49.21ID:9TxS8Mu80295人間七七四年
2012/01/06(金) 02:03:58.16ID:fIYQS0EC0296281
2012/01/06(金) 02:06:20.07ID:8suojzJK0297人間七七四年
2012/01/06(金) 02:07:28.44ID:16H/n99Mその昌恒から敬愛されるかがみんも凄いが、
この人は武田滅亡の折どうしていたんだ??
0298人間七七四年
2012/01/06(金) 02:14:59.12ID:fIYQS0ECと言いたいところだが
正行が「加々見長門」と同一人物なら、法善寺城で徳川方と戦い生害、と記述にぐふっ!!
0299人間七七四年
2012/01/06(金) 20:08:04.78ID:j6Hx395zどうせ北条は滅びるんだし景勝を支援したことに間違いはなかった
0300人間七七四年
2012/01/06(金) 20:22:29.99ID:BqXQrSPw0301人間七七四年
2012/01/06(金) 21:16:54.79ID:5BPs0VS5明智光秀と濃姫はいとこにあたる
しかしこの二人は恋をしていた
しかし信長のような一国をまとめる程の器が光秀にはなくてその想いを濃に打ち明ける事ができませんでした
光秀はまだ濃が信長に嫁ぐ前、濃に一通の手紙を渡します
それは別れの恋文でした
光秀はこの日から斉藤家を離れ将軍配下の細川家へ出仕する事になったのである
0304人間七七四年
2012/01/06(金) 21:30:00.69ID:u2paUtjr0305人間七七四年
2012/01/06(金) 21:37:50.89ID:OQDI4GyY0307人間七七四年
2012/01/06(金) 22:36:25.89ID:C7pI/7sg0308人間七七四年
2012/01/06(金) 22:39:32.39ID:yist9wDS信忠を大将にして対武田のメンツ+徳川連合軍で攻めるのかな?
滝川を与力にして、一門衆や池田、森で固めて、蒲生や堀みたいな次世代武将も
経験積ませるために参加させるのだろうか。
鬼武蔵がヒャッハーして坂東武者を刺激する姿が目に浮かぶぜ。
0310人間七七四年
2012/01/06(金) 23:19:42.78ID:5YBDsyKp0312人間七七四年
2012/01/06(金) 23:42:47.43ID:yist9wDS後世の評価は、無口で、内ゲバ起こして弱体化し、なすすべなく織田家に滅ぼされた大名
0313人間七七四年
2012/01/06(金) 23:46:17.82ID:kt2VdFrT北条は九州の後だろw
0314人間七七四年
2012/01/06(金) 23:48:18.92ID:z2nYJbSV天庵様くらいしか思いつかない
0315人間七七四年
2012/01/06(金) 23:55:00.86ID:C7pI/7sg0316人間七七四年
2012/01/07(土) 00:14:52.81ID:2dWjTK5b九州は織田とどういう関係だったのかな?
毛利との関係で大友はかなり交渉してたとは思うけど
島津だって猿関白みたいにうつけ右大臣とは言ってなかったんでしょ?
0317人間七七四年
2012/01/07(土) 00:26:05.62ID:mrYXyBDM信濃方面からは鬼武蔵軍団が
北越後では新発田さんが謀反&
本能寺が起きなかったら上杉滅んでるなw
0318人間七七四年
2012/01/07(土) 00:29:48.55ID:mtlsr2RHまあこれが成立しても北畠のような末路になりそうだが
0319人間七七四年
2012/01/07(土) 00:30:10.98ID:WGM1VMA90320人間七七四年
2012/01/07(土) 00:33:42.45ID:QngnlNrTまだ毛利と戦闘中・長曾我部と開戦目前の状態で九州まで手を伸ばすとかありえん
どう考えても北条が先
ちなみに伊達は鷹を送るくらいの親善はしていた…けど潰されるよなぁどのみち
南部くらいの僻地だと服従で済むかもしれんが
0322人間七七四年
2012/01/07(土) 00:43:19.63ID:QngnlNrTそうだよ。織田に対して北条はかなりへりくだってた
織田包囲網への参加要請ものらりくらりかわして、織田と関係悪化させなかったし、
武田を瞬殺した信忠を後継者として評価していたから、土下座して服従宣言した
対して上杉は>317に加えて南に滝川、東北で蘆名(織田とは別件)がにらみを利かせてた
0323人間七七四年
2012/01/07(土) 01:26:06.56ID:mrYXyBDM※※※※※※※※※※※※※※※※※※│ ┌─┘※※└佐渡※│発├──┘ │※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※│ │┌─┬─────┤田│ │※
───────┬──┐※※┌────┘ └┘ → 上杉家 └↓┤ 陸奥 │※
織田家 │ ┌┘※※│織田家北陸方面軍 ├─↑─┐ │ │※
中国 ┌──┘ └──┬┘ ┌────┬─┘ ┌┴─↑─┼───┬─┤※
方面軍 │ └───┘ │織田家 └┐ │ │ │※
(羽柴) │ ┌┐ │鬼武蔵軍団│ │宇都宮│ │※
← │ ││ ┌┴─────┘ └┐ │ │※
───┐│ └┘ ┌┘ 織田家 ┌───┴┬─┘ │※
※┌┐└┴┐ │ 関東方面軍 │ │佐竹家│※
※│淡 ※│ ┌──┴┐ ┌┐(滝川)│ 北条家└┐ │※
┐│路┌─┘ ┌─┐│ └──┘│ └┐ ┌─┐│ │※
│└┘│ │※└┤ 徳川 └─┬──┘┌┘※││ │※
│※※└┬──┐ └┐┐└────┐ │ └┐┌┴┴─┬┘※
┘※※※│雑賀│ ┌┘※※※※※└────┤ ┌──┘│里見 │※※
※※※※└┐ │ ┌┘※※※※※※※※※※※│ │※※※└───┘※※
※※※※※└┬┘ ┌─┘※※※※※※※※※※※※└─┘※※※※※※※※※※
※※※※※※└────┘※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
図にするとこんな感じか?
イジメってレベルじゃねーぞwwww
0324人間七七四年
2012/01/07(土) 01:35:23.46ID:jmrtBHjbもしこれで生き残れたら俺まじ英雄じゃね?」←決戦が起きない
0326人間七七四年
2012/01/07(土) 06:35:53.55ID:KkT78Psi大掛かりな軍隊出せるのも関東がせいぜいじゃないかね。
0327人間七七四年
2012/01/07(土) 08:47:25.38ID:gW1+rINP広げまくった戦線の空白を光秀がついた どのみち織田は滅びてた
0329人間七七四年
2012/01/07(土) 15:41:37.14ID:zS9x57hy南部と信長でふと思い出したんで投稿してみる。
南部但馬守信長 都会生活を満喫する
南部家から上洛した南部但馬守信長は、国元の七戸氏に書状を出した。
『今春の慶び、言い古されてはいますが、慶び終わることがありません。
去年は遠路にもかかわらず、鷲の尾を十尾も送っていただいて、ご懇切の段、お礼申し上げます。
当年は国元に下向するつもりでしたが、信虎(武田信虎か)に色々ととどまるよう言われちゃって
やむを得ないこともあり、(逗留を)引き延ばすこととなりました。来年は早々に下国するつもりです。
昨年は禁裏様(天皇・正親町天皇か)の前に置いて能が催された際に召し出されちゃいました!
また今月の五日には上意様(将軍・足利義輝か)のところで能の笛を吹かせていただきました。
上意様には特に懇ろにお言葉を掛けていただき、生前の思い出になりました、もうなにも言うことありません!
くわしくはかならず、助五郎から話があると思います。
追って申し上げますが、お届けした一枚起請文は梶井殿様の直筆のものなので、秘蔵されるなら本望です。
また、そちらに留め置いている足弱達を扶助していただいていること、祝着至極です。
来年は下国し、お目にかかりましょう。
南部但馬守
信長(花押)
四月十日
南部七戸殿』
ちょっと微笑ましい、笛の名手の南部但馬守信長さんのお手紙。
この書状、いまだに年代比定が定まってない(文明19年説・永正15年説・永禄6〜7年説等)のですが
個人的には、言継卿記の永禄12年の条に、『南部但馬守が知行のことについて話しに来たので、織田信長の奏者に引き合わせる』
という記事があるので、もしかしたら二人の信長が対面したこともあったかも、ということで永禄説を(勝手に)推してますw
0331人間七七四年
2012/01/07(土) 17:00:28.40ID:Kq6tDZwq0332人間七七四年
2012/01/07(土) 17:07:13.27ID:rmHIWuBj0333人間七七四年
2012/01/07(土) 17:31:33.36ID:MEn64Y+/これが陸戦型脳筋モンスター軍団だったら反攻したのかも知らんが…
0334人間七七四年
2012/01/07(土) 17:34:32.66ID:exucoFwt近江の信長直轄軍は健在だし伊勢には信雄、さらに当時大坂には信孝のもとに
丹羽らが軍勢を終結させる程度には残っていた
よく本能寺は畿内に軍事的空白を作ってしまったからだという説が唱えられるが
実際には本能寺の時点で、京の信長のすぐ傍に、いなかったというだけの話
それも二・三日後には京都に軍勢が集結する予定だった
光秀はそのほんのわずかな一瞬を突いた奇襲だったんだ
仮に光秀が二日迷ったら、京にはもう信長と信忠の数万の軍勢が終結していただろう
0335人間七七四年
2012/01/07(土) 21:34:53.42ID:dULsTHOk信孝・丹羽の軍団は本能寺の後、逃亡するものが続出し大混乱。
更に筒井順慶が河内の三好領に攻めて来るとの風聞が流れて動くに動けず。
とても京に進軍する力は無いよ。
0338人間七七四年
2012/01/07(土) 22:29:01.15ID:dULsTHOk0340人間七七四年
2012/01/08(日) 01:28:29.78ID:heKET7U90342人間七七四年
2012/01/08(日) 21:36:43.49ID:ckXvohHy>>335
織田家って情報操作と調略を有効活用していたけど、本能寺以降はより活発化するね
家中で最も優秀な諜報能力があった羽柴と明智の戦いだから当然なんだけど
調べてて面白い
0343人間七七四年
2012/01/08(日) 21:54:40.01ID:1lijqs2s0345人間七七四年
2012/01/09(月) 01:02:57.76ID:tSbJGvnE三河→関東への国替えが色々と影響でかかったんじゃないのかな〜
0346人間七七四年
2012/01/09(月) 01:06:28.05ID:ASeFSQgs中央集権の裏付けになった。
0347人間七七四年
2012/01/09(月) 01:17:21.51ID:tSbJGvnE0348人間七七四年
2012/01/09(月) 01:31:37.03ID:ukR0/HH/0349人間七七四年
2012/01/09(月) 01:38:22.77ID:ASeFSQgs与力大名や大身家臣の軍勢を除いた、大番などの徳川宗家直属軍だけで、
前田家全体の軍勢よりも多かった。
0350人間七七四年
2012/01/09(月) 03:15:40.85ID:TZMaBT0Y大番も、武田遺臣など小身の外様は活躍しているが……。
0353人間七七四年
2012/01/09(月) 14:20:06.18ID:ASeFSQgs西郷、戸田、小笠原、依田、真田、穴山、大須賀、あたりはそうだな。家康も大身だけにけっこういる。
関東に入ると本多、榊原、井伊をはじめとして万石以上がやはり一気に増える。
0354人間七七四年
2012/01/09(月) 14:25:25.90ID:cVZYs6l10355人間七七四年
2012/01/09(月) 14:55:44.49ID:lNZIHFOuあ、小諸6万石の依田康国は重要ですな。
あと、関東入府前だと、石川、小笠原は与力じゃないんじゃない? 石川数正は
河内に封土もらっていたし、小笠原貞慶は讃岐半国だし。
0356人間七七四年
2012/01/09(月) 16:01:45.19ID:cVZYs6l10357人間七七四年
2012/01/09(月) 16:06:21.90ID:cVZYs6l10358人間七七四年
2012/01/09(月) 16:44:47.42ID:jt+d33Sr0359人間七七四年
2012/01/09(月) 17:05:38.93ID:cQUIlE/I0361人間七七四年
2012/01/09(月) 22:23:05.63ID:jt+d33Sr武田が滅亡し加賀美正行が死んだ時、その子・正光は幼年であったので落ち延びていった。
天正16年、家康は正光を召しだし、烏帽子親を選んで元服させた上で直接対面した。
家康は亡き正行を褒め、その死を残念がり、正光に仕官を勧めた。正光は平伏して応諾した。
これは特別のことで、人々は不平を口にし、それが家康の耳にも届いた。
それに対して家康はこう諭した。
「お前達はわしが甲州の名門旧跡ばかり喜んで特別扱いするというが、そんなことはないぞ。
その家の者が優れていると思うからこれを重用するのであって、家名を選んでいるのではない。
例えばあの正光の父である加賀美正行は、比類ない剛の者であった。
わしが武田に勝利したときのことだ。追撃していたものが使いを寄こして、しんがりの抵抗が
激しいから加勢が欲しいと行って参った。わしは不思議に思って内藤四郎左衛門をやった。
眺めてみると、敵のしんがりは地勢ををうまく味方にしていて、こちらを近づけない。
飛び込んでは引き、引いては飛び込み、まさに鬼神のごとき働きとはこれであった。
ここが死に場所と、軽輩雑兵に至るまで根が張ったごとき必死の覚悟がみえた。
このようになった敵をよく追い払うことはできないものだ。
誰かと(内藤に?)聞けば、あれは加賀美殿の息子でしょうと言うので然りと思った。
ところが後から聞いた話によると、正行はこう言っていたそうだ。
『お味方敗軍のことまこと意外であり、また急に退くとなって動揺した。
自分が殿軍に指名されるとは、まったく思いもよらないことだった。』
しかし平素から覚悟が座っているからこそ、変にあってもこのように振る舞えるものなのだ。
ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり、手落ち傷を誇らしげに見せにきたり、
そういう浅はかな覚悟とは違うぞ。
旧家名跡の子というのは、それだけに却って重んじられないこともあるから、お前達にとって
意外な人事となり、それはわしがブランドに弱いからだと思うかもしれないがそうではない。」
(加々見呈譜)
最後のあたりはかなり意訳。主語がところどころ分からん…。
他国者の登用に不満たらたらの、譜代の子弟に皮肉を言っているのだと思われます。
なおその後正光は小田原征伐、九戸一揆、関ヶ原、大坂の戦いに参加、書替奉行となった。
加賀美家は次々に加増を受け本家は500石、一族で1000石を越えた。
息子は大阪で先手弓頭として活躍、孫達は将軍の子弟の小姓などに取り立てられて行く中、
正光は寛永5年(または6年)に57歳で死んだ。幸せであったことだろう。
正行シリーズ終わり。
0362人間七七四年
2012/01/10(火) 00:16:05.68ID:tK7p5aY4意外な人事となり、それはわしがブランドに弱いからだと思うかもしれないがそうではない。」
このようにして家康は、厚遇している新参・当参者たちの理由を列挙していったので、
彼らは大いに面目を施したという。
(加々見呈譜)
0363人間七七四年
2012/01/10(火) 00:22:08.15ID:gXZKP/FC本人の戦功じゃなくて、親の戦功で特別に召しだしたんだったら
三河者たちが納得するとも思えないなあ
0365人間七七四年
2012/01/10(火) 00:50:06.71ID:afxWu2oK親の武功で取り立てられた第二世代になっているとか?
0366人間七七四年
2012/01/10(火) 00:51:34.03ID:k1jYGRTeというものがあるので、武士社会においてこれは圧倒的美談だね。
0367人間七七四年
2012/01/10(火) 01:00:25.68ID:afxWu2oK圧倒的…………美談…………!!
源氏を名乗り始めたのは、ちょうどこの頃だっけ?
0368人間七七四年
2012/01/10(火) 01:18:51.07ID:k1jYGRTe源氏自体は祖父の清康の段階で名乗ってる。
というか家康の安城松平はその祖である松平長親の段階で既に新田源氏を名乗っていた、
という説もある。
0370人間七七四年
2012/01/10(火) 03:35:30.93ID:oYPii3Nq0371人間七七四年
2012/01/10(火) 03:56:42.21ID:tK7p5aY4すみません。
>>誰かと(内藤に?)聞けば、あれは加賀美殿の息子でしょうと言うので然りと思った。
とあるので勘違いされたかと思いますが、加賀美殿の息子=正行 です。正光のことではないです。
原文を直訳して書いたのですが、分かりづらくてすみません。
たぶんこの時まだ正行は若くて、父親の方が有名だったのではないでしょうか。
武田滅亡時に正光は10歳くらい、正行は40前といったところです。
この逸話がいつの話なのか分かりませんが、長篠だとしても30ちょいですね。
このころには武勲も立てているはずですが、それでも父親のほうがイメージが強かったのでしょうか。
0372人間七七四年
2012/01/10(火) 13:31:39.35ID:YhSPlZgv本人が気にするくらい。
0373人間七七四年
2012/01/10(火) 17:38:30.97ID:wNhN+rjs小牧長久手の戦いの最中、蟹江城が滝川一益に調略され秀吉方となると、
一益は九鬼嘉隆と共に三千の兵を率いて、まず一益が五百の兵と共に入城し、
次いで大野城を攻め始めた
このことを近場にいた井伊直政が家康に報告するために清須城に向かい、
入浴中の家康に告げると、家康は報を聞くなり浴衣のみを着て蟹江へ出陣し、
蟹江にいた一益と船上の嘉隆の間を分断してしまった
この時、随身したのは直政のみ、途中合流した五百余のみで行われたこの行動は
後に家康一代の勝事と言われた
0374人間七七四年
2012/01/10(火) 18:00:33.92ID:9nasp5MP. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
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/ ヽ
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. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:' お前それ三方ヶ原でも同じこと言えんの?
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、
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0376人間七七四年
2012/01/11(水) 00:15:18.56ID:30dwQ4ZC0377人間七七四年
2012/01/11(水) 00:49:12.37ID:ie1TmtpUl / .r―――┐l
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、 l / / | |
,r' `' 、 ,ゝ、',,,,,,,,_/ | |
/ ヽ, ' / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
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l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| / ヾニ・= .i=・ コ
l:,;'"`'、, .ニ=ミ.. ヾ= 〈 / l | 混ざりたいのか、家康?
. ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙, ./ ィ ,l .!
l;゙、',.::l;;;i ///// r ヽ./// l,/,.. r'`ニニヽ, .l'、
l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;,,,ヽ ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
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' ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"i、_,-、/ `ノ;;;;;`-、:、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン \
'';;;;;;;;;;;;;;' 二 ,イ ''' ``'‐.、ーァ'7" |
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0378人間七七四年
2012/01/11(水) 02:58:07.39ID:3MNtkTbtやっぱ家康は戦うまいな。
三方原の時は寡兵で若かったが小牧長久手以降の家康なら信玄も倒せると思う。
0379人間七七四年
2012/01/11(水) 03:00:46.90ID:a1Fv7SHCそのへんは信玄に大いに学んでいると思う。
0380人間七七四年
2012/01/11(水) 03:30:51.62ID:B6xEIrgn勝機を逃さないのは見事だな
天下人になるだけの才能は持っていたって事なんだろうな
0381人間七七四年
2012/01/11(水) 18:01:22.95ID:3hRTfHhiその後なんのかんのあって仙石秀久→豊臣秀吉に使えるが、秀吉のもとでまた刃傷事件を起こしたらしく
出奔。このとき激怒した秀吉から刺客を放たれたそうなので、よほどひどい事をしたのは間違いない。
まあともかくそんなこんなで勝成が畿内にも居られなくなり、西国を放浪していた頃の話である。
出奔したとはいえ嫡男である勝成を流石に放っておくわけにはいかなかったのか、水野家家臣
杉野数馬と近藤弥之介は牢人を装って勝成の居場所を捜索、ようやく発見し、刈谷に帰るよう説得したが、勝成
「冗談ではない」
と断固拒否。二人は困り果てたが勝成を一人にするわけにもいかず、仕方がなく彼の後について
放浪の旅に従った。
と、そのうちに備後か備中のあたりで蓄えが尽き、杉野・近藤は勝成をお堂で休息させて、その間にその地の民家に
施しを貰いに行った。まさに乞食旅である。
時に初夏であったため、二人は麦の施しを受けた。彼らは一旦お道に戻り、渋紙の上にこれをおいて
乾燥させ、再び施しを受けるためその場を離れた。
ところが一天俄に曇り、大雨が降り注ぐ。勝成がふと気がつくと、お堂で乾かしてあった麦は
この雨で流され始めたではないか!
