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結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか

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0001人間七七四年2011/12/01(木) 21:53:42.55ID:WiR9vYft
局地戦ではいくら負けても最終的には相手の領地を占領さえすればいい
だから信長は天下をとれたのだと思う

いくら信玄みたいに局地戦で連戦連勝しても相手の領地を占領せねば意味がない
0393人間七七四年2011/12/15(木) 16:33:48.78ID:wsTox81S
織田厨ボコボコやな
0394人間七七四年2011/12/15(木) 17:19:17.05ID:dRX6uR2j
>>391
信長は利家にケツをシャブられてたんじゃないのかw
0395人間七七四年2011/12/15(木) 17:37:07.28ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。
0396人間七七四年2011/12/15(木) 18:21:38.41ID:b+M7wRKf
義元だけが死んだのならあんなに今川は衰退しねーよ
周りの重臣も討たれたからそうなった
0397人間七七四年2011/12/15(木) 18:34:44.62ID:dRX6uR2j
当主が死んだら
多少の混乱はあるよ。
氏真に駿河と遠江を譲渡し、
三河は義元管轄で経営に乗り出し始めたばかりだったし。
その三河守に任官して間も無い義元が病死すれば、
家康じゃ無くても棚ぼたラッキーって考えるよな。
0398人間七七四年2011/12/15(木) 21:04:26.04ID:b+M7wRKf
多少の混乱ですまなかったから今川は滅びたんだろ
0399人間七七四年2011/12/15(木) 21:37:02.55ID:V2n1BQ8/
>>392
少数が多数を破る事もあるがそれは多数が少数を破る数に比べれば圧倒的に少ない。

常に信玄が相手の兵力を上回る数で相手に挑むのも戦略的優位に立った上で戦術を展開する為だ。
0400人間七七四年2011/12/15(木) 22:11:40.03ID:sDs4tS9f
>>390
良い事なんじゃないのか。
彼にとって日本史にそれだけの魅力があるってことなんだからw
0401人間七七四年2011/12/16(金) 09:19:53.16ID:B9JayfXy
>>395
妄想狂かよw
0402人間七七四年2011/12/16(金) 10:22:56.05ID:f/uv5BwD
三河守になって
やっと三河経営を本格的にやろうと思った三ヶ月後に突然死じゃ
普通に三河なんて今川から離脱するわな。
そもそも三河の街道沿いしか満足に押さえてねーんだもん。
あとは散発的に国人豪族の一部に安堵を出して味方にしてるくらいで
面の支配じゃなく点の支配が始まったばかり。
0403人間七七四年2011/12/16(金) 12:41:31.76ID:SLM5Lmyq
まあ、松平を潰さないで取り込む事にしたのも、その方が手っ取り早いと思った
からかもね。
0404人間七七四年2011/12/16(金) 14:09:35.55ID:I0Z9jJiQ
せっかく氏真に家督を譲渡し駿河と遠江を譲って
自由な身になった義元が三河へやってきて
これから三河に住んで今川の支配力を浸透させるぞー!って
張り切ってたのにね。
家康まで岡崎に戻してあげたのも義元が三河に住めば
充分に監視できるからだろうね。
そしたらポッくりいっちゃったんだろうね。

0405人間七七四年2011/12/18(日) 04:21:22.39ID:14g7S4+m
>>395
感状乱発はただ単に武将達を繋ぎ止めるため。
松平の離反を契機に有力武将の離反が相次いでいた。
0406人間七七四年2011/12/18(日) 08:04:52.03ID:9Xge0ZUF
>>405
つなぎとめるためなどと
主張してる研究者は全くいない。
デタラメ吐くな。
0407人間七七四年2011/12/18(日) 08:19:40.27ID:wgu0H4cm
>>406
現実問題として、義元死後は反乱が頻発して、織田方面を松平に任せきりにしてるうちに、
松平に見放されちゃったわけだがwww
今川が有利ならなんでこんな状況になってたの?
0408人間七七四年2011/12/18(日) 09:07:46.01ID:9Xge0ZUF
もともと三河守になって三ヶ月しか経ってないうちに
急死したから三河が離反したんだろ。
氏真に家督と駿河と遠江を譲り、
義元がこれから今川化を浸透させ
統治しようと思って三河へ移ってきた矢先だし。
三河北半分はほとんど今川支配は及んでなかったし。
0409人間七七四年2011/12/18(日) 10:00:07.85ID:wgu0H4cm
その前からずっと岡崎城に代官を置いてただろうが。
なんで今川家が有利ならあっさり松平が離反してるの?
家康が駿河で人質になってる前から、三河は今川の影響下でしょうに。

