戦国ちょっと悪い話29
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0001人間七七四年
2011/11/13(日) 16:53:56.56ID:FpQ1Xalb戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話28
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戦国ちょっといい話29
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2011/11/13(日) 17:54:02.65ID:bgt21hD70003人間七七四年
2011/11/13(日) 20:11:03.54ID:HjUSMkFc| |
|宇| ∧∧
|喜|(´・ω・`) ドウゾ
|多|o ヾ
| ̄|―u' 旦 <コトッ
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0005人間七七四年
2011/11/13(日) 22:37:10.46ID:1S2s1492世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。
紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の
星のように数多く輝いていた。
陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。
しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の
白川雅業(雅業王)が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた
者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。
あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。
また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。
さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?
(二水記)
この時期の京の情勢の不安定さを、よく表している事件であろう。
0006人間七七四年
2011/11/14(月) 06:45:01.38ID:ifI3vtCO0007人間七七四年
2011/11/14(月) 12:53:47.49ID:D2v+OE5H| |
|松| ∧∧
| |(´・ω・`) ドウゾ
|永|o ヾ
| ̄|―u' 旦 <コトッ
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0008人間七七四年
2011/11/15(火) 01:26:37.02ID:IgOggTMq阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
酒色に耽る生活を送っていた。
己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
無視する形で兵を遣わして攻めさせている。
そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。
「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!
……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。
この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。
いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。
備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。
0009人間七七四年
2011/11/15(火) 01:36:10.47ID:80diu9tM0010人間七七四年
2011/11/15(火) 01:47:01.63ID:YAGnxBSk本能寺前後の記述を見てみよう。
『(前略)
一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
不慮のことであり是非もない次第であった。
その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
大変困難な状況になった。
ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。
この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。
私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。
一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。
一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
柳瀬に置いて合戦することになったのである。
(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)
しかし高松城を撫で斬りにしたとか、毛利とも決戦しようとしたとか、人質も秀吉と毛利で交換しているのに、
えらい盛りようであるw
秀吉がこの時期のことをどんなふうに世間に喧伝していたか、よく見えてくる書状である。
0012人間七七四年
2011/11/15(火) 15:38:47.57ID:TjjvVLZO0013人間七七四年
2011/11/15(火) 19:35:23.38ID:nmpU8P7w実際徳島は真言宗ばっかりで、社会科で全国的には他宗派の方が多いと習ってもにわかには信じられないくらいだった
グラフを見ても他県と比べて突出して真言宗が多かった、それでも今の方が昔と比べて他宗派の寺は増えてる
よくまあ実行しようと思ったもんだ…
0015人間七七四年
2011/11/15(火) 22:52:10.14ID:aO/knAFV弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。
長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。
またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。
この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。
ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。
0016人間七七四年
2011/11/16(水) 10:41:20.66ID:DC1T6ZX30017人間七七四年
2011/11/16(水) 11:38:20.43ID:HMZFRMBC「御本尊の薬師如来像がその手の薬壺を武器に持ち変え
襲い来る長宗我部兵をばったばったとなぎ倒して寺を守った」
というアグレッシブな伝説があるが
これは薬師如来像と正面から切り結んだ長宗我部兵も相当なもんだと思うw
0018人間七七四年
2011/11/16(水) 12:10:46.18ID:twmN4GE2仏像相手にとか、トラウマっていうレベルじゃねーw
0019人間七七四年
2011/11/16(水) 13:28:53.14ID:DC1T6ZX3えーと、如来様?(汗
0020人間七七四年
2011/11/16(水) 13:30:09.50ID:71ZJvHg30022人間七七四年
2011/11/16(水) 15:57:48.57ID:8uqCE0yS谷忠澄「仏法のことは、僧に聞きなされ。兵法のことは、武士に聞いてくだされ。
・・・あれ?」
0023人間七七四年
2011/11/16(水) 19:23:41.72ID:TFj8pGSp0024人間七七四年
2011/11/16(水) 22:12:19.49ID:LZYttsna0025人間七七四年
2011/11/17(木) 07:03:27.98ID:Mj1Q4BEcジロー=親泰
サブロー=親貞
0026人間七七四年
2011/11/17(木) 13:03:06.86ID:+HAiG0aj見てみましょう。
『
・5月3日
数日前上野玄蕃頭殿が盗人を誅したそうだ。
この者は延念寺の前で傘張りを営んでいたのだが、実は夜盗の頭目だったそうだ。
玄蕃殿は昼間、この家の傘張りを見張っていた。
彼らを捕えるため兵士たちが派遣されたが、この傘張りはこれを見て逃げ出そうとした。
そこで玄蕃殿は素早くこれを斬り、その妻を捕え盗賊の仲間について尋問した。
盗賊の仲間は70人にも及んだという。
・6月12日
上乗院に夜盗が入ったそうだ。その日寺では外で公事の事があり、盗賊の入った時間には
未だそれが終わっておらず、そのため寺に帰って居なかったと言う。
ところで今日の申の刻(午後4時頃)、”天下の夜盗の長”と呼ばれた小河四郎左衛門が、
細川政元の家臣、物部神六(上原元秀)の邸宅で討ち取られたそうだ。
討ち取ったのは神六の被官であったという。
この小河四郎左衛門は応仁の大乱中、浦上美作守(則宗)の被官であった。
これを聞いて洛中は、これに過ぎることが無いほどの歓喜に湧いた。
・6月13日
聞いた話によると先月のはじめごろ、匿名の何者かが京兆(細川政元)の寝所に巻物を投げ込んだそうだ。
そこには、洛中に盗賊が出没していること、その悪事について詳しく記され、「これらを成敗しなければ、
ご当家も滅亡してしまうでしょう」と書かれていたそうだ。
細川政元はこれを家臣の杉原に8枚写させ、波賀部兵庫助(波々伯部盛郷)を召してこれを読ませた。
このために最近は政道謹厳になっているということである。
』
応仁の乱後の、京の状況についての記録である。
0027人間七七四年
2011/11/17(木) 18:32:57.02ID:VPl5Mdad0028人間七七四年
2011/11/17(木) 20:28:57.21ID:M9vXwRgWhttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1321526044/
毎回貴重な庭師が三歳の餌食に・・・
0029人間七七四年
2011/11/17(木) 21:27:05.94ID:A6JTsaKX0030人間七七四年
2011/11/17(木) 21:29:32.47ID:5ycjc2W4知らなかったわ
0033人間七七四年
2011/11/18(金) 07:42:50.59ID:eg53l0ZW0034人間七七四年
2011/11/18(金) 08:08:03.73ID:Lx4/uABD今年の惨状をどうおもってるんだ…
0035人間七七四年
2011/11/18(金) 08:44:56.19ID:dvpUYp6C逸話の一形態なんです(キリッ みたいな
0036人間七七四年
2011/11/18(金) 10:30:14.60ID:938mBamv「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」
「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」
天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。
「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
「ははっ!!」
「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
「・・・ええ、まぁ。」
「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」
「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」
「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。(旦夕覚書)
子供のケンカに親が出たのか、息子のために小倉城の縄張りを探りに来たのか、いずれにしても親バk(ry
0037人間七七四年
2011/11/18(金) 10:31:37.00ID:938mBamv細川忠興の家臣に、忠興の御鷹場で雁を撃ち落した侍がいた。さっそく件の侍は、忠興の前に引き出された。
「わが御留場で、なぜ雁を撃った?そこに直れ!手討ちにしてくれる!!」
「はっ、申し訳ございません!かの雁め、殿の御鷹場にてさんざん遊んだあげく、筑前(黒田領)の方へ
飛び立ったので、憎さのあまりカッとなってやりました!!」
「よし、許す!!」(綿考輯録)
┐(´〜`;)┌
0038人間七七四年
2011/11/18(金) 10:58:48.00ID:e66QFBxy0040人間七七四年
2011/11/18(金) 13:17:38.65ID:FddbgaJP0041人間七七四年
2011/11/18(金) 14:40:22.02ID:Lx4/uABD0042人間七七四年
2011/11/18(金) 14:49:19.26ID:c3mBkQyKngmsと後藤マタベの不仲を聞いた三歳様、マタベをヘッドハント。黒田家と細川家、険悪に
↓
黒田家が豊前から筑前に転封した後に細川家が入る。前の領主は前年度の年貢の半分を
置いて行くのが礼儀だが、ngmsは全部持って行く。三歳様激怒。両家断交。
↓
マタベついに出奔。黒田家から追っ手が出るも、細川家の武装集団によって逆に追い返される。
ngms、対抗措置としてマタベを奉公構にする。両家の関係、修復不可に
という訳で片腕的重臣をもぎ取ったり、生活基盤である年貢のことで争ったりなんで
親が出たところで仲直りは無理と思われ
0043人間七七四年
2011/11/18(金) 15:06:24.72ID:2dHv3T4k0044人間七七四年
2011/11/18(金) 15:08:57.05ID:2dHv3T4k0046人間七七四年
2011/11/18(金) 15:40:26.21ID:wexNWlhS0048人間七七四年
2011/11/18(金) 15:52:50.18ID:/Vwi4BTR「こいつを雇ったらお前の所とは絶交だ!!」
「別にいいけどその前に貸してた金返してくんない?」
みたいな感じで
0049人間七七四年
2011/11/18(金) 16:04:40.36ID:yp4LAcLV佐々成政(滅亡)→小西行長(殺人で出奔)→加藤清正(殺人で出奔)→
黒田長政(船仕事させられて激怒し出奔)→三村親成(殺人で出奔)→徳川帰参と転職余裕でした(^^)v」
0050人間七七四年
2011/11/18(金) 16:09:46.45ID:CzXq2qXL長政は関ヶ原の後しばらくは功労第一だ52万石だと調子に乗っていたしな。
0051人間七七四年
2011/11/18(金) 17:10:03.91ID:BGAmS+RK江戸時代の安定期に奉公構えされた平賀源内は悲惨
0052人間七七四年
2011/11/18(金) 18:48:58.85ID:I2ZkPnWq年貢問題が先で、又兵衛出奔が後
0053人間七七四年
2011/11/18(金) 18:51:06.08ID:s6eWNzv9何かあったんだろうな
0054人間七七四年
2011/11/18(金) 21:32:12.28ID:FddbgaJPありがとう・・・w
それでもやっぱり「よし、許す!」で吹くw 似たようなケースはよその家でもあったろうにw
0055人間七七四年
2011/11/18(金) 21:51:17.26ID:f6ORejsq0056人間七七四年
2011/11/18(金) 22:02:15.39ID:leGbEwg70057人間七七四年
2011/11/18(金) 22:22:44.41ID:c7Fu4Ic40058人間七七四年
2011/11/18(金) 22:44:45.12ID:EnIZq+iN福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
この時、意外な展開が。
毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は
酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。
0059人間七七四年
2011/11/18(金) 22:49:50.49ID:cOjRbigU0060人間七七四年
2011/11/18(金) 23:58:25.84ID:DdZYuFvw0061人間七七四年
2011/11/18(金) 23:59:48.65ID:9hnxaPf+鬼武蔵など四天王に比べると、悪事にも小物臭が漂う。
0062人間七七四年
2011/11/19(土) 00:01:29.80ID:sCuERDNg0063人間七七四年
2011/11/19(土) 00:04:29.50ID:+UyLPqQh本来なら五人揃ってこその四天王だし
0064人間七七四年
2011/11/19(土) 00:07:39.93ID:uCg3twL1一切シカトで断行されたら飢え死にや一村逃散、身売りみたいな悲惨なことが毛利領内で頻発する
市松からしたら悪気はないんだよ。日本号の一件からも約束はちゃんと守る人だし
0065人間七七四年
2011/11/19(土) 00:25:05.18ID:nzJ5nt0c0066人間七七四年
2011/11/19(土) 00:26:35.09ID:8bYE7xQj0067人間七七四年
2011/11/19(土) 00:28:39.91ID:Cx+7LhCpしかしどんなときも酒なんだな市松
0068人間七七四年
2011/11/19(土) 00:38:50.88ID:yuf2kO7qパワハラって・・・
この時代の上司は皆、程度の差こそあれ、
郎党を手打ちにしたり、上意打ち差し向けたりする超ブラック上司ばかりだよ。
0069人間七七四年
2011/11/19(土) 00:40:53.87ID:CxCnbJpGだから、そういう派手な殺害とかじゃなくて中途半端にリアル?な嫌がらせだから、
かえって小物臭がして嫌だって話なんじゃないの?
0070人間七七四年
2011/11/19(土) 00:44:42.85ID:lCBeICW3ここで読んだような気がするけどよく覚えてない
0072人間七七四年
2011/11/19(土) 01:44:41.04ID:yuf2kO7qなるほど。
だが、酒飲みの心理として、市松には「嫌がらせしている」という意識は微塵もないと思う。
まあ、自分が酒飲みだと、他人も酒飲むと嬉しいものと勘違いするんだよな
0073人間七七四年
2011/11/19(土) 05:21:05.58ID:5HCWY5Mn俺も聞き覚えあったんで「市松 毛利 酒」でググッてみた
こっちは棒引き扱いになってるようなので少しは報われてるのかねぇ…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3501.html
0074人間七七四年
2011/11/19(土) 06:43:00.63ID:55/YDnGg約束守るし情に厚いし良い人なんだよ、酒さえ入らなければ
0075人間七七四年
2011/11/19(土) 08:30:07.86ID:CxCnbJpGああ、確かに市松的にはちょっと一発芸やってみろとかそんな感覚なのかもね
これだから酒の入った市松は
007658
2011/11/19(土) 08:36:06.91ID:d/wRHuG7失礼しました。
自分の出典はだいぶ昔のNHKの歴史番組です。
関ヶ原後の毛利家の経営再建の話の一環でした。
0077人間七七四年
2011/11/19(土) 13:51:30.07ID:Jdr0+o/Y0078人間七七四年
2011/11/19(土) 17:30:28.43ID:B9QLYUE8市松「おう 考えておいてやるよ」
0079人間七七四年
2011/11/19(土) 19:40:51.76ID:vqYTpSEf徳川に取りまとめる際に酒飲み過ぎて、その後ポッくり逝った人いたけど…
名前が思い出せないw
0081人間七七四年
2011/11/20(日) 01:14:45.73ID:+n/HE+5X城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。
それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
こう大声を挙げた
「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」
これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した
「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」
そして一句
『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)
これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語
)
0082人間七七四年
2011/11/20(日) 02:35:47.81ID:lBUxor6P本当に悪い人だったの?
0083人間七七四年
2011/11/20(日) 03:26:54.57ID:sQv6Xd610084人間七七四年
2011/11/20(日) 03:33:05.79ID:EGqgXrWn0087人間七七四年
2011/11/20(日) 10:12:40.17ID:XnALlmOt空気の読めない人ってイメージだな
0089人間七七四年
2011/11/20(日) 10:55:40.12ID:XnALlmOt0090人間七七四年
2011/11/20(日) 10:57:39.52ID:MW30yS/y>天正11年(1483)
いい話スレでも100年間違っているのがあったけど、はやっているのか
しかし、楠木正成は熱湯を寄せ手にかけていたら、後世糞尿にされちゃって、
「楠は鼻をつまんで下知をなし」とか川柳ができたそうだが
前田慶次の父親ならほんとに糞尿をかけかねない気がする
0091人間七七四年
2011/11/20(日) 11:06:07.59ID:ErbinDIr0092人間七七四年
2011/11/20(日) 11:23:44.85ID:yhdNzjUD0093人間七七四年
2011/11/20(日) 11:31:52.60ID:ErbinDIr0094人間七七四年
2011/11/20(日) 11:41:44.21ID:zVVQO1nD米に余裕があったら、熱々のおかゆもぶっかけてたんだっけ?
熱い上にドロドロのお粥の粘りで、お湯のようにさらっと流れないのでダメージ倍率ドンとか
0095人間七七四年
2011/11/20(日) 11:44:53.75ID:4Qnt+SFj0096人間七七四年
2011/11/20(日) 11:45:18.75ID:MW30yS/yこの話でそういう話題がいろいろ出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
0097人間七七四年
2011/11/20(日) 12:45:50.36ID:zVVQO1nDごめん これも既出だったね
お詫びに、悪い話でなさそうだけど一つ
慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる
『台徳院殿御実記』の巻一にも
「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
と記されてある
家康が江戸〜京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
秀忠は江戸〜京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした
さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話
秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという
でも榎もよい木だから間違っちゃいない
0098人間七七四年
2011/11/20(日) 12:50:45.62ID:MW30yS/yそれはそうと一休の歌でも冥土の旅の一里塚とかあるけど、
全国的に整備されたのはこれが初めてか
0099人間七七四年
2011/11/20(日) 14:01:30.08ID:uX8fZrCk0100人間七七四年
2011/11/20(日) 14:07:35.94ID:ZG8kC+Jq一里塚
一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。
日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。
室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。
一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は
日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。
一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが
街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%87%8C%E5%A1%9A
0101人間七七四年
2011/11/20(日) 15:02:52.92ID:A7VRgClO0102人間七七四年
2011/11/20(日) 16:23:42.34ID:KchuchyK何故わざわざ書き込むのだろう…
0103人間七七四年
2011/11/20(日) 16:28:54.96ID:3TQITk+j少なくとも、よくやっている雑談よりはスレに合っている気がする
0104人間七七四年
2011/11/20(日) 21:39:31.66ID:O/idKqpP昨今の学校では教えないのか
0105人間七七四年
2011/11/20(日) 23:30:00.68ID:qFFdPf+x0106人間七七四年
2011/11/21(月) 00:14:45.69ID:OX3PAVGn0107人間七七四年
2011/11/21(月) 00:47:06.77ID:6MdIC1LAwikiより
>>一般的に榎を植えた一里塚が多いが、19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎が一番多く、過半数を占める
>>次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えられていない。
0108人間七七四年
2011/11/21(月) 11:34:15.16ID:i932htwq0109人間七七四年
2011/11/21(月) 19:46:29.32ID:J7NgHdVw信長は浅井親子が朝倉氏に味方していることに憤慨し、「ならば先に浅井を滅ぼしてその後で朝倉を攻める」と言って
家康公に協力を求められたので、家康公は3000余の兵を率いてご出陣なさった。
浅井方は朝倉に加勢を求めたので、朝倉景紀が兵15000を率いて出陣してきた。
6月28日に姉川で合戦が行われた。
はじめ信長は「私は朝倉勢に向かうので君は浅井と戦ってくれ」と言っていたのだが、朝倉が大軍であるのを確認すると、
急に「私は浅井勢を攻撃する。君は朝倉に向かってくれ」と言ってきた。
徳川の御家人たちにはこれを拒否する者が多かったが、家康公は「大軍に向かう事こそ勇士の本意である」と仰せになり、
朝倉勢に向かわれた。
こうして朝倉勢15000が家康公の軍勢に、浅井勢8000が織田勢に向かっていった。
徳川勢の酒井忠次らがかけ声を上げながら向かっていくと、朝倉勢もついには敗北し、真柄直隆など優れた勇士たちを多数討ち取った。
浅井方は先鋒の磯野員昌が織田勢を11段まで切り崩し、織田勢は大混乱となった。
家康公はこの様子をご覧になり、「織田殿の旗色が悪いようだ。崩してかかれ」とご命令になり、
本多忠勝ら数名が浅井勢の中に向かっていった。
浅井勢も横から攻撃を受けては防ぎきれず、混乱した。
織田勢はこれに勇気付けられて反撃し、浅井勢は敗走して小谷城へ逃げ込んだ。
信長は「今回の勝ち戦はすべて徳川殿のおかげである」と言い、感状のほか、長光の刀などさまざまな品を送ってきた。
by 徳川実記
0110人間七七四年
2011/11/21(月) 20:19:22.73ID:okU3lH9I0111人間七七四年
2011/11/21(月) 20:48:15.93ID:6MdIC1LAせっかく来たのにそんなおまけ扱いなんて心外だ だったら帰る
とかいう話なかったっけ
0112人間七七四年
2011/11/21(月) 20:54:08.77ID:eovu83wJ0113人間七七四年
2011/11/21(月) 21:03:29.09ID:vEX20NKrで、織田軍が2万以上だけど少ない浅井軍と対峙した。
その後の三方ヶ原では織田からは3千位しか援軍来なかったんだよね
信長ってばちゃっかりしてるわw
0114人間七七四年
2011/11/21(月) 21:54:28.01ID:QWH46Tm7「武田への寝返りand対織田の先鋒となる」ってちらつかせなかったら本当に見捨てられてたかもね
0115人間七七四年
2011/11/21(月) 23:51:27.71ID:nDKbrrqW御前8時頃、秀次が三河に向かっていると、後ろから7・800人程の部隊が不意に現れた
秀次「あれは何だろう」
側近「何でしょう」
そんな事を言っている内に、新たな部隊が出てきて4キロまで近づくと、穂富という家臣が
「あれらは何らかの意図を持っている部隊です。覚悟してください」
そんな事を言っている内に、また新たに4・5つの部隊が現れ、先の二隊に合流するし、
たちまち一塊になると1キロまでそのまま秀次隊に押し寄せ、後方の小荷駄を蹴散らし始めた
そこで車輪と永楽銭の旗を見て、徳川と織田勢と気が付き、恐慌状態に陥り壊乱した
いや、秀次勢
あんたらやっぱりダメダメだわ
0116人間七七四年
2011/11/21(月) 23:58:17.47ID:EKvj8+pz0117人間七七四年
2011/11/22(火) 00:04:51.13ID:TTJQ2Q0vしばらく徳川隊としっかり戦ってから先行してる堀秀政に連絡入れて撤退
0118人間七七四年
2011/11/22(火) 00:12:23.64ID:v0VWk4dr0119人間七七四年
2011/11/22(火) 00:15:24.22ID:XJMdxzY50120人間七七四年
2011/11/22(火) 01:25:52.31ID:I6Pi0Jv+『先月21日、越前において、西軍斯波義廉の部将甲斐左京亮と、東軍に寝返った朝倉孝景が合戦し、
朝倉方が討ち負けた。朝倉方はもっての外の少勢であったそうだ。
これは越前守護職を得て以来、朝倉孝景は国司気取りで、烏帽子狩衣の、まるで殿上人のような姿をして、
その驕慢な振る舞いは隠しようもなく、そのため越前の国衆たちは彼を嫌い尽く背いたのだとか。
稀代の事だとの評判である。
そもそも今度の一天下の乱(応仁の乱)は、この朝倉孝景の所業によって起こったものなので、
彼はついに天罰を被ったのだと、世間ではもっぱら噂している。』
(大乗院自社雑記)
後に越前で強力な戦国大名となる朝倉氏であるが、その初代である朝倉孝景が驕慢であったこと、
越前を必ずしも掌握できていなかった事、何より彼が応仁の乱の原因であったという認識があったことなど
色々なものが見えてくる記録である。
0121人間七七四年
2011/11/22(火) 08:22:37.11ID:7K43f71Pおもしろいもんだ
0123人間七七四年
2011/11/22(火) 17:57:20.40ID:eeunHnWU0124人間七七四年
2011/11/22(火) 23:12:01.07ID:Bm6AWC690125人間七七四年
2011/11/23(水) 18:11:52.94ID:LZLJjBQOもっとも実際いつ成立したのかわからないが
0126人間七七四年
2011/11/23(水) 20:39:13.74ID:GmOU0buX特に良くも悪くもない話だし、既出だったらスマン
第62条
「こんな細かいこと載せなくても(´Д`)」と皆は思うかもしれない。
しかしお前たちで規則を決めるのもやりにくいだろうから私が言うのである。
親類縁者・同僚同士で派手に酒肴を用意して宴会をやるのはよろしくない。
飲みすぎて表の垣根にもどすなんて誰が得するのか?
まあ飲ませる側としては浴びせるほど飲ませたいものだ。
そこで私が法律を定める。裕福になっても背いてはならない。
肴は一汁三菜、酒は上戸に対してお椀並々一杯とこの限度を超えてはならない。
夏精進中で肉を断っているなら、ひき汁(?)をつけても仕方ない。
もし私を招待してこれより多かったら席を蹴って帰るぞ?神に誓う。
親戚・家中に対しては以上のことを守れ。
よそから来た客人の場合は亭主にまかせる。
金銀飾り立てようと、百膳用意しようと一汁三菜で済ませようと、天野・菩提山・江川の銘酒でもてなそうと濁酒で済まそうと、好きにやってよい。
相手が上戸なら、それに合わせて同席の者も飲み放題に飲み、客人が
飲 み す ぎ て も ど す ほ ど 無 理 強 い す る
のも大いに結構である。それは、先の規定の対象外とする。
(『結城市史4巻』意訳)
これから忘年会シーズンで結城家の客人のようにならないことを祈る
0127人間七七四年
2011/11/23(水) 21:51:32.23ID:iqQC5NEu0128人間七七四年
2011/11/23(水) 21:58:49.52ID:okATPBrE親類同僚と気兼ねなく飲むときはとことん飲みたいもんだが
0130人間七七四年
2011/11/23(水) 23:10:30.46ID:kj04qv8+なんかみーんな酒飲まないんだよね・・・
居酒屋でジュースみたいなサワーしか頼まないからつまらないことこの上ない
飲み会なのになぜか仕方なく酒飲んでる雰囲気だから楽しめない。俺は酒が好きなのに
とことん飲みまくる戦国人の逸話を読むとなんか羨ましくなるわ
0131人間七七四年
2011/11/23(水) 23:19:17.62ID:vV1a1qVO0132人間七七四年
2011/11/23(水) 23:29:39.78ID:KeWpT/lqあの時代で下戸だと、周りとの付き合いも大変だろうな
みんなもの凄く飲みそうだし
0133人間七七四年
2011/11/23(水) 23:32:28.77ID:CqSC3S6C0134人間七七四年
2011/11/23(水) 23:37:28.22ID:gP5nQSI2代わりになにかくれるならいいが
0135人間七七四年
2011/11/23(水) 23:47:16.78ID:KeWpT/lq餅くれる上司がいいな
0137人間七七四年
2011/11/23(水) 23:48:37.83ID:okATPBrE黒田節の逸話ってwikiだと「武士に二言はない」的に書かれてるけど
福岡市の博物館行ったら「酔っ払っていた福島は大事な槍だと忘れてほいほい渡してしまい
翌日日本号が無いのに気付いてビックリした」ってな書き方だったんだよな
本当はどういう経緯だったのかねえ
0138人間七七四年
2011/11/23(水) 23:50:11.70ID:KeWpT/lq0139人間七七四年
2011/11/23(水) 23:58:37.49ID:xH549lC5黒田家の記録だと、目が覚めたら日本号がなくて、「どこやった?」と家臣に聞いて
「え?だってこれこれ…」と説明され驚愕。黒田に至急返還を求めたけど母里太兵衛断固拒否、
って話だった。
0141人間七七四年
2011/11/24(木) 03:20:30.45ID:Q8MFiT+4軍神の目の前で好きなだけ酒飲んでいいで賞があったってのを
どっかで見たことあるな
なんという下戸には付いて行けない家…と思った
景勝も茶より酒が好きだったようだし
0142人間七七四年
2011/11/24(木) 07:35:44.92ID:RsVx6zPL0143人間七七四年
2011/11/24(木) 08:01:48.82ID:ZbFq5DOy0144人間七七四年
2011/11/24(木) 09:27:49.52ID:WP/hcKT10145人間七七四年
2011/11/24(木) 09:29:16.61ID:eZqQmu7W0146人間七七四年
2011/11/24(木) 10:07:14.33ID:l3gh6L1/0148人間七七四年
2011/11/24(木) 11:34:09.31ID:hVn8P+P/0150人間七七四年
2011/11/24(木) 14:17:52.68ID:nYRo4GSm言継卿記にも、今日は酒もらっちゃった
みたいなこと書いてあるらしくて、よほど嬉しかったんだろうね
0151人間七七四年
2011/11/24(木) 14:57:04.65ID:ezAP1k1j島津家久(善)送迎会地獄・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-922.html
0152人間七七四年
2011/11/24(木) 15:00:18.12ID:KjwSdEou0153人間七七四年
2011/11/24(木) 15:14:05.46ID:FovqXBf7上井覚兼、軍陣と宴会と・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-259.html
0155人間七七四年
2011/11/24(木) 18:32:00.04ID:nYRo4GSm理由を読んでると、なるほどなーとは思うんだけど、現代日本じゃ無理だな
0156人間七七四年
2011/11/25(金) 00:50:44.59ID:n1HLub3g0157人間七七四年
2011/11/25(金) 00:59:33.71ID:KpKL3nxS0158人間七七四年
2011/11/25(金) 07:45:36.50ID:arzjxpaR客に振舞うとなるとやっぱ酒しか選択肢がないのかね
0159人間七七四年
2011/11/25(金) 09:34:51.53ID:rRq+nZXE0160人間七七四年
2011/11/25(金) 15:10:41.76ID:fG26fPDDこの時の堀秀政の働きに関する批評を見てみよう。
『堀久太郎(秀政)は三河衆の先手に打ち勝ち、そのまま討ち進むべき所を、その場を他の味方の部隊に任せ
自分たちは引き下がった。
もし、先手に勝利した勢いのまま、後続の徳川軍の旗本勢と一戦していれば、たとえ先の交戦で
疲弊した軍勢であるため、そこで自分たちの部隊は敗北したとしても、池田勝入、森長可の部隊は
無傷の新手として残っていたので、形勢としても最終的に秀吉軍が勝利する形に持っていけたはずである。
そうであるのに向かってくる敵を他の味方に譲って戦わずに引き下がったのだ。
これは自分の最初の勝利を無にする行為であった。
つまり堀秀政には、秀吉公への誠の忠誠心がなかったということであろうか、
それとも戦に不案内で、あの場に留まる戦術上の利点が解らなかったのだろうか?
(秀吉公へ誠の忠無御座候か、又不案内にて其利を不存候か)
(長久手合戦覚書)
名人堀秀政に対する、珍しく批判的な批評である。
0161人間七七四年
2011/11/25(金) 16:09:45.38ID:IfoxjoTk0162人間七七四年
2011/11/25(金) 16:18:02.10ID:6NgHtMm6別にQ太郎さんのせいではないのでは…と思ったけど違うのか
0163人間七七四年
2011/11/25(金) 16:24:50.60ID:jySik5yO0164人間七七四年
2011/11/25(金) 16:26:07.68ID:EW/YV1tC秀吉とゆかいな仲間たちって感じだからね
明確な上下関係も絶対的な優越性もまだない
0165人間七七四年
2011/11/25(金) 18:12:14.91ID:9Trhl71K真似する奴いたらその方がびっくりだわな。
ていうか、そもそもそんな本気で「決戦」までするつもりが秀吉にあったのか(or可能だったのか)?