さて、雨があがる。
杉野と近藤はようやくお堂への帰路についた。
この時、杉野は近藤にいう
「さっきお堂に干しておいた麦だが、雨に流されてしまっただろうな。」
「ん?若様が取り入れてくださっているさ。」
「何を言うか!」
杉野が少々色を成して言った
「あの麦を取り入れるようでは、若様に将たる器量はない!もし取り入れているなら、その程度の器量の人間に
付き従い流浪していても意味が無いので、早速に刈谷に戻り忠重様に総報告しようぞ!
しかしあの麦を取り入れず捨て置かれていたのなら、これは大勇の器であり、その貪らない性格は
見上げたものであるといえよう。そのような人物であるなら実に、助け仕えるべきだ!」
二人がお堂に帰ってきた。これを見つけた勝成は大声で呼びかけた
「ふたりとも遅かったな!さっきにわかに大雨が降ってきて、おまけに大風まで吹いて麦をことごとく
流してしまったぞ!大風は横様から突入して敵を散らすよう、雨に打たれては飛び上がり押し流される有様、
まるで逃げる敵を追撃するようであった。それは合戦の攻防そのままで実に面白かったぞ!」
これを聞くと杉野・近藤はハッとして飛び下がり膝をただし
「なんとありがたい仰せでしょうか。先に自分たちは、若様が麦を取り入れるか否かを話しておりましたが、
このような賢慮はまさに大将の器量です。殿の出世開運は間違いないでしょう!」
と、感動して申し上げたという。
これとよく似た話が立花宗茂にもありますが、名君の逸話のテンプレとして存在したのでしょうか?
ともかくも水野勝成、麦が流れ吹き飛ばされるのを見ていた、というお話
(岡山の伝承「でんぐら堂ものがたり」より)
0382人間七七四年
2012/01/11(水) 18:16:49.41ID:yM8McyF/0383人間七七四年
2012/01/11(水) 18:51:20.71ID:K+u9WCAs0384人間七七四年
2012/01/11(水) 18:53:33.67ID:QmOoNs8Q0386人間七七四年
2012/01/11(水) 20:29:58.69ID:KTyPqdLH0387人間七七四年
2012/01/11(水) 21:37:39.47ID:Y1Ag0hTuおお、若様こんな気配りが出来る様になって…ってキャラじゃないですね、うん。
0388人間七七四年
2012/01/11(水) 22:00:04.22ID:B6xEIrgn0389人間七七四年
2012/01/11(水) 22:07:26.18ID:Zz4Q1Rzr0390人間七七四年
2012/01/12(木) 00:33:57.87ID:ZUZ23yq+熊本城受け取りの折、立花宗茂の家臣に十時連貞の消息を訊ねている。
勝成と連貞は、肥後一揆の兵糧入れの戦いでともに合言葉を言い合いながら作戦を成功させた仲であるが、
この二人にはそれ以外にも不思議な縁がある。
連貞が江戸の町で暴漢に襲われ格闘した事件を土井利勝に審議されたことが、立花宗茂の大名復活のきっかけである。
その後、宗茂は徳川秀忠に寵用されていく。利勝と勝成は従兄弟。秀忠と勝成は乳兄弟である。
また、宗茂の妻ァ千代が、滞在していたのは、勝成の妹の嫁いでいる加藤家である。もしかしたら、
立花宗茂の大名復活の裏には、なんらかの形で勝成がかかわったのかもしれない。
0391人間七七四年
2012/01/12(木) 00:58:52.48ID:7Y2RwD/F0392人間七七四年
2012/01/12(木) 11:42:38.22ID:8aPf5DSM0393人間七七四年
2012/01/12(木) 11:58:04.36ID:27tsjk7j0394人間七七四年
2012/01/12(木) 14:07:41.37ID:4oG6Zm3+顔は馬のように長く大きく、更にその顔にはほくろが無数にあるという異相だった
また豪胆でかつ芸もよくする風流人であり、
その異相の顔におしろいと紅を塗りたくって頭に真っ赤な頭巾を巻いて女装し
ほうきを持って踊るという宴会芸の持ち主で、この芸には流石の景勝も微笑み気に入っていたという。
水原は武勇の士らしく平時戦時に拘らず
いつも兵糧代わりに味付けされた餅を懐に入れていた。
彼は謙信に従って川中島の戦いにも出て武功を立てたという老兵であり、
大坂の陣に出陣したころにはもう既に70歳。
その後景勝が米沢へと帰還してくる際、上杉家家中は全員城の前に居並び
主君の帰還を出迎えることとなっていたのだが、その中に当然水原の姿もあった。
家中の者たちが老年のこの武者を「年寄りが無茶をする」とからかうも笑って取り合わず
主君の帰りを平伏して待った。
米沢城へと帰還する景勝の行列が家臣一同の出迎えを通り過ぎる中
ふと景勝は水原の姿に目を留め、彼の前で輿を止めさせた。
「常陸、変わりないか」
景勝から声がかかるも、水原は一向に顔をあげず平伏した姿のまま動かない。
周囲の者たちは、水原も老齢であるからさては待っている間に寝たのかと思い
彼の体を揺すって起こそうとすると、彼の懐から兵糧代わりの餅が転げ落ちた。
これが水原親憲の最期の姿であったという。
米沢土産のおもちの由来だったり。
いつもと変わらない姿で主君の前で死んだって所が忠義の士らしくて
好きな話なんだがちょっとうろ覚えなんで細部が違うかもしれん
0395人間七七四年
2012/01/12(木) 18:15:10.02ID:Qzo3384eと変なところに感心してしまった
0396人間七七四年
2012/01/12(木) 18:48:25.06ID:xt21/gtT懐に入れてるだけで死んでしまうなんて!!
餅はやっぱり危険な食べ物なんだ!!!!
0397人間七七四年
2012/01/12(木) 19:24:41.29ID:7BaT/NPB>周囲の者たちは、水原も老齢であるからさては待っている間に寝たのかと思い彼の体を揺すって起こそうとすると、彼の懐から兵糧代わりの餅が転げ落ちた。
「おい、爺さん寝たのかよ」
ユサユサ
ゴロン
「死、死んでる」
なんかコナンにありそうな展開だなw
0398人間七七四年
2012/01/12(木) 19:30:45.39ID:+3S3rTJTなんとも、日本が作る時代物の映画の終わり方みたいだな。
血気盛んな若者の話も好きだが、老いてからの島津義弘とか
こういう老齢の士の話も好きだ
0399人間七七四年
2012/01/12(木) 19:34:04.34ID:gBFBYdhA0403人間七七四年
2012/01/12(木) 21:20:48.78ID:MDNpxjbRこんな格好した、鴨居に頭ぶけるようなオッサンが居たら笑うしかないな
http://webgalerie.chez-swan.net/galleries/Films_d_animation/Kiki_la_petite_sorciere/Kiki_la_petite_sorciere_01.jpg
0404人間七七四年
2012/01/12(木) 22:25:15.86ID:Tx1ux6yLこれには景勝公も苦笑い
0405人間七七四年
2012/01/13(金) 02:38:35.26ID:AY2+RVW6水野勝成
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300543875/
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 00:36:35.50 ID:hkBIrevH
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/akiyama_yumi/017/index.html
水野勝成の武将としての功績は現在多くの方が著されているが、
古くは勝成の逸話をおさめた『宗休様御出話』という史料が残されている。
ひとつには、家中の軍功のある者や、古くから仕えている家臣の病が重いと聞くと、
勝成はその家まで見舞いに行き、みずから薬を与えたという。
また、家中の者は、安芸や京、大阪、伊勢へは御暇願を出さずとも、
老中へ届け出るだけで自由に遊覧できた。帰ると、勝成に土産を差しだし、世間話をした。
勝成はその者に、無事であったかとか、旅の様子など楽しく聞くのだが、
その際自分の側近衆も家中も差別なく待遇したという。
若い頃の自らの放浪を懐かしむような、温かい目線であったことだろう。
ある藩士が事情があって、紀州徳川家に仕官し、紀州から照会があった折り、
勝成は「福山藩では望み通りの知行がやれなかった。しかし召し上げれば、役に立つ者である」
と往信した。他の藩に仕官する者にもそうであった。
武士に奉公構え(他の藩に仕官できないようにすること)は無理な仕置きである。
主将の道には慈悲に欠けてはならないと言っていたという。
自らが奉公構えを出され苦労した経験が、見事に活かされている。
このような数々の逸話は、勝成がいかに家臣や領民にとって良き統率者であったかを語っている。
豪胆にして繊細、勇猛果敢な武将にして有能な為政者、
そしてその人間味あふれた人物像が浮き彫りになればなるほど、彼の虜になってしまう人は
現代においても多くいる。
分断された南側に今も建つ賢忠寺には、勝成の甲冑や肖像画、頭髪、茶碗、砂時計など
多くの遺品が所蔵されている。
水野勝成の功績や人柄と共に、広く公開されればと願う。
0406人間七七四年
2012/01/13(金) 03:38:40.89ID:tpp8ttnJ0408人間七七四年
2012/01/13(金) 10:03:34.94ID:Y7hHO2Km水原は兼続や慶次郎などよりも
落日の上杉家に清涼感を与えてくれた気がする
もっと顕彰されないだろうか
0409人間七七四年
2012/01/13(金) 11:38:52.40ID:kzahPtmK0410人間七七四年
2012/01/13(金) 11:38:54.06ID:qarJKv0c戦国の世の中を生き残るには水野タイプか立花タイプが一番いいみたいだな。
とにかく中途半端はイカンな
0411人間七七四年
2012/01/13(金) 11:53:59.86ID:/3eBJAHo豊国「そうそう」
0412人間七七四年
2012/01/13(金) 14:27:51.70ID:jtoSXHovその二人は実力と運と人脈に恵まれて、たまたま生き残っただけで
戦国時代には無数の勝成・宗茂もどきの屍が転がってたと思う
0413人間七七四年
2012/01/13(金) 15:11:10.20ID:qzUCVkDt直江は上杉と徳川が対立した原因を家康にも景勝にも求められなかった人たちが
江戸時代にスケープゴートにしただけで本人は基本的に忠臣じゃん
直江状も爽快な文章だとして広まったもんだし
水原や安田が直江と対立したような話も
出所は直江を悪臣にして徳川上杉叩きを回避しようとした話が元だし。
0414人間七七四年
2012/01/13(金) 15:25:35.16ID:gU7lqkXF0415人間七七四年
2012/01/13(金) 15:34:27.22ID:8NJoN/ZK0416人間七七四年
2012/01/13(金) 18:14:58.81ID:QXtAUjp+0417人間七七四年
2012/01/13(金) 18:17:25.01ID:AY2+RVW6それどころか家康の権威を素直に認めたものだとか何とか。
そうなるともうわけわからんw
0418人間七七四年
2012/01/13(金) 18:41:06.31ID:l0leCNf5結果としてその意思決定のために国が害を蒙ったら(武田→国が亡んだり、上杉→石高が激減したり)、
後世非難されたり、嫌われても仕方がないと思う。
国の指導的立場にある人の宿命でしょう。
直江状も、その後がうまくいっていれば、時の権力者に啖呵を切った爽快な文書として素直に受け取れるけど、
結果、主君に土下座させることになったわけだから、
身の程知らずが書いた愚かな文書、と受け取る人がいてもしょうがない。
0420人間七七四年
2012/01/13(金) 20:23:08.83ID:U6GkUUgF跡部勝資は本当に可哀想な人間だと思うぞ
側近の同僚だった山県昌景、原昌胤、土屋昌次が一時期にごっそり死んでしまったからな
0421人間七七四年
2012/01/13(金) 21:02:47.08ID:l0leCNf5基本的に異論はない。跡部勝資の人生は、個人的には気の毒だったと思う。
才幹能力と地位にミスマッチが生じたのは、
偶然と勝頼の人材を見る目のなさに起因していて、そういう意味では跡部勝資の責任じゃないから。
ただ、それなりの地位に就いた人が、その地位に見合うだけの能力がなかったってのは、
現実のステイクホルダーにとって、可哀相で片づけられない不幸だと思う。
前に土屋昌恒の逸話で、跡部勝資の判断の行き当たりばったりさが「無分別」だと激烈に非難されてたけど、
それはやむを得ないことだと思う。
一国の指導者層の人間が、判断を誤って国を滅ぼして、それでも非難されないとしたら
歴史から学ぶことは何もなくなってしまう。
うん。立派な長文スレ違いだw
お詫びに何か出せる逸話がないか、手元史料を探してくるノシ
0423人間七七四年
2012/01/13(金) 23:11:11.28ID:VwcasYXl0425人間七七四年
2012/01/13(金) 23:17:50.33ID:Bgkzh0Vu0427人間七七四年
2012/01/14(土) 00:36:51.36ID:SiGmPcGW1550年末、山口に滞在していたフランシスコ・ザビエルは、布教のために京へ向かった。
この年は寒気が厳しく、雪が膝丈まで積もっていた。
道中、この雪で難儀していた男がザビエルに言った。
「あなた方は天竺人なら、なぜもっと雪を少なくするように言ってくれないのか」
当時、日本人の中には『天竺は天にある』と考えている人がいたのである。
0429421
2012/01/14(土) 01:37:52.74ID:AoiLY2l10432人間七七四年
2012/01/14(土) 02:00:34.07ID:WP5ixwv90433人間七七四年
2012/01/14(土) 02:03:40.78ID:AoiLY2l1北条夫人の最期(上)
北条氏康の6女とされる北条夫人は、長篠の戦いに敗れ劣勢に陥った武田家が、
外交関係を立て直すため北条氏との同盟を回復したのに伴い、天正5年に正室として武田勝頼に嫁いだ。
このとき勝頼31歳、北条夫人14歳。親子ほど年が離れた夫婦であるが、その仲は睦まじかったといわれる。
しかし、御館の乱における武田家首脳部による外交判断のミスにより、
北条夫人の実兄上杉景虎は上杉景勝に敗北し自害、北条家と武田家の同盟関係も破綻してしまった。
大名間の同盟に伴って相手国に嫁いだ姫は、
その同盟関係が破綻すると離縁して実家に戻るのが当時一般的であったが、
北条夫人は自らの意思で武田家に残ったといわれる。
そんな仲睦まじい勝頼夫妻にも最期の時が訪れる。
天正10年、織田信長の侵攻により、武田家の統治体制は瓦解、
本拠地韮崎の新府城を脱出し郡内岩殿城へ向かった勝頼主従は、
小山田信茂の裏切りに合い進退窮し、天目山の麓田野で自害することに決した。
勝頼は、ここまで付いてきた北条夫人に、安西伊賀守らを使いに出してこう伝言させた。
「武田家一門の命運は今日を限りとなりました。あなたは女性なのだから自害する必要はない。
幸いここから小田原へは道も険しくないので、どんなことをしてもあなたを無事にご実家へ送り届けます。」
北条夫人はこれを聞いて、
「なんと嘆かわしいことをおっしゃるのでしょうか。前世の縁が浅くないからこそ、夫婦の契りは深いものなのです。
たった一夜であっても、お互いのために命を捨てられるのが夫婦の仲なのに、
私たちは契りを結んで今年で7年にもなります。
たとえ小田原に落ち延びたとしても、あなたが末の露と消えてしまうのに、
私だけが残っても何の意味もありません。
元より夫婦は二世の契りと申します。ここで共に自害して、死出の山も三途の川も手に手を取って渡り、
来世でも共にありたいと願うのが私の本心です。」
とおっしゃって、全く小田原へ落ち延びようとなさらない。
更に女官に向けて
「長い歳月、一人の子も出来なかったことを悲しんでおりました。
神や仏に、子が出来ますようにと祈っておりましたが、今となっては、子がいなくて良かったと思っています。
幼い子がいれば、大層思い悩むことになったでしょうから。」
と穏やかにおっしゃる様を見て、哀れに思わない者はいなかった。
0434人間七七四年
2012/01/14(土) 02:05:58.87ID:AoiLY2l1この時点で、北条夫人の供の者もあらかた逃げ失せており、
早野内匠助、劔持丹波守ら4名が残るばかりであった。
北条夫人は彼らを呼び寄せこうおっしゃった。
「皆が散り散りになるなか、貴方たちがここまで御供してくれたこと大変嬉しく思っております。
ただ、後の弔いのため、何とかして手紙を小田原に届けたいのです。
もし手紙を届けてくれれば、貴方達が最後まで御供してくれるよりどれほど嬉しいことでしょうか。」
しかし、早野らも
「妻子を捨て、ここまで御供したのは、姫の最期を見届けるためです。
ここから小田原へ帰るなど断じて出来ません。」
と首肯しない。
これに対して北条夫人は、
「あなたたちを小田原へ返すのに格別の理由はありません。
私は女ですので、私がどのような場所でどのように死んだかと、小田原の者達は気にするでしょうから、
最後の様子をお知らせしておきたいのです。
それと、北条家は代々武門の家ですので、女ながらも、見苦しい最後ではなかったと、皆へよく伝えてください。」
とおっしゃって、手紙をしたためて、髪を少し切り、手紙に添えて渡そうとなさったので、
早野らは力及ばず受け取るしかなかった。
そうこうしているうちに、勝頼より、北条夫人の御座所は鉄砲の射程距離に入っているので、
少し引いて岩陰に隠れてくださいと使いがあった。
しかし、北条夫人は
「身を惜しみ、命を惜しむときであれば、矢鉄砲から避けもしましょうが、
一時も早く消えばや、と思っている身の私が、岩陰に隠れてどうするのです。」
とおっしゃって引こうとしなかった。
この思い切った様子に、女性にも関わらず誠に強健なお心をお持ちの方だと、
兵たちは一層勇気づけられ、最後の進軍をしたという。
0435人間七七四年
2012/01/14(土) 02:11:45.14ID:AoiLY2l1やがて、北条夫人は、正面で戦闘が始まったと聞くと、西に向かい念仏を高らかに唱え、
「勝頼様はどこにいらっしゃいますか。私は先に自害いたします。
お急ぎください。お待ち申し上げております。」
というお声を最後の言葉にして、脇差を胸元に突き立て、
声も立てずに衣で顔隠して御倒れになった。
そのころ勝頼は、4、5人の敵と渡り合って戦っていたが、
秋山紀伊守より北条夫人が自害したと聞き、北条夫人の元へ引き返した。
勝頼は北条夫人の枕元へ立ち寄ると、衣を除けて顔をご覧になった。
北条夫人の雪のような肌は血に染まり、化粧も消えかけ、朝顔がしおれたような風情になっていた。
剛健で知られた勇将の勝頼も、悲しみのあまり北条夫人の顔を二目と見ることが出来ず、
涙に暮れ心乱れたのも無理がないことであったろう。
ややあって、涙を押さえて、北条夫人のお顔をかき抱くようにして自身の膝に乗せ、
北条夫人がまるで生きているかのようにこう語りかけた。
「不意にこの大乱が起きて、
そうであってもなんとか反撃しようと思っていたが、結局立て直すことができなかったよ。
それだけでも情けない思いをしていたのだが、
最後にこのように涙に沈み切ってしまうほどの悲しみを味わうとは。
暫く待っていてくれ。死出の三途の川を、手を取って共に渡ろうぞ。」
勝頼は北条夫人に突き立てられた柄まで赤く染まった脇差を抜き取ると、
その脇差で自身の腹を十文字にかき破り、
はらわたを掴んで四方へ投げ捨て、北条夫人と同じ枕に倒れ伏し絶命した。
なお、小田原への手紙を託された4名のうち、劔持丹波守は、一人も北条夫人のお供をしなければ、
あまりに聞こえが悪いとして、小田原へ帰らず田野で討死したとも伝わる。
小田原に遺髪と共に届けられた北条夫人の手紙には、以下の辞世の句が詠まれていた。
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消ゆる 露の玉の緒
乱世に消えた彼女の「思」とは、勝頼への想いであったのだろうか。
以上、「甲乱記」より抜粋、雰囲気訳で。
北条夫人の最期は、理慶尼記に記載されたものもなかなか趣深いのだけれど、
仏教色が強すぎて、さらっと訳すと趣きがなくなるので、こちらを紹介しました。
長文失礼いたしました。
0436人間七七四年
2012/01/14(土) 02:23:17.28ID:rx8PcQ52泣いた
残念だったがなんと立派な最期なんだろうか
この夫婦の人柄が垣間見える話だなぁ
0437人間七七四年
2012/01/14(土) 03:39:29.53ID:qnI6JcJv0438人間七七四年
2012/01/14(土) 04:12:40.26ID:3aoZ5wqkこれと思った男の側で死ぬのもまた、女の花道よ。
しかし、四郎さんも年の差夫妻だったとは知らんかった
0439人間七七四年
2012/01/14(土) 07:39:15.36ID:COCtoorz0440人間七七四年
2012/01/14(土) 09:15:24.64ID:oZElkRTa※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316767827/鬼の女房に何を期待しているのやら
0441人間七七四年
2012/01/14(土) 14:02:35.26ID:WP5ixwv9勝頼らは首を信長に送られてるんだが北条夫人の遺体がどうなったかについてどこでも読んだ記憶がないんだが・・・
氏康が生きてたら怒るだろうなと思ったけどそもそも結婚させないか
0442人間七七四年
2012/01/14(土) 14:58:04.11ID:rWOLSkhk妹かと思ったら松姫でがっかりしたという話があったような。
0443人間七七四年
2012/01/14(土) 15:15:36.59ID:I+iO/EFY凄く凛としたイメージがある
幻庵さんの教えにもある通り、一族の女性として徹底されてるんだろうな
0444人間七七四年