あと、その駿河と遠江で反乱が連発して氏真が鎮圧に手一杯になって、
重臣をまとめるのに文書を出しまくってるのは?
義元が病死しただけならそれまでの体制を継承すればいいだけだよね?
氏真には対抗馬になる他の継承候補も居なかったんだし。

そもそも桶狭間以降、三河以西にさっぱり軍事行動してない理由は?
三河一向一揆につけ込むことさえしてないよね?
0410人間七七四年2011/12/18(日) 11:42:05.41ID:Yv9H6II8
代官は辞めて家康を岡崎に帰してあげただろうが。
三河で今川が満足に抑えていたのは東三河と街道沿いだけだぞ。
岡崎も街道沿いにあったし。
そもそも家康の松平が西三河全域を支配してはいないし
北三河だってごく一部にしか今川は影響を及ぼせてない。
面ではなく点の支配しかできてないから
義元は三河守になって三河へ移住してきた。
0411人間七七四年2011/12/18(日) 14:46:11.07ID:Av84lo0g
「返してあげた」www

まぁ、いいや。で、なんで今川は桶狭間で大勝利なのに、松平は織田に鞍替えしたわけ?
今川が有利ならそのまま織田と対決してればいいよね。
現実に桶狭間直後は単独で織田に対抗してたんだし。
0412人間七七四年2011/12/18(日) 15:37:34.28ID:bT3iUGAS
今川義元、桶狭間で大勝利と聞きましたが、ここはその戦勝会場でふか?
0413人間七七四年2011/12/18(日) 19:47:32.64ID:ve80EClc
>>395
桶狭間、今川大勝利だったの?
もう何でもありだなwww
0414人間七七四年2011/12/18(日) 19:51:58.27ID:ve80EClc
↑395をちょっと調べてみたら、だがっぽいなw
0415人間七七四年2011/12/18(日) 19:56:35.01ID:E0PY7V1d
だがスレのみなさんこんばんは
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0416人間七七四年2011/12/18(日) 22:35:31.41ID:mgBdt8+B
>>1
なにをたわけたことをw 天下を取るには
天の時 地の利 人の和ですぞ?
0417人間七七四年2011/12/18(日) 22:53:49.60ID:H0sW5QYK
多く兵がいる=多く兵を食わせれる=強大な国力がある。

則ち勝利。
0418人間七七四年2011/12/19(月) 00:07:39.50ID:dKBhxLhK
織田の強さはそこだなさっさと逃げるから兵員の補充が早い
0419人間七七四年2011/12/19(月) 00:13:48.17ID:zCOx3e8A
スレ主登場か
0420人間七七四年2011/12/19(月) 13:41:52.29ID:sQKuajvU
義元が氏真に家督譲渡前後における
三河国への義元の発給文書が
わずか18通だもんな。
今川が三河をまったく支配なんてもんは成立してない。
今川はせいぜい渥美郡くらいしか支配できてない。
0421人間七七四年2011/12/19(月) 14:17:12.10ID:QurEpStC
ねーよアホw
0422人間七七四年2011/12/19(月) 15:14:45.54ID:m6mY74mc
信長マンセーのために
義元を巨大な虚像にしただけ。
実際は田原城を攻略した
太原雪斎が死んだ後ほとんど領地も増えてない。
0423人間七七四年2011/12/19(月) 15:39:05.86ID:e07fnA2Z
18通もあれば十分だろ
三河が義元の支配になって日が浅いだけ
0424人間七七四年2011/12/19(月) 17:51:43.80ID:sQKuajvU
弘治元年(天文23年)
3月竹千代元服し元康となる。
閏10/10雪斎死没
10/15信玄が負けそうになり第二次川中島の戦いの援軍にきていた今川により甲越講和を斡旋。

