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関ヶ原の戦い

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0001人間七七四年2011/11/08(火) 23:22:18.21ID:k6+MYOjD
石田はもっと武将を揃えるべきだ
0002人間七七四年2011/11/09(水) 02:13:51.14ID:KGHEiBiT
フ━━━( ´_ゝ`)━━━ン!!
0003人間七七四年2011/11/09(水) 08:18:02.63ID:W+8iRerx
毛利厨の隔離スレか?
0004人間七七四年2011/11/09(水) 11:54:36.42ID:pIL2qie0
岐阜城陥落を利用して、
大垣城に宇喜多、島津、小西、三成を包囲したと嘘宣伝した福島らの譲歩操作の勝利。
輝元の失敗は安濃津城落城を使った情報操作をやらなかったこと。
これにより諸士に疑心が生まれた。
0005人間七七四年2011/11/09(水) 20:00:01.36ID:8mn80UId
井伊と本多から小早川秀秋の家臣の稲葉と平岡が
小早川の本領安堵の書状を貰ったとする9/14付け書状の出典が
関原軍記大成2巻 巻の二十であり著者は宮川忍斎(1655−1716)
これ怪しい。完全に出典不明。

9/12三成→増田書状についても大津包囲戦が和睦になったと言うので
京の北面の某が高次の安否を聞くために飛脚を出した際
三成が大垣へ遣わす飛脚を捕らえて懐にあった三成→大坂宛て書状を
奪取して家康に出したから褒美が出たと言うのは本当の話だろうか。
大垣にいた三成が大垣へ大坂への書状を出すのは意味不明だし
では三成はどこにいた?って話だし
京から大津へ向けて出発した飛脚がそれを捕まえるのもおかしい。
そもそも書状内容が超トップシークレットだから
そんな重要な内容は普通に考えて使者が口頭で伝えるだろ?レベル。
内容的にも普通こんなに自軍の弱さ、弱点ばっか書き連ねるかね?という異質な長文。
つかこんな詳細かつ三成の心情付きの書状は関が原期間に一切書いてないし。
しかもこれ原書状が無いし堂考えてもニセモノだろ(古今消息集に写しが記載されてるだけ)
0006人間七七四年2011/11/09(水) 20:10:04.65ID:s93JPhdy
>>5
三成が重要機密をベラベラと書状に載せるのは真田や上杉に残されている書状からも明らか
というか秀吉自身が行っている豊臣家全体の悪癖
0007人間七七四年2011/11/09(水) 20:27:56.90ID:5kKiDeuG
大津で敵味方が戦ってたわけだし
簡単にやられる一介の飛脚に持たせるとかあり得ないな。
つか秀秋のWikipediaに書いてある
長政と浅野幸長連名書状の
われわれは北政所の為に戦ってるとする書状と
三成らが秀秋に関白職と上方二か国加増約束する書状って
本当にあるの?一切それらしい内容のもんを見たことないんだけど。
0008人間七七四年2011/11/09(水) 20:52:41.90ID:s93JPhdy
>>7
「慶長右平記」という書物には
北面の某が大津へ向う途中、石田の飛脚を捕らえたとある

また、それ以前にも石田の密書を捕らえたことが福島・池田の書状で確認できる
石田はこの手の情報管理がザルな証拠

前者は知らないけど、後者は関原始末記にある
0009人間七七四年2011/11/09(水) 21:00:30.47ID:5kKiDeuG
福島と池田の書状内容教えて
0010人間七七四年2011/11/09(水) 21:10:11.81ID:s93JPhdy
>>9
九月一日の書状で正確には家康が池田・福島に出した返書
そこには「廿七日之書状、并治部少内状、今日於神奈川被見候」とある
0011人間七七四年2011/11/09(水) 21:42:56.86ID:5kKiDeuG
それは密書を奪ったとは言え無いのでは?
三成が書状を出した相手が、
身の潔白のために封をきらずに池田に譲渡したとか。
それに三成が福島の調略やってたから、
身の潔白から福島本人が書状をもらってた可能性あるし。
0012人間七七四年2011/11/09(水) 21:56:54.57ID:s93JPhdy
>>11
27日は岐阜城を落とした東軍が赤坂に集結した時期だから、その前後に三成が調略する余裕はないと思う
また、その辺の混乱を突かれて書状が奪われた可能性は高い
0013人間七七四年2011/11/09(水) 22:20:39.07ID:s93JPhdy
後、大日本史料稿文の慶長5年8月26日の状に
「是より先、東軍、美濃赤坂に進み、同國大垣城に逼る、是日、石田三成等、使を大坂に遣して、毛利輝元の來援を請ふ、使者、東軍に捕へらる、」
0014人間七七四年2011/11/09(水) 22:33:38.90ID:gJkeQtql
ちょうど犬山城のやつらや東美濃の国人達が三成から離反した時期じゃないか?
美濃書状を三成から離反した者が福島に帰順した際に渡した可能性を排除出来ない。
0015人間七七四年2011/11/09(水) 22:40:37.47ID:s93JPhdy
>>14
その辺の家康返書は九月三日以降に内応した相手に直接出されている
0016人間七七四年2011/11/09(水) 23:23:55.61ID:+bc5eo//
それどうなんだろ。
義演准后日記の26日は
三成が大垣から佐和山にいったん帰った日なんだよ。
だから佐和山から大坂に書状を出すなら
福島らが手に入れるのは難しいことになる。
0017人間七七四年2011/11/10(木) 02:47:48.83ID:CVrfvPAa
8/26書状パクリ
大日本史料
石田三成等使ヲ大坂ニ遣ハシテ毛利輝元ノ来援ヲ乞フ使者東軍ノ為メニ獲ラル
これ覚書に書いてあるみたいね。覚書は二次史料以下だから・・・信憑性ないでしょ。


9/12三成→増田書状
大日本史料
叛将ノ質を誅セントシ愁憑ス書東軍ノ為メニ獲ラレテ達セス

書状を誰が所持してたのかもわからん古今消息集に写しが書かれてる該当書状が
東軍にパクられたとする記事を書く
關ケ原軍記大成の元々のネタ元は武徳安民記に記してあるようだが・・・
よくわからんけど「山科のあたりで14日の暁の同夜中に捕らえて神君に渡した」と書いてるな。
こりゃあガチで捏造っぽい100%眉唾レベル。
古今消息集もガセ書状っぽいし、パクられた話も1700年代に書かれてるから怪しい。
武徳安民記に至っては著者の木村高敦(毅斎1680〜1742没)より
關ケ原軍記大成の宮川忍斎(1655−1716没)の方がはるかに年上だなぁ。
ひょっとしてパクられネタは林鳳岡・人見友元・木下順庵らが編修した
官撰の武徳大成記にも載っている話なのかな?
怪しげなネタ満載の關ケ原軍記大成つながりじゃ、あんまり信用できる話じゃなさそうだ。
0018人間七七四年2011/11/10(木) 09:01:56.15ID:aJKZXXON
>>17
27日付けの書状と共に三成内状が届いている
後、保科正光書状にも書いていないか
ちなみに稿文にある覚書も書状部分だけだね

疑古派になるのは勝手だけど、明確に偽作と断ずる証拠が無い限り
事実であると認識するべき

怪しいから捏造とするが、その「怪しい」という認識はあくまで
自己の基準によるもの
0019人間七七四年2011/11/10(木) 10:52:03.06ID:0H81N0o2
稿文が汚い字で書かれた写しなのが弱点だよな。
原本を見て写したとか
写しを見て写したとか
書いてあればまだマシだった。
0020人間七七四年2011/11/10(木) 11:00:22.40ID:aJKZXXON
そりゃ草稿以前のものだし
0021人間七七四年2011/11/10(木) 11:40:04.73ID:0H81N0o2
知ってるよ。
だから写真撮れなんて
バカなことは書かなかった。
0022人間七七四年2011/11/10(木) 14:24:10.66ID:vsh7MhhW
武徳安民記や関原軍記大成は
直江状に本来なかった
追而書を付け足す暴挙を
やってのけて加筆してるから全く信用できない捏造軍記。
0023人間七七四年2011/11/10(木) 15:12:09.87ID:vsh7MhhW
古今消息集は直江状比較において
白峰曰く軍記軍学系の影響が見られ
成立が江戸中期以降。
しかし第十条の文中で懼と言う漢字を使用していることが
他の直江状写しに全く類例が無いことから
江戸末期ではと疑っている。
0024人間七七四年2011/11/10(木) 15:39:05.46ID:aJKZXXON
一部分が駄目だから、全て駄目という考えは編纂書には当てはまらない
0025人間七七四年2011/11/10(木) 18:24:20.04ID:+OS+QPY+
>>5
関原軍記大成で秀秋内通のガセ書状が作られたのは間違いないが、
そもそも秀秋が内通してたとする捏造の元ネタは板坂ト斎記だろう。

家康の侍医の慶長年中板坂ト斎記も事実を改竄してて信憑性がないからね。
慶長元年5月に4歳の秀頼が上洛した際の記述が山科言科日記とまったく違うこと書いてるし。
秀頼上洛で伏見から家康も塗輿で付き従い上洛って言う事実を
京都の宿所から東福寺の門前まで家康と利家が仲良く大声で話ながら馬で迎えに出たと改竄してる。
他にも利家死去すぐの武断派7将の三成襲撃クーデターのメンバーを2人変更改竄してたり。

板坂卜斎のは日記じゃなくて
征夷大将軍徳川家のために後年に一気に書き上げた代物だよ。
だから記述が徳川史観になってる。
前田研究の大家たる岩沢氏も常日頃から家康と昵懇な山科の家族が見誤るわけが無く
家康と利家が馬上で仲良く話ながら秀頼を迎えに出たとする卜斎の記事は虚構だろうと断言してる。

上巻は書き置きからの写し書きで、書き足してる部分は完全にミスジャッジに誘導する歪曲だよ。
明らかに事実を書いたんじゃなくフィルターを通して書いてる。
下巻に至ってはもう日記形式を装うのも放棄して捏造してる。

さらに慶長記も中板坂ト斎記同様に利家と仲良く会話しながら
馬でやってきたとデタラメ吐いて事実化の工作をしてる。
それは加賀藩との関係に配慮して捏造してる証拠。
0026人間七七四年2011/11/10(木) 18:53:07.56ID:aJKZXXON
>>25
疑古派乙
0027人間七七四年2011/11/10(木) 21:28:14.26ID:4WxZHlQH
>>7
秀秋のWikipediaは要出典を貼り付けた方がいいな!
0028人間七七四年2011/11/10(木) 23:57:24.78ID:fZ5S4pdN
Wikiの戦国武将の記述は要出典の宝庫だからな
0029人間七七四年2011/11/11(金) 12:19:54.48ID:4ISeeCmc
subは自分が否定する史料は些細な間違いで全てを否定するが、
自分が持ち出す史料は何の疑いもなく全肯定

あの南宮山で凍死云々に、太平記を根拠に持ってくるぐらいだからwww
0030人間七七四年2011/11/11(金) 13:46:33.40ID:E4HhrZzT
>>29
自演が見事にばれた毛利厨ってやはり恨み辛みで粘着してるんだなー。
太平記の話の時って君が敦賀越えの字句から想像して、
「敦賀は余呉より更に北にあって日本海側」と必死に反論したが、
実際にはまったく場所が違う近江塩津なのを指摘され恥をかいた挙げ句に、
さらに「でも月が違う」と執拗に粘着してきて
長慶宣明暦を提示され、
1600年は閏無しだが、
敦賀越えの歳は閏有りと言われて
連続論破されて完膚無きまでに叩き潰されてたじゃんw
毎回毎回自分がブザマに論破されまくってるから恨み辛みでストーカーになっちゃったんだね。
0031人間七七四年2011/11/11(金) 23:09:20.48ID:4ISeeCmc
別人のツッコミを同一人物認定されてもなぁw


で天狗や魑魅魍魎が出てきて誤記や捏造満載の太平記を妄信するsubが、
卜斎記を信憑性なしと否定しても、普通に信頼性の高い一次史料として使用されるけどねw


0032人間七七四年2011/11/11(金) 23:49:33.34ID:m9ld/xG0
毛利基地外得意技
別人宣言ワロスw
0033人間七七四年2011/11/12(土) 11:11:36.63ID:kqjNZxtH
白峰の古今消息集の直江状批判は面白いな。
現存最古の直江状の写しの
下郷共済会所蔵の直江状が、
あくまで堀との争議についての弁明であり、
古今消息集の直江状は字句改変による家康への挑発を含む挑戦状に歪曲され、
徳川実記に直江状を読んだ家康が無礼だと怒ったと捏造記述がなされた結果、
直江状が会津征伐の原因であり
全部直江が悪いことにされたと指摘してる。
やはり古今消息集は捏造増幅させている悪因となってる。
0034人間七七四年2011/11/12(土) 17:41:13.01ID:qY8V7Cmy
>>17
関ヶ原軍記大成の秀秋の記述って完全に妄想だよなw

大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、
秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」
と言って切腹しておりこの祟りによって狂乱して死亡。
0035人間七七四年2011/11/13(日) 00:07:58.26ID:sxK7z4Qx
小早川の裏切りを読んでた大谷はさすがだな
脇坂らの裏切りまでは見抜けなかったけど
00362011/11/13(日) 00:28:45.73ID:yB6C1PU9
大谷もついでに寝返っちゃえば良かったのに
0037人間七七四年2011/11/13(日) 01:25:34.64ID:6ruPbR/W
>>35
それを証明する一次史料を出して下さい。
0038人間七七四年2011/11/13(日) 07:05:05.24ID:ySX4lDob
>>1
むしろ出来過ぎな方だろ
問題は各陣営思惑がバラバラだったってこと
0039人間七七四年2011/11/13(日) 10:52:37.63ID:1S2s1492
>>35
読むも何も、松尾山占拠の時点で誰がどうみたって東軍だっつーの
0040人間七七四年2011/11/13(日) 11:00:41.66ID:94MmV3I+
松尾山は本来、
毛利元康の中国軍が入る予定だったが、
毛利の不手際で大津の挙兵が発生した為に、
代わりに秀秋が入ったに過ぎない。
秀秋が松尾山を占拠した話は後世のデッチ上げで、
一次史料には全く無い。
0041人間七七四年2011/11/13(日) 11:05:57.39ID:aBXwDmip
まあ関ヶ原はこういう事だわな

・9月14日
家康が赤坂に旗印を立てる→それに呼応した小早川秀秋が松尾山占拠、これにより西軍は後方通路を塞がれる
→大谷隊などは取り敢えず松尾山に対する備えをし西軍中枢のある大垣城に知らせる
→西軍は松尾山の秀秋を排除することが直近の課題となる→深夜、秘密裏に関ヶ原に移動を開始
→東軍それを察知し追尾を始める

・9月15日
西軍、松尾山攻撃前に東軍に追われていることを知り、東軍を迎撃する形を取る
→朝10時頃開戦、正午ごろ西軍崩壊(家康書状や島津の武士などの覚書による)


とまあ、松尾山城をめぐる戦国時代に典型的な後ろ巻きの合戦だな。
0042人間七七四年2011/11/13(日) 11:28:03.95ID:DqbNRCs/
>>41
なにその東照大権現神君家康公の神算鬼謀スゲー徳川オナニー史観丸出し文章www
家康は神だからすべてお見通しで、
会津征伐に出発した時点でこの結果はわかっていたと言うふざけた史観じゃんワロタ
0043人間七七四年2011/11/13(日) 11:32:11.55ID:lL1XmMyN
>>42
情報がザルで盲人の西軍相手ならそうなるわな
0044人間七七四年2011/11/13(日) 12:39:38.77ID:gxSVTt95
>>42
シンサンキボウ?
単純に申し合わせって言うんじゃないの?
史実扱いでの有名どころでも吉川広家は内通してるし、脇阪某だって内通してる。
相当量のリークが有ったと判断すべきじゃね
0045人間七七四年2011/11/13(日) 14:32:14.82ID:31EBoZjA
>>41
察知するのあまりにも遅すぎだから家康が三成を誘い出したというのはないな。
0046人間七七四年2011/11/13(日) 15:30:27.15ID:6tzbLzI0
小早川の本領安堵の書状を貰ったとする
9/14付け書状の出典が
関原軍記大成にしか無いのなら
秀秋が以前から内通してたとする前提は完全に崩壊するな。

幕府捏造史観の公式では下記のように
極めて政治的な玉虫色の有耶無耶決着を図られてるし

「直江と安国寺と小西と三成が全部悪いから景勝の罪は問わない」
「毛利も三成に騙されただけだから輝元の罪は問わない」
「秀秋は最初から家康に味方だった」
「島津も消極的参加だから罪を問わない」
「佐竹は小山陣前後で表裏したから出羽転封」
「長宗我部の罪は重いので改易」

やはり稲葉正成が秀秋を神君に内通させたと主張する捏造で
家光の乳母の春日局(正成の妻)の権威付けをしたんだろうね。
0047人間七七四年2011/11/13(日) 15:51:43.66ID:lL1XmMyN
>>45
家康としては大垣城を出てくれればそれで充分という認識
0048人間七七四年2011/11/13(日) 18:39:45.04ID:6tzbLzI0
家康は福島らが裏切るかもと疑心暗鬼で江戸城に引きこもりやってたら、
福島らが毛利が攻勢をかける伊勢戦線への援軍要請を無視して
三成憎しで岐阜城を落として三成のいる大垣へ進軍した挙句に
家康に「三成を大垣に閉じ込めたwww」ってウソ書状を出したから
家康は騙されて「水攻めで三成を降伏させるから。お前らストップ!!!」って
自分がいない間に三成捕縛して終わっちまうと困るわって急いで西上しただけの話だけどな。
0049人間七七四年2011/11/13(日) 19:43:22.86ID:IS/Ghn6s
長曾我部の重罪って何よ?
0050人間七七四年2011/11/13(日) 19:46:24.84ID:myTuFPFC
>>17
覚え書きは捏造の温床だから参考資料にすらならない。
0051人間七七四年2011/11/13(日) 20:10:18.98ID:lL1XmMyN
一次史料信者は歴史を少々知った人間が陥る典型的な病
それ自体は麻疹の様なものだが、拗らせると自分の考えを通す為に
都合の悪い史料全否定に陥る
0052人間七七四年2011/11/13(日) 20:45:53.58ID:QR++2vMp
三成憎し。
もうそういう講談的な根拠はやめようよ。
00532011/11/14(月) 03:09:52.83ID:YgZNhWkb
佐和山は捨てて大阪城に籠城して長期決戦するべきだったと思うな
短期決戦では足並み揃わない西軍じゃ家康倒すの不可能だろう
事実、裏切り続出だし
長期決戦にしてれば、上杉、真田ももっと活躍出来て面白くなった
0054人間七七四年2011/11/14(月) 03:41:30.52ID:sGmojXxz
問題は関ヶ原敗戦で諦めた事じゃないの?
小早川秀秋より毛利が悪いよ、
輝元が大坂城に篭り、
伊勢に軍がいる時点で負けじゃない。
大坂攻められたら、
伊勢の軍で横腹つけるじゃん
長期戦になった時に、
毛利の領地に危険あったけ?
00552011/11/14(月) 04:20:08.48ID:SImCEvNB
>>54
黒田官兵衛の軍が九州制圧して毛利の領地に攻め込むと思うわ
0056人間七七四年2011/11/14(月) 04:26:18.79ID:nEEAkicb
>>53
長期化したら、普通なら足並みの揃ってない方は、更に乱れる。
長期化したら、それこそ秀頼が裏切りかねない。
>>54
それこそが三成首謀者論を支える事実の一つでもあんじゃね?
三成が敗走して西軍は陣営の維持も出来なかったんだろw
まあ、そんな毛利輝元だから無理に改易する必要が無いって見逃して貰えたんじゃね?
00572011/11/14(月) 05:40:14.41ID:SImCEvNB
>>56
短期決戦で一日で敗北よりいいだろう
情けなさ過ぎるわ、関ヶ原の西軍の負けっぷりって
まともに戦ったの宇喜田と石田隊くらいだろ
00582011/11/14(月) 05:42:42.10ID:SImCEvNB
家康を暗殺して欲しかったぜ
0059人間七七四年2011/11/14(月) 06:20:02.02ID:sGmojXxz
東軍、西軍に安易に分けようよとするから、
いけないと思いませんか?

