結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
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0001人間七七四年
2011/12/01(木) 21:53:42.55ID:WiR9vYftだから信長は天下をとれたのだと思う
いくら信玄みたいに局地戦で連戦連勝しても相手の領地を占領せねば意味がない
0378人間七七四年
2011/12/12(月) 11:44:00.92ID:eCuCrXXC織田厨ってガチでバカだよねw
>>330
はぁつくづく都合がいいキチガイ脳してるなワロタw
ちなみに信玄死んだ1573年の信長は40歳だ。
>>332
信長が八方塞がりだったのは信長公記にも書かれてるのに
どこが戦略がうまかったんだよw
たった1万しか織田は兵力が集められないまで離反されまくり
信玄死んで武田の大軍が撤退したから助かっただけだろ。
0379人間七七四年
2011/12/12(月) 16:20:58.47ID:j9HT87oMそう思っている時点で武田の負けだろ。
0381人間七七四年
2011/12/12(月) 19:08:51.01ID:97ZtD9hjああごめんね、これ時期で比べたわけじゃないの
尾張統一もできていない頃の信長と比べて、って言いたかったんだ。
ああそうそう、たった1万の根拠はどこ?
0382人間七七四年
2011/12/12(月) 22:12:43.06ID:R6WIUB6T戦略的にも有利戦術的にも有利なのは疑いようがない。
無論少数が多数を破る戦いは古今東西数多くあるが多数が少数を破る戦いはそれを遥かに凌ぐ数ある。
0383人間七七四年
2011/12/13(火) 06:20:24.12ID:XalCMGDV今の時代、武田信玄が流行るわけだ。
0384人間七七四年
2011/12/13(火) 18:15:34.59ID:HL2fza3x尾張統一されたもんを引き継ぎながら
道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて
謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
0385人間七七四年
2011/12/13(火) 18:37:35.05ID:BIObmWM+別に信長のいる弾正忠織田家の家来でもないんだけど、
むしろ信長の当主就任当時に尾張を領有していたのは斯波家なんだけど
あれもしかして知らなかった?
0387人間七七四年
2011/12/15(木) 11:36:20.48ID:YdxEiRVO斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
0388人間七七四年
2011/12/15(木) 11:37:47.90ID:YdxEiRVO焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと
依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
0389人間七七四年
2011/12/15(木) 11:40:04.71ID:YdxEiRVO朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、だいたい600人を1年間雇えるくらい
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で
戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている「欠落」と
農地が荒廃していた「退転」状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
0390人間七七四年
2011/12/15(木) 11:52:49.31ID:C9kR2DQw0391人間七七四年
2011/12/15(木) 15:01:57.59ID:8nyMdTnt馬に乗れない武将ばかりで、自慢の騎馬軍が弱体化したからなんだってさ
0392人間七七四年
2011/12/15(木) 15:38:15.69ID:YHuQReBOそして桶狭間においては今川軍に対して織田軍は圧倒的に少数だった件
0393人間七七四年
2011/12/15(木) 16:33:48.78ID:wsTox81S0394人間七七四年
2011/12/15(木) 17:19:17.05ID:dRX6uR2j信長は利家にケツをシャブられてたんじゃないのかw
0395人間七七四年
2011/12/15(木) 17:37:07.28ID:dRX6uR2j今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。
0396人間七七四年
2011/12/15(木) 18:21:38.41ID:b+M7wRKf周りの重臣も討たれたからそうなった
0397人間七七四年
2011/12/15(木) 18:34:44.62ID:dRX6uR2j多少の混乱はあるよ。