家康のプライド潰さない程度にほど良く勝って和睦して政権に取り込むっていうのであれば
久太郎は過不足のないまさに名人級の進退を見せたともいえる。
0166人間七七四年
2011/11/25(金) 18:27:45.48ID:hUDrpAZQ仮に秀吉の形勢が悪くなって場合に備えて家康にも目を残しておきたかったとかじゃないのか?
0167人間七七四年
2011/11/25(金) 18:46:55.06ID:jySik5yOけど、取り残された池田森の両隊がなんか気の毒
0168人間七七四年
2011/11/25(金) 18:56:57.49ID:/O5RDxdR戦えとか無茶言うな
0169人間七七四年
2011/11/25(金) 19:03:34.02ID:Hn0shKtX最近の研究だと、秀吉の小牧長久手の中入り部隊は隠密でも何でもなく、むしろ家康に脅威を与えるため
大いに宣伝していたらしいぞ。
0171人間七七四年
2011/11/25(金) 19:20:16.71ID:6NgHtMm60174人間七七四年
2011/11/26(土) 23:03:36.19ID:wIOsHhCG0175人間七七四年
2011/11/26(土) 23:19:22.16ID:wvohD9BD0176人間七七四年
2011/11/27(日) 00:23:40.78ID:VlnclGWI楽に勝ってるから弱い奴としか戦って無いとかは誤解だな
鬼武蔵でなかったなら最初の農民一揆でゲームオーバーだった
彼の不運は死ぬ間際まで敗北を知らなかった事だ
0177人間七七四年
2011/11/27(日) 00:41:09.27ID:46CaLTZs指揮官であることは確かだね>鬼武蔵
小牧長久手は鬼武蔵云々と言うより、はやり秀吉の作戦が最初からまずかったと思う。
0178人間七七四年
2011/11/27(日) 02:01:52.65ID:1fiEOM4d天罰テキメンとか言っちゃだめw
0179人間七七四年
2011/11/27(日) 03:05:00.06ID:V4ea2/480180人間七七四年
2011/11/27(日) 08:37:10.47ID:tPWKH8wl回りこんだ時点で後の展開は決定したと言える
0181人間七七四年
2011/11/27(日) 09:31:48.41ID:MC45Lle90182人間七七四年
2011/11/27(日) 10:31:48.31ID:3TxdHNaa0185人間七七四年
2011/11/27(日) 12:47:22.36ID:tPWKH8wl長久手合戦当日付の「疲れたんで花押でなく、印判でゴメンね」という書状があるので
参加していたかと
もっとも、小牧山を初めとした陣地帯には酒井・石川といった東西三河衆と織田の一部が残ってい
0186人間七七四年
2011/11/27(日) 13:36:42.22ID:uVe1tSVS0187人間七七四年
2011/11/27(日) 14:54:39.90ID:PCz8tsV7愛称としての鬼と種族としての鬼の違いだろ?
槍なんて使ってるような人間と鉄の棒振り回してる鬼を同じにしちゃいかん。
0188人間七七四年
2011/11/27(日) 15:04:06.41ID:46CaLTZs大阪方に動揺が見られるようになった。ここで将軍秀忠は、大御所家康にこう申し入れる
「現在諸軍勢はすべて、大阪城の堀際まで仕寄せ、包囲を完全にしました。
そこで、2、3日の内に総攻撃をかけるべきと考えます。」
これを聞いて家康
「総攻撃のこと、先ず待ちなさい。
この城は、例え外郭を取ったとしても、二の丸三の丸までは落とし難い。
どういう事かといえば、昔ここに六条の上人(本願寺顕如)が立て籠もったのを、信長は数万の軍勢で
3年攻められたが、ついに落ちず、結局講和によってようやく、大阪攻めから解放された。
その後太閤が多年にわたって改修をし、そこに今大勢が立て籠もっている。このような城に
平攻めでは利を得難いものだ。
戦いというものは、敵の在り方によって転化するべきものである。
平攻めの難しい城ならば、手立てを変えて落とすものだ。
ここはただわしに任せて、暫く待つのだ。」
この家康の言葉に秀忠は抗うことが出来ず、総攻撃は延期された。
さて、それから家康は本多正純を召して言った
「大阪城内からの報告によると、秀頼は城から討ち出ての決戦を叫んでいるという。さすがに若い。
それに対し御袋(淀殿)は秀頼の身の上を案じ、和睦を願っているという。やはり母である。
そして豊臣家中は小身者と新参者の集まりで、これをまとめ主導する者がおらず、今は皆、考える所が
バラバラになっているようだ。
これなら難しいことはない。講和工作をしてみろ。(手難き事はあらじ。扱ひを入れてみよ)」
この命に正純は早速工作を始め、京極若狭守忠高の弟(安毛高政か?)を交渉役として大阪城に入れた。
「大御所様が仰せになっていることには、秀頼の一旦の御不思慮によって、関東より軍勢を向けられた。
近日中に総攻撃となるだろう。そうなればこの大阪城といえども落城するのは明白である。
そうではあるが、秀頼とは他ならぬ関係であり、この事を大変いたわしく思っている。
もし秀頼に和議を結ぶ意志があるのなら、講和交渉を始めようではないか。」
これに、城内にも講和の機運が強まっていた所から、渡りに船と喜び、すぐに和睦となることが決まったという。
12月21日の夜半より、互いの鉄砲が止められた。
翌22日より、竹束・幟・馬印の類が撤収された。
敵も味方も、これはいかなることかと、ただ夢の覚めたような心地だった。
そうではあるが城門は未だ開かなかったので、城の内外の者たちは皆堀端に出て、
あるいは親子兄弟、旧友、縁の者たちに、手を上げ扇を上げ、互いに命が助かり再び合うことが出来た事を
大いに喜んだ。
23日より内外より人夫を出し、城の櫓・塀を打ち毀ち、石垣を崩し堀を埋め、三の丸まで平地となった。
冬の陣の講和から一月も経たず発行されたと言われる仮名草子「大阪物語」より、
その講和の模様についての、実に臨場感のある記述である。
0189人間七七四年
2011/11/27(日) 20:45:01.41ID:VI2DDFF0信長に仕えた明智光秀は、義昭上洛の成功後、京都奉行職に就いた。
新参者としては破格と言ってもいい厚遇である。
さて、この京都奉行の役割の一つが「寺社本所領の保護」であった。
中世において寺社勢力は無視できない存在。信長にしてみても、こうした政策を打ち出すことで
畿内経営を円滑にしようと考えていたのかもしれない。
そうしたことを踏まえると、故事来歴に詳しく、教養もあり、更に実務能力にたけた光秀を
京都奉行に就任させるのは理にかなったことと言える。
しかしながら光秀は、本所領を保護するどころか、幕府の同僚たちと一緒になって横領しているのである。
それがどれだけ酷かったかというと、正親町天皇より二度も勅勘を出しているほどである。
特に2回目においては、側近の山科言継がわざわざ岐阜まで行って、信長に綸旨を渡したりも
している。
それに対して光秀がどうしたかというと・・・
「なにかと手元不加意でお困りでしょう」
夜中に言継の元に使者を出してワイロを渡している。
どうも「信長に対しての物言いを和らげてもらえない」というものだったようなのだが。
(ちなみに横領した土地は返還等はしているようである。全部渡したかはわからないが)
土地の横領をし、やばくなったので賄賂を送る光秀の悪い話でした。
0190人間七七四年
2011/11/27(日) 23:52:08.54ID:xzIK6GJh光秀も結構やってること外道なんだよなあ
0191人間七七四年
2011/11/27(日) 23:56:34.99ID:+/z7dyRJ弱肉強食だし
0192人間七七四年
2011/11/28(月) 00:17:52.38ID:VnzvfWOMそして大抵公家は泣き寝入りという
0193人間七七四年
2011/11/28(月) 00:21:50.83ID:q1g5+vrc0194人間七七四年
2011/11/28(月) 00:22:30.16ID:mCydlT6C寺社領を横領しなかった家もまたひとつもない。
外道といえば、戦国時代の人は全員外道です
0195人間七七四年
2011/11/28(月) 00:27:37.97ID:HHV6f4NY0196人間七七四年
2011/11/28(月) 00:28:40.52ID:VnzvfWOM0197人間七七四年
2011/11/28(月) 00:31:30.70ID:3OrtQZitそれでも横領やめなかったらしく信長が再び横領停止するよう書状を出した。
その後どうなったかは良くわからない
0198人間七七四年
2011/11/28(月) 00:36:05.64ID:BYn8Dx6S朝廷の国衙領を横領してその財政基盤にした家だったりする。
0199人間七七四年
2011/11/28(月) 00:51:36.89ID:llBDatpf0201人間七七四年
2011/11/28(月) 02:36:05.65ID:q1g5+vrcまぁ越前の織田が劔神社の神主ぐらいしか思いつかないぐらい空気になってしまったが。
0202人間七七四年
2011/11/28(月) 02:41:52.42ID:p67YyqaS奥州から各地に分散したんか…
0203人間七七四年
2011/11/28(月) 17:21:39.35ID:AvVTirdD0206人間七七四年
2011/11/28(月) 21:00:28.24ID:zw/Oc4Cl↑まあ実際、親しかったようなのですが内容はどうかと言うと
『さいつさまへ 石治部より
貴殿からの礼状と中書殿(本多忠勝)からの返書、拝見しました。中書殿へは私から直接お返事しますが、
もし返事について聞かれたら、「承りました。何かと大変ですね。」と言っていたと伝えて下さい。』
『真豆州へ 三成より
最近、忙しくて報告が遅れたんですが、岐阜中納言(織田秀信)が体調不良で、オタクの近所の草津温泉へ
湯治に行きたいとの事です。
ところが『関東は不案内だから、信之さんに留守居衆へ(秀信を)接待するように、一筆書いてもらって』
とか、私に言って来やがりました。上記の通り家臣の方に言ってもらえれば、私も本望です。
こんな事ばっか頼んで迷惑だと思いますが(度々如此之儀申入、御心中迷惑に候)、曲げてこちらの使者に
良い返事を預けていただければ、幸いです。』
『「その内会おう」と言いつつお会いできず、ゆかしく思っています。この間の手紙も早々に返事すべき所、
ようやく先日そちらの使者に会えました。それもご存じの通り、路地の真ん中で、です。
これからも私はしばらく城詰めが続き、お話する事も出来ないでしょう。
…つーか、ぶっちゃけ城詰め飽きた。(もはや御番もあき申候)面会して、色々話がしたいです。
いつ(伊豆)様 石治』
…治部少ガンガレ超ガンガレ………
0207人間七七四年
2011/11/28(月) 21:01:45.42ID:zw/Oc4Cl『見事なタケノコを頂戴しまして、過分の御心差しに言葉がありません。本日は直接お運びいただき、
早々に御目にかかりましたが、一段とご気色良く見えました。めでたい限りです。
いつ様へ 細越中
追伸
貴殿のこのような御心差し、私には余人に千回挨拶されるより、有難く思います。
(尚々貴様之かやうに御心入御ざ候所、我等よの人の千度より忝候)』
さすが手紙魔で外面のいい三斎様は、こういうのが上手い。
0208人間七七四年
2011/11/28(月) 21:15:48.93ID:VnzvfWOM0210人間七七四年
2011/11/28(月) 22:54:21.77ID:Rzk0kcdx同じ底意地の悪い京山城と近江(石田三成公)でも、何というか
頑張れ真田家の兄貴(ρ_;)
0211人間七七四年
2011/11/28(月) 23:20:24.56ID:1Qb6/uFQいろいろと振れ幅がデカイw
0212人間七七四年
2011/11/28(月) 23:29:35.46ID:En/Xsg330213人間七七四年
2011/11/29(火) 08:12:33.39ID:TX26W8wz天正九年、毛利、吉川家の傘下で勇将だった伯耆の杉原盛重が病死した。
跡を継いだ元盛に、遺産の分け前が少なすぎると恨みを抱いた弟の景盛は、
しばらく後に家中には「元春の上意なり」と言い張って兄を殺し、
まだ幼かった兄の子供たちをも殺してしまった。
やがてこの悪事が露見し、吉川元長の号令によって軍勢に居城を取り囲まれる。
景盛の陰謀に深く関与していた、菖蒲左馬允という男がいる。
敵に囲まれた城中から、この男が姿をくらました。
それを知った菖蒲の妻は、10歳になる嫡男、小次郎に語りかける。
「いいですか、小次郎。
おまえの父は、景盛公に加担して主君の元盛公を殺し、
今また景盛公が報いを受けて明日をも知れないお命となり果てると、
おまえをも捨てて、情けなくも逃げ出してしまいました。
悪逆の名を末代に残すのみか、臆病の恥までも晒すとは。
妻としても恨めしく憎らしく思います。
小次郎、あの大悪人の子として敵に捕らわれ、嘲笑われ、無残に殺されるよりは、
この母の手にかかって死になさい。母もともに逝きます。
それともおまえは、あの父と同じように、恥も人目も気にしませんか」
「すべて母上にお任せします」と答える我が子に、
「おまえは、魂は父ではなくこの母に似たようじゃ」と語りかけるや否や、
女は守刀を二度突き刺し、幼い我が子を押し伏せた。
これを見ていた12歳ほどの娘は、母が狂ったのだと思って部屋を駆け出て、
景盛の妻室の居室へと飛び込んで助けを求めた。
人々が駆けつけると、自分の腹に守刀を突き立てている女に取り付き、刀を奪う。
女の命に別状はなかった。
やがて女は、夫の菖蒲が東伯耆にいると聞きつけ、訪ねていった。
菖蒲は天罰が当たったのか、すっかり白髪になり、
眉も鬚も抜け落ちたみすぼらしい姿になっていた。
女は言う。
「あなた、あなた、私はもう死んでしまってもいいと思いましたが、
あなたに一度会って、子供を捨て、主君を捨て、
そんな取るに足りない命惜しさに逃げ去ったあなたにこの恨みを伝えてから
どこぞの淵にでも身を投げようと思い、これまでつらい世に命を永らえてきました。
今のあなたの有様を見ると、天罰が当たって非人・乞食になったようですねぇ。
この世にどんな未練があって生きさらばえているのですか。
あれこそ恥をも人目をも顧みず、仏罰・神罰をも恐れず、
主君を殺し主君を捨てた邪見放逸の輩ぞと、人々に後ろ指をさされるよりは、
いっそ自害したらどうですか」
菖蒲は妻の言葉に納得したのか、はたまたひもじさに耐えかねてか、自害した。
女もまた、その刀で自分の身を貫いて絶命した。
0214人間七七四年
2011/11/29(火) 13:31:28.84ID:gArV46j10215人間七七四年
2011/11/29(火) 14:07:38.15ID:/GNs7wj9やはり武家の妻というか、戦国時代の女性は男と変わらんくらい凛々しいもんだな
0216人間七七四年
2011/11/29(火) 16:09:16.27ID:S4HqeLX2小早川隆景さんも飲酒には一言残してます。
「おもしろの酒宴や本心を失わぬほどに」
要は「ほどほどにしとけ」ってことですね。
これはまとめにある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2715.html
の時の歌なんですが、まとめに全文が無かったのであらためて・・・・・・
おもしろの春雨や花を散らさぬほどに♪
おもしろの武道や文学を忘れぬほどに♪
おもしろの好色や身を亡ぼさぬほどに♪
おもしろの儒学や武備のすたらぬほどに♪
おもしろの権勢や他に誇らぬほどに♪
おもしろの酒宴や本心を失わぬほどに♪
おもしろの利欲や義理の道を塞がぬほどに♪
おもしろの釈教や世理を忘れぬほどに♪
即興でこんだけ説教を歌にできる隆景さんは、やっぱりすごいと思う・・・・・・
にしても隆景さんて、あんまり儒学に好意持ってなかったんでしょうか?
三行目は大内さんのことだったりするのかな?
0217人間七七四年
2011/11/29(火) 16:15:52.67ID:MZ8/O1Q30218人間七七四年
2011/11/29(火) 16:41:09.08ID:b/GtYPOS02191/2
2011/12/01(木) 17:48:27.07ID:9ujpDut+有る年のこと、蘆名盛隆が八丁目という土地で伊達政宗と戦いこれを大いに破り、追撃をして
伊達の将兵数多討ち取り勝鬨をあげ、居城へと帰陣する途中、二本松の宿を通っていた時である。
ここで群集大いに集まり盛隆の凱旋を見物した。
そんな中、ある町家の中に、14・5歳の容貌優れたる少年が、片手に色美しい花を持ち、前に書物を広げ、
表の騒ぎも気にかけず読書をしていた。
盛隆はこの少年に気が付き、その家の前に馬を止め、彼の両親に伝える
「あの少年を貰い受けたい。」
突然のことに驚いた両親であったが、元より辞するという言葉も無く「ご所望にお任せします」と答えれば、
盛隆は多いに喜び両親に物の具を与え、少年を自分の変え馬に乗せて騎乗した。
この少年が大庭三左衛門であった。
蘆名盛隆は三左衛門を深く愛し、その寵愛は限りがないかのようであった。
しかし紅に栄える葉もやがて黄となり木より落ちるもの。時が経つと共にその君寵も衰えていった。
これを三左衛門が恨みに思っていたところを、彼が君寵によって取り立てられたことを妬ましく思っていた
譜代の若者たちは、その失落を喜び、三左衛門の居ない所で彼を『鴨汁』と仇名して笑っていた。
その意味は「冷めては食われぬ」ということであった。
後で三左衛門は自分がそう呼ばれていることを知り大変なショックを受け、昼夜深く悩み、このような屈辱に
耐え忍ぶことが出来なかった。
そんな時に、ある人が三左衛門に伝えに来た。
「御屋形様(盛隆)が、今朝のお食事は鴨汁なのであなたも参るように、とのことです。」
そう言って、ニッコリと笑った。
02202/2
2011/12/01(木) 17:48:59.72ID:9ujpDut+返す刀で自分も腹を斬って果てよう。とっさにそう思ったが、尋常ならぬ努力でこれを耐えた。彼はこう考えたのだ
『この事は他の誰が言ったのでもない、御屋形様がそう仰せられたのだ。ならば罪なきものを殺し徒に命を捨てるより、
御屋形様を一太刀討ち申し、恨みを泉下に報じよう!』
そして明日、盛隆を討ち果たそうと心に決め、その夜知人友人を呼び集め酒肴を振舞った。彼は客人に
「実は昨夜、我が望みが叶う夢をみたのです。夢の内容は三日後に語ろうと思いますが、突然の吉夢であったため、
これを祝おうと皆様をお呼びしたのです。」
そう言って盃を指しさされ、舞い謳い、実に楽しい酒宴を主催した。
翌、天正12年(1582)10月6日、早朝
大庭三左衛門は沐浴し香を焚き、出仕の衣装を美麗に着こなし城の大広間の方へと向かった。
この時、蘆名盛隆は丁度、広間において鷹を据えて柱に寄りかかっており、まわりに近習もおらずただ一人で居た。
これを見た三左衛門は一礼をして縁を通ろうとした。ただ、本来ならここは刀を刺さずに通るべき所であったのを、
この時は刺したままで通る。と、その瞬間、「キエーーーーー!」叫び声と共に振り返り、盛隆を一刀、斬った。
深手ながら未だ意識がある。盛隆は腰の刀を抜こうとした。その前に三左衛門の二の太刀。盛隆は絶命する。
すると三左衛門は大手門の方に走っていく。
蘆名家の家臣たちはこの騒ぎを聞きつけ集まったが、三左衛門を追いかけ討ち取ろうと言う者はなく、ただ
盛隆の死骸の周りに集まり周章狼狽するばかりであった。
が、ようやく一人の侍が三左衛門を追いかけ走った。これをきっかけに人々次々と彼の後を追う。
三左衛門はニ町(約200メートル)ほど逃げ延びたものの、ついに追いつかれ討ち殺された。
三左衛門の死体を改めると、出仕着の下には絹の死装束を着、六道銭と数珠を首にかけていた。
これを見た人々
「死ぬ覚悟をしていたのは明らかなのに、どうして逃げて生き延びようとしたのだろう。
いったいどんな因果の報いで、主君を討つようなことをしたのだろう。
何もかも理解出来ないことばかりだ。」
と、この事件をどう受け止めれば良いのか、皆、悩んだということである。
(藤葉栄衰記)
0221人間七七四年
2011/12/01(木) 18:12:57.57ID:745KC2vW0222人間七七四年
2011/12/01(木) 18:28:02.89ID:tpbQ213m0223人間七七四年
2011/12/01(木) 18:43:29.03ID:bBtxXZOChttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
>この後、二人がどうなったのかは知ってのとおりである。
これを読んだ時、コメントしている人のように続き書いてくれよ、とつっこみたくなったからありがたい
ついでに
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1866.html
この時つかまえた鴨を汁にしようとしたのかな
つまり、鴨つかまえて死んだのはただの偶然じゃなかったと
0224人間七七四年
2011/12/01(木) 19:30:00.71ID:9ujpDut+0225人間七七四年
2011/12/03(土) 00:03:53.23ID:eQ57+vaX0226人間七七四年
2011/12/03(土) 07:49:36.13ID:2jMGGzRD当時の男女間の話は政治的なものが関わることがよくあったからね
己を抑えて終わらすことも多いのでは
男同士だとそういうのが少し緩かったんだろう
0227人間七七四年
2011/12/03(土) 12:49:50.07ID:SpZjErfX衆道話でドロドロというとこんな話が
明暦二年(1656年)、金沢城下で浪人の津田八丞は、二百石取の藩士の倅で
15歳の木村市十郎と兄弟の契りを結んでいた
ところがこの年の春、市十郎と同じ道場に通っていた後藤太右衛門という浪人が
ふとしたきっかけで市十郎に恋心を抱いてしまった
とりたてて美男子でもない市十郎に、なぜ太右衛門は恋慕を抱いたか
どうやら稽古中に市十郎の槍を受けて負傷してしまった太右衛門を
市十郎が甲斐甲斐しく介抱する姿に感じ入ってしまったかららしい
太右衛門は、さっそく御小姓組の中嶋九郎兵衛に恋のなかだちを頼み
自分の想いを市十郎に告白したが、すでに八丞という兄貴分がいるのでと断られてしまう
一方、話を聞いた市十郎の父は息子の身を案じていた
なにせ衆道の恋のもつれから、刀傷沙汰になることなど珍しいことではなかったからだ
二百石取の藩士、近藤伝吉らに仲裁を依頼
その結果、市十郎と八丞の兄弟の契りは解消するという条件で、太右衛門にも身を引いてもらうこととなった
これで一件落着かと思いきや、近藤伝吉がその後も八丞と市十郎の密会の手引きをしているという噂が流れ
事はもつれにもつれてしまった
ついに近藤伝吉と中嶋九郎兵衛、第三者どうしの喧嘩に発展し、中嶋は即死、伝吉も負傷
事件を知った藩当局は、近藤太右衛門と津田八丞の二人に切腹を命じ
木村市十郎に対しても、能登へ「追籠」(おいこめ)の処分を下した
しかし藩はこれで万事収まったとは考えていない まだ負傷した伝吉が残っている
金沢の外交宮腰から船で西国へ遣す折、御荷物(藩の荷物)と称する大長持に空気穴となる
すかしを入れて、その中に伝吉を潜りこませて隠密裏に運び出した
相手側の報復をおそれるあまりの措置である 警護も厳重だった
「警固の人々は槍のさやを外し、鉄砲に火縄を挟み、厳重の行粧といふ也」と
この一連の事件の顛末を記した「混見摘写」は物語っている
一人の少年をめぐる衆道の争いが
やがて傍輩や一族の人々を巻き込み、更なる闘争にまで発展してしまった悪い話
0228人間七七四年
2011/12/03(土) 13:30:22.05ID:DllB/QUd0229人間七七四年
2011/12/03(土) 13:31:09.83ID:FB4jer4Z「イチジョー、ニッポンシュードーヨワーイ!」
0230人間七七四年
2011/12/03(土) 13:39:33.45ID:yJ/FIBkE0231人間七七四年
2011/12/03(土) 13:57:18.70ID:sxP/Yxyu0232人間七七四年
2011/12/03(土) 14:15:36.28ID:YnBFzLBC「井口村刃傷事件」が、これまた衆道絡みなんだよなあ。
この事件で土佐藩はお取りつぶしの危機を本気で心配してたし、土佐や日本の歴史も動かした衆道。
0233人間七七四年
2011/12/03(土) 14:40:19.64ID:L/AyC6mn0234人間七七四年
2011/12/03(土) 14:47:23.82ID:q3X/UrtS歴漢がきっと増えてくれるよ!
0235人間七七四年
2011/12/03(土) 15:32:03.85ID:SmoKNJAo0237人間七七四年
2011/12/03(土) 17:25:51.54ID:sm1Uktft0238人間七七四年
2011/12/03(土) 20:31:43.33ID:AOrjWnuB誰も仲裁しないから泥沼化するんだろう
0240人間七七四年
2011/12/03(土) 22:05:39.34ID:BWyd7Y2o0241人間七七四年
2011/12/04(日) 13:18:14.38ID:qvdO7tIM広島 8R 2車単 一般 1-8 計¥1,000 成立
広島 8R 2車単 一般 1-9 計¥500 成立
広島 8R 2車単 一般 1-4 計¥500 成立
三登は地元広島だしチャレンジ戦ごときじゃ負けない
0242241
2011/12/04(日) 13:21:47.06ID:qvdO7tIM0243人間七七四年
2011/12/04(日) 13:58:18.21ID:CswJafLd0244人間七七四年
2011/12/04(日) 14:04:28.81ID:eWFkZ4Fq0245人間七七四年
2011/12/04(日) 14:10:06.02ID:IIcqRaXp0246人間七七四年
2011/12/04(日) 15:07:30.08ID:sd4rfcvz刃傷沙汰(にんじょうざた)
刀傷沙汰という言葉はこれから一般化するのかも知れないけどしなくていい。
するな。
0247人間七七四年
2011/12/04(日) 16:27:43.14ID:PgEIvmC70248人間七七四年
2011/12/04(日) 16:46:21.61ID:woy54Exw0249人間七七四年
2011/12/04(日) 17:11:13.12ID:/eVcb7nB0250人間七七四年
2011/12/04(日) 19:01:02.84ID:aoD/EFWY中村良直の『中村雑記』より
昔、藤堂和泉守の児小姓の間で衆道が流行していた
和泉守がどんなに禁止しても男色熱はいっこうに冷めない
困り果てた和泉守は、ある日藩士たちに向かってこう言った
「よし、お前らよく聞け
衆道の契りを結んだ者たちには、知行を与えてやるぞ」
あたかも衆道を奨励するようなお達しに、しかしその後衆道の流行は急速に衰えてしまった
どうやら「知行ほしさ」に衆道の契りを結ぶと思われては武士の名折れ と恥じたからなんだそうな
0251人間七七四年
2011/12/04(日) 19:35:21.31ID:Pt/EVUKK戦国のDQNはどんだけ
0252人間七七四年
2011/12/04(日) 19:46:18.82ID:gcBwSkVG将軍殺したり主殺したり東大寺焼いたりセックスのハウトゥー本書いたり爆死したりしてるだけで
0253人間七七四年
2011/12/04(日) 19:47:56.64ID:vOGNvUl/0254人間七七四年
2011/12/04(日) 20:07:52.46ID:SwkD3z4+戦国時代に迷惑な領主は弱い領主だからなあ
0255人間七七四年
2011/12/04(日) 20:09:07.84ID:dpQBusbW0256人間七七四年
2011/12/04(日) 20:10:28.26ID:853+yYSfあの人の一見DQNに見える行動も実は非常に計算された上で動いてるからね
DQNは後先考えずその場の勢いとノリで色々やらかす人々だから
0257人間七七四年
2011/12/04(日) 21:48:26.45ID:XHNomoJf3歳様伝説には、
切った下人で36歌仙とか、
植木屋の生首とか
おそらく領民と思わしき存在があるから、かなり迷惑じゃね?
まあ、単なる乱暴者ですんじゃうレベルにしても
0259人間七七四年
2011/12/05(月) 03:07:12.07ID:N/Dfz/Gq直家「宇喜多ブラック」
元就「毛利ブラック」
昌幸「真田ブラック」
義光「最上ブラック」
五人揃って謀略戦隊クロレンジャー
0260人間七七四年
2011/12/05(月) 03:10:27.76ID:iblvftlN黒官入ってないじゃねーかと思った
全然違った
0261人間七七四年
2011/12/05(月) 03:36:31.30ID:oig6DICa黒田官兵衛「黒田ブラック」
赤井直正「赤井レッド」
地黄八幡「北条イエロー」
白鳥長久「白鳥ホワイト」
森長可「森ピーチ」
0262人間七七四年
2011/12/05(月) 06:43:04.64ID:N/Dfz/Gq0263人間七七四年
2011/12/05(月) 06:44:00.11ID:eYfiuMov0264人間七七四年
2011/12/05(月) 12:12:25.53ID:yzCVf1NJ執念深さ、無慈悲さ、残虐さ、気まぐれ度において
ラスボスには遠く及ばないな。
0267人間七七四年
2011/12/05(月) 13:59:52.85ID:RYZw1RGu0268人間七七四年
2011/12/05(月) 14:17:37.89ID:S9FLHYTaゴールドの偽物といえばタングステン。
ただの嫌味と考えなきゃ深いな。
0269人間七七四年
2011/12/05(月) 15:17:46.44ID:sL/Pk4Pt0270人間七七四年
2011/12/05(月) 15:32:11.74ID:S9FLHYTa0271人間七七四年
2011/12/05(月) 16:54:53.43ID:lYwXcLlzノブノブ「帰れ」
0272人間七七四年
2011/12/05(月) 17:30:30.00ID:H6uAUB+S0273人間七七四年
2011/12/05(月) 17:52:46.13ID:1+cbvCbR0274人間七七四年
2011/12/05(月) 19:44:41.63ID:JOBH8xuc史実だと軍装を赤で揃えてたの?