2012/01/14(土) 15:24:34.91ID:4LFd4BvB0445人間七七四年
2012/01/14(土) 17:21:28.65ID:AoiLY2l1武田勝頼と天目山で殉死したその家臣らの菩提を弔うために建立された景徳院には、
勝頼夫妻の御墓とは別に没頭地蔵尊という史跡があって、
そこに首を失った勝頼、信勝のご遺体と北条夫人のご遺体が葬られているといわれているから、
北条夫人のご遺体は現地で葬られたとみてよいのではなかろうか。
0446人間七七四年
2012/01/14(土) 18:09:29.39ID:Txb+Pfqc北条嫁道連れの勝頼
0447人間七七四年
2012/01/14(土) 21:55:12.25ID:jMjEl+zA嫁の実家があるから返そうとしてずるずるそっちにつられたのか
信濃育ちの勝頼なら信濃方面に逃げたそうだが武田の当主としては甲斐は捨てられなかったか
景勝とか真田を巻き添えにしたくなかったか 嫁はどうせ景勝とか嫌ってそうだしな
0448人間七七四年
2012/01/14(土) 22:57:04.17ID:F5NdAd6S0449人間七七四年
2012/01/14(土) 23:07:59.55ID:floe4nr2少なくとも勝頼の嫁は助かっただろうけど
0450人間七七四年
2012/01/14(土) 23:10:40.73ID:jMjEl+zA0451人間七七四年
2012/01/14(土) 23:37:42.19ID:2CNYQG+B0452人間七七四年
2012/01/14(土) 23:43:33.63ID:F1o5IB5w0453人間七七四年
2012/01/15(日) 00:17:04.49ID:owoKT2iQ0454人間七七四年
2012/01/15(日) 00:23:15.57ID:RLEc3Yw50455人間七七四年
2012/01/15(日) 00:31:07.08ID:sB7d7dwk0456人間七七四年
2012/01/15(日) 00:57:38.40ID:njmSC6Lb0457人間七七四年
2012/01/15(日) 01:25:22.78ID:mVctGRs10458人間七七四年
2012/01/15(日) 01:58:21.11ID:yBz6KDJD0459人間七七四年
2012/01/15(日) 11:00:18.06ID:M7BTWqv90460人間七七四年
2012/01/15(日) 11:03:37.21ID:KmVqosCO0462人間七七四年
2012/01/15(日) 11:29:28.71ID:LxS+m1+T0463人間七七四年
2012/01/15(日) 11:57:50.18ID:JpRkT9YY出身:阿波国、勝瑞館東方の守将として活躍、勝瑞城落城後、江戸へ
0464人間七七四年
2012/01/15(日) 12:48:14.66ID:kZ5edQlN0465人間七七四年
2012/01/15(日) 13:03:50.17ID:sB7d7dwk0466人間七七四年
2012/01/15(日) 13:21:10.25ID:ufJ/ZaY+0467人間七七四年
2012/01/15(日) 14:17:58.79ID:PnXnnzPl彼はその頃、備中にあった。
ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして
「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」
と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、類題の重宝として大切に扱った。
その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。
長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)
伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。
0469人間七七四年
2012/01/15(日) 14:42:38.92ID:vdvFJhDw0470人間七七四年
2012/01/15(日) 18:34:14.48ID:VuOO3RbO0471人間七七四年
2012/01/16(月) 01:46:03.24ID:YL6C6JHoって笑われたが未だに理由が分からないorz
それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい
まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw
0474人間七七四年
2012/01/16(月) 10:49:52.19ID:eymfK7ns0475人間七七四年
2012/01/16(月) 10:56:22.77ID:UMtwRRff政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな
0476人間七七四年
2012/01/16(月) 11:17:25.92ID:UMCm6O+O0477人間七七四年
2012/01/16(月) 11:57:46.24ID:Z7H2vYjl0478人間七七四年
2012/01/16(月) 13:09:33.96ID:p91pD8I1義光「ムシャムシャしてやった」
04791/2
2012/01/16(月) 17:59:25.82ID:nEbxNjIs天文19年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。
「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
「やはり、いけませぬか。」
「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
「承りましょう。」
住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。
「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を
武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。
そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」
住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を焼き払い、山中を隠れ行き、上方目指して去った。
長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が
『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。
04802/2
2012/01/16(月) 18:00:10.48ID:nEbxNjIs昭和32年(1957)、小笠原氏本貫の地・松本市の市立図書館長に就任した忠統を、一人の青年が訪ねて来た。
「“殿様”、よくぞお戻りになられました。今こそ、これをお返しいたします。」
「これは・・・?」
青年の名は、久根下栄一。『殿様の白牡丹』を守り続けた、久根下氏の末裔であった。
栄一は、小笠原氏も一時居城とした松本城に、この牡丹を株分けする事を提案し、忠統もこれを快諾、
牡丹は松本城本丸庭園に移植され、『小笠原牡丹』と呼ばれるようになった。
戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。
ttp://www.shinmai.co.jp/flower/200005/00052302.htm
ttp://www.oshiro-m.org/quiz/g1_4.pdf (PDF注意)
0481人間七七四年
2012/01/16(月) 18:24:20.42ID:kVgPYhsu0482人間七七四年
2012/01/16(月) 18:40:24.10ID:LqaT6squ0484人間七七四年
2012/01/17(火) 00:57:33.45ID:WAh17nbXこんな見事なの、よくぞ守ってくれたねえ。
小笠原長時も久根下さんもいい仕事をなさったわ
0485人間七七四年
2012/01/17(火) 10:07:32.88ID:zEzPJ5T9旧主の小笠原家に託されてずっと貴方達の目に触れないように
守ってきた牡丹を株分けに行きますとは時代的に言えなそうですよね。
後で知られても面倒になりそうだし。
0486人間七七四年
2012/01/17(火) 12:16:20.88ID:y5jQAZXY0487人間七七四年
2012/01/17(火) 19:53:27.42ID:frhW3ahoでも、逸話の中にもあるように、小笠原長時の息子、小笠原貞慶は
1583年からの2年間、松本の領主だったこともあるわけで。
さらにその息子、小笠原秀政も1613年から松本の領主だし。
なぜその時ではなく明治維新まで待ったのか、激しく疑問。
0489人間七七四年
2012/01/18(水) 00:29:03.58ID:XB8+aVzd0490人間七七四年
2012/01/18(水) 01:34:01.55ID:xwullzVz先祖の名を借りての売名行為だろうなと思う
そうだとしても
いい牡丹が広まるならそれでいいことかもしれないしな
0492人間七七四年
2012/01/18(水) 13:47:05.32ID:2y+dcaG40493人間七七四年
2012/01/18(水) 19:52:35.75ID:fI82nRiW0494人間七七四年
2012/01/18(水) 23:11:45.33ID:gLtHvzOZつくり話も必要だよな
0495人間七七四年
2012/01/18(水) 23:56:35.09ID:dAE1MDAq0496人間七七四年
2012/01/19(木) 00:07:20.58ID:rz6fE7kD墨俣城は平成19年に26,379人
これはどんなもんなんだろう
0497人間七七四年
2012/01/19(木) 20:27:17.62ID:o3UKwLsP0498人間七七四年
2012/01/20(金) 00:26:07.31ID:3I1sSiA1あそこは桜並木があって花見シーズンにはそれなりに賑わうから、その人数をカウントに入れてそう。
0499人間七七四年
2012/01/20(金) 01:01:54.39ID:D+3sOqhPそも、博物館の平均入館者数は平成19年度で4.93万人だから(一部がものすごく底上げした結果だけど)
こんなもんなんじゃないの
うん、スレチだな
0500人間七七四年
2012/01/20(金) 01:32:53.07ID:K+caqm2pあるんじゃないの
0501人間七七四年
2012/01/20(金) 01:39:07.28ID:XspuTWx2人から犬に至るまで戦闘力が高く、ロンダルキアに例えられる甲斐であるが、
なんと戦国時代初期にはドラゴンまでが多数生息し、人はその頭を竜王と呼んだ。
ショウキョウのころのことである。甲州巨摩郡に貧しい村があった。
ある時戦があり、道に迷ってボウキノカミという武士がやってきた。
村人達は宿をしつらえ、村を挙げて彼を歓迎した。
夜半、ボウキノカミは大きな物音に驚いて飛び起き、何事かと尋ねた。
村人はこれは大竜が叫び暴れている音なので、心配いりませんと答えた。
「なんと珍しい話だろう。それならば私が成敗して参らせよう」
といって、ボウキノカミは広い河原を歩いて行き、黒い淵をのぞき込んだ。
すると水面に泡が立ち、巨大な竜が躍り出て襲いかかった。
ボウキノカミは少しも慌てず、弓を引き絞り矢を放つと、矢は竜の片目を射貫いた。
竜は一度淵に沈み、これで落着かと思われたが、再び躍りかかってボウキノカミの
袖に食らいつき、彼を水の中に引きずり込もうとした。
ボウキノカミは刀を抜き、竜の鼻先を袖ごと両断した。
竜は刀を鼻先に食い込ませたまま再び淵に沈んで、ついに浮かんでこなかった。
ボウキノカミが「確かに大竜であった」と言うと、
村人は「あのような竜が数知れずおり、さらに巨大な竜王がいるのです」と答えた。
ボウキノカミは驚いて、「それでは私の手に負えない」と言った。
村人は「ありがとうごした」と言って彼をねぎらい、別れを告げようとした。
するとボウキノカミは、
「この貧しい村が私を歓待してくれた礼に、国主信昌公に申し参らそう」と言った。
村人達は相談して、嘆願状を作った。
0502人間七七四年
2012/01/20(金) 01:43:27.62ID:XspuTWx2その時国主であった武田信昌はこれを重く見て、悪竜の討伐に数多の武者を派遣した。
武者達は三日三晩、竜王の軍勢と戦ったが、ついに勝利を得ることができなかった。
ボウキノカミが戻ってきて国主に言うには、
「これを武力で征伐することはできません。法力を持って調伏致したく存じます」。
そこで信昌は国中の僧侶・修験者を集めて派遣し、土を盛って祭壇を作り祈祷を行った。
ある晩ボウキノカミが寝ていると、どこからともなく大きな声が聞こえてきた。
「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである。ソウダ淵の河原に、
赤と青の大岩が山から落ちて、互いに圧し合っているので、これをどけて欲しい」。
ボウキノカミと村人たちは人をかき集め、この大岩をどけようとした。
ところが余りに巨岩であり、とても地上を転がすことは出来ない。
そこで岩の根本にくさびを打ち、巨木を巻き付け、河原に土手を築いて増水を待った。
やがて大水が出て河原まで水に沈んだ。巨木の浮力と抵抗で巨岩は転がりだし、
なんとかその場所から河下へとゆっくり離れていった。
見守っていた人々が小躍りして喜ぶと、黒い水面から光り輝く巨大な竜女が現れた。
「以前の大地震のとき、私は妊娠の身体で岩に挟まれ、みな非常に苦悶していた。
いま仏の功徳と汝らの労苦によって、ようやく済度を得た。これからは山にこもり、
人の恩に報いるため、子を授け産を安んじて進ぜよう」。
0503人間七七四年
2012/01/20(金) 01:53:38.89ID:XspuTWx2ドラゴンクエスト3 〜そして伝説へ〜
ボウキノカミは、竜神を鎮めたことを国主信昌に報告した。
信昌は大いに喜び、大竜のこもった山に寺を建てた。これが大竜山満福寺である。
いまボウキノカミが袖ごと竜を斬った淵は、袖淵といい、その刀を袖切という。
また、人々はこのあたりを竜王という地名で呼ぶようになった。
その後、国主の妻であった人が、子を授からないのを憂いて入水しようとした。
人がそれを止めて「満福寺の竜神様にお願いしましょう」と言った。
彼女がその通りにすると、やがて子を授かったので岩下殿と呼ばれるようになった。
信縄は大いに喜んで、三度舞った。これが後に武田氏中興の祖となる信虎である。
(「古老は語る-山梨の民話伝説-」から引用した小冊子より、現代標準語に意訳)
なお竜王討伐に乗り出すのが信昌でなくて信玄だったり、満福寺に祈願して生まれた
のが信虎でなくて信玄だったりするが、具体性などから恐らく後世の仮託だと思われる。
また、甲斐国志によると、ドウキノカミというのは山本道鬼齋勘助のことだとあるが、
この説を取るなら、年代的にあり得ない。
ドウキノカミというのは伯耆守とか、主鷹司(ようしのかみ)など官職名の転訛、
シンジョウというのは苗字か法名、或いは諱の有職読みだと考えられる。
年代は戦国時代であるのに、不思議に神話的なお話。
0504人間七七四年
2012/01/20(金) 13:48:09.35ID:w9Xt6lnx記念イベントを開いたが、地元「東奥日報」は12月に「落城400年を
歩く」を連載し、津軽為信に取られた諸城を紹介した(当然ながら
落城は津軽統一戦の過程なので、400年よりもっと昔)。
初回は石川城で、落とした手口は悪い話にある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5509.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2433.html
討死したとも、落ち延びたとも伝えられる南部(石川)高信は地元に
「おらほ(=うち)の殿様」と慕う人が多い。送り盆では松明行列で
高信を慰霊するほか、2004年に弘前中心街に為信の銅像が建てられた
時も町内で集まりが悪く「石川はしょうがない」と催促されなかった。
他にも南部方として為信と戦った滝本重行@大光寺城、北畠顕村@
浪岡城らもそれぞれ地元で根強い人気があり、謀略や奇襲を常とした
為信を嫌う住民もいる。
滅亡、改易となった武将のいた城下はどこも同じかも知れないが、
津軽といっても為信を讃える地区ばかりではなく、敗将もそれなりに
偲ばれているという話。
0505人間七七四年
2012/01/20(金) 15:06:44.85ID:KW58J62k0506人間七七四年
2012/01/20(金) 15:13:10.21ID:X2Bo3mIW0507人間七七四年
2012/01/20(金) 15:22:35.00ID:KW58J62k佐賀辺りは、県としては小さいのにピンだしね〜
0508人間七七四年
2012/01/20(金) 19:53:09.86ID:eOYzXCPFドラクエwww
竜王って地名が今も本当にあるのかwwww
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2
ロンダルキアってどこだっけと調べてみたら、上九一色村とあるんだがwwww
あと、勇者は袖切の剣をどこで回収したんだろう?
0509人間七七四年
2012/01/20(金) 23:29:26.40ID:iGiKBQjW竜神が村人を苦しめる話は大体、
昔、河が氾濫して村人が苦しんでたって事を意味するらしいね。
で結果治水に成功したんだろう。
0510人間七七四年
2012/01/20(金) 23:54:41.51ID:tqLj9n+t0511人間七七四年
2012/01/20(金) 23:59:21.70ID:ysa3RWeN0512人間七七四年
2012/01/21(土) 00:28:23.96ID:wO1rsch3当然、その女性がなびくわけもなく、為信はその女性も攻め殺した
たしかまとめにあったかな
0513人間七七四年
2012/01/21(土) 00:52:46.22ID:/yrRuGqQ中央から派遣されたテクノクラートが、直轄領でない地域の治水に苦労した話なんだと思う。
ところで、
>>「汝はシンジョウというな。ならば汝のまことを信じて頼むのである
というのは、
『汝は「しんじやう(しんじょう)」という名であるから、私は汝を「しんじやう(信じよう)」でいいんだろうか。
0514人間七七四年
2012/01/21(土) 00:57:43.91ID:/yrRuGqQだね。しかしそういうのは大体は古代の話なのに、戦国に入ってからそれが信じられて、
地名にまで発展するってのも面白い。
このボウキノカミさんが、竜神を漠然と信じる農民をうまく騙って働かせたんだろうか。
ググってみたら、山梨での竜神信仰は明治のころまで盛んだったらしい。
0515人間七七四年
2012/01/21(土) 10:20:08.08ID:jaiZyrYOこっちは領主の娘に恋慕してクレクレするやつ
0517人間七七四年
2012/01/21(土) 19:19:18.63ID:eAk6pBiPこのスレでは『主君家康の鯉を食った男』として名前が出てきた鈴木久三郎。
彼は三方ヶ原の戦いでも従軍していた。
しかし味方は大苦戦、家康もあわやと言うところまで追い詰められる。
見かねた久三郎はこう言い放った。
鈴木「それがしが殿の旗印をいただき、身代わりとなりましょう!」
しかし家康は首を縦に振らない。
家康「お前一人に討ち死にさせて私が落ち延びることなどできん!」
と聞き入れなかった。
すると久三郎、大いに怒って家康に怒鳴りつけた。
鈴木「なんと、馬鹿なことを仰る! いいから貸しなさい!」
久三郎は家康の旗印をひったくると、ただ一人敵のほうへ引き返し、そのまま突っ込んでいった。
その後、久三郎や夏目吉信らの身代わりもあり、家康はなんとか浜松へ帰城した。
しかし、家康の顔は晴れない。
身代わりとなった家臣のことを気にかけていたのである。
家康「久三郎は討ち死にしたか……」
鈴木「殿ー! ただいま帰り申したー!」
家康「なにー!?」
が、久三郎、帰ってきた。
家康は驚くやら喜ぶやらで、久三郎を褒めた。
家康「よく切り抜けて帰ってきた!」
鈴木「いやあ、思ったよりも手強くない敵でした」
久三郎、あの武田軍相手に涼しい顔であったそうな。
身代わりになったと思いきや、生きて帰ってきた猛将のお話。
0519人間七七四年
2012/01/21(土) 22:17:46.44ID:KFOpj+4c. /;;;;;;;;;;;;;;;;;;l
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l ; l ,:'=<_〇,>; ':,く〇,,>,= ' l、.l l
ヽ 、l/ ヽ_ ~ l l ~ / ヽ/./
゙、〈 '、,r‐:l l-、 / /.,ィ,)t、 <ただ退くだけなのに大げさな様子で殿軍を申し出たり
. ヽゝ、 .ゝ,r.、 ,riノ ,r'',r' ! /l、 <手落ち傷を誇らしげに見せにきたり
l.ト //゙;彡三三ミ;ヽ /" / |/ ス <そういう浅はかな覚悟とは違うぞ
__,,,,,,l ヽ リ!''‐´ ''' `ヤリ ./ ノ / ./┴''" ̄ ̄
,,,,,,r'ヽ. ヽ ヽ. / / ノ
| ヽ. ヽ `':、 r‐‐-.、 ,、:' ,イ
. | ヽ. ヽ `'l;;;;;;;;;r'" .t'"', ',
| ヽ ヽ l;;;;;/ 人. ゙,.゙,
| ヽ ヽ. リハ,_,,、-‐''"´/\',.',
l ヽ. ヽ l'! ゝ、-、 \ \゙、
0520人間七七四年
2012/01/21(土) 23:14:24.18ID:1C5mp1ZK0523人間七七四年
2012/01/22(日) 11:01:00.03ID:XwFsKeBUもしかして幼名?
