日本三大自爆野戦
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0001人間七七四年
2011/11/16(水) 11:48:12.72ID:6T/GPd3oそんな内憂外患で党利党略の内輪揉めで自国のことを無視した
バカな戦いを決めよう。
キリスト教排除を企む会合だった耳川の戦い
背後で友軍同士が争い撤退路の橋まで落す摺上原の戦い
鍋島が島津に内応して当主暗殺の暴挙だった沖田畷の戦い。
0002人間七七四年
2011/11/16(水) 11:54:58.33ID:suEwy6ql0003人間七七四年
2011/11/16(水) 12:41:48.51ID:6FSEziyO0004人間七七四年
2011/11/16(水) 14:17:11.52ID:BAOmLVTx葦名義広
竜造寺隆信
0005人間七七四年
2011/11/16(水) 14:29:33.14ID:2bneYdhV倍以上の兵力で必死に防備を固めてる相手にガチンコで突っ込んでいった
しかも地面がぬかるんでて川まである はっきりいって城攻めである
0007人間七七四年
2011/11/16(水) 14:49:32.27ID:DYHTbkiF0008人間七七四年
2011/11/16(水) 15:45:41.30ID:6FSEziyO0009人間七七四年
2011/11/16(水) 16:40:36.50ID:BAOmLVTx戦国の世の最後の自爆花火にふさわしい。
0010人間七七四年
2011/11/16(水) 19:50:16.43ID:Ferv28mU計画通りに戦力が揃わなかった
英軍には計画自体は評価されている
って事で最近は再評価されてきているね
0011人間七七四年
2011/11/16(水) 20:39:36.14ID:SqjAA0FZ0012人間七七四年
2011/11/16(水) 22:18:16.82ID:gXjnJYwi数万単位の軍団を道連れなんと2発もwww
0013人間七七四年
2011/11/17(木) 13:04:24.02ID:UDSDapki摺上原の戦いの芦名義広 14歳
関が原の戦いの毛利輝元 47歳
こいつら3大無能当主だと思うが
養子として入って間もない義広はまだ14歳だったから
家中をまとめられなかったと非難するのは可哀想だ。
0014人間七七四年
2011/11/17(木) 13:37:13.55ID:X/Gv+aL/前者なら応仁の乱、花倉の乱、天文の大乱あたりが適するだろうし、後者なら志賀の陣あたりが一番近いか?勝っていたのを引き分けにもっていかれたわけだし
0015人間七七四年
2011/11/17(木) 16:29:01.25ID:UDSDapki信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
0016人間七七四年
2011/11/18(金) 08:05:24.48ID:a6ZBo++a0017人間七七四年
2011/11/18(金) 17:49:01.57ID:ivvhjxQM出先で討ち死し自家に致命傷を与えたアホ
織田信長
今川義元
龍造寺隆信
野戦で見事な自爆点を叩き出し逃亡
葦名義広
田原親賢
仙石秀久
0018人間七七四年
2011/11/18(金) 18:43:15.77ID:sIaV0rFT0019人間七七四年
2011/11/18(金) 19:16:49.71ID:6JrpQGqmインド=朝鮮
イギリス=明
日本=第15軍
牟田口中将=秀吉
佐藤中将=家康
田中師団長=小西
小畑参謀長=清正
近藤参謀=三成
山崎隊長=義弘
まさに歴史は繰り返すであり実に感慨深い作戦だと思う
0020人間七七四年
2011/11/18(金) 20:03:10.68ID:Yw5dGdZ4せっかくだから明朝鮮側も入れてみろよ。
0021人間七七四年
2011/11/19(土) 21:56:31.55ID:scbvgryIそいつらアホ当主の配下にだけは
なりたくないな。
0022人間七七四年
2011/11/20(日) 20:10:27.68ID:WFKE9XANインドはこちらの味方のはずだが、、、
1万人ばかし日本側で参戦してるぞ。
0023人間七七四年
2011/11/21(月) 14:36:19.02ID:8mBz5g8W輝元の無能ぶりが際立っててワロタ
0024人間七七四年
2011/11/23(水) 13:45:01.15ID:9vNRn5sQ無能六傑ワロタ
0025人間七七四年
2011/11/23(水) 13:51:19.95ID:RrwRCbfj関ケ原に行ってないから、毛利輝元=大友義鎮じゃないの?
