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結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか

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0001人間七七四年2011/12/01(木) 21:53:42.55ID:WiR9vYft
局地戦ではいくら負けても最終的には相手の領地を占領さえすればいい
だから信長は天下をとれたのだと思う

いくら信玄みたいに局地戦で連戦連勝しても相手の領地を占領せねば意味がない
0351人間七七四年2011/12/07(水) 17:42:21.04ID:OgjO3wTj
武田の崩壊の一番の原因は領国経営が維持できなくなったことなんだよw
0352人間七七四年2011/12/07(水) 17:42:41.03ID:OgjO3wTj
これは信玄のせい
0353人間七七四年2011/12/07(水) 18:35:27.85ID:c6Ei14Et
なんてレベルが低いスレなんだろう。
0354人間七七四年2011/12/07(水) 18:48:37.29ID:af/2dbYF
信玄って寡兵ってほどか?
大軍率いて、村上に負けるイメージが
0355人間七七四年2011/12/07(水) 20:01:41.05ID:OgjO3wTj
金山に頼ってた面もあるから実際は最大で2万位
0356人間七七四年2011/12/07(水) 23:11:19.01ID:c6Ei14Et
意味不明w
0357人間七七四年2011/12/07(水) 23:15:47.05ID:c6Ei14Et
>>349
信玄の時は同盟関係で上洛戦に北条勢も参加してるんだが。
武田・北条同盟軍に対し、織田・徳川同盟軍は、完全に詰んでいる状態。
こんな事も指摘できないから織田厨アホスレ軍団なんだよなw
0358人間七七四年2011/12/08(木) 00:56:08.07ID:WeIB004L
つんでたのは信玄でしたw
0359人間七七四年2011/12/08(木) 01:00:18.79ID:DkiBXgmU
はい!論破w
0360人間七七四年2011/12/08(木) 02:32:25.60ID:WeIB004L
だなw
03612011/12/08(木) 04:30:13.16ID:Pc0imtWS
大内、尼子も兵力動員出来たのになんで滅亡したんだよ?
あ?
0362人間七七四年2011/12/08(木) 04:34:38.93ID:WeIB004L
国が維持できなくなったから
0363人間七七四年2011/12/08(木) 05:33:20.16ID:ONhY/pfk
>>361
大内だの尼子だの持ち出すと確かになw
その理屈なら、織田もズタズタだし、豊臣もズタズタだし、徳川だって最後はなw
諸行無常の理の前には、大軍も春の夢のごとしだわw
0364人間七七四年2011/12/08(木) 07:02:41.04ID:eX6zFzZ1
大軍は空洞化するということだろう。
きがつけばいつのまにか直属軍はほとんどいなくなり、近従の兵のみになる。
0365人間七七四年2011/12/08(木) 09:47:04.07ID:hKMZgvPK
普通に考えて農民なんかまともに戦わんよな
手負いのハイエナするだけ
0366人間七七四年2011/12/08(木) 11:01:55.41ID:gVjzZ/Jp
>>357
別に信玄を比較に出して無いのになに顔真っ赤にして1572年の状況を持ってくる訳?
大軍大兵力の有利を語るスレだろ?その上で一例を上げただけ。
御前ちょっと頭おかしいんじゃないの?
0367人間七七四年2011/12/08(木) 17:54:59.41ID:8rP/6yQc
大軍だろうと家臣に殺されたり
まるごしの農民に虐殺されたり
逃げる途中ですべってころんで川で大量憤死したり
大軍動員しても天下を取れなかった織田(笑)
0368人間七七四年2011/12/08(木) 23:42:00.66ID:WkeZWqPC
山賊討伐しかできなかった信玄厨がなんか言ってらw
0369人間七七四年2011/12/09(金) 01:19:07.85ID:ZSLVSrlq
憤死の意味くらい調べた方が…
0370人間七七四年2011/12/09(金) 08:51:05.43ID:eahcTukt
憤死すんなよ信長厨
0371人間七七四年2011/12/09(金) 21:14:45.00ID:Pv3/MI03
憤死したのは息子の方だろ
0372人間七七四年2011/12/10(土) 09:35:36.85ID:njx4YYju
なんか寂れてきたな
0373人間七七四年2011/12/10(土) 09:41:52.29ID:DW9xVqCF
>>1がただの信長厨なのがバレたからね
0374人間七七四年2011/12/10(土) 19:05:09.05ID:njx4YYju
だなw
0375人間七七四年2011/12/10(土) 20:56:44.82ID:zBsZ/p7M
だがの母 だがそろそろご飯よ だが うるせーババー
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323320551/
0376人間七七四年2011/12/10(土) 21:01:43.74ID:njx4YYju
糞スレ同盟か?
0377人間七七四年2011/12/12(月) 00:28:51.65ID:L0BSFqkA
本願寺最強説かwwwwww
0378人間七七四年2011/12/12(月) 11:44:00.92ID:eCuCrXXC
>>329
織田厨ってガチでバカだよねw
>>330
はぁつくづく都合がいいキチガイ脳してるなワロタw
ちなみに信玄死んだ1573年の信長は40歳だ。
>>332
信長が八方塞がりだったのは信長公記にも書かれてるのに
どこが戦略がうまかったんだよw
たった1万しか織田は兵力が集められないまで離反されまくり
信玄死んで武田の大軍が撤退したから助かっただけだろ。
0379人間七七四年2011/12/12(月) 16:20:58.47ID:j9HT87oM
>>378
そう思っている時点で武田の負けだろ。
0380人間七七四年2011/12/12(月) 19:08:25.17ID:XLNc+V27
>>377
本願寺は当主がアホすぎた。
0381人間七七四年2011/12/12(月) 19:08:51.01ID:97ZtD9hj
>>378
ああごめんね、これ時期で比べたわけじゃないの
尾張統一もできていない頃の信長と比べて、って言いたかったんだ。