弘治2年
10/4氏真と共に母親の寿桂尼を見舞う。
11/19山科を招き和歌会を催す。

弘治3年
1/13歌会始めを氏真邸で開催。
1/15駿府で大火事100軒あまり消失。
山科ら駿府を観光してまわり3/2に帰京するにあたり太刀を贈る。
年末の甲州は日照り。

弘治4年(永禄元年)
2月に織田方の三河加茂郡寺部城(豊田市)の鈴木氏や(家康の初陣となった)
5月に加茂郡名倉船戸橋城(設楽町)で織田軍と戦う。

永禄2年
2/2信長が上洛して将軍に謁見
5月頃に氏真に今川家督と駿河・遠江の支配権を譲渡する。
甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され
川除普請が行われる。

永禄3年
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。
そのためか3/3義元は浅間神社に会舞楽装束を寄進・久能寺に灌頂道具を寄進する。
5/8義元が三河守に任じられ5/12に駿府から三河へ移住のため出発。
5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
6/23義元死後も甲駿同盟の継続合意の話合いがなされている。

永禄4年
1/20義輝が信玄に氏真方と元康方の合戦?で
関東への通路不通を嘆き和睦斡旋するよう御教書を出す。
3月謙信が小田原包囲。上杉軍の川越攻撃に武田・今川軍が北条支援に出撃。
6月氏真が元康の逆心と判断。

永禄5年正月元康が信長と同盟し西三河を平定しようと狙うも
三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。

永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。
0425人間七七四年2011/12/19(月) 19:06:37.05ID:sQKuajvU
岡崎城の北に位置する賀茂郡松平郷を発祥地とする松平氏にとって
加茂郡寺部城の鈴木氏は家康の祖父の松平清康の宿敵
義元は家康の初陣に今川軍の援軍を付け岡崎へ送り
祖父以来の敵を討たせ寺部城攻略を成功させる演出をしている。