0524人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:29.65ID:DrLWsCnLはっきりしないんだよな久三郎殿
個人的には則定鈴木氏か酒呑鈴木氏あたりの誰かかなと睨んでいる
0525人間七七四年
2012/01/22(日) 11:09:58.61ID:+oBSMM0h幼名。
「いつまでたっても子供っぽいなあ」という、呆れ半分、親しみ半分的なニックネーム。
個人的見解だが、粗暴なところはあるけど、筋は通すし、(酒さえ呑まなければ)優秀だし、
でも、いろんな人にへこまされたり、かみさんに長刀で追い掛け回されたり、なんか憎めないキャラクターの持ち主だと思う。
(もちろん、弁解のしようも無いむちゃくちゃなことをやったこともあるが)
まあ、そんな感じで俺は市松こと福島正則が結構好き。
0526人間七七四年
2012/01/22(日) 11:12:33.87ID:lfcSKi7Qついでにその他の愛称
0527人間七七四年
2012/01/22(日) 12:52:21.90ID:ctTztZGIhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3160.html
藤代御前が立て籠もったと言われる館跡には、この逸話通りに津軽家の
菩提寺である革秀寺が建っている。藤代には地元バスの営業所があって、
青森に転勤してきて、弘前駅前で「藤代(営)行き」という表示のバスを
見た時に「ここか」とこの話を思い出した。
0528人間七七四年
2012/01/22(日) 13:38:15.98ID:XwFsKeBU>>525
おお!詳しくありがとう
何か自分も正則に興味湧いてきたよ
色々調べてみることにする
0529人間七七四年
2012/01/22(日) 14:22:47.98ID:IEQUGWRx名古屋城の御門番所に掛けられている御幕は、福島正則より受け継いだもので、
その紋所は正則の家紋・中貫十文字紋である。
この幕は、元々は清洲城の城門に掛けられていたものであったが、
関ヶ原後の城請取の際に、そのまま改めずに引き継がれたものだということだ。
さて、この門番所には、同様に織田家家紋の入った飾り鉄砲があった。
享保年間に、この飾り鉄砲の紋を尾張家家紋に差し替えるということがあったのだが、
陣幕の方は「今まで中貫十文字紋を使用してきたのだから」ということで、
差し替えられることはなかった。
おそらく今後もこの陣幕は、改められることなく使われるであろう。
(「金城温古禄」)
正則の紋というと、沢瀉紋が有名だと思うが、
中貫十文字紋は「古来用之」とある、福島家のもう一つの紋で、
丸に十文字、十字の交点が白く抜けている家紋
江戸時代の話だが、正則後日談ということで、投下した
0530人間七七四年
2012/01/22(日) 23:57:16.53ID:3POdXiJH肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが
0531pleaseアフィlink
2012/01/22(日) 23:59:33.53ID:q7X/smashttp://minus-k.com/nejitsu/loader/up156507.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156508.jpg
http://minus-k.com/nejitsu/loader/up156509.jpg
0532人間七七四年
2012/01/23(月) 00:28:29.45ID:EKpAdN1W司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか
0533人間七七四年
2012/01/23(月) 00:36:59.58ID:ysErkBH2というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。
0534人間七七四年
2012/01/23(月) 01:12:50.66ID:7ZXqXj9Aつうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな
0536人間七七四年
2012/01/23(月) 02:31:39.99ID:H0p29dMAボウキノカミってどこかで聞いたと思ったら、「ドウキノカミ」の逸話が『甲斐国志』二の300にあった。
清里の浅川の南西に道通という場所があり、徳川家康が信州へ移動する時の寝所に当てた。
これは浅川の口留番所であり、逸見路にかかわる平沢口の別道であったので、今でも番所橋という橋がある。
その昔この道を作って砦を築いたのは「ドウキノカミ」という人だったと伝えられている。
これは山本道鬼(勘助)のことだというが定かではない。
武田時代には平沢口へ通じる重要な場所であったために、浅川口番所を儲け浅川と樫山で守ったという。
しかし不便な場所であったので、その後は長沢(調べたらかなり麓の方)に番所が移った。
今の関本屋という商店のある場所が、番所のあった所である。
ドウキ(ボウキ)ノカミさんは、建設普請に優れた人だったんだろうね。
0538人間七七四年
2012/01/23(月) 07:55:50.21ID:tMsrIsrg0539人間七七四年
2012/01/23(月) 09:37:01.78ID:vAlCKIW/> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。
あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし
0540人間七七四年
2012/01/23(月) 09:56:06.56ID:q7T7grj20541人間七七四年
2012/01/23(月) 10:01:17.38ID:I6FWk76y0542人間七七四年
2012/01/23(月) 11:05:36.11ID:EKpAdN1W信雄「燃〜えろよ燃えろ〜〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
0543人間七七四年
2012/01/23(月) 11:09:31.89ID:JnG48o0C0544人間七七四年
2012/01/23(月) 11:12:53.18ID:nML09O3f0545人間七七四年
2012/01/23(月) 11:15:51.75ID:DtkaCxxJ0546人間七七四年
2012/01/23(月) 11:17:44.67ID:YdtnbgAD0547人間七七四年
2012/01/23(月) 11:23:41.48ID:FwHfxJjc>>546
悪いスレに帰れw
0550人間七七四年
2012/01/23(月) 16:36:19.18ID:88JHLf0b派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね
0552人間七七四年
2012/01/23(月) 16:47:51.26ID:PpsF+v76そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。
官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。
>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw
0553人間七七四年
2012/01/23(月) 17:16:14.69ID:tMsrIsrg0554人間七七四年
2012/01/23(月) 17:22:28.55ID:cBK4XWwm西国から差し入れがあったんだ!
0556人間七七四年
2012/01/23(月) 18:11:42.34ID:H0p29dMA0558人間七七四年
2012/01/24(火) 02:58:57.30ID:20b2fHuV実家の力をバックになんて天下人には通用しないし
信長も家康も、特に家康は女が政治に口を出すこと嫌ってるし・・。
0559人間七七四年
2012/01/24(火) 03:32:05.15ID:iOJZHP+10560人間七七四年
2012/01/24(火) 05:23:22.49ID:MJwUdaGo0561人間七七四年
2012/01/24(火) 09:22:47.92ID:fmfMYqzN伍子胥の家は代々呉に仕えていた名家であった。
しかし平王が諌言を受け呉家を根絶やしにすることとし伍子胥の父の呉著と兄の呉尚を殺害され、伍子胥も追手を差し向られた。
伍子胥は楚から逃避行を行い中途、物乞いをして凌ぎ、草の根を齧り、病魔に苦しみ死線をさまよい、
役人の目の逃れるため裏道を通りながらも隣国呉に亡命した。
伍子胥は復讐を誓いその後、闔閭のクーデーターの後に呉に仕え、呉でも頭角を表した。
呉は富国強兵政策で強国となり満を持して楚を攻めたのである。
名将である孫武と楚に詳しい伍子胥がいて尚且つ強兵を抱える呉に
大軍を擁しながらも楚はあちこちで敗退、ついに首都まで攻め落とされてしまう。
楚は絶体絶命のピンチを迎えるのであった。
伍子胥は首都を落とした後、復讐のため自らの父と兄を殺した
平王の墓を暴き死体を鞭で打つ死体を辱めたのである。
この事態を見過ごさなかった忠臣がいた申包胥である。
彼は楚の臣下であり伍子胥の旧友である。伍子胥が楚から逃れるときに同情し伍子胥を捕らえもせず
伍子胥の「楚を滅ぼす」との言葉に「ならば自分は楚守ってみせる」と言い袂を分かった人である。
彼は秦に哀公の元に行き、援軍を頼んだものの断られたのである。そこで宮殿の前で飲まず食わずで7日間泣き続けたのである。
秦の哀公は「楚は無道な国だがまだこのような忠臣がおるから滅ぼしてはならない」と楚に援軍を送り楚は呉を撃退することに成功した。
申包胥は楚の守り神だったのである。
0562人間七七四年
2012/01/24(火) 10:16:25.07ID:/+/fTO2j0563人間七七四年
2012/01/24(火) 11:40:46.56ID:lvrI7p1n0564人間七七四年
2012/01/24(火) 13:18:35.55ID:izby63zwここ意味わからんと思ったら呉→伍の間違いだな
0565人間七七四年
2012/01/24(火) 13:29:35.84ID:A4xpkwUq0566人間七七四年
2012/01/24(火) 13:36:19.55ID:Pi5RYq/n0567人間七七四年
2012/01/24(火) 14:06:24.04ID:GEFrFAW40568人間七七四年
2012/01/24(火) 18:20:40.80ID:20b2fHuV時代も国も違うぞ、ワレェ
0569人間七七四年
2012/01/24(火) 20:49:58.11ID:bZl5g/xf通称「よしだだいはち」って歌を歌って舞いを披露していたんだが、
その歌詞の一番がこんな感じ
「舞鶴山の まつかぜ(?)の音 今も昔もかわりなく」
「郷土を愛し 命を懸けた 我らが誇る 大偉人」
「よしだだいはち その亡骸は 今も我らを見守りつ」
ちなみに二番とか三番もあるらしいんだけど
ぶっちゃけ10年も昔のことなので忘れてしまった…
山形県天童市の幼稚園児に愛されていた謎の人物「よしだだいはち」のいい話
0570補足
2012/01/24(火) 20:54:07.56ID:bZl5g/xf当時の友人が、戦国時代の人とか言ってたので…
ソース元が不確定で申し訳ない
0571人間七七四年
2012/01/24(火) 20:54:52.80ID:hlbOF3Wx謎の人物?
0572人間七七四年
2012/01/24(火) 21:26:04.62ID:yM6wHD8w0573人間七七四年
2012/01/24(火) 21:41:08.60ID:bZl5g/xf山形市から通ってたんで、
将棋駒にこんなに関係する人物だったとは知らなんだ
ありがとう
0574人間七七四年
2012/01/24(火) 21:55:53.04ID:O32M3snt0575人間七七四年
2012/01/24(火) 22:01:01.09ID:rBxaf0+f0576人間七七四年
2012/01/24(火) 22:38:43.12ID:sRo5f9ME信玄と謙信と北条と義元と元康と元就と島津と宗麟と元親と長慶と久秀と道三と義景とで
それぞれ同じ一文をどう解釈したのかなんて面白いと思う
0577人間七七四年
2012/01/24(火) 22:40:05.99ID:5MkHZSCTほんの30年だか40年だかくらい前なんだっけ。墓の発掘で出て来たおかげで判明したとか。
あと孫氏の内容が広く伝わってるのって曹操が整理して注釈つけた奴のおかげなんだよね。
忙しいのによくそんなことまでやるもんだ。
それで思い出したけど、吉川元春が陣中で写本してた太平記も現存する中では原本に非常に
近い形残してるとかですごく学問的な価値があるらしいね。
と無理やり戦国に引き戻してスレ違いをごまかしてみる
0578人間七七四年
2012/01/24(火) 22:46:11.97ID:rYvfJEzi0579人間七七四年
2012/01/24(火) 23:11:20.01ID:u5iZYnBaこれはすごい!
屋敷の中がすべて金で塗られている!
全部の部屋の内外上下、壁の屏風、廊下と縁側、台所に馬屋、厠、ついでに置いてある机や道具まで金塗りだ!
屋根瓦と外壁の瓦は金塗りの上に花柄模様がついてるし!
おまけに全部の屋敷に門が2つずつあって、うち1つは関白だけしか使えない関白専用の門(もちろん金塗り)だ!
2000軒以上も建物のあった上京のほぼ全部がこんな建物で埋め尽くされてる!
これがたった6ヶ月で完成してしまうなんて!しかもいまだに広がり続けてるなんて!
そしてこれだけの工事をしておいて、屋敷の中だけでなく、門の外にさえ一切なんの汚れも痕跡も残ってない!
この世のものとは思えないほど清潔だ!
だけど…えーと…ほら……
こんなの大砲が4門もあれば半日で壊せるから!別に戦闘用に作られてるわけじゃないけど!
あと、ここの外にある京の町はヨーロッパの町より全然ショボいから!こことは直接関係ないけど!
あと、この町はいかにすごくて、所詮お金をたくさん出せば買えるけど、
ヨーロッパの町とか教会には無限の価値があるから!お金じゃ買えないから!
こんな無理矢理作らせた町は、関白が死んだら消えてなくなる気がするし!
繰り返すけど、日本の町が全部こうなわけじゃないから!
これから日本にくる新任の宣教師は勘違いしないように!
安土城や大坂城は手放しで賞賛しているのに、なんでこんなに真っ赤になって否定するのか。
フロイスのこの記述から、聚楽第がいかに凄い建築物だったかが逆説的にうかがえるのである。
0580sage
2012/01/24(火) 23:28:43.56ID:80/CUFp6陶晴賢の大叔父にあたる陶弘詮は、各地から『吾妻鏡』の写本をかき集め、自分で校訂。
その写本が、その後吉川家に渡り「吉川本」となって今に伝わってる。
そして、今ではこの吉川本が、『吾妻鏡』の最善本とされてるのよね。
他にも、吉川経基は趣味が禅問答、愛読の書が『元亨釈書』という文化人。経基筆の『元亨釈書』も吉川家に伝わってる。
こう見ると、吉川家って本当に史料の宝庫だよね。
ってか、元春の『太平記』が少し霞んで見えるような気も……。
0581人間七七四年
2012/01/24(火) 23:31:53.33ID:80/CUFp60582人間七七四年
2012/01/24(火) 23:50:33.41ID:tR2JMIjmフロイスの日本史は面白いよね
日本の権力者のなかでも秀吉が下賤の出だって内心で小バカにしたりして血統を重んじる西洋人の感覚が丸出しだったり
仏教も宗派によって邪宗だって貶める一方で
貴重な仏像とかうっかり書いちゃったり
ちゃんとした学僧の悪口はかかなかったりで読みながらフロイスの腹の底を探るのが楽しい
0583人間七七四年
2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS0584人間七七四年
2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s0586人間七七四年
2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD0587人間七七四年
2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndCこれが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年
2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e0589人間七七四年
2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0591人間七七四年
2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0594人間七七四年
2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96voそのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年
2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年
2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNgセンゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年
2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV0598人間七七四年
2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX0599人間七七四年
2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年
2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi0602人間七七四年
2012/01/26(木) 00:01:56.18ID:vtu5mV5x秀吉の生家の通字が「秀」だったという可能性もある。
0603人間七七四年
2012/01/26(木) 19:22:55.87ID:xCKS1zlX秀吉の父は木下弥右衛門秀ナントカや竹阿弥秀ナニガシってことか
なんかちょっと偉い人に見えてくるな
異父弟の秀長は百姓出身だって言うには多芸だしやっぱりそれなりに富裕層だったのかな
秀吉って父に関して何で語らなかったんだろう
幼いうちに死んだにしても大政所から色々聞いてるだろうに
0604人間七七四年
2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年
2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Egだれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年
2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える
弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0608人間七七四年
2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。
ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年
2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年
2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+0611人間七七四年
2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。
だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年
2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN0613人間七七四年
2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix0614人間七七四年
2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f50616人間七七四年
2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML変えすぎだろう…
0617人間七七四年
2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年
2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h0619人間七七四年
2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年
2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV0621人間七七四年
2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1特に問題ないってことか
0622人間七七四年
2012/01/28(土) 13:25:08.08ID:4faSkx4S0623人間七七四年
2012/01/28(土) 13:31:43.60ID:pQaPwTAf別人だと思ってた二つの名前が同一人物だったり
その逆もあったりするし
0624人間七七四年
2012/01/28(土) 13:35:02.25ID:MPnlgZY10625人間七七四年
2012/01/28(土) 14:09:40.30ID:XMVCfJ3m0626人間七七四年
2012/01/28(土) 14:13:12.39ID:6RNaz/r10627人間七七四年
2012/01/28(土) 14:25:59.94ID:cGf6rbGG0628人間七七四年
2012/01/28(土) 14:27:44.79ID:MPnlgZY10629人間七七四年
2012/01/28(土) 18:13:13.43ID:pLwH/qgN0631人間七七四年
2012/01/28(土) 21:06:11.30ID:6YM77AK00632人間七七四年
2012/01/28(土) 22:38:07.32ID:hF5IVVvb佐伯家とかの大神一族系の他門衆や
同門衆でも三大支族の志賀家と田原家は
偏諱を受けないみたいだけどね。
0634人間七七四年
2012/01/29(日) 00:48:22.56ID:7B+B5ExM0635人間七七四年
2012/01/29(日) 00:58:10.63ID:lzWD42wk0636人間七七四年
2012/01/29(日) 01:43:36.32ID:0W6epqBK(長宗我部信親とか秀次の家臣団とか例外はあるけど)
0637人間七七四年
2012/01/29(日) 01:44:25.70ID:TPZanYLJ0638人間七七四年
2012/01/29(日) 01:57:30.14ID:0W6epqBK伊達氏の通字「宗」や千葉氏系の「胤」は当主の下の字になることが多いから
家臣で頭の字に頂いてるのをよく見る
0644人間七七四年
2012/01/29(日) 13:59:39.50ID:P0DDgbd7みたいなんだけど、19代の大友義長から足利家から義の字の偏諱を受けて
通字としたため、通字じゃない方を慣習的に偏諱するようになっていったみたい。
同紋衆でも家格の高い田原家や志賀家は親を通字のままにしてたようだけど
佐伯家とかの大神一族系の他紋衆は、惟の字を平安の頃から通字にしてるから
基本的に偏諱は受けない信念があるようだ。
0645人間七七四年
2012/01/29(日) 14:14:14.43ID:zB0rRwcG簡単に言えば政虎と改名した時は正式に家督を継いでいなく
憲政個人の代理補佐役いわゆる陣代だったので、
山内の通字を使ってなかったと考察されている
0646人間七七四年
2012/01/29(日) 14:55:33.71ID:FHD6h9E1それも大体そうなんだが、結構例外も多い。
佐伯鎮忠(惟教の息子)とか田原鑑道(親賢の養父親資の弟)、統高親子とか
南志賀家の鑑隆・鎮隆親子とか。
そもそも吉弘ももともと田原一族だが、分離しちゃったし。
>>640
そう直参はみんなもらえる。
鑑連の代わりに加判衆になった戸次鎮秀も戸次の別家の当主。
だから鑑連も戸次一族の中でただ一人もらっているわけじゃなく、
みんなもらっている中の一人。
0647人間七七四年
2012/01/29(日) 15:02:41.84ID:FHD6h9E1「親」の他にも「直」「能」「氏」「秀」なんかもよく使う。
ついでに義長以前にも義右(第17代当主)がいる。
それ以前は将軍の下の字をもらっていたが、この頃から「義」の字を
もらうようになった。
なぜかというと「義」の字の方が高いからw
>>611に追加。
鎮忠
鎮則
2人どころかひどいのは3人同名さんがいる。
0648人間七七四年
2012/01/29(日) 16:15:37.70ID:dV7cpYjB備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。
秀吉からの和議の条件は以下の通り
・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
・清水宗治には切腹を仰せ付けられること
「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」
安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した
「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」
安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した
「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」
安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」
それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると
「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。
こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。
安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」
安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し
「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」
と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。
清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)
0649人間七七四年
2012/01/29(日) 18:35:56.38ID:lzWD42wk清水だって毛利の中じゃ外様なのに
0650人間七七四年
2012/01/29(日) 19:02:30.89ID:zB0rRwcG0651人間七七四年
2012/01/29(日) 20:13:27.85ID:skFjOdns国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな
0652人間七七四年
2012/01/29(日) 20:33:24.55ID:bIApyMfZ清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?