氏真に駿河と遠江を譲渡し、
三河は義元管轄で経営に乗り出し始めたばかりだったし。
その三河守に任官して間も無い義元が病死すれば、
家康じゃ無くても棚ぼたラッキーって考えるよな。
0398人間七七四年
2011/12/15(木) 21:04:26.04ID:b+M7wRKf0399人間七七四年
2011/12/15(木) 21:37:02.55ID:V2n1BQ8/少数が多数を破る事もあるがそれは多数が少数を破る数に比べれば圧倒的に少ない。
常に信玄が相手の兵力を上回る数で相手に挑むのも戦略的優位に立った上で戦術を展開する為だ。
0402人間七七四年
2011/12/16(金) 10:22:56.05ID:f/uv5BwDやっと三河経営を本格的にやろうと思った三ヶ月後に突然死じゃ
普通に三河なんて今川から離脱するわな。
そもそも三河の街道沿いしか満足に押さえてねーんだもん。
あとは散発的に国人豪族の一部に安堵を出して味方にしてるくらいで
面の支配じゃなく点の支配が始まったばかり。
0403人間七七四年
2011/12/16(金) 12:41:31.76ID:SLM5Lmyqからかもね。
0404人間七七四年
2011/12/16(金) 14:09:35.55ID:I0Z9jJiQ自由な身になった義元が三河へやってきて
これから三河に住んで今川の支配力を浸透させるぞー!って
張り切ってたのにね。
家康まで岡崎に戻してあげたのも義元が三河に住めば
充分に監視できるからだろうね。
そしたらポッくりいっちゃったんだろうね。
0405人間七七四年
2011/12/18(日) 04:21:22.39ID:14g7S4+m感状乱発はただ単に武将達を繋ぎ止めるため。
松平の離反を契機に有力武将の離反が相次いでいた。
0406人間七七四年
2011/12/18(日) 08:04:52.03ID:9Xge0ZUFつなぎとめるためなどと
主張してる研究者は全くいない。
デタラメ吐くな。
0407人間七七四年
2011/12/18(日) 08:19:40.27ID:wgu0H4cm現実問題として、義元死後は反乱が頻発して、織田方面を松平に任せきりにしてるうちに、
松平に見放されちゃったわけだがwww
今川が有利ならなんでこんな状況になってたの?
0408人間七七四年
2011/12/18(日) 09:07:46.01ID:9Xge0ZUF急死したから三河が離反したんだろ。
氏真に家督と駿河と遠江を譲り、
義元がこれから今川化を浸透させ
統治しようと思って三河へ移ってきた矢先だし。
三河北半分はほとんど今川支配は及んでなかったし。
0409人間七七四年
2011/12/18(日) 10:00:07.85ID:wgu0H4cmなんで今川家が有利ならあっさり松平が離反してるの?
家康が駿河で人質になってる前から、三河は今川の影響下でしょうに。
あと、その駿河と遠江で反乱が連発して氏真が鎮圧に手一杯になって、
重臣をまとめるのに文書を出しまくってるのは?
義元が病死しただけならそれまでの体制を継承すればいいだけだよね?
氏真には対抗馬になる他の継承候補も居なかったんだし。
そもそも桶狭間以降、三河以西にさっぱり軍事行動してない理由は?
三河一向一揆につけ込むことさえしてないよね?
0410人間七七四年
2011/12/18(日) 11:42:05.41ID:Yv9H6II8三河で今川が満足に抑えていたのは東三河と街道沿いだけだぞ。
岡崎も街道沿いにあったし。
そもそも家康の松平が西三河全域を支配してはいないし
北三河だってごく一部にしか今川は影響を及ぼせてない。
面ではなく点の支配しかできてないから
義元は三河守になって三河へ移住してきた。
0411人間七七四年
2011/12/18(日) 14:46:11.07ID:Av84lo0gまぁ、いいや。で、なんで今川は桶狭間で大勝利なのに、松平は織田に鞍替えしたわけ?
今川が有利ならそのまま織田と対決してればいいよね。
現実に桶狭間直後は単独で織田に対抗してたんだし。
0412人間七七四年
2011/12/18(日) 15:37:34.28ID:bT3iUGAS0414人間七七四年
2011/12/18(日) 19:51:58.27ID:ve80EClc0415人間七七四年
2011/12/18(日) 19:56:35.01ID:E0PY7V1d全板チームトーナメント投票の案内です
今日が決勝・狼の優勝がかかった試合なのでお時間よろしければ投票お願いします
こちらのページで投票コードを取得 PCは10分・携帯は待ち時間なし
http://ttoname.sakura.ne.jp/
|.T..| [[ここにコードを入れてね]] <<狼>>
| e |
| a |
|.m.| ノソ*^ o゚)|
| 0 | ※パチパチ
| 1 | 戦国◆だが連
↑こちらを投票スレに投下します↓
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/vote/1324105858/
ノソ*^ o゚)< ℃-ute連のスレもあります。遊びにきてね!