茂郡名倉船戸橋城は奥三河に位置しており、
そこまで織田の勢力圏が伸びていたのがわかる。
0426人間七七四年2011/12/20(火) 13:12:26.47ID:Mvj9vSc3
>>425
>>寺部城攻略
実は織田方にすぐ奪回されてるっぽい。
城に砦を築いて寺部城を攻撃してる匂坂長能が今川の将だし。
それで来年(永禄2年)の義元出馬が書かれてるけど、結局出馬してない。
0427人間七七四年2011/12/20(火) 15:05:40.16ID:S9/y8Vbi
>>396
周りの討たれた重臣をソースつきで列挙してください。
私が調べたところ
誰も討たれてませんのでソースください。
0428人間七七四年2011/12/21(水) 07:09:07.49ID:iR5+AcPb
大して書かれてない信長公記ですら松井五八郎が死んでるだろw
大体>>395の義元病死の根拠出す方が先だろ糞だがw
三河物語や信長公記他もろもろ信長の行動が書いてあるのにそれを覆すんだから
さぞや何か強い根拠となる史料があるんだろうな?
0429人間七七四年2011/12/21(水) 09:09:49.33ID:Xvv8/hGw
信長公記の首巻は誰が書いたかわからんシロモノだし、
桶狭間の戦いの発生時期を
天文21年とするなど信憑性がかなり低いデタラメ。
三河物語の作者大久保が生まれたのは
桶狭間の戦い発生年とされる永禄3年で知らずに書いてるから
桶狭間における信長と義元について超簡潔に書いてる。
信長公記のでっち上げを信じた
大久保が便乗して家康のウソ武勇伝を創作しただけだろ。
>>424
永禄5年に行った検断が原因で、
6年正月から反松平の三河一向一揆が蜂起したとは言え、
吉良氏などが背後にいたようで、
東三河は駿河化したと書いてるくらいで、
家康は岡崎の維持すら苦戦している。
義元の死に乗じた家康が自立した時こそ
歯肉なことに、かえって三河の今川化促進されたと言える。
やはり桶狭間の戦いは数々と感状からみても
今川が勝利したことで、三河がより今川化したことと合致する。
0430人間七七四年2011/12/21(水) 09:18:12.49ID:c7nPyfOO
ソースも根拠もなく完全否定ですってよこの人
そのりくつならさ、今現在に生きるお前の説明なんか米粒ほどの価値も無いってことだぜ?
0431人間七七四年2011/12/21(水) 10:36:14.36ID:Xqx2zDLk
>>428
松井五八郎は5/22現在で行方不明になってるだけだろ?
死んだとするソースは?
0432人間七七四年2011/12/21(水) 11:27:32.61ID:Xqx2zDLk
今川は鵜殿・梁瀬・平野・菅沼・松井・後藤・尾上らに
恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。
0433人間七七四年2011/12/21(水) 11:37:27.27ID:Xqx2zDLk
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされていて
遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
0434人間七七四年2011/12/21(水) 17:17:47.50ID:iUqbEyMX
>>432,433
はいはいキチガイ乙w
0435人間七七四年2011/12/21(水) 17:37:36.20ID:Xqx2zDLk
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
0436人間七七四年2011/12/21(水) 19:50:53.86ID:6gkfDBFE
投票否定事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/22.html
0437人間七七四年2011/12/21(水) 20:04:46.22ID:ewTFbEpo
>>436
妄想ウザイ。基地外はだがスレに帰れ。
0438人間七七四年2011/12/22(木) 18:08:17.80ID:lizNsTfs
>>431
信長公記にあるだろw
大体領主なのに行方不明でどっか行きましたとかねーわw
戦意高揚のために感状を多く出すのも別に不思議ではない
ただえさえ義元らが奇襲を受けて戦死するまで今川優勢だったんだから尚更だ

そもそも信長が死ぬ寸前までいってるのに義元の病死で軍を返すなど判断ミスもいいと
有利な条件で和睦して尾張一部をかすめとるくらいはできる
0439人間七七四年2011/12/22(木) 18:28:01.23ID:ISM08Lts
>>438
信長公記は一次史料じゃなく軍記なのも知らんのかw
しかも首巻は特に信憑性が無い。
0440人間七七四年2011/12/22(木) 19:09:52.71ID:Og3JLnW3
こーよーぐんかん、家忠日記増補追加、静岡県史中世二の2769、2778、2788、ついでに宗三左文字の銘
これらと信長公記の合致
否定する根拠がぜひとも知りたい
0441人間七七四年2011/12/22(木) 22:09:16.26ID:lizNsTfs
軍記にすらソースのない主張をするだが
0442人間七七四年2011/12/23(金) 11:49:27.59ID:OGtsd4Nu

>>440
こーよーぐんかん→信長公記からのパクリ。
家忠日記増補追加→鴨川達夫氏も後世の創作と断じてる。
静岡県史中世二の2769、2778、2788→書状の写しであり
原本が存在しない偽書状。
しかも2788に至っては急死した義元の援軍に氏真が出馬する姿勢を
示していてありえない。
家の相続を含めた体制再構築をしなければならない時期に、そんな軽挙をするわけがない。

宗三左文字の銘には信長が尾張守と刻んでいて、信長が尾張守になるのは先の話で
しかも尾張守の名乗っていた時期はとても短く年代がまったく合わないので明らかに後世の刻。
0443人間七七四年2011/12/23(金) 12:28:23.25ID:JQEKVYJS
>>442
ほぅ、なるほど
学者の権威を重視してらっしゃるようで
ならば日記増補追加以外もそれら史料を否定してる奴ら列挙してくれたまえ
お前みたいなゴミクズの指摘なんかよりよっぽど価値が有るだろ?
え?ない?
そう、ならおまえの独自研究に基づく研究成果を発表してたの?w
違うなら桶狭間が無かったなんていってる奇天烈な学者も挙げろよw