武田からは赤備えに関して承認もらってないだろうし
0275人間七七四年
2011/12/05(月) 19:58:57.09ID:gCQ2o7ynしてない。というか大坂の陣の真田信繁にいたっては六文銭の旗印も使っていない。
なのになぜか、難波戦記の成立時点で赤備えに六文銭の旗印の部隊として描かれている。
そのあたりどうしてそうなったのかは、本当に謎。
0276人間七七四年
2011/12/05(月) 20:06:33.13ID:JVs6qIKD六文銭の由来とか厨二ゴコロを揺さぶるだろ。
0277人間七七四年
2011/12/05(月) 20:53:08.99ID:hzbUjkLphttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5369.html
島津義弘が大阪城に入る気満々っておい、とみんなつっこんでたが
島津義弘って大阪城入りしてたんだな
http://ja.wikipedia.org/wiki/島津義弘 (播磨家)
0278人間七七四年
2011/12/05(月) 21:08:04.92ID:NHeN87QQってそれは鬼武蔵軍団の方か
0279人間七七四年
2011/12/05(月) 21:37:35.43ID:JOBH8xucありがとう、何度も立ち塞がるな難波戦記…
色々検索してみたら
翌十日(九日とも)大坂城に入った。この時、「のぼり、指物、具足、兜、ほろ以下、
上下ともに赤一色」だったという(『大坂御陣山口休庵咄』)。
って文が出てきたから後はこの史料について調べてみます
0280人間七七四年
2011/12/05(月) 22:07:52.19ID:CuKtnATTドミニコ会の調査に答えた証言である
『私は、イエズス会の宣教師であるゾーラ休庵殿から呼ばれ、こう言われました。
「御身は知恵のある人であると私は見ている。何も知らぬ百姓たちに、真実の道(本の道)を勧めさせるために、
あえてあなたを呼んだのだ。
あなたの力で、百姓たちをドミニコ会の「ろざりよの組」から脱退するよう働きかけてほしい。」
これに対して私は
「どの派の組であっても、大切なのは信仰そのものではないでしょうか?
私達にとってでうすも御一体であり、ひいです(信仰)も、どの国であっても一つであり、
でうすの御法も一つです。
ですから、皆もでうすの(ドミニコ会の)御名代を信じているのです。」
と、答えました。』
元和6年といえばその前年、今日においてキリシタン52人が磔された. 「元和キリシタン殉教事件」が起こるなど、
キリシタン弾圧が激化していた時期である。そんな中キリシタンの側では、先行のイエズス会と後発の
ドミニコ会・フランシスコ会との間で信者を巡る対立が起こっていた。
そんな状況を示す、ひとつの証言である。
0281人間七七四年
2011/12/05(月) 22:32:37.83ID:hzbUjkLpゾーラ休庵の方は大友休庵宗麟にあやかってつけた、とか?
0282人間七七四年
2011/12/06(火) 03:38:09.23ID:2YRJmLETなんか厨二イケメンのイメージになった
0283人間七七四年
2011/12/06(火) 09:48:50.94ID:PI7Fb2bdというか天道って関東勢の顔がほとんど変わってねえからなw
0284人間七七四年
2011/12/06(火) 12:14:27.85ID:oCp0hRZ/顔が
0285人間七七四年
2011/12/06(火) 13:21:12.76ID:6BUdq+X0こないだ研修旅行で旧黒羽町(現大田原市)にある大関家の菩提寺、大雄寺に行ってきたよ
団体なんであんまり時間取れなかったけど、トゲトゲの柊円にオモダカという家紋がとても派手でした。
もうちょっと時間あればなあ
0287人間七七四年
2011/12/06(火) 22:13:07.18ID:GmiREWqyその土地その土地の都合などを汲むことはなく、例えば
『南は川を境、北は大道を境、東は誰々の所領、西は誰々の所領を限りとして知行を認める』
などと仰せになるのみで、一行の朱印状を出すことすら滅多に無かった。
天下が治まり、国も静まった時代ではありえないやり方であった。
(甫庵太閤記)
信長の時期の、とにかく大雑把に物事を決めていた、その一端が見えてくる話であろう。
0288人間七七四年
2011/12/07(水) 01:29:14.70ID:7FeM26cE0290人間七七四年
2011/12/07(水) 08:47:23.04ID:a0TOFAbU2chの運営もおおざっぱだから毎度毎度みなよくちりぢりにならずに
再び集まれるもんだと感心する
0291人間七七四年
2011/12/07(水) 09:18:21.30ID:68vZ1lmWまぁ、全体で見たら黒印状のほうが圧倒的に多いからな
0294人間七七四年
2011/12/07(水) 19:27:15.43ID:gm/DoPRZ>>275
まとめスレのコメント欄に黒田長政が書かせた大坂の陣図屏風がどうのこうの書かれていたから見たら、
たしかに赤備えだった(ただし旗は六文銭じゃなく赤く染められてた)
これもNGMSの厨二ゴコロが揺さぶられた結果か
0297人間七七四年
2011/12/07(水) 20:03:59.20ID:yoYsgjjgその赤備えの先頭で弓を射っている足軽の具足に
「井」の字がある気がするのだけど真田隊だったのか
夏の陣では留守居を務めた武将なども描かれているみたいだな
0299人間七七四年
2011/12/07(水) 20:38:10.48ID:gm/DoPRZもしや、赤備え=真田ってことで勝手に真田隊にされている可能性もあるのか
0301人間七七四年
2011/12/08(木) 07:12:35.51ID:TwIMDtt7なんかまた洋ゲーで戦国ものが出るみたいだな
あっちでブームにでもなってんのか?
今度はどんなとんでもやらかしてくれるのやら
0302人間七七四年
2011/12/08(木) 10:15:04.42ID:TkDtqhVJならとっくに出てるよ
日本語版が出るみたいだけど訳が呆れるレベルらしいが
0303人間七七四年
2011/12/08(木) 14:37:25.80ID:pVVJsOm1井伊隊は全然赤備えに描かれてないからw
長政生存時でさえそんなイメージなかったんだろうね
井伊の赤備えは後世の脚色かもな
同様に武田の合戦屏風飯富隊山県隊も赤備えじゃねえから
これも講談の脚色だろうね
0304人間七七四年
2011/12/08(木) 14:37:59.00ID:OyTgrDTwGoogleで真田昌幸と真田信之をそれぞれ調べると欝になれるよ。
0305人間七七四年
2011/12/08(木) 15:03:31.27ID:SH2G7sDo「ワシの死はすぐそこまで迫っている。ワシが死んだ後、天下はすぐに乱れるだろう。
これを鎮められる者は君のほかにはいないと思う。
天下の事は全て君に譲る。
我が子・秀頼が成長して天下の事を取り仕切れるようになった後は、どのようにでも君の思う通りにしてほしい」
家康公は涙を流し、
「私のような非才の身でどうして天下の事を治められるでしょうか。そのような重責を受けることはできません。
殿下がお亡くなりになった後も秀頼君がいらっしゃるのですから、誰も後ろめたい心を抱く者などおりません。
とはいえ、人の心は測りがたいものです。
後世の為、深くお考えになって遺言をされるべきです」
と、再三に渡って辞退した。
家康公が辞退されたため、秀吉は心が落ち着かず、
「ならば秀頼が幼いうちは君が政務を行い、前田利家が秀頼を守役として後見してくれ」
と遺言した。
八月十八日に秀吉が亡くなると、家康公が伏見城で政治を行うようになったので、
人々は「天下の主はこの人である」と思い、家康公に従った。
石田三成ら奉行たちはこれが気に入らず、非常に嫉妬し、どうにかして家康公を陥れようと密かに考えていた。
著者注
(天下を自分の子に与えず他人に讓った例は、中国の堯舜の後には、蜀の劉備が子の劉禪を諸葛亮に託して
「輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべし」と言ったのが最後だとされているが、
秀吉が家康公に子を託せられ、天下を譲ろうとしたのは、劉備が諸葛亮にした事と同じである。
あと、「それなのに秀吉が石田・搏cなどの言葉に惑わされ、遺言を変えたのは惜しい事だ」と言う人がいるが、
この2つの話は似ているようでいて違う。
秀吉の生涯は表向きは大らかで快活だったが、実際は謀略ばかりであった。
ゆえに石田のような奸臣が秀吉の腹臣となって、彼の機嫌を取ることができたのだ。
秀吉は石田たちの話に惑わされて心を変えたのではないのである。
しかしながら家康公は常に先見の明があったので、秀吉のこの死に際の謀略に陥れられることはなかった。)
以前だれかが言っていた林羅山の説?ですが、このように徳川実紀にもしっかりと受け継がれています。
0308人間七七四年
2011/12/08(木) 18:09:52.29ID:ps204bLX文化6年(1809年)から始まった事業でもあるので、そのあたりもきちんと頭に入れて読むべきだろう。
0309人間七七四年
2011/12/08(木) 18:26:02.59ID:6evRfFc10310人間七七四年
2011/12/08(木) 19:16:40.99ID:DY1EBI9O0312人間七七四年
2011/12/09(金) 15:48:47.04ID:n1OK47/dという掟があって孝行息子が山に婆様捨ててきたけど隣国に難題だされた
殿様をその婆様の知恵で救うって年寄りは、いい知恵いっぱい知っているから、
決して粗末にするものではないぞ。と改心させた話だけど
この御触れだした豪族って誰よ?
0313人間七七四年
2011/12/09(金) 16:00:32.72ID:oYnDoZ4Fつーか民俗学板の方が適切だ
0314人間七七四年
2011/12/09(金) 16:42:19.52ID:Qil5snyk0315人間七七四年
2011/12/09(金) 19:22:08.33ID:eahOXBEZ0316人間七七四年
2011/12/09(金) 20:39:20.20ID:yC6dNwwbて、言ったのが犬公方さま?
0317人間七七四年
2011/12/09(金) 22:43:07.48ID:ov9dKglr0318人間七七四年
2011/12/09(金) 22:49:54.72ID:sLnhqM9C二十四孝にも親の食事を確保するために幼い息子を山に埋める話があるし
0319人間七七四年
2011/12/09(金) 23:05:09.53ID:vxDYB1cY0320人間七七四年
2011/12/09(金) 23:09:34.92ID:sLnhqM9C→しかし親は孫がかわいいから、孫にほとんどあげてしまう
→このままじゃ親が餓死すると思って孫(夫婦の子供)を埋めることに決める
→埋めるための穴を掘ってると金がでてきてめでたしめでたし
0321人間七七四年
2011/12/10(土) 00:14:26.40ID:+b9WMFoa> 87 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/09(金) 21:52:35.70 ID:Xw/UPtzD
> 水野勝成の弟
> 水野 忠胤
> 水野忠重の次男として生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
> 兄の水野勝成と共に東軍に与して美濃曽根の砦の守備や大垣城攻めで功績を挙げた。
> このため、三河国内で1万石を与えられた(与えられた年は恩栄録によると関ヶ原の
> 直後と思われる)。
> こうして大名として三河水野藩(藩庁所在地などは不詳とされる)を立藩する。
> その後、従五位下・市正に叙位・任官し、大番頭に任じられた
> (ただし、柳営補任には大番頭になったと記されていない)。
> 慶長14年(1609年)9月29日(徳川実紀では9月1日)、
> 遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いていたが、
> 忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁
> (もしくは武道)の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで
> 及んでしまったのである。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
> 逆にその仲裁に切れてしまった左平次が、よりにもよって忠頼を殺害してしまったのである。
> さらに徳川実紀では、忠胤が伏見城番を務めていたとき、配下の番士による悪行を取り締まれなかったこともあったという。
> これらの理由から、10月16日に忠胤は家康より切腹を命じられた。同時に三河水野藩も改易された。
> 子の水野勝信は正室との間に生まれ、兄の勝成に引き取られて養子となり、後に徳川忠長に仕えた。
0322人間七七四年
2011/12/10(土) 01:01:14.90ID:1TDr5i3J0323人間七七四年
2011/12/10(土) 01:23:20.63ID:MLlvCnhk0324人間七七四年
2011/12/10(土) 03:18:09.40ID:WbwlfvNm0325人間七七四年
2011/12/10(土) 14:33:15.20ID:CCRUn55p617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/09(金) 20:44:52.23 ID:iZwvPy1k
鬼武蔵パワプロ参戦おめでとう
http://www.4gamer.net/games/142/G014242/20111209069/screenshot.html?num=008
0326人間七七四年
2011/12/10(土) 16:26:26.77ID:iLCBT2ID3番手リリーフとは140kmそこそこで後はカーブくらいかな
でも入っているだけでもイイ話かな
0327人間七七四年
2011/12/10(土) 20:36:22.29ID:B6SHwjlN0328人間七七四年
2011/12/11(日) 01:53:37.52ID:wYv4jC6C家康も三河の職人たちを多勢上京させた
そんなある日、家康の分担の工事現場に秀吉が巡視に回ってきた
秀吉は普請を眺めながら
「三河者は普請下手と聞いていたが、なかなかどうして立派なものだ」
と褒めた
従来からの評判では、三河者は実用一点張りの仕事しか出来ない
上方風の優雅な趣のある仕事は無理だとされていたのである
しかし現場の作業員たちは、秀吉に褒められて有頂天になり、一生懸命精を出して良い仕事をした
その後、この事を知った家康は、憮然とした表情でこう言った
「秀吉公に上手く使われたのだ 三河者は普請下手という評判をとっているのなら
そのように下手な仕事をしてくれれば良かったのに つまらぬおだてにのったもんだ」
家康は普請下手という世評を利用して、作事・使役の負担を少しでも軽くしたかったのである
0329人間七七四年
2011/12/11(日) 02:15:03.85ID:KL6t9wu80330人間七七四年
2011/12/11(日) 07:59:50.43ID:yV8I+X8Q0331人間七七四年
2011/12/11(日) 08:57:56.11ID:2YfDcBV+問題ないんじゃないか?逆になにかにつけてこういうこと続けてたら
秀吉に疑心を抱かれて小田原の陣後あたりに因縁つけられて改易もあったかもしれん
0332人間七七四年
2011/12/11(日) 09:08:06.55ID:BJyB1i3m0333人間七七四年
2011/12/11(日) 09:47:31.15ID:AfvHdsZ30334人間七七四年
2011/12/11(日) 10:04:36.62ID:qkAE3Xdd0335人間七七四年
2011/12/11(日) 10:45:45.25ID:IhobQfa8しょうもないことで褒められても、利用されたとしか感じないってことだよな
0338人間七七四年
2011/12/11(日) 17:46:34.86ID:IEvddEL90339人間七七四年
2011/12/11(日) 18:59:35.57ID:mlAEm7Xr0341人間七七四年
2011/12/12(月) 00:13:47.34ID:LVYOB98fWikipediaの丸写しだが勝成のもう1人の弟もかなりのもんだ
水野忠清(天正10年(1582年) - 正保4年5月28日(1647年6月30日))は、江戸時代前期の大名。
上野国小幡藩主、三河国刈谷藩主、三河国吉田藩主、信濃国松本藩初代藩主。沼津藩水野家初代。
水野宗家19代で三河刈谷を領した水野忠重の四男。備後福山藩初代藩主水野勝成の弟。正室は前田利家の娘。
子は水野忠次(長男、早世)、娘(京極高三正室)、娘(山内忠直正室)、水野忠職(次男)、娘(土方氏久正室)、
祖活(僧となる)、水野忠増(四男)、娘(有馬康純正室)、娘(菅沼定実正室)、水野忠顕(五男、水野忠貞養子)。
三河国刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、
忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。同7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、
同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。同10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、また奏者番を兼ねた。
慶長19年(1614年)からの大坂の役では冬、夏の両陣とも参戦し、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。
この際青山忠俊と行賞をめぐって争い、謹慎を命じられたが、翌2年徳川家康死去の寸前に謹慎を解かれ、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、
三河刈谷に移封された。
寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封され、
同19年1642年には信濃松本7万石に加増移封された。正保4年、江戸にて死去。享年66。
法号:真珠院郭誉全忠。墓所:東京都文京区小石川の伝通院。
0342人間七七四年
2011/12/12(月) 00:34:36.24ID:HZh4fW9Fせめて簡略に書くとかしてくれ
0343人間七七四年
2011/12/12(月) 03:35:48.58ID:3doaVf8q秀吉の遺児である秀頼のいた大阪城での茶の湯に招かれた。茶会では、豊臣家重臣であった
加藤清正が秀吉に献上した茶器が使われ、出席者は秀吉や清正に敬意を表すようにこの茶器を押し頂くのが
決まり事になっていたのだが、織部はそれに従わなかった。この様子を笑って見ていたという有楽斎は
茶会が終わった後、織部に
「くつろぎなされ。」
と枕を差し出して二人で座敷に寝転がり、側仕えの者に点てさせた茶を寝ながらに飲むという
無礼講を行ったという。 以上、微妙ですけど織部を注意しなかった有楽斎の悪い話。
0344人間七七四年
2011/12/12(月) 09:26:42.72ID:z2fdKoS5秀吉が生きてた頃はともかく、秀吉死後なら「秀吉や清正に敬意を表すようにこの茶器を押し頂く」とかアホらしかったんだろ
0345人間七七四年
2011/12/12(月) 11:52:42.60ID:W2D1de8V織部の弟子の誰かによるものだったのかな。
有楽斎が招いた茶会というのなら笑い話だけど
0346人間七七四年
2011/12/12(月) 12:37:24.13ID:JLg7dFG3「そのあと有楽さんも一緒に寝転んでお茶飲んだんだってさ」ってなると
「ほんとマジあの二人子供だわーやんちゃで困るわー(笑)」ってなるじゃん?
ちょっとトンガリすぎた織部をフォローした有楽さんナイスじゃん?
0347人間七七四年
2011/12/12(月) 14:05:58.79ID:W2D1de8V0348人間七七四年
2011/12/12(月) 14:35:51.90ID:HZh4fW9F0349人間七七四年
2011/12/12(月) 15:01:05.75ID:Tb798F9g0350人間七七四年
2011/12/12(月) 16:10:37.32ID:HZh4fW9F0351人間七七四年
2011/12/12(月) 19:06:19.58ID:UwRNiIUM単純に、茶にそういう無粋を持ち込むなよってことだったのだろうか?
間違いなく奇人変人に分類される人だけにやる事が意味分からん。
0352人間七七四年
2011/12/12(月) 20:41:21.27ID:ym+8L/Tghttp://s1.shard.jp/deer/0202/8/183_2.html
日本は、戦争から相撲・野球まで何でも八百長。
問題は、生まれた時から八百長を「正義」と教えられて大人になる多くの、
「気持ちの悪い」日本人がいることだ。
もちろん、こいつらは、天皇・徳川一族の下部組織の者たちで、
多くは、伊賀・甲賀などの多くの流派に分かれた現代版忍者部隊だ。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
0353人間七七四年
2011/12/12(月) 22:25:05.00ID:a1kIEFNxこの逸話は何年に起きたものという事になってるのかね?
関が原前なのか後なのかで見方が違ってくる気がする
0354人間七七四年
2011/12/12(月) 22:34:33.69ID:eBOElI7u関が原後
というかガイシュツの話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4303.html
0355人間七七四年
2011/12/12(月) 23:05:40.32ID:nKoG+jpl出典が違うのかね?
まとめに在る方だと織部がパニクってどんがらした話だし、
今度のはわざと秀吉や清正に敬意を払わなかった話だよね?
0356人間七七四年
2011/12/12(月) 23:14:28.64ID:a1kIEFNxthx、1607年の事か
つったらもう(表向きは秀頼が主君だが)徳川の天下状態
それもこれも自分も含めた皆が東軍についた結果
今更「秀吉の忠臣清正の〜」とか何か薄ら寒くね?
とか感じた結果だったりとか
まぁ勝手な想像だが
0357人間七七四年
2011/12/13(火) 17:14:43.61ID:+PBxE3k2谷地という在所から報告が入った。上杉方の兵、下次右衛門が直江の軍の撤退を知らずに、田川郡の
古城に立てこもり、一揆を起こす構えを見せている、というのだ。
義光への注進は、直ちに大軍を出し攻め討つべきだと言ってきたが、義光はこれを考えた
「下次右衛門は小身であるといっても、武勇の聞こえある侍である。
特に田川郡をその本国であると聞いている。ここは調略を持って彼を味方にし、次の作戦である
庄内平定の案内者とするべきではないか。」
そこで家臣の志村伊豆を呼び、この旨を申し聞かせると、志村は急ぎ谷地の郷へと向かい
近隣の兵を集め、下次右衛門の籠もる城を二重三重に囲み、今にも攻めるような形に見せた上で、夜に入ると
密使を送った。そして次右衛門にこう伝える
『今度上杉殿一味の諸大名、濃州関ヶ原の一戦に利を失い、とごとく退散しました。
この事は直江山城守も聞き届け、一昨日諸軍を集め、会津へと引き返した。
そういう状況であるのですから、貴殿一人が義を守り当城にて討ち死にされても、上杉殿にとっても
もはやなんの意味もない行為です。
ここは急ぎ状況をお考えになり、最上殿に降参をしそこで忠義を成されれば、本領の他にも新恩を与えられるでしょう。』
これに下次右衛門は驚愕した。なにしろ西軍の敗北も直江の撤退も、この時初めて知ったのだ。
そしてこれが事実かどうかも含めて判断するため、一門衆を集めて協議を行った。
しかし一門衆の主張は様々で議論は全くまとまらない。
と、そんな時末座より、下美作という者が進みでてこう進言した
「(志村)伊豆守殿が申し越されたように、関西の諸将が関ヶ原で敗軍されたというのなら、いくらこの城で
忠死したところで、もはや景勝公のご本意に叶うものではありません。
その上直江が軍勢を引き退いたこと、これは最上軍の動きを見ても確かなことでしょう。
そして我々は、直江からこの事の連絡を一言も受けず、敵国中に捨て置かれてしまったのです!
これについての遺恨は甚だしいと言わざるを得ません!
ここは志村伊豆守殿の申されるように、最上殿に降参してその下で忠義に励めば、必ず恩賞に預かることが
出来るでしょう!」
そのように憚りもなく主張すると、その場の者たちも「それは尤もである」と評議定まり、翌日城を明け渡して降参した。
志村伊豆守は大いに喜び、下次右衛門とその一門を残らず連れて山形に帰り義光に披露した。
これに義光も大いに満足し、下次右衛門に対し、
「今度の庄内平定で先陣をし忠義を励ますにおいては、田川郡残らず知行させるであろう」
と直ぐ様申し渡した。これに次右衛門を始め下一門、大いに喜んだとのことである。
(最上出羽守義満物語)
最終的にはいい話ではありますが、危うく全滅しかかった直江兼続に置いていかれた人たちについての、一つのお話。
0358人間七七四年
2011/12/13(火) 17:27:56.52ID:iULEu6ra志村さんと下さんて、この後義光の元で揃って庄内の発展に尽力して行ってるんだよね
この機会に仲良くなったのかな
0359人間七七四年
2011/12/13(火) 21:31:24.26ID:snIQ3r1l鎌倉時代が臭う気がするが
0360人間七七四年
2011/12/13(火) 22:19:33.05ID:RzBjwDEb下よりも直江本隊から遠くに離れていた別働隊は
ちゃんと連絡受けて引き上げてるのに
なんで下だけ取り残されてんだろうな…
使者が途中で最上軍に捕まって討たれたのかね
0361人間七七四年
2011/12/13(火) 22:57:37.84ID:HKu1QnfG義光の死後、家親の家督相続に反対する
一栗兵部に襲撃され、志村光清と共に横死を遂げている。
最後は悪い話でした。
0362人間七七四年
2011/12/13(火) 23:32:05.35ID:iULEu6raそういう結果を持ってくるのなら
他の人のいい話逸話、全員悪い話にならね?w ここ悪い話スレだけど
0363人間七七四年
2011/12/14(水) 00:24:39.61ID:KFZvbq39下 次右衛門なのか
時々どこで区切ればいいのか分からなくなる時があるわ
0365人間七七四年
2011/12/14(水) 19:55:59.99ID:FnjctcNQ0366人間七七四年
2011/12/14(水) 21:28:20.93ID:lVSX/NGI0367人間七七四年
2011/12/14(水) 21:46:44.18ID:KFZvbq39貴久お父さんはあまり話題に上がらないね
0369人間七七四年
2011/12/14(水) 22:27:47.98ID:Hval1J370370人間七七四年
2011/12/14(水) 22:52:45.65ID:raBVvVqP0371人間七七四年
2011/12/14(水) 23:31:51.38ID:nVmmy64D0372人間七七四年
2011/12/14(水) 23:59:32.03ID:z+xf2Lcwニュアンス的に猛将は猛々しいだけで馬鹿もいるイメージ
豪将というのが使われるのは基本猛将タイプだが、もうちょっと知性とか華があるイメージ
張飛と関羽ぐらいの差と言うか
0373人間七七四年
2011/12/15(木) 00:06:34.88ID:22tphwEH0374人間七七四年
2011/12/15(木) 00:32:05.54ID:d/0zWgeS0375人間七七四年
2011/12/15(木) 00:39:30.86ID:Q65IrC97まあ、関羽も張飛も基本脳筋だからなあ
0376人間七七四年
2011/12/15(木) 22:44:00.33ID:k1M5pya0「戯言養気集」にこんなのが
羽柴秀次公の父、武蔵守(三好吉房)殿は、髭に一段と自信があった。
十人ほどが髭を見にきて「なんと見事なお髭でしょう。日本ではとうてい見つかりません。
きっと唐物でございましょう」といったところ、大変ご満悦であった。
皆が帰った後、武蔵守はその中で特に仲のよいものを呼び戻し、
「この髭は実は日本のものなのだ、ただし他言無用だぞ」
とねんごろに語ったそうである。
0377人間七七四年
2011/12/15(木) 22:50:10.18ID:LYjS0cQRこれは江戸初期の、安楽庵策伝師匠の醒睡笑にも載ってるな。
どうもどう時代から、よほど有名な笑い話だったらしいw
0378人間七七四年
2011/12/15(木) 22:54:32.97ID:k1M5pya0「醒睡笑」では三好吉房に遠慮してか「大名」とだけのってて
「軽口福おかし」では宗祇の逸話になってるとか
0379人間七七四年
2011/12/16(金) 00:25:05.34ID:VHtBRGng0380人間七七四年
2011/12/16(金) 00:39:33.18ID:WbSURjn2http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/news/1323952917/
0381人間七七四年
2011/12/16(金) 10:34:02.82ID:wesfJ1Dm将軍親征による大軍を前に、六角氏の居城・観音寺城はすぐに落ちたが、肝心の高頼は甲賀の土豪・望月氏を頼り
近江・甲賀各地を転々として抵抗を続け、そのうち足取りがつかめなくなった。
「高頼め、しぶといの。しかし根無し草の先など見えておる。残る六角残党も大した事は無し。つまらぬ・・・」
まだ23歳の義尚は長陣に飽きてしまい、参陣した諸大名に追討を任せると、近江鈎(まがり)に構えた陣屋を
御所まがいの邸宅に建て直して『真宝館』と名づけ、昼は連歌の会や犬追物を催し、夜は夜とて白拍子を呼び寄せ
毎夜のように酒宴を開き、連日遊興にふけるようになった。
諸大名は将軍の体たらくにあきれ果て、一人また一人と理由を構えては帰国して行ってしまい、
残ったのは加賀守護・富樫政親と、数人の小名を数えるのみとなった。
その政親も領内不安により加賀へ帰国すると、『真宝館』では不審火が続くようになった。
義尚は警備を強化させたが12月20日、吹雪の深夜、突如として館は謎の煙に包まれた。
「な、何事じゃ?!・・・・・・ぐわっ!!」
折からの吹雪に油断していた警固の侍たちは、いつの間にやら侵入していた何者かによって、次々に討ち取られた。
六角高頼に雇われた、望月出雲守率いる甲賀忍びによる奇襲である。
ようやく異常事態に気づいた奉公衆が館へ駆けつけたが、これを察した忍びたちは、さっさと撤収して行った。
義尚は一命を取り留めたものの、さんざんに斬りつけられ、重症を負った。
そのまま養生に専念すれば回復したかもしれない義尚だが、内大臣・三条西実隆に
『平生、一向に御食事なく専ら水酒淫乱の事』とまで書かれた義尚は酒を断てず、傷を癒すことが出来ぬまま
長享3年(1489)3月、25歳の若さで陣没した。(応仁後記他より)
SHOGUNがNINJAのサプライズアタックが元で命を落とした、むしろ海外の方にウケそうな話。
0382人間七七四年
2011/12/16(金) 12:50:57.41ID:Zu/rN1pW0383人間七七四年
2011/12/16(金) 13:58:00.90ID:QP9RtIBV0384人間七七四年
2011/12/16(金) 14:12:22.17ID:5yrZj1Ub0385人間七七四年
2011/12/16(金) 14:23:41.35ID:umVjU9QU『なき名ぞと 人には言いて ありぬべし 心の問はば いかが答えむ』
って古歌がでてきてたんだが、今の政治家に詠ませてやりたいと心底思った
0386人間七七四年
2011/12/16(金) 18:23:04.34ID:HtopNvdw(まとめサイトでも一つしか確認できなかったから、かぶってないはず)
曲直瀬道三の医学の講義を、毎朝百人ほどが聴講していた。
十代後半の人が多いのを里村紹巴が見て、涙ぐんだ。
↓その後の道三と紹巴の対話
紹巴「やれやれ、そなたの門弟には二十にもならないものが多い。なんと嘆かわしい」
道三「何を言われる、近頃の若い者が優秀である証拠ではないか」
紹巴「いや、そうではない。あんなに若いものが何人の人間を薬を盛って殺すかと考えてみると
おそろしくて泣けてくる」
道三「ふーん、そう言われると連歌師は羨ましい。
そなたのような達人でも、連歌で人は殺した話は聞かんからな」
0387人間七七四年
2011/12/16(金) 18:25:46.25ID:HtopNvdw「すみません、精力の落ちる薬をたくさんくださいませんか」
と言ってきたので、道三は
「はて、見た目とは逆なことを言いますな」
とおっしゃったところ、男は
「いいえ、女房たちに食わせます」
と答えたそうだ
ただしこの話は同時代の「きのふはけふの物語」では竹田法眼の話になっていて、
「醒睡笑」その他にも曲直瀬道三の名こそ出てないが、収録されている話しらしい
0388人間七七四年
2011/12/16(金) 18:38:58.89ID:8hQi/I4Zあと紹巴さん深読みしすぎじゃね? こういう人だったっけ
0389人間七七四年
2011/12/16(金) 18:41:29.32ID:HtopNvdw(他にも信長関連、秀吉関連あるが、いいとか悪いとか判断できないものが多い)
あと、紹巴さんは単に嫌味をいっただけだと
0390人間七七四年
2011/12/16(金) 19:24:34.03ID:2SRqDEQu; | ノ||||||| ヽ `
, / ● ● |
;, | \( _●_) / ミ
; 彡、 | |∪| |、\ , すみません、精力の落ちる薬をたくさんくださいませんか
./ ヽノ/´> ) :
(_ニニ> / (/ ;
; | | ;
' \ ヽ/ / :
, / /\\ .