ああそうそう、たった1万の根拠はどこ?
0382人間七七四年2011/12/12(月) 22:12:43.06ID:R6WIUB6T
兵力の数も戦略の内。数で脅すのは優良な戦略パーツの一つ。

戦略的にも有利戦術的にも有利なのは疑いようがない。

無論少数が多数を破る戦いは古今東西数多くあるが多数が少数を破る戦いはそれを遥かに凌ぐ数ある。
0383人間七七四年2011/12/13(火) 06:20:24.12ID:XalCMGDV
勝てるまで待つ=勝てるまで動かない=勝てるまで引きこもる

今の時代、武田信玄が流行るわけだ。
0384人間七七四年2011/12/13(火) 18:15:34.59ID:HL2fza3x
>>381
尾張統一されたもんを引き継ぎながら
道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて
謀反三昧にされただけだろw

まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
0385人間七七四年2011/12/13(火) 18:37:35.05ID:BIObmWM+
岩倉織田家と清洲織田家は
別に信長のいる弾正忠織田家の家来でもないんだけど、
むしろ信長の当主就任当時に尾張を領有していたのは斯波家なんだけど
あれもしかして知らなかった?
0386人間七七四年2011/12/14(水) 10:12:00.18ID:NCdN9Nqz
>>385
触ってやるな。
今頃顔を真っ赤にして調べていると思うぞ。
0387人間七七四年2011/12/15(木) 11:36:20.48ID:YdxEiRVO

斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
0388人間七七四年2011/12/15(木) 11:37:47.90ID:YdxEiRVO

焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと
依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」

大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
0389人間七七四年2011/12/15(木) 11:40:04.71ID:YdxEiRVO
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、だいたい600人を1年間雇えるくらい
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で
戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている「欠落」と
農地が荒廃していた「退転」状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
0390人間七七四年2011/12/15(木) 11:52:49.31ID:C9kR2DQw
2chじゃなくて他の事にこの労力を使えよwwwww
0391人間七七四年2011/12/15(木) 15:01:57.59ID:8nyMdTnt
武田家の崩壊は、武将間の男色が流行りすぎて重度の痔疾患者が急増。
馬に乗れない武将ばかりで、自慢の騎馬軍が弱体化したからなんだってさ
0392人間七七四年2011/12/15(木) 15:38:15.69ID:YHuQReBO
信長は天下をとっていない件