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309145931/400
>400 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2011/12/23(金) 11:02:07.62 ID:OGtsd4Nu
>>392
>信長之御手は旗本近く迄切被レ立、各々爰はの衆が打れけれ共、
>家康が勝って切り込んできたから織田軍は助かったと三河物語に書いてんだろ文盲かよw
それとこのスレでは三河物語を史料として認めてるけど、コレとの整合性も説明してくれたまえよ
大久保は姉川の時は十歳だろw
0444人間七七四年2011/12/23(金) 13:56:10.98ID:OGtsd4Nu
>>443
実際に徳川軍が姉川の戦いに参加してるのは
各種の一次史料から間違いないだろ。
それを親族から直接に伝聞できいた大久保が記したなら
正しいだろう。
しかし桶狭間の戦いには徳川軍が参加した証拠は一次史料には無い。
0445人間七七四年2011/12/23(金) 16:07:34.73ID:JQEKVYJS
>>444
ご託いいからそういってる学者上げろってw
津本とか逆説の日本史とかいうなよ?w
0446人間七七四年2011/12/23(金) 20:45:17.88ID:0+plca0e
>>442
実際、氏真の出陣した形跡が無いからデタラメだよなあ。
0447人間七七四年2011/12/28(水) 04:05:28.99ID:NvJlWGgM
それなら三成は家康に勝ってる
0448人間七七四年2011/12/28(水) 12:23:30.89ID:IwRZIN4v
学者さんが指摘しても根拠なきゃただの妄想だよな
0449人間七七四年2011/12/28(水) 12:54:01.07ID:qh1/uV/f
すくなくとも実名すらも出せない便所の落書きよりは信がおける
あの人らは公に名前を出されて叩かれて名誉に傷つくから相応にしっかりしたことを書こうという意志が働くが、ここだと何書こうが被害は無い
だから桶狭間はなかったなんていってるのは小説を生業にしてるやつらぐらいだろ
0450人間七七四年2011/12/28(水) 13:26:16.36ID:2yoCETeW
残念ながら学者も桶狭間の戦いの解説には
二次史料以下の軍記からの抜粋ですよ。
0451人間七七四年2011/12/28(水) 14:05:21.02ID:qh1/uV/f
そう主張してるお前の言説はその軍記以下って事
0452人間七七四年2011/12/29(木) 08:14:19.17ID:IETIJTnP
なんで動員力の話が、桶狭間があっただ無いだの話になってるんだ?
0453人間七七四年2011/12/30(金) 10:58:49.77ID:ke+CWghb
桶狭間の戦いが存在すると、
1の動員力の話が覆るから揉み消すのに必死なんだろ。
0454人間七七四年2012/11/30(金) 22:09:14.24ID:jiF5fRIl
>>1
大友宗麟が禿げ胴だってさ
0455人間七七四年2013/02/19(火) 07:16:14.71ID:sd8sYVWN
信長公記が軍記?
信長記と区別つかんアホが一次史料だソースだ抜かすな
0456人間七七四年2013/06/25(火) 15:13:43.76ID:jWf4+/oE
6万動員できた信玄
3万しか動員できなかった信長

兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代

賎ヶ岳の戦いでの一次史料では
柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆

秀吉は武田軍の兵制を学んだのか動員限界の壁をぶち破りはじめている。
そして小牧長久手の戦いでは信玄が自由に指揮していた根拠とされる陣立書を秀吉も作るようになる。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
0457人間七七四年2013/06/25(火) 15:20:12.28ID:jWf4+/oE
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
0458人間七七四年2013/06/25(火) 15:21:52.87ID:jWf4+/oE
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長
信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊では話にならないわ。

それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)

こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。


島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ

実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
0459人間七七四年2013/06/25(火) 15:25:24.14ID:jWf4+/oE
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。

