信長に殺されまくったという一向一揆だが、その後も、スキあれば一揆が蜂起している。つまり、殺されたのは一部に過ぎなかった、と言うこと。
また、斉藤氏家臣も、朝倉家家臣も、武田家家臣も、多くは殺されずに、旧主を裏切って、織田家や徳川家に仕えている。

つまり、信長も秀吉と同じく、敵方の家臣をこちらに寝返らせる、「調略」が中心であり、戦闘は副次的なモノだったのだ。

1580年代の秀吉の「早さ」は、単にスケールメリット。「寄らば大樹の影」で、調略がスムーズに行えたから。信長が長生きしても同じくスムーズに調略が行える。日本中が「寄らば大樹の影」になりつつあったから。