例えば、イラク戦争の時に、
日本は、アメリカ側でしたが、
毛利のようにイラク本土戦には参加してませんよね。
アメ機に給油はバンバンしてましたけど。

勢力として、
最上、伊達は東軍ではありませんよね。
上杉と真田も別に西軍ではないし、
徳川と恩顧東軍、前田も別、
奉行系、毛利、九州からの軍、
九州の黒田、加藤、島津も別。

それぞれ戦への動機も違うし、
長期戦のグタグタになったら、
また、違う展開があったと思います。

重要なのは毛利が粘る事だけですが…
0060人間七七四年2011/11/14(月) 07:27:48.96ID:nEEAkicb
>>58
そう思ってた人が多いから、
黒田如水が息子に『ボーっとしやがってカス!お前の空いてた方の手で何で家康のクビ位取ってこんかったボケ!』
と言ったって逸話が残ってんだろw
(まあ、これは裏切りの話だから西軍のグダグダぶりとは無関係だが)
0061人間七七四年2011/11/14(月) 07:33:01.20ID:Dos6gtDv
その如水も本戦勝利の報が届くまでは大友勢との戦で
一杯一杯だったぞ
0062人間七七四年2011/11/14(月) 10:21:02.03ID:OQ7uOBtN
福島の暴走に、徳川も石田も振り回されたような感じだな。
0063人間七七四年2011/11/14(月) 10:25:47.85ID:DX5zMw7U
>>62
目付の本多・井伊が上手く押さえ込んでいる
0064人間七七四年2011/11/14(月) 11:58:29.29ID:XRiCTi7Q
>>52
七将が三成隠居に追い詰めてるんだから
よっぽど憎かったのは間違いない。
>>53
当初の予定では西軍主力の毛利が伊勢を北上して尾張を衝く予定だった
だから大垣まで出張っていただけの三成なので佐和山云々での戦闘は
福島らの急激な北上による結果。
ただしこうなったのは毛利の責任。
毛利は秀元の家臣と広家の義弟の益田配下がケンカして
軍が遅延したりとダラダラやって降伏勧告しているうちに
下野国小山の家康陣から富田や分部や古田らが戻ってきて
安濃津城の防御を固めつ時間を充分に与えてしまった。
さらに安濃津城落城後に毛利は伊勢を自領化する野心で
増田とトラブル起こして尾張の入り口にあたる長島城への進軍が遅れた。
結局、毛利は長島城への押さえの陣を鍋島に任せて関が原へ移動。
>>54
毛利は美濃へ戻らずに長島城攻めをして尾張を圧迫した方が良かったかもね。
実際、小牧長久手の時の秀吉は、伊賀・伊勢南方を奪いとって信雄を降伏に追い込んで
家康から切り離して家康の屈服を謀ってるからね。
福島の所領の尾張を奪ってしまえば武断派の影響力は低下するし
東海道は秀吉恩顧でかつ、武断派に所属してない大名も多いから揺さぶりをかけられるし。
このくらいの決意と動きを示して見せねば上杉や佐竹も大きく動いてくれないだろう。
そうしておいて福島らを引きつけて三成らには引き続き大垣で籠城する態勢を整えて粘るのも一策。
西軍として蜂須賀隊もすでに近江まで着ていたし。
>>55
制海権を支配してる毛利領へ黒田が渡海するには
村上水軍を撃破する手段が必要だが難しいだろう。毛利は小倉や門司も森氏から接収して軍を入れてるし
毛利の伊予侵攻などもそうだが、基本的に毛利の動きを海上で阻止することは不可能だったし。
>>56
輝元が大事な時にヘタレて保身に走ったからだろ。
増田と輝元は三成と安国寺に全責任を押し付けて、罪科逃れに大坂城を譲渡したが
大坂を受け取った家康は輝元を許さず断罪した(広家が毛利を救った話は偽文書)
しかし島津征伐が議題にあがったから減封で済ますことになっただけ。
>>61
そのとおり。黒田は関が原敗報を使って西軍諸城を開城させていっただけ。
>>63
例えば?
0065人間七七四年2011/11/14(月) 12:53:34.13ID:DX5zMw7U
>>64
岐阜先陣の調停とか
0066人間七七四年2011/11/14(月) 14:06:48.26ID:PzAe1Mqf
美濃侵攻の渡河で
先陣抜け駆けが起きてる時点で、
完全に目付頑張り無視でダメじゃん。
0067人間七七四年2011/11/14(月) 14:15:32.99ID:DX5zMw7U
>>66
相手が攻撃したから応戦は当然でしょ
0068人間七七四年2011/11/14(月) 22:08:11.59ID:IjQtto7O
>>67
そんな事実無いでしょ。
一次史料出して。
0069人間七七四年2011/11/14(月) 23:17:15.10ID:DX5zMw7U
>>68
抜け駆けで一触即発になったと言う一次史料も存在しないはず
0070人間七七四年2011/11/15(火) 00:28:38.36ID:H+KIwiZz
井伊「岐阜では孤独に耐えながらエア調停しました」
0071人間七七四年2011/11/15(火) 04:30:53.52ID:lFrh2Wre
>>70
家康『例えエアでも、調停はしたのか?』
榊原他『俺達が、着く前にケリ付ける気だったんだろ?』
0072人間七七四年2011/11/15(火) 17:00:43.23ID:k2aSwqL9
>>16
やはり覚書なんて捏造の温床なんだよ。
義演准后日記の方が正しいに決まってる。
0073人間七七四年2011/11/15(火) 18:00:30.76ID:ZweinI28
>>72
義演が26日の日付に「三成が佐和山に戻った云々」とあるのは26日にそういう話を聞いたという事で、
実際はそれより前に入城していたんじゃない
ちなみに同日に岐阜城落城の雑説を耳にしている(23日)
0074人間七七四年2011/11/15(火) 18:20:43.01ID:k2aSwqL9
23日に三成らは川での対陣を諦め大垣城籠城のために退却してる。
26日以前に佐和山に三成が戻って佐和山城の守備を固めているなら
なおさら福島らが佐和山→大坂宛て書状を盗むのは地理的に不可能じゃん。
なんせ大津城が西軍と手切れになったのは9/3だもん。
0075人間七七四年2011/11/15(火) 20:00:23.05ID:ZweinI28
>>74
23日に呂久川から大垣に戻り、同日から26日以前の間に佐和山に出向き、26日までに大垣に戻ったということ
0076人間七七四年2011/11/15(火) 22:05:28.38ID:HXVuTH08
26日大垣に戻ったとする根拠は?
0077人間七七四年2011/11/15(火) 22:34:24.99ID:ZweinI28
正確には26日までに

「慶長5年8月27日 石田三成・小西行長等、美濃顯性寺に禁制を下す」
とあるのでこの時には大垣にいたことになる

そうなると前日までには大垣に帰っていると思う
0078人間七七四年2011/11/15(火) 23:36:50.56ID:HXVuTH08
普通に考えて26日に移動してたなら出発前に佐和山から大坂に書状を出してるだろ。
だから大坂に書状出すなら27日に大垣から改めて出すだろ。
そもそも27日に佐和山から大垣に戻った可能性もあるわけで。
0079人間七七四年2011/11/16(水) 03:55:42.40ID:gi9oZ//3
>>78
実際には24日か25日に佐和山から大垣に戻った事になる
恐らくは23日に呂久川から大垣に戻って直ぐ佐和山に行ったのであろう

9月12日の増田宛三成文書から輝元出馬要請は届いているので、佐和山で
一回出して、その後に催促として大垣で出した二回目の書状が捕らえたかと
0080人間七七四年2011/11/16(水) 14:30:46.70ID:BAOmLVTx
>>79
そんな1日か2日しか佐和山にいなかったとか非現実的じゃね?
それじゃ東軍が佐和山を襲う可能性を考慮して
備えを固める時間的いとまがないじゃん。
つうかそもそも覚書なんて後から書かれた
いくらでも捏造できる書留めを信用して
パクられた書状と決め付けてるのかが理解できない。
三成から離反した者から渡されたものかも知れんのに。
「廿七日之書状、并治部少内状、今日於神奈川被見候」
この書状に対応して後世に書かれた覚え書きだろ。
この書状自体は昔どっかで読んだことがあるから知ってたが
改めて読んでみようとしたら、ぜんぜんどこにあったかわからん。
この書状が収録されてるのってどこだっけ?
0081人間七七四年2011/11/16(水) 14:50:10.07ID:gi9oZ//3
>>80
佐和山に戻った理由が佐和山を固めるためという根拠はない
例えば、佐和山にいる兵を大垣に出すためとも考えられる

後、「覚書に採録されている文書は信用できない」なんてなったら、
歴史学なんて碌に語れなくなるのだが、そこん所理解している?

中村不能斉採集文書
0082人間七七四年2011/11/16(水) 15:15:09.36ID:BAOmLVTx
>>81
あれ?たしか綱文だか注意書きだか覚えてないけど
佐和山に帰った理由を守りを固めるためと書いてなかったっけ?
覚書を信じる前提なら、当然にそれも考慮しないとならないと
思ってそう書いたんだけど。
正直、覚え書きを信用すると
松川の戦いにおける佐藤次兵衛功名覚とか木村宇右衛門覚書とかの
両陣営それぞれの主張を全部鵜呑みにしろと言ってるようなもんで
関が原支戦ですら収集がつかず
ましてや膨大な覚書が後世にそれぞれの立場で書かれている
関が原などはかなりの史実歪曲を肯定することになる。
覚え書き書いた者勝ちとなると勝者の論理にしかならない。
0083人間七七四年2011/11/16(水) 15:30:54.38ID:gi9oZ//3
>>82
「按ずるに」つまり稿文を編纂した人物の考えに過ぎない

そういう相反する内容ならどちらが正しいかの批評ができる
では、貴方が言う所の「覚書の文書は偽作」とする根拠の史料は何か
0084人間七七四年2011/11/16(水) 15:59:12.14ID:BAOmLVTx
つまり覚え書きも「按ずるに」で書いてるのと変わらない。
しかも自分の立場や陣営擁護やその後の歴史を知ってる者が書いてる。
しかもいつ、どこで、誰が書いていて
どういう由緒で誰の手に渡っていたのが収集されたのか
わからないものが多数。
武田家に関する戦国期の書状や覚え書きなんて捏造の宝庫だぞ。
みんな仕官に役立つから製造されてる。
0085人間七七四年2011/11/16(水) 16:14:40.10ID:gi9oZ//3
>>84
で、三成書状を奪ったとする覚書内の書状を否定する史料は何?
覚書だから意味はないは聞き飽きたので
0086人間七七四年2011/11/16(水) 16:39:25.92ID:BAOmLVTx
覚え書きは一次史料じゃないから信用に値しない。
0087人間七七四年2011/11/16(水) 17:25:51.56ID:gi9oZ//3
>>86
あなたは歴史研究というものを根底から勘違いしている
0088人間七七四年2011/11/16(水) 17:36:30.64ID:BAOmLVTx
そんな出所不明の覚え書きを盲信する方がおかしいわ。
0089人間七七四年2011/11/16(水) 17:48:42.89ID:gi9oZ//3
一次史料のみで歴史を知ることができると考えるほど、お目出たい脳みそは持っていないので
例えば、合戦の経過を一次史料のみで組み立てることなど不可能
0090人間七七四年2011/11/16(水) 18:38:00.20ID:BAOmLVTx
合戦の経過なんて正答は「ほとんどわからない」に決まってるだろ。
誰が合戦の詳述ができると宣言したんだ?
0091人間七七四年2011/11/16(水) 19:37:09.16ID:gi9oZ//3
>>90
できないで済ますか、二次も用いて考察するか
0092人間七七四年2011/11/16(水) 20:35:03.27ID:SqjAA0FZ
二次を用いた時点で糞駄文
0093人間七七四年2011/11/16(水) 21:05:28.22ID:gi9oZ//3
じゃあ歴史学者は全て糞駄文の論文を書いていることになるな
0094人間七七四年2011/11/27(日) 04:30:02.62ID:LimStz5V
お前ら仲よすぎるだろうwwwwww
よくそう飽きもせず二人楽しくおしゃべりしてんだよ。羨ましいぞこの野郎www
0095人間七七四年2011/11/27(日) 12:16:11.44ID:2tx+n3+P
まぁ二次史料を用いたら
筆者の好みや贔屓を確実に反映させてしまうからねぇ。
中立性が保たれない。
0096人間七七四年2011/11/27(日) 12:20:42.70ID:tPWKH8wl
>>95
そりゃ、一次史料も同じ
記録者の好みや贔屓が入る
0097人間七七四年2011/11/27(日) 13:02:09.67ID:2tx+n3+P
バッカ
それが一次史料って言うんだよ。
その当時の人がどう考え、そう反応したかが読み取れる。
お前いろいろと混同しすぎ。
0098人間七七四年2011/11/27(日) 13:33:45.08ID:tPWKH8wl
>>97
それだけじゃ不足するから二次史料が使われるわけ
馬鹿みたいに二次史料否定すれば自分カッコイイと勘違いしている奴がいる訳だ
研究者も二次史料使いまくっていると言ったら逃げたけど
0099人間七七四年2011/11/27(日) 14:14:46.79ID:BNpgbaTf
>>98
1人で軍記読みながらオナってろよ…
0100人間七七四年2011/11/27(日) 16:48:03.84ID:tPWKH8wl
>>99
ほら、直ぐこういう極論に走る馬鹿が出てくる
0101人間七七四年2011/12/04(日) 21:26:30.70ID:EsdGg7Vf
主力武将をまとめて大津城へ送った三成の戦略眼の無さ
0102人間七七四年2011/12/04(日) 21:34:15.50ID:Z1PqCvpT
大津を重要視したのは普通
問題は家康の動向を全く把握していない点
0103人間七七四年2011/12/04(日) 21:37:52.55ID:XHNomoJf
>>101
何を持って主力なのか?
2chで絶大な人気を誇る、徳川の書院番頭を念頭においてそうだがw
0104人間七七四年2011/12/04(日) 21:45:42.55ID:EsdGg7Vf
>>103
毛利元康
立花宗茂
小早川秀包
筑紫広門

凄まじい面子じゃね?宇喜多勢に匹敵すると思う。
0105人間七七四年2011/12/05(月) 11:51:35.12ID:2a45rXhj
匹敵するが、主力とまでは言えないだろう。
大津攻略にはそのくらいの数があっても不思議じゃない。

しかし、三成は仕方ないとしても他の西軍諸将まで
見通しが甘すぎると思うな・・・島津や大谷くらいの戦上手なら
色々わかるだろうに・・・
0106人間七七四年2011/12/06(火) 09:59:23.20ID:Ge0wEOYj
>>105
その辺の辻褄合わせの逸話(史実?)が
島津は東軍に入りに行ったのに追い返されたからしょうがなしに西軍になったとか
大谷は三成を翻意させようと頑張ったが、最後は情にほだされて西軍になったって話につながるんだろ。

勝てるなんて思えなかったんじゃね?
総大将が、酷すぎだったんだろ
0107人間七七四年2011/12/06(火) 11:32:31.73ID:a2NhE8Y0
家康に対抗できるくらいだから、酷いという一言で片付けるのはどうかと
思うが、戦略眼がなかって事か。
0108人間七七四年2011/12/06(火) 11:48:01.11ID:dLWdRwS5
何よりも諜報がカス
0109人間七七四年2011/12/08(木) 05:51:57.08ID:ONhY/pfk
>>107
戦略というかなんというか
何をしたいの?レベルだろ
西軍総大将の良い年こいたオッサンが、
『うちの人間は戦ってませんから、うちは無関係です』
なんて通ると信じたのか?ってレベルだろ。
まあ事実、減封ですんだけど
でも、その選択が出来るなら東軍で良いんじゃね?レベルのことを西軍総大将はやってのけたw
0110人間七七四年2011/12/08(木) 12:07:58.11ID:ezaTbuc1
毛利が西軍総大将だったのかは疑問すぎる。
戦場に出てないし、もし総大将だったら家康に泣きいれて済むとは
考えないんじゃないか?幾らなんでもw

合戦では宇喜多で参謀が三成なんじゃないかと思うね。
0111人間七七四年2011/12/08(木) 13:29:36.01ID:WwRZyakl
指揮統制が不明瞭なんだから勝てるわけがない
0112人間七七四年2011/12/08(木) 13:34:20.95ID:ezaTbuc1
大将が不在状態でよく10万も兵が集まったもんだな
0113人間七七四年2011/12/09(金) 06:36:03.41ID:IP4dQZ5g
>>110
たかが近江半国しか持ってない奴が、総大将?
(蔵入地の収入を横領しましたなんて公表出来るわけもないし)
総大将が最前線?
(いるだけで相手が腰抜かす猛将でもないし)
無理な考えだろ。

それに、後からのでっち上げで毛利を総大将にしたなら、逆に
毛利は断絶喰らってるはず。
(潰す気がなくて内戦の首班にはしないだろ?)