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1323181954/
0417人間七七四年
2011/12/18(日) 22:53:49.60ID:H0sW5QYK則ち勝利。
0418人間七七四年
2011/12/19(月) 00:07:39.50ID:dKBhxLhK0419人間七七四年
2011/12/19(月) 00:13:48.17ID:zCOx3e8A0420人間七七四年
2011/12/19(月) 13:41:52.29ID:sQKuajvU三河国への義元の発給文書が
わずか18通だもんな。
今川が三河をまったく支配なんてもんは成立してない。
今川はせいぜい渥美郡くらいしか支配できてない。
0421人間七七四年
2011/12/19(月) 14:17:12.10ID:QurEpStC0422人間七七四年
2011/12/19(月) 15:14:45.54ID:m6mY74mc義元を巨大な虚像にしただけ。
実際は田原城を攻略した
太原雪斎が死んだ後ほとんど領地も増えてない。
0423人間七七四年
2011/12/19(月) 15:39:05.86ID:e07fnA2Z三河が義元の支配になって日が浅いだけ
0424人間七七四年
2011/12/19(月) 17:51:43.80ID:sQKuajvU3月竹千代元服し元康となる。
閏10/10雪斎死没
10/15信玄が負けそうになり第二次川中島の戦いの援軍にきていた今川により甲越講和を斡旋。
弘治2年
10/4氏真と共に母親の寿桂尼を見舞う。
11/19山科を招き和歌会を催す。
弘治3年
1/13歌会始めを氏真邸で開催。
1/15駿府で大火事100軒あまり消失。
山科ら駿府を観光してまわり3/2に帰京するにあたり太刀を贈る。
年末の甲州は日照り。
弘治4年(永禄元年)
2月に織田方の三河加茂郡寺部城(豊田市)の鈴木氏や(家康の初陣となった)
5月に加茂郡名倉船戸橋城(設楽町)で織田軍と戦う。
永禄2年
2/2信長が上洛して将軍に謁見
5月頃に氏真に今川家督と駿河・遠江の支配権を譲渡する。
甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され
川除普請が行われる。
永禄3年
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。
そのためか3/3義元は浅間神社に会舞楽装束を寄進・久能寺に灌頂道具を寄進する。
5/8義元が三河守に任じられ5/12に駿府から三河へ移住のため出発。
5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
6/23義元死後も甲駿同盟の継続合意の話合いがなされている。
永禄4年
1/20義輝が信玄に氏真方と元康方の合戦?で
関東への通路不通を嘆き和睦斡旋するよう御教書を出す。
3月謙信が小田原包囲。上杉軍の川越攻撃に武田・今川軍が北条支援に出撃。
6月氏真が元康の逆心と判断。
永禄5年正月元康が信長と同盟し西三河を平定しようと狙うも
三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。
永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。
0425人間七七四年
2011/12/19(月) 19:06:37.05ID:sQKuajvU加茂郡寺部城の鈴木氏は家康の祖父の松平清康の宿敵
義元は家康の初陣に今川軍の援軍を付け岡崎へ送り
祖父以来の敵を討たせ寺部城攻略を成功させる演出をしている。
茂郡名倉船戸橋城は奥三河に位置しており、
そこまで織田の勢力圏が伸びていたのがわかる。
0426人間七七四年
2011/12/20(火) 13:12:26.47ID:Mvj9vSc3>>寺部城攻略
実は織田方にすぐ奪回されてるっぽい。
城に砦を築いて寺部城を攻撃してる匂坂長能が今川の将だし。
それで来年(永禄2年)の義元出馬が書かれてるけど、結局出馬してない。
0427人間七七四年
2011/12/20(火) 15:05:40.16ID:S9/y8Vbi周りの討たれた重臣をソースつきで列挙してください。
私が調べたところ
誰も討たれてませんのでソースください。
0428人間七七四年
2011/12/21(水) 07:09:07.49ID:iR5+AcPb大体>>395の義元病死の根拠出す方が先だろ糞だがw
三河物語や信長公記他もろもろ信長の行動が書いてあるのにそれを覆すんだから
さぞや何か強い根拠となる史料があるんだろうな?