一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。

秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中への遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
0460人間七七四年2013/06/25(火) 16:12:13.19ID:PjTj6ghX
>>456
>>賎ヶ岳の戦いでの一次史料では柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆
天正11年5/15秀吉→小早川書状の曲解乙
「先手の備をは二万計濃衆岐阜口へ相向、」「滝川をも二万計にて取巻候事」と滝川包囲の伊勢方面軍と
秀吉方の美濃口に向かった先手勢だけの兵力で、当然先手と滝川包囲軍が全てなわけがないのでこれは単に秀吉方の軍のごく一部なだけ。
西は宇喜多・南条領の備中・備前・美作・伯耆、東は美濃、尾張、北は若狭・近江まで広範な版図持つ秀吉が4万+馬周りとかそんな少ないわけねーだろクズ

>>459
>>一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
0461人間七七四年2013/06/25(火) 16:36:17.30ID:uAmDcEeI
>>天正3年5/15奥平書状
おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
>>毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
信孝相手にどんだけ俺が苦難と苦労してたと思ってんだ〜みたいな文章で敵兵力を吹いて誇張して、
自分の正統性をアピールしてるにすぎんでしょ。
そもそも褒美すら満足に出せず、国人に欠所地を自分で探してきたら、
そこを加増してなるとか言ってる毛利にそんな経済的余裕ないし、
そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
0462人間七七四年2013/06/25(火) 16:47:08.97ID:PjTj6ghX
>おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
検討の余地ありは=偽書状ってことではない。本物でない可能性ありってだけだろ
>> あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
本当にそれだけいるかどうかはともかく一次資料でいいなら上記のようにちゃんと大軍動員してる例はあるわけで。
>>そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
有利な状況や大軍があっても味方を見捨てたりチャンスをむざむざ無駄にするのが毛利。
中国口の播磨但馬の攻防のときとか関が原の時とか本能寺の時とか見てれば毛利が天が与えた幸運や超有利な状況でも何もせず負ける馬鹿なのは
史実みてればわかる
0463人間七七四年2013/06/26(水) 12:30:25.64ID:X35ir+6V
なんだ自分の妄想を信じきってるのかw
0464人間七七四年2013/06/26(水) 22:05:34.79ID:n85QlNob
いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で
(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか書いてたり)
さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし、
しかも信長が岡崎に着いた日も間違えてる書状の写なんて…
検討の余地ありって言い回しを使うのは、
それを持つ人の手前、はっきり断ずることを避けて配慮してるからだし。
アンチ秀吉キチガイのお前の主張はいつも無理やり過ぎるわ。
0465人間七七四年2013/06/26(水) 22:33:17.37ID:ARF23aiS
そんな妄想いわれてもな
偽書状と判明とか書いてるならともかく検討の余地ありだけでは偽ってことにはできずむしろ
今のところ本物だが偽かもしれないってだけだろ
0466人間七七四年2013/06/26(水) 22:53:58.01ID:Mg7okv9Q
大友や島津も耳川とか水俣城攻防とかでかなり大軍動員してるでしょ
0467人間七七四年2013/06/27(木) 08:22:31.70ID:ZHVepmf8
>>466
一次史料の書状にはそんなもん書いてない
0468人間七七四年2013/06/27(木) 13:03:06.11ID:pmVJsRAu
>>465
0469人間七七四年2013/06/27(木) 13:04:34.70ID:pmVJsRAu
>>465
戦国期文書で「卿」が使われていたとする証明になる
一次史料を出してみて。
0470人間七七四年2013/06/27(木) 13:31:50.12ID:AqD0ez8G
そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
0471人間七七四年2013/06/27(木) 14:40:08.80ID:pmVJsRAu
そだね。足利軍30万騎とか書いてあるね。
太平洋戦争のころにそんだけスーパー兵站力があればよかったね。
0472人間七七四年2013/06/27(木) 16:44:36.92ID:JxowQN5k
兼見卿記をふっとおもいだした
0473人間七七四年2013/06/28(金) 05:42:48.96ID:mB4EZVAt
戦なんて民百姓の口減らしの口実
0474人間七七四年2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:Ctti6iUD
>>461
天正3年5/15奥平貞能→奥平信昌宛書状写どころか
実は奥平氏系の書状には怪しいものが多い。
というかそもそも長篠の戦いにおける書状も結構に怪しいもんが多い。
5/19付け家康→石川伯耆・鳥井彦兵右衛門宛書状家康の花押が
天正7年以降のものなので、長篠合戦譚から作成された疑惑が出されたりと
愛知県史での収録の時に大問題となったが、偽との決定的証拠もなくグレー判定だった。
しかし播磨良紀氏は偽書状とする決め手がなく、県史での議論で押し切れなかったことに悔しさを滲ませている。
また天正3年7/20信長→岡三郎宛書状写(馬場討ち取り)なども偽書状とされてる。
長篠の戦いについては大きく見方を変える必要がある虚構性の高いものだといえる。
まあ有名な戦に関する書状は価値が高いし、先祖がそれに参加してるとなると家の名誉だから
捏造書状は作られやすい。
0475人間七七四年2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:5D3pb/kR
まぁ写しの時点でな。
写しって言っても軍記や家譜に書かれてるのは
非常に疑わしいから。
特に関が原軍記大成に出てくる秀家に関白職を譲る書状の写しとか
関が原決戦を前に秀秋の内応を誘う東軍の書状とか完璧な偽書状写だし。
0476人間七七四年2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:5D3pb/kR
訂正
>>秀家に関白職を譲る書状
秀秋に関白職を譲る書状
に修正。