; し’ ' `| | ;
⌒
0391人間七七四年
2011/12/16(金) 20:57:22.08ID:YHtZasbp天正八年春に貞安(安土宗論の浄土宗代表)が安土城に出仕したところ、信長公がこう尋ねた。
「世間では小稚児を利口、大稚児を愚かという。しかし大稚児も元々小稚児なのだから、
小さい時利口なら、成長するとますます利発になるはずではないか、おかしなことだ」
と仰せであった。
貞安「ごもっともですが、おそらく成長すると性欲が増すからではございませんか」
また、嵯峨の策彦和尚(禅宗)にも同じ事を尋ねたところ、和尚が
「愚僧もさように心得ます。おそらく小さい時はまだ里心があるゆえ、武家にいた頃の利発、才覚を
知らず知らずのうちに身につけているからでしょう。寺に馴染むと禅僧のぬるい立ち振る舞いに慣れてしまう故、
自然と劣ってくると思われます。」
と答えたため、信長公は大変ご満悦で、
「なるほどもっともだ、出家にもそれぞれの宗の家風がある」と評した後、
・佐久間の家風はしとやかで分別もありそうだ
・滝川の家風は士風綺羅よく、しっかりしてそうだ
・柴田の家風は、無理やり押し破りそうだ
とかく人というものは、利口になれねばなかなか長所はでてこないものである。
また、その国風、その時の風潮、というものに影響されるものだ
とおっしゃった。
ところで解説に「禅僧には武家の出が多い」と書いてあるのには納得できたが、
「浄土宗は妻帯できるので、しぜん性欲にとらわれる」とあって、
浄土真宗でなくて浄土宗でも妻帯できるの?と疑問に思った
0392人間七七四年
2011/12/16(金) 23:14:27.90ID:EX2JaxE1長所なん?
0393人間七七四年
2011/12/16(金) 23:30:46.40ID:8hQi/I4Z『葵徳川三代』で、家康が側室達に
「私達にもお種をくださいませ〜」って迫られてるシーン思い出した
0394人間七七四年
2011/12/16(金) 23:41:26.38ID:BmTSrJNu長所でもあり、短所でもある
長所ってのはそもそも完全無欠なものじゃない
ある局面で役に立てば長所だけど、その長所はある局面では全く役に立たず短所になりうる
トップはそれを踏まえたうえで適材適所を心がければいいだけの話
0395人間七七四年
2011/12/16(金) 23:44:39.30ID:YHtZasbpこの間、何があったんだろうと考えると悪い話でいいか
0396人間七七四年
2011/12/17(土) 01:13:04.18ID:+RHK02k/江戸期の佐久間家の記録だと「明智光秀に讒言された」ということになってるな。
何でも悪いことは光秀の押し付けた、とも考えられるが、佐久間信盛追放後、その畿内軍団が光秀に任せられた
ところを見ても、なんか関わっていたのだとは思うw
0397人間七七四年
2011/12/17(土) 01:15:09.39ID:fVeDDd9R0398人間七七四年
2011/12/17(土) 12:16:09.52ID:ppfLqZh20399人間七七四年
2011/12/17(土) 12:59:12.08ID:AT7G0m4r0400人間七七四年
2011/12/17(土) 20:16:29.26ID:ST1/3qCL0401人間七七四年
2011/12/17(土) 20:17:00.87ID:ZoC3icEv勝政「佐久間一族の」
勝之「恥曝しだな」
盛政「そうだそうだ」
0403人間七七四年
2011/12/17(土) 21:39:14.81ID:3DFjjHzu0405人間七七四年
2011/12/18(日) 03:35:11.46ID:prH6312Cこの時吉晴の役目は後方で軍勢の動きを監督する事だったのだが・・・
「俺だって前線に出て武功を立てたい!だが軍議に出席してしまうと、立場上そこで決まった
配置に従わなきゃならんし、先陣争いも出来なくなる・・・」
そこで吉晴は考えた。
「だったら軍議を仮病で欠席すればいいじゃないか!」と。
そしてその翌日には先陣に決まっていた蒲生氏郷に先んじて九戸城に出撃した。迎え撃つ敵を
次々と討ち取り、九戸軍を追い詰めた吉晴は
「決死の覚悟をした者を攻めれば味方の被害もばかにならんな・・・」
と考え、
「本丸を明け渡せば命は助ける。」
と降伏を勧告した。
城兵がこの言葉を信じ本丸を明け渡すと
「城は手に入った。お前らにもう用は無いわ!」
とばかりに全員処刑したという。 「太閤記」より仏の茂助さんのちょっと悪い話。
ちなみに、吉晴より処刑した兵の首を届けられた秀吉は
「さすがは吉晴!お前こそ日本無双の剛の者よ!」
と吉晴を賞賛したという。
0406人間七七四年
2011/12/18(日) 04:25:29.15ID:8efod3Ub0407人間七七四年
2011/12/18(日) 06:09:58.84ID:9g4rH4p80409人間七七四年
2011/12/18(日) 10:05:03.96ID:Sl3FZuBx0410人間七七四年
2011/12/18(日) 10:43:16.16ID:GANuv98i「ポケモン+信長の野望」
ttp://www.pokemon.co.jp/ex/ranse/
0415人間七七四年
2011/12/18(日) 14:09:32.17ID:7NMiqQFQ0416人間七七四年
2011/12/18(日) 14:39:12.65ID:YRbJAlzd0417人間七七四年
2011/12/18(日) 15:04:54.25ID:IEnHNs4V0418人間七七四年
2011/12/18(日) 16:13:58.78ID:Vqpd61fO当然ながら敵国のポケモンにボールなげてもいいよな?
0420人間七七四年
2011/12/18(日) 17:14:36.75ID:sbrDaDwDある夜、秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ、細川幽斎が
「うすずみに つくれるまゆの そばがほを よくよくみれば みかとなりけり」
(「うすずみ」は蕎麦掻きの女房詞、「そばがほ」は横顔と蕎麦がきの外見を掛け、
「みかと」は帝と、蕎麦の異称の三稜(みかど)を掛け、蕎麦がきが三日続いた、を掛けている
秀吉を帝になぞらえて蕎麦づくしで機嫌をとったらしい)
とうたったため、秀吉はことのほか機嫌がよくなった
このとき蜂屋頼隆がちょうどいい頃合いと思い、検地について反対するのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-992.html
ですでに出ているので後半は省略
0421人間七七四年
2011/12/18(日) 17:45:12.31ID:Nx9FJios0422人間七七四年
2011/12/18(日) 20:42:16.08ID:Nx9FJios既出だったらごめんなさい
キリシタン武将“ジアン”
既に敵地となった日向に入った豊後の王の3人の将軍は、立磐大明神と呼ばれた立派な神殿にやってきました。
軍勢の中には“ジアン”以外にはキリシタンはいませんでしたから、他の2将軍と身分の高い人々は神殿の前で下馬し、
カミに矢を供え、自分たちに勝利を与えてくれるよう誓詞を供えました。
彼らは、尊敬と畏敬の念をこめて祭壇にそれを置きました。
祭壇にはカミに捧げられた2、3個の容器があり、それは神職であっても俗事には使ってはならないものでした。
“ジアン”は神を信頼し、ここにいる大勢の異教徒の怒りを恐れずに、祭壇まで馬で乗り入れ、
「ここに俺の食事を持ってこい。あのカミに捧げた器でな。」と命じました。
食べ終わると、それを洗わせ、「金属だから割れなくて都合がいい」と戦場で使うために持ち出しました。
彼はまた、人々がカミに捧げたものを集めさせて、それらを取り除くよう命じました。
さらに同行の2人の将軍に対し、「この神殿を焼き払わないと進めない」と言い出しました。
他の将軍たちはカミを恐れ敬うあまり、「このような華麗な建物を国に持つことは王と王子の名誉であるし、
王と王子がこの地に陣営を置かれる際の宿舎として最適だ」と言いました。
これに対し“ジアン”は、「王の命令(日向の寺社を破却する)にはどんな神殿も除外されない。また、我々は敵地にいる。
敵があの建物を使用することも考えられるであろう」と言い、直ちに放火するよう命じました。
川の対岸には約1000人の人がいました。彼らは神殿が焼け落ちるのを見て地面に平伏しました。
そしてカミに別れを告げ、カミに侮辱を与えた人々を罰するよう祈りました。
0423人間七七四年
2011/12/18(日) 22:03:58.89ID:d4f0VdIO2つに分裂していた下野の那須家が併合されて初の当主となった那須政資が悪戦苦闘しながらも何とか国衆の調整をし、ようやく家政も安定し始めた頃の話。
政資にとって懸念材料だったのは権限が肥大化しすぎた重臣、大関宗増の存在であった。
宗増は資房の嫡子、那須高資の傅役として早くも次期当主一の腹心といった立場をキープしており、高資に家督を譲れば今以上の権力を握るのは明白であった。
天文8年(1538年)の軍議でついに政房と高資と宗増の対立が表面化する。
「宇都宮尚綱と同盟すべき」という政房と「宇都宮を叩き、小山高朝・結城政勝兄弟と同盟すべきだ」という高資の主張は真っ向から対立した。
結局の所、大御所那須政房(政資父)や伊王野資勝らが現当主政資の意見に賛同し政資が押し切った形となったが高資と宗増は大いに不満を持った。
そこで大関宗増は政資を当主の座から引き釣り下ろす策を考えて高資を唆し、高資もまたその策に乗った。
天文9年(1539年)9月、政資が留守にした隙に白旗城の大関宗増が挙兵。高資がその兵を那須家の本拠である烏山城内に引き入れ、立て籠もった。
この反逆に政房は怒り、直ちに討伐軍を編成。宇都宮尚綱・佐竹義篤・小田政治らにも援軍を頼み烏山城を攻めた。
一方で高資に味方した軍勢はごく僅か。頼みにする所は難攻不落の烏山城の防御力のみといった感じであった。
だがこの烏山城の防御力が並大抵ではなかった。6ヶ月間攻めたが城内に兵が入ることすらない鉄壁ぶりで連合軍も途方にくれた。
ついには高資が同盟した小山・結城軍が宇都宮・佐竹・小田の領地を荒らし始めたのでたまらない。
佐竹義篤は「もう和睦した方がいい」と政資に告げると帰ってしまい、宇都宮や小田もまた領国へ引き上げていった。
連合しても落ちなかった城が政資の用意できる兵で落ちる訳も無く、業腹ではあるが政資の方から和議を申し入れた。
応じた宗増はといえば強気に「那須政資が高資に家督を譲る事」に加えてついでに政敵である「伊王野資勝の引退」を和睦の条件に出した。
烏山城を占拠されたままではどうしようもなく、那須政資は高資に家督を移譲し、伊王野資勝も息子に家督を譲って隠居せざるを得なかった。
0424人間七七四年
2011/12/18(日) 22:21:15.37ID:SW5zeGpP0425人間七七四年
2011/12/18(日) 22:28:08.58ID:a1PAMBG4烏山城は城下が燃えた事ぐらいは有るが城内に侵入された事は一度(一人が潜入したが即斬られる)しかないらしい。
0428人間七七四年
2011/12/19(月) 00:07:10.27ID:COksL3Od0429人間七七四年
2011/12/19(月) 11:01:59.41ID:538nwExj0431人間七七四年
2011/12/19(月) 16:53:45.55ID:9kWdCq8b> 24 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 11:16:46.01 0
> >占星術から天文学への移行
> >彗星に対する畏怖
>
> 松永弾正(まつながだんじょう)が信長に攻められ、もはや敗北は
> 明白という時、空に巨大な星が現れた(ハレー彗星だとされる)。
> 人々は、この星を「弾正星」と呼んで、「松永弾正の最後を顕している」と
> 言ったが、本人は、「アホか。あれはただの星だ。人間の運命と
> 天体の運行は関係ない」とキッパリと言ったという。
0432人間七七四年
2011/12/19(月) 16:56:11.64ID:VUyAGUym0433人間七七四年
2011/12/19(月) 16:58:46.63ID:LKUxVQOYこれだね
0434人間七七四年
2011/12/19(月) 17:00:19.41ID:Hqfbg2mGこれやな
ついでに時期が合わないので、この彗星はハレー彗星では無いと思われる
逸話ってこういう風に尾ヒレがついて伝播していくもんなんだなw
0435人間七七四年
2011/12/19(月) 17:39:40.27ID:9kWdCq8b0436人間七七四年
2011/12/19(月) 19:09:46.08ID:9tHeMms30437人間七七四年
2011/12/19(月) 20:32:56.40ID:Gda8cXNd慶長7年(1602年)10月18日、小早川秀秋は俄に死去した。これはまともな死に方ではなかったというが、何分秘密にされた事ゆえ、真相は定かではない。
@一説によると鷹狩の時、秀秋はひとりの百姓を捕らえて斬ろうとした。その百姓が嘆き悲しむ様を秀秋は嘲笑いながら、刀で百姓を少しずつ傷つけて弄んだが、
怒った百姓が秀秋の陰嚢を強かに蹴り上げると、秀秋はその場で即死したという。
Aまた一説には、秀秋が訴訟をしていた山伏を呼び出し、理非曲直の取り調べもせず、山伏の両手を斬り落とした。
すると怒った山伏が怒って飛びかかり、秀秋を蹴り倒して踏み殺したという。
Bまた一説には児小姓を手討ちにしようとしたら返り討ちにあって死亡したという。
Cまた一説には殺生禁断の場所である西大寺観音院の本堂の前を流れる吉井川で網を投げて鯉や鮒を捕え、その帰途に橋の上で落馬して死亡したという。
しかし世間に向けてはこれらの話は深く秘し、疱瘡にかかって死んだと披露したので、現在もその横死の真相を知るものはいない。
by備前軍記
0438人間七七四年
2011/12/19(月) 20:44:36.29ID:c6PKmucU0439人間七七四年
2011/12/19(月) 20:49:11.74ID:Ngp8jBlQ0440人間七七四年
2011/12/19(月) 20:49:26.02ID:NUum7zJB0441人間七七四年
2011/12/19(月) 20:51:46.21ID:0SHk6VCKそれぐらい痛い
0442人間七七四年
2011/12/19(月) 22:17:15.65ID:NKd+QRgrこんなやつなら死んでも仕方ないと思わせるように
0443人間七七四年
2011/12/20(火) 06:08:02.68ID:DAv3KDZ/しかし、情報操作が必要な程の人物か?と
まあ『備前』軍記なら、宇喜多を追い出して乗り込んできた余所者の悪口は書くだろうけど。
0444人間七七四年
2011/12/20(火) 06:36:55.94ID:s9Llzz2xまあ、曲がりなりにも豊臣一族ですし
実は戦術眼に優れた名将で、
的確なタイミングで裏切ったことにより
劣勢の東軍を勝利に導いた可能性も微粒子レベルで存在…
0445人間七七四年
2011/12/20(火) 08:15:46.34ID:pQHqxH5u武の秀秋か
0447人間七七四年
2011/12/20(火) 10:23:48.93ID:xB1EW6/t0448人間七七四年
2011/12/20(火) 11:03:12.47ID:kdDGFZby世間 「ほう、そうかい」
0449人間七七四年
2011/12/20(火) 11:41:24.96ID:RieF1dzo0451人間七七四年
2011/12/20(火) 15:03:38.84ID:LkWh5gGX0452人間七七四年
2011/12/20(火) 15:52:36.72ID:gK8ZNiza0453人間七七四年
2011/12/20(火) 17:05:13.79ID:9cf3m7ae0455人間七七四年
2011/12/20(火) 19:07:21.90ID:pw1q1aLK0456人間七七四年
2011/12/20(火) 19:44:54.00ID:zGKp/0j7貴殿にとっては、むしろ賞されるべきものではありませぬか
ご息女を娶せることまで考えるべきかと
0457人間七七四年
2011/12/20(火) 19:50:03.88ID:XaSiufI90459人間七七四年
2011/12/20(火) 22:06:28.59ID:B+ErHbqZ彼らは義光の近習の者たちと威を争うあまりに、この阿党共は酒の席で義康に申し上げることには
「いつ迄もこのような部屋住まいで、所持御不自由の体であられる事を、ずっとおいたわしく思っております。
もはや義光公もご老体のことでありますれば、御家督を譲られご隠居なさるべきであるのに、そのような
そぶりもないのは、どうしても不審に思えてしまいます。
されば、ご次男の駿河守家親様は数年江戸の御城に詰められ、家康公にお気に入られご出頭されていると
聞き及んでおります。そういうことであれば、義光公のお考えは、いかがな事になると思われますか?」
このような事を色々と品を変え言葉を変えて伝えたため、義康にも『そういう事(廃嫡)もあるかもしれない』
と考えるようになり、折に触れて、義光への恨みの風情が見えるようになった。
そんなふうだったので、終には義光・義康親子の仲は、宜しからざる体となってしまった。
そんなある時、義康は光明寺へ遊覧に出かけ、そこで酒宴を張ったが、このとき近習の若者たちと
戯れているうちに脇差が鞘走ってしまい、左の脇を少し傷つけてしまった。
この事を佞臣たちが聞きつけ、義光に、このように報告した
「今や義康公は、御家督のお譲りが引き伸びになっていることを深くお恨みいたし、本日自害を図ろうとしましたが、
これに気がついた近習たちが皆で取り押さえ事なきとなりました。
しかしこのように命がけで思いつめておられる以上、義光公に対しいかなる謀り事を企んだとしてもおかしくは
ありません!」
これを聞いて義光は
「たしかに、そのようでは、義康は国の仇となってしまうだろう」
と考えた。
義光と義康の関係の悪化を、決定的にしたとされる事件である
(最上出羽守義光物語)
0460人間七七四年
2011/12/20(火) 23:33:23.84ID:kz2ihz920461人間七七四年
2011/12/20(火) 23:34:59.88ID:sy9Yt/+A> 豊臣秀吉が能を愛好したことは有名です。彼が能に没頭したのは、その晩年の10年に満たないわずかな期間だったと言います。
> その間、彼は自分の業績を新作能として作らせました。それが、「豊公能」と呼ばれる作品群です。
>
> 「豊公能」は、秀吉58歳のころに作られたと言われています。当初は十番能だったと見られていますが、
> 謡本で伝わっているものでは、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」の五番が有名です
> (近年、「この花」という曲が発見されました)。
>
> 「吉野詣」は、吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ、というもの。
> 「高野参詣」は、母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称えるというもの。
> 「明智討」「柴田」「北條」は、秀吉の戦功を称えたものです。
>
> 秀吉は、これらを宮中に献上し、また、ほぼすべてを自ら舞ったようです。能を愛好した権力者は、足利義満、
> 徳川綱吉ほか、数多くいます。しかし自身の生涯を能に仕立て、あまつさえ舞った人はほかに見当たりません。
> 豊臣秀吉の能への耽溺ぶりがうかがえます。
http://www.the-noh.com/jp/trivia/104.html
流石秀吉。自己宣伝もえげつないほどの臆面のなさだなw
0462人間七七四年
2011/12/20(火) 23:37:16.81ID:zGKp/0j7同じような話を
0463人間七七四年
2011/12/21(水) 00:40:08.78ID:RgvLdn/k朝鮮出兵とか聚楽大とか大阪城とか、その顕れに思える
0464人間七七四年
2011/12/21(水) 02:44:24.14ID:5uE+oJoV秀「おお、なんという清潔さだ」
僧「おそれいります」
秀「……いやまったく、兵たちはいま朝鮮で必死に戦っているというのに、こんな贅沢をしおって。
実にけしからん。貴様らも朝鮮行きだ!」
驚いた僧侶は前田玄以に頼んでとりなしてもらい、多額の金を払ってなんとか朝鮮行きを免れたという。
0466人間七七四年
2011/12/21(水) 05:21:13.21ID:dOiO2JY0秀吉「そのこころは」
僧「38度をこえると危険でしょう」
0467人間七七四年
2011/12/21(水) 08:42:02.88ID:WQu1m8mT0468人間七七四年
2011/12/21(水) 10:09:10.46ID:NwiS4Ema0469人間七七四年
2011/12/21(水) 10:17:07.16ID:ACEVvw2I自分でつくったのなら才能ある
0470人間七七四年
2011/12/21(水) 13:05:14.12ID:+w/g8GeC秀吉「そのこころは」
僧「38度をこえると危険でしょう」
秀吉「」←ここが怖い
0471人間七七四年
2011/12/21(水) 14:32:05.34ID:+NJk/NuY0472人間七七四年
2011/12/21(水) 15:46:16.02ID:iy8XWwLPゴキブリも家に入って来なければワザワザ殺したりはしないものだ。
0473人間七七四年
2011/12/21(水) 18:39:11.42ID:dOiO2JY00474人間七七四年
2011/12/21(水) 20:59:47.44ID:aWEG8RKI永禄6年(1563年)、浦上政宗の息子である浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻が決定。
翌永禄7年(1564年)の1月11日に政宗の居城である室津城で式が行われ、若い両人の門出を祝った。
しかし、この式の日取りを政宗と敵対していた龍野城主赤松政秀が完全に掴んでいた。
この日ならば室津城の防備も手薄であろうと政秀は深夜に夜襲を仕掛けたのである。
政秀の読み通り、祝賀ムードで緩みきっていた室津城はあっさりと陥落し新郎新婦はもちろんの事、
当主の政宗までもなすすべなくこの時に討ち取られてしまったのであった。
0475人間七七四年
2011/12/21(水) 21:00:37.12ID:6IBAVmHS自分が武士なら仕官したいね。
逆に仕官したくないのは能登畠山と那須家だなぁ。
家中がギスギスしてそう…
0476人間七七四年
2011/12/21(水) 21:10:59.49ID:Tx3Dk8IW0478人間七七四年
2011/12/22(木) 07:18:56.74ID:N18cigQ30479人間七七四年
2011/12/22(木) 10:12:19.28ID:XRnjuyt40480人間七七四年
2011/12/22(木) 10:55:47.44ID:VfzBN/Ns0481人間七七四年
2011/12/22(木) 14:55:03.19ID:W64Iegsa0482人間七七四年
2011/12/22(木) 17:54:26.65ID:v0i82vYGちなみに
新婦の兄=黒田官兵衛
新郎の叔父=浦上宗景(宇喜多直家の主君)
な。赤松さんもえらいのに喧嘩売ったもんだわw
0483人間七七四年
2011/12/22(木) 19:22:34.05ID:POTl/Tuh三拍子の五郎
室津城主の浦上政宗らが赤松政秀に暗殺されたのち、室津で権力を握ったのは江見河原五郎という男であった。
この五郎は政宗の三男である浦上清宗を擁立し、また清宗を黒田職隆の娘と婚姻させるなど家の復興に努めた。
しかしながらそんな播磨の浦上家の所領を備前の浦上宗景(政宗の弟)は我が物にしようと企んでいた。
宗景は五郎に対して「清宗を討ち、首級を差し出せば恩賞を与えよう」と調略を仕掛けた。
すると五郎はなんとあっさり宗景に寝返って清宗を殺し、その首級を持って備前へと去っていったのである。
この時、五郎は室津に自分の母を残したままであったので、五郎の母は報復とばかりに串刺しにして殺された。
そんな話が民にも広まると五郎が鼓打ちが上手であった事からこんな狂歌が詠まれた。
『三拍子そろひてけりな江見河原 主うち親うち鼓さへうつ』
なお、この清宗と黒田の娘との間にはわずかな結婚生活の中で一人の男児が生まれており、
この事件以降は母方の実家である黒田家で育てられた。
これが宇喜多直家謀反の時に打倒浦上宗景の旗頭として担がれた浦上久松丸である。
0484人間七七四年
2011/12/22(木) 19:26:42.61ID:POTl/Tuh多分誠宗の間違いだと思うけど一応原典に忠実に。
0485人間七七四年
2011/12/22(木) 19:59:58.75ID:tfOCzpSa0486人間七七四年
2011/12/22(木) 20:01:20.03ID:1yW4B2Ymこんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw
0487人間七七四年
2011/12/22(木) 23:17:59.65ID:XD0OP6RKこの兵たち、見れば新発田城に兵糧を運び込もうとするところだったようである。
二人は景勝の前に引き出されたが、すると景勝が言うには
「強き敵なら兵糧攻めも兵法の一つだろう。
しかし新発田に対しては正面から実力で打ち勝ってこそ価値があるというものだ。
兵糧を運び込むというならそれを止めることはない、放してやれ」
と言い二人をそのまま城へ帰させてしまった。
無事兵糧が到着したことに新発田城の者達は喜んだ。
…のだが新発田重家、上杉の陣から無事に帰ってきた二人を見て
さては上杉に内通しており中から城に火を放つ算段であろうと思い、これを斬り殺してしまった。
この話を聞いた葦名の者達は皆景勝を讃え重家を憎んだ。
0488人間七七四年
2011/12/22(木) 23:43:40.13ID:NicxQjXz0489人間七七四年
2011/12/23(金) 00:15:34.50ID:MGFqYCTY当初は織田からの援助もあって新発田も元気だったけど
本能寺の変後は葦名だけでは当然支え切れなくなって
挙げ句景勝の怒りに触れて本庄繁長に侵攻される手痛い反撃食らって
和睦を申し出た事が下敷きになってると思われ。(この頃は盛隆だったか)
0490人間七七四年
2011/12/23(金) 01:14:23.30ID:HJ8lQWr+「播磨鑑」では、人名関係がえらいことに。
姫の年齢もこれでいいのか?
赤松の惣領と龍野の城主赤松下野守政秀は浦上に遺恨あって、老臣内海勘解由左衛門、湯浅長門守、江渡越中守等と相謀って、
永禄9年正月11日に押し寄せた。
その日、城は村宗の息子宗景の婚礼で、酒宴乱舞で上も下も酔いつぶれている。
そこへ3百余騎の龍野勢が、海を押し渡った先の大手と、地続きの北口の2箇所から一斉に攻めかかったのである。
思いも寄らぬことに城は大混乱となり、酒で足腰の立たない兵は次々と討たれていくが、村宗は騒がずに下知し、火の出る勢いで戦った。
婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)も小長刀を取って敵中に駆け入り、思う存分戦った後に自害。
その様子に敵も味方も「女といえど武士の子はかくや!」と感じ入ったのであった。
やがて奮戦していた村宗も討たれ、子息の宗景も死を決意したが、
「これは不慮の災難であるから、皆が討ち死にして敵に利を取らせるよりも、一旦落ち延びた後に仇を報ずるべきでございます」
と明石大炊助が必死で止め、菖蒲谷治部小輔というものを添えて搦め手の門前から小船に乗せ、備前国へと落としたのである。
なお、室津の住民は婚礼の夜に討たれた姫のことを悼んでひな祭りを延期しました。
これが室津で行われている「八朔のひな祭り」の由来だと言われています。
永らく伝えられたこの風習も一時期途絶えていましたが近年復活し、今年も盛大に開催されました。
0491人間七七四年
2011/12/23(金) 01:46:46.64ID:HJ8lQWr+赤松晴政の名代として毛利元就に使いし、元就の以来で刀の鍔を自作していたり、
聖徳太子縁の斑鳩寺(太子町)を再建したり、
娘が信長の養女として関白二条晴良の嫡男に嫁いでいたり、
読書家で数千冊の蔵書があり、藤原惺窩がそれを引き継いだ広秀のもとに入り浸ったり
と、いろいろ凄い人なんだけどねえ。
政秀にすれは包囲網の形成を阻止し、主家の仇を討った大勝利だけど、戦国の掟は残酷だねえ。
敵にとっても自分にとっても。
0493人間七七四年
2011/12/23(金) 08:36:00.41ID:+Ybzg5M+>婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)
年齢は干支を一回り下って16歳とかかな?
28歳だと父親の黒田職隆の12歳の時の子どもって事になってしまう
ショタ好きには有りかもしれないが
0496人間七七四年
2011/12/23(金) 11:35:27.13ID:q4jYg5nu天正九年、高天神城が落城したのに併せて家康は信長に会うために上洛しようとし、
その時の土産として馬鎧を贈ろうとし、国衆に製作を命じた
なお、馬鎧は金塗りが基本だが、この時の馬鎧も金塗りであった
松平家忠も三懸の製作を命じられ、翌月までに四懸けが完成したが家康から遣わされた
見聞者にどれも悪いと言われ、三懸けは作り直しを命じられてしまった
三ヶ月後漸く完成し浜松におくったが、この年の終わりに武田征伐が下令され、家康の上洛は
延期となってしまった
その後の馬鎧の行方は不明だが、駿河拝領の御礼に上洛した時に贈られたとしたら直ぐに
灰になったことになる
細やかな努力も時代のうねりには塵芥の如しであった
0497人間七七四年
2011/12/25(日) 16:49:04.38ID:SMAAy7mw俗に言われているが、実際には松永久秀は三好宗家当主である三好義継を押し立てる立場であり、
三好三人衆のバックには、阿波三好家を支配する篠原長房があり、実態としては畿内の三好宗家と
阿波三好家との対立、というべき物であった。
永禄11年11月、
その、阿波の実質的な支配者である篠原長房の弟某というものが淡路において、敵対する三好義継方に寝返った、
そして兄長房の暗殺計画を進めていたが露見、そこでこの弟某は堺へと逃亡した。
これは10日のことだったという
(多聞院日記)
分裂状態の三好氏における、暗闘を垣間見させる事件についての記録である。
0498人間七七四年
2011/12/26(月) 18:02:11.44ID:LdVEqifJ片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、
『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』
という三ヶ条を伝えた。
これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。
三人は信雄にこう主張する
「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!