どんな経緯で祭り上げられたかはわからんが、人集め時には毛利輝元が総大将ってのは、
本人も理論してただろ。
0114人間七七四年2011/12/09(金) 10:13:21.12ID:/XFfa/Qb
>>133
>それに、後からのでっち上げで毛利を総大将にしたなら、逆に
>毛利は断絶喰らってるはず。

実際に戦ってる上杉ですら断絶なんかされてません
0115人間七七四年2011/12/09(金) 13:23:18.04ID:IP4dQZ5g
>>114
普通じゃないアナタの考えを教えてもらいたいんだが
断絶させる気もなく、アナタの意見と思わしき総大将のぬれぎぬを負わせる理由を教えてもらいたい。

実際に毛利が総大将じゃないなら、ぬれぎぬを毛利に着せる必要もなく、
石田三成を総大将としておけば良かっただけのこと。

殺せない程の大物にあえて総大将認定してるのは、それこそ洒落にならんほどの総大将としての関与が合ったと取るべきだろ

後、上杉云々は筋違いだろ
彼等は、討伐軍に対して防衛したって屁理屈があるから、徳川からしたら討たずに済ませる大義名分がある。
0116人間七七四年2011/12/09(金) 15:29:56.41ID:/XFfa/Qb
>>115
>実際に毛利が総大将じゃないなら、ぬれぎぬを毛利に着せる必要もなく、
>石田三成を総大将としておけば良かっただけのこと。

味方しなかった奴に巨封を与えておいてやるほど
お人よしじゃないからだろ。毛利の領地削らなければ恩賞もでないだろ。

0117人間七七四年2011/12/10(土) 09:11:23.42ID:0ZbuyOgb
>>116
意味不明
総大将認定しなくても、伊勢で東軍の城を攻めるって敵対行為してる。
これだけでも改易くらってもおかしくは無い。
減封で済ますのに総大将認定しなきゃいけないと思いたった心情に興味がある。
0118人間七七四年2012/01/14(土) 18:55:30.56ID:gw5kg/r3
保守
0119人間七七四年2012/04/22(日) 17:26:08.83ID:TGUgTTaX
実動部隊が石田、大谷、宇喜多、小西だけで勝てるわけないな
0120人間七七四年2012/04/29(日) 13:49:00.70ID:wrNYeQo1
関が原の戦いは徳川VS豊臣家ではなく豊臣家の内乱だと言われているけど、
東軍についた武将たちは家康の野心に気付いていたのかな?それとも気付いて
いなかったのかな?
0121人間七七四年2012/04/29(日) 20:58:49.01ID:Wumon/+3
野心というより豊臣家が地盤沈下しただけ
0122人間七七四年2012/04/30(月) 13:13:49.13ID:KtjV4N/g
 
関ヶ原の戦いは、「平将門の乱」の再現

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/39/266_1.html

そこには、豊田城があった。
0123人間七七四年2012/04/30(月) 13:20:45.10ID:CXz5QXV1
石田三成がとても間抜けだったのが敗因
もっとも信頼していた増田長盛が家康に内通していた
味方に付いてくれると信じて上洛を期待していた相手、福島正則が東軍の総大将級人物
0124人間七七四年2012/05/01(火) 23:35:13.12ID:gRTHLGcN
大飯原発の再稼働問題は
現在の関ヶ原合戦だな!
0125人間七七四年2012/05/01(火) 23:56:45.92ID:XxCw8Pm4
家康に対して、秀吉への不義理をまくしたててるけど
秀吉だって織田家を・・・。
主君のやってきたことを思えば、恥ずかしくて家康を責める気にはなれないと思うのだけど・・・。
0126人間七七四年2012/05/03(木) 00:31:15.69ID:xGzVRMw7
そもそも秀吉に義理も何もないのに不義理なんてあるはずがない
むしろ豊臣が狂った外征や粛清を繰り返し反省の色がまったく見られないので
豊臣がこれ以上世を乱さないように日本の治安を守っただけに過ぎない
0127人間七七四年2012/05/03(木) 13:59:43.92ID:vN3qezcq
民主党から離党する議員を、裏切り者とか不義理とは
全く思わないのと同じじゃね?
0128人間七七四年2012/05/03(木) 14:01:41.24ID:vN3qezcq
スマン、スレ間違えた
0129人間七七四年2012/05/03(木) 23:05:26.86ID:q74rKn2S
三成は、秀吉の晩年に、北九州100万石になれる可能性があったんだよね・・・
もし、その100万石に封じられれば、関ヶ原もまた違った結果になっていたのだろうか?
三成に100万石あればさすがに、鬼に金棒だろうか。。。
堺屋の、小説『大いなる企て』にも書いてあったよ。
0130人間七七四年2012/05/04(金) 19:28:09.55ID:mlfs9ZEW
あっそ
0131人間七七四年2012/05/04(金) 22:01:22.06ID:UmAHG1Mu
>>129
小早川・立花・鍋島・黒田に至るまで全て潰して乗っ取っても100万石には足りないが?
堺屋の脳内北九州がどういう構成になっているのか知らないけどな
0132人間七七四年2012/05/05(土) 06:43:53.31ID:VHvyUq6W
俺も石田三成に100万石てありえないと思う
北九州の可能性ある領土をかき集めてみると

筑前名島34万石(小早川領のちの福岡藩領)
筑前怡土2万石(小早川領のちの唐津藩領)
肥前高来彼杵5万石(小早川領のちの佐賀藩領)
肥前田代1万石(小早川領のちの厳原藩領)
筑後久留米10万石(小早川領のちの久留米藩領)
肥前唐津6万石(波多領のちの唐津藩領)
豊後42万石(大友領)

これで小早川、大友、波多の三氏から没収した分で
ピッタリ百万石になるが、これだと小早川秀包の領土も没収しないといけないし、
大谷に与えられる残り100万石は捻出できない。
0133人間七七四年2012/05/05(土) 13:53:39.87ID:vE8Qc1Ej
まぁ、それ以前に三成に100万石を与える名分がない。
徳川・毛利・上杉に次ぎ、前田を上回る石高など有り得ない。
公平性を著しく欠いており、ゲームでない限り不可能。
0134人間七七四年2012/05/05(土) 20:29:52.26ID:/v5af0Wc
三成に100万石の話は、司馬の『関ヶ原』にも書いてあったよ。
秀吉が逝ってから、風雲急を告げてきた辺りから、100万石
もらっとけばよかったと。。。
0135人間七七四年2012/05/05(土) 20:37:17.23ID:6tTWmiMu
司馬の関ヶ原にあったからって…

まさか司馬が信用できるとか思っているのではないだろうな?
0136人間七七四年2012/05/05(土) 20:45:12.34ID:e4TvmKN6
堺屋の名前出してる時点で釣り
0137人間七七四年2012/05/05(土) 21:45:53.13ID:VHvyUq6W
石田三成には荷が重すぎる
たとえば西軍の関ヶ原転進の情報を掴んで東軍にもたらしたのは
福島の使番、祖父江信勝。
(のちに家康に請われて旗本となり青山家長と改名。大坂の陣で豊臣に内通して処刑された)
情報戦や連絡や他家への使いはすべてこういった使番が行う。とても重要な役職である。
福島正則には使番が二十騎居たという。石田三成も石高的にほぼ同等の人数しか居なかっただろう。
単純に考えると徳川家康には十倍くらいの使番が居ただろう。(村越直吉が有名)
東軍は調略を徳川の使番が主に担当して戦場での情報戦などは福島の使番が担当できる。
それに比べると石田三成は使番を調略などの多数派工作に大勢出しながら、前線の大垣に居て、
戦場での情報戦もしなければならなかった。当然徳川家康勢の上洛行軍などの大切な情報収集も、
充分な人数を割くことが出来ず、情報戦、調略戦双方に於いてとても不利な状況になるのは避けられない。
0138人間七七四年2012/05/05(土) 23:06:07.09ID:3C+vHe7i
細かいこと言うと大友領は豊後のうち二十万石
高来(長崎・島原)と彼杵(大村)が小早川領になった事はない
0139人間七七四年2012/05/05(土) 23:34:09.98ID:xCSMAjZY
>三成に100万石の話は、司馬の『関ヶ原』にも書いてあったよ。
>三成に100万石の話は、司馬の『関ヶ原』にも書いてあったよ。
>三成に100万石の話は、司馬の『関ヶ原』にも書いてあったよ。
>三成に100万石の話は、司馬の『関ヶ原』にも書いてあったよ。
0140人間七七四年2012/05/06(日) 21:30:21.86ID:+2jj+PJN
>>134
それは三成が小早川領35万石を貰う噂話を司馬が水増ししまくって100万石にしただけの話だよ
だいたい小早川の領地没収の件は三成が秀吉に讒言してもたらしたもの
それを三成自身のものにしたら三成が領地簒奪目的で讒言したことになる
すると必然的に加藤など他の大名への讒言も全て領地簒奪目的ということになってしまい
朝鮮出兵での処分がすべて出鱈目なものと豊臣自身が認めてしまうことになる
だから三成が北九州の領地を貰うことは実際にはありえなかった
それを判官贔屓でありえたことに捏造しているだけだ
0141人間七七四年2012/05/09(水) 13:12:12.94ID:gI/g5yYz
小説は小説で楽しんで読めば良いけど、それと史実をごっちゃにするのはな・・・。
0142人間七七四年2012/05/19(土) 03:49:25.19ID:ut2qXt/1
>>125
まあ、そうなんだよね。
むしろ家康は基本主家に対してあまり無遠慮な事はしてないんだよ。
最終的には滅亡させるけどそれでもそこに至るまで時間をかけたり
手を尽くしているし。

秀吉は織田家の人間を改易、追放したり、信長の娘を側室にしたりと
やりたい放題だったからなあ。
0143人間七七四年2012/05/22(火) 20:48:19.50ID:Lp8LVFph
葵徳川三代

家康「南宮山の山内勢を関ヶ原へ!」

山内勢は関ヶ原で西軍のどの部隊と戦ったんですか?
布陣図からして近いのは石田か小西?
0144人間七七四年2012/05/22(火) 20:57:56.27ID:Tfjf9koH
実際は岡山の守備だったので戦っていない
0145人間七七四年2012/05/22(火) 21:01:04.04ID:Lp8LVFph
>>144
thx
0146人間七七四年2012/05/27(日) 21:17:05.40ID:qiO9ryYh
西軍が勝っても三成は50万石あたりでしょ
100万石はあり得ない
0147人間七七四年2012/06/11(月) 06:19:12.47ID:fvxs281x
>>146
確かに19万石から一気に100万石はあり得ない。
シミュレーションの結果を雑誌に書いてる人たちの大半が
50万石としてるから、そのあたりなんだろうと思う
0148人間七七四年2012/06/11(月) 11:54:24.87ID:1tMTGIWR
毛利は自国の石見銀山を守るために西軍大将に成った
家康に取られたくない
0149人間七七四年2012/06/13(水) 22:00:33.40ID:vQpNanRp
西軍が勝った場合、誰が領土の分配を決めるんだろう?
0150人間七七四年2012/06/14(木) 06:26:40.28ID:yFktksR5
配分で揉めてまた内戦が始まるのが目に見えている
0151人間七七四年2012/06/14(木) 10:40:51.24ID:xfvqqOqe
切り取ったもん勝ちだろうな。
総大将の毛利からして、自国の拡大にせっせと努めてたんだし。
上杉だって、飛び地解消のために山形攻めたわけだよな。

一般人目線では、どう考えても東軍勝利による社会安定を望むな。
0152人間七七四年2012/06/16(土) 22:18:42.12ID:fw+D2Xng
vipでドラえもんのび太の関ヶ原ネタ書いてる奴がいるw

http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1339819061/l50
0153人間七七四年2012/06/17(日) 08:29:26.90ID:DGELGQn1
寝が入りが無くても西軍は負けてた様な気がする
0154人間七七四年2012/06/17(日) 09:38:48.37ID:tWRdVoi2
岐阜城陥落の時点で腰砕けになってたからな、西軍
0155人間七七四年2012/06/18(月) 21:39:29.50ID:n8ElPEsM
実際は小牧長久手の合戦で勝敗決まってたと思う
あれで豊臣が負けて家康を打ち取れなかったから
0156人間七七四年2012/06/27(水) 02:31:27.83ID:kSf7hEBT
>>155
信雄は散々バカ扱いされているが、この時の彼の単独講和は家康にとって
結果論にはなるが最上のタイミングだったよね。
確か家康はこの戦いで相当無理して兵を動員したらしく戦いが長引けは
間違いなく詰んでいた。
秀吉兵力、物量共に圧倒的に上だったし。
0157人間七七四年2012/06/27(水) 04:11:35.30ID:MEZm0fpI
織田秀信はなんで西軍についたのか?
0158人間七七四年2012/06/27(水) 10:43:24.56ID:AgDvVmNh
豊臣恩顧だからか?w
0159人間七七四年2012/06/27(水) 13:25:46.78ID:iJNvIPkD
真田も兄弟で別れてどちらが勝っても
残るようにしてたけど
織田もそじゃないかな
0160人間七七四年2012/06/27(水) 13:42:47.20ID:kSf7hEBT
>>159
でも織田は有楽斎以外は豊臣側についたんじゃなかったっけ?
だから信さんの息子達は豊臣側についたので改易させられている。

0161人間七七四年2012/06/27(水) 19:43:36.39ID:MEZm0fpI
でもなんだかんだで小大名として明治まで生き残ってる。
0162人間七七四年2012/06/28(木) 08:08:54.78ID:iUQFjtz2
それにしても、岐阜城はもう少し耐えられなかったものなのだろうか。
0163人間七七四年2012/06/28(木) 08:33:58.29ID:7PD+X1Ps
まあ岐阜城陥落で関ヶ原の勝負は決まったようなもんだからな
0164人間七七四年2012/06/28(木) 11:13:42.56ID:sfr/gZmz
秀信に戦の経験は実質的にゼロだし
祖父が桶狭間で家臣の篭城意見を無視して勝ったという話だけを鵜呑みにして
真似をしようとしても失敗するに決まっている
0165人間七七四年2012/06/28(木) 20:46:11.12ID:ALu89Iem
福島が秀信の助命を頼んだのはなぜ?
0166人間七七四年2012/06/28(木) 22:32:48.57ID:biWfZELZ
織田家あっての豊臣家であり、福島家であると理解しているから。
自分の戦功と引換えにする説明が他に出来ない。
0167人間七七四年2012/06/29(金) 00:04:02.88ID:HlSVo1AG
>>168
堅城だの難攻不落だの言われてる岐阜城も稲葉山時代から結構落とされてるし川を挟んで迎撃、一撃を与えて籠城という考え自体は間違いじゃない問題はそれをこなすだけの能力も兵も無かった事
0168人間七七四年2012/06/29(金) 02:29:21.72ID:BEJkwdGj
上杉はなんで背後から家康を追撃しなかったの?
0169人間七七四年2012/06/29(金) 04:26:20.58ID:YmqLTPjB
上杉にそんな能力はみじんもないからだ
0170人間七七四年2012/06/29(金) 07:42:45.30ID:kFaQkG+t
秀吉はどうして小牧長久手で
家康の首を捕るだけ徹底的に攻めなかったの
攻めれば秀吉の軍事力が圧倒的だから家康の首取れた
0171人間七七四年2012/06/29(金) 07:50:22.91ID:YmqLTPjB
>>170
それを結果論という。
お前なんぞよりはるかに頭のいい秀吉が当時の状況を考えぬいた挙句の結論があれだ
0172人間七七四年2012/06/29(金) 15:22:55.21ID:6LNSBCVX
>>168
上杉が挟撃に動いたら伊達が待ってましたとばかりに会津に攻め込むだろうね
ドサクサ紛れの火事場泥棒は政宗の得意とするところ
だから上杉が徳川を白河あたりでクギ付けできなかった時点で半ば勝負あり