0429人間七七四年
2011/12/21(水) 09:09:49.33ID:Xvv8/hGw桶狭間の戦いの発生時期を
天文21年とするなど信憑性がかなり低いデタラメ。
三河物語の作者大久保が生まれたのは
桶狭間の戦い発生年とされる永禄3年で知らずに書いてるから
桶狭間における信長と義元について超簡潔に書いてる。
信長公記のでっち上げを信じた
大久保が便乗して家康のウソ武勇伝を創作しただけだろ。
>>424
永禄5年に行った検断が原因で、
6年正月から反松平の三河一向一揆が蜂起したとは言え、
吉良氏などが背後にいたようで、
東三河は駿河化したと書いてるくらいで、
家康は岡崎の維持すら苦戦している。
義元の死に乗じた家康が自立した時こそ
歯肉なことに、かえって三河の今川化促進されたと言える。
やはり桶狭間の戦いは数々と感状からみても
今川が勝利したことで、三河がより今川化したことと合致する。
0430人間七七四年
2011/12/21(水) 09:18:12.49ID:c7nPyfOOそのりくつならさ、今現在に生きるお前の説明なんか米粒ほどの価値も無いってことだぜ?
0432人間七七四年
2011/12/21(水) 11:27:32.61ID:Xqx2zDLk恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。
0433人間七七四年
2011/12/21(水) 11:37:27.27ID:Xqx2zDLk遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
0435人間七七四年
2011/12/21(水) 17:37:36.20ID:Xqx2zDLk氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
0436人間七七四年
2011/12/21(水) 19:50:53.86ID:6gkfDBFEhttp://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/22.html
0438人間七七四年
2011/12/22(木) 18:08:17.80ID:lizNsTfs信長公記にあるだろw
大体領主なのに行方不明でどっか行きましたとかねーわw
戦意高揚のために感状を多く出すのも別に不思議ではない
ただえさえ義元らが奇襲を受けて戦死するまで今川優勢だったんだから尚更だ
そもそも信長が死ぬ寸前までいってるのに義元の病死で軍を返すなど判断ミスもいいと
有利な条件で和睦して尾張一部をかすめとるくらいはできる
0440人間七七四年
2011/12/22(木) 19:09:52.71ID:Og3JLnW3これらと信長公記の合致
否定する根拠がぜひとも知りたい
0441人間七七四年
2011/12/22(木) 22:09:16.26ID:lizNsTfs0442人間七七四年
2011/12/23(金) 11:49:27.59ID:OGtsd4Nu>>440
こーよーぐんかん→信長公記からのパクリ。
家忠日記増補追加→鴨川達夫氏も後世の創作と断じてる。
静岡県史中世二の2769、2778、2788→書状の写しであり
原本が存在しない偽書状。
しかも2788に至っては急死した義元の援軍に氏真が出馬する姿勢を
示していてありえない。
家の相続を含めた体制再構築をしなければならない時期に、そんな軽挙をするわけがない。
宗三左文字の銘には信長が尾張守と刻んでいて、信長が尾張守になるのは先の話で
しかも尾張守の名乗っていた時期はとても短く年代がまったく合わないので明らかに後世の刻。
0443人間七七四年
2011/12/23(金) 12:28:23.25ID:JQEKVYJSほぅ、なるほど
学者の権威を重視してらっしゃるようで
ならば日記増補追加以外もそれら史料を否定してる奴ら列挙してくれたまえ
お前みたいなゴミクズの指摘なんかよりよっぽど価値が有るだろ?
え?ない?