なぜか秀秋擁護に全力なのが笑えるw
0477人間七七四年2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:bdf5HbAF
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してる証拠として
叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてるし、
兵力に関しては過大に吹聴してるのを聞いて書いたものより、
むしろ公記の方が正確。公記の兵力数は朝倉方などの記述と近い場合なども多い。
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
(天王寺の戦い・・・公記には数千挺の鉄砲に狙撃される中を信長が突撃して大勝利したとデタラメを吐く)
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
(同時期の柴田書状には能登・加賀・越中を織田が平均したとデタラメを吐いてる)
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw 実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
0478人間七七四年2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:qRLsuVSl
三好と畠山が激突した久米田の戦いが
0479人間七七四年2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:qRLsuVSl
三好と畠山が激突した久米田の戦いが
三好実休が根来寺側の砲撃で戦死したりしてるが
畠山1万、三好方17000の兵力で、
近国無双の大合戦って言ってるくらいだからな。
0480人間七七四年2013/09/09(月) 11:07:03.32ID:QaPK4+QS
>>474
愛知県史では第一線級の学者が集められて
一次史料か偽書状かで相当な議論があって、
その結果、永禄3年以降からの収録になったくらいだからね。
永禄2年以前はあまりに偽疑いが酷いようで。
0481人間七七四年2013/09/12(木) 00:09:33.35ID:FgYrz0eT
偽書状の話か。
そういや高天神城落城を喜ぶ3/25信長→家康書状も偽書状らしいね。
これ高天神城皆殺しして勝頼の威信を失墜させたことを証明する書状で、
一人も洩らさず討ち果たさるの由って書いてる。
でも、宛名は三河守殿などと不審極まるもんだし、
なにより天正4年以降の信長は天下布武の朱印か黒印による印判を使っていて花押を書いたりしてない。
さらにこの信長花押は非常に珍しい形で類例がないそうだ。
0482人間七七四年2014/02/19(水) 22:45:09.99ID:yMsMH2q6
>>471
ワロタw
0483人間七七四年2014/04/12(土) 18:42:34.80ID:euFOO/iP
そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
0484人間七七四年2014/04/12(土) 18:44:41.36ID:k3wc4mYh
そもそも源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ
0485人間七七四年2014/04/12(土) 18:47:45.42ID:Y9ZP1SIg
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
0486人間七七四年2014/04/13(日) 10:17:23.72ID:9b72wy4n
>>483>>484>>485
偽だが単発ID自演乙w
兵站概念がない織田は総力を集めた決戦用で一戦線に集中できる兵力上限3万が限界。
織田は一国亡国平均政策のもとに、
軍を各地に駐屯させて恐喝略奪放火虐殺をして兵を養うため、
各地に駐屯するしか維持することが出来ない。
南北朝や源平での数十万動員なんてのは軍記話であって一次史料では存在しない誇張表現にすぎない。
略奪軍は一次的に兵力増大は可能だがすぐに枯渇し長続きしないため現実的じゃない。
だから知将名将はそういうダメ戦略を用いない。