>>170
長宗我部が背後から畿内上陸を企ててたので、講和を急ぐ必要があった
0173人間七七四年2012/06/29(金) 18:08:33.09ID:Ztwz2rjW
そもそも徳川政権が成立したのは、三成が無謀なクーデター起こして、あまつさえ関ヶ原で日本史上
これ以上ないくらいの大敗北を喫したためだ。
0174人間七七四年2012/06/29(金) 21:09:49.20ID:vAvbcpPY
>>166
こういう話聞くとなんだかんだ言われながらも福島はいい奴だなと思う。
本来助命嘆願を家康にお願いすべきなのは池田輝政の方だろうに。
0175人間七七四年2012/06/29(金) 21:20:00.70ID:YmqLTPjB
>>174
なんで?正則は清須と美濃で近隣だった縁があるが、秀信と輝政何の関係もないじゃん。
0176人間七七四年2012/06/29(金) 21:37:14.81ID:kFaQkG+t
徳川本体(秀忠の3万の軍)が関が原に間に合わなくても
東軍が勝ってるのだから
どうやっても西軍に勝つチャンスは無かったのか?
毛利や島津など西国の有力大名が生き残りを掛けて全力で
当たってたらどうなって居たのだろうか?
0177人間七七四年2012/06/30(土) 01:26:44.13ID:C+bSkFee
>>175
織田家と池田家は直接の主従関係だからか?
0178人間七七四年2012/06/30(土) 01:40:49.48ID:0yECTDHs
>>177
輝政にも世間にも、当時池田が秀信の家臣だなんて意識は欠片もないだろ。
0179人間七七四年2012/06/30(土) 01:43:52.37ID:ZZBUxJMG
>>175
池田家は信長の乳母の家系という事で取り立ててもらった恩があったはず。
それだけではなく信長の乳母は信さんから土地だっけ?領地も貰ってた。
福島よりも織田家に対して恩があると思うよ
岐阜城攻めに輝政も参加していたのにさ。
0180人間七七四年2012/06/30(土) 01:46:12.86ID:5eQHhM/Q
>>179
それは信長から受けた恩であって、池田が秀信から何の恩義を受けたというのか?
そんな忠義意識は江戸時代の話だな。
0181人間七七四年2012/06/30(土) 02:14:10.19ID:ZZBUxJMG
それを言うのなら福島だってそうだろう。
それでも彼は自分の武功と引き換えにしてまで助命をお願いしている。
0182人間七七四年2012/06/30(土) 09:42:00.09ID:0yECTDHs
>>181
だから正則は主従とかそういう部分以外のところの縁で助命嘆願してるんだろ。
衆道の可能性もあるな。

まあそんな正則も秀信の追放後はほったらかしで、秀信は野垂れ死にするわけだが。
0183人間七七四年2012/06/30(土) 12:40:23.90ID:OdI1Te1w
>>180
そんな事ないぞ。
江戸時代以降、体系づけられただけで、『家』に対る忠義は
普通に存在している。

近隣の縁なんて関係ないな。
逆に多くの場合、近隣は仲が悪いものだ。

秀信を最後まで面倒みなきゃいけない義務など正則にはない。
自らの武功と引き換えに助命しただけで十分すぎる。
0184人間七七四年2012/06/30(土) 13:13:04.07ID:gOLcsoaD
一番乗り等で輝政に先越されたけど、こういう発言することで名を売ったんじゃないかと
0185人間七七四年2012/06/30(土) 14:04:51.94ID:OdI1Te1w
名を売って、高禄で召抱えてもらうのか?
大名が実利の伴わない売名をしても意味ないでしょ。
0186人間七七四年2012/06/30(土) 14:39:51.30ID:gOLcsoaD
評判が高くなれば有能な者が仕官しようと考える
0187人間七七四年2012/06/30(土) 14:49:48.60ID:OdI1Te1w
有能な者を士官させるために、秀信の助命をしたのか?
メチャクチャな事言ってるぞ。
0188人間七七四年2012/06/30(土) 17:27:23.78ID:gOLcsoaD
他にも輝政の戦功に対抗するためとか、助命することで西軍内の心象を良くするとか
0189人間七七四年2012/06/30(土) 18:30:45.69ID:OdI1Te1w
戦功をゼロにする、って言ってるのにどうして対抗になるんだよ。
対抗して何が得られるんだよ。

なんで戦功を返上する事が、西軍の心象向上に繋がるの?
助命するだけでいい話じゃないか。
0190人間七七四年2012/06/30(土) 18:52:41.36ID:5eQHhM/Q
そもそも戦功に変えてない件。

それに正則が「戦功に変えて」と言ったというが、それが史実という記録はどこにあるのか?
0191人間七七四年2012/06/30(土) 19:11:05.32ID:OdI1Te1w
正則による秀信の助命が、結果的に不問に付されただけ。

一次史料ではないが、寛政重修諸家譜、徳川実紀等複数の文献に出典がある。

0192人間七七四年2012/06/30(土) 19:25:49.27ID:5eQHhM/Q
おもいっきりの後世編纂資料ではないか。
それだとせいぜい「〜という説もある」程度の扱いだな。
0193人間七七四年2012/06/30(土) 19:45:52.75ID:gOLcsoaD
少し調べなおした
「太田和泉守記」によると秀信は自害しようとしたが、岐阜城を受け取った正則がこれを押し留めたとある
0194人間七七四年2012/06/30(土) 20:06:53.13ID:UVgl7BAY
加藤清正が熊本城を作って豊臣を入れようとしていたのは
本当か?
0195人間七七四年2012/06/30(土) 20:26:09.30ID:0yECTDHs
>>194
嘘だよ。「昭君の間」はただの貴賓室みたいなもんだ。
0196人間七七四年2012/06/30(土) 20:41:03.87ID:OdI1Te1w
>>192
後世編纂でも、これらの史料価値は非常に高いのだが。
これを否定する研究者でもいるのかい?
一次史料でも100%史実とは限らない。

複数の史料に記載され、且つ肯定的な表現から否定的に表現されているものもある。
逆に、キミが秀信助命に関わる他の説を、史料名とともに挙げるべきでは?
0197人間七七四年2012/07/07(土) 20:29:29.21ID:IHACK48T
http://beebee2see.appspot.com/i/azuY2eDhBgw.jpg
関ヶ原の決戦地に行ってきた
0198人間七七四年2012/07/07(土) 21:46:25.46ID:VJXgruNE
>>197
ウオーランドは見なかったの?
あの人形気持ち悪い
0199人間七七四年2012/08/19(日) 09:30:47.10ID:aySotWVf
石田三成が武将達から嫌われていたと考えると、徳川方の圧勝に納得がいく
0200人間七七四年2012/09/20(木) 09:26:24.55ID:h/MbtMfK
『戦国の聖地・関ケ原』
戦いの跡が今も残る関ケ原において参戦武将らの陣跡をめぐる、
史上最大の関ケ原公式のウォーキングイベント「第3回関ケ原陣跡制覇ウォーキング」を開催します。

関ケ原に集まった英雄たちの戦いや戦国ロマンを肌で感じながら、武将たちの夢の跡をめぐる一日を満喫しませんか。
関ケ原ならではの参加特典もいっぱいです。

第5回笹尾山交流広場(10:00〜16:00)、鉄砲隊演武(13:30〜)も同時開催決定!

◆期日 2012年9月23日(日)雨天決行
◆参加資格 特に制限はありません。(小学生以下は保護者同伴)
◆参加費 1,000円(当日受付の際お支払いください)

http://www.kanko-sekigahara.jp/event/walking3/index.html
0201人間七七四年2012/09/20(木) 12:29:05.47ID:xL+gYfUw
>>200
関ヶ原の戦いにロマンなんて…
0202人間七七四年2012/09/20(木) 22:01:33.82ID:iFQJqP3N
ロマンといえば岐阜はそろそろ栗きんとんの季節か
0203人間七七四年2012/10/09(火) 09:39:59.94ID:Fwr05+5P
602:名無しんぼ@お腹いっぱい :2012/10/09(火) 08:21:44.67 ID:yXqUdEyk0 [sage]
夏休みに友人たちと滋賀に旅行に行った時のことです。
夜の関ヶ原で星空を眺めながら歩いていると、どこからともなく
複数の人間が言い争うような声が聞こえてきたのでした。
「父上お覚悟!」「アデウスアミーゴ!」
そして轟音と共に、夜空を何かが飛び上がっていくのが見えました。
私は見ました。飛来した物は、確かに人間のように見えました。

なにか犯罪が起きたのかもしれない、警察に知らせてこよう。そうおもって私たちは
交番に向かいました。
私たちの話を聞くと、お巡りさんの顔がさっと青ざめました。
「そうか……あんたたちも見たのか……」

お巡りさんが話してくれました。関ヶ原の合戦の時、裏切りを約束しながら
いつまでも動かない小早川秀秋に対し、怒りを爆発させた徳川家康は恐るべき手段に出ました。

自らの意に沿わぬ武将を捕らえ、ダヴィンチの投石器で小早川陣営に投げ飛ばしたのです。
その武将は小早川の陣営に墜落し、無残な姿となって最期を遂げた事でしょう。
そして見せしめに小早川らは震え上がり、動き出したことで西軍は崩壊、合戦は徳川の
勝利に終わりました。

歴史の陰で無残な死をとげた、名も無き一武将……その怨念が現代でも残り、
時おり旅行者が武将の最後の姿を目撃するのだそうです。

群馬へと帰る車の中で、わたしは関ヶ原の方向へそっと手を合わせたのでした。
0204人間七七四年2012/10/09(火) 22:14:35.31ID:uV/LrbBI
つまらなすぎ
0205人間七七四年2013/09/25(水) 12:44:19.39ID:VM8lEUr6
西軍は、合戦の前夜、大垣城から関ヶ原まで何キロ歩きましたか
0206人間七七四年2013/09/25(水) 14:21:25.97ID:9T4cW/yB
>>195
熊本城までやってくる貴賓って誰を指してるの?
0207人間七七四年2013/09/25(水) 19:26:58.50ID:ndh23Qnv
>>205
道のりで20キロはあるだろう。
(自動車道路なら15キロ)
重武装して徹夜で行軍し
休むまもなく、陣地構築
合戦開始
信じられんわ
0208人間七七四年2013/09/30(月) 09:04:06.35ID:pP9Ub6FV
関ヶ原は信玄がやった啄木鳥の策じゃね。誘い出し作戦
家康は秀忠軍の到着を遅らせることで西軍をおびき出したのさ
西軍としては秀忠軍が到着する前に決着をつけたいだろうから乗るわな
三成の誤算は小早川と毛利
家康の誤算は秀忠の到着が遅すぎたこと
0209人間七七四年2013/09/30(月) 09:50:58.35ID:AGb906At
>>>208
よくきずいたね。家康誤差はないよ。最初から本体を戦闘要因と考えてなければ?

関ヶ原で家康が殺られた事も考えて行動してたとおもうけど。
0210人間七七四年2013/10/02(水) 18:08:07.14ID:kr1Cdv1y
>>207
それじゃ、勝てる戦も勝てない。小早川が裏切らなくても勝てたんでない。
時間かかれば主力部隊が来るし、焦って自滅。

戦が始まる前に すでに貴様は死んでいる
0211人間七七四年2013/10/05(土) 02:47:56.52ID:rolH/lFI
前夜から当日朝まで雨が降っていて、夜営した将兵のうち、風邪をひいた人も多いんだろうな
0212人間七七四年2013/10/05(土) 12:42:42.95ID:0wqDsm4F
帝国陸軍じゃ不思議でもなんとも内話じゃが。
0213人間七七四年2013/10/18(金) 23:15:22.89ID:zFtlOqtL
>>212
なんだとこの野郎!

雑魚やろーが!

まともに!

相手の喉仏を、遣ることだ
0214人間七七四年2013/12/05(木) 17:15:58.02ID:JM+W199o
関ヶ原の戦いを検証してわかってきたこと

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html

徳川家康は「源氏」ではなく「平家」だった。

( http://music.geocities.jp/jphope21/01/9/113.html )
0215人間七七四年2014/01/29(水) 16:51:45.66ID:VNKqr2pu
黒田如水(官兵衛)は三成憎しと毛利輝元がやる気なし(これは信長存命中の毛利攻めで高松城水攻めで分かるだろうけど)で家康が勝ちそうだったから
息子の長政に大軍の兵士を任せて送って自分も九州攻めで親子揃って東軍に加勢、関ヶ原本体の東軍が苦戦して勝利して疲弊しているところを
息子長政をはじめ、福島正則や細川忠興など親交がある豊臣家臣団をこちら側につけて家康叩いて最終勝者を目指したところ
息子長政があまりにも活躍し(島左近討ち取り、小早川秀秋寝返り工作など)計画が台無しになったんだろ。

輝元やる気なしの時点で大軍だろうと西軍負けは確定していただろ。

毛利輝元→五大老の1人だがやる気なし、毛利秀元→輝元のいとこでやる気なしと実戦経験皆無
小早川秀秋→若くて血気盛んで実戦経験豊富だが優柔不断、宇喜多秀家→五大老の1人だがお家騒動を起こした
石田三成→頭は良いけど小賢しいだけ、大谷吉継→強いけど目が見えない、三成のために戦っているだけ
戦う前にこれぐらいは分析できているだろうな。
0216人間七七四年2014/01/29(水) 22:30:15.52ID:yuWYH+Gj
毛利秀元は朝鮮出兵の総大将を勤めただろ
0217人間七七四年2014/01/30(木) 12:16:43.49ID:UGOFwWue
>>215
そういうラノベでも読んだのか?
0218人間七七四年2014/01/30(木) 21:55:16.39ID:cyfN5uL0
東軍は切り取り自由の恩賞が目当ての強欲大名だらけで、
如水が動き始めたのも、それを藤堂経由で要求してからなんだよな。
西軍は秀頼様政権秩序を守るために、
そーいう太っ腹な褒美要求が出来ない自制さが痛かったね。
三成だけはそこら辺の認識があって真田に褒美の話をしてるが、
輝元なんて清正に秀頼様のために上洛してこいよって上から目線だから、
やっぱり輝元はセンス無い。
家康のかなぐり捨てた媚びが、
おぼっちゃんな輝元にはできない。
0219人間七七四年2014/01/31(金) 11:15:17.31ID:sr+iS4E0
戦というのは遊びではなくて命がけの殺し合いなんだよ
秀頼様政権秩序を守るなんてくだらないことで危険な殺し合いに全力を注げるわけがないだろ
恩賞をこの手で切り取るという強い欲求があるからこそ命がけで戦える
西軍は戦の本質についてまったく理解していない世間知らずのお坊ちゃま集団だった
こんな連中が戦を仕掛けたこと自体が恥ずべきことだろう
0220人間七七四年2014/01/31(金) 11:20:46.49ID:ywJ+nIy0
なんか最近の歴史学者の論調は、名分論や上っ面だけの肩書ばかりを重視して、
剥き出しの権力や実力を無視していて、空論と化している
0221人間七七四年2014/01/31(金) 21:28:33.70ID:H5drv3zN
>>215
クロカンが家康叩くつもりだった根拠何て何もないだろ
クロカンは過大評価され過ぎ
0222人間七七四年2014/01/31(金) 22:45:06.38ID:Tq9O1B8B
如水は輝元の大坂城占拠をもっともなことだと書いていて、
西軍挙兵初期には西軍支持だった。
しかし三成が西軍参加した8月上旬になると家康側になった。
0223人間七七四年2014/01/31(金) 22:45:34.20ID:6Wscd3gG
菅沼遼太w
0224人間七七四年2014/02/16(日) 20:10:18.72ID:RPgjdNtU
東軍についた秀吉恩顧の武将って
本気で家康が天下取りの野心がないと思ってたの?
それとも石田治部少輔に対する反感?
もしくは生き残り考えたら家康についた方が得策と考えたとかそういうこと?
野心がないと思ってたとかならショックだわ
0225人間七七四年2014/02/16(日) 21:15:52.00ID:v9gVhPmK
>>224
心理なんて、司馬遼太郎の小説でも読んでれば良いんじゃね?