そう、ならおまえの独自研究に基づく研究成果を発表してたの?w
違うなら桶狭間が無かったなんていってる奇天烈な学者も挙げろよw
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309145931/400
>400 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2011/12/23(金) 11:02:07.62 ID:OGtsd4Nu
>>392
>信長之御手は旗本近く迄切被レ立、各々爰はの衆が打れけれ共、
>家康が勝って切り込んできたから織田軍は助かったと三河物語に書いてんだろ文盲かよw
それとこのスレでは三河物語を史料として認めてるけど、コレとの整合性も説明してくれたまえよ
大久保は姉川の時は十歳だろw
0444人間七七四年
2011/12/23(金) 13:56:10.98ID:OGtsd4Nu実際に徳川軍が姉川の戦いに参加してるのは
各種の一次史料から間違いないだろ。
それを親族から直接に伝聞できいた大久保が記したなら
正しいだろう。
しかし桶狭間の戦いには徳川軍が参加した証拠は一次史料には無い。
0447人間七七四年
2011/12/28(水) 04:05:28.99ID:NvJlWGgM0448人間七七四年
2011/12/28(水) 12:23:30.89ID:IwRZIN4v0449人間七七四年
2011/12/28(水) 12:54:01.07ID:qh1/uV/fあの人らは公に名前を出されて叩かれて名誉に傷つくから相応にしっかりしたことを書こうという意志が働くが、ここだと何書こうが被害は無い
だから桶狭間はなかったなんていってるのは小説を生業にしてるやつらぐらいだろ
0450人間七七四年
2011/12/28(水) 13:26:16.36ID:2yoCETeW二次史料以下の軍記からの抜粋ですよ。
0451人間七七四年
2011/12/28(水) 14:05:21.02ID:qh1/uV/f0452人間七七四年
2011/12/29(木) 08:14:19.17ID:IETIJTnP0453人間七七四年
2011/12/30(金) 10:58:49.77ID:ke+CWghb1の動員力の話が覆るから揉み消すのに必死なんだろ。
0454人間七七四年
2012/11/30(金) 22:09:14.24ID:jiF5fRIl大友宗麟が禿げ胴だってさ
0455人間七七四年
2013/02/19(火) 07:16:14.71ID:sd8sYVWN信長記と区別つかんアホが一次史料だソースだ抜かすな
0456人間七七四年
2013/06/25(火) 15:13:43.76ID:jWf4+/oE3万しか動員できなかった信長
兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代
賎ヶ岳の戦いでの一次史料では
柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆
秀吉は武田軍の兵制を学んだのか動員限界の壁をぶち破りはじめている。
そして小牧長久手の戦いでは信玄が自由に指揮していた根拠とされる陣立書を秀吉も作るようになる。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
0457人間七七四年
2013/06/25(火) 15:20:12.28ID:jWf4+/oE秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
0458人間七七四年
2013/06/25(火) 15:21:52.87ID:jWf4+/oE関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長
信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊では話にならないわ。
それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
0459人間七七四年
2013/06/25(火) 15:25:24.14ID:jWf4+/oE北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中への遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
0460人間七七四年
2013/06/25(火) 16:12:13.19ID:PjTj6ghX>>賎ヶ岳の戦いでの一次史料では柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆
天正11年5/15秀吉→小早川書状の曲解乙
「先手の備をは二万計濃衆岐阜口へ相向、」「滝川をも二万計にて取巻候事」と滝川包囲の伊勢方面軍と
秀吉方の美濃口に向かった先手勢だけの兵力で、当然先手と滝川包囲軍が全てなわけがないのでこれは単に秀吉方の軍のごく一部なだけ。
西は宇喜多・南条領の備中・備前・美作・伯耆、東は美濃、尾張、北は若狭・近江まで広範な版図持つ秀吉が4万+馬周りとかそんな少ないわけねーだろクズ
>>459
>>一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
0461人間七七四年
2013/06/25(火) 16:36:17.30ID:uAmDcEeIおいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
>>毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
信孝相手にどんだけ俺が苦難と苦労してたと思ってんだ〜みたいな文章で敵兵力を吹いて誇張して、
自分の正統性をアピールしてるにすぎんでしょ。
そもそも褒美すら満足に出せず、国人に欠所地を自分で探してきたら、
