結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
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0424人間七七四年
2011/12/19(月) 17:51:43.80ID:sQKuajvU3月竹千代元服し元康となる。
閏10/10雪斎死没
10/15信玄が負けそうになり第二次川中島の戦いの援軍にきていた今川により甲越講和を斡旋。
弘治2年
10/4氏真と共に母親の寿桂尼を見舞う。
11/19山科を招き和歌会を催す。
弘治3年
1/13歌会始めを氏真邸で開催。
1/15駿府で大火事100軒あまり消失。
山科ら駿府を観光してまわり3/2に帰京するにあたり太刀を贈る。
年末の甲州は日照り。
弘治4年(永禄元年)
2月に織田方の三河加茂郡寺部城(豊田市)の鈴木氏や(家康の初陣となった)
5月に加茂郡名倉船戸橋城(設楽町)で織田軍と戦う。
永禄2年
2/2信長が上洛して将軍に謁見
5月頃に氏真に今川家督と駿河・遠江の支配権を譲渡する。
甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され
川除普請が行われる。
永禄3年
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。
そのためか3/3義元は浅間神社に会舞楽装束を寄進・久能寺に灌頂道具を寄進する。
5/8義元が三河守に任じられ5/12に駿府から三河へ移住のため出発。
5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
6/23義元死後も甲駿同盟の継続合意の話合いがなされている。
永禄4年
1/20義輝が信玄に氏真方と元康方の合戦?で
関東への通路不通を嘆き和睦斡旋するよう御教書を出す。
3月謙信が小田原包囲。上杉軍の川越攻撃に武田・今川軍が北条支援に出撃。
6月氏真が元康の逆心と判断。
永禄5年正月元康が信長と同盟し西三河を平定しようと狙うも
三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。
永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。
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