徳川家康の対に石田三成を持ち出してる程度からして小説で歴史を覚えるタイプだろうし
0226人間七七四年2014/02/16(日) 22:20:42.42ID:RPgjdNtU
>>225
対?
誰も対なんて書いてないがw
石田治部が襲われるほどに嫌われてたのは事実だろうが
毛利輝元を総大将にはしているが
決起させたのは石田治部だ
石田治部が起こした戦なわけよ
反感を持つ奴が石田治部を意識しないわけないだろうがw
司馬遼太郎の小説?
笑わせるなw
お前が読んでろww
0227人間七七四年2014/02/16(日) 22:29:20.80ID:RPgjdNtU
仮に関ヶ原の合戦が毛利輝元主導の戦で
石田治部が深く関与していなかったら
どうなっただろうなw
0228人間七七四年2014/02/16(日) 23:03:45.12ID:RPgjdNtU
東軍についた豊臣恩顧の武将が
三成決起云々抜きで東軍を選択したと思ってる奴って他にいる?w
0229人間七七四年2014/02/17(月) 11:36:32.06ID:DhUh0B4Y
上杉征伐を中止させるための、
三成謀反の風聞に踊らされた武断派と家康。
0230人間七七四年2014/02/17(月) 15:11:01.04ID:sfBLOspd
三成が西軍に参加してない時期に、風聞だけで武断派を走らし、家康を疑心暗鬼にさせた三成すげえ。
0231人間七七四年2014/02/17(月) 17:45:46.85ID:uVnLHklF
北政所って何なの?
子供生まねぇし、東軍推してるし
木下秀俊(小早川秀秋)は甥で寵愛してたわけだろ?
秀秋のあの選択に影響を及ぼした可能性は十分あるよな
本気で豊臣vs豊臣の戦いだと思ってたのか
それとも徳川の世になったとしても淀を抹殺したかったのか
何れにしても北政所は豊臣家にとっては戦犯だな
0232人間七七四年2014/02/17(月) 17:52:57.64ID:uVnLHklF
戦犯というか
自ら止めをさした愚かな女
0233人間七七四年2014/02/17(月) 17:59:56.66ID:uVnLHklF
おいぃぃ
近年の研究結果じゃ北政所は西軍寄りだったらしいじゃねぇかw
ごめんよ政所
秀秋の鼻タレが言う事聞かなかったみたいね
0234人間七七四年2014/02/17(月) 18:08:51.17ID:CXbN8EMR
小早川秀秋は長生きしてたら豊臣本家を継げてたかもしれんから
北政所の指示があったとしたらさほどの間違いでもないのでは?
0235人間七七四年2014/02/17(月) 18:26:25.14ID:uVnLHklF
>>234
いや、それは無いと思うよ
北政所は
秀秋が生き残ったところで徳川が勝てば
豊臣が家康に潰されるのはわかっていた
0236人間七七四年2014/02/17(月) 18:28:35.63ID:uVnLHklF
北政所の側近の孝蔵主という人物
孝蔵主は石田三成とは親戚で一説には三成の父、又は母の姉妹だったといわれている。
もう一人の側近に東殿という人物がいるがこの人は大谷吉継の母。
更に北政所は三成の三女・辰姫を自らの養女としていた。
関ヶ原の戦いでは西軍の出陣後に北政所は戦の神といわれる愛宕天神の神社と秀吉の墓前で
西軍勝利を祈願していて、大津城に使者を遣わして開城勧告を行わせたのも西軍の為の行動。
戦後は東軍についた福島正則らの武断派や寝返った小早川秀秋とは距離をおいている。
0237人間七七四年2014/02/17(月) 18:30:19.71ID:uVnLHklF
それにしても>>231で書き込んでる内容と
全く別の見解を持ってしまった俺ワラタ
0238人間七七四年2014/02/17(月) 19:37:55.45ID:sfBLOspd
三成の娘が上杉へ

ttp://94979272.at.webry.info/200903/article_21.html


また三成次女の娘である振姫は家光側室。
0239人間七七四年2014/02/17(月) 20:21:37.95ID:uVnLHklF
高台院(北政所)が三成の娘を自分の養女という身分で
上杉家家臣に嫁がせていたんだな
関ヶ原の戦いの10年後に・・・。
やはり反三成では無かったってこったな
曾孫とは言え
三成の血を引く振姫をあの家光が娶ってると言う事も興味深い話だ
0240人間七七四年2014/02/17(月) 20:34:58.30ID:uVnLHklF
にしても北政所が西寄りだったってことがわかっているのに
TVや小説などで未だに東軍を推す北政所が描かれるのはどうなの?
単にその方が面白いとかで
わかっている歴史を極端に歪曲して伝えるってのはな・・・。
たかがTVや小説と言っても相当影響力はある
みんながみんな情報をかき集めて、真相を探るわけじゃないし
さっきまで北政所を戦犯扱いしていた、俺みたいなのはかなりいるぞ
0241人間七七四年2014/02/17(月) 20:46:33.96ID:sfBLOspd
いやいやねねが養女を直江に託したのは、
上杉が領国に帰る際なので、
関ヶ原の戦い前年。
また家光の長女が三成曽孫の子。
春日局の養女であり、男衆狂い家光の気をひかせるために苦労していたくらいなので、
嫡男が生まれてたら正室になってた可能性が高かった。
と言うか男色好きの家光の初体験女性だったし。
0242人間七七四年2014/02/17(月) 20:51:02.88ID:/Pvyuqil
北政所は西軍よりでもなく、中立だと思うけど
0243人間七七四年2014/02/17(月) 20:55:19.06ID:sfBLOspd
クソ馬鹿奸賊徳富蘇峰が、
ねねが東軍支持だと喚いていたから、
そのままその史観が定説化していた。
また大友が奴隷貿易していたように誤解させたのもこのクソ馬鹿が原因。
日本国民を煽って敗戦に導いた巨大ジャーナリストでもあり、
戦後に天皇批判したりと終始一貫しないキチガイ。
0244人間七七四年2014/02/17(月) 21:07:41.76ID:uVnLHklF
>>241

いやいやてか
あんたがコピペしたアドレスから得た情報をそのまま書いた訳だが・・・。

引用「石田三成の三女である辰姫が、津軽藩二代藩主信牧に嫁いだのは
関ヶ原の戦いの10年後であり、秀吉夫人ねね(北政所 出家して高台院)
の養女という身分でした。このことだけをもってしても
北政所が反三成という立場でなかったことが分かりますが
今年の「天地人」では、従来通り、北政所イコール武断派
淀殿イコール三成たち文治派という描き方がなされるのでしょうか」

ちなみに自証院(振)は三成の曾孫にあたるってのは
wiki情報からだけどwikiが間違ってるってことか?
所詮wikiだから信憑性はそもそもあれだけどさ
0245人間七七四年2014/02/17(月) 21:14:38.33ID:uVnLHklF
あ、間違ってたなw
上杉家家臣じゃないわww
津軽信牧じゃんww
やばい、俺
0246人間七七四年2014/02/19(水) 01:36:57.73ID:aoGKFcmp
>>244
石田三成の子孫は津軽藩に匿われて明治時代まで生きのびたとNHKの歴史ヒストリぁで言っていたな
苗字を杉山と変えたといってた
0247人間七七四年2014/02/20(木) 11:24:39.21ID:viyRCHa0
>>240
北政所も西軍寄りに描くと豊臣の現実が分からないお馬鹿ぶりがどうしようもなくなるからだろ
そもそも北政所がどんな態度を取ろうが朝鮮出兵や秀次事件で不満を溜め込んだ大名には何の効果もないよ
北政所という名称と創始者の正妻という似たような立場から北条政子を連想して重要な指示が出来ると思われがちだが
北政所に北条政子のような実力はないし政治力を振るえる立場でもない
御輿として名前を他人から利用されることはあっても本人が指示して関ヶ原で戦わせるようなことは無理だよ
0248人間七七四年2014/04/23(水) 11:33:38.69ID:B3Hnjafb
関ヶ原の戦いについて、最新の歴史考証から書かれた良書って何かある?
0249人間七七四年2014/04/25(金) 02:13:00.73ID:ROzTqKR8
最近ので初級者向けに分かりやすく書いてるのは「新関ヶ原合戦論」あたりやね
0250人間七七四年2014/04/25(金) 07:46:24.02ID:aK2aNYLp
白峰旬は西軍寄り過ぎるかと
最近は名分を書状に載せた西軍を持ち上げる論調が多いが、
それは間違えだと思う
0251人間七七四年2014/04/25(金) 08:42:10.98ID:hyoFxff3
西軍w
0252人間七七四年2014/04/30(水) 02:46:14.27ID:D2z9xjlB
西軍の戦犯:北の政所
0253人間七七四年2014/05/23(金) 14:21:50.14ID:0/t9myFl
毛利も秀秋のことを名前だけ「小早川」って扱いしてたんじゃねーかな
秀吉に乗っ取られたくらいに思ってたんじゃね?
領地も九州だったし家臣も隆景がほとんど連れて三原に帰ってたわけで
ただ、吉川は許されない
0254人間七七四年2014/05/25(日) 17:30:10.21ID:xY+L2pib
>>家臣も隆景がほとんど連れて三原に帰ってた
これ大ウソだぞ。
0255人間七七四年2014/05/28(水) 15:55:17.71ID:5NkQnFNr
確か司馬遼太郎の関ヶ原にはそう書いてあったな。
0256人間七七四年2014/06/01(日) 15:03:10.35ID:ve8w8q3p
なんだ小早川隆景 VS 直江兼続がdat落ちしてんのか。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1264565467/

1000レスまで毛利厨が泣きながら埋め逃げして次スレを立てないとかwww
結局、隆景の功績がまったく出せずに逃走だもんな。
【戦国屈指の】 毛利元就総合スレッド 【策君】と同じで
次スレ立てられないとか毛利厨って戦国板の中で最弱厨だな。

まぁけっこう笑えた厨ではあるな。
ウケたと言えば、もう可哀想すぎて、あえて指摘しないであげたのが下記の自信満々のレス

>785によると
古代氏族系図集成によると松野家そのものは西美濃の出だし父松野平八からして
秀吉配下で丹波三百石。父死亡後に遺領を継承し羽柴秀俊の与力になり秀俊の
小早川入りに従っている

古代氏族系図集成は系譜史料の集大成のようなものでかなりの優れものな資料。
もちろんこの書に載っている系譜が完全に正しいというわけではないが江戸時代以前の
系譜を確認するにはまずこの書を調べてみるのが早い。
本だろうがwebだろうが、古代氏族系譜集成によれば○○家は・・・ という記述があれば
まずその系譜に間違いはないと考えるのが普通。
それくらいの準一級資料。

こりゃあバカすぎだわ。そもそも古代氏族系図集成のどこに上記のレス内容が書かれているんだっていうwww
ではここに古代氏族系図集成の該当箇所を転記しておこう。
松野連
呉王夫差公子慶父忌後裔
牛慈→長堤(筑紫国夜須郡松峡野住)→大野→広石→津万呂(ここで松野連姓)→
(かなり長く面倒だから24代の名前は記入しない)→久親→種眞→(三代略)→主馬/仕小早川隆景※3

慶父忌以後、牛慈以前の系図は「百家系図稿」に卑弥呼や倭王を経る系図を参考史料に掲げている。
※3金吾中納言小早川秀秋の重臣に松野主馬首正重がおり、1万石を領していたが、関ヶ原役時に主人を諫めると言われる。
0257人間七七四年2014/06/01(日) 15:47:14.30ID:ve8w8q3p
これしか書かれてないのに
松野家そのものは西美濃の出だし父松野平八からして
秀吉配下で丹波三百石。父死亡後に遺領を継承し羽柴秀俊の与力になり秀俊の
小早川入りに従っている
の文章の証明をしてることになってるんだから、もうチョンもビックリの捏造王ぶりだよw
しかもこの書は平安時代までをメインにしてるもんなのも知らないんだからw
>>系譜に間違いはないと考えるのが普通←もうね複数系図まで掲げてるのも知らずに何言ってんだかっていう。
いまだに論争あるし、関係各所の子孫達からクレームくるぞw
アホ毛利厨のことは置いておいて、ここで注目なのは、
主馬が隆景に仕えていたと記していること。主馬の親どころか三代不明なこと。
またその主馬と松野主馬首正重が同一人物だと認めてはいない。
あくまで参考として言及してるに過ぎない。
まったく関係なし、嗣子断絶回避のため養子として入り継いだなどいろいろな考え方もある。
いきなり同一人物と考えるのはまったくおかしい。

まぁおれとしては、三原へ行く隆景と別れて秀秋についていった村上景親 清水景治 日野景幸らが
隆景から景の名までもらっているほど信任されているってことだよ。

古代氏族系図集成を見たこともないアホ毛利厨が
シッタカ大ウソを恥ずかしくもなくやってました。
要約するとデタラメなWIKIの内容を丸パクりして、
そのソースになぜか自信満々に古代氏族系図集成の名前を出し
見事にデタラメがバレると言う戦国板史上最大の低脳アホバカぶりです。
0258人間七七四年2014/06/01(日) 15:57:07.17ID:ve8w8q3p
秀秋の記録って関が原前後から早逝までの間の記録が意識的に失われてるみたいで
ぜんぜん残ってないし秀秋自身もあまり文書を書かなかったのか他大名のところにも秀秋文書がぜんぜんない。
例えば、隆景遺領問題により秀秋越前50万石&加賀35万石転封の時に、
三原は毛利領になり筑前は代官三成管理(のち浅野も追加)となる。
それに伴い旧隆景家臣が分裂してるのか毛利・秀秋の両者で引き取ることになるけど、この処理問題が長引く。
なぜかと言えば秀就が生まれたことによる秀元分封問題もリンクしていたから。
さらに1/10に秀頼が大坂城へ入城すると1/19に利家ら大老奉行らが
去年11月から多数派工作を開始した家康が遺令を破り婚姻やってるのに怒って詰問使を出して険悪化してる。
これは1/20に和解の方向性が示され2/12の起承文で家康の譲歩でケリをつけてる。
その一方で輝元は秀元に過大要求され秀元分封問題に揺れていて、毛利本領が大幅に削られるため
旧隆景家臣引き取りを財政圧迫と嫌がり、そこに三成が助け船を出して、
筑前三成代官領でも旧隆景家臣を引き取るよって言ってくれていて1/23には三成と増田の支援もあり秀元と決着していた。
結局、慶長4年2月5日付け五大老連署では越前加賀転封の取り消しが行われているんだが
小早川執政の山口宗永は(隆景が財政や検地の能力が無いために豊臣政権から秀秋と共に指南として送り込まれた人物)
越前加賀転封取り消しに関わらず加賀大聖寺城に居続けてる。
閏3/3利家死去し七将クーデター発生と共の毛利上杉+5奉行連携で家康と対処したが
家康が伏見と大坂を占有してしまう状況になってしまい、大坂奪回を諦めて三成1人の責として家康と和睦。
輝元は三成に涙して、その決定に胸糞悪いと元康らに憤懣をぶつけてる。
毛利の敗北をもって優位に立った家康は輝元を兄弟と呼び、輝元は家康を親と呼ばせるや
秀元と連携して秀元への分封が少ないとして毛利家中への介入を開始する。
どうも利家死去で利長と義兄弟の秀家も動かなくなってたらしい。8月に利長帰国そして慶長5年に入ると宇喜多騒動・・・

慶長3年5月21日の三成書状に秀秋の越前転封と三成の筑前転封を断ったことが書かれているが、
そもそも慶長3年1/4の清正救援の蔚山の戦いの追撃戦で一兵卒のような鑓働きをした秀秋を
三成が讒言したので秀秋が北陸転封になったというのも大デタラメで、
秀秋転封の話はすでに慶長2年12/3にはでてきてる話で時間軸があわない。
中井氏も隆景が半年前に死去しており、この時期になりようやく隆景領の遺領問題がまとまってきたためと説明している。
ちなみに隆景三原領に関してはさらに交渉が長引き、さらに半年がかかった。
0259人間七七四年2014/06/01(日) 21:15:12.78ID:APPQaW0a
くそ菅沼遼太のクソ長文
0260人間七七四年2014/06/16(月) 22:29:43.25ID:3jXrjMA0
三成も上杉征伐に加わればいいんだよ
0261人間七七四年2014/07/01(火) 03:37:01.04ID:kkCdHjEk
関ヶ原検定 公式サイト
http://www.kentei-uketsuke.com/sekigahara/
0262人間七七四年2014/07/02(水) 12:56:16.84ID:WtV6l0xr
前田利家があと少し長生きしてればまた違った歴史になったのかもしれない
小早川隆景が生きていたのならどっちにつくかわからんけど毛利家は一つにまとまってたと思う
0263人間七七四年2014/07/06(日) 20:09:05.45ID:B3s7klVV
>>262
でも小早川って秀吉より大幅に年上だからなあ。
0264人間七七四年2014/07/06(日) 20:19:04.37ID:GB9m5J8J
どうだろ隆景自体も分裂の要因だったしねぇ
0265人間七七四年2014/07/07(月) 09:29:29.85ID:3k7G8alC
隆景が生きてたら、西軍に精力的に参加する方向で
毛利をまとめにはいったと思うな。

理由として、徳川が天下を取ったら毛利の領土を削らなきゃ
味方した連中に恩賞が出せないから。

それくらいは隆景ほどの知者なら解ってるはず。
0266人間七七四年2014/07/07(月) 16:12:32.50ID:P0qED9OS
切り取り次第の原則と言うものがあって、
切り取った分働いた分を分けるだけだから毛利領なんぞ別にいらん
0267人間七七四年2014/07/07(月) 17:08:36.92ID:3k7G8alC
(´Д`)ハァ…東軍で毛利領を貰った連中は
自力で切り取ったりしてませんが・・・疲れるは
0268人間七七四年2014/07/07(月) 18:01:26.68ID:P0qED9OS
まぁ恩賞の慣例を勉強するんだな
0269人間七七四年2014/07/09(水) 00:10:37.43ID:ONBA00iQ
たとえ家康についても潰されると隆景は読むだろうって事か
0270人間七七四年2014/07/15(火) 02:26:54.20ID:SwGcP8my
石田三成ってもし関ヶ原の戦いで勝ってたら、その後何かビジョンあったんですか?
0271人間七七四年2014/07/15(火) 06:52:31.57ID:3RiMBu/1
>>270
徳川がいない、加藤福島がいない
政権運営。
0272人間七七四年2014/07/17(木) 08:12:59.69ID:zBzX8OSj
>>261
関ヶ原検定 公式サイト
http://www.kentei-uketsuke.com/sekigahara/

みなさんこの関ヶ原検定って受検しますか?
0273人間七七四年2014/07/28(月) 22:55:59.24ID:c/QVFu9o
http://www4.nhk.or.jp/heroes/
吉原裏同心の裏じゃないか‥
どっち見ようかな‥
0274人間七七四年2014/07/30(水) 12:45:11.42ID:187eOFLK
関ヶ原寝返りの経緯記す 吉川広家の古文書展示
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140728-OYS1T50077.html
 関ヶ原の戦い(1600年)で、主家の毛利氏とともに西軍に属した吉川氏が徳川方に寝返った
経緯や背景を記した古文書が、岩国市横山の吉川史料館で開催中の「吉川氏の関ヶ原展」で
展示されている。

 徳川家康らの東軍と石田三成らの西軍が激突した関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総
大将として大坂城に入城。これに対し、吉川広家は毛利氏の領土安堵あんどと引き換えに参戦
しないとした密約を家康と交わし、東軍を勝利に導いた。