0653人間七七四年
2012/01/29(日) 23:04:04.52ID:J1U8VOXD確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが通説じゃなかったっけ?
0654人間七七四年
2012/01/29(日) 23:13:18.80ID:/TYHd38b0656人間七七四年
2012/01/30(月) 10:49:45.02ID:QD1iStZI大坂夏の陣から数ヶ月経た頃。
藤堂高虎に徳川家康が何気に尋ねた。
「あれは何と申したか、能の名手で、聚楽第でも見事に舞っておった、
しかもなかなかの槍の使い手で・・」
「喜多七太夫、でございまするか。」
「そう、そう、七太夫!あの者は、どうしておるかのう。」
なおもチラ見しながら家康が聞くと、高虎はやにわに平伏して言った。
「じっ、実は、七太夫は九州におりまする。どうかお許しを!」
秀吉の死後もその恩顧を忘れず、大坂の陣にも大坂城にて戦った喜多七太夫は、
いよいよ落城という時、旧知の高虎のもとに逃げ込んだ。
「武士とはいえ、もとは能役者、斬るにあたわず。なんとか逃げる手筈を・・。」
そこで、黒田長政あての添え状を持たせて九州へ逃した、と言う。
「おおかた、そのようなことであろうと思うておったわ。
能役者としてお前が後見するが良い。」
家康の許しを得て、喜多七太夫は京に戻り「喜多流」を起こす。
能楽五流の一つとなった「喜多流」は、藤堂家らの恩顧を受けて栄えたという。
高虎は常に言い続けてきたのだ。
「人を斬るばかりが武士ではない、人を生かすもまた武士なり」
・・・よく言う
0657人間七七四年
2012/01/30(月) 10:53:29.43ID:3CjR41MJ命と才能生かすためのお芝居だから何も問題ないが
0658人間七七四年
2012/01/30(月) 19:24:45.58ID:MDyxEeR30659人間七七四年
2012/01/30(月) 19:36:43.34ID:O2ZocYWo0660人間七七四年
2012/01/30(月) 21:10:13.68ID:Xi8WiCTj当時から太公望以上の功績とも言われ白起は秦に仕えること
40年、魏、楚、趙、韓などの大軍を撃破し続け向かうところ敵なしであった。
秦は、趙の領土である上党を攻め、ここに戦国時代最大の合戦である長平の戦いが始まった。
はじめに秦は趙の廉頗を攻め立てるが、守る廉頗は秦軍手強しと見るや土塁と城を築き長期戦に移行したのである。
これにより秦軍は攻めあぐね、長期戦による疲弊も出てきた。廉頗の作戦に秦軍は劣勢であった。
そこで秦は総大将を無敵の将軍であった白起に交代し宰相、范雎の提案に従い実戦経験がないながらも
兵法の大家との評判が高いが実戦経験がない机上の兵法家であった青二才趙括を総大将にさせるように仕向けた。
この策は見事にはまり、趙は実験経験がない青二才の超活を総大将にしたところを見ると
白起は総大将として出陣した。白起は策を用い趙括を兵に挑発させた怒った趙括が城から打って出てきたところを
伏兵で退路を遮断し城を占領したのである。
そのような戦況で補給線が遮断され40数日が過ぎ趙括率いる趙軍は餓えと渇きにより混乱に陥った。
同士討ちして仲間の肉を食べて餓えを凌ぐものもいたのである。結局趙括は打開しようと精兵をもって切り込んだが討ち死にした。
趙括指揮下の兵は武器を捨てて全軍降ったのである。
白起は捕虜を秦に連行するには食料が足りず、また返せば禍根となるため全員を食料をやると伝え捕虜を全員生き埋めにしたのである。
少年兵240名だけは許されたのである。こうして秦は趙に大勝したのであった。
しかし白起の功績を抑止しようとする范雎により趙と秦の間で趙が秦に城をわずか6城引き渡すだけの和議が行われてしまう。
和議の後秦はいくら趙の城を攻めようが落とすことが出来なかった。そこで白起に指揮を交代させようとしたが病気だとして白起は固辞したのである。
白起によると「秦の国力は低下し趙の国力は増強している。今まで勝ってきたのは当然のことで、今は趙は結束し国力を整えている。
今戦っても勝てない」とのことだったがそれを受け昭襄王は布団をはぎ取り「病気だというなら寝てても指揮をとれ」と白起に伝えたのである。
白起は「指揮を取れば命は助かるが趙を攻めても犠牲が多く勝てないので諸侯に号令すれば天下を取れる。」と主張したが昭襄王は無言で立ち去ったのであった。(要約)
そして白起は死を賜ることになった。
死ぬにあたって白起は「私が死ぬのは長平で多くの人々を殺したという天罰である」といい死んでいった。白起は同情され秦の民衆に神として祀られたという。
0661人間七七四年
2012/01/30(月) 21:14:02.34ID:mCm8H6af0662人間七七四年
2012/01/30(月) 21:39:48.93ID:kcTccEY90663人間七七四年
2012/01/30(月) 22:32:44.14ID:9b+Wu5iZ0664人間七七四年
2012/01/30(月) 22:39:15.47ID:GTPHhQfu世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
0665人間七七四年
2012/01/30(月) 22:48:20.05ID:JqdZMtOdあちらの戦国時代で戦に限れば最高クラスの名将の有名なエピですしいまさら・・・
0668人間七七四年
2012/01/30(月) 23:48:44.46ID:YdIPamUO0669人間七七四年
2012/01/31(火) 00:18:16.07ID:ZdAjZkdo自分で白けるものさ。
0670人間七七四年
2012/01/31(火) 13:10:46.19ID:vF+4Fqq80671人間七七四年
2012/01/31(火) 17:44:05.81ID:F8Irf6CLその反面あらゆる才に優れ琴の名手でもあった。
そんな彼は卓王孫の家で生活していたことがあり
あるとき卓王孫の家で月の明るい夜に琴を奏でていると
家の主人である卓王孫の娘である卓王君がその見事な琴に聞き惚れたのである。
それからはいつも、彼女は彼の琴の音を聞くようになった。
卓王孫は貧乏な相如に娘はが近づいていくのが気に入らなかった。
しかしいつ日か相如と卓王君は夫婦となり卓王孫の家を去っていった。
また一説によると文章家であった相如がラブレターを送り王君が惚れ込んだという話もある。
その説でも卓王君は相如とこっそり家を抜け出している。
いずれにせよ駆け落ちしたのである。
卓王孫は財宝を多く持っており貧乏な居候に過ぎなかった相如にかわいい娘である王君が嫁いだことを気に入らなかったため
娘の様子を意に介さなかったのである。
彼が蜀地方に行く時に昇遷橋がありその橋を歩いて渡るときに
橋の柱に、「私は、大きな車や肥えた馬に乗れるようになってからでなければ、
再びこの橋を渡り返すことはせぬ」と書いて誓い、その後、蜀の国に滞留した。
その後、望み通り出世することができて、この橋を渡って帰った。
そのようないいはなしである。
0672人間七七四年
2012/01/31(火) 17:49:48.57ID:F8Irf6CL卓文君は自分の所有物を売り払い、
臨卭の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして働き、
司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、
卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、
司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。(wikiより)
と唐物語は正確なことを書いておらずに捏造に近い編集を行なっているのである。
女は、何年も貧しいなかを連れ添った甲斐があり、親疎に拘らず世間の人々もこの上なく羨むような身分になることができた。
と上記の話のあと書いているが、その後に親の恩恵を受けているわけであり、出世して親類に認めさせたわけでもなく
出世して貧乏を脱出したわけでもない。
これでは、話自体は良くなるが正確さは伝わらず間違った印象を与えることになる。
史料を読むときには気を付けなければならないといういい話スレの低能向けの話である
0673人間七七四年
2012/01/31(火) 18:00:47.39ID:LZJfaO5Lちゃんとスルーしとけ。
0674人間七七四年
2012/01/31(火) 20:47:49.73ID:DuYKZNe3島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで
「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの立派な将に育つ事となった
4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話
0675人間七七四年
2012/01/31(火) 20:51:38.62ID:GfTf/cYPしかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな
0676人間七七四年
2012/01/31(火) 20:52:14.15ID:pOgZGRIS0677人間七七四年
2012/01/31(火) 20:59:26.75ID:zVVVqgvW七太夫は幼少時、秀吉に近侍し、その芸達者ぶりから大変可愛がられた。
腰巾着のように、秀吉の傍を離れずにいることから、
ついたあだ名が「六平太(ロッペイタ)」
このロッペイタという名、ポルトガル語由来の言葉といわれ、
南蛮製の巾着の名であったといわれる。
この「六平太」という名は、喜多流宗家が使用する名乗りの1つとして、受け継がれている
「腰巾着」の意味自体は、あまり良いものではないと思うんだが、
外来語があだ名になった珍しさと、芸人らしい才気煥発さを指しているのだろうということで、こっちに。
0679人間七七四年
2012/01/31(火) 21:52:39.45ID:F8Irf6CL魏晋南北朝時代、奴隷から皇帝まで登り詰めた男がいた。石勒である。
石勒は智に優れ、このような策を決めている。
烏丸の張伏利度が配下二千で自らの勢力圏である楽平に籠もっていた。
劉淵はそれを見て張伏を招聘しようとしたが、固辞し続けるばかりだった。
そこで石勒が張伏を配下にする役目となったのである。
石勒は劉淵と裏で口を合わせ、罪を犯かしたということにし劉淵の元から石勒が張伏の元に逃げたのである。
張伏は石勒の帰順を受け入れ、あろうことか義兄弟にまでなったのである。
そして石勒は重複の命令で軍を率い、大活躍をしたのである。
その様子を目の当たりにし張伏配下は石勒に心服したのであった。
そして最初からの予定通り石勒は張伏の配下を調略した後、機を見て配下と共に
張伏を捉えてこう言ったのである「これから大事を起こすときに、張伏と私のどちらが君主としてふさわしい」と。
当然、張伏の配下は張伏ではなく石勒を推した。石勒は張伏を開放し予定通り
張伏配下と共に劉淵の元に帰ったのである。
その功績により石勒は督山東征討諸軍事となり、張伏の衆は石勒の配下となった。
石勒が劉淵の元で立てた初の手柄である。
0680人間七七四年
2012/01/31(火) 21:58:58.16ID:DuYKZNe3若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる
0681人間七七四年
2012/01/31(火) 22:02:22.25ID:GfTf/cYPあれは悪い話向けだが
0682人間七七四年
2012/01/31(火) 22:26:43.23ID:spF9iIt/http://may.2chan.net/b/res/99378344.htm
0683人間七七四年
2012/01/31(火) 22:27:33.22ID:rbArCQ5D0684人間七七四年
2012/01/31(火) 22:40:46.41ID:t7lbLay8まあそう言うな少し前でさえ長男と末っ子で
結構扱いに格差があったんだ幼い心じゃ腐りもするさ
ガキの頃本家に行って食事の後さっきまで遊んでた同い年の長男の子供のいる上座に行ったら
爺さんに「さがりおろー!」並の事言われてビビった記憶あるわ
昔ならその比じゃ無いだろ
0685人間七七四年
2012/01/31(火) 23:51:07.46ID:BFBhbbFS仲良かったり親が差をつけなかったりしてかえって後でもめたりとか
0687人間七七四年
2012/02/01(水) 14:46:10.32ID:tNGFSDSf周りにそのように扱われたから幼い子が劣等感持つようになったんだろうに。
頭押さえつけられて育たねえって馬鹿にされたら大人でも腐るわ。
0688人間七七四年
2012/02/01(水) 15:20:56.48ID:a2Xl/ZuX周囲の扱いとか本人同士の相性とかかね
現在より死が身近だったろうから、まさしく「兄がいなくなれば
俺が当主!」ってのも遠い世界の話じゃないだろうし
0689人間七七四年
2012/02/01(水) 15:55:09.64ID:khspt0tp松永ダンジョー「俺たちは悪いスレ帰ろうな」
0691人間七七四年
2012/02/01(水) 17:25:47.18ID:frXrfoZw0692人間七七四年
2012/02/01(水) 18:04:38.06ID:I7Ddn724父親の正妻への思い入れが
島津と毛利じゃ段違いだからじゃね?
元就は「死んだ女房がここにいたらさー」だの
「死んだ女房だったらさー」とか、のちのちまで言い過ぎw
0693人間七七四年
2012/02/01(水) 18:37:56.46ID:a2Xl/ZuX一緒になると特に抵抗もなく自然ラブラブになるのかなーって
秀頼千姫や利常珠姫で思った。
どちらも思春期迎えてからだと好きなタイプじゃないとか
思っちゃって上手く行かなかったり?
珠姫の、父親(将軍)にダーリン早く返して!って直球で
ねだるエピソード好きw 身分の高い人は我が儘も自重って
もっと後の世の常識なのかね
0694人間七七四年
2012/02/01(水) 18:50:11.51ID:e8IVJ+k90695人間七七四年
2012/02/01(水) 18:58:28.72ID:cinzOU/j0696人間七七四年
2012/02/01(水) 19:25:45.20ID:skUZo6740697人間七七四年
2012/02/01(水) 23:24:21.30ID:Lrxs/9kKその策の内容は「曹嶷を支配下に治め、石勒を騙し討ちにした後に曹嶷の兵と共に
石勒の勢力を併呑する」ということであった
飛杓と呼ばれたほどの武勇だが、悪い面であるその蛮勇のせいで
石勒に疎まれ暗殺される危険性を感じていた王彌は乗ることとした。
そのために劉暾が曹嶷を説き伏せるべく死者として密書持ち派遣されるが、
なんと劉暾が石勒の騎兵に東阿に捕獲されてしまったのである。
そして、密書が見つかったため陰謀が露見し石勒はそれに大いに怒り劉暾を即殺害した。
さて王彌は危機を迎えた。
悲劇的なことに王彌は策が露見したことを知らず石勒を騙し討ちにしようと石勒の元に向かったが
逆に陰謀を把握していた石勒に殺されてしまったのである。その後王彌の勢力は石勒に併呑された。
一代の梟雄の死に様であった。
0698人間七七四年
2012/02/01(水) 23:29:12.74ID:9RnzwFmaいい加減うぜえから消えちまえ
0700人間七七四年
2012/02/02(木) 00:43:42.05ID:1y8j49HQ「下の者に対して教育する場合、
小さな過失は単に訓戒にとどめておき、
大事の過失、許すべきでない罪を犯した時には、
その者の一命をも取り上げざるをえないこともる。
『大公』に、双葉のうちに断たねば斧を用いるようになる、
とあるように、物事は初期に処置しなくては、
ついに増長して後に困難するようになると樹木にたとえ戒めている。
ここで気をつけなければいけないのは、
小さな過ちを取り上げて何回も折檻していたのでは、
ついには折檻に慣れてしまって平気になってしまうものだ。
『呂氏春秋』に、命令が過酷すぎれば聴かれず、
禁事が多すぎれば正常な生活も行われなくなる
、とあり、教育や指導における手加減の難しさが書かれている」
東のパーフェクトの教育論および指導論です
0701人間七七四年
2012/02/02(木) 01:22:57.02ID:+k99GtUy正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ男性にも引けを取らない賢女だったと
伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて
「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」
と、姉に相談したところ、
「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
貴殿の幸せにつながります。」
と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。
0702700
2012/02/02(木) 01:35:58.11ID:1y8j49HQやはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい
>>700
×その者の一命をも取り上げざるをえないこともる
○その者の一命をも取り上げざるをえないこともある
訂正します
0703人間七七四年
2012/02/02(木) 02:01:53.82ID:m7TCDHS90704人間七七四年
2012/02/02(木) 09:51:41.67ID:tf+4A38A長男とそれ以外
正室の子とそれ以外
では扱いに差があったんだね
庶子の扱いとか雑な人もいるし
子供はみんな平等で可愛いは当たり前というのは現代感覚か
0705人間七七四年
2012/02/02(木) 10:06:37.34ID:uYgv3FEKただ、家を繁栄させるのが個より重視された時代だから
そういう扱いになったんじゃないかな。
上の子より下の子をかわいがるとろくな事にならないのは
過去の事例からもわかってるのに無くならないのはそういうことなんだろう。
0706人間七七四年
2012/02/02(木) 10:48:34.75ID:ypE5Rt2pいや、今でも愛人の子供とかはいい感じには見られないよ
しかも財産分与で土地、財産とかが絡んでくるケースでは子供は平等に、なんてとてもとても・・・
戦国や源平さながらの骨肉の争いを演ずるのは今でも珍しくなかったりする
0707人間七七四年
2012/02/02(木) 11:26:33.36ID:6maJbAPe戦国と現代を比べること自体ナンセンスじゃね?
現代なら私生児も無問題、子供はみんな平等って流れでもねーし
兄弟のいざこざとか考えると家康はそういう面でも恵まれてたのかなと思うわ
その分か知らんが家臣団がかなりアレだけどw
0708人間七七四年
2012/02/02(木) 11:37:42.68ID:boISgwmx側室って家に管理されてる存在だし、今の愛人という意味とは別物かと
0709人間七七四年
2012/02/02(木) 11:48:36.21ID:fU4P0csmちゃんと囲っておくのが側室
そういう戦国大名の正室の仕事や権限なんか興味あるな
まあ戦国時代だと大名家によってかなり違うだろうし織田家なんかなんの権限もなさそうだけど
秀吉のときでも徳川幕府の大奥ほどきちんと制度化されてなかったんだろうし
0711人間七七四年
2012/02/02(木) 20:57:55.84ID:A5HdWI/u上記に近い時代に差別主義者がいた。
その差別主義者冉閔は、石虎の養孫であり頭角を表し北中郎將、游撃將軍を歴任等を歴任した。
慕容格に石虎が大敗した時も冉閔率いる兵だけは無傷であったので
皆彼を恐れたというエピソードがあるほどの戦上手であった。
彼は石虎の養孫であるが、父は漢族で漢族出身であった、そのことが後の人生の転機となるのである。
石虎が没すると、彼は一気に君主に成りあがろうとし石一族を擁立するが排斥されそうになったため、
いずれも石氏を皆殺しにしている。
そして、漢族以外の人間を皆殺しにしようとし、胡族20万人を大虐殺したのである。
鼻が高いだけの漢民族も大量に殺戮されたという。
そして漢族だけで構成される漢族史上国家を設立しようとした。
しかし異民族が漢族が共存していた華北で行うのは無謀であり
その試みは無残に失敗し勢力は驚くほどの速度で縮小していった。
同じ漢族の国家である晉に援軍を要請したがそれすら無視されている。
わずか冉閔の冉魏は3年で滅亡し16国の一つには数えられていないのである。
0712人間七七四年
2012/02/02(木) 21:24:07.25ID:5T+2X2Sz今川の寿桂尼とかのように国政にがっつりな所もあるし。
まぁ他国から嫁に来た場合とか特にそうだけど、
お互いの家の利益調性者的な立場も期待されていた面もあるだろうから、
奥向きばかりじゃ無いんじゃないかなぁ。
0713人間七七四年
2012/02/02(木) 21:29:37.69ID:ypE5Rt2p0714人間七七四年
2012/02/02(木) 22:17:50.11ID:h/3x0HG10716人間七七四年
2012/02/02(木) 22:50:38.82ID:DbXWAQ2D謙信時代→当然室がいないので、直江景綱の室が謙信の奥向きも務める
景勝時代→菊姫と四辻殿が相次いで亡くなった後
室を取らなかったので直江船が奥向きを務める
というような感じだったらしいが
0717人間七七四年
2012/02/02(木) 23:54:51.68ID:A5HdWI/u石勒が融和に努めてる
0718人間七七四年
2012/02/03(金) 01:00:51.12ID:dLpyUa4Zマジレスするよ!
1回目は正直ちょっと面白かったよ、その戦国じゃねーよ!ってな。
でも2回目からは面白くないんだよ・・・うん、繰り返しの同じネタは退屈でつまらない。
0719人間七七四年
2012/02/03(金) 02:07:47.01ID:dgBQhmXy殿、いけませぬ!これは釣り野伏にござる!