この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」
信雄はこれを聞いて仰天した
「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」
三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。
大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。
しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。
和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を片重視してはいない、桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)
0499人間七七四年
2011/12/26(月) 21:39:58.07ID:Gb1JJCFD且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど
0500人間七七四年
2011/12/26(月) 21:42:56.60ID:W9TthKzI0501人間七七四年
2011/12/26(月) 21:50:58.98ID:gHUua3Pj0503人間七七四年
2011/12/27(火) 00:05:13.68ID:AGDGBLr/やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな
0504人間七七四年
2011/12/27(火) 08:15:30.85ID:zgeD+M200505人間七七四年
2011/12/27(火) 08:54:59.49ID:3dub6oDn0506人間七七四年
2011/12/27(火) 09:04:44.29ID:2Phlz4ntもう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな
0507人間七七四年
2011/12/27(火) 10:15:59.08ID:quNlbzpG森家の連中とか池田家の連中とか…
0509人間七七四年
2011/12/27(火) 19:32:24.46ID:VrNNahAn慶長8年(1603年)、美作一国18万6500石に森忠政が入り、その翌年の慶長9年(1604年)には森家による検地が行われることになった。
前に検地が行われたのは宇喜多秀家の統治にまで遡るが、その時の検地は実は朝鮮出兵の真っ最中に行われた事もあって、
面倒事を避けるために村方で作った帳面を提出させて不審な点があれば実地にあたったという徹底した検地とは呼べない代物であった。
と、いう事情もあってまだまだ在地の武士と土地の癒着が断ち切れているとは言い難いこの美作でもようやく本格的な検地が行われる事になったのだ。
森忠政も信濃時代の失敗(参照:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html)の事がある。今回は慎重に検地を実施・・・
18万6500石→24万2500石
・・・どうやらあまり懲りてなかったようである。
この検地は石高の激増以上に田畑の実収高と食い違う所が多く、苦情が殺到したので渋々やり直したがそれでも苦情が多かった。
その為、2代目藩主森長継の時代には検地による田畑の位付けを捨てて、実際の出来高に応じて年貢を徴収する「段免」方式に切り替えられたのであった。
0510人間七七四年
2011/12/27(火) 19:56:32.06ID:96Ausontぶれない男だな、悪い意味で
0511人間七七四年
2011/12/27(火) 22:16:04.34ID:q1XTyam50512人間七七四年
2011/12/28(水) 02:11:08.99ID:w0dVdEVL0513人間七七四年
2011/12/28(水) 07:00:22.58ID:PAxZjI910514人間七七四年
2011/12/28(水) 18:30:27.45ID:7PLXXa/q東軍の動きに呼応して関ヶ原へと布陣した大谷吉継は、
迫る決戦の時を控えてある事を決意した。
「者ども、わしは今日この時より名を改め、吉隆を新たに名乗ろうと思う」
「はっ! しかし、それはまた急な仰せ。いかなる 御存念でしょう?」
「うむ。考えてもみよ、我が名の読み『よしつぐ』は、家を滅ぼした三好左京大夫に通じて如何にも縁起が悪い。
これより天下分け目の戦に乗り出すにあたって、悪縁を絶って措きたいのよ」
・
・
・
大崎義隆「えっ」
畠山義隆「えっ」
大内義隆「なにそれこわい」
0515人間七七四年
2011/12/28(水) 18:33:53.39ID:P4z4jHLv九鬼嘉隆
遠藤慶隆
えーとほかには
0516人間七七四年
2011/12/28(水) 18:54:38.48ID:n8Qylz4F0517人間七七四年
2011/12/28(水) 19:12:34.03ID:mfFVSHu9富田長繁に滅ぼされた前波吉継がいたり
0518人間七七四年
2011/12/28(水) 19:58:59.09ID:pkxiY3iVた…確かに。
大内義隆はまだ家を滅ぼしてないし、畠山義隆は
諱自体が本当にそうだったのか微妙だけど
大崎義隆はなぁ…。
大谷は奥州仕置にも関わってるから、大崎義隆は
モロに知ってる筈だよなぁ…。
0519人間七七四年
2011/12/28(水) 21:35:39.72ID:G5ztUR240520人間七七四年
2011/12/28(水) 21:39:08.47ID:PAxZjI910522人間七七四年
2011/12/28(水) 21:55:22.62ID:Y0IylJqu0523人間七七四年
2011/12/29(木) 01:08:34.84ID:D6MTJaHMI kill you 〜♪
0524人間七七四年
2011/12/29(木) 01:23:21.74ID:twUzW5Wu0525人間七七四年
2011/12/29(木) 01:51:21.28ID:WJdcp+jP0526人間七七四年
2011/12/29(木) 12:11:23.47ID:i1fgSAjI0527人間七七四年
2011/12/29(木) 12:20:53.77ID:ARqZPDfc0528人間七七四年
2011/12/29(木) 16:25:18.51ID:P40EF0Z+0529人間七七四年
2011/12/29(木) 16:57:38.05ID:51ZYrfic0530人間七七四年
2011/12/29(木) 19:30:06.71ID:OTcdrYIC吉川家文書読んでて黒田さんちの長政の発言内容があまりにイメージ通りで吹いた。
黒田のところに遣わされた吉川家臣から主君広家への書状。
「急ぎ申し上げます。筑州(黒田長政)は昨晩この地に到着しました。供の衆は今朝帰りました。
私がすぐに(広家の)ご宿所に行ったのですが、
すでにそちらに下向されたと坊主が申しておりましたので、それをお伝えしたところ、
『今少しお待ちなられ候はで、沙汰の限り』って言ってました。
どうか早々にこちらにいらしてください。
先日の条件について、半分以上片付きましたので、ご安心ください。
大小のことは存じませんが、筑州が江戸で私に
『広家へ知行取候てまいらせたるぞや』と言っておりましたので、
恐れながら、おめでたく存じ奉ります。
どちらにしても、こちらで取り急ぎご談合されるべきですので、
できるだけ急いでください。(後略)恐惶謹言
7月16日 末長良昧
まだ少々ご気分が悪くとも、必ずこちらにいらしてください。
(長政は)ゆうべご到着されましたが、今は忍んでいらっしゃいますので、
話題にしたりなさらないように。以上」
「沙汰の限り!」と怒るとか、さすが短気なイメージがブレない人だ。
というかこのときの状況自体がものすごく気になるんですが。
長政が「筑州」で7月だから慶長6年以降なのは間違いなさそうなんだけど
お忍びで密会とか知行云々とか何の悪だくみ(?)してたんだ、この人たち。
0531人間七七四年
2011/12/29(木) 19:50:11.08ID:ELHGjKYe色々気心の通じた者どうしで相談したいことがあったんじゃないの
0532人間七七四年
2011/12/29(木) 20:14:01.48ID:SI0hf90D長政が幕府に運動して広家に知行が宛がわれるようにしたってことじゃない?
0533人間七七四年
2011/12/30(金) 09:58:55.93ID:qwDeVqhH諱って口に出して呼ぶこともあったのか?
0534人間七七四年
2011/12/30(金) 10:22:03.77ID:RKazZZ1c0535人間七七四年
2011/12/30(金) 10:59:52.17ID:qwDeVqhHそっか、ありがとう
長政と広家は本当に仲よさそうだな
関ヶ原の時の広家も、徳川に内通したっていうより、
黒田父子にべったりだっただけなんじゃないのかと思えてきたw
0536人間七七四年
2011/12/30(金) 17:43:25.04ID:D/Uq39ik戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。
岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが享禄2年(1529年)の事である。
横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや昌純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。
もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」になることを志向する。
永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。
ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。
0537人間七七四年
2011/12/30(金) 18:26:45.10ID:Y9BDaZyZ>横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや昌純には何の権限も無かった。
この部分の前後関係がよくわからないんだけど、氏純が家督を継いだ時、昌純はまだ生きてたの?
0538人間七七四年
2011/12/30(金) 18:32:28.98ID:D/Uq39ikあー、ミスです…
>横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
まとめでは変更しておいて下さい、すいません。
0539人間七七四年
2011/12/30(金) 18:44:13.67ID:3SW+FGis0540人間七七四年
2011/12/30(金) 19:09:51.62ID:CIc4TCEk上手くやったものだ
0541人間七七四年
2011/12/30(金) 19:20:05.76ID:SrjtQPKR主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。
明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど
0542人間七七四年
2011/12/30(金) 19:20:46.18ID:Gi3e2PjEその方が近代的か
0543人間七七四年
2011/12/31(土) 00:33:45.63ID:H7yZ3Oub前近代はインドのカーストみたいに、戦争が起きて領主の首がすげ変わったけど、
領民はあい変わらず畑を耕してました、みたいな。だから侵略者に弱い。
近代になると、国民国家への思いが生じて被支配階級が支配者や組織への帰属意識、
一体感から、団結したり、お上に対して「物申す」ことで影響力を発揮するようになる。
社会参画や当事者意識が芽生えるんだよ。
ここでいう、領主への愛着や親しみは対人レベルの肯定感情であって、前近代だよ。
0544人間七七四年
2011/12/31(土) 01:49:22.39ID:g8eeOTP10545人間七七四年
2011/12/31(土) 07:26:27.88ID:JJvpNJiD0546人間七七四年
2011/12/31(土) 13:11:31.05ID:BNFbhdyD0547人間七七四年
2011/12/31(土) 14:03:08.79ID:c6qWK03+0548人間七七四年
2012/01/01(日) 10:28:54.39ID:eoVaEPZ60549人間七七四年
2012/01/01(日) 12:57:01.94ID:ZlCSGiV7まだ津軽為信が大浦為信と名乗っていた頃の話。
津軽統一を目指す為信は南部家臣の猛将、滝本重行の守る大光寺城を攻略しようとしていた。
天正2年(1574年)8月、為信は4,000の兵で大光寺城を取り囲んだ。対する滝本重行の兵はわずか700。
楽勝に思われたこの戦いだが重行は兵力差に怯むこと無く、大浦軍がぬかるみに踏み込んだ所で突撃を仕掛け、
小回りが効かなくなった大浦軍は対応出来ず、為信は危うく討たれそうになりながら敗走するという惨敗を喫した。
正面切って戦うのは得策では無いと悟った為信は重行の「油断する瞬間」を待った。
そして翌年の天正3年(1575年)元旦、ついにその瞬間が訪れる。
大雪が降って視界が効かないという行軍に向かない悪天候、そして正月という晴れの日…
これら「気が緩む要素」が揃ったこの日に為信は再び大光寺城攻略の兵を挙げたのであった。
驚いたのは重行である。今日が正月であるという事以上に、この大雪の中で攻めてくるというセオリー破りに意表を突かれた。
今までの苦戦が嘘のように大光寺城はあっさり陥落し、重行は大雪の中敗走する他なかった。
こうして大浦為信の津軽統一の野望は一歩前進したのでしたというお話。
0550人間七七四年
2012/01/01(日) 13:19:30.93ID:W2Ahza+u0551人間七七四年
2012/01/01(日) 14:15:46.19ID:GBZQKBQrでも比較的正攻法かこれ
0553人間七七四年
2012/01/01(日) 14:37:39.23ID:W2Ahza+u0554人間七七四年
2012/01/01(日) 14:42:24.32ID:uOTzmrdG0555人間七七四年
2012/01/01(日) 14:47:28.82ID:FvcAE74X0556人間七七四年
2012/01/01(日) 14:51:38.50ID:/TYw3zKU佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html
0558人間七七四年
2012/01/02(月) 16:51:41.35ID:VegRbqc9◇◇ / ̄| ◇◇
◇◇\ |__| ◇◇
彡 O( ^ω^)/
( P `O
/彡#_|ミ\
【ラッキーAA】
このAAを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けるお
そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
0559人間七七四年
2012/01/02(月) 17:57:37.68ID:LKkpUcvV0560U
2012/01/02(月) 18:54:18.66ID:5JwcJiyd0561人間七七四年
2012/01/03(火) 13:32:39.52ID:B3Fvg6Y3ただ、出典が数年前の地方紙なので、その程度のものとしてお読みください。
慶長3年、上杉家が会津・米沢及び庄内を領地として持ったころ。
会津と庄内の連絡には他家の領地を通るしかなく、それはそれは不便であった。
この現状をどうにかせんと、上杉家の重鎮・直江兼続は一計を案じた。
それは米沢と庄内を結ぶ山道の開削である。
だが、その道が隣国の最上家や堀家に露見しては厄介なことになるため、あくまでも秘密裏に、かつ早急に完成させる必要があった。
その工事における、人足の食事における一節。
「餅一升を最初に食い、工事に臨む。最初の二日は腹がくちくて苦しく、中の三日はちょうど良く、後の二日は空腹で苦しい」
という記録があったらしい。
……炊煙があがるとヤバいのはわかるが、もうちょっと福利厚生に気を使ってください、山城守様。
0562人間七七四年
2012/01/03(火) 19:24:27.32ID:6FwvJdne干飯とか乾物とかやりようはなかったのか…
0563人間七七四年
2012/01/03(火) 19:31:13.02ID:DLPNF1XR蓼をおかずに食べてたら
>兼続「メシは塩だけで十分だ!蓼まで必要ないだろう!」
こりゃ、おかずも期待できないな
0564人間七七四年
2012/01/03(火) 19:59:23.78ID:HuCz4brzしかしなんかの悪影響で兼続に文句つけると利いた風な口を聞くなー!と叫ばれるイメージしか浮かばんw
0565人間七七四年
2012/01/03(火) 20:38:21.83ID:ftkNyCaV約4000kcal一気食いって血糖値が怖いことになってそうなんだけど。
0566人間七七四年
2012/01/03(火) 21:45:41.95ID:B3Fvg6Y3蛇足ですが、このブラック大名が開削した山道、関ヶ原後は存在価値が無くなって使われなくなってしまったんですね。
朝日山道という名の道ですが、過酷な労働に耐え抜いた人足の皆様の心境はさびれゆく道をどのように見ていたのか……
0567人間七七四年
2012/01/03(火) 22:57:29.79ID:YHtQx8Fp所詮三流の人か
0568人間七七四年
2012/01/03(火) 22:59:17.49ID:Lyo5d9qt0569人間七七四年
2012/01/03(火) 23:20:17.09ID:lNB70Z3A☆急募・短期アルバイト☆
上杉家では一緒に働いてくれる臨時スタッフを募集しています。
力を合わせて米沢を豊かにしよう!
内容:道路工事人足
場所:上杉領国境
待遇:食事あり、現物支給
連絡は直江山城守まで
0570人間七七四年
2012/01/03(火) 23:23:21.57ID:l3XCrJG90571人間七七四年
2012/01/04(水) 11:21:39.51ID:FJjBq1ri評価できるのは家康への檄文くらいなのかな?
0572人間七七四年
2012/01/04(水) 11:44:06.02ID:q7k5tcAyあと文化人としても。
0573人間七七四年
2012/01/04(水) 13:21:26.77ID:6Wj7V65T武田の長坂光堅や跡部勝資みたいについ最近まで佞臣の代名詞になってたんじゃないかって気がする>山城守
0574人間七七四年
2012/01/04(水) 15:31:31.47ID:jPZDSygS春日山城占拠とか
0575人間七七四年
2012/01/04(水) 15:39:23.77ID:WSoEXaDF0577人間七七四年
2012/01/04(水) 18:50:53.91ID:6uGyk9Fu0578人間七七四年
2012/01/04(水) 18:56:18.56ID:x6kKMzwc0579人間七七四年
2012/01/04(水) 19:04:00.99ID:+SG6/CYY足り過ぎてて九州に飛ばされた誰かさんも居るが
0580人間七七四年
2012/01/04(水) 19:04:28.97ID:RcB7Nasp0581人間七七四年
2012/01/04(水) 19:27:36.66ID:7twx6ghO小野鎮幸
本多忠勝
島津忠恒
後藤基次
直江兼続
飯田直景
吉川広家
の七人がラスボスに槍働きを賞賛された、とか
しかし山城守は場違い感があるから、いっそ直江と飯田はまとめて樋口角兵衛に
0582人間七七四年
2012/01/04(水) 20:07:24.81ID:vdIV71qzhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2311.html
0583人間七七四年
2012/01/04(水) 20:12:26.23ID:7twx6ghO0585人間七七四年
2012/01/04(水) 21:00:07.99ID:FJjBq1riぶっちゃけミニ治部ってとこかいね?
0586人間七七四年
2012/01/04(水) 23:40:25.76ID:3V3L5IZF0587人間七七四年
2012/01/05(木) 03:23:53.00ID:SIkx9rm8つーか戦下手評価も元々大して積極的に攻めてない長谷堂城での話が
元だから下手ってほど下手でもない。
撤退戦で凄まじい働き見せたのも事実だし。
あのクソ大河の影響で不当な過小評価受けてる印象だ。
0588人間七七四年
2012/01/05(木) 03:49:59.46ID:EyaxHVcs基本主家に忠実で景勝に従って従軍経験もかなりあるわけで、
佞臣とか単なる内政官のイメージは無いなぁ。
やはり知恵の足りない直茂・隆景って太閤の評価が適切なような気がする。
0589人間七七四年
2012/01/05(木) 03:54:11.38ID:icTZYuKl0590人間七七四年
2012/01/05(木) 04:46:22.01ID:anheltNW撤退戦は、凄まじい働きなのだろうか?
難しいのは確かだけど、追撃側の方が兵数がかなり
少ないのに、かなりの損害を受けた事を考えれば、
下手と言われても仕方ないような。
0591人間七七四年
2012/01/05(木) 08:05:46.37ID:OZKH8trUガチの評価はご遠慮ください
0592人間七七四年
2012/01/05(木) 09:22:04.96ID:UKCipiw/0594人間七七四年
2012/01/05(木) 10:29:40.13ID:THfVX0VU0595人間七七四年
2012/01/05(木) 10:39:34.21ID:Uqr4+DdX0596人間七七四年
2012/01/05(木) 11:15:56.72ID:t3NpODP50597人間七七四年
2012/01/05(木) 11:21:56.55ID:jRgVNVFu0598人間七七四年
2012/01/05(木) 11:58:24.86ID:cBqBrffU0599人間七七四年
2012/01/05(木) 12:34:02.89ID:M3VOZQBf0600人間七七四年
2012/01/05(木) 13:10:06.46ID:wrJNm4Q2撤退戦の街道整備なんかの下準備は確かに褒められる
でも実際の撤退戦は水原なんかの奮戦が大きい、まあ総大将だから当然っちゃ当然だけどな
あと新発田重家にフルボッコにされたのを忘れてはならない
従軍経験を考慮に入れても、とてもとても戦上手とは言いがたい
ただし統治力や外交力、後方支援の的確さ、文化振興の功績など、
十分に評価されるべき人物ではある
完璧超人でなくてもいいと思うよ
0601人間七七四年
2012/01/05(木) 13:29:03.36ID:Em07hh8u直江マンセーになるのか?ほぼ主家牛耳ってるのに大局が見えないのが
一番の難点だが、戦の面は責めるところじゃないだろ
0602人間七七四年
2012/01/05(木) 14:31:21.93ID:2g/qcEd10603人間七七四年
2012/01/05(木) 14:35:30.57ID:HyWqhkLc土下座名人の政宗以下。
0604人間七七四年
2012/01/05(木) 14:45:06.79ID:45LnF59Q0605人間七七四年
2012/01/05(木) 14:51:51.95ID:wrJNm4Q20606人間七七四年
2012/01/05(木) 14:52:17.50ID:CSam6rNaフルボッコ言われるほど大苦戦してないわけだが
ミーハーアンチうざい
0607人間七七四年
2012/01/05(木) 15:07:02.09ID:haVEUNNvttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233506283/
専用スレあるんだからそこでやってくれ
0608人間七七四年
2012/01/05(木) 22:22:39.07ID:uisY75e30609人間七七四年
2012/01/06(金) 00:12:04.61ID:Nv4T+HqJそんなんじゃその内逸話投下してくれる人がいなくなるぞ 議論は別スレでしてくれ
0610人間七七四年
2012/01/06(金) 08:23:02.07ID:VCytQFDz政宗が言った訳だから直江が凄かったんだな
0611人間七七四年
2012/01/06(金) 14:56:02.38ID:gZkoRnx00612人間七七四年
2012/01/06(金) 18:04:25.61ID:2tmhfIBX霜月(11月)
十九日
天気良し。又ふる。会津の白鳥について談合候。山形(最上義光)より状参り候。
天童(頼貞)と無事に候(和議が成立した)由にて、晩に彦兵の所にまかり候。
羽右参り候。四保より若鷹参り候。
廿四日
天気雪。少しづつ降る。又よし。今は強く降っている。
白鳥(長久)所より脚力(飛脚)参り候。
最上の無事(現在進めている天童との和議)は正しくないと、(最上と)手切れ(断交)をするとの届けを、
夜佐源所へまかり候。夜明け帰り候。夜雪降る
極月(12月)
十日
高楡・天童より飛脚参り候。無事の事(和議)について、夜七郎かたへまかり候。早し候。
あの地域の中心である伊達家を介して見えてくる、最上義光と天童頼貞の和議とその波紋。についての模様である。
0613人間七七四年
2012/01/06(金) 21:32:21.57ID:/GLDkLmO0614人間七七四年
2012/01/06(金) 23:06:22.63ID:F6SfNlmm逸話でも何でもない記録をダラダラ書き散らすなよ
0615人間七七四年
2012/01/06(金) 23:47:05.74ID:x+Y4FhBi0616人間七七四年
2012/01/07(土) 00:44:55.28ID:jmrtBHjb一門とのやり取りを見てるとなんかわかるっつーか
ただでさえ謙信のおかげで一門が少ないのに
上杉景虎・上杉十郎・枇杷島上杉は御館の乱でバトル済みで且つ
義理の兄弟の上条上杉と山浦上杉とは揉めてるし
景勝「勝頼が救援よろしくしてきたから池」
上条「えー!武田とかもう遅いって信濃口の防御固めた方が良くね」
景勝「武田が落ちたらこっちも手詰まりだろうが!馬鹿なの!?死ぬの?良いから行け!」
景勝「え?上条なんでそんなとこに留まってんの?そんなとこ守ってどうすんの?
もっと前に出ないと意味ないだろ!…救援に出した上条から返事が来ないんだけど。
…武田が落ちてもまだ勝頼さえ無事ならまだ何とか…」
上条「あ、もう勝頼殿死んだみたいですよ残念!戻っていい?」
景勝「勝頼ー!」
そして天正壬午の乱でどさくさに取った信濃を
山浦国清(村上義清の息子で謙信の養子)に任せたら
国清さんたら信濃に戻れたのが嬉しくて勝手に年貢の徴収始めたりして
「おいおい独立させるとは言ってねーぞ!」と怒られた挙句
国清の家臣が北条に寝返って「……国清。チェンジで」してみたら
上条「俺は景勝様の相談係として朝に夕にお側に侍ってたのに…(ブツブツ」
景勝「…(お前ずっと文句言ってばっかじゃねーか…誰かなんとかしてくれよ…)」
上条「あ、信濃経営大変なんで直江こっちに貸してw」
景勝「ちょ、直江貸したらこっちが困るwこっちの仕事が困るww」
上条「景勝最近全然言う事聞かんし!俺を誰だと思ってるんだ!」
三成「え?ちょ?こっちに来られても困るんですけど!上杉とうちの関係悪化させるつもりですかw」
結果一門衆が誰もいなくなったので一門に任せる仕事も
全部自分でやるか直江に任せるかになって(もう一人重用していた狩野は早々にダウン)
「山城、御屋形様に少しは仕事休んで下さいって言ってくれよ。過労死すんぞ」
少なくとも直江は如才でも景勝の意志に反する仕事は一切しなかった。
景勝政権初期の景勝文書のイライラキーキーっぷりは面白い。
「なんでそんなことも分からないの?」とか怒りながら事細かく指示出してる辺りが
なんでも直江に任せてたみたいなイメージと違って。
0617人間七七四年
2012/01/07(土) 00:51:45.30ID:33PwxEN3部下の男、上司の女、アイドル歌手の三角関係を描いたラブストーリーです。
30年たってもいまだに根強いファンがいます。
無料動画なので、取り合えず5話まで見てください。
↓
超時空要塞マクロスTV&劇場版 Part53
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ranime/1324317769/462
0618人間七七四年
2012/01/07(土) 01:35:07.31ID:qTq099rM全国に一族を輩出した斯波一族。戦国時代にその本貫の地・斯波(紫波)郡を領していたのは、
斯波御所と称されていた斯波詮直だった。
天正14年の事、詮直は重臣である高田吉兵衛と、家臣同士の争いが元で詮直と対立することとなった。
(詳しくはこちらにhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3783.html)
斯波御所と不仲になっている事を伝え聞いた吉兵衛の兄九戸政実は、南部信直に相談し、信直は高田の帰参を許した。
許しを得た吉兵衛は斯波御所に暇も告げず、わざと真っ昼間に出奔して三戸に帰参、高田の名を捨て九戸修理と名乗った。
斯波御所こと斯波詮直は、無論のこと怒った。
「昔流浪の身となったのを西御所に助けおき、しかも家臣にもしてやったのに、昔を忘れて反逆の長となりおった!
糠部へ断り、高田を引き戻し心のままに後来の掟にしてやる!」
と、南部へ使者を出した。だが南部は吉兵衛を帰す気はなく、使いの者を打ち向かい罵り返した。
それどころか信直は、吉兵衛を斯波国境近くの中野古館に置き、九戸修理改め中野修理は、斯波諸氏への調略を開始した。
詮直はいよいよ怒りを深くし、
「この処置は中野の一心ではない、糠部(南部)のせいだ。ならば我の相手は信直だ。
南部は近年世継ぎがたびたび替わり武威衰え、家中も落ち着かないと風聞に聞こえる、この時こそ幸い、
まずは悪しき修理を討ち、勝ちに乗じて糠部まで攻め入ってやる!」
気炎を吐く詮直だが、ここで高水寺左京という老臣が主人の前に出た。
「最近は味方も一枚岩ではなく、まして争乱の場となれば糠部へ内情が気付かれることも止めがたく、浅はかなことです。
また南部信直という人物は仁徳深く心勇気寛大な人物らしく、南部四・五代来の大将として南部の一揆をまとめ上げています。
最近は岩手郡も帰属させたと聞こえており、南部と確執してはなりません」
と言ったが、詮直はさらに不機嫌になる。
左京はさらに言いつのった。
「奥東奥北の大国南部は兵も多く、さらにそもそも中野修理が斯波の地に来たのも間者働きのためです。内情を知られております。
攻め込むのはやめられよ」
としきりに諫め、先代から仕えていた赤石藤十郎もこの諫めに加わった。
が、御所はさらに怒り狂った。
「世に恐ろしきは信直ばかりよな! 余に勇強は無いと侮っていいならめ、さては汝は中野修理に語られて南部に一味して、
我らが出馬を遅れさせ、その間にこの事を告げる気だな!? 恩を忘れた逆心者、それぞれ切って捨ててやる!」
と言った。二人はいずれも詫びをいれ、死罪は免れたものの、二人は小屋敷修理に預けられることとなった。
斯波詮直は重臣の御所八左衛門・稲藤大炊左衛門を大将として出撃。だが中野は寡兵ながら頑強に抵抗し、
近隣の南部家臣福士伊勢が加勢に現れ、これにより斯波勢は撃破され、手代森館に撤退した。
その後も抗争は続いたが、手代森館の手代森秀親が調略に応じて南部方に転び、さらに南の領主稗貫氏が仲裁に入り、
争乱は南部の勝利で幕を閉じた。
0619人間七七四年
2012/01/07(土) 01:36:15.38ID:qTq099rM以来斯波家臣は動揺し、「誰が南部に通じているのか……」と君臣・兄弟の間ですら疑心暗鬼が渦巻くようになる。
そんな中、高水寺・赤石を預かっていた小屋敷修理は、岩清水右京という者の誘いを受けた。岩清水右京も小屋敷修理も、
中野が斯波に仕えていた時代、彼の世話になっており、南部への鞍替えを決めたのだ。
小屋敷は、自分の元に囚われていた高水寺左京と赤石籐十郎も誘おうと思い、この事を二人に打ち明けた。
赤石は怒った。
「さては我々の心を見ようとしての物語だな。いかに我々御所より勘気を蒙るといえども、重代の主君だぞ、争い恨むというのだろうか。
我々に野心があると思っている御所様のおおせでしばらくは自重しているわ」
だが、小屋敷は「何を偽り申しましょう、諏訪八幡も知りし召さん」と言う。
それを聞いて高水寺右京は小屋敷の顔を熟々と見て涙を流した。高水寺と小屋敷は、往年は男色の間柄であった。
「我は年劣りの身なれば、不義無礼の事には別の意見がある。御身は謀反人の与力をし、それがしにも一味して悪名を広めろと言うのか?