 古文書は「吉川広家自筆覚書案」。翌年の1601年に広家が輝元に宛てて書いたとされる。
この中で広家は「日本中が二つに分かれて戦うのは無謀なこと」とし、当時の情勢について「有力
大名はことごとく家康側に属している。万一、戦いに勝ったとしても、政治の実権は(石田三成ら)
奉行衆に握られる」などと説明している。

 同館の原田史子学芸員は「家康の軍事、政治力の強さに加え、経済的に苦しく、まとまりを欠く
毛利家の内情など複数の要素を考え抜いた結果、広家は参戦しない道を選んだのではないか」
と話している。

 同展では、黒田官兵衛が広家に宛てた書状や、広家所用のかぶとや具足なども展示している。
9月15日まで。水曜休館。問い合わせは同館(0827・41・1010)へ。
0275人間七七四年2014/08/03(日) 14:52:51.13ID:EeIfOiVw
そして毛利は30万石に減封w
政治感覚の無い奴が無理に政治を理解しようとするとこうなるw
0276人間七七四年2014/08/08(金) 22:36:13.66ID:Qoq3UlXr
どなたか関ヶ原の戦いの屏風↓より大きい画像を持ってる人いませんか?何人かの武将がどんな格好か見たいんですけど名前が見づらくて。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Sekigaharascreen.jpg

それか、大谷吉嗣の家臣の湯浅五助と渡辺勘兵衛(新之丞)の居る場所をご存知でしたらマルで囲んでほしいです。
追加で、島左近、後藤又兵衛、石田三成、大谷吉嗣、小早川秀秋も併せて7人をマルで囲んで頂けたら助かります。
0277人間七七四年2014/08/09(土) 04:48:54.15ID:dg/XsH4x
多勢の宇喜多が福島を潰していれば、小早川の裏切りもなく、家康の首を獲れただろう。
宇喜多さえ強ければなぁ。
0278人間七七四年2014/08/09(土) 10:45:54.05ID:0FiaXrvt
>>276
どんな格好つっても屏風絵は見た目良くするために大鎧着せたりして美化してるから実際とは違うぞ
0279人間七七四年2014/08/13(水) 23:49:06.65ID:Y1RliRc4
>>275
輝元の器量で天下を望めば毛利は滅亡していたから
30万石に減封で済んだのは吉川の功績といっていい
0280人間七七四年2014/08/16(土) 20:47:27.95ID://mRwGCW
天下なんて望んでいませんが?
0281人間七七四年2014/08/16(土) 21:03:25.14ID:O/MZB2RC
輝元は三成の醜悪な野心に巻き込まれた被害者であるが
三成の豊臣簒奪を積極的に止めなかったことは罪には違いないから減封は当然の措置だろう
0282人間七七四年2014/08/17(日) 22:16:31.14ID:Wky2M6C/
家康が豊臣政権簒奪したじゃありませんか?
0283人間七七四年2014/08/18(月) 17:32:23.95ID:boW+flUH
仮に毛利家全体が徳川方についてても、領土を丸々安堵させるとは到底思えん・・・
0284人間七七四年2014/08/18(月) 20:46:03.49ID:+AR4ohQK
家康が東進した後にという話しなら毛利が京大坂と三成抑えられるから主導権は毛利になるよ
0285人間七七四年2014/08/19(火) 02:25:05.70ID:aZnFtdHc
>>283
いったん安堵したふりをして、後に難癖付けて減封だろうね。
0286人間七七四年2014/09/01(月) 11:21:10.08ID:ON08vMdt
関ヶ原の戦い時点で豊臣と徳川の石高はどちらが高かったのですか?
両家の石高を教えてください。
0287人間七七四年2014/09/01(月) 13:42:45.11ID:wQw+R2C8
>>286
豊臣は「蔵入り」で220万石だから、7公3民換算で考えると300万石強。
徳川は250万石だから言わずもがな
0288人間七七四年2014/09/05(金) 07:15:01.76ID:8rEa5vCh
結局東軍と西軍どっちが正義でどっちが悪だったんですか?
0289人間七七四年2014/09/05(金) 08:16:58.36ID:K7DCvM78
勝てば官軍負ければ賊軍なので、東軍が正義で西軍が悪
0290人間七七四年2014/09/05(金) 09:03:51.10ID:kNSlIOuq
>>286
豊臣は直轄地だけで200万石
徳川は家臣や与力・親族全部ひっくるめて250万石
実質では豊臣の方がはるか上。
0291人間七七四年2014/09/06(土) 17:17:28.32ID:yXGvZ10+
関ヶ原の戦いの意義を教えてください
0292人間七七四年2014/09/06(土) 17:25:06.23ID:U1V8GBHk
いろいろです。
0293人間七七四年2014/09/07(日) 07:58:19.62ID:ldaKu1Kj
石高ってより、豊臣家は財力で圧倒的に徳川を上回っていた。
0294人間七七四年2014/09/07(日) 14:50:27.60ID:ss7lfKt5
関ヶ原の戦いで両軍は当日未明に移動していたらしいけど兵士はいつ寝ていたのですか?
0295人間七七四年2014/09/07(日) 17:14:58.20ID:7LGPJZaa
小早川が三成の指示をガン無視の上に退路を塞ぐ形で松尾山に布陣
                    ↓
大垣城にいた西軍が退路塞がれたらまずいと松尾山のある関ヶ原方面に移動
                    ↓
西軍が移動してるって聞いた家康がそれを追って移動開始
                    ↓
明け方に戦闘開始

って流れだったと思うから兵士は前日徹夜に近かったんじゃないかと
0296人間七七四年2014/09/07(日) 21:17:30.42ID:AeFgj63H
まだ東軍の方が少し寝ていた可能性はある
0297人間七七四年2014/09/08(月) 11:51:07.81ID:F1Zn7qfH
>>274
吉川は豊臣が嫌いだったらしい
豊臣よりだったのは小早川で小早川が本家から独立した状態だったから毛利内では必然的に吉川の影響力が増す
0298名無し募集中。。。2014/09/12(金) 16:57:22.48ID:n6Vr+K6s
 関ヶ原の戦い
日時:慶長15年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原において
結果:東軍の勝利、西軍の敗北
規模:東軍:兵7万5千(総大将・徳川家康)戦死者3千
   西軍:兵8万2千(総大将・石田三成)戦死者3万
戦後の効果:徳川家康の覇権を決定づけた
0299人間七七四年2014/09/12(金) 20:01:25.50ID:mfAkyyiI
>>298
西軍の総大将は石田三成じゃなくて宇喜多秀家だろ
なんで西軍の副大将がいるのに三成なんかを
総大将にして戦わなくちゃならんのだ
0300人間七七四年2014/09/12(金) 22:02:13.77ID:Z3Cc7+QY
毛利は?
0301人間七七四年2014/09/12(金) 23:29:36.15ID:8dbIKKJ3
輝元がその場に居ないからな
0302人間七七四年2014/09/13(土) 08:11:34.40ID:c6u2pDVU
>>299
秀家は端から三成の指揮下にあったからな
大老といっても見習いだし
0303人間七七四年2014/09/13(土) 12:16:53.21ID:NGHxfQE6
秀家はまだ若輩で家中1つまとめられないほど器量も不十分だからな。
関ヶ原の現場においては三成のイエスマンになるしかなかろう。
なんだかんだいって若い連中と比べれば三成って武勲も多い歴戦の猛者なんやで。
0304人間七七四年2014/09/13(土) 17:43:40.50ID:B2JqWeiE
俺は西軍派だが、流石に三成が歴戦の猛者ってのはちょっと・・・
秀家は九州、朝鮮で総大将やった事もあるから、戦は上手かったぞ。
0305人間七七四年2014/09/13(土) 18:05:58.71ID:TGd9xp7/
秀家が家中を纏められなかったと言っても
戦国大名から脱皮して中央集権化する際のゴタゴタなんて何処の家でもあった訳で
それをもって無能と断じるのはかなり古い見方
0306人間七七四年2014/09/13(土) 19:34:36.42ID:7xE6tTaz
>>303
普通に秀家の方が三成よりも武勲の多い歴戦の猛者じゃね
304の人が書いてるように九州、朝鮮でも総大将やってるし
関ヶ原での伏見城の戦いの時でも総大将になってる
三成なんかより遥かに総大将に相応しい人物だと思う
0307人間七七四年2014/09/13(土) 21:25:41.83ID:mJDCDifs
他の人も言ってるけど三成は多少の戦歴はあっても歴戦の猛者では全然ないな
そもそも周りが納得するほどの歴戦の猛者って加藤福島でも無理だろ
0308人間七七四年2014/09/13(土) 21:36:38.23ID:19q3ZlNH
周りが納得するのは誰辺りなの?
0309人間七七四年2014/09/13(土) 21:59:31.83ID:t2uio0wW
>>308
兵の数少なくて発言力(夜襲)駄目だったけど。。。。最初から西軍に付いて兵1万位持ってれば島津義弘だね。
0310人間七七四年2014/09/13(土) 22:26:42.80ID:mJDCDifs
西軍はそういう総大将を務められる格みたいなのを持った総大将がいなかったのが問題だったんじゃないかな
そういうのを除いても歴戦の猛者っぽいのは東軍だと例えば本多忠勝とか山内一豊とか藤堂高虎とか金森長近とかいるけど
西軍だと島津義弘とか吉川広家とかになるのかね
0311人間七七四年2014/09/13(土) 22:28:16.95ID:TGd9xp7/
現代と違ってヘッポコ田舎もんと蔑まされてた当時の島津さんはちょっと
0312人間七七四年2014/09/13(土) 22:41:13.00ID:B2JqWeiE
>>308
西軍では島津義弘、立花宗茂は圧倒的な歴戦の猛者だな。
他は戦ってない吉川広家、長宗我部は盛親は経験不足だが、長宗我部家は兵が強く歴戦の家だな。
東軍では、家康くらいだろうなぁ。
0313人間七七四年2014/09/14(日) 02:12:15.71ID:jCAmIUKQ
当時九州の兵は「弱兵」って言われてたんだけどな
0314人間七七四年2014/09/14(日) 03:18:02.12ID:pf1fgyaP
当時ってより、秀吉が島津を攻める前は
そう言わざるおえなかっただろうよ。
敵が強いなんて口が裂けても言えないからな。

小早川隆景をして、立花勢三千は他家の一万に匹敵すると
言わしめた。
0315人間七七四年2014/09/14(日) 03:19:45.76ID:pf1fgyaP
まあ、装備の面では上方の兵より劣ってたのは
間違いないだろうよ。
0316人間七七四年2014/09/14(日) 04:26:02.35ID:jCAmIUKQ
>>314
実際島津も糞弱かったわけだが
0317人間七七四年2014/09/14(日) 11:37:44.71ID:pf1fgyaP
まるで自分が戦った事があるような言い方だな
0318人間七七四年2014/09/14(日) 13:58:43.72ID:qnz6Yero
九州征伐では糞弱いと言われてもしょうがないのでは
0319人間七七四年2014/09/14(日) 19:02:06.62ID:lkONKLDX
しかも、秀家の豪奢な生活、その穴埋めに領国での苛政云々っていうのは
あくまでも裏切り者がわの一方的な記録と裏切りの正当化ともいえる。
0320人間七七四年2014/09/14(日) 22:18:08.25ID:44L0kL6b
毎度おなじみ西軍に不利な記録は全て捏造理論かよw
0321人間七七四年2014/09/14(日) 22:37:28.08ID:pf1fgyaP
内府ちかひの条々を見ても
徳川は悪くないって言う連中よりマシだと思う
0322人間七七四年2014/09/15(月) 01:38:42.37ID:nUfYhoqZ
中納言の格式に則れば本人の意思は関係なく下から見れば無駄に豪奢
朝鮮組はみな無理してたから帰ってみれば領地は荒れてて苛政と言える
根も葉もないと言うわけじゃないがそんなとこだろ
0323人間七七四年2014/09/15(月) 01:54:25.26ID:o3PHfi5v
本日、関ヶ原の戦いから414年
0324人間七七四年2014/09/15(月) 01:57:04.03ID:nUfYhoqZ
10月21日だろ
0325人間七七四年2014/09/15(月) 05:49:29.77ID:mlX7DU/d
旧歴だからな
0326人間七七四年2014/09/15(月) 08:24:28.78ID:AQgkd76B
>>321
内府ちかひの条々はむしろ家康の潔白を証明した文書といえる
家康の政敵がありったけの非難を書き連ねたはずなのに中にあるのは婚姻などしょぼいことだけ
朝鮮出兵や秀次事件のような重大事件に関して家康が何か悪いことはしたなどの新発見があるわけでもない
逆に言えばこういった重大事件においての家康が何一つ責任を負わないクリーンな立場であることが確定した
婚姻とか恩賞ばら撒きなんて一般大名には何の実害もないどころか利益しかない
つまり多くの大名にとって家康は権力を握っても何も問題ない人物であることが内府ちかひの条々で証明された
むしろ逆算すれば上記の重大事件において三成たちの責任がより濃厚になったといえる
名称で勘違いされがちだが内府ちかひの条々は逆に三成たちの罪を確定した文書といえるだろう
0327人間七七四年2014/09/15(月) 11:48:13.83ID:ukVgyoE0
>>321
正直あれを地方大名が見ても家康討つべしとは思わなくない?
ああ中央で権力争いか 勢力拡大のためにどう動くべきか って考えるんじゃ
実際に東北とか九州はそんな感じだったし
0328人間七七四年2014/09/15(月) 12:04:26.17ID:dQ/sy4es
家康も関東の地方大名だけどね
0329名無し募集中。。。2014/09/15(月) 12:47:39.56ID:RjFo8Fuw
領国が地方なだけで中央政界の実力者だった
0330人間七七四年2014/09/15(月) 13:35:28.77ID:RyH6sXHG
>>326
朝鮮出兵や秀次誅殺事件について触れてないと
三成側の責任が重いと逆算できるって、どういう理屈?