ここは拙者が身代わりに……さあ、早くお逃げくだされ!
やぁ、総大将>>719はこれにあるぞーっ!!
申し上げます!
>>719殿、お討ち死に!
0720人間七七四年
2012/02/03(金) 02:10:15.11ID:z7JU1nru何度も言わせんな
0721人間七七四年
2012/02/03(金) 02:24:57.49ID:QLyHwq6I0722人間七七四年
2012/02/03(金) 02:41:04.70ID:hSACMzPL0723人間七七四年
2012/02/03(金) 02:52:18.00ID:6HgHKC9pオレは読みもしないし気にならないからいいけど、
嫌がってる人も多数だから止めればいいのに
0724人間七七四年
2012/02/03(金) 04:02:34.28ID:466tvGeFカタカタ一生懸命長文書いて
例え罵詈雑言でも皆から気にしてるレス貰えるのが何よりというな・・・
煽り耐性無さ過ぎじゃわざわざ御褒美与えてどうする
0725人間七七四年
2012/02/03(金) 04:10:07.66ID:kP89qAt8昔、一生懸命に逸話をコピペして、みんなに叩かれたからだったと記憶
0726人間七七四年
2012/02/03(金) 04:30:23.53ID:QLyHwq6I同じ頃冉魏の首脳部である太子冉智、妻の董氏、幹部が自ら命を断った。
ここに冉魏はわずか3年で滅亡したのであった。
しかし冉閔を斬り殺した5月から山の周囲、7里で一滴も雨が降らなくなり、
草木が枯れ、蝗蟲が大発生する天変地異が12月まで続いたのである。
一滴もずっと雨が降らないのは、現代でもそうだが
当時は迷信がはびこっていた時代であり慕容儁は冉閔の祟だと考えたのであった。
12月、慕容儁は祟りを沈めるため使者に弔わせ武悼天王を冉閔に追悼したのである。
そうすると、何故かその日のうちに大雪が降り始めたのであった。
こうして祟りは晴れたのである。
0727人間七七四年
2012/02/03(金) 08:19:32.97ID:jAuNm70S罵声だろうと相手されることにエクスタシー感じてんだよこの手の糞餓鬼は
分かったらもう餌与えんな
0730人間七七四年
2012/02/03(金) 16:22:58.04ID:jDRsc2OD0731人間七七四年
2012/02/03(金) 16:29:58.88ID:sTB4l2dSまあ、スルーしましょうよ
0732人間七七四年
2012/02/03(金) 19:37:41.23ID:g39Xtjb4時代変わっちゃってるのがむしろかわいいんだがw
0733人間七七四年
2012/02/03(金) 20:04:29.05ID:lNzRr7sA受けて「思い止まらないなら、お前を討って自害する」という場面になって
いたな。
0734人間七七四年
2012/02/03(金) 20:07:18.51ID:8HE5RLeU路上で待ち受けてを、なぜか「路上で持ち上げて」と空目してしまい
ずいぶん剛強なお喜多さんの出てくる漫画だと思ってしまったw
0735人間七七四年
2012/02/04(土) 00:32:52.13ID:a6n6rtik織田信長がまだ尾張を支配できていない頃、親族の織田信賢と戦いになった。
戦いの中、信賢側の弓の名人・林弥七郎と、信長の鉄砲の師匠・橋本一巴が遭遇した。
2人は知り合いだったので、弥七郎は「逃がさんぞ」と声をかけ、一巴は「分かっておる」と答えた。
弥七郎は四寸ほどの矢じりをつけた矢を放ち、一巴は鉄砲に2つ弾をこめて撃った。
矢は一巴の脇の下に深く刺さり、弥七郎は鉄砲弾を受けて倒れた。
そこへ信長の小姓・佐脇藤八(前田利家の弟)が近づいてきて、弥七郎の首を取ろうとした。
弥七郎は立ち上がれないまま太刀を抜き、佐脇藤八の左肘あたりに斬りつけたが、藤八に首を取られた。
林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。 by 太田牛一
0736人間七七四年
2012/02/04(土) 09:24:59.05ID:68W5ajpd0738人間七七四年
2012/02/04(土) 10:52:36.89ID:itxgZTSB知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。
梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。
長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。
教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。
0739人間七七四年
2012/02/04(土) 11:00:18.62ID:GDxTLFHmあとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?
0740人間七七四年
2012/02/04(土) 14:00:52.01ID:Kny0XdF+0741人間七七四年
2012/02/04(土) 17:39:46.53ID:WNZu97OLおそらく天狗のせいにされたんだろう
0742人間七七四年
2012/02/04(土) 17:56:12.44ID:HN975UnA(゚Д。)
~~~~~~
0743人間七七四年
2012/02/04(土) 20:03:23.32ID:AC264RHe山本常朝
『勝茂公が話されたことだ。
「朝鮮での戦で加藤嘉明が敵船を乗っ取ったときには、
鎧に簑の毛の如く矢が刺さりながらも、
敵船に乗り降り、ものにして武功を立てられた。
以前、太閤様のお供で吉野で花見に行ったのだが、
花よりもなにも、あのときの加藤嘉明の武者ぶりは美しかった。」
と仰せられたとのことだ。
続けて、
「加藤嘉明は、上方におられたとく、
西方の立花勢を攻撃せよとの命をうけ、
戦いが終わり御挨拶に登城したとき、
ちょうど井伊直政が将軍様のお目見えを司どっていたが、
関ヶ原で肩先に手傷をうけられたのを、
白い布で結び付けて首にかけ、
片手をつきながらの礼儀作法、
その姿、気迫、すべて見事なもので、
とても言葉では言い表わせないほどであった。
天下無双の英雄、勇士とも申すべきで、
これから百年、千年の後までも手本とするべきである。」
と仰せられたとのことである』
0744人間七七四年
2012/02/04(土) 20:06:07.09ID:AC264RHe↓
加藤嘉明は、上方におられたとき、
誤字失礼
0745人間七七四年
2012/02/04(土) 20:09:59.92ID:GDxTLFHm0746人間七七四年
2012/02/04(土) 20:11:41.55ID:WNZu97OL0747人間七七四年
2012/02/04(土) 21:35:19.61ID:1Xe2UHRd塙団右衛門の暴走にかこつけて抜け駆けした時か
0748人間七七四年
2012/02/04(土) 21:56:33.11ID:99UI8nFM徳川家康が、今川家で人質だった幼少期に彼を教育したのは
祖母の源応尼だった。
彼女は三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、
また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
初め、水野忠政に嫁いで水野忠重・於大の方ら3男1女を生む。
だが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたと言われている。
清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
いずれも夫に先立たれている。
その後、今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。
松平竹千代(徳川家康)が今川家に人質で来た際、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、
その育成にあたった。
家康の駿府時代に家康の陰や日向になって支えた。
0751人間七七四年
2012/02/05(日) 00:49:22.91ID:dcWCbTTd司馬懿もそれに習って詩を詠んでいる。それは讌飲詩だ。
天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力選方
将掃穢甫 還過故郷
肅清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪武陽
これが司馬懿が唯一残した詩で、劉邦が残した詩なみの下手くそさであり、
後世でこれはあまりの下手くそさにネタにされているが、司馬懿の相変わらずの狸ぶりが示されている。
この詩は郷土に隠棲し静かに暮らそうとの内容が書いてある詩であり
皇帝に二心が無いことを示すために詠んだのではないか。
しかし司馬懿はこの詩を詠んだ約10年後クーデータを起こし魏の実権を奪ったのであった。
0752人間七七四年
2012/02/05(日) 00:50:52.40ID:h7QUPY570753人間七七四年
2012/02/05(日) 00:56:28.89ID:51k4F3fk賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html
戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。
0754人間七七四年
2012/02/05(日) 01:09:31.21ID:h7QUPY57「選方」→「遐方」
「穢甫」→「群穢」
「武陽」→「舞陽」
「穢甫」で意味が通るとはちょっと思えないし、
司馬懿が舞陽侯になったことも知らないのか、本当にコピペだけだ
0756人間七七四年
2012/02/05(日) 01:14:54.81ID:Ddi9pHqs0757人間七七四年
2012/02/05(日) 02:32:58.46ID:u4UsXiXG父を幼くして亡くした後、叔父元就の意向で政略結婚に出されることになる。
はじめ備後庄原甲山城の山内豊通(推定二十歳以上年上)に嫁ぐも間もなく死別。
次いで安芸竹原小早川家の当主興景に嫁ぐが、これも安芸銀山城攻めの陣中で若くして病没。
従弟の隆景が竹原小早川家を継いだのはこの縁による。
その後は備後神辺城の杉原豊後守室、伯耆尾高城の行松正盛の継室となり、
正盛病没後は先夫豊後守の一族・杉原盛重(推定二十歳年下)の妻として一生を終える。
独立勢力の当主を含む五人の夫が皆、親毛利方、或いは毛利の忠実な家臣となったことから、
政略外交官として元就の期待に十二分に応えたと言えるだろう。
0758人間七七四年
2012/02/05(日) 16:30:34.49ID:0zdz7MT7松平清康が死んでから生まれているし
0759人間七七四年
2012/02/05(日) 19:38:01.57ID:ceyndC/V家臣たちと酒宴の席を設けた。
宴も盛り上がって来た頃、勝成は杯を皆の前に掲げ、上機嫌で言った。
勝成「おい!この合戦で『我こそは大将首を上げてやる!』という者は前に出よ!
前祝にこの杯をとらしてつかわす!」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰かおらんのか?」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰もおらんのか!?」
気まずい空気が流れた。
いくら酒の席のことであっても、主君と家臣一同の前での首取り宣言。
果たせなければ、単なるお調子者。家中の笑いものになることは明白である。
たかが酒宴の座興にしては、武士としてあまりにもリスクが大きすぎた。
が、誰も名乗りでなければ、それはそれで勝成に恥をかかせることになる。
『く、空気が重い・・・』『だ、誰か名乗り出てくれ・・・』
『ちょ、と、殿がキレかけてるぞ?』『早く、早く誰か・・・』
その時、河村新八郎という若者が進み出て、首取り宣言。勝成から杯を受け取り、呑み干したのである。
勝成の機嫌も直り、一同はホッとしたものの、今度は新八郎のことが心配になった。
「お前、なんであんなムチャな宣言したんだよ?出来なかったらどうするんだ」
「だって、誰かが名乗り出ないと殿のお立場が無かったでしょう?
まあ、大将首が取れなければ切腹すれば済むことですよ」
そして大阪の役。
河村新八郎は大阪方の豪傑 薄田兼相と一騎打ち。
見事その首をあげ、家中のみならず天下にその名を知らしめたという。
0761人間七七四年
2012/02/05(日) 20:51:30.46ID:Kde3qX/o無頼者と名君、両方のイメージあるし
0762人間七七四年
2012/02/05(日) 20:56:20.41ID:LDCtRY8Sくらいの勢いだったのかな?
0763人間七七四年
2012/02/05(日) 22:02:27.03ID:0zdz7MT7当時の勝成は3万石程度の小大名でいきなり
大和口の総大将を任命されたからな。
後藤又兵衛や真田幸村といった豊臣方の主力相手に
自分より格上の伊達政宗や松平忠輝といった
ひとくせもふたくせもある連中を率いらなければならないという
プレッシャー(いくらあの勝成でもあっただろう)で一杯だった。
そういう時の景気付けの酒宴だから勝成も相当気合が入っていただろう。
だからこそ河村新八郎の首取り宣言は勝成にとっては相当うれしかったのだろう。
たとえハッタリでもいいから場を盛り上げたかっただろう。
それに応えた河村新八郎もすごいけど
0764人間七七四年
2012/02/05(日) 23:16:11.41ID:fQ6Vj62c0765人間七七四年
2012/02/06(月) 02:01:53.17ID:BvjymRen0766人間七七四年
2012/02/06(月) 03:09:55.39ID:896oDCxg細川越中守忠興は、武具の研究に最も熱心な武将であった。
時には自ら手を下して作ったこともあるといい、
勇ましさ、美しさを兜に表現する名人であったらしい。
当時は兜を作る際、多くの大名が忠興に教えを乞うた。
忠興は参勤交代時にいつも京都に滞在し、
大納言烏丸光広を訪問しているのだが、
ある時その烏丸家に、近国大名の使者が忠興を追ってきた。
「越中守様のご指示どおりの兜を作りたい」とその使者は言う。
そこで忠興は注意事項を詳しく書き添えて、使者に与えた。
すると使者は内容を一読すると、小癪にも
「立物の下木は桐の木を、というのは間違いでは?
桐の木は折れ易いものです。」と問いただした。
忠興はたちまち顔面を紅潮させ、激怒した。
「汝は弓取りの使いとも思えぬ!
戦いに挑んで誰が生きて帰ろうと思う。
なぜ桐の立物を厭う。軽いほうが動きやすいのだ。
立物の折れるほど働いてこそ、武士の誉れぞ!」
使者は返す言葉がなかったという。
0767人間七七四年
2012/02/06(月) 03:47:49.44ID:Otl5hA4/武田家に仕えた浅利信在は、家中に置いて比類なき剛の者であった。
信在は常々、「自分が討ち死にするなど思いもよらぬことだ」と言っていた。
どんな状況に陥っても「(ここで死ぬなどは)思いもよらぬことだ」と言って
平然としていたので、郎党足軽に至るまで浮き足立つことを知らなかった。
ところがある時、信在は病に倒れ、あっというまに死去した。
慌てて葬儀に駆けつけた同僚達は、
「討ち死にすら思いもよらぬ方だったのに、まして急に病死なさるなど思いもよらぬことだ」
と言って、その武勇を偲び泣いたということである。
以上、武田家の陸戦モンスターの思いもよらぬ死でした。
それにしても武田家、比類ない剛の者が累々といすぎである。
0768人間七七四年
2012/02/06(月) 05:15:29.77ID:Otl5hA4/永正(信縄〜信虎期)のころ、甲斐郡内の地侍達は離合集散を繰り返していた。
それが余りに激しくなったので、互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
そこで浅間社に季節の供物を納めた時に置く立物に、細い吹き流しをつけるようになった。
この色と立物の置かれた場所を見ることで、国内外の外交関係が一目瞭然になった。
いまでも浅間神社ではこの習慣があり、寺社・商家・部落・馬借等の関係が見て取れるという。
(日国記)
0769人間七七四年
2012/02/06(月) 05:18:51.45ID:N+VT5Uzh>互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
>道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
って、どんだけ世紀末救世主伝説な世界なんだよ
甲斐の国、恐ろしすぎる
0770人間七七四年
2012/02/06(月) 08:29:55.90ID:mALZKV4h北条、今川、武田のどの勢力の影響下かに加えて、地元勢力の小山田、加藤のどれに属するか、全く属しないか、武田でも、信縄・信恵派か信虎派があって…グチャグチャ。
0771人間七七四年
2012/02/06(月) 09:16:13.26ID:MTaC9/Z7>>766の別バージョン
こっちでは忠興の家臣ってことになってるな
0773人間七七四年
2012/02/06(月) 18:28:20.07ID:GxVBBIF5普通の武士ならテンション上がらない
・・・勝成は別として
0774人間七七四年
2012/02/06(月) 19:53:02.91ID:CsLik4wO家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。
0775人間七七四年
2012/02/06(月) 19:59:08.25ID:vou0y3iK0776人間七七四年
2012/02/06(月) 20:05:09.34ID:WFrRyY/Uそう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ
0777人間七七四年
2012/02/06(月) 20:29:02.10ID:iodz87Hlむしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか
0778人間七七四年
2012/02/06(月) 21:41:43.27ID:CsLik4wO家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。
0780人間七七四年
2012/02/06(月) 22:17:13.05ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
0782人間七七四年
2012/02/06(月) 22:34:45.71ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成」
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う
0784人間七七四年
2012/02/06(月) 23:01:06.99ID:U6OVXIbG家康が天下を握った後には、恩賞として主君の伊達政宗と共に片倉景綱は江戸に屋敷を与えられた。しかし景綱は
一度それを受け取った後、
「この屋敷は政宗にお与えください。」
と返上し、代わりに豊臣秀吉に認められていた「道中活火縄勝手」を家康にも願い出て許可されたという。
また、1615年に江戸幕府が制定した「一国一城令」により、一つの藩に城は原則一つと定めた後も、仙台藩は政宗の
居城である仙台城の他に、景綱の白石城が例外的に存続を許されたという。 家康に二つの特権を認められた景綱の逸話である。
0786人間七七四年
2012/02/07(火) 00:28:36.01ID:q+Nci7QK0787人間七七四年
2012/02/07(火) 00:31:18.07ID:zB43rPZ/0789人間七七四年
2012/02/07(火) 11:28:30.50ID:GqgXgo7T参勤交代の大名行列の時でも伊達家のは火縄に火を付けたまま歩いていたそうな。
まあ、二本松の辺りを通る時だけ、らしいけどさ。
・・・この話でいいのかな?
0790人間七七四年
2012/02/07(火) 12:17:13.07ID:fRk4l5Wxヒョエーさん的に…。
0791人間七七四年
2012/02/07(火) 12:44:56.49ID:v01JPR8f0792人間七七四年
2012/02/07(火) 16:21:43.63ID:AAj5Iw8Fむしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。
0793人間七七四年
2012/02/07(火) 16:45:17.92ID:lPunP/p5遅レスかもしれないけど
甲冑研究の第一人者である笹間良彦先生曰く
越中具足(三斎様が考案した鎧)は合理的であるが外見が地味なため広く流行せず
肥後細川家にしか使われなかったとのこと
0794人間七七四年
2012/02/07(火) 17:16:06.31ID:39eNQ2ur細川藩士A:おいおい、こんな地味なの使わなきゃいけないのかよ・・・・
細川藩士B:殿の考案だから仕方ないだろ・・・・
細川藩士A:俺らももっと朱色で派手な鎧着て戦場駆け回りたいぜ。そう思わないか?
細川藩士B:まあなあ・・・
三斎様:貴様らの望み通り鎧を紅に染めてくれるわ!また歌仙を増やしてしまったわ・・・・
と
0795人間七七四年
2012/02/07(火) 17:24:33.56ID:CCFqtkxD細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
とあるが・・・
0796人間七七四年
2012/02/07(火) 19:04:43.52ID:lPunP/p5けど三斎流とも言われるから実際はどうなんだろうね
因みに鎧の各部分にも名称が付けられている
越中頭形:頭形型の鉢形式の一つで天板の伏板前方が眉庇の上に重なり、眉庇下端は水平になっている
越中ジゴロ:裾広の広がり率は少なく肩摺板は直線で、縁を韋覆輪とする実用的シコロ
越中篭手:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした篭手で最小限の防護で腕の動きには優れている
越中袖隠し:当世袖の小鰭で当世袖を短縮したごときの大きさの袖
越中佩楯:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした佩楯で最小限の防護をした佩楯
越中脛当:篠濡当を所々に繋ぎ、家地も立挙げもない
越中頬:顎と頬の下半分ぐらいを覆ったナマコ形の頬当
越中脇引:筏金を鎖地に散らした脇引
0797人間七七四年
2012/02/07(火) 19:09:19.82ID:cIaYpOXq0798人間七七四年
2012/02/07(火) 19:25:46.92ID:q+ExRxP40799人間七七四年
2012/02/07(火) 19:52:36.57ID:CCFqtkxD0801人間七七四年
2012/02/07(火) 22:27:00.34ID:dkobOKig戦国時代が終わってなかったら逆に鎧その物が終わる流れになるだろう
0802人間七七四年
2012/02/08(水) 01:47:40.78ID:R2Ig7J2/0803人間七七四年
2012/02/08(水) 03:04:06.59ID:AgaVFJAt今に残る「信玄」のつく語彙から、往事の武田家を偲ぼう(かなり恣意的なチョイスです)。
信玄グッズ1
「信玄足(しんげんあし)」
田圃仕事の時に履く、足が沈まないようにするための大きな履き物。
要は田下駄のこと。
むかし信玄の頃、先陣を切った武士が泥田に足を取られ転倒した。
武士は軍令に従って見捨てられ、足場にされて踏み殺されてしまった。
用心下駄・安気足・信玄草履などとも言うが、いまでは信玄足というのが普通である。
信玄グッズ2
「信玄袋(しんげんぶくろ)」
ある時信玄と武将達が弓比べに興じていた。
ところが番の者が余りに遠くに的をやりすぎたので、誰の弓も届かなくなってしまった。
その時なにがしという小者が、「私ならこう致します」といって一目散に的に走っていくと、
番をしていた者の首を刎ね飛ばし、その袴に包んでて持ってきた。人々はなるほどと感心した。
この時、番士の首を包んだ袴が便利だったので、別に信玄袋といって作るようになったという。
陣吉(じんよし?じんきち?)