そこを加増してなるとか言ってる毛利にそんな経済的余裕ないし、
そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
0462人間七七四年
2013/06/25(火) 16:47:08.97ID:PjTj6ghX検討の余地ありは=偽書状ってことではない。本物でない可能性ありってだけだろ
>> あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
本当にそれだけいるかどうかはともかく一次資料でいいなら上記のようにちゃんと大軍動員してる例はあるわけで。
>>そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
有利な状況や大軍があっても味方を見捨てたりチャンスをむざむざ無駄にするのが毛利。
中国口の播磨但馬の攻防のときとか関が原の時とか本能寺の時とか見てれば毛利が天が与えた幸運や超有利な状況でも何もせず負ける馬鹿なのは
史実みてればわかる
0463人間七七四年
2013/06/26(水) 12:30:25.64ID:X35ir+6V0464人間七七四年
2013/06/26(水) 22:05:34.79ID:n85QlNob(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか書いてたり)
さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし、
しかも信長が岡崎に着いた日も間違えてる書状の写なんて…
検討の余地ありって言い回しを使うのは、
それを持つ人の手前、はっきり断ずることを避けて配慮してるからだし。
アンチ秀吉キチガイのお前の主張はいつも無理やり過ぎるわ。
0465人間七七四年
2013/06/26(水) 22:33:17.37ID:ARF23aiS偽書状と判明とか書いてるならともかく検討の余地ありだけでは偽ってことにはできずむしろ
今のところ本物だが偽かもしれないってだけだろ
0466人間七七四年
2013/06/26(水) 22:53:58.01ID:Mg7okv9Q0468人間七七四年
2013/06/27(木) 13:03:06.11ID:pmVJsRAu0470人間七七四年
2013/06/27(木) 13:31:50.12ID:AqD0ez8G織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
0471人間七七四年
2013/06/27(木) 14:40:08.80ID:pmVJsRAu太平洋戦争のころにそんだけスーパー兵站力があればよかったね。
0472人間七七四年
2013/06/27(木) 16:44:36.92ID:JxowQN5k0473人間七七四年
2013/06/28(金) 05:42:48.96ID:mB4EZVAt0474人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:Ctti6iUD天正3年5/15奥平貞能→奥平信昌宛書状写どころか
実は奥平氏系の書状には怪しいものが多い。
というかそもそも長篠の戦いにおける書状も結構に怪しいもんが多い。
5/19付け家康→石川伯耆・鳥井彦兵右衛門宛書状家康の花押が
天正7年以降のものなので、長篠合戦譚から作成された疑惑が出されたりと
愛知県史での収録の時に大問題となったが、偽との決定的証拠もなくグレー判定だった。
しかし播磨良紀氏は偽書状とする決め手がなく、県史での議論で押し切れなかったことに悔しさを滲ませている。
また天正3年7/20信長→岡三郎宛書状写(馬場討ち取り)なども偽書状とされてる。
長篠の戦いについては大きく見方を変える必要がある虚構性の高いものだといえる。
まあ有名な戦に関する書状は価値が高いし、先祖がそれに参加してるとなると家の名誉だから
捏造書状は作られやすい。
0475人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:5D3pb/kR写しって言っても軍記や家譜に書かれてるのは
非常に疑わしいから。
特に関が原軍記大成に出てくる秀家に関白職を譲る書状の写しとか
関が原決戦を前に秀秋の内応を誘う東軍の書状とか完璧な偽書状写だし。
0476人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:5D3pb/kR>>秀家に関白職を譲る書状
秀秋に関白職を譲る書状
に修正。
なぜか秀秋擁護に全力なのが笑えるw
0477人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:bdf5HbAFそれを公家が日記に記入してる証拠として
叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてるし、
兵力に関しては過大に吹聴してるのを聞いて書いたものより、
むしろ公記の方が正確。公記の兵力数は朝倉方などの記述と近い場合なども多い。
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
(天王寺の戦い・・・公記には数千挺の鉄砲に狙撃される中を信長が突撃して大勝利したとデタラメを吐く)
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
(同時期の柴田書状には能登・加賀・越中を織田が平均したとデタラメを吐いてる)
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw 実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
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