火事で家が燃えた夫婦
妻側の離婚訴訟
@ローンだけ残り夫が自暴自棄で働かなくなった
Aで、ギャンブルにはまり、さらに借金
B浮気
CDV
という風になってたら、離婚調停委員は
「あら?そもそものきっかけの火災の出火原因に触れてない。
逆算すると、家の火事については奥さんの火の不始末が原因だったのね」
って決めつけるのが正常ですかね?
0331人間七七四年2014/09/15(月) 14:29:00.07ID:vaQ67qeP
>>310
島勝猛がおる
0332人間七七四年2014/09/15(月) 14:32:05.18ID:vaQ67qeP
その島勝猛、大谷吉継の命日でもある 二人共三成の盟友だった
0333人間七七四年2014/09/15(月) 16:03:35.86ID:ukVgyoE0
島さんって筒井家時代はどういう活躍したとかわかってないんだっけ?
三成に仕える時にはそれなりに知られてたみたいだけどどこで活躍したんだろ
0334人間七七四年2014/09/15(月) 17:04:57.89ID:nUfYhoqZ
筒井さんの所でだろ
0335人間七七四年2014/09/15(月) 20:24:23.89ID:AQgkd76B
>>330
その変な例えにあえて乗ると夫(家康)が火事(朝鮮出兵や秀次事件)に一切関わっていないのは事実だし
妻(三成)は火事に関して疑われているだけでなく周囲とトラブルを繰り返して仕事をクビになり虚言癖すら指摘されている
それなら妻が保険金欲しさに火事を起こしさらに賠償金欲しさに虚偽の訴えをしていると疑うのが相当だろう
つまり三成が権力欲しさに秀次の謀反をでっち上げたり朝鮮で虚偽の報告をして
さらに筆頭大老を亡き者にしようと虚偽の怪文書をばら撒いていると考えた方が筋が通る
それなら悪いのは三成であって家康は被害者でしかないわけ
0336名無し募集中。。。2014/09/15(月) 21:51:36.60ID:KTtKLPEo
島左近て秀吉の弟の秀長の家臣じゃなかったっけ?
0337名無し募集中。。。2014/09/15(月) 21:54:41.03ID:KTtKLPEo
仮に西軍が勝っても群雄割拠で戦国時代に逆戻りだった説が有力
0338人間七七四年2014/09/16(火) 04:21:20.27ID:72yQLIIR
昨日、関ヶ原検定受けてきたお。
3級は簡単だったけど2級は難しかったお。
0339人間七七四年2014/09/16(火) 08:35:27.14ID:hfuUe/Sg
>>338
3級は基本的なことだったね。
2級は自己採点で70点ぎりぎり。
難しい問題と点取り問題の落差が大きかったように思う。
でも楽しかった。大阪会場は甲冑着てる人いなかった。
他の会場はどうだったんだろ。
0340人間七七四年2014/09/17(水) 06:43:35.92ID:9BvtXqaC
関ヶ原検定の俺の自己採点。
3級は90点で2級は60点くらいかな。
3級は確実に受かってるけど2級は四択ヤマカンが結構当たってれば受かってるかもしれない。
0341人間七七四年2014/09/18(木) 18:38:44.24ID:gYnvpNfx
検定の答えが出たね。
結局不適当問題の1問に助けられてなんとか2級70点!!
でもこれじゃだめだからもうちょっとしっかり勉強します。
次回いつかわからないけどもっと楽に合格できるようなならないと。
0342人間七七四年2014/09/19(金) 00:55:46.46ID:p5M/ImIf
>>321
内府ちかひの条々は三成たちがそういう主張をしたというだけの話だろ
少し前にも秀次が殺生関白だの謀反を企てているだの酷い糾弾をされたが
後になって全てデタラメだったと判明している
良識ある大名なら内府ちかひの条々を鵜呑みにするなんて考えられない
また三成がおかしな騒ぎを起こしているくらいの感覚だろう
西軍の士気が低かったのも内府ちかひの条々の中身を西軍大名でさえ大半が信じていなかったからといえる
0343人間七七四年2014/09/19(金) 05:31:49.34ID:YYsG0+Po
>>342
天守閣作ったとか、どうやって捏造すんだよw
それに、前田家を脅したり上杉を討伐しようとしたのも
捏造じゃなくて事実だろ。
0344人間七七四年2014/09/19(金) 12:35:06.96ID:IfAKg2nb
前田上杉辺りとの抗争はトップ死後の権力争いだからなあ
秀吉だって信長死後の主権握るために勝家叩いたりしてるし
0345人間七七四年2014/09/19(金) 14:39:36.17ID:YYsG0+Po
前田上杉、両方とも天下なんて狙ってない。
大体、トップの権力争いだとしたら、三成が彼らを庇う理由なんて
ないじゃないか。
0346人間七七四年2014/09/19(金) 18:20:54.11ID:IfAKg2nb
別に家康もあの段階では天下は狙ってないでしょせいぜい豊臣政権下でのトップを目指してただけ
三成のクーデターとその大敗の影響で天下が狙えるようになったってだけ
関ヶ原がなければ徳川の天下なんてありえないわけだし
三成は五奉行五大老制度を守りたかったから反家康だっただけなんじゃ
0347人間七七四年2014/09/19(金) 20:54:31.08ID:YYsG0+Po
言ってる事の矛盾に気が付かないのか?
他の大老・奉行を廃し、君の言う名実ともに豊臣政権のトップになれたんだぞ?
トップを目指してたなら、それで本望じゃないかw
0348人間七七四年2014/09/20(土) 00:31:22.92ID:nA54e3iY
何が矛盾なのか不明だが
0349人間七七四年2014/09/20(土) 11:19:47.69ID:GooMTFSp
そもそも五奉行があまりにも無能で豊臣政権の基盤が傾いたから家康が招聘されたわけ
招聘された家康からすれば無能奉行を五人も抱えたままの体制なんて論外だった
家康が新しい磐石な体制を構築して日本を安定統治したいと考えるのは当然の思考であり
トップを目指すとか天下を狙うとか以前の問題だろう
三成が謀反を起こして豊臣にトドメを刺したから徳川幕府の体制になっただけで
家康の行動には何も問題ないと断言できる
0350人間七七四年2014/09/20(土) 11:33:40.35ID:Gj3LEvmJ
思っても無い事をべらべらと
0351人間七七四年2014/09/20(土) 12:20:25.64ID:VspKEGUb
>>349
必死の釣り
0352名無し募集中。。。2014/09/20(土) 20:32:39.84ID:q0cKKBcT
>>349
神君史観
0353人間七七四年2014/09/20(土) 23:27:47.62ID:/KHv6U/t
朝鮮史観だろ
0354人間七七四年2014/09/21(日) 10:27:36.49ID:fI+OiU0v
奉行の謀略によって豊臣の内々を取り仕切っていた利休や関白を継承した秀次の命が奪われた
暴走した奉行の次の矛先が筆頭大老であることは自然の成り行きであり
もはや家康個人の行動や内心がどうこうの問題ではない
奉行を壊滅させて新政権を打ち立てるしか日本を安定統治する方法はなかった
0355人間七七四年2014/09/23(火) 08:52:53.14ID:XpkoorDg
関ヶ原検定の自己採点3級が93点で2級が68点だった。
2級が悔しすぎる。
自己採点といっても完全に覚えてる訳じゃないから何かの間違いで受かっててくれないかなあ。
0356人間七七四年2014/09/24(水) 23:21:35.94ID:KfqAmQpV
秀長早世で、豊臣家の命運は尽きてた。
秀長さえ生きてれば、関ヶ原開戦の原因は殆ど排除できてたからな。
0357人間七七四年2014/09/24(水) 23:30:01.34ID:qqEDXlT1
秀次が関白のまま、執政していたら
どうなってただろうなという気がしないでもない
0358人間七七四年2014/09/24(水) 23:34:11.50ID:pZHqp5Yd
秀長の死因も過労死だろうから、
そもそも豊臣政権に構造的な欠陥があったということ
0359名無し募集中。。。2014/09/25(木) 01:05:07.68ID:+WbbCdA+
豊臣「秀長」(秀吉の異父弟)→秀吉が上、信長が下
織田「秀信」→(信長の長孫・三法師)秀吉が上、信長が下
ちなみに偶然かもしれないが「秀吉」→秀吉が上、吉法師(信長の幼名)が下

 ・・・秀吉が主君・信長を軽んずる風潮を子飼いの豊臣恩顧の武将たちも感じていただろうなぁ
0360人間七七四年2014/09/25(木) 01:11:25.73ID:RHpJncZ2
秀長は当時の感覚から言うと早死すぎって程でもないような
0361人間七七四年2014/09/25(木) 02:12:24.33ID:5RrkRRfv
松平「康元」(家康の異父弟)→家康が上、義元が下(桶狭間以前に兄弟会見時に改名)
松平「忠吉」(家康の息子)→息子秀忠が上、秀吉が下
                  息子秀忠が上、吉法師が下(秀吉存命中に改名)
松平「康長」(家康の家臣)→家康が上、信長が下(信長存命中に改名)

…家康が主君・義元、秀吉、同盟とはいえど実質従属していた信長を軽んずる風潮を
子飼いの家臣たちも感じていただろうなぁ
0362人間七七四年2014/09/25(木) 09:12:07.57ID:Tn9Fd4nG
>>359
ちなみに偶然かもしれないが「秀吉」→秀吉が上、吉法師(信長の幼名)が下

信長の父親の信秀の秀に信長の幼名の吉法師の吉。

と俺は聞いたぞw
0363人間七七四年2014/09/25(木) 09:15:03.92ID:GOU7Jhjb
秀長は信長存命中は長秀って名乗ってたんじゃなかったかな
信長から名前もらったわけじゃないけど失礼に当たるから
0364人間七七四年2014/09/27(土) 09:28:36.30ID:WcP3NJCA
丹羽長秀「俺と同じ名前を名乗るのは失礼じゃないか」
0365人間七七四年2014/09/27(土) 10:37:27.65ID:HBqXRdJb
同じ名前なら尊敬してとかあやかってとかって扱いだからOKじゃね?
0366人間七七四年2014/09/27(土) 15:56:33.00ID:J2wxKZ+E
秀吉は大野治長の胤で孕んだ淀に騙され、赤の他人の子の為に、血縁の関白秀次を粛清する間抜けぶり。
秀吉は頭が悪いので、実現不可能の明征服事業を実行し、己が種無しだと自覚さえできず、二度も淀にたぶらかされる。
あれだけ大勢の側室がいて、淀だけ二回も懐妊するなんて、普通なら疑うだろ。
慶長三年以降も関白秀次が生きていたなら、一定の対徳川の抑止力にはなってたろうから、家康も専横は出来んかったろう。
が、豊臣家中が二つに割れてたら、家康お得意の謀略で、政争にはなってたろうが。
0367人間七七四年2014/09/28(日) 11:00:51.02ID:NLgzhMjy
豊臣を専横しようとしたのは奉行連中だろ
現に奉行がお得意の謀略で豊臣を二つに割る政争を起こして秀次たちを女子供もろとも殺したわけだし
むしろ家康は豊臣を蝕む奸臣を排除する改革をやっていただけと言える
家康の誤算は奉行連中の権力欲の強さを過小評価していたこと
おかげで謀反を起こされて改革を失敗に終わり政権交代を余儀なくされた
0368人間七七四年2014/09/29(月) 01:37:46.00ID:mjvNKWk3
>現に奉行がお得意の謀略で豊臣を二つに割る政争を起こして秀次たちを女子供もろとも殺したわけだし

秀次は秀吉にとって血縁も何も無い。
秀頼が生まれた時点で関白返上して、秀吉の後継者を辞するべきだった。

>むしろ家康は豊臣を蝕む奸臣を排除する改革をやっていただけと言える

前田家や上杉家が豊臣を蝕む奸臣?その根拠は?
天守閣勝手に作ったり、秀吉が禁じた加増を勝手にやっていたのは誰だ?
婚姻は?

何を言いつくろうと、豊臣政権を奪い秀頼殺してるんだから
言い訳のしようがないだろ。大阪城には一万人以上の女子供が居た。
丸焼きだよ。
0369人間七七四年2014/09/29(月) 08:18:03.07ID:RXbxVon0
>>368
結果だけで歴史をみるのなら、ここに来る必要ないんじゃないか?
0370人間七七四年2014/09/29(月) 09:06:05.18ID:mjvNKWk3
>>369
家康擁護できないからか?
0371人間七七四年2014/09/29(月) 14:41:01.10ID:1BBydUsO
>>370
お前はそういう煽り以前に歴史の勉強やり直した方がいい
0372人間七七四年2014/09/29(月) 18:47:16.39ID:PxYa2FRL
大坂で蒸し焼きにされた非戦闘員はのは10万人以上だよな
0373人間七七四年2014/09/29(月) 20:05:52.83ID:+SrwTmVi
おい菅沼遼太、またパパに怒られるぞ
0374人間七七四年2014/09/29(月) 20:12:15.96ID:GT3U5hpP
なんでどっちが悪いっていう話になるのかな?
別にどっちもそれぞれ都合で動いてるわけだけだしどっちもどっちじゃん
0375人間七七四年2014/09/29(月) 23:15:53.74ID:mjvNKWk3
>>374
まあ、その通りなんだが
やり口の差じゃね?幼子から天下を奪い取ったってのと
手口の意地悪さで徳川は嫌われてるだろ。
0376名無し募集中。。。2014/09/29(月) 23:56:01.29ID:geA/lSt3
>幼子から天下を奪い取った

 ・・・三法師・秀信?
0377人間七七四年2014/09/30(火) 13:57:33.45ID:nft3BxNd
>>375
西軍が勝っても秀頼が傀儡になるだけだから一緒じゃね?
ただどっちが主権を取るかの主権争いなだけで関ヶ原じゃ秀頼の権利云々は争ってないと思うけど
0378人間七七四年2014/09/30(火) 23:05:29.81ID:HUVAt/uO
家康は天皇の命を受けて将軍になり幕府を開いただけだから天下を奪い取ってなどいないな
百歩譲って足利が奪い取られたと非難するなら理解できる
豊臣は何も関係ないから非難する資格もない
関白にしても豊臣が自分で粛清して放棄しただけで家康は無関係だしね
0379人間七七四年2014/10/01(水) 07:35:49.22ID:36XiLKqo
>>377
そりゃ子供に政治は出来ないから、大人になるまで任せるしかないが
西軍が勝ってれば、天下日との地位どころか命まで失う結果には
ならなかったろうw
0380人間七七四年2014/10/01(水) 16:55:58.59ID:cayXepbN
>>379
そう?西軍勝利で権力を持つであろう毛利や上杉がそこまで秀頼を大事にするようには思えないけど
宇喜多は大事にするだろうがそこまで権力持てるようには思えないしなあ
秀頼も毛利か宇喜多辺りから嫁さんもらって子供出来たら用済みみたいな扱いじゃねーの
0381名無し募集中。。。2014/10/01(水) 20:02:57.50ID:pyN4itvh
西軍が勝利していたら群雄割拠の乱世に逆戻りしていたんじゃないの?
従来通りの西高東低の政治・文化で江戸・東京の発展はなく
東海道、関東、東北、北海道も今とは大違いだっただろう
0382人間七七四年2014/10/03(金) 03:01:49.81ID:TYmkzP4t
具体的に、誰が反豊臣になるんだ?
0383人間七七四年2014/10/03(金) 03:39:42.10ID:Sya8RWG5
小早川のカスのせい
0384名無し募集中。。。2014/10/03(金) 18:56:51.72ID:GFPr3dMB
小早川秀秋は当時、数え19歳の少年
両家老の助言を採用したにすぎない
0385人間七七四年2014/10/03(金) 21:40:20.52ID:01TFWnx9
天下分け目の戦いとよく言われるが
本当日本のいく末を決めた一戦だったな
0386人間七七四年2014/10/03(金) 22:52:14.81ID:MbXEIZcN
もともと小早川は三成に領地が渡りそうになったところを家康に助けてもらうなど親家康派
東軍に合流する前に関所を止められ無理矢理に西軍に組み込まれただけ
憎い三成のために家康と戦うことを嫌がっても何も問題ない
0387人間七七四年2014/10/04(土) 03:43:59.43ID:1SLHBd1H
それ逆恨みで、三成は加増を断ってるよ
0388人間七七四年2014/10/04(土) 06:25:04.04ID:HTzv0KqU
逆恨みでも恨みは恨みじゃね?三成は悪くないけど
0389人間七七四年2014/10/04(土) 06:31:09.83ID:Ng4+PQRf
関ヶ原は小早川より三成が悪いよ
戦をするなと再三言われたのに百戦錬磨の家康に戦仕掛け
島津や毛利など西軍としてまとまっていない、寝返りの気配すらある不安定な状態で開戦

結果
三成憎しで東軍に寝返る人間多発
島津動かず、小早川は寝返り、毛利も動かず
左近、吉継そして多くの兵が死ぬ
豊臣政権大きな失墜
関ヶ原は三成に始まり三成で終わったんだよ

太平洋戦争の日本とアメリカみたいなもん
日本が三成、アメリカは家康
家康からしてみたら三成から戦仕掛けてくるっていう構図は願ってもないことだったろうなw
家康は三成がどんな人間で、豊臣内部がどのような状態にあるか絶対知ってたはず
関ヶ原は家康のシナリオ通りだろう
0390人間七七四年2014/10/04(土) 07:59:25.10ID:DKxC5Cds
今が絶好の機会と思ったが、実は遠の昔に詰んでいた
0391人間七七四年2014/10/04(土) 08:16:05.86ID:1SLHBd1H
それにしては、金吾が寝返るまでの
家康の狼狽ぶりったらないぞ?ホントに寝返るのかって
わざわざ合戦の最中に黒田長政に聞きに行かせてるくらいだ。
結局、裏切りはしたが、人の心なんぞ土壇場まで解らん。実際は紙一重だったのかもしれん。
0392人間七七四年2014/10/04(土) 08:50:24.64ID:RSBUSwoA
勝負は時の運だよ。
「関ヶ原の戦いははじまる前から勝負は決まっていた」なんて言われるけど、俺はそんなことはなかったと思う。
0393人間七七四年2014/10/04(土) 08:51:44.77ID:mYD4KyOV
>>391
典型的な小説脳だな。司馬遼太郎読んで歴史解った気になっちゃった?
0394人間七七四年2014/10/04(土) 09:48:04.32ID:DKxC5Cds
>>391
家康は戦場では短気だから
0395人間七七四年2014/10/04(土) 17:46:06.29ID:Ng4+PQRf
大谷吉継が三成側にとか、秀忠隊の足止めとかそのようなこともあって実際は家康相当ピリピリしてたかもなw

ただ基本的には家康の思惑通り事は進んでると思うよ、家康は書状書きまくって根回ししてるけどかなり効いてる。毛利宛の書状も中国は毛利のものとするという手紙を書いてる、これは元就の毛利の方針に添うもの、偶然の一致とは思えん。結果毛利勢は消極的

家康はそういう人間や大名家の特徴や性格、人間関係というのを確実に把握してる
彼を知り、己を知る家康
彼を知らず、己も知らない三成

関ヶ原は吉継の言うように戦を仕掛けては絶対ダメだった
0396人間七七四年2014/10/04(土) 23:23:50.21ID:wNCsBskn
>>391
一番深刻なのは人の心が土壇場まで解らないことを三成たちが解らなかったことだろう
家康よりも石高も官位も圧倒的に低いのだから土壇場で裏切る奴がいるかもと西軍側が常に警戒すべき立場だったのに
まったく警戒せず東軍に調略され放題のまま何も知らずに関ヶ原に向かうという失態を犯してしまった

そもそも戦場で寝返るというのはドラマのように手紙一本出せばおしまいというものではない
度重なる書状のやり取りに加えて人質交換や目付の受け入れが必要であり
実際に吉川や小早川はそこまでやっていたわけで気分次第の行動をしていたわけではない
すぐ近くで複数の大名がそこまでやって気付かなかったのだから三成ら文治派は根本的に戦に向いていないといえる
0397人間七七四年2014/10/05(日) 03:17:55.22ID:jicE+T5q
俺は三成は充分仕事してたと思うよ。
家康だって、調略を自身で全てやってた訳じゃない。
黒田・細川・藤堂・家来の本多正信に任せてた。

問題は西軍で、積極的にそうゆう仕事をしようとした
連中が居なかったって事だ。三成に全部押し付けるのは
可哀相だろ。
0398人間七七四年2014/10/05(日) 04:18:12.46ID:45FBQHLF
別に特段三成嫌いとかないし批難するつもりもないけどな、ただ実際の総大将として過程や結果見るとやっぱり評価できんな
何回も言ってるが関ヶ原の戦いを仕掛けてはダメだったし、そのような状況にしてはダメだった

石田三成という男ただ一人に嫌気がさして豊臣武断派の人間は暗殺計画企てたり、寝返ったりするんだからな。豊臣政権を第一に考え安定を図るなら自身が頭を下げたり身を引くことも考えないといけない
その上で当時の実力者であり大大名である家康には戦を仕掛けるどころか家康を尊重し、上手く豊臣側に組み込むべきだった