@今から六十年も前まで、(中略)山人たちが草刈りに出る時は、メンパという気で作った楕円形の
弁当箱に、蓋の方を熱い飯を一ぱいつめて、それを陣吉という袋に入れ、馬の背に付けて行った。
陣吉は麻のさらし布で作って、両方に口を付け麻の縄紐をつけた。背負うにも馬につけるにも大そう
都合良く出来ている。
この陣吉は武田信玄が考え出した者で、戦いに行く時や戦いの場で、たくさんの兵士達の弁当を作る
時に使った。まず陣吉に米を入れ、大きな釜へ袋のままに入れて煮、すぐ戦場へ背負って出かけたのだった。
その後、戦いが無くなって、袋のまま煮る必要もなくなり、麻から紺野木綿布となり、両口袋も片口に
変わってきて、今では本当の陣吉は見られなくなってしまった。
A
武田信玄は信州を攻める時、兵士の食料袋として陣吉という食料袋を作らせた。
それまで兵士達はお互い食料を巡って争い、奪われて殺される者、奪って死罪になるものが多かった。
そこで信玄は(@とほぼ同内容)という袋を作らせ、陣吉と名付けた。
この陣吉に、長沢の弘法水で作った一夜作りの味噌と米を入れ、そのまま煮て食べさせるようにしたのである。
ふつうの味噌は一年くらい経たなければうまく食べられないものだが、一晩で食べられることから、日々の戦に
大そう都合が良く、この味噌さえあればほかに何もおかずはいらなかった。
この地方(高根町)では、この陣場味噌がなまって、じんだ味噌と呼んでいる(以下@とほぼ同内容のため後略)。
0804人間七七四年
2012/02/08(水) 03:16:19.84ID:AgaVFJAtあと、Aには、現在元々の陣吉は残っていないが、今でも野良弁当の袋をこう呼んでいるとありました。
それから余談ですが、甲斐郡内には戦国中期まで貨幣が流通しておらず(価値がないのではなく金属が
必要量存在していない)、石の矢尻を使い、物々交換のための荷駄を奪って口を糊していたそうです。
うーん、世紀末覇王伝説。
0805人間七七四年
2012/02/08(水) 09:06:35.92ID:86taPy9a男塾だな武田家は
0806人間七七四年
2012/02/08(水) 10:30:57.97ID:1MPYlyQt0809人間七七四年
2012/02/08(水) 11:10:48.86ID:EAXJm3odつーか本来の意味知らんと使こうとるアホ多過ぎや
0811人間七七四年
2012/02/08(水) 12:17:42.71ID:cDmWnN4l諏訪家切腹の作法
諏訪頼重は妻の弟武田晴信に敗れ、甲斐の東光寺に幽閉。ついに切腹の時を迎えた。
神長官守矢氏の残した『守矢頼真書留』によると、
切腹に先立ちサケ、サカナを所望したところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応
えた。それに対して、頼重は「武田では切腹の作法を知らないと覚える。肴とは刀のこと。わ
れらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今までなかったのであろう。」 といって
作法通りに立派に切腹した。
とのことであった。これは、東勝寺で北条高時とその一門自害の際、得宗御内人だった諏訪
入道直性が「この後に続く人はこれを肴に」と自らの腹を切った刀を長崎円喜入道の前に置
いた故事(太平記)によったものであろう。
0812人間七七四年
2012/02/08(水) 13:07:20.14ID:7sanaMZN,r'"´丿ヽ ̄`ヽ、
/ ,r;:;:、 ⌒ ,ィ;:!
/ ,イ;:;:;;:;::ゞ、 i ,r;:;:;:,、j
_」 ,′'´r ェェ-、 j;:イェェ、l、 ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ
/ ゝ,イ j `ヽ`"´.::;; ト、"´ ヾi / ヽ
! ,イl〈〈 ,ィjハノ。 。,j、、,,. l < ワシが武田家総帥法性院信玄である!!!
| Y」 i; ,r'´r-、ニニニ = i! ,/ ヽ /
! ,' / ,イ,ゞ-j!ーi!ーl-{ i! | V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V´
,>,イ ,! i/ ,! il,!
/.:.:/ i .,' / -‐' "´ ̄ ̄``、ハヽ
/.:.:/ | ,' / ‐'´ ̄ ̄``ヽ `j ,!
_/.:.:.:.:i l ゝ、_ ,:;' ヽ ー' /ヽ
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_,ィ´.:.:.:.:.:.:.:.:i|.:.:.:.:.:.:| `ゝ、. : . : . : . : . : . : ./.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`ヽ___
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0814人間七七四年
2012/02/08(水) 13:20:37.98ID:7sanaMZN_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_
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,r' ,::;:' ,ノ ヽ、 ゙:::.ヽ
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.l厄巳厄巳厄 i王i ,.巳厄巳厄巳l ,勹 .├‐''
l´ , "´  ̄ ̄ ̄ `'''′  ̄ ̄ ̄`.:`{ ´_フ ヽ、_,
| l ;;:.,. ::、. ... '゙|
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./ 、/ `ヾー─tッ−ヽ'' kーtr─ツ'´〕. ヽ. |
/ {´i Y::::.. ` ̄ ̄´.: "i! ::. 、` ̄´ ゙:::.、} r、 l i,____
| ヾ_,,入;:::.. `'' " ´.::; .::i! ::.. ``` :. }ツl l
\ ノ ヾ ;:::. .:r'' :: ll! :ヽ;:..:. .: j,ノ ,! ┬‐┌,┴┐
ヽ',,;l ゙i ;::.. _ `ヽ、;;,,,,'.ィ'' _,, .::,;r'1,,,/ l__ ノl士
ッジ::::::| ゙ ,r'´:::;;;;;;;::> 弋´;;;;;::::ヽ'" |:::::゙'イィ ノ凵 l土
弍:::::::::::l /:::;r'´ ,,..-ー…ー-、 ヾ;:::'、 |:::::::::::ヒ
シ:::::::::::l i':::,! ´ __ ゙ l::::l:. |::::::::::ス __ヽ__‐┬┐
彡;:;:::::l l:::l ''''''''⇒;;;:, l:::l |::::;;ャ` ニ メ ,ノ
,r', 广'`ヽl:::l ::::. .:: ゙::. l::l ノ^i`、 l ̄l ハヽヽ
,イ(:::j i::;ヘ :;:. .:: l::l'" l:ヽヽ  ̄  ̄
|;:ヽヽ l::l ヽ ;:.... .. .. : /l::l ノ ,.イ
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0815人間七七四年
2012/02/08(水) 15:06:57.19ID:g3j7+yLuしい‐てき【恣意的】
[形動]気ままで自分勝手なさま。
論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。
「―な判断」「規則を―に運用する」
提供元:「デジタル大辞泉」
気ままなチョイス、という意味なら>>803の使い方は間違ってない
0816人間七七四年
2012/02/08(水) 15:20:13.84ID:TAJigT+Qどのように恣意的かどれが誤用で何が本来の姿なのかを聞きたいのだけど
山梨県民じゃないからさっぱりなので
0817sage
2012/02/08(水) 15:55:21.49ID:+JUVUADs鎧は質実ならば簡素なものでよい。ただし兜は立派なものにせよ。
討死にすれば、首に添えられて敵の大将のお目に掛かるものだからな。
伝鍋島直茂所用の甲冑(佐賀祐徳稲荷博物館蔵)の兜は風格ある
銀箔押の六十二間小星兜で、たしかにその言にふさわしい。
でも、鎧(銀箔押碁石頭札白糸威二枚銅)もけっこうおしゃれなんだよな。
袖も銀箔押札を色々威した大袖だし。
0818人間七七四年
2012/02/08(水) 18:01:52.95ID:/S/nxhT/戦場で個の美意識を表現出来たのは。
幕末にも先祖伝来の甲冑で参陣した武士もいたようだが、
時勢は洋式にあった
0819人間七七四年
2012/02/08(水) 18:05:22.31ID:TAJigT+Q0820人間七七四年
2012/02/08(水) 21:04:38.37ID:7T5LRf9p0821人間七七四年
2012/02/09(木) 00:23:03.96ID:1OB5edw3依田信蕃ェ
0822人間七七四年
2012/02/09(木) 02:15:16.63ID:xXCSSQS+甲冑は機動力を極端に落とすし、鉄砲には負ける。
けど、混戦や切り合いがないわけじゃない。
0825人間七七四年
2012/02/09(木) 12:05:43.58ID:46z8qJoE万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな
0827人間七七四年
2012/02/09(木) 13:51:14.97ID:vVozkXvT「お手紙ありがとう。戦勝祈願のお守りが届きとても嬉しく思っています。
こちらももうすぐ暇になりますので帰りましたらまたお話しましょう
追伸:かえすがえすもお手紙嬉しかったです。また字が上手になったようなので、お手本を送りますね」
というものがある。この時に送られた謙信直筆の習字のお手本も現代まで残っている。
美しく丁寧な字でいろはを書いてあり、子の無い謙信の甥への細やかな愛情が伺われる。
謙信に育てられた景勝も後年一人息子の定勝に御手製の習字練習帳を送っている。
ところで謙信の喜平次宛御手製お習字ドリルはこれ一回だけではなく、
現存してるだけでもひらがなカタカナに漢字ドリル(朱で手書きされた読み仮名付き)
書状の書き方講座に家臣達の宛名帳だのあり、
最初のお手本も第一次関東遠征の最中に書かれたものらしいが、案外暇だったのか
よなべしてドリル作ってる謙信を想像するとちょっと面白い。
0828人間七七四年
2012/02/09(木) 13:59:18.86ID:/tKJ1ZfL0829人間七七四年
2012/02/09(木) 14:15:13.54ID:EfqxaWlW0830人間七七四年
2012/02/09(木) 14:33:52.36ID:TXmLzQSp我らが将がこのような柔弱の将に負けるはずがない、正面突撃だ!と仰せです
皆の衆天あ・・・もとい大将の威光を信じて突撃じゃ!
0831人間七七四年
2012/02/09(木) 14:43:37.39ID:Zid33v490832人間七七四年
2012/02/09(木) 14:54:51.33ID:ilcNbu4v0833人間七七四年
2012/02/09(木) 15:55:20.28ID:46z8qJoE勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ
0834人間七七四年
2012/02/09(木) 15:58:39.37ID:46z8qJoE公私じゃ別の顔を見せるもの
0835人間七七四年
2012/02/09(木) 16:08:23.56ID:sdN2f5HR嫁大好き、息子可愛い、孫心配のマイホームじいちゃんだが、
実際やってることは、謀殺戦争大粛正だしなー。
0836人間七七四年
2012/02/09(木) 16:24:34.29ID:ZjV+ohtj0838人間七七四年
2012/02/09(木) 20:05:05.69ID:e6hyZtGCなるほど勝頼かっこいいね
それにしても農民をつれてきてるとか言われてるあたり武田軍は兵農分離した戦闘のプロだったんだろうな
織田厨また敗北
0839人間七七四年
2012/02/09(木) 20:13:02.98ID:Zid33v49この場合は軍装のことだよ。
だいたい兵農分離は現象に過ぎず、それで強いとか弱いとか、兵の動員に至るまで
何の関係もない。
0840人間七七四年
2012/02/09(木) 20:14:46.38ID:46z8qJoE0841人間七七四年
2012/02/09(木) 20:18:30.46ID:e6hyZtGC農民は武具とか持ってないってことだろ つまりそれまでは戦闘のプロだったから武具が揃ってたと
0842人間七七四年
2012/02/09(木) 20:21:24.58ID:Oaf9NwIT0843人間七七四年
2012/02/09(木) 20:43:22.02ID:YXx3abdCつーか農民=武器持ってないってなんだそりゃ〜
0844人間七七四年
2012/02/09(木) 20:54:10.60ID:06GbpPgE0845人間七七四年
2012/02/09(木) 20:56:02.51ID:BSGw/QGL末端の兵士にみすぼらしいと馬鹿にされるようじゃ
立て直せないうちに滅亡か
0846人間七七四年
2012/02/09(木) 20:57:48.39ID:06GbpPgE基本農民は最強だけどな
0847人間七七四年
2012/02/09(木) 21:12:04.79ID:AZZWS2y217歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と 怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0848人間七七四年
2012/02/09(木) 21:13:32.21ID:06GbpPgE0849人間七七四年
2012/02/09(木) 21:16:08.74ID:zTl/CmhYまとめスレ見たら茂吉の話がまだ載ってないような気がする
0850人間七七四年
2012/02/09(木) 21:17:18.46ID:Oaf9NwIT0851人間七七四年
2012/02/09(木) 21:18:26.45ID:Qr7bo9BN0852人間七七四年
2012/02/09(木) 21:19:54.31ID:zTl/CmhYさすがにオーバーすぎるけど、元ネタがあると思ってた
0853人間七七四年
2012/02/09(木) 21:23:55.18ID:ro6Nu5fs0854人間七七四年
2012/02/09(木) 21:34:47.54ID:CQCdKDTPまあしょうがないかと。
0855人間七七四年
2012/02/09(木) 22:05:34.63ID:9aBbVzZWまあ、このスレでそう言うのは不粋かもしれんけど
0856人間七七四年
2012/02/09(木) 23:10:41.76ID:zPiE/uGq見送り、秀吉の勘気を恐れず師を見送った二人は、数寄者として大いに名を上げた。
同じく利休の弟子であった蒲生氏郷は、二人に後れを取ったことを、深く後悔した。
そこで氏郷は、利休の養子・千少庵をかくまい、徳川家康・前田利家等、有力者に千家赦免を願い出た。
(早く、早くお許しをいただかねば・・・)
懸命の嘆願が実り、ついに文禄3年(1594)千家再興の許しが出され、秀吉が没収していた利休の家財・茶道具が
少庵に返還された時、氏郷は病の床に着いていた。
文禄3年2月、氏郷重体の報を聞いた少庵は、ただちに伏見蒲生屋敷に駆けつけた。
死相の濃く現れた氏郷を、あえて少庵は激励した。
「ま、まだご回復半ばと見えまするな。貴方様は、まだ若い上に文武両道たる事、日の本に一、二の将におわし、
皆々大切に思っております。失礼ながら、ご養生がおろそかと見えますぞ?ご油断無きよう。」
氏郷はこれに答えず、一首の和歌を少庵に示した。
“限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風”
(花は、いつかは散るものを、この氏郷という『華』を散らさんと、春の山風が吹き付けて来よるわ。
運命とは、気の短いものよ。)
「・・・殊勝なお心掛け。」
氏郷の『辞世』を見た少庵は、思わず落涙し、「さ、されど」その上で涙を押さえ、返歌をしたためた。
“降ると見ば 積らぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝”
(貴方様は、散り行く花などでは無く、積る雪にも折れずにしなり、ついには払う青柳にございます!
しっかりなされませ!)