そして桶狭間においては今川軍に対して織田軍は圧倒的に少数だった件
0393人間七七四年2011/12/15(木) 16:33:48.78ID:wsTox81S
織田厨ボコボコやな
0394人間七七四年2011/12/15(木) 17:19:17.05ID:dRX6uR2j
>>391
信長は利家にケツをシャブられてたんじゃないのかw
0395人間七七四年2011/12/15(木) 17:37:07.28ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。
0396人間七七四年2011/12/15(木) 18:21:38.41ID:b+M7wRKf
義元だけが死んだのならあんなに今川は衰退しねーよ
周りの重臣も討たれたからそうなった
0397人間七七四年2011/12/15(木) 18:34:44.62ID:dRX6uR2j
当主が死んだら
多少の混乱はあるよ。
氏真に駿河と遠江を譲渡し、
三河は義元管轄で経営に乗り出し始めたばかりだったし。
その三河守に任官して間も無い義元が病死すれば、
家康じゃ無くても棚ぼたラッキーって考えるよな。
0398人間七七四年2011/12/15(木) 21:04:26.04ID:b+M7wRKf
多少の混乱ですまなかったから今川は滅びたんだろ
0399人間七七四年2011/12/15(木) 21:37:02.55ID:V2n1BQ8/
>>392
少数が多数を破る事もあるがそれは多数が少数を破る数に比べれば圧倒的に少ない。

常に信玄が相手の兵力を上回る数で相手に挑むのも戦略的優位に立った上で戦術を展開する為だ。
0400人間七七四年2011/12/15(木) 22:11:40.03ID:sDs4tS9f
>>390
良い事なんじゃないのか。
彼にとって日本史にそれだけの魅力があるってことなんだからw
0401人間七七四年2011/12/16(金) 09:19:53.16ID:B9JayfXy
>>395
妄想狂かよw
0402人間七七四年2011/12/16(金) 10:22:56.05ID:f/uv5BwD
三河守になって
やっと三河経営を本格的にやろうと思った三ヶ月後に突然死じゃ
普通に三河なんて今川から離脱するわな。
そもそも三河の街道沿いしか満足に押さえてねーんだもん。
あとは散発的に国人豪族の一部に安堵を出して味方にしてるくらいで
面の支配じゃなく点の支配が始まったばかり。
0403人間七七四年2011/12/16(金) 12:41:31.76ID:SLM5Lmyq
まあ、松平を潰さないで取り込む事にしたのも、その方が手っ取り早いと思った
からかもね。
0404人間七七四年2011/12/16(金) 14:09:35.55ID:I0Z9jJiQ
せっかく氏真に家督を譲渡し駿河と遠江を譲って
自由な身になった義元が三河へやってきて
これから三河に住んで今川の支配力を浸透させるぞー!って
張り切ってたのにね。
家康まで岡崎に戻してあげたのも義元が三河に住めば
充分に監視できるからだろうね。
そしたらポッくりいっちゃったんだろうね。

0405人間七七四年2011/12/18(日) 04:21:22.39ID:14g7S4+m
>>395
感状乱発はただ単に武将達を繋ぎ止めるため。
松平の離反を契機に有力武将の離反が相次いでいた。
0406人間七七四年2011/12/18(日) 08:04:52.03ID:9Xge0ZUF
>>405
つなぎとめるためなどと
主張してる研究者は全くいない。
デタラメ吐くな。
0407人間七七四年2011/12/18(日) 08:19:40.27ID:wgu0H4cm
>>406
現実問題として、義元死後は反乱が頻発して、織田方面を松平に任せきりにしてるうちに、
松平に見放されちゃったわけだがwww
今川が有利ならなんでこんな状況になってたの?
0408人間七七四年2011/12/18(日) 09:07:46.01ID:9Xge0ZUF
もともと三河守になって三ヶ月しか経ってないうちに
急死したから三河が離反したんだろ。
氏真に家督と駿河と遠江を譲り、
義元がこれから今川化を浸透させ
統治しようと思って三河へ移ってきた矢先だし。
三河北半分はほとんど今川支配は及んでなかったし。
0409人間七七四年2011/12/18(日) 10:00:07.85ID:wgu0H4cm
その前からずっと岡崎城に代官を置いてただろうが。
なんで今川家が有利ならあっさり松平が離反してるの?
家康が駿河で人質になってる前から、三河は今川の影響下でしょうに。

あと、その駿河と遠江で反乱が連発して氏真が鎮圧に手一杯になって、
重臣をまとめるのに文書を出しまくってるのは?
義元が病死しただけならそれまでの体制を継承すればいいだけだよね?
氏真には対抗馬になる他の継承候補も居なかったんだし。

