天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
本能寺前後の記述を見てみよう。

『(前略)

一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  不慮のことであり是非もない次第であった。

  その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  大変困難な状況になった。

  ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。

  この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。

  私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。

一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。

一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  柳瀬に置いて合戦することになったのである。

(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)


しかし高松城を撫で斬りにしたとか、毛利とも決戦しようとしたとか、人質も秀吉と毛利で交換しているのに、
えらい盛りようであるw

秀吉がこの時期のことをどんなふうに世間に喧伝していたか、よく見えてくる書状である。