返歌で氏郷を叱咤して、少庵は蒲生屋敷を後にした。(長夜茶話他より)
少庵の激励も空しく2月7日、蒲生氏郷は世を去った。享年40。
少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
0857人間七七四年
2012/02/09(木) 23:12:21.35ID:wQ/wxWSeいやいや、一向衆徒武装してるだろw
本願寺も雑賀衆も金あるし
0859人間七七四年
2012/02/09(木) 23:32:59.50ID:CIsAQyup武装解除は近代以降の概念
0860人間七七四年
2012/02/10(金) 00:28:26.09ID:h92ZWXCD氏郷の辞世の句はこの時代の武将のものとしては屈指のものだと思うけど、
これに対する返歌があったんだなあ。
0861人間七七四年
2012/02/10(金) 00:56:32.02ID:xO0XYn2s花ぞ散る 思えば風のとがならず
時至りぬる 春の夕暮れ
花の散り様にもいろんな捉え方がある
0862人間七七四年
2012/02/10(金) 01:14:25.83ID:N/8HrRSC0863人間七七四年
2012/02/10(金) 11:06:30.08ID:did6RLua0864人間七七四年
2012/02/10(金) 20:07:57.08ID:xO0XYn2sそうとしか思えない当主の戦死率。
爽やかなまでに無常を受け入れる辞世と言い、
鎌倉以来の武家の名門の武士的な上品さがある
0865人間七七四年
2012/02/10(金) 20:34:56.44ID:WTZ3zLJg菊池が没落した後に台頭してきたライバルが大内というのもまた
0866人間七七四年
2012/02/10(金) 21:29:41.09ID:415rCOFC0867人間七七四年
2012/02/10(金) 21:32:16.18ID:U17yYi2S本質だった節は確かにあるw
0869人間七七四年
2012/02/11(土) 04:42:23.16ID:IhwJQFzD逆にゲヒ殿は七哲の中で底辺扱いされたり
下手すると金森長近(こちらは長子の道安を匿った)あたりと入れ替えられてたりで
千家の後嗣からはあんまり好かれて無いっぽいね
利休の気概を一番濃く受け継いだのは織部だと思うんだけどねえ
0871人間七七四年
2012/02/11(土) 07:40:21.05ID:dIJ7p0EAオレの今の心境は少弐政資に同感する・・・
0873人間七七四年
2012/02/11(土) 17:01:18.28ID:5aGtYdHwここで名実ともに毛利家当主となった毛利輝元に対し、一族・家中から新たに輝元への忠誠を誓う
誓紙が提出される。
ここで叔父・小早川隆景からの誓紙の内容を見てみよう
『日頼様(毛利元就)、常栄様(毛利隆元)より続く筋目のこと、勿論忘却するようなことはございません。
別して最近聞き及ぶところには、このような私の心中も、輝元様に相通じているように承っております。
一、私に対し、疎かにする気持ちは毛頭なく、今まで以上に懇意にしたいとのお言葉、忝く思います。
一、私が知っていることは全て申し上げ、毛利家内部の情報は一言も外部に他言しないこと、
これは既にご存知だと思います。
どうぞこれからも思っていることは全て、御心隔て無くおっしゃってください。
私からその情報を漏らすことは断じてありません。
一、当然、我ら一族の者は色々なことを輝元様に申し上げます。ですが、これは許容できないと
お考えになったことは、どうぞお気遣いすることなくそうしてください。
第一私の認識は、こんな事を今更申し上げるのもかえって隔たりがあるようですが、
私は輝元様お一人の他に、頼るべきもののない身上でございます。
私一代に対し、大小のどんな事においても御見放しなく、深重なるご憐憫を
頂いていること、忝く思っております。
毛利家の筋目という意味でも、私個人の冥加という意味でも、輝元様に対し無二の忠誠をなす
覚悟であります。
右の意趣に偽りがあれば、日本国中の大小の神々、特に当国の厳島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天、
氏神様、それらの罰を蒙るでしょう。
左衛門佐 隆景(花押 血判)
元亀二年八月五日
輝元様』
輝元に対する隆景の心情、隆景・輝元双方の、お互いへの気遣いがかいま見られる史料であろう。
(毛利家文書)
0874人間七七四年
2012/02/12(日) 01:25:49.67ID:ukR7cFnK0876人間七七四年
2012/02/12(日) 02:10:12.91ID:Ouo+QHEG0877人間七七四年
2012/02/12(日) 05:53:15.01ID:IO/178gk人前に晒して説教は現代でも謀反フラグ。
それやる上司は一気に人望なくす
0878人間七七四年
2012/02/12(日) 11:15:41.72ID:MTzz/Q/x0879人間七七四年
2012/02/12(日) 13:09:42.60ID:1ot4HfJT0880人間七七四年
2012/02/12(日) 17:46:22.85ID:2xBmyiRo0881人間七七四年
2012/02/12(日) 20:25:55.08ID:73pbmnvl勝家と意見を対立させた末に無断で戦線を離脱した。この事に激怒した織田信長から秀吉は謹慎を命ぜられてしまう。
この時秀吉の弟の秀長も謝罪と釈明の為に安土城を訪れた兄に同行し、控えの間で待機していたのだが、共に来ていた浅野長政は
「秀吉は切腹させられるのではあるまいか・・・」
と気が気でなく、蜂須賀正勝に至っては
「もはや生きて城を出られぬかも知れぬ。だが、わしは無抵抗で死ぬつもりはない。」
と短刀を握りしめる始末で、室内の緊張感は高まっていた。すると、兄の窮地であるにもかかわらず冷静さを保っていた秀長は
おもむろに扇を開き、庭に咲く菊の香りを室内に届けるかの様に無言で仰いだのである。続いて竹中半兵衛が
「控えめに咲くあの菊の様に、我々も驕らずにいれば誠意は通じるでしょう。」
と静かに語ったため周囲も落ち着きを取り戻し、やがて秀吉が許されたこと知った一同は手を取り合って喜んだという。
「武功夜話」より、扇で皆を落ち着かせた秀長の逸話である。
0882人間七七四年
2012/02/12(日) 20:57:40.35ID:IO/178gk荒くれ河川労働者と信長じゃ気が合わなさそうだし
0884人間七七四年
2012/02/12(日) 21:45:40.24ID:k1kweMZi荒くれ労働者の後家なら家康にお任せだけど
0885人間七七四年
2012/02/12(日) 21:53:30.47ID:4B0umsjS0887人間七七四年
2012/02/12(日) 22:13:34.71ID:pxMPt5Z8明治天皇に冗談でからかわれはしたけど(笑)
0888人間七七四年
2012/02/12(日) 22:22:54.04ID:9xgL0Bcx0889人間七七四年
2012/02/12(日) 22:26:07.24ID:XQmJY4nL0890人間七七四年
2012/02/12(日) 22:55:37.70ID:pxMPt5Z8「陛下、お言葉ですが、
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、
絵本太功記の創作でございます。
まして私は徳川から蜂須賀に養子に入った身。」
明治天皇
「・・・・・(いや、実際煙草とられてんだけど)」
な三河武士な展開にしてほしかったなw
0891人間七七四年
2012/02/12(日) 22:57:04.31ID:DQbO/mcF実は明治天皇に蜂須賀小六の血が流れてたという、衝撃の事実が
0892人間七七四年
2012/02/12(日) 23:02:19.91ID:XQmJY4nL0893人間七七四年
2012/02/12(日) 23:25:04.25ID:aZe8Uzdl0894人間七七四年
2012/02/12(日) 23:53:05.26ID:PvSieo2p大名家も養子ばかりだしな。幕末なんか水戸家からの
養子ばっかり
そういう意味で水戸家最強だな。水戸藩は幕末前半で消えたけど
そのあとの将軍や主要な藩の藩主は水戸藩系ばかり会津や桑名の
松平、尾張の徳川も親父かその祖父が水戸家出身だから
それ含めると越前松平を超える最強の連枝集団だな
0895人間七七四年
2012/02/13(月) 00:06:43.93ID:8f2U2jKn0896人間七七四年
2012/02/13(月) 00:30:16.11ID:selISkyR0897人間七七四年
2012/02/13(月) 00:40:15.83ID:TgcyyrdD榊原家なんかも血族は続いていたはず
0898人間七七四年
2012/02/13(月) 02:25:19.42ID:A27AQDfe風流過ぎる
0899人間七七四年
2012/02/13(月) 06:12:44.45ID:LGIIVCVg風流されると戸惑う
0900人間七七四年
2012/02/13(月) 15:58:26.79ID:8f2U2jKn砦を築くように命じられた。異母弟の秀長を従え、木曽川の水運を取り仕切る蜂須賀党(川並衆)の首領であった
蜂須賀正勝の元に赴いて協力を求めた秀吉は旧知の間柄であった正勝を得意の弁舌で説得したが、色よい返事は得られなかった。
場に重苦しい空気が流れる中、それまで無言だった秀長は
「この戦いは兄の出世ばかりではなく、戦乱の世を治める足掛かりになります。大した名声も持たぬ我らはこの度の戦に全てを賭ける覚悟です。
ぜひ協力願いたい。」
と発言。その誠実な人柄を感じさせる切々とした語り口は、秀吉の能弁振りよりも強く正勝の心を動かし、正勝の協力を得た兄弟は
砦を完成させて、信長の美濃平定に貢献したという。 「武功夜話」より、秀長の説得が蜂須賀党を動かした逸話である。
0901人間七七四年
2012/02/13(月) 16:04:25.24ID:+uSZYDLv0902人間七七四年
2012/02/13(月) 16:10:24.14ID:Gp6ex8vX0903人間七七四年
2012/02/13(月) 16:16:37.01ID:nnXPDbvEこう言う控えめ実直な有能bQって日本人の心にきやすいよな
0904人間七七四年
2012/02/13(月) 16:29:33.99ID:8SjeKcY2ある程度は認められてる?
0905人間七七四年
2012/02/13(月) 16:36:09.05ID:huiNTWR00906人間七七四年
2012/02/13(月) 16:38:10.48ID:a2SdNpSM生きていれば兄の死という重大事件によって失態をさらして評価だだ下がりだったかも
0907人間七七四年
2012/02/13(月) 16:38:29.93ID:ENSG7cdHぶっちゃけると資料価値はほぼ0。
よくて江戸後期の創作。
そしておそらくは戦後に創作されたもの。>武功夜話
0908人間七七四年
2012/02/13(月) 16:41:45.03ID:xmvm4Ky7やっぱり両方共いないと機能しない良いコンビだったって事じゃないかな
そんな解釈しちゃうと武功夜話が近世近代の作り話っぽくなっちゃう訳ですが
0909人間七七四年
2012/02/13(月) 17:08:35.17ID:eO402xW+0910人間七七四年
2012/02/13(月) 17:11:47.71ID:Cg0eUmlC秀長が長く生きていれば、と思わずにはいられない
0911人間七七四年
2012/02/13(月) 17:18:17.82ID:KaZFxktm0912人間七七四年
2012/02/13(月) 17:29:05.25ID:ENSG7cdH家康と本願寺との和解を斡旋したりしてる。
家康も秀長が病に倒れてから何度も見舞いに行ってる。
秀吉政権で東西の2トップとして徳川家康と小早川隆景があったのだけど、どちらも秀長と
非常に関係が深く、秀長がまさに、大名政策における扇の要となっていたフシがある。
0914人間七七四年
2012/02/13(月) 20:01:54.01ID:Cg0eUmlC0917人間七七四年
2012/02/13(月) 20:18:45.60ID:ygCuAbWr勿論だよ
井伊家の現当主は婿養子なんだよな
11月には彦根博物館での「武門の絆−徳川将軍家と井伊家」という企画展で
徳川宗家の当主を招いて講演会もやったし
0918人間七七四年
2012/02/13(月) 20:27:12.34ID:UxteXDn90919人間七七四年
2012/02/13(月) 20:33:32.55ID:DDb2vD9P表に出ていない歴史の逸話とか知っていそうだ。
0920人間七七四年
2012/02/13(月) 20:34:12.02ID:ygCuAbWrttp://www.ryuueikai.net/kaiinboshu_v2.html
先祖が幕臣だった人はどうぞ
0921人間七七四年
2012/02/13(月) 20:41:32.57ID:Cg0eUmlC>>917
そうか・・・井伊彦根は鳥羽伏見での振舞いのせいでいい印象がないもんでどうも引っ掛かってね
井伊を呼ぶくらいなら松平家を呼んでやれと思ってさ
まぁ過去のことを引きずらないのは日本人の大きな美徳だし、別に悪いことではないか
徳川宗家も大阪城から逃げ出す始末だったしな・・・
0923人間七七四年
2012/02/13(月) 20:57:33.54ID:SbtKbb6p事務局長の鳥居さんって「三河武士の鑑」の子孫かな
幕府は無くなってもこういう交流会が有るのはなんだかほのぼのする
0925人間七七四年
2012/02/13(月) 21:14:32.30ID:nDnxI+b+0926人間七七四年
2012/02/13(月) 21:24:18.95ID:4kEPnC0Q0928人間七七四年
2012/02/13(月) 21:35:11.32ID:0bC4E7Tq0929人間七七四年
2012/02/13(月) 21:37:33.37ID:DDb2vD9P総大将は逃げるしかないような気もする。
0930人間七七四年
2012/02/14(火) 01:01:02.98ID:jThBDuyp0931人間七七四年
2012/02/14(火) 01:19:26.53ID:lGyTUE3p大名家や旧幕臣による格差みたいなのってやっぱりあったのだろうか…
0932人間七七四年
2012/02/14(火) 02:14:07.76ID:0dbaJUyB割を食った武士はたくさんいたんだろう
0933人間七七四年
2012/02/14(火) 02:17:06.44ID:Spw3YiDWあったろうけど・・・
いまでも学習院には名家の子息はいるのかな?
0937人間七七四年
2012/02/14(火) 21:45:13.22ID:YM1vYQDXでも徳川体制を必死に維持しようとした会津、桑名、新撰組を始めとした幕士たちに対してあんまりだろ
会津なんて壮絶としか言いようがない戦いをして、多数の犠牲を出し、新政府からずっと冷遇されてた
考えても意味がない事だが、将軍がもっと事態に積極的だったらあんなことにならなかったかもしれん
残りさえすれば、なんて考え方はちょっと薄情すぎるんじゃないのか
0938人間七七四年
2012/02/14(火) 21:49:19.51ID:U6QN2395スレチですので
0940人間七七四年
2012/02/14(火) 21:56:26.01ID:0dbaJUyB維新軍が天皇の許可なく錦旗を出したんだけど、
どの道、錦旗が出たら幕府総大将としては逃げるしかないだろ時代的にも・・とフォローだけさせてくれ
0941人間七七四年
2012/02/14(火) 22:00:31.54ID:i3Kymnwe井沢史観に毒されすぎかな。
0942人間七七四年
2012/02/14(火) 22:14:28.16ID:a3twqzdY0943人間七七四年
2012/02/14(火) 22:37:50.00ID:KkMQV1PE変わった名前だから目立つけど、多いってほどでは…
あ、でも普通の学校には松平って名前の人はまずみないから、
他と較べると多いな
0944人間七七四年
2012/02/14(火) 22:56:00.29ID:6rZxEOEx0945人間七七四年
2012/02/14(火) 22:57:57.79ID:HGtQXQe+松平姓は日本の苗字数順位1864位世帯数2072
日本の苗字数約30万からすると結構存在するんだな
ちなみに織田は世帯数8497で575位
豊臣は世帯数13で45217位
羽柴は世帯数1080で3201位
0946人間七七四年
2012/02/14(火) 23:08:03.47ID:9aYCnnvX今川範忠の時に足利義教から「天下一苗字」を許されたため、
今川家では宗家以外は今川を名乗れなかった、また、江戸時代には
幕府から今川は庶流には使わせなかった、
よって現在今川という苗字が他の大名に比べて極端に少ないのはそのためだろう
というようなことが書かれてあったが、
インターネットの苗字検索の結果
今川:965位 約19,100人
羽柴程度、てことは一応少ないほうかな
0947人間七七四年
2012/02/14(火) 23:45:01.40ID:GnV0xuUp0948人間七七四年
2012/02/15(水) 00:08:12.60ID:wqe54H6k0950人間七七四年
2012/02/15(水) 01:03:23.02ID:Vw/GRtIV時代考証をしっかりして高須四兄弟やれよ
0951人間七七四年
2012/02/15(水) 01:10:12.72ID:8gx0lsqh0952人間七七四年
2012/02/15(水) 01:52:35.38ID:xcYymYsb「義賢もかつて松永久秀により長慶に讒言されたとされている[5]ことから、
久秀も認めるだけの器量人であったと思われる。」
誰だよ、この記事書いたやつww
まるで久秀さんが優秀なライバルをすべて蹴落とそうとしたみたいじゃないかw
0953人間七七四年
2012/02/15(水) 08:58:53.94ID:iQdidqDnアホみたいに王家を連呼してるから視聴率が急落
まあ皇室を貶めたいチョンが作ってるから仕方ないか
0955人間七七四年
2012/02/15(水) 09:52:46.17ID:4HxhzVYm70後半や80代は皇室への感情強いし
0956人間七七四年
2012/02/15(水) 10:05:03.44ID:YroZKIQ+関ヶ原の怨みを忘れまいと、毎年正月に怪しい儀式を続けて、討幕する長州藩
関ヶ原の際、三成への恩から曖昧な態度で秋田に転封された為、情に流されず官軍につく久保田藩
0957人間七七四年
2012/02/15(水) 10:32:54.04ID:3LLNAgR6同様に公爵〜も
朝廷に天子さまのがシックリくる
0958人間七七四年
2012/02/15(水) 11:45:02.04ID:b61cXQ530959人間七七四年
2012/02/15(水) 16:27:54.80ID:J+7V35Vt幕末の毛利の殿様って「そうせい侯」て呼ばれてたんだろ?
家老が「殿、徳川征伐の準備整ってございます。出陣いたしますか」って聞いて
「そうせい」って言われたらどうすんだろw
0960人間七七四年
2012/02/15(水) 16:32:47.67ID:BU4sp6mK0961人間七七四年
2012/02/15(水) 20:23:36.85ID:+GWGGohF今夜はヒストリーを見てるんだが、○○が好きすぎてツライな武将はどんだけいたんだろう。嫁を好きすぎてツライの筆頭はやっぱり三斎様なんだろうなぁ・・・。
0962人間七七四年
2012/02/15(水) 20:36:41.07ID:3LLNAgR6妻帯坊主の面目躍如だ(良い意味で)
0963人間七七四年
2012/02/15(水) 20:41:54.53ID:A+df7jXTそもそもが十河や義興の早世に久秀は関係なさそうだし、三好氏の全権を握った
ことなど一度も無いぞ。長慶の生きている間は彼の右腕以上の存在ではない。
とかく久秀はこういう「梟雄」イメージが先行しているけど、彼の三悪のうち、
確実なのは将軍謀殺だけだろう。
>>953-954
「王家」という呼称自体は大した問題は無いのよ。
史料上にも見られる表現だし、それを踏まえた学術用語としても用いられている。
(まあ、こんなどちらかというとマイナーな用語を使う必要があったかどうかは別だが)
まさかこの板でもこんなこというやつがいるとは思わなかった。
清盛が受けないのはひとえにあの小汚さと、登場人物関係の複雑さだと思う。
0964人間七七四年
2012/02/15(水) 20:45:47.88ID:3LLNAgR60965人間七七四年
2012/02/15(水) 20:49:51.90ID:wd3Fa6Ri0966人間七七四年
2012/02/15(水) 20:58:09.14ID:MvDlF24jただ王子がそれをやってるから合わない感情移入出来ないだけで
0967人間七七四年
2012/02/15(水) 20:59:26.97ID:J+7V35Vt0968人間七七四年
2012/02/15(水) 21:09:02.01ID:oGOt9OGV0970人間七七四年
2012/02/15(水) 21:25:49.04ID:GV5G2j9+源氏物語とか宮廷中心ならともかく、武士が主人公なんだから埃臭いくらいで丁度いい
0971人間七七四年
2012/02/15(水) 21:30:06.97ID:/NjnRipZNHKは最新の映像技術、とか自慢げだけど普通に方向性おかしいと思うわ
0972人間七七四年
2012/02/15(水) 21:33:48.33ID:mmKvFubP鎌倉とかをそういう表現されたらあれだけど
0973人間七七四年
2012/02/15(水) 21:37:19.83ID:ZG00aOrJビジュアル系な意味でw
Gackt謙信は期待してたけど常識の範囲内でガッカリだった
センゴク謙信みたいにぶっ飛んだ演出期待してたのに
0975人間七七四年
2012/02/15(水) 22:19:53.65ID:nssJCZVX必死に生きていくお侍さんの人生でも描いたトンデモ大河でもやりゃいいのになw
0976人間七七四年
2012/02/15(水) 23:07:49.43ID:pyUkrTAV俺はけっこう楽しく見てる方なので驚き
0977人間七七四年
2012/02/15(水) 23:17:32.76ID:Cbk+Q2Hs前作がアレだったせいもあるかもだが
0979人間七七四年
2012/02/15(水) 23:22:19.05ID:cEnhfgrZいくら戦国板とはいえ、まともな知識すらないアレなのが粘着することも
あったりする。
0980人間七七四年
2012/02/15(水) 23:23:36.40ID:GQFANoGm0982人間七七四年
2012/02/15(水) 23:39:26.73ID:6812KxEt0983戦国ちょっといい話31
2012/02/15(水) 23:40:11.68ID:6812KxEt戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323607575/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328357412/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0984人間七七四年
2012/02/15(水) 23:43:04.74ID:6812KxEt戦国ちょっといい話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329316941/
ここ埋まったら移動してください
0985人間七七四年
2012/02/16(木) 06:34:04.65ID:F2G1J2lI慶応4年1月1日
家老「殿、徳川征伐の準備整ってございます。出陣いたしますか」
毛利敬親「そうせい」
慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦い
0986人間七七四年
2012/02/16(木) 10:44:43.09ID:RIS6lgZa当然、当時と同じ赤備え…
0987人間七七四年
2012/02/16(木) 10:45:38.99ID:1w0uGZir0989人間七七四年
2012/02/16(木) 13:09:47.61ID:HhPwUyDP・当時は天皇の家族をファミリーとしてとらえる概念がなかったから、
「王家」でも「皇室」でも問題ない
・今まで大河では「皇室」を使っていたが、学術的な観点から中世史学会で用いられている「王家」を採用した
(考証担当の本郷和人氏の著作「謎とき 平清盛」)
・「王家」が学術用語になったのは、黒田俊雄氏が「権門体制論」をうちだすうえで、「皇」では
皇国史観の影響で中立ではないと思ったから。
・また、「王家」よりも頻繁に使われている「朝家」では意味が異なるのも黒田氏が「王家」を選択した理由である
・「王家」は中世史学会の方言のようなもの
・近頃では「王家」では適当ではないとして「院宮家」などを提唱している学者もいる
(「謎とき 平清盛」で参考文献で挙げられていた「歴史評論 2011年8月号」の複数の論文より)
個人的には、当時その概念では使われてなかった学会内での用語を、わざわざ大河に新しくもってきたことが
一番の問題だと思うから、十把一絡げでネトウヨとか無知扱いしないで欲しいもんだ
0990人間七七四年
2012/02/16(木) 13:21:30.40ID:Vng8WzYr謎とき平清盛って平家幕府などと書いてある電波本だからなあ
平安末期の同時代史料に王家という言葉はなかったでFA(親王家を除く)
東大史料編纂所のデータベースで検索すれば分かること
0991人間七七四年
2012/02/16(木) 13:30:32.28ID:HhPwUyDP当時使われてなくても、学術用語ならOKと考証担当が考えたってことだから、
用語の採択の過程を知るためには読まなきゃならないと思うんだが
0994人間七七四年
2012/02/16(木) 15:43:29.48ID:0xb10Cqvそう言う事だよなわざわざ特殊と言って良い呼び方を採用しておいて
「それどうなのよ?」と言うだけなのに
すぐネトウヨ扱いする奴の方がちょっとアレだと思う
0995人間七七四年
2012/02/16(木) 15:52:01.98ID:RFWW3UeG0996人間七七四年
2012/02/16(木) 16:20:30.12ID:0xb10Cqv受け取る側に問題があると思うけど
0997人間七七四年
2012/02/16(木) 16:28:39.97ID:ELQevZ840998人間七七四年
2012/02/16(木) 16:45:35.51ID:RFWW3UeGネタにすぎない>>950の書き込みにいきなり>>953みたいに食いついてくるのは大河の話の流れとは言わない
自分も含めてそれをスルーできないのも悪いんだけど
0999人間七七四年
2012/02/16(木) 16:47:36.76ID:BPMCwdwt10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
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゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
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