そもそも桶狭間以降、三河以西にさっぱり軍事行動してない理由は?
三河一向一揆につけ込むことさえしてないよね?
0410人間七七四年2011/12/18(日) 11:42:05.41ID:Yv9H6II8
代官は辞めて家康を岡崎に帰してあげただろうが。
三河で今川が満足に抑えていたのは東三河と街道沿いだけだぞ。
岡崎も街道沿いにあったし。
そもそも家康の松平が西三河全域を支配してはいないし
北三河だってごく一部にしか今川は影響を及ぼせてない。
面ではなく点の支配しかできてないから
義元は三河守になって三河へ移住してきた。
0411人間七七四年2011/12/18(日) 14:46:11.07ID:Av84lo0g
「返してあげた」www

まぁ、いいや。で、なんで今川は桶狭間で大勝利なのに、松平は織田に鞍替えしたわけ?
今川が有利ならそのまま織田と対決してればいいよね。
現実に桶狭間直後は単独で織田に対抗してたんだし。
0412人間七七四年2011/12/18(日) 15:37:34.28ID:bT3iUGAS
今川義元、桶狭間で大勝利と聞きましたが、ここはその戦勝会場でふか?
0413人間七七四年2011/12/18(日) 19:47:32.64ID:ve80EClc
>>395
桶狭間、今川大勝利だったの?
もう何でもありだなwww
0414人間七七四年2011/12/18(日) 19:51:58.27ID:ve80EClc
↑395をちょっと調べてみたら、だがっぽいなw
0415人間七七四年2011/12/18(日) 19:56:35.01ID:E0PY7V1d
だがスレのみなさんこんばんは
全板チームトーナメント投票の案内です
今日が決勝・狼の優勝がかかった試合なのでお時間よろしければ投票お願いします

こちらのページで投票コードを取得 PCは10分・携帯は待ち時間なし
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0416人間七七四年2011/12/18(日) 22:35:31.41ID:mgBdt8+B
>>1
なにをたわけたことをw 天下を取るには
天の時 地の利 人の和ですぞ?
0417人間七七四年2011/12/18(日) 22:53:49.60ID:H0sW5QYK
多く兵がいる=多く兵を食わせれる=強大な国力がある。

則ち勝利。
0418人間七七四年2011/12/19(月) 00:07:39.50ID:dKBhxLhK
織田の強さはそこだなさっさと逃げるから兵員の補充が早い
0419人間七七四年2011/12/19(月) 00:13:48.17ID:zCOx3e8A
スレ主登場か
0420人間七七四年2011/12/19(月) 13:41:52.29ID:sQKuajvU
義元が氏真に家督譲渡前後における
三河国への義元の発給文書が
わずか18通だもんな。
今川が三河をまったく支配なんてもんは成立してない。
今川はせいぜい渥美郡くらいしか支配できてない。
0421人間七七四年2011/12/19(月) 14:17:12.10ID:QurEpStC
ねーよアホw
0422人間七七四年2011/12/19(月) 15:14:45.54ID:m6mY74mc
信長マンセーのために
義元を巨大な虚像にしただけ。
実際は田原城を攻略した
太原雪斎が死んだ後ほとんど領地も増えてない。
0423人間七七四年2011/12/19(月) 15:39:05.86ID:e07fnA2Z
18通もあれば十分だろ
三河が義元の支配になって日が浅いだけ
0424人間七七四年2011/12/19(月) 17:51:43.80ID:sQKuajvU
弘治元年(天文23年)
3月竹千代元服し元康となる。
閏10/10雪斎死没
10/15信玄が負けそうになり第二次川中島の戦いの援軍にきていた今川により甲越講和を斡旋。

弘治2年
10/4氏真と共に母親の寿桂尼を見舞う。
11/19山科を招き和歌会を催す。

弘治3年
1/13歌会始めを氏真邸で開催。
1/15駿府で大火事100軒あまり消失。
山科ら駿府を観光してまわり3/2に帰京するにあたり太刀を贈る。
年末の甲州は日照り。

弘治4年(永禄元年)
2月に織田方の三河加茂郡寺部城(豊田市)の鈴木氏や(家康の初陣となった)
5月に加茂郡名倉船戸橋城(設楽町)で織田軍と戦う。

永禄2年
2/2信長が上洛して将軍に謁見
5月頃に氏真に今川家督と駿河・遠江の支配権を譲渡する。
甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され
川除普請が行われる。

永禄3年
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。
そのためか3/3義元は浅間神社に会舞楽装束を寄進・久能寺に灌頂道具を寄進する。
5/8義元が三河守に任じられ5/12に駿府から三河へ移住のため出発。
5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
6/23義元死後も甲駿同盟の継続合意の話合いがなされている。