日本と大陸では比較対象にならない。
中国のような兵糧を集積した施設や、
富が集中した長期籠城に対応した城郭都市からの補給が可能な地域では長く兵力を維持し養うことが可能。
しかし、日本には城郭都市は無いし、兵糧集積地も無いし、
通商キャラバン商隊との合流や、
遊牧民族のような燃やし奪い移動する廃都遺棄前提の略奪移動型のような馬による大移動型軍隊ではない。
まあ信長のやっていたことは遊牧民族のような行為であったのは事実だが、
それを逃げることが出来ない土地に依存していた農民相手にやったら喰えなくなった領民に支えられる領主も含めて、
一揆謀反だらけになるだけで、
まともな統治は行えないから撫で切り根絶政策に陥り、次から次へと敵が増えるだけ。
結局、信長は石山本願寺を支えていた、
高野山、粉河、根来、雑賀などの4大宗教団体で組織構成された
フロイス曰く紀伊共和国に敗北し謀反死した。
しかし兵站概念を持つ秀吉は規格外の大兵力を投入した位攻め戦略で彼らを速攻で降伏に追い込み、
彼らに船を出させて四国すら瞬く間に制圧してみせた。
家康は彼ら同盟者を見捨てて震えあがりビビっていた。
0487人間七七四年2014/04/13(日) 12:00:55.61ID:FZdAzpYL
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
0488人間七七四年2014/04/13(日) 12:13:44.74ID:9UAQeHnS
富士川の戦い(源氏方兵力4万)
倶利伽羅峠の戦い(平家兵力4万)
篠原の戦い(平氏方兵力40000)
一の谷の戦い(源氏方兵力66000)
元寇(日本方兵力10万)
筑後川の戦い(両軍計100000)
四條畷の戦い(足利軍60000〜80000)
湊川の戦い(足利軍50000)
0489人間七七四年2014/04/13(日) 12:17:58.93ID:FZdAzpYL
秀吉の5大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の墨俣一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○農民からの出世話→史料にないデタラメ。一次史料初見でも1565年時点で重臣と名前を連ねて領土安堵状を坪内氏にだしてる
程の身分

○秀吉の中国大返し→6/4高松で高松出発は6/4播磨に移ったのは6/6 摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣 6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる から全くといっていいほど速くないどころか
むしろ遅いくらい。

○金ヶ崎の退却戦→史料にないデタラメ。朝倉は金ヶ崎なんて無視して湖西方面に出兵してる。
ちなみに朝倉の軍勢はせいぜい10000程度なので秀吉徳川池田などで余裕で6000程度は行くから守るなんて余裕すぎる。
0490人間七七四年2014/04/13(日) 12:18:40.22ID:FZdAzpYL
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
0491人間七七四年2014/04/13(日) 12:40:30.18ID:5t/9ciIY
基本的に秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。

例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。

しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
0492人間七七四年2014/04/13(日) 14:22:24.49ID:9b72wy4n
>>信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
>>大軍を河内に集めてるのがわかる

これ文章では最後に「云々」と書かれており、
ただの噂・雑言など不確かな情報に過ぎないことがわかる。
しかも大動員していたなら、織田軍が負けて撤退するわけもなく、
あきらかに戦時誇大宣伝に過ぎない。
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