たとえ貴方はともかくも、それがしにはできない。あさましい御心だ、この世の対面はこれまでだ」
主君は裏切れない、しかし長年の友人も売れない、と思ったのだろうか、高水寺は座敷を立つと、一間の所へ引きこもり、そこで自害した。
小屋敷は残る赤石籐十郎の説得を続けたが、赤石は首を縦に振らない。
「このままでは御所に通報されてしまう」と焦り、小屋敷は赤石を斬り殺した。
主君に諌言した臣ふたりの、悲しい末期の話。
0620人間七七四年
2012/01/07(土) 10:55:47.09ID:ExlNur62関係ないけど太河の天○人で景勝が直江が六人?いればいいなぁみたいなこと言ってたのを思い出したw
0621人間七七四年
2012/01/07(土) 11:20:35.38ID:2dWjTK5b0622人間七七四年
2012/01/07(土) 12:57:56.04ID:sOA9GXco0624人間七七四年
2012/01/07(土) 16:23:22.81ID:23VN7y6d0625人間七七四年
2012/01/07(土) 19:11:01.53ID:KkT78Psi忠実な一門にも将にも猛者にも能吏にも恵まれた家康は幸運だな。
0626人間七七四年
2012/01/07(土) 20:36:17.15ID:WGM1VMA90627人間七七四年
2012/01/07(土) 22:46:55.80ID:23VN7y6dって感じに越後は豪族同士でのどつきあいが基本で謙信や景勝は必死に手綱捌く役だから…
景勝時代は御館の乱で反対勢力一掃したから謙信時代よりまだ良くなった方という。
0629人間七七四年
2012/01/07(土) 23:18:19.49ID:0xbD9kgT0630人間七七四年
2012/01/07(土) 23:19:12.41ID:Ms9+AjN6(鬼半蔵、槍半蔵の検挙から天竜川を泳ぎきって逃げた)小谷甚左衛門とかも元一向宗側だったし、
家康に許されたやつにも不平分子は残ってるんだよなあ
0631人間七七四年
2012/01/07(土) 23:19:46.61ID:ylffhmq2よければ出典も書いてくれるとありがたい
0632人間七七四年
2012/01/07(土) 23:20:29.21ID:WGM1VMA9オレの認識違いだったらサーセン
0633人間七七四年
2012/01/07(土) 23:37:58.29ID:Ms9+AjN6内心家康に不満をもったまま帰参した家臣も
少しはいたんじゃないかって書きたかったのです。
0634人間七七四年
2012/01/07(土) 23:53:21.64ID:WGM1VMA9>632は>>628ってことね
後腐れなくバッサリと処理するか、燻ったままの火種を家中に置いておくか
難しい判断なんだろうけど、文句をいいながら家康さんのこと大好きな連中多いからな〜
メンドクサイ、メンドクサイ
0635人間七七四年
2012/01/08(日) 09:35:26.70ID:97C/BHPzそう考えると謙信は景勝のように権力持てなかったかもしれないけど
優秀な人材を失わないで活用できたってことになるのかな
0636人間七七四年
2012/01/08(日) 10:12:28.84ID:vEUW27IUこいつのこと景勝も許してるのがマジで謎
政治や軍を任せられる家臣と言う意味なら景勝時代のほうがいて
謙信時代の方が謙信一人で必死こいてたイメージだけどなあ
会津三奉行とか。官僚機構じゃなくてどいつもこいつも軍事も政治もやるけど。
0637人間七七四年
2012/01/08(日) 18:43:17.21ID:FmD8vl+R小笠原は諏訪、村上、仁科といった国人たちと共に戦い、武田に対して常に理を得ていた。
信虎、晴信は信州に侵入して長時と雌雄を争い、ある時は今川義元を語らって勝負を挑むものの、
ついに信州を奪うことは出来なかった。
そんな中、晴信はあるとき計略をめぐらし、弟左馬助(信繁)が美少年であったのを以って、
彼と諏訪頼重に深い交わりを結ばせ、板垣信方を遣わしてこう伝えた
「頼重様、武田方に合力していただけるのなら、晴信の妹婿となっていただき、信州が治まるにおいては
現在の領地に加え、村上の旧領も与えられるでしょう」
諏訪頼重は「ありがたし!」とこれに承知し、晴信の妹婿となり、あまつさえ先妻との間に産まれた娘を
人質として晴信のもとに送った。
小笠原の人々このことを知ると、元来頼重は小笠原の家老小見氏の婿であったのに、その妻を捨て
晴信にたぶらかされるなど前代未聞の無道であると、大いに怒ったという。
武田晴信の諏訪調略が美少年による色仕掛けだったこと、しかも信繁の。
というか信繁美少年だったのか!などなど、武田晴信のえぐさが十全に出ている逸話であろう。
(寛永書家系図)
0638人間七七四年
2012/01/08(日) 18:51:31.18ID:1lijqs2sr' ィ=ゝー-、-、、r=‐ヮォ.〈
! :l ,リ|} |. }
. {. | ′ | }
レ-、{∠ニ'==ァ 、==ニゞ<
!∩|.}. '"旬゙` ./''旬 ` f^|
l(( ゙′` ̄'" f::` ̄ |l.|
. ヽ.ヽ {:. lリ
. }.iーi ^ r' ,'
!| ヽ. ー===- /
. /} \ ー‐ ,イ
__/ ‖ . ヽ、_!__/:::|\
武田 信玄(1521〜1573)
0639人間七七四年
2012/01/08(日) 18:51:35.52ID:FKBE2kgw0640人間七七四年
2012/01/08(日) 18:55:39.88ID:FKBE2kgw/⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う〜〜厠、厠」
/川‖‖| ‖| ゝ 今厠を求めて全力疾走している某は
〈巛《〈〈 \巛 | 甲斐武田家に通うごく一般的な男子
│个 个 ヘ | 強いて違うところをあげるとすれば
│┌− )/ 衆道に興味があるってとこかナー
ヽヽ 丿// 名前は高坂源五郎虎綱
┼┬┼
/┴┴┴┴┴ ̄\
| │ ┤ \
| │ │\ \
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| │ /│ │ │
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┌─ヽ 」 │ │
│ ├┴┴┴┴┤ 田田
│ │ ‖ ヽ / │
├-┤ / / LllLノ
0641人間七七四年
2012/01/08(日) 18:56:31.95ID:6xAhOce90643人間七七四年
2012/01/08(日) 19:25:55.79ID:zGL8/XaS正則死後、遺体は密かに家臣の手によって、荼毘に付された。
が、問題はその後の葬儀のことである。
やらないわけにもいかないが、幕府の検視を待たずに行った手前、大々的に行うのは憚られる。
考えた末に家臣達は、正則が生前、寓居近くの住職も居ない荒寺に、隠遁者のように暮らす
留守僧の事を思い出した。
この僧は正式な出家僧ではないものの、真言宗に属し、多少の学があり、正則はこれに帰依していた。
荒寺を修復し、自身の墓を建てる計画もあったという話だった。
そこで家臣たちは、この僧に頼み、一遍の読経を捧げるのみのごく簡素な葬儀を行おうとした。
が、まさにその時になって、ようやく正則死去を知った岩松院から、葬儀に待ったがかかった。
岩松院は、正則が信州高井野に着た際に、自ら菩提寺と定めた寺であった。
「菩提寺を差し置いて、他に導師を依頼するなど、とんでもない!
そもそも僧侶の資格もない導師に依頼するなんて有り得ない!」
と、猛烈に抗議をした。
まさに当然の訴えであり、家臣達は反論することもできず、岩松院の僧を大導師とし、
これに留守僧も参加して、正式な葬儀を行うことになったという。
(岩松院発行の冊子より)
0644人間七七四年
2012/01/08(日) 19:29:15.07ID:zGL8/XaSこの上記逸話のあとに、解説がついていて、
この地方の言い伝えに「正則を荼毘に付した時、暴風起こり雷の鳴る中、忽ち鬼が現れ、
骨を掴み上げ北に飛び去り、岩松院内に落とした。その場所に正則廟所を建てた」
( 正則公と杉:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2767.html )
とあるのは、おそらく、正則葬儀の顛末を示唆したものではないか? とのこと
0645人間七七四年
2012/01/08(日) 19:56:09.32ID:1lijqs2s<´ 鬼じゃ、鬼の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ , ;,勹
///// /:::: (y ○)`ヽ) ( ´(y ○) ;;| ノノ `'ミ
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| 彡,,,,, ,,, y ヽ
/ // |::: + 〉 〉|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;| l`゚ ゚' ミ |
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;| ⊂二二" ミ ヾ
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| 彡~~~~ ミ | はい、残りの二万石も
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ,-‐― 彡l川| ll || ll| il|―-、 ボッシュート
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/⌒⌒⌒\ |ll | ヽ
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__// / / /⊂) z W`丶ノW ヽ
0646人間七七四年
2012/01/08(日) 19:58:55.98ID:cMgbO/ZKそういう方面に熱心だったのかな。
0647人間七七四年
2012/01/08(日) 22:37:37.37ID:p4ICrS/G/⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う〜〜厩、厩」
/川‖‖| ‖| ゝ 古典厩を求めて全力疾走している某は
〈巛《〈〈 \巛 | 甲斐武田家に抗うごく一般的な信濃武将
│个 个 ヘ | 強いて違うところをあげるとすれば
│┌− )/ 衆道に興味があるってとこかナー
ヽヽ 丿// 名前は諏訪頼重
┼┬┼
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┌─ヽ 」 │ │
│ ├┴┴┴┴┤ 田田
│ │ ‖ ヽ / │
├-┤ / / LllLノ
0648人間七七四年
2012/01/09(月) 01:40:16.38ID:CI1nB6wQ0649人間七七四年
2012/01/09(月) 18:41:58.28ID:ASeFSQgs5月3日、雨降る
6日、雨降る
7日、雨降る
9日、雨降る
10日、雨降る
11日、雨降る
12日、雨降る
13日、酉の刻(午後5時頃)より雨降りだし候。大雨刀刻降り候
14日、雨降る。所々大水出候。田地損じ候。浜松へ人を遣わし候。
天正11年の、決壊までとめどなく雨が降っていたことのわかる、
三河洪水についての記事である。
0650人間七七四年
2012/01/09(月) 20:53:51.20ID:PD/d/tHeしかしまめに天気の事書くとか小学校の夏休みの日記みたいだな
0651人間七七四年
2012/01/09(月) 21:45:23.44ID:LbLxcmJK0652人間七七四年
2012/01/09(月) 22:06:27.85ID:I7XMhpB7というかヤバいくらい雨降ってたから書いたんじゃないのか?
0653人間七七四年
2012/01/09(月) 22:44:41.24ID:f4Pnk3Mx大体洪水なんて時代的に珍しくもないだろ
0654人間七七四年
2012/01/09(月) 23:02:10.71ID:QlOWZXF9ネタがないなら無理して書くなよ
日記や書状全部紹介する気かよ
このとき打ち上げられてたのが絵に書かれた人魚とか言うなら面白いけどよ
0655人間七七四年
2012/01/10(火) 12:19:02.31ID:2FxJt8woストーリー回しがこのスレの逸話に近い気が
0656人間七七四年
2012/01/11(水) 22:58:26.83ID:47kWdoKz細川忠興が様々な珍しい茶器を持っていると聞いた老中堀田正盛は、
細川邸に使者を送り「御秘蔵の御道具を拝見したい」と伝えた。
忠興が承諾すると早速細川邸に向かった。
食事を振る舞われた後、忠興はなぜか武具を持って来て説明を始めた。
その後も次々と武具を持って来ては説明をする忠興に、
腹立たしく感じたが怒りを抑えて拝見した。
結局忠興は茶器を最後まで持ってくる事は無かった。
後日、正盛は使者を細川邸に送り、なぜ茶器を見せてくれなかったのか詰問した。
忠興は答えた。
「堀田殿が御道具を拝見したいと申したので、その通りにしたまでです。
武家にとって御道具とは武具の事です。
武具以外に何をお見せすることができましょうか?」
(『茶窓閑話』)
0657人間七七四年
2012/01/11(水) 23:12:03.61ID:ntA/7Gl60658人間七七四年
2012/01/11(水) 23:12:56.35ID:xOGyxNop不良が「お前ん家のねーちゃん美人なんだって?パンツ持って来いよ」
って言うような感じだったんだろうな
で、頭にきた三歳さんが母ちゃんのパンツ持ってったって感じ?
0659人間七七四年
2012/01/11(水) 23:21:58.01ID:QmOoNs8Qhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5968.html
な感じで殺しかねないから、女の例えでは不適当のような
0660人間七七四年
2012/01/11(水) 23:32:31.86ID:4HAbAiU3http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1354.html
幽斎の逸話じゃなかったかなあと思って調べてみたらやっぱあったわ
定番ネタなのか、
どっちかが元ネタだとしたら氏郷みたいな有名所使ってる幽斎のほうが後っぽいな
0661人間七七四年
2012/01/12(木) 00:42:59.09ID:LLNJLeD+三斎さんの本質は文人より武人ってことなんじゃないのかな
まぁ、この場合は絶対ワザと武具を見せ続けたんだと思うけどねw
0663人間七七四年
2012/01/12(木) 09:48:47.79ID:3SvKgewEこれが格差か
0664人間七七四年
2012/01/12(木) 10:34:20.94ID:SoNKXL2e織部なら御道具を見せてくれと言われてどっちを見せるだろう?
0665人間七七四年
2012/01/12(木) 11:36:26.27ID:gBFBYdhA0666人間七七四年
2012/01/12(木) 20:17:02.03ID:0KSc17VZで忠興が武具を見せ始めて恥ずかしい思いをする係
0667人間七七四年
2012/01/13(金) 13:40:09.13ID:QXtAUjp+0668人間七七四年
2012/01/13(金) 17:26:28.00ID:wgB3PMiGおまえらも職場では気を付けろよ。
0669人間七七四年
2012/01/13(金) 22:44:00.84ID:yRrHkGxA0670人間七七四年
2012/01/13(金) 22:55:37.54ID:us13zJzn0671人間七七四年
2012/01/13(金) 23:01:14.38ID:NItGsTzW0672人間七七四年
2012/01/13(金) 23:22:19.89ID:qGEaPXcq0673人間七七四年
2012/01/14(土) 12:01:41.90ID:qJCYraEU0674人間七七四年
2012/01/14(土) 16:21:46.72ID:qnI6JcJv0675人間七七四年
2012/01/14(土) 18:37:26.08ID:az+5kIdB氏郷なら失敗しても取り立ててくれる。
道雪なら失敗しても褒めて庇ってくれる。
テルなら不細工な嫁さんをもらって別の所で遊べ。
忠興なら妻には近づくな。
鬼武蔵なら各務から離れるな。
家久(悪)なら近づくな。
長繁なら背後から鉄砲を構えておけ。
0676人間七七四年
2012/01/14(土) 19:13:11.17ID:qSzbqmnW0677人間七七四年
2012/01/14(土) 22:50:53.66ID:KW4LV8OGむしゃくしゃして無差別攻撃しかけるとか、狂犬に近いものを感じる
0678人間七七四年
2012/01/14(土) 23:07:21.71ID:ZYo/iiKF数多のヒャッハーさんたちはええええええええ!?って行動多いからな
0679人間七七四年
2012/01/15(日) 15:30:22.98ID:/89Pw9Q0好色家だった大友宗麟は領内の美女を集めては日夜踊らせていた
流石に家臣たちも止めようとするのだが、意見した者は片っ端からSATSUGAIされ、
宗麟も部屋に引きこもり美女生活を続けていたため、誰も止めることができなかった。
そこで道雪さんは、上方から美しい踊り子を立花城へ数十人連れてきて毎日踊らせた。
当然こんなハーレム話を宗麟がスルーするわけもなく、すぐさま道雪のもとへ使いがやってきた。
「お前が集めたという上方の踊り子を見たいから府内城へ連れてこい」
この時、道雪が「予想通り」と言ったかは定かではない。
すぐさま道雪さんは、一人で府内城へと行き「踊り子とワシが来たよ!って伝えてね」と国老達に言った
一方、そうとは知らぬ宗麟は、美しい踊り子(と道雪)がやってきたと例の国老達から聞き、広間に向かった。
しかし広間にいたのは道雪さんただ一人。
宗麟は思わず聞いた
「あれ?道雪、踊りk「そんなの居ません!だいたい殿は領主としての自覚を…((ry」え!?」
呆気にとられた宗麟は、打ち首にすることなく最後まで説教を聞いたそうな
そーりん様のバツが悪い話
0680人間七七四年
2012/01/15(日) 15:59:32.28ID:Q/Nq3RfMその別バージョン↑を読んでみたら
「殿といっしょ」のキャラクターそのままだという意見がちらほら
自分と同じ事考えたのがいたようだ
0681人間七七四年
2012/01/15(日) 16:15:29.97ID:kZ5edQlN, =ニ二三ミ '三`ヽ ¨ タ タ
/ /, -─一ー‐、 ヾ :
/ /// ヽi l :
/ /// .殺 | | .
| l l| u| | : 出た…
| | _ァ≒=、、 ir≒ァ|! | : 宗麟さまの
| l l| ´ ̄´,/| ト ̄´ |! | . 家臣の妻も俺のもの発言…
| | | | |||:
| ト u { _ _〉 ,ノ|||: ほ、本物だ!
| ∧ r─‐ァ /川! .
| | }、 } | || | :
| |\ `二´ || | :
| |\`ー──‐ァ‐'|八 : /う┐
_| | \___/ 乂. }:.. / r个勺_
 ̄ |j 川| | _/|_ _}\_ | |`ー-/ 〈/
八| ノ ̄| jノ 匸つ /
0682人間七七四年
2012/01/15(日) 16:27:54.32ID:sB7d7dwk/⌒ ⌒\
/( ●) (●)\
/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ 義父さん!遊びにきたお!
| 兼 |r┬-| 定 |
\ `ー'´ /
0683人間七七四年
2012/01/15(日) 18:34:24.26ID:N6Uy0pKe0684人間七七四年
2012/01/15(日) 18:59:31.54ID:aD3Dzml/0686人間七七四年
2012/01/15(日) 19:22:29.70ID:iOK384lBあと、弁護のしようがない他の人と違って、単に配下の豪族ともめて粛清したのが、
妻を横取りしたのが原因と曲げられて伝わってる説もあるし。
0687人間七七四年
2012/01/15(日) 19:25:31.46ID:uVHai4h5宗麟の家は…
0688人間七七四年
2012/01/15(日) 19:30:21.83ID:ufJ/ZaY+0689人間七七四年
2012/01/15(日) 19:54:44.34ID:6b+D+dSf0690人間七七四年
2012/01/15(日) 20:02:29.26ID:iB2lwa170691人間七七四年
2012/01/15(日) 21:14:11.49ID:FwFSSYyv0692人間七七四年
2012/01/15(日) 21:52:16.68ID:mIsgrATz「有能なだめ人間」という感じかな。
有能なんだけど、どこか人格に難ありというか。
0694人間七七四年
2012/01/15(日) 21:59:13.65ID:3Qu6AvoF地位も権力も能力もあるから手におえない
三家老みたいな家臣も有能だから、ダメ人間でもフォローできちゃうという
0695人間七七四年
2012/01/15(日) 22:14:24.73ID:ufJ/ZaY+どうなんだろその辺
0696人間七七四年
2012/01/15(日) 22:18:28.29ID:qDU5jasg0697人間七七四年
2012/01/15(日) 22:34:14.45ID:dOV6xKoe富田重政が同僚数人と宴会をしていた時のこと、
重政は席を離れ、欄干にもたれ掛かり庭園をぼんやりと眺めていた。
これを見つけた同僚の一人が、
重政の背後から近づき両脚をとって庭につき落とそうとした。
その瞬間、重政は飛び上がり庇の端に両手をかけると同時に、
同僚のアゴを蹴り上げた。
そして倒れている同僚を見下ろして、
「こんな悪戯はよせ」と吐き捨てるように呟いた。
(『高卑雑談』)
武士目線だと常在戦場の精神を忘れない重政さんのいい話だけど、
同僚が可哀想なのでこっちに。
0698人間七七四年
2012/01/15(日) 22:43:28.73ID:uVHai4h50699人間七七四年
2012/01/15(日) 22:48:17.85ID:mIsgrATzデウスに救いを祈った分、寺社仏閣を壊さずにはいられない、
私たちキリシタン大名って、そういう仕組みだったんだね・・・
0701人間七七四年
2012/01/16(月) 00:02:28.49ID:R+qFYsQV死体が持ち去られて別の場所に落とされるという伝承は多い。被害者は
恨みを受けて いたか、因業な性格だったとされることもある。例えば
奈良時代の僧・玄ムが こうした死に方をして、政敵だった藤原広嗣の
怨霊が祟ったのだ、とか。
想像だが、当時から「豊臣恩顧の筆頭格でありながら豊家滅亡の原因を
作った 福島正則は恨まれても仕方がない」と思われていたことが背景に
あるのかも知れない。
>>431-433俺が30年くらい前に読んだ子供向けの本では、石原豪人風の
リアルな 絵付きで「弾正星だ!また戦が起きるぞ」と諸人が怯える話に
改変されてたな
0702人間七七四年
2012/01/16(月) 00:45:07.98ID:tHQ4CcGO剣豪にバックアタック掛けて返り討ち、
なんてどこかで似たような話を見た事あるなと思ったら、
松林蝙也斎だった。
有名なエピソードだろうけど一応。
徳川家光の前で演舞をしたこともある高名な剣術家である蝙也斎(バガボンドにもチョイ役で出てる人)は常々、
蝙也斎「ワシを驚かせる奴が居るなら何時でも来い!」×3
と言っていた。
そんなだから、弟子達は常々虎視眈々と蝙也斎を驚かせる機会を狙っていた。
ある時、蝙也斎は弟子たちと一緒に川に蛍を見に行った。
(…師匠が蛍に見ほれている、ここで「ここに居るぞ!」をせぬわけにはいかぬ)
と思った弟子1は、不意に背後から蝙也斎を川へと突き飛ばした。
…蝙也斎は何事も無かったかのように川を跳び越え、対岸へと着地。
そのままのんびりと蛍見物をしていったのだそうな。
翌日、弟子1は師匠の蝙也斎の所を訪ねた。
弟子1「いやぁ、昨日は師匠のお供で愉快な蛍見物が出来ました」
蝙也斎「で、あるか。時に弟子1。昨日だが、君は何か無くさなかったかね?」
弟子1「えぇ…。とても大事な物を無くしたのですが、何処で無くしたのか全く見当もつかないのです」
蝙也斎「落としたものは此れだろう」
そう言うと、蝙也斎は敷物の下から刀を取り出して投げ與へた。
昨日丁度弟子1が蝙也斎を突き飛ばした瞬間、蝙也斎は対岸に飛び移るだけでなく、
弟子1に気付かれないようにその刀を抜き取って行ったのだ。
これを以って、油断大敵の教訓としたという事である。
0703人間七七四年
2012/01/16(月) 03:09:54.01ID:P1RuipOU刀を気付かれず抜き取ったのは流石
0704人間七七四年
2012/01/16(月) 11:26:41.79ID:XMfxH/E6自分の所業嘆いたりとか宗教に走って現実逃避とか
くよくよした面が目に付くからじゃね?
四天王の面々って退かぬ媚びぬ省みぬって感じで
自分のやったことを後になって一々ぐだぐだしない
内面では反省したり悔やんでるかもしれないけど
アレは過ちだったとか過去の自分を否定したりはしない
その辺が四天王に入れない市松とか宗麟とかの違いじゃないかと
0705人間七七四年
2012/01/16(月) 11:31:41.09ID:JX6BlRMgDQN四天王だしw
0706人間七七四年
2012/01/16(月) 11:49:48.98ID:f14y0DS30707人間七七四年
2012/01/16(月) 12:42:28.05ID:2qXDt+6z0708人間七七四年
2012/01/16(月) 13:15:32.42ID:BIqM01Gy0709人間七七四年
2012/01/16(月) 14:13:27.70ID:0eOY/Y+v>>704
宗麟のエロ話は痛い目に合わされた毛利の捏造話というのが定説です。
本来の宗麟は病弱でしょっちゅう寝込んだりした為、大きな仕事が出来なかった
(体力が続かない)おまけに妻はヒステリー持ちで家庭的にも心が休まらない
その為虚無的になったところをキリスト教に付け込まれたと思われます。
(カルトの常套手段ですね)
0710人間七七四年
2012/01/16(月) 16:04:50.26ID:y+dpvJwq宗麟は大友家の当主に相応しく和歌や舞のみならず学識もあり、神仏についての見識があった
宗教への心得があった
精神的な衰弱があったとしても、その信仰はキリスト教の新奇さと敬虔さからくるもので、
宣教師にたぶらかされるほど馬鹿じゃないよ
それに当時の社会的文化的状況を鑑みれば、「カルトの云々」なんて現代の価値観で判断すべき問題じゃない
0712人間七七四年
2012/01/16(月) 17:54:31.48ID:Mvf7lzVqまるで赤を見てるみたいだ
0714人間七七四年
2012/01/16(月) 21:43:21.67ID:1bM2LZ3A0715人間七七四年
2012/01/16(月) 22:17:07.31ID:Lv5gLTCb0716人間七七四年
2012/01/16(月) 22:21:47.46ID:Z7H2vYjl当時、ヨーロッパから日本人に布教へ行くなんて、
今なら火星人にキリスト教を広めるって言うようなもん。狂気すぎる
今のカルト宗教家は楽して金儲けしたいだけの豚しかいない
0717人間七七四年
2012/01/16(月) 22:48:21.80ID:y/j/2gzr0719人間七七四年
2012/01/17(火) 11:33:35.34ID:ja499xHL江戸時代の話だが
http://mukankei961.blog105.fc2.com/blog-entry-766.html
みたいなのもあるからいつのまにやらスパーキャラにされるのはよくある事だったんだろう
0721人間七七四年
2012/01/17(火) 11:42:59.69ID:KMAg7rRm講談「宮本武蔵伝・狼退治」というのを聞いてたら、その関口氏業の弟、関口弥太郎氏暁というのが
宮本武蔵に鳥のように飛べる術を教えたことになっていて、武蔵がその術のお陰で佐々木巌流に勝てたってことに
0723人間七七四年
2012/01/17(火) 15:03:32.54ID:zEzPJ5T9本物のエスパー剣士だったの?
0724人間七七四年
2012/01/17(火) 15:10:19.31ID:Bb1EsPMD⊂ \ /つ===|ニニニニニニニ>
\\ /⌒ヽ//
⊂⊃ (( \( ^ω^) ))
/| 武蔵 ヘ
//( ヽノ \\
⊂/ ノ>ノ \⊃===|ニニニニニニニ>ブンブン
レレ スイスーイ ⊂⊃
彡
0725人間七七四年
2012/01/17(火) 17:51:55.78ID:Qq//8JEl国境画定の作業を進めていた。しかし毛利氏の実効支配が進んでいた美作地域の、羽柴方への
割譲に、家中から強い不満が噴出し、毛利家当主輝元もこの家中世論を無視できず、国境交渉の停滞も
起こりかねない状況となった。
これに危機感を抱いた毛利の交渉担当者、安国寺恵瓊と林就長は連署の書状を送り、輝元に決断を迫る。
その書状にはこのようにあった
『現在、毛利家中の上下の心中を見れば、去年以来の数度の戦闘の事を忘れ去って、今では今回の
国境策定は理由のないものだと考え、皆がのぼせ上がっております。これはある意味仕方が無いのかも知れません。
ですが思い出してください。前に鳥取城を攻められた時、北口(山陰方面)の衆はその救援すら出来ませんでした。
また去年、南面(山陽方面)の冠山城、宮路山城が攻め落とされ、高松城が二重三重に取り巻かれる。
我々はそうなってからようやく軍勢の集結をして出陣したのではありませんか?