すると
耳川の戦いの大友義統 20歳
摺上原の戦いの芦名義広 14歳
関が原の戦いの毛利秀元 21歳
ほら違和感が無い。
0026人間七七四年
2011/11/23(水) 14:28:25.06ID:9vNRn5sQ臼杵で隠居生活。
輝元は広島から大坂に来て西軍総大将として指揮。
まったく違うし。
毛利みたいに命惜しさに
大坂城を明渡して友軍を見捨てて
家康に土下座するような真似はしてないぞ。
耳川後の離反に対して
家臣達の懇望を受けて義鎮は義統後見役として復帰してるし。
0027人間七七四年
2011/11/23(水) 17:09:23.49ID:RrwRCbfj家臣の内輪揉めを誘発し滅亡しかけたところと、
時の権力者に取り入ってなんとか御家を存続させたところは似てると思う。
0028人間七七四年
2011/11/23(水) 17:43:46.27ID:whMoY8Mfそんな事実は無いな。
もともと昔から義鎮の外交センスは卓越で
義輝→信長→秀吉と
中央との外交方針が神がかってるだけだろ。
義輝を利用して毛利を九州から撤退させたし
信長と結んで毛利を挟撃してたし
秀吉と結んで毛利を長野・高橋の秋月兄弟退治に
夷には夷を持って制するの喩えの如く
毛利を駄犬のように利用させてもらったし。
まぁ長野風情に苦戦してた駄犬毛利はまったく使えなかったけど。
0029人間七七四年
2011/11/23(水) 21:27:00.82ID:mx/wUvW0敵さんが何しているのかの視点がまったく欠如したあげく
ジューコフにいいように始末されたのを自爆といわずなんといおうか?
0030人間七七四年
2011/11/23(水) 22:14:23.49ID:6OXhfx1f0031人間七七四年
2011/12/11(日) 22:05:05.95ID:R+PwrGGAそいつらは上司にしたらいけない人達だな
0032人間七七四年
2012/05/18(金) 08:03:58.89ID:rm/Iv2Ly北条氏康
徳川家康
0033人間七七四年
2012/07/08(日) 21:23:17.26ID:sLV6E7Xp0034人間七七四年
2013/06/21(金) 10:54:57.80ID:UbI1pXNB0035人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:WVNwzxQ4その中では49歳にもなって家を崩壊に導き、
家臣に家を乗っ取られた信長が一番ひどい無能だな。
0036人間七七四年
2013/08/07(水) NY:AN:NY.ANID:wpN7M4vA0037人間七七四年
2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:IMvZ5rX0顔を洗ってたら家臣に殺された織田信長
出先で不慮の突然死と言う不幸に見舞われた今川義元
鍋島に裏切られ島津の仕事人を案内された龍造寺隆信
0038人間七七四年
2014/03/15(土) 02:27:35.45ID:u7kM3jOb0040人間七七四年
2014/03/15(土) 06:41:49.19ID:Y9C+mTto家臣団が大陸して自爆したのは秀吉以外に居ねえだろ(笑)
0041人間七七四年
2014/03/15(土) 23:52:52.45ID:Xa0WYlRr0042人間七七四年
2014/03/20(木) 14:15:17.32ID:E/mbp5hg0043人間七七四年
2014/03/21(金) 23:49:09.44ID:pt42QLOw信長の忠告無視して最強武田軍団に突っ込んで行った挙句
散々蹴散らされ命からがら逃げ帰る
途中脱糞するわ峠の茶屋のおばちゃんに無銭飲食で追っかけられるわで
散々だったな
0044人間七七四年
2014/04/12(土) 12:39:57.53ID:j4HAy1BM武田軍の後背を取れれば、勝機が無いことはない
↓
追い付いてみたら、武田軍は万全の態勢で待ち構えていました
イチかバチかの大博打で、ハズレをひいた(家康が軽率)
0045人間七七四年
2014/04/26(土) 14:25:11.09ID:w39k38v1信長は信盛に後年あてた譴責状で信盛三方が原合戦での戦いぶりを叱責して
武田と果敢に戦うことを強く望んでたのがわかるんだが
0046人間七七四年
2014/09/22(月) 01:42:39.47ID:i0QUVJgn0047人間七七四年
2014/09/22(月) 07:23:35.77ID:7X4uVzcW初日は葦名方が圧倒して、伊達方は「明日は討ち死にだ」と悲観に暮れていたが
夜になって佐竹からの援軍の大将である小野崎義昌が下僕と喧嘩して刺し殺されるという珍事が発生
大将無しでは戦えないと国許に帰還してしまった
実質総大将の金上盛備と葦名四天王寺らが協議した結果
「最大の援軍である佐竹が帰ってしまった以上は無理して戦いを継続する必要はないのではないか?まあ、そのうちまた伊達を討つ機会はあるだろう」
という結論に達して早々に撤退してしまった
政宗は朝起きたら人っ子一人いなくてビックリ
何かの策ではないかと、偵察を出して地元の百姓にも聞いてみたところ昨晩のうちに撤退したと判明
不審に思いながら政宗も撤退した
自爆という点ではこれほど見事な自爆も少ないと思う
0048人間七七四年
2015/09/26(土) 23:42:55.44ID:TBGPg+O80050人間七七四年
2015/10/20(火) 14:25:54.09ID:d0qa9tcM0051人間七七四年
2016/01/09(土) 13:16:51.46ID:qKrclJbv信忠が生き残っていたら、
そもそも史実のようには秀吉が台頭することはなかった
「いずれ」と言えども、そのIFシミュレーションが想定し難いほどに
状況が別物になってしまう
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