永禄4年
1/20義輝が信玄に氏真方と元康方の合戦?で
関東への通路不通を嘆き和睦斡旋するよう御教書を出す。
3月謙信が小田原包囲。上杉軍の川越攻撃に武田・今川軍が北条支援に出撃。
6月氏真が元康の逆心と判断。

永禄5年正月元康が信長と同盟し西三河を平定しようと狙うも
三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。

永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。
0425人間七七四年2011/12/19(月) 19:06:37.05ID:sQKuajvU
岡崎城の北に位置する賀茂郡松平郷を発祥地とする松平氏にとって
加茂郡寺部城の鈴木氏は家康の祖父の松平清康の宿敵
義元は家康の初陣に今川軍の援軍を付け岡崎へ送り
祖父以来の敵を討たせ寺部城攻略を成功させる演出をしている。

茂郡名倉船戸橋城は奥三河に位置しており、
そこまで織田の勢力圏が伸びていたのがわかる。
0426人間七七四年2011/12/20(火) 13:12:26.47ID:Mvj9vSc3
>>425
>>寺部城攻略
実は織田方にすぐ奪回されてるっぽい。
城に砦を築いて寺部城を攻撃してる匂坂長能が今川の将だし。
それで来年(永禄2年)の義元出馬が書かれてるけど、結局出馬してない。
0427人間七七四年2011/12/20(火) 15:05:40.16ID:S9/y8Vbi
>>396
周りの討たれた重臣をソースつきで列挙してください。
私が調べたところ
誰も討たれてませんのでソースください。
0428人間七七四年2011/12/21(水) 07:09:07.49ID:iR5+AcPb
大して書かれてない信長公記ですら松井五八郎が死んでるだろw
大体>>395の義元病死の根拠出す方が先だろ糞だがw
三河物語や信長公記他もろもろ信長の行動が書いてあるのにそれを覆すんだから
さぞや何か強い根拠となる史料があるんだろうな?
0429人間七七四年2011/12/21(水) 09:09:49.33ID:Xvv8/hGw
信長公記の首巻は誰が書いたかわからんシロモノだし、
桶狭間の戦いの発生時期を
天文21年とするなど信憑性がかなり低いデタラメ。
三河物語の作者大久保が生まれたのは
桶狭間の戦い発生年とされる永禄3年で知らずに書いてるから
桶狭間における信長と義元について超簡潔に書いてる。
信長公記のでっち上げを信じた
大久保が便乗して家康のウソ武勇伝を創作しただけだろ。
>>424
永禄5年に行った検断が原因で、
6年正月から反松平の三河一向一揆が蜂起したとは言え、
吉良氏などが背後にいたようで、
東三河は駿河化したと書いてるくらいで、
家康は岡崎の維持すら苦戦している。
義元の死に乗じた家康が自立した時こそ
歯肉なことに、かえって三河の今川化促進されたと言える。
やはり桶狭間の戦いは数々と感状からみても
今川が勝利したことで、三河がより今川化したことと合致する。
0430人間七七四年2011/12/21(水) 09:18:12.49ID:c7nPyfOO
ソースも根拠もなく完全否定ですってよこの人
そのりくつならさ、今現在に生きるお前の説明なんか米粒ほどの価値も無いってことだぜ?
0431人間七七四年2011/12/21(水) 10:36:14.36ID:Xqx2zDLk
>>428
松井五八郎は5/22現在で行方不明になってるだけだろ?
死んだとするソースは?
0432人間七七四年2011/12/21(水) 11:27:32.61ID:Xqx2zDLk
今川は鵜殿・梁瀬・平野・菅沼・松井・後藤・尾上らに
恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。
0433人間七七四年2011/12/21(水) 11:37:27.27ID:Xqx2zDLk
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされていて
遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により
三河とも連絡が取れなくなったから。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。
0434人間七七四年2011/12/21(水) 17:17:47.50ID:iUqbEyMX
>>432,433
はいはいキチガイ乙w
0435人間七七四年2011/12/21(水) 17:37:36.20ID:Xqx2zDLk
義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
0436人間七七四年2011/12/21(水) 19:50:53.86ID:6gkfDBFE
投票否定事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/22.html
0437人間七七四年2011/12/21(水) 20:04:46.22ID:ewTFbEpo
>>436
妄想ウザイ。基地外はだがスレに帰れ。
0438人間七七四年2011/12/22(木) 18:08:17.80ID:lizNsTfs
>>431
信長公記にあるだろw
大体領主なのに行方不明でどっか行きましたとかねーわw
戦意高揚のために感状を多く出すのも別に不思議ではない
ただえさえ義元らが奇襲を受けて戦死するまで今川優勢だったんだから尚更だ