その状況は今だって来年だって変わりません。上方の軍勢は10日や15日の間に出陣するというのに、
この芸州では、たとえ御三殿様(毛利輝元・吉川元長・小早川隆景)が既に途中まで出立したとしても、
軍勢が集結するまで50日。少なくとも30日以内ということはありえません。
このようでは南北の入口の一つすら守ることは出来ません。
これらは児島、松山、高田などの割譲について、今も毛利家中の意見があまりに無分別なので書いているのです。
その事は解っていただけると思いますが、驚かれることもあるでしょう。
御三殿様、そして福原貞俊、元俊殿によりご内談なされるのは、恐れながら今この時です。
正月も何も関係ありません!かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ
弓矢を取ってご出陣成されました。
逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。
大内義隆がどうなったか、よくご存知でしょう。
山名、赤松、土岐、細川、朝倉といった人々は皆大大名だったのに、今は跡形も無くなりました。
我々の直ぐ近くでは、名家である河野殿に、長宗我部が戦うごとに勝利を収めています。
九州ではあの大友殿が、百姓のような者である龍造寺に追い詰められています。
また、現在の天下の形勢をみるに、甲斐武田殿、また直近の柴田滝川、彼らは自分たちの都合を主張し、
そのため即座に敗亡しました。
われら芸州は未だ6,7ヶ国を保っております。それらの統治は安定しており、長久のものとなるでしょう。
これは鉢開きのご正慶というべきです。
小僧のごとき私(恵瓊)がこのように申し上げるのは、口幅ったいことではありますが、今日、京都五畿内の事は
言うに及ばず、日本の半分ほどを見回している私の目は、世の中を見ていない連中のそれとは少々違います。
そして芸州の、殿のお側の人々は慢心していて、世の中が見えていません。
今の世の中というのは、男に華麗な衣装も言葉遣いも必要ありません。どんな分限者であっても、駆け馬一疋で
公の用を成すことが出来ます。しかし今の殿の周りでは華麗な分限者ばかりを召し連れ、そうでない人々を
排除しているように見えます。仏の前で説教するようなものではありますが、今の公私のご分別は
間違っているように見えるのです。繰り言ではありますが、あえて申し上げました。』
(毛利家文書・12月15日安国寺恵瓊・林就長連署書状)
安国寺恵瓊による、本能寺のおかげで虎口を脱したというのに、早くも喉元過ぎて熱さを忘れている毛利家中と
輝元に対しての警告である。
0726人間七七四年
2012/01/17(火) 18:00:18.20ID:aikk9VdH富田城を元旦に奇襲して奪った経久なのに
0727725
2012/01/17(火) 18:14:52.81ID:Qq//8JEl×御三殿様(毛利輝元・吉川元長・小早川隆景)
◯御三殿様(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)
申し訳ない
0729人間七七四年
2012/01/17(火) 18:37:48.39ID:j1diPcou0730人間七七四年
2012/01/17(火) 18:48:40.65ID:yCrqyqtGなかなか気骨あふれる坊さんじゃない
もし安芸武田家が残っていたら、毛利家にとって脅威になっていたかもな
0731人間七七四年
2012/01/17(火) 19:20:03.42ID:/tGk8T7T0732人間七七四年
2012/01/17(火) 19:57:32.92ID:dbkQhh6dってのはどうなんだろう。この人、普段からこんな感じだったのかな
いかに言ってることが正しくてもこんな調子ではなかなか納得してくれないと思う
ちゃんとコンセンサスがとれなければ実行する時に困るのに
0733人間七七四年
2012/01/17(火) 20:13:56.12ID:/tGk8T7Tタイプ的に呉起とかそっち系かな。
学識ある坊主ならそういう失敗例もよく知ってるはずだろうに。
0735人間七七四年
2012/01/17(火) 20:38:11.66ID:qMWzSwQNこんな(首脳陣にとっては)わかりきってる正論ではなく、説得方法を考えればいいのにとも思う
そういう意味ではテンプレイメージとしての三成、兼続に近いのかね
0736人間七七四年
2012/01/17(火) 20:43:11.33ID:gTd9uPVJ本多正信と足して2で割りたい。
間違えて正純と足すと大変なことになりそうだ
0737人間七七四年
2012/01/17(火) 21:10:29.49ID:DPfD7WuH前田→上杉ときたら次は宇喜多か毛利しかないだろうに
徳川はその四つつぶせば関ヶ原なくても天下とれるのはわかってんだから
前田みたいに靴の裏舐めるか戦うかどっちかにしろよ阿呆ってことだろ常考
0738人間七七四年
2012/01/17(火) 23:04:22.97ID:Q2xA8n9Zこの頃の毛利家は、まだまだ国人連合から抜け出し
きれてないので、重臣間の利害を調整するのが大変。
ただ恵瓊は、ここで遅れると毛利家の危機だからこそ
必死になって訴えてるんだと思う。
0739人間七七四年
2012/01/18(水) 01:18:34.85ID:tVZOeYNU元就死後も勢力は順調に拡大しているのに何というかもっさりした動きに
0740人間七七四年
2012/01/18(水) 01:31:26.52ID:o97eQVGB0741人間七七四年
2012/01/18(水) 02:38:28.80ID:xwullzVz佐々成政程度には
0742人間七七四年
2012/01/18(水) 02:51:33.41ID:od/ZFm3w徳川家中での石川の例もあるしw
0743人間七七四年
2012/01/18(水) 09:16:08.54ID:lAeSGNxI賢い奴は、秀吉が死んだら手のひら返して、徳川に接近してるし
0744人間七七四年
2012/01/18(水) 09:41:20.91ID:stsKgq930745人間七七四年
2012/01/18(水) 11:40:50.84ID:wogidobT大きな間違いは減るかもしれないけど、機敏な行動を取るには向かないよね〜
元就さんは自分が死んだら天下とかよりも大毛利の現状維持を第一に考えて、
両川体制しいたと思うわ〜
まぁ、TERUさんじゃなくお兄ちゃんが生きてたら話しは違ったのかもしれないけどw
0746人間七七四年
2012/01/18(水) 16:44:29.62ID:uB/h0mse急の使者が訪れた。
『戦のことについて相談したいことがあるので、下八万の夷山城(現徳島県徳島市八万町)
に来て欲しい』
当時元親に従っていいた成助は直ぐに承知し、時を移さず夷山城に参上した。
元親は成助と、相伴としてその舎弟主計頭、星相六之進の計三人を内室へと呼び入れた。
こういう時、元親という人がやることは一つである。
部屋の周りには元親の侍共が隠し置かれていた。
元親は3人の隙を伺い、合図と共に侍たちが乱入。成助たちは皆、討ち果たされた。
謀殺の後、控えの間にて主君を待っていた成助の家臣、一宮主水正と坂東市正は、
城内の雰囲気を怪しいと感じ、とっさに元親の家臣の一人を人質に取り、命を取り留め
一宮城に帰ることができた。
成助は謀殺された無念から、死後亡霊となったと言われ、首なしの馬に乗る阿波の妖怪『夜行さん』の
モデルにもなったとされる。
長宗我部元親による一宮成助謀殺、についての逸話である。
(三好記)
0747人間七七四年
2012/01/18(水) 17:09:33.00ID:JOAOCfg8近くに山城という地名があるけど、関連性はあるのだろうか
0748人間七七四年
2012/01/18(水) 17:15:56.40ID:NQzX74Fw0749人間七七四年
2012/01/18(水) 17:32:16.54ID:VXxC3aU9信長のときも秀吉のときも征伐上等かましたりとか、
生まれた場所がよかったら天下とってたとか天下人の秀吉に語ったりとか。
世渡り上手になれなくて損ばかりしてる気の毒な人って印象が強い。
元親の子までも怨みこそあれ、恩なんかないはずの豊臣家に最後まで付き合わされるし。
0750人間七七四年
2012/01/18(水) 17:41:42.85ID:gxXseOz90751人間七七四年
2012/01/18(水) 19:26:19.76ID:DvPR1gcq中学生の頃は「超スケベ元痴漢」とかひどい言われようでした。
まさか歴女に人気が出るとは思ってもみませんでした。
0752人間七七四年
2012/01/18(水) 19:46:29.97ID:oR5C5RYyいつの間にか征服されたことになってる人、かな(そもそも関心が薄い)
>まさか歴女に人気が出るとは思ってもみませんでした。
内陸部出身なのに海賊キャラはないわな
配下の水軍だって輸送以外でぱっとしないし
0754人間七七四年
2012/01/18(水) 20:08:23.84ID:DuflSx4s結局そうなってしまったとこに悲哀を感じるってことじゃないの
基本的には本人達の実力的な問題なんだけど
長宗我部家は一時を除いて国親の時代から悲壮感が漂ってる印象
0755人間七七四年
2012/01/18(水) 23:43:26.08ID:tRDjbcM5http://jul.2chan.net/may/b/src/1326887466574.jpg
http://sep.2chan.net/may/b/src/1326887685938.jpg
http://sep.2chan.net/may/b/src/1326887699050.jpg
http://jan.2chan.net/may/b/src/1326888150159.jpg
0756人間七七四年
2012/01/19(木) 02:25:34.14ID:5LUT9kZ/0757人間七七四年
2012/01/19(木) 09:47:15.87ID:NLNtVd4U全般的に高いレベルだとは思うんだがどこをとっても中央の名人たちには及ばない印象。
鳥なき里のってのはよく言ったもんだと思うわ。
0758人間七七四年
2012/01/19(木) 10:18:17.58ID:nkGA/Iv20759人間七七四年
2012/01/19(木) 10:54:14.68ID:noB3b5Ez0760人間七七四年
2012/01/19(木) 11:27:26.88ID:UJnq3s4+0761人間七七四年
2012/01/19(木) 11:55:22.02ID:OL+LPGVZただ現代でも最先端と装備と軍制をもつ軍がいつでも優位とは限らないように、
土佐や阿波南部では、兵数や戦い方に寄ってはかなり有用だったんじゃないかな。
ところで讃岐、伊予に進出したころでも、依然として一領具足は長曽我部軍の主力だったのかな?
詳しい人教えて。
0762人間七七四年
2012/01/19(木) 11:58:37.36ID:1xyY51SG他の大名はそれらを軍役衆や同心衆として組織化していったが
後進地域の長宗我部家ではいつまでも零細地侍として残ってたというだけの話
0764人間七七四年
2012/01/19(木) 12:25:52.05ID:OL+LPGVZしかし元親が「保護しろ」と言っているという事は、
「時代遅れだし変えよーゼ」って声も無視できない程度にはあったんだろうな。
イメージとしては久武あたりが言いそう。
0765人間七七四年
2012/01/19(木) 13:26:14.75ID:1xyY51SGどういう事かと言えば豊臣配下になったことで軍役負担が中央基準になり負担増
さらに土佐一国検地の結果石高が2倍に増える=同じ土地でも軍役や税が2倍増
四国内時代に比べて4,5倍の負担増なんて零細の俺たちには無為無理!帰農する!
という事態になり帰農禁止した上で保護政策も同時に取ったという訳
0766人間七七四年
2012/01/19(木) 13:38:00.43ID:0zwKSVXm0767人間七七四年
2012/01/19(木) 16:12:34.19ID:L1sxgKzt実に惜しい
0768人間七七四年
2012/01/19(木) 16:22:15.60ID:tSrsllzw本願寺十世・証如は、京兆家当主・細川氏綱からの年始の祝儀(贈り物)を見て、思わず『呵々(かか)』と
笑ってしまった。
それは贈り物が粗末だったから、ではない。氏綱が送ってきたのは折(曲げ物に入れた詰め合わせ)10合で
あったが、その内の5合は、なんと当の証如が10日ほど前に、同じく年始の祝儀として三好長慶に
贈ったものであったからだ。
つまり証如の贈り物は
証如→三好長慶→細川氏綱
↑ │
└───────┘
と、10日ほどの間に巡り戻っってきたわけである。
お歳暮などで今でも有りそうな、贈り物が戻ってきた、というお話。
(天文日記・正月二十四日条)
0769人間七七四年
2012/01/19(木) 16:33:24.07ID:cWTGX6Rq証如→三好長慶←細川氏綱
ってならないだけ平和でよいですなぁ
0770人間七七四年
2012/01/19(木) 18:44:12.55ID:FaMnoDg10771人間七七四年
2012/01/19(木) 19:19:58.25ID:kSHdk7Xb↑ │
└────10────┘
なのか
証如─5→三好長慶─10→細川氏綱
↑ │
└────10────┘
なのか気になる
0772人間七七四年
2012/01/19(木) 19:20:48.15ID:n67tShpP0773人間七七四年
2012/01/19(木) 20:31:58.95ID:X9FkdHmT『俺は長尾の為ちゃんから鷹を二羽貰おうと思ったら
いつの間にか一羽になっていた』
北条氏綱「な…何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされry」
0774人間七七四年
2012/01/19(木) 23:50:48.25ID:SAE7jyC7「若様、お話したいことがあるのですが」
「何?」
「実は徳川に仕官し……『あー却下」
「まだ最後まで言ってないんですけど」
「いやいや絶対駄目だし。何だようち(真田家)じゃ不満?」
「徳川には親類も仕えてますし」
「アーアー聞こえない」
「おい……」
「嫌だ嫌だ嫌だ、いいか?行くなよ?絶対だぞ。はいこの話終わり!」
とにかく信幸は祢津志摩の徳川行きをゴネて必死に止めたそうな。
関ヶ原・犬状の別れの際の二人
「親父から呼び出し来たからお前も早く準備して」
「お一人で来いとの御達しでは…?」
「ああいいから早く。てか俺が行くんだからお前も一緒に来て当然だと思う。常識的に考えて」
「ちょっと意味分かんないです」
『関が原乱起りて(以下略… 道筋より三丁計脇の野へ安房守併左衛門佐唯二人相越、
長子信幸を招きける、伊豆守ハ祢津志摩一人召れて其処へ行けり(以下略…』
出典は「長国寺殿御事蹟」か「真武内伝附録」←こっちが元祖かも
それなりに常識人に見られがちな兄も、戦場では無双モード発動しまくるわ、
普段は面倒臭がりなとこもあるわで、家臣からすれば立派に手のかかる人だったんですね。っていう悪い話?
0775人間七七四年
2012/01/19(木) 23:53:16.18ID:rHzT4aXy0776人間七七四年
2012/01/19(木) 23:57:14.48ID:+u7F9AaD0777人間七七四年
2012/01/20(金) 00:01:10.24ID:PEg0mhXj0778人間七七四年
2012/01/20(金) 00:06:20.08ID:tb3YdIQF<黒駒合戦>
1万人の北条兵を2千で迎撃しなければならない・・
下手に手を出して全滅すれば瞬く間に家康の本陣が危機にさらされる
そこで南方面大将である鳥居元忠は待機し相手の出方を伺う方針を立て、それを諸将へ伝えた
伝令「勝成様、元忠様からの伝令で、各自、指示が出るまで決して勝手に戦端を開かぬように、との厳命です。」
勝成「了解した。突撃だな。」
伝令「??あ・・・あの、待機・・。」
勝成「うるせぇ!!!!俺はどんな命令が下ろうとも最初から突撃以外する気などさらさらない!!!」
勝成「貴様らかかれ!!鳥居元忠の奴が全軍に突撃を命じたぞ!! 出遅れた奴は俺が殺す!!! 逃げる奴も俺が殺す!!! 敵は俺が殺す!!!」
伝令「・・・という次第で水野隊が突撃していきました。」
元忠「・・・・・・はぁ?何言ってるんだ?」
結局、水野勝成自らが槍を持って敵陣最激戦区に斬り込み、大将首を挙げ、この合戦に勝ちましたとさ・・
0779人間七七四年
2012/01/20(金) 00:22:24.99ID:KLS3froE> 出遅れた奴は俺が殺す!!! 逃げる奴も俺が殺す!!! 敵は俺が殺す!!!
腹抱えてワラタ。もう嫌この基地外w
0780人間七七四年
2012/01/20(金) 00:37:41.05ID:jjjzKpQq0781人間七七四年
2012/01/20(金) 00:50:17.99ID:/U6wxsr90782人間七七四年
2012/01/20(金) 01:13:08.36ID:mRLblFIN0783人間七七四年
2012/01/20(金) 01:15:21.05ID:UQIfc1yt0784人間七七四年
2012/01/20(金) 01:29:50.13ID:tb3YdIQF0787人間七七四年
2012/01/20(金) 08:39:03.25ID:6WgcKEMghttp://gnusoku.blog41.fc2.com/blog-entry-403.html
70ぐらいからの丸パクリ
0788人間七七四年
2012/01/20(金) 08:47:54.34ID:6aRsRuvy0789人間七七四年
2012/01/20(金) 08:49:31.38ID:/RSoHYnZ黒駒合戦って天正壬午の乱の中でも最も重要な戦いでしたね。
勝成の暴走のおかげで北条の戦意を落とし甲斐から撤退したおかげで
徳川家が甲斐信濃を確保できたわけだし。
もしこの戦いで敗れていたら、北条の本隊4万と黒駒からの軍1万との
挟み撃ちで1万程度の家康自体非常にヤバく、甲斐信濃攻略どころか徳川家の存続がヤバく
間違いなく甲斐信濃から撤退は確実だっただろう。
そうなると徳川の天下はまずなかっただろう。
そう考えると水野勝成の暴走って恐ろしすぎる。
勝成って間違いなく運持っているわ。
0790人間七七四年
2012/01/20(金) 09:38:21.43ID:/RSoHYnZちなみに、25歳で死んだ家康の祖父である松平清康も水野の血を引いている。
水野の血は恐ろしすぎる。
0791人間七七四年
2012/01/20(金) 12:18:23.95ID:w9Xt6lnx儀礼と経済のあいだ』(中公新書)に載っている話みたい。Amazonによると、
<一年中贈り物が飛び交い、損得の釣り合いを重視する中世人の精神を探り、
義理や賄賂といったイメージをまとい続ける贈与の源泉に迫る>
だそうだから、ここの住人には面白そうな本だ。いつも思うが、戦国時代に
他家の領内を通って進物や書状を届ける(織田信長や長尾景虎は自ら上洛も
しているが)ってどんな状況だったんだろうか?逸話レベルだと明智光秀の
毛利家への使者が秀吉陣中に迷い込んで講和&中国大返しとかもあるけど、
意図的な暗殺や捕縛だけでなく野盗、事故、病気、路銀が尽きた等々あった
だろうし、そのうえで外交官としても振る舞わなければならんし。
0792人間七七四年
2012/01/20(金) 12:36:03.36ID:w9Xt6lnxhttp://www.leed.co.jp/book/b1069.html
http://yj.shueisha.co.jp/web_comic/oxalis/
姫若子を偽装して力を蓄え……というのが序盤。元親のダークサイドを
どこまで描くかは分からないが(特に岡村賢二の武将漫画は主役補正が
激しい)。
滅亡寸前の自家→土佐&四国切り取り→天下人と部下に振り回される→
関ヶ原&大阪の陣で今度こそ滅亡という流転は戦国時代の象徴として、
ブラック元親もスルーせずに大河ドラマにしてもらいたいな。
0794人間七七四年
2012/01/20(金) 12:45:38.54ID:/kHDz4wgちなみに当時の水野家は徳川家の家来じゃなく、
織田信長における家康みたいな関係だった。
水野勝成が放浪の末に徳川家康に帰参出来たのは身内だっただけではなくこの戦いのおかげだったかも
0795人間七七四年
2012/01/20(金) 12:51:38.47ID:mRLblFIN0796人間七七四年
2012/01/20(金) 12:54:03.73ID:HmIo6lKP0797人間七七四年
2012/01/20(金) 12:58:04.03ID:mRLblFIN0798人間七七四年
2012/01/20(金) 13:15:45.15ID:04RTp/yBつ[人間無骨]
つ[百段]
さあ解き放つがよい・・・・・
0799人間七七四年
2012/01/20(金) 13:16:37.33ID:VKVhtOkh0800人間七七四年
2012/01/20(金) 14:00:02.00ID:STUy+9IK矢沢頼綱の槍「小松明」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3833.html
(小松明の能力をジョジョのスタンドで例えるならこの槍一本でマジシャンズレッド(炎)、クリーム(空間操作)、
アクトン・ベイビー(透明化)の能力を同時に使う事が出来ると書いていたが、↓の>>516丸写しだった)
http://gnusoku.blog41.fc2.com/blog-entry-404.html
今は消えているところを見ると、>>778もまとめにはいらないんじゃないか
0801人間七七四年
2012/01/20(金) 17:24:57.74ID:F6rZ1Vrs逸話の書き方もそれぞれなんだから、別にいんじゃね?
調子にのって次々投下しなければ
0802人間七七四年
2012/01/20(金) 17:44:12.96ID:onOnKsUF0803人間七七四年
2012/01/20(金) 18:03:13.52ID:/kHDz4wg他のスレとかで見つけた話でそのまんま丸写しでも違った反応が見れて いいと思うけど
そんなしょうもない事にこだわらなくてもいいんじゃない
0804人間七七四年
2012/01/20(金) 18:23:27.88ID:TIoaKEia投下する本人がその逸話の出典とか知らなきゃ
いくら逸話だといっても勘違いとかミスとかに気づかないで
あたらしい逸話を創作してしまうことにもなるぞ
0805人間七七四年
2012/01/20(金) 18:29:36.76ID:TKqtzodu0806人間七七四年
2012/01/20(金) 18:48:58.42ID:6WgcKEMg0807人間七七四年
2012/01/20(金) 19:54:40.18ID:F6rZ1Vrs普通の説明文を自分なりに分かりやすく、面白く解釈して文にするならいいけど
もとから他人が面白く作っているのを、丸コピペはさすがに不味いね
この真田コピペが良い例か
0808人間七七四年
2012/01/20(金) 20:35:24.72ID:0HcMdRtQhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1318871564/
0809人間七七四年
2012/01/20(金) 21:17:57.79ID:c088b9c4このスレの方はやる夫読んでる人多そうだし不快な思いさせたならごめん
てかパクリや転載なんて、そんなすぐバレるような事はするつもりもありません
今後もし投下することがあったら歴史系のやる夫スレを調べてからにします。ごめんなさい
管理人さんへお手数かけますがまずいようでしたら、
>>774に投下した逸話はまとめの方に載せないでもらえるとありがたいです。申し訳ございません
0810800
2012/01/20(金) 21:21:38.35ID:yvIOkj1xやる夫にあった逸話は>>778であって、
信之の逸話という共通点はあるものの、貴殿の逸話はおそらくやる夫真田スレでは語られてないかと思います
そのため、>>774をまとめスレから排除する理由はないと思われます。
0811人間七七四年
2012/01/20(金) 21:24:35.94ID:yvIOkj1x>>785氏は>>774のことだと思ったのかもしれませんが
0812人間七七四年
2012/01/20(金) 21:29:48.82ID:c088b9c4うわああああそうでしたか…今みんなのレスを見返して気付きました
すみません早とちりしてしまいました。お恥ずかしい
ついでに>>776の言うとおりいい話の方が良かったかもしれませんね
重ね重ね申し訳ない
0813人間七七四年
2012/01/21(土) 16:59:55.98ID:rJgb+r7o左候て後、高ころびあをのけにころばれ候すると見え申候。
藤吉郎さりとてはの者にて候。』
この言葉で有名な、安国寺恵瓊の天正元年12月12日付書状。
実はこの書状には、もう一人別の重要人物に関する人物評が書いてある。
それは織田信長の使僧であり、フロイスから「日本のアンチキリスト」「庶民の欺瞞者」「肉体に宿りたるルシフェル」
と罵倒された朝山日乗について、である。
恵瓊は、こう言う
『日乗は全く異能の人物です。信長にとって彼は、昔の周公旦に対する太公望のようなものです。
似合いたるものは出会いたるとはこの事なのでしょう。
然しながら、今現在において彼の行なっていることは、我ら芸州にとっても重宝と言うべきでしょう。
今度の調え(将軍義昭追放にともなう混乱の処理)も、みな尽く彼の奔走によって成立しました。
ただ、これは危ういと考えます。我々は藤吉郎(羽柴秀吉)への取次まで、日乗に頼っています。
この事について、どうか御推量ください。』
この時期の朝山日乗に存在感の大きさを、存分に表している記録であろう。
(吉川家文書)
0815人間七七四年
2012/01/21(土) 18:52:38.98ID:bTMAn5bQ0816人間七七四年
2012/01/21(土) 19:04:01.78ID:GA35w0jv失脚というのはキリシタンが言っているだけで、実際には死亡年から見ても、この時期あたりから
体調を悪くして表舞台から去った、と見るのが今は主流だと思う。>日乗
0817人間七七四年
2012/01/22(日) 16:44:28.82ID:MfyVFNAi『今まで書状をお送りしたことがありませんでした。今、謹んでこの書状を送ります。
この愚僧(恵瓊)は毛利家に仕える者です。
所で最近、羽柴筑前(秀吉)と毛利の間に和睦の義が相整い、これに伴い色々と情勢の変化があったので、
秀吉よりその説明のため、豊州(大友家)まで使いを下向させます。
ついては秀吉は、貴家(島津家)に対して、鷹を所望されています。
でありますので、この書状を以てそれを申し入れます。
尤もご持参なさるのは難しいでしょう。貴国は豊後まで国境を遠くへだったっております。
ですので、休庵(大友宗麟)まで飛脚によって送っていただければ、そこから秀吉のご覧に入れます。
羽柴筑前から貴家への書状の書礼が粗末ということで、島津家に対して礼を失しているように思われたでしょうが、
これは今、彼が公家となったためなのです。
どうかこのあたりをご分別いただければ、この上の喜びはありません。
京都において何か御用のことがあれば、どうぞどんな事でも仰ってください。
今後の猶の音信を期して。恐惶謹言。
三月十五日
島津殿
安国寺』
(薩摩旧記雑録)
島津義久が秀吉の書状の無礼さに怒った、という話は有名ですが、そのフォローを安国寺恵瓊が
していたのですね。
0819人間七七四年
2012/01/23(月) 07:56:11.71ID:tMsrIsrg0820人間七七四年
2012/01/23(月) 10:31:23.55ID:A1Yd9z+Y三国志はまだ一騎打ちっていうシステムがあるからいいけど
一騎武者って表現が適切かどうかは微妙だけどねorz
0821人間七七四年
2012/01/23(月) 10:46:10.81ID:Jl7bIYIKま、後期シナリオじゃなぜかSに化けてたが
0823人間七七四年
2012/01/23(月) 11:55:24.20ID:YapjXU1r扱いが違いすぎる
0825人間七七四年
2012/01/23(月) 12:57:33.84ID:vu6LukV/0827人間七七四年
2012/01/23(月) 15:20:14.41ID:YdtnbgAD鮭「ちゃんと兜してなきゃダメだよね」
0829人間七七四年
2012/01/23(月) 18:25:05.26ID:PpsF+v76昨夜、唱門師村(下級の陰陽師(唱門師)の集住する村)の旧屋敷の近辺において、
高倉少将範国が賊徒に襲われ闘ったが、散々に手負い今朝死んだという。
この人は柳原亜相(淳光)の実子である。
私も柳原亜相とは常々、別して仲良くさせてもらっている。本当に驚いている。
先に見舞いに行っていた侍従(吉田兼治)が帰ってきて言うには、柳原亜相は正体がないほど
打ちひしがれているという。
6日
京に出て、柳原亜相の元に行き対面し、高倉殿のこと、その不慮に驚き入ったことを
申し上げた。
柳原亜相は、この事件が(唱門師村のあった)川原で起こったこと。
こんな事は聞いたこともないということ、などを語られた。
(兼見卿記)
秀吉支配下の京ではあるが、この頃でも、高級公家ですら賊に襲われ殺されるような治安状況であった、
という事を今に伝える記録であろう。
0830人間七七四年
2012/01/23(月) 18:42:04.23ID:EKpAdN1W0831人間七七四年
2012/01/23(月) 18:54:58.83ID:A1Yd9z+Yってことは聞いたこともない位に珍しく凶悪な事件という風には捉えることはできないの?
高級公家だからこそ襲われたという風には考えられないのかい?
教えて学のある人〜
0832人間七七四年
2012/01/23(月) 20:06:03.69ID:YapjXU1r平安時代には強盗を生業にしていた藤原保輔なんて貴族もいたけどねえ
0833人間七七四年
2012/01/23(月) 20:07:41.94ID:q7T7grj20834人間七七四年
2012/01/23(月) 21:33:35.84ID:fOqWrNjp0835人間七七四年
2012/01/23(月) 22:26:12.90ID:WXBb9gW80836人間七七四年
2012/01/24(火) 05:16:44.12ID:r3WO69rk彼は元々江戸崎の土岐大膳大夫治英の一族であったが、彼の領地のあたりは全て
東條庄であったので、この地名を苗字としたのだという。
ところで、この東條重定は、小田天庵氏治が未だ小田に在城の頃、双方に
不快のことがあって、いつも争っていた。
ある年、和泉から18〜9丁(約2キロメートル)ほど隔たった小坂という場所で
天庵と戦った。
この時江戸崎の土岐治英も兵を出し重定を援けたが、天庵は強力に戦い、
重定はついに敗北して討ち死にした。
これにより東條の家人たちは和泉の城を保つことが出来ず尽く退散。
和泉の城は落城した。
この時、東條重定の母は年老い病に臥せっていたが、土岐治英は彼女を哀れんで
引取り、江戸崎と龍崎の間にある太田という所に小さな庵を作って、そこに隠居させ、
俸米の地を与えこれにて養った。
彼女の死後、その庵を寺として、彼女の院号を以って寺の名とし、桂芳院と称させた。
そして彼女に与えていた俸米の地をそのまま、その寺領とした。
今(江戸時代)に至るも、桂芳院はその寺領をそのまま保っている。
(常陸治乱記)
常陸桂芳院の縁起ですが、珍しく天庵様が大勝しているお話w
0837人間七七四年
2012/01/24(火) 05:33:30.23ID:MJwUdaGo0838人間七七四年
2012/01/24(火) 10:09:57.39ID:Z6vjVqwKということにしておこう
0840人間七七四年
2012/01/24(火) 14:23:19.72ID:vh/sRUfE0841人間七七四年
2012/01/24(火) 15:09:23.73ID:BBCl8Ghd問題はない
0842人間七七四年
2012/01/24(火) 16:02:01.57ID:OaLnnoKf0843人間七七四年
2012/01/24(火) 16:26:14.50ID:iOJZHP+10844人間七七四年
2012/01/24(火) 16:31:31.15ID:+5H+T6Ny常に負けるわけではないが負ける時は・・・
0845人間七七四年
2012/01/24(火) 16:34:17.85ID:SLM0l4pE「常北(常に逃げる)将軍」でよかったんだが
0846人間七七四年
2012/01/24(火) 16:39:03.50ID:sRo5f9ME郷土の誇りとしてチバラギ将軍じゃだめ?
0847人間七七四年
2012/01/24(火) 21:34:11.70ID:iOJZHP+10848人間七七四年
2012/01/24(火) 22:44:53.70ID:if+3Xdll0849人間七七四年
2012/01/24(火) 22:49:21.19ID:9E0Hg5p30850人間七七四年
2012/01/24(火) 23:13:40.70ID:izby63zw0851人間七七四年
2012/01/24(火) 23:19:25.00ID:IU6XPqGH0852人間七七四年
2012/01/25(水) 00:54:58.87ID:8iRVnDgO御厨の合戦では18の首級を挙げ、小田原の役では300の兵を従えて北条氏直に従し
その後徳川家康に拝謁して呉服羽織等を下賜されたという。
以後黒田如水、豊臣秀次、福島正則に仕え関ヶ原の合戦では岐阜城攻めで三か所に負うなど奮戦
正則の改易後は蟄居し、寛永11(1634)年5月に徳川家光に1000石で召しだされ12月には御先弓頭となった。
そんな戦国生き残りであった直次はある日坂下番所に近藤貞用を訪ねた。
この時直次は貞用にこのように語った。
「今指しているこの刀、片手で100度は打ちつけることが出来たものだが年老いた今では3打も出来ぬ。」
そして無念であると声をあげて泣きだしたという。
老武士が男泣きに泣いた話。
0853人間七七四年
2012/01/25(水) 08:22:09.29ID:BMEfX9D/>年老いた今では3打も出来ぬ。
武辺者の時代の終わりを示してるようで寂しいねぇ
0854人間七七四年
2012/01/25(水) 13:12:56.82ID:HYvPr3kU0855人間七七四年
2012/01/25(水) 13:16:34.42ID:HRvmd4Ig個人の老いの嘆きとしかオレが感じなかったのはそれぞれの感受性の違いかw
0856人間七七四年
2012/01/25(水) 18:39:00.03ID:ZH/+zZn20857人間七七四年
2012/01/25(水) 21:39:19.04ID:EiFFBlZo0858人間七七四年
2012/01/25(水) 21:40:04.11ID:O91Yk9sI慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時のこと。対上杉の関東の最前線として東軍が重視した拠点の一つに大田原城があった。
当時の大田原城主は大田原晴清(大田原資清の孫で大田原三兄弟の末弟である綱清の息子)で上杉の領内の諜報活動などを行なっていた。
もし上杉が仮に南下して来るとすれば真っ先に危険が迫るのは会津と関東の連絡路でもある大田原であろう事から
徳川家からも物資や城改築の奉行が入り、急ピッチで備えが進められたが、その時に徳川軍が持ち込んだ物資に大型の大筒が10挺あった。
大筒10挺は結局の所、使われることは無く関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったが、
それでも大田原城が有事の時に会津と関東の重要な中継拠点であることに変わりはない。
大田原城から徳川軍が去る際に大筒10挺のうち3挺がこれから起こり得るかもしれない「有事」への備えとして大田原城に残された。
そして時は流れて慶応4年(1868年)5月、ついに大田原城に敵が押し寄せる「有事」が起こった。大田原城の守備兵はわずか50人しかいない。
だが、こんな事もあろうかと大田原藩は先祖伝来の徳川謹製の大筒をしっかりと使えるように代々しっかりと手入れしていた。
この時代においては骨董品のようなものだが威嚇程度には使えるだろう・・・
そして官軍に付いた大田原藩の兵は大筒を会津と関東との連絡路をバッサリ断ち切られてしまい大田原城攻略を急ぐ旧幕府軍に撃ち込んだのであった。
0859人間七七四年
2012/01/25(水) 21:57:09.05ID:kA7Kgmj50860人間七七四年
2012/01/25(水) 22:03:19.40ID:6fPGxN8r0861人間七七四年
2012/01/25(水) 22:04:50.56ID:2+GdgyCD0862人間七七四年
2012/01/25(水) 22:36:43.90ID:gc+kJ1bSみたいなことを言ったそうだがそれを言うなら「幕末に主家を裏切ったればこそ今があるのだぞ」
というべきだと思った
0865人間七七四年
2012/01/26(木) 00:17:55.17ID:CiqgYKqu0867人間七七四年
2012/01/26(木) 00:29:22.54ID:DIQZhpSP0868人間七七四年
2012/01/26(木) 09:15:24.58ID:P/em+5lE押さえとしてそのままおいとくのはありだと思ったんじゃね
自分たちが東北側になるのはさすがに想定外だろ
0869人間七七四年
2012/01/26(木) 11:25:10.45ID:4+Oe1l8f300年近く養われた一族が結局、
人一人を脳震盪と聴覚弱化させただけ、の
顛末が、なんか好き。
0870人間七七四年
2012/01/26(木) 12:08:22.52ID:R3U7wtAC且元はよっぽど撃ちまくったんだろうなやっぱり
0873人間七七四年
2012/01/26(木) 18:57:36.62ID:/l2jziFt0874人間七七四年
2012/01/26(木) 19:16:41.19ID:f91n20Ygそれだけ小説家としての司馬遼が凄い、ということなのか
0875人間七七四年
2012/01/26(木) 19:19:37.49ID:Ayo58s3g未来でシバリョの小説も一次史料となりうる可能性なきにしもあらず
0876人間七七四年
2012/01/26(木) 19:23:12.89ID:f91n20Yg戦国時代はともかく、坂の上の雲とかはマジでそうなってそうでこわい
0877人間七七四年
2012/01/26(木) 19:30:26.64ID:Xqv0A4M5なんというか魂を揺さぶられた。
0878人間七七四年
2012/01/26(木) 19:52:32.44ID:/l2jziFtあれは史実も創作も取り混ぜて本当にあったことにのように解説する書き方のせいだな
見てきたような嘘をつき、の講釈師としては確かに優秀だが
厄介なことに歴史知詳しくない人はそれが史実だとコロッと騙されちまうw
ここの住人なら大丈夫だろうけど
0879人間七七四年
2012/01/26(木) 19:55:18.24ID:+DUTiKgaなまじ文章力があるものだから、違和感を感じない
0880人間七七四年
2012/01/26(木) 20:25:20.70ID:5/YdtMoRまあその片寄った見方が俺は好きなんだが
0881人間七七四年
2012/01/26(木) 21:08:10.47ID:FmHkgzur今現在の研究家や勉強してる人が読めば粗が見えるのは当然だわな
後出しジャンケン的に批判してやるのはちょっと可哀想、そら必勝だわ
0882人間七七四年
2012/01/26(木) 21:10:55.54ID:7nIIJpyI☆肥前名護屋編
文祿3年8月25日 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆(忠恒)の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す
↓
文祿3年8月29日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の町を見物す、又陣中に蹴鞠の庭を作る、
文祿3年9月13日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の陣中に茶湯の座敷を作る、
☆朝鮮巨濟島編
文祿3年10月30日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)に渡り、父義弘の軍に從ふ、
↓
文祿3年11月1日 島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)の陣中に鞠の庭を作る、
どっちも明らかに、到着して真っ先にやってるのが蹴鞠場作りなんだが、
悪久は身近に必ず蹴鞠場を作らないと死んじゃう体質か何かか?w
0883人間七七四年
2012/01/26(木) 21:53:10.43ID:DrZH7TCmその意味で島津家は流行に遅れているわけだ
0884人間七七四年
2012/01/26(木) 22:02:30.34ID:LxGPhHmDそれはそれは嫌だし、さすが島津さん雅だわ〜って感じ
0885人間七七四年
2012/01/26(木) 22:33:33.89ID:1FLw3Lb00886人間七七四年
2012/01/27(金) 00:21:49.11ID:Pk9ABAmQ0887人間七七四年
2012/01/27(金) 01:26:43.05ID:Jq0gdZzg0888人間七七四年
2012/01/27(金) 02:39:44.07ID:vspkf9zU守護の系譜に連なる大名にとって、地域の支配者であることを示すステータス。
まあ、どこも秀吉時代くらいにやらなくなるみたいだけど
0889人間七七四年
2012/01/27(金) 02:59:53.50ID:sIZkG0bf明治まで保存してしまった、時代遅れどころかある意味浮世離れした家。
0891人間七七四年
2012/01/27(金) 07:13:42.36ID:efiSts+H地方の山間部で江戸と同じレベルで取り締まれば野生動物に荒らされまくりだし
0893人間七七四年
2012/01/27(金) 09:30:39.29ID:9AwPK7xe0894人間七七四年
2012/01/27(金) 10:44:21.36ID:3Fgw5pWt今までも口酸っぱくして言って来たけど動物範囲まで極端にすれば
せめて人間同士のいがみ合いは減るだろーちゅう精神論だからな
点数稼ぎに使った側近や役人の管轄地域はおかしい事になったが
0895人間七七四年
2012/01/27(金) 10:51:49.06ID:pSDdBLVJ当然ながら、仲間内で本気にはならないので小競り合いが殆どであった
しかし徳川水軍の場合、本気で戦う時がたまに見られる
その時の指揮官は常に「本多重次」であった
0896人間七七四年
2012/01/27(金) 11:08:35.88ID:HD992qgQ全く空気を読まない
0897人間七七四年
2012/01/27(金) 11:10:24.14ID:PoJZ4VvT0898人間七七四年
2012/01/27(金) 15:10:02.55ID:uIaqvim+0899人間七七四年
2012/01/27(金) 15:23:33.34ID:ehS28Uyg向井正綱や旧今川→武田水軍の面々が優れていたとも言えるのだろうけど
0900人間七七四年
2012/01/27(金) 17:16:23.76ID:KWt9lrMn0901人間七七四年
2012/01/28(土) 16:38:23.41ID:L7pgtpy6里見と親しい木更津水軍の連中と争ってたからね
0902人間七七四年
2012/01/29(日) 04:13:43.68ID:+SM43X7k逸話を残している。ある時、腫れ物を患って回復後に家康に招かれた秀康は、病気で欠けてしまった鼻を貼り薬で隠していた事で不快感を抱かれて面会を拒否されてしまった。
家康いわく、
「美男を好むのは、公家や町人のする事だ。この家康の子として生まれ、一軍の将たるべき者が、鼻の形が醜いのを気にするなど言語道断である。」
という真意だったという。また親子で京にいた時、近所で火事が起こると、秀康は家臣を引き連れ素早く消火に当たったものの、
家康から
「親を出し抜くとはけしからん奴だ!」
と不興を買ってしまったという。 何をしても逆効果な秀康のかわいそうな逸話。
0903人間七七四年
2012/01/29(日) 08:15:10.56ID:rpkgUPaU0904人間七七四年
2012/01/29(日) 08:47:13.76ID:dV7cpYjB関が原後要衝の越前任せるとかありえないからなあ。
幼少期に実子と認められなかったのも、母親の身持ちが悪く、実際の所本当に家康の子かどうか
かなり疑わしかった、というのがホントのところですな。
0905人間七七四年
2012/01/29(日) 15:27:39.64ID:yfHPd8mh0906人間七七四年
2012/01/29(日) 16:24:43.30ID:skFjOdnsY
,. '"´三二二三`ヽ _ノ r┐
/,ィ彡'"´ ̄  ̄ ``ヾミヽ 〈 r‐-┘└っ
/ / 殺 ', ヽ ノ r‐-' 'ーっ
/ /::( ノ:::) ヽ く 二」 こ
/ /く´‘`ヽ ',从,' ∠‘``', ヽ ノノ (__=ノヽ〉
/ ハ´ ̄`フ.:;;;;;:: ヽ ̄`フ', ヽ ) ____
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/ / 〈 '"´ ``ヽ) l/ .ノ | |
0907人間七七四年
2012/01/29(日) 16:54:54.27ID:EYUcwgXw/ / / ´ {ミ丶 ヽ
,' / / / }ミ、 ヽ '. オ レ テ ロ リ ス ト
|, 〃 , ´ ̄ `ヽ '. i 拙者は三河の戦国大名
| / 家 '. } l
, - ―<! {. 康 } i! {⌒ヽ 今日は仏閣壊したぜ!
/___ | ≧ェ.、 rィェ彡 i! '. \ イマガワ
/´. -‐- 、`ヽ.| | ト ! i! .l 丶 /::::: 明日は旧 主掘ってやる!
' , ´ ヽ | |〈__ ー|‐`, } i! .|、 }ヽ }::::::: サツガイ サツガイ
, -/ / } rくWWW/ ハ i! .|ヾ:、 ノ } ノ::::::: 下克上せよ!下克上せよ!
{ ' ' ノ .i! 、ト、` ̄ ' イ/リ |ヽ、`¨´ / /::::::/
| { { / ハ ト、 T77´,//ハ !'//`Y´ /::::::/; /
| i! '. / イ '. |ヽ }/ i !// // |///∧ .!:::::/; /ゝ
|人 `ー一 イヽノ l .K ///リ/,イ// !////ハ ノ/; /ゝ
/// `ー-‐ 7´ムイ: `ヽ ! |ヽ`ハ///`// |/////'>´\/ ´
. //////////// {: : : : } i! ト、} } 〉/イ/イ ,ィヘ .l/: :r‐/XXX >
//////// '//八 ヽ、:.ノ ハ/リ,〈ノ/〈///ムイ//} ,ノ: :_>-、XXrvへ
. /////////∧//|::`:<:.:.:.:.:人'ニゝ//,イ {//////7' : : ゞヽ、_`Y ) )
'//////// ' :: 〉/!:::::::::::`¨´:::::::::::i!:|:://:}::}//////:: ::/ヾ ン ゝ
l//////// :: : //,ト、:::::::::::::::::::::::::::i!::!{::|::ノイ'//////XX(`'ヽィ´ ,ヘノ
|////// ' :: : ///}::{ > .::::::::::::::ノ.イ:}ノ':::イ'////XXXX/` ' ̄ `
|/////〈 :: :: /// |ミヽ:::::::::`ー::イ:/::レ::::::////XXXX/::|
∨'///∧ :: ////ト、:`: ̄ ̄>:イ:::::::::::///XXXX/}:: ::|
. } ////∧7///八: :ヽ:::::::,::'::O:::i!:::::::: '/XXXX///| :: :!
∧/////∧/////ヽ、:ハ /O:::::::::i!:::::/XXXX/////| :: :|
/:: ∨////,∧//ム. -―<:::::::::> /XXXX/`ヽ'///! :: :!
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:: :: :: :| |//> ´人: : : : : : : : :/\XXX/,/////////\: ::{
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:: / / > し´ ヽ ヽ_ー'/ 〉: :>: . : . : . : .> ´////////////∧
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: : : : : : : : : : : : : : : /o : : : : ////////////// :: :: :: :: :: | 〉/// i! ハ
0908人間七七四年
2012/01/29(日) 16:56:51.88ID:76xNHuPX黒厨の家康とはそもそも趣味が合わなかったんじゃないか
ttp://www.emuseum.jp/detail/100491?word=&d_lang=ja&s_lang=en&class=6&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=89&num=5&mode=detail
0909人間七七四年
2012/01/29(日) 17:18:02.03ID:3xhA950k趣味が豊臣寄りになってたりして
0910人間七七四年
2012/01/29(日) 19:16:29.07ID:61E2U3Ei違うよね?w
0911人間七七四年
2012/01/29(日) 19:19:28.21ID:wQnKxtvE真偽は知らんが
0913人間七七四年
2012/01/29(日) 23:06:02.25ID:J1U8VOXDスレチになってしまうが、梅毒説のある武将って秀康の他に誰か居たっけ?
黒田如水くらいしか知らないんだけど
0914人間七七四年
2012/01/29(日) 23:09:16.63ID:P3SWhhgo0915人間七七四年
2012/01/29(日) 23:09:55.16ID:B3B2HeGF0916人間七七四年
2012/01/30(月) 08:28:42.41ID:KgTdxVb60917人間七七四年
2012/01/30(月) 09:04:05.98ID:mGfRkdlz小早川秀秋も可能性を否定出来ない
豊臣氏が朝鮮の役で被った最後にして最大の被害と言えるのかもしれない
0918人間七七四年
2012/01/30(月) 09:05:39.23ID:t23fue6q0919人間七七四年
2012/01/30(月) 09:37:03.12ID:3CjR41MJ0920人間七七四年
2012/01/30(月) 10:11:10.07ID:mGfRkdlz0921人間七七四年
2012/01/30(月) 19:38:50.87ID:8bWUm58O0922人間七七四年
2012/01/31(火) 00:55:29.22ID:c4+tXjYN0923人間七七四年
2012/01/31(火) 01:51:03.52ID:0dCNrhUH粘膜接触は避けられなかったんじゃない?
0924人間七七四年
2012/01/31(火) 11:09:32.88ID:ZdAjZkdo風潮すらあったとかいう話だな・・・
0925人間七七四年
2012/01/31(火) 11:30:37.21ID:+xvUJorkまじめな家臣に美人の嫁を斡旋する
↓
家臣を上方もしくは江戸に単身赴任させる
↓
慰労ということで家臣の妻を呼んで・・・・ウマー
この時遊び人の家臣を選んではいけません、回りまわって感染してしまいます。
気性の荒い家臣を選んではいけません、斬られます。
口うるさい老臣に近い立場の家臣を選んではいけません、折檻されます。
これで楽しいアバンチュールを安全に楽しみましょう
0926人間七七四年
2012/01/31(火) 13:09:02.65ID:vF+4Fqq8TERU「誠に恐ろしい、そのような人面獣心の輩の顔が見てみたいものじゃ」
0927人間七七四年
2012/01/31(火) 17:19:03.21ID:rQSCjATuhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6164.html
↑コレに至るまでの喜多七太夫のお話
喜多七太夫の家は猿楽の旧家ではなく、慶長年間にその元祖である七太夫が鼻金剛の弟子になったもので、
彼の父は堺・蛇谷の町に住む扇屋であった。
22歳の時、大阪夏の陣があり、このとき七太夫は金春の大太夫と共に大阪に籠城し、5月7日、
真田左衛門佐(信繁)に従って将軍の御備に切り込んだ。大太夫は馬上、七太夫は徒歩であった。
大阪落城に及び両人とも落ち去り、太太夫は藤堂和泉守(高虎)に目をかけられていたゆえに、
藤堂の陣に走り入りそのまま隠れた。
七太夫は大和の方に逃げたが、その途中柳生但馬守(宗矩)にばったりと出会った。彼はこれ幸いと
顔見知りであった宗矩を頼ろうとしたが、宗矩は七太夫を見るや激しく叱りつけ、自分の前から退かせた。
そこで縁のあるものを尋ねて、これに頼って隠れ住んだ。将軍家においては、とりわけ彼らが
御備に切り込んだことを憎まれ見つけ次第成敗せよとの命令があったが、両人とも発見されること無く
隠れおおせたという。
(猿楽伝記)
しかしこの話には当時から疑念があった
「人が言い、世に伝わっている逸話によれば。元祖喜多七太夫は22歳の時大阪夏の陣において、七太夫は
真田の手に加わり、御備に切り入ったという。
この事、逸話といえども非常に疑わしい。
先ず大阪落城の時に七田有が22歳という事。これが喜田家の家伝と合わない。
家伝の年表から計算すると、大阪落城の年、七太夫は34歳である。
また、彼が22歳の年は慶長8年であり、太閤は他界した後ではあるが、神祖(家康)は御上洛されて
将軍宣下を受けた御年であり、秀頼もこの年内大臣となっている。世の中に波乱はなかった。
それに七太夫が藤堂家に忍び潜れたとも言うが、これも彼の家の家伝(黒田家に保護された)と違っている。
そもそも喜田七太夫と藤堂家の間にどんな縁があったというのか、未だ全く知られていないのである。
さらに、神祖が七太夫を召すときに柳生但馬守宗矩に諮問しこれを任せた、ということになっている。
これは無いことではない。大阪落城の時、宗矩は45歳である。
されども黒田から七太夫が召しだされたのは、神祖の没後である。そういう事である以上、これは真実ではない。
金春のことはわからないいことが多いので置いておくが、喜多の話はこのように、誤伝が非常に多いと
断定せざるをえない。
また近頃喜多湖遊が伝える所によると、七太夫は大阪落城後故郷である筑前に帰ったのだ、とも言い、
また内々の命令により薩摩に潜入したのだ、とも言う。
そして喜多家の家伝には、七太夫は伊賀の出身だともあり、このように初代七太夫に関する話は非常に混乱し、
今現在において結論を出せるようなものではないといえよう。」
(甲子夜話続編)
初代喜多七太夫の伝説と、それに対する反論、である。
0928人間七七四年
2012/02/01(水) 21:44:12.43ID:Fm2fCBm20929人間七七四年
2012/02/01(水) 22:54:32.87ID:ZNAfX43d0930人間七七四年
2012/02/02(木) 09:25:46.89ID:cQAHEIsDうるせー汚物は消毒だぁーヒャッハー
0932人間七七四年
2012/02/02(木) 19:54:30.42ID:YBoY9KXu長いか…、俺も久々に来たんで逸話を投下しようとしたが、長いなんて言われちゃ末代までの恥だからやめておこう
0933人間七七四年
2012/02/02(木) 19:54:59.37ID:HG3v4KSBまとめスレにはもっと長いやつがいくつもある
0934人間七七四年
2012/02/02(木) 20:24:31.29ID:ypE5Rt2pこれはゆとりと蔑まれても仕方ない
0935人間七七四年
2012/02/02(木) 22:28:57.28ID:6ZOb/ZHyとは言えそこそこ乙な話だった
0936人間七七四年
2012/02/02(木) 23:35:15.19ID:dR4qA1sm元の逸話の長さに依存するのは当然だろうに
0937人間七七四年
2012/02/02(木) 23:37:07.25ID:0qeTxE6rとそもそも二部構成だしな、半分にできるとは思えんが
0938人間七七四年
2012/02/03(金) 00:30:48.90ID:bN4KYPuhどちらがめんどくさいか
0939人間七七四年
2012/02/03(金) 00:35:14.33ID:8HE5RLeU0940人間七七四年
2012/02/03(金) 03:52:14.94ID:8HE5RLeU徳川家康は今川氏真らの籠もる遠州掛川城を攻めるため出陣した。
この時遠州の久野一族は、先に今川から家康に寝返っていたのだが、その本拠地
久野城に一族のうち、久野佐渡守宗憲、同日向守宗成、同淡路守宗益、本間十郎衛門
といった面々が集まり集まり談合をしていた。
「家康が掛川城を攻めるというが、かの城は簡単に落ちるようなものではない。
そこでだ、我々は対徳川の一揆を起こさせ、城攻めをしている徳川軍の後ろを襲い、
家康を討取り氏真への忠節を尽くし、その褒美として遠州一国を拝領し、徳川の本拠である
三河岡崎までも攻め取ろうではないか!」
彼らはそう結論し、それを久野一門の大将である三郎左衛門(久野宗能)に伝えた。
三郎左衛門はこれを聞くとしばらく思案し、その上で彼らに語った
「なるほど尤もである。方々の意見は戦略として大変よろしいものだと、私も考える。
だが、そうではあっても、だ
我々は去年氏真に背き、家康に臣従し、誓紙を交わしたばかりではないか。
その舌の根も乾かぬうちから、この事を無かった事にし家康を裏切り、
それによって立身するという。これは侍の本意ではあり得まい。
左様な非道の立身は、どうやっても叶わぬものであると、私は聞いている。
例え一旦は目的を遂げることができたとしても、それ自体が既に家を滅ぼす端相であるとも云う。
そもそも私は、譜代の主である今川家を捨て家康に付いた事からして口惜しいと
感じていたのだ。その上さらに、新たに主とした人を殺すなど、更に思いもよらぬ
事である!」
三郎左衛門はこう言って彼らの考えに真正面から反対した。
これに先の談合に加わった面々は激怒し、再び集まり「この上は三郎左衛門を排除し
新たに淡路守(宗益)を大将に立てよう!」などと言い出した。
ところがこのような事態の加熱に佐渡守宗憲、本間十郎衛門はついていけず、
反徳川派を裏切りこの事を三郎左衛門に伝えた。
これを聞いた三郎左衛門は大いに驚き、家康に報告、家康は直ぐに軍勢を派遣し
三郎左衛門はその三河衆を久野城本丸に引き入れ、自身は二の丸に退いた。
これにより久野城の反家康派は尽く退治されたという。
(松平記)
0941人間七七四年
2012/02/03(金) 17:56:58.65ID:RpYMFeIB0942人間七七四年
2012/02/03(金) 18:22:25.51ID:ZzgNgMiO0943人間七七四年
2012/02/03(金) 19:22:11.00ID:KhHM/lBA0944人間七七四年
2012/02/03(金) 19:23:03.76ID:aJSMlLk30945人間七七四年
2012/02/03(金) 20:32:44.72ID:VqxbQ0/J0946人間七七四年
2012/02/03(金) 20:51:29.65ID:9libVIPh徳川家(水野家)→父親の部下斬り殺して出奔(奉公構出される)→仙石久秀
→豊臣秀吉→殺人事件起こして出奔(秀吉から刺客を放たれる)→佐々成政
→小西行長→殺人事件起こして出奔(小西から刺客を放たれる)
→加藤清正→殺人事件起こして出奔(清正から刺客を放たれる)
→黒田長政→長政にむかついて出奔(長政から刺客をry)→三村親成→親成の茶坊主を殺して出奔
→三村家に出戻り。親成の娘とか側仕えの女とかゲット→徳川家帰参
これだからな。貴種流離譚にもほどがあるw
0947人間七七四年
2012/02/03(金) 21:08:47.93ID:49nFjdiSそれに、これ貴種流離じゃないだろ。ほぼ自業自得
0948人間七七四年
2012/02/03(金) 21:41:10.38ID:62maokfeそれが嫌で出奔した武士も結構いたとか
まぁ三河武士相手に一番首が第一の武功としたら、誰も命令に従わずに
カチコミ入れるから仕方がいないかもしれないが
0950人間七七四年
2012/02/03(金) 23:05:54.50ID:6HgHKC9pよい風にとれば(笑)
気に入らないことを我慢しないのはオヤジとの関係の影響かも。
典型的な不良少年タイプ。
時代は変わるが大陸浪人の伊達順之助も同じタイプだろう
0953人間七七四年
2012/02/03(金) 23:50:34.33ID:9libVIPh返り討ちにしたかどうかはわからないが、生き残ったことは確かだな。
それでも秀吉が死んで家康が主導権を握るまで、畿内には近づけなかったらしいw
0955人間七七四年
2012/02/04(土) 02:25:09.55ID:zNe63Or/信玄の死後に後を継いだ武田勝頼に対して自軍の不利を説いていた。しかし、それは聞き入れらないまま決戦当日を迎えてしまった。
それでも昌景はもう一度だけ諌めようと勝頼のもとに向かったところ、
「くどいぞ昌景!お前ほどの者でも命が惜しいか!」
と侮辱するかのような返事を受けた。これに怒った昌景は
「我らはこれより討死いたします。勝頼様も討死遊ばされよ。」
と吐き捨てると、大声で
「犬に説教する様なものだったわ。皆、討死だ!」
と怒鳴りながら出陣していったという。
0956人間七七四年
2012/02/04(土) 07:27:24.52ID:T4jCdRMP水戸黄門や暴れん坊将軍にも家康を経由して水野一族の血は流れているんだよな。
恐ろしすぎるぞ水野一族。
0957人間七七四年
2012/02/04(土) 07:46:41.51ID:T4jCdRMPその祖父である松平清康も母親が水野一族出身であるように
徳川家は松平家と水野家が何代にも交配して作り上げた一族である。
その所以か徳川一族に狂人が多いのは水野の血が騒いでるからなんだろうな。
0958人間七七四年
2012/02/04(土) 10:15:11.54ID:xEbrWwuJ勝成の親父である忠重やその兄とかの性格がかなりドキュンだった訳だし。
忠重が暗殺されたのは酒の席だし、その兄も松平家を離縁されたお大の方が水野家に戻される時に、送りの従者を全滅させようとしたり(その時はお大の方の機転で回避されたが)
かなり無茶苦茶やってたわけだし
0959人間七七四年
2012/02/04(土) 11:16:38.53ID:ZR0xlA4l0960人間七七四年
2012/02/04(土) 11:19:57.73ID:HN975UnA0961人間七七四年
2012/02/04(土) 11:21:31.74ID:i1KXTJnM水野勝成ならぴったりではないか
0962人間七七四年
2012/02/04(土) 11:27:59.98ID:GDxTLFHm結局いつもの安直な正義マンで残念だな。
江みたいに役者の演技まで殺してないからまあいいけど。
0963人間七七四年
2012/02/04(土) 11:55:01.87ID:Xot3z9II0964人間七七四年
2012/02/04(土) 11:59:31.43ID:hFWmiBor0965人間七七四年
2012/02/04(土) 12:23:00.07ID:JldKVMjF順当に北条が勝っていたら、徳川=東海だけ領有する中堅大名、北条=関東
甲信を支配する超大名になって歴史が変わっていたかも知れない。豊臣政権
との東西日本分立とか。
0967人間七七四年
2012/02/04(土) 12:37:11.30ID:Xot3z9IIいや、NHK的にメモリアルイヤーだと小うるさい上層の皆様方と絡んで無理だろという話。
お年を召した時代劇好きの大部分は、本格派好きのごく一部のお年寄りと違って確実に勧善懲悪好きだからな。
将来有る若い人間が上層にいればけれん味の強い野心家の物語も受けるだろうが。
0968人間七七四年
2012/02/04(土) 12:50:43.13ID:EFN4a98/思っているんだよね
各方面の責任者の中では勝頼の方針で最も恩恵を受けているはずだし、
重用されてるのも明らか
0969人間七七四年
2012/02/04(土) 13:44:34.29ID:MVdk/Rxx気持ちは判るけど、真贋判定は逸話スレの守備範囲外って事で。
0970人間七七四年
2012/02/04(土) 14:01:37.21ID:jd0/x7zKその件の一次史料が残って無い以上真実など分かりっこなく
軍鑑の記述を信じるか信じないかだけの話
0972人間七七四年
2012/02/04(土) 14:15:42.93ID:jd0/x7zK理不尽さで言えば越前の狂犬のが上に着そう
0974人間七七四年
2012/02/04(土) 14:29:26.35ID:YzPyj8Ge0975人間七七四年
2012/02/04(土) 15:05:37.22ID:xCwYLEOt0976人間七七四年
2012/02/04(土) 15:58:19.53ID:WTWtvrgb名君なためかも知れないなw
家臣に優しく領民は慈しみ、その政治は模範と讃えられたという。
大名になってからDQN的なのは、当時の超人気の舞妓を愛人にして、その愛人に大金をかけて、
京で大々的に歌舞伎興行させたくらいかw
0977人間七七四年
2012/02/04(土) 16:09:23.25ID:ZR0xlA4lそれくらいのレベルじゃないかな?
0978人間七七四年
2012/02/04(土) 17:45:33.09ID:xEbrWwuJお互い、正反対に見えて似たような生き方だし、意外と相性もいいな。
0979人間七七四年
2012/02/04(土) 17:54:55.97ID:DjqDH+tA「我らはこれより討死いたします。勝頼様も討死遊ばされよ。(`・ω・´)シャキーン」
「犬に説教する様なものだったわ。皆、討死だ!(`・ω・´)クワッ!」
なんかほのぼのしちゃうな
0980人間七七四年
2012/02/04(土) 17:57:20.35ID:UFkVnKj9思えない…
0981人間七七四年
2012/02/04(土) 18:05:52.40ID:xEbrWwuJ0982人間七七四年
2012/02/04(土) 19:34:59.58ID:EFN4a98/勝頼って同情心が沸いてくる人物で、明らさまにsageな話を見ると
敗軍の将だからある程度は仕方が無いけどいくらなんでもあんまりだ、
という感情が沸いてくるんだな
0983人間七七四年
2012/02/04(土) 19:57:17.68ID:gTIdjLt4討ち死に宣言して本当に壮絶に討ち死にしていく昌景はかっこいい
激怒した武田軍に決死の特攻される織田徳川のひきつった顔を想像するのは楽しい
0984人間七七四年
2012/02/04(土) 20:06:32.99ID:xEbrWwuJ家臣に山県と同じ兎口の子供が生まれた時に本多山県と名付けるくらいだから
天目山の後、旧武田家家臣(特に山県の家臣)を積極的に採用してるし
0985人間七七四年
2012/02/04(土) 20:19:25.47ID:yylTmwW/江戸期に武田賛美が盛んになる
→しかし武田家は滅亡した→勝頼が悪かった
て感じの論調になったんじゃないかな
0986人間七七四年
2012/02/04(土) 20:31:14.18ID:gTIdjLt40988人間七七四年
2012/02/04(土) 20:45:16.75ID:RkI6YbTe勝頼の菩提寺の建立なのね。
もちろん甲斐国人人心収攬のためなんだけど、勝頼の菩提を弔うことが甲斐の人の心を取ることに繋がる、
と理解したということで。家康は勝頼が、少なくとも甲斐の人々にとって大切な人であった、という
評価をしていたということなんでしょうね。
0990人間七七四年
2012/02/04(土) 20:56:44.02ID:RkI6YbTeだから家康の勝頼評価として、ということ。
少なくとも家康の側は、勝頼の菩提寺建立を甲斐の人間は喜ぶと評価していた、
って事でしょ?
0991人間七七四年
2012/02/04(土) 21:06:02.39ID:gTIdjLt4恨みを買いまくり逆さに埋められた織田の誰かさんとは違うな〜
0992人間七七四年
2012/02/04(土) 21:06:14.58ID:pdzXcfYC0993人間七七四年
2012/02/04(土) 21:08:52.83ID:RkI6YbTe0994人間七七四年
2012/02/04(土) 21:09:04.38ID:pdzXcfYCあの人は信濃の森さんと似たようなことをやっていたので、
当然といえば当然だろう
森さんみたいにさっさと逃げればよかったのに
0995人間七七四年
2012/02/04(土) 21:10:36.03ID:cpmQ9oYN0996人間七七四年
2012/02/04(土) 21:10:53.49ID:RkI6YbTe戦国ちょっと悪い話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328357412/
0998人間七七四年
2012/02/04(土) 21:27:52.10ID:99UI8nFM徳川家の家臣だったのそれとも
織田家における家康みたいな立場だったの?
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