そもそも信長が死ぬ寸前までいってるのに義元の病死で軍を返すなど判断ミスもいいと
有利な条件で和睦して尾張一部をかすめとるくらいはできる
0439人間七七四年2011/12/22(木) 18:28:01.23ID:ISM08Lts
>>438
信長公記は一次史料じゃなく軍記なのも知らんのかw
しかも首巻は特に信憑性が無い。
0440人間七七四年2011/12/22(木) 19:09:52.71ID:Og3JLnW3
こーよーぐんかん、家忠日記増補追加、静岡県史中世二の2769、2778、2788、ついでに宗三左文字の銘
これらと信長公記の合致
否定する根拠がぜひとも知りたい
0441人間七七四年2011/12/22(木) 22:09:16.26ID:lizNsTfs
軍記にすらソースのない主張をするだが
0442人間七七四年2011/12/23(金) 11:49:27.59ID:OGtsd4Nu

>>440
こーよーぐんかん→信長公記からのパクリ。
家忠日記増補追加→鴨川達夫氏も後世の創作と断じてる。
静岡県史中世二の2769、2778、2788→書状の写しであり
原本が存在しない偽書状。
しかも2788に至っては急死した義元の援軍に氏真が出馬する姿勢を
示していてありえない。
家の相続を含めた体制再構築をしなければならない時期に、そんな軽挙をするわけがない。

宗三左文字の銘には信長が尾張守と刻んでいて、信長が尾張守になるのは先の話で
しかも尾張守の名乗っていた時期はとても短く年代がまったく合わないので明らかに後世の刻。
0443人間七七四年2011/12/23(金) 12:28:23.25ID:JQEKVYJS
>>442
ほぅ、なるほど
学者の権威を重視してらっしゃるようで
ならば日記増補追加以外もそれら史料を否定してる奴ら列挙してくれたまえ
お前みたいなゴミクズの指摘なんかよりよっぽど価値が有るだろ?
え?ない?
そう、ならおまえの独自研究に基づく研究成果を発表してたの?w
違うなら桶狭間が無かったなんていってる奇天烈な学者も挙げろよw

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309145931/400
>400 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2011/12/23(金) 11:02:07.62 ID:OGtsd4Nu
>>392
>信長之御手は旗本近く迄切被レ立、各々爰はの衆が打れけれ共、
>家康が勝って切り込んできたから織田軍は助かったと三河物語に書いてんだろ文盲かよw
それとこのスレでは三河物語を史料として認めてるけど、コレとの整合性も説明してくれたまえよ
大久保は姉川の時は十歳だろw
0444人間七七四年2011/12/23(金) 13:56:10.98ID:OGtsd4Nu
>>443
実際に徳川軍が姉川の戦いに参加してるのは
各種の一次史料から間違いないだろ。
それを親族から直接に伝聞できいた大久保が記したなら
正しいだろう。
しかし桶狭間の戦いには徳川軍が参加した証拠は一次史料には無い。
0445人間七七四年2011/12/23(金) 16:07:34.73ID:JQEKVYJS
>>444
ご託いいからそういってる学者上げろってw
津本とか逆説の日本史とかいうなよ?w
0446人間七七四年2011/12/23(金) 20:45:17.88ID:0+plca0e
>>442
実際、氏真の出陣した形跡が無いからデタラメだよなあ。
0447人間七七四年2011/12/28(水) 04:05:28.99ID:NvJlWGgM
それなら三成は家康に勝ってる
0448人間七七四年2011/12/28(水) 12:23:30.89ID:IwRZIN4v
学者さんが指摘しても根拠なきゃただの妄想だよな
0449人間七七四年2011/12/28(水) 12:54:01.07ID:qh1/uV/f
すくなくとも実名すらも出せない便所の落書きよりは信がおける
あの人らは公に名前を出されて叩かれて名誉に傷つくから相応にしっかりしたことを書こうという意志が働くが、ここだと何書こうが被害は無い
だから桶狭間はなかったなんていってるのは小説を生業にしてるやつらぐらいだろ
0450人間七七四年2011/12/28(水) 13:26:16.36ID:2yoCETeW
残念ながら学者も桶狭間の戦いの解説には
二次史料以下の軍記からの抜粋ですよ。
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