関ヶ原前から豊臣政権内部は勝手に瓦解してるよ、家康や戦に応じただけだし声を少しかけただけにすぎん
0399人間七七四年2014/10/05(日) 09:21:44.97ID:jicE+T5q
じゃあ、関ヶ原が起きなかったらどうなっていたか?
家康は律儀に豊臣家の筆頭番頭で終わったか?だな。
0400人間七七四年2014/10/05(日) 09:37:33.59ID:FOZw/FqL
>>397
関ヶ原の戦いの調略って言うとそれらの武将が真っ先に挙がるけど、一番凄かったのは実は井伊直政な。
井伊直政は、黒田親子を東軍に付かせてる。徳川の直臣で一番出世したの見れば分かるでしょ。
0401人間七七四年2014/10/05(日) 12:52:41.96ID:epakgpH0
が、1年後病に倒れ、この世を去る
0402人間七七四年2014/10/05(日) 12:53:57.30ID:gOtImf/S
>>399
律儀に筆頭番頭で終わらなくても本来ならまったく問題はなかったんだよ
平安の藤原摂関政治や鎌倉の北条執権政治などに代表されるように
特定の一族が要職を独占して政権を牛耳りトップすら傀儡にしてしまうことは歴史的に珍しくない
だからといってそれによって朝廷や幕府が崩壊したとは言わないだろ
本来なら徳川による大老独占政治も上記の2つと同レベルになるはずだった
それを我慢できずに関ヶ原なんて大乱を起こしたせいで徳川の権力が予想外に強大になり独立が可能になってしまった
関ヶ原を起こさずに豊臣を徳川執権体制にでもしておけばよかったんだよ
0403人間七七四年2014/10/05(日) 13:39:20.91ID:jicE+T5q
>>400
井伊直政は家康とホモ関係にあったから出世したんだろ
わざわざ別の家来に、直政に手柄立てさせてやってくれって
家康が懇願してるだろ。
0404人間七七四年2014/10/05(日) 13:49:20.13ID:45FBQHLF
本来家康が不穏な動きを見せたら豊臣側は一致団結しないといけないんだがな。利家死亡や豊臣内での亀裂は家康にチャンスを与えてしまったようなもん。家康は間近でその様子をまざまざと見てきたわけだし
これでは家康も好きにやるわな

先ずは三成は豊臣武断派との関係修復をしないとな。彼等は三成という男一人が理由なんだから彼等の意向を聞いて豊臣恩義の人間を立てるべきだった
つまりは前田利家がよかったかもな

上の方が言うように豊臣政権を長らく続けたいなら家康に多くの実権を握らせ自身は表舞台から下がればよい。そうすればひとまず豊臣内部崩壊という事態は避けられた可能性はある。三成も家康は無視できないし存在だし上手く味方にしないと、ましてやあの状況下では尚更
0405人間七七四年2014/10/05(日) 17:49:51.62ID:G/zBQCh8
>>403
井伊氏は平安時代まで遡れる名族だから
0406人間七七四年2014/10/06(月) 17:30:30.05ID:TIKycPtg
>>404
別に家康は関ヶ原まで反豊臣として行動してたわけじゃないしなあ
確かに三成が謹慎させられた後にでも奉行衆を見直して武断派連中を何人か政権に参加させればよかった
家康中心だけど武断派連中も政治に絡んでいけば家康が死ぬまで豊臣政権は持つでしょ
まあ家康が死んだあとどうなるかわかったもんじゃないけどw
0407人間七七四年2014/10/06(月) 19:19:42.47ID:4jEvoRMf
三成が動かなかったら豊臣政権続いたって意見挙がってるが
俺はとてもそうとは思えないな〜 ジリ貧じゃないか?
0408人間七七四年2014/10/06(月) 20:46:48.59ID:tlMxuTPH
秀吉亡き後は五奉行と五大老中心とした合議制
当時の家康は関東250万石の大大名、しかしあれから家康が単独で天下を取るってのは簡単ではない。仮に家康が不穏な動きを見せたら上杉景勝や宇喜多秀家、前田利家そして豊臣武断派の武将らで牽制し圧力をかけてれば封じ込めたかもしれん

しかしだ

実際は朝鮮出兵でのいざこざから豊臣武断派と石田三成の確執があり、暗殺事件まで発展している状態。その三成と武断派の仲介役を務めたのが徳川家康なんだから。そして豊臣内部がどのような状況なのかを間近で見てた
これは豊臣vs徳川ではなく三成vs反三成の構図。最終的には三成は豊臣武断派の人間だけでなく家康をも敵に回してしまってるけどな

関ヶ原のきっかけはつまるところ三成と武断派の争い、これは家康に天下をとる契機を与えてしまってそして利用された
少なくとも豊臣内部での争いは避けるよう努めるべきだった

関ヶ原一連は石田三成という男たった一人がかなり鍵になってるでしょ
0409人間七七四年2014/10/06(月) 21:06:37.89ID:Uz90W2b5
>>397
そもそも西軍の多くの武将は無理やり西軍に組み込まれてるんだから
西軍のために調略をしようなんてだれも思わんだろ
それに三成は首謀者なんだからそういった責任を
押し付けられるのは当然だし可哀相なのは三成のせいで戦わされてる
西軍の武将たちの方だろ
0410人間七七四年2014/10/06(月) 22:16:15.14ID:3BOusKsu
>>408
芽を撒いたのが秀吉だからどうしようもない。
秀吉生前まで遡ればいいけど想像可能なIFですら無くなるからな
0411人間七七四年2014/10/06(月) 23:51:15.91ID:ioMtU5Dc
どいつもこいつも太閤を裏切りやがって
小早川の小伜に続いて朽木、赤座4名も裏切りやがるし
吉川は動かず そら勝てないわ
0412人間七七四年2014/10/07(火) 00:44:02.00ID:fQpokB9i
吉川のせいで毛利が動けなかったのはわかるんだが、
長曾我部や長束まで動けなかったのは、何なんだ?
ちょっと回り道して助けにいけばいいじゃないか。
理屈がわからん。
0413人間七七四年2014/10/07(火) 00:49:50.48ID:/Fda9sS3
長宗我部も長束も仕方なく西軍に付いた組だから動く訳なかんべ
そもそも2000人でぽっちで何すんの、死にに行くのか?
疑問に思う理屈がわからん
0414人間七七四年2014/10/07(火) 01:00:40.81ID:fQpokB9i
確かに戦意はひくかったろうけど、長曾我部が6600、長束1500だぞ。
しかも、本戦の8日前には南宮山に着陣してる。
目の前の池田兵4560に突っかければ、恵瓊か秀元も動かせたかもしれんしなあ。
とにかく西軍側は、やる気なさすぎだ。
0415人間七七四年2014/10/07(火) 01:16:24.90ID:/Fda9sS3
長宗我部は2000か2100だよ(島津義弘書状、石田三成書状)
6,600は参謀本部が22万石単純に3人役で計算しただけで根拠のある数字じゃ無い
0416人間七七四年2014/10/07(火) 01:39:50.99ID:h2q4Mhi4
かもしれん、で危険な橋は渡れんだろ
0417人間七七四年2014/10/07(火) 02:37:19.02ID:43LZiEnB
暗殺事件まで発展したことが問題で
企図したものが不問で、狙われたものが謹慎なら
家康、堀尾も謹慎
前田、浅野、土方、大野、加賀野井は不問のはずなんだけどな。

傷害>追い回し>計画漏れ
大坂城内>伏見大坂市中>知立
で、どれも一長一短。

しかも、三成が狙われるのが自業自得であるなら
家康も自業自得で片付く所業の積み重ね。

もちろん家康暗殺計画が本当にあったかは大いに疑問だが
自身があったものとして処分してるんだから
家康も暗殺事件が起こる人となりだったということでしょ。
0418人間七七四年2014/10/07(火) 06:10:57.08ID:vEEV9ceB
三成暗殺未遂:七将お咎め無し

家康暗殺疑惑:前田家攻め未遂、おまつ婦人を徳川家の人質&浅野長政蟄居
0419人間七七四年2014/10/07(火) 08:23:35.29ID:FilifZZJ
>>407
ジリ貧かどうかは家康にかかっていると思う。
当時の家康はどう思っていたのだろう。
0420人間七七四年2014/10/07(火) 09:52:50.05ID:MESpM20q
>>418
対象の重要性の差だね
0421人間七七四年2014/10/07(火) 12:44:51.29ID:zLTmOulT
三成は奉行の身にありながら戦闘態勢までとったのがまずかったんじゃないか?
0422人間七七四年2014/10/07(火) 13:18:30.96ID:plnS99iM
家康憎し率が1番三成が高かったから仕方ない
盛親の正室は家康の部下の誰かの娘だったし動けなかったのも仕方ない
1番許せないのは完全に日和見した一部のカス達
0423人間七七四年2014/10/07(火) 13:45:49.99ID:qDuzXKPI
>>407
結局徳川天下完遂まで15年もかかってるし
そうとも言えない
関ヶ原敗北も大きいが
豊臣が大野に牛耳られたり清正なくなったりいろいろ重なってる
0424人間七七四年2014/10/07(火) 14:30:41.15ID:plnS99iM
高野山に失鋸された真田一家を早く手助け出来たようなもんだがなあ
0425人間七七四年2014/10/07(火) 17:33:37.05ID:vzaxM418
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていたが[9]、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ
(徳川方へ送った密使が捕らえられ、連絡が取れなかったとも言われる)[10]、やむなく西軍に与した。結果的に西軍主力の一角となった盛親は東軍に与する伏見城
や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かった。しかし関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家、毛利秀元が南宮山に居座って動く気配を見せず、そのため盛親隊
の前方に布陣していた長束正家も動けなかった。盛親も統率力無く迷うばかりで時間だけが過ぎて行き、最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。

士気低すぎw
0426人間七七四年2014/10/07(火) 18:48:23.13ID:45h/rYuJ
基本毛利勢はこの豊臣と徳川の争いは関わりたくないってのが本心じゃない

島津勢・・・ふてくされてる
毛利勢・・・豊臣と徳川の争いは基本関わりたくない、静観したい
長曽我部勢・・・正直よくわからん

兵数や布陣は西軍有利だが実際戦ってるのは島、大谷、宇喜多、明石、小西と言ったところか
これもifだが上杉景勝と真田昌幸、幸村が関ヶ原で参加してたら全く違ったかもな
そうなったら場合秀忠隊と伊達政宗が東軍にいるかな
0427人間七七四年2014/10/07(火) 19:15:04.73ID:45h/rYuJ
(´・ω・`)PS2の決戦したくなってきた
0428人間七七四年2014/10/07(火) 19:37:06.34ID:OZ2tQIWU
正直上杉が上方に興味を持つとは思えない
兵を連れて大阪にいたとしても基本静観なんじゃなかろうか
0429人間七七四年2014/10/07(火) 21:31:19.69ID:ZZxiPYbm
関ヶ原当日までの数ヶ月の日本全体の動きと、そこから透けて見える各将の思いほど面白いものはないね
男としての生き方の全てが網羅されてると言っても過言ではない
0430人間七七四年2014/10/07(火) 21:38:52.46ID:plnS99iM
石田と大谷の友情物語はいつ聞いてもジーンとくる
0431人間七七四年2014/10/08(水) 00:41:48.26ID:mXd2xuQa
>>415
島津義弘書状では5000人やで
0432人間七七四年2014/10/08(水) 05:27:39.42ID:YeYuTPmO
>>429
人間味というか各武将の人間性がよく表れてるよね
0433人間七七四年2014/10/08(水) 08:10:50.97ID:535iIV92
動員はしたけど主体的な行動は取っていないな
精々、代替わり後のアピールに過ぎなかったかと
0434人間七七四年2014/10/08(水) 10:48:35.10ID:7S2K4i5A
小早川がどうとかより、やっぱ毛利が戦わなかったのが痛い。
西軍敗戦の最大のガンは吉川広家だと思う。
0435人間七七四年2014/10/08(水) 14:45:16.27ID:zTj+JhiK
吉川広家だけの独断じゃなくて総意の上で動かなかったんじゃないかと思うけどね
家康が出張ってきた時点で九鬼とか真田みたいにどっちが勝っても家を残せるようにしたんじゃね?
東軍有利だと広家のおかげで毛利は動かなかったよ
西軍有利だと広家のせいで毛利が動けなかったよ
って感じで
0436人間七七四年2014/10/08(水) 15:48:55.80ID:mXd2xuQa
家康輝元間で手打ちが成立してるのに動いたら逆に命令違反やろ
0437人間七七四年2014/10/08(水) 23:15:13.29ID:QEXupxZG
>>434
広家よりも秀信の方が戦犯だと思うの
0438人間七七四年2014/10/08(水) 23:54:10.08ID:mXd2xuQa
失脚の流れをやらないとただの裏切り者になるからやると思うけどなぁ
0439人間七七四年2014/10/08(水) 23:54:36.59ID:mXd2xuQa
ごめ誤爆
0440人間七七四年2014/10/09(木) 05:14:56.76ID:TQnN3zsF
結局東軍と西軍はどちらに正義があったのですか?
勝ったほうが正義と言うのは止めてください。
0441人間七七四年2014/10/09(木) 08:06:46.37ID:8iGVukaR
>>440
人によって、見方によって正義は違う。
まず、自分にとっての正義は何かを定義しなければ駄目じゃないか?
と、マジレスしてみる。
0442人間七七四年2014/10/09(木) 18:53:41.29ID:VWYS88dg
>>434
西軍敗戦の最大のガンは石田三成だろ
自軍の総大将に相談せずに無断で決戦に及んでおいて
戦わなかったら戦犯だなんてそんな文句言われる筋合いがない
0443人間七七四年2014/10/09(木) 20:09:31.50ID:y8yAr2RX
総大将である輝元が出場もしないし情けない
織田直系秀信もずっと秀吉の傀儡に過ぎなかったのに、秀吉死後は色々と振る舞ってほしかった
0444人間七七四年2014/10/09(木) 21:35:38.26ID:/iIJo7gZ
>>442
相談も何も、輝元は岐阜に居ないし
徳川が来るのも彼等の予想よりずっと速かったから。
大阪に向かうと見せかけて、それが見せかけだったとしても
金吾が途中に居るから放置も出来なかっただろう。
0445人間七七四年2014/10/09(木) 23:23:36.30ID:YcMXNsDD
>>440
西軍は単に政権への返り咲きを狙った三成が四国や九州に縄張りを広げたい輝元と手を組んだだけの武装集団でしかない
東軍の方に豊臣を蝕む奸臣を成敗するという正義があった
それが関ヶ原での士気の差にも繋がったわけ
0446人間七七四年2014/10/09(木) 23:53:36.72ID:189cy56m
荒らしに追従するのもアレだが、
「内府ちがいの条々が全面的に正しかったらあんなに東軍に付く奴増えねーよ」ってのは
まあ結構言う奴もいるな
0447人間七七四年2014/10/10(金) 00:45:45.98ID:KzXCM98B
内府ちがいの条々と同じことをやりだした西軍の面々は誰が罰するん?程度の話だろ。
政権首脳陣の大半が署名した弾劾状が、まったく効力を発揮しなかったあたりにも
豊臣政権がすでに公儀として役割を果たしてなかった事の査証を見出せちゃうな。
0448人間七七四年2014/10/10(金) 07:46:01.28ID:gH1j0rMz
>>445
というか東軍の多くの武将は単に三成が嫌いだっただけ
0449人間七七四年2014/10/10(金) 10:32:12.95ID:tWtMhajN
何で嫌いかと言ったら三成のやり方に賛同できないからでしょう

秀吉の側近として仕えてきて処罰の判断に三成が影で指示していたのではないかという疑惑がある。そういうのに嫌気がし最終的に敵にまわったのが秀吉恩義の武断派。そして秀吉が死んで三成の発言力が強くなっていよいよ我慢できなかったんだろ

加藤清正なんて正にそういう人物
彼は秀吉恩義で豊臣政権を支えたいのはやまやまだが、三成あんたは違う
清正からすれば三成は自分が権力が欲しいだけで好き勝手やってる悪であると考えてるかもしれない

秀吉も織田家を支えると言うより明らかに自分が天下とりたいだけだし
家康も秀吉が死んだら豊臣家より自分が天下とりたいだけ

何が正義で何が悪だとかは一概に言えたもんじゃないわな
0450人間七七四年2014/10/10(金) 11:56:04.48ID:2hKe43cy
三成が嫌いとか、やり方に賛同できないとか完全な後世の妄想じゃんw
ただ単に家康を支持して乱を起して戦功をあげて領地を広げたかっただけの
欲深い連中が東軍に参加しただけ。
統一政権による秩序を守ることで、輝元や秀家は欲深い家臣から
自分の立場を守りたいから西軍として挙兵してるわけだし。
なんせ家臣が家康は武断派とつるんで影響力を行使していたからな。
0451人間七七四年2014/10/10(金) 12:00:15.97ID:2hKe43cy
訂正
なんせ家臣が家康や武断派とつるんで

清正とか如水とかやたら家康に領土を要求しまくってるしw
武断派とか豊臣直轄領が減るので平気で
自らの領地を拡大させて一国丸々を領地化してるし。
0452人間七七四年2014/10/10(金) 12:59:28.01ID:KzXCM98B
菅沼遼太いちいち荒らしに来なくていいから
0453人間七七四年2014/10/10(金) 14:49:37.12ID:/SvV+H1w
武断派連中が西軍についても政権は毛利宇喜多と奉行衆のもの
東軍についたのは奉行衆を政権から外して武断派連中で政権運営したかったんじゃね?
関ヶ原で決まらず東軍有利の状況で和議とかになったら西軍主力組が政権から外されてたはず
一会戦で全て決まっちゃったのはやっぱ色々な人の思惑を狂わせちゃったのかね
0454人間七七四年2014/10/10(金) 15:57:07.82ID:QtjERsef
武断派が政権をとりたいなどという意識は、
一次史料からは窺えないし、
内府たがい条への反論が一切行われなかったのは、
自分達に正義、公正を主張できる筋目が無かったことを証明している。
また武断派は家康を騙くらかして江戸から西上させるなど、
家康すらも利用して恣に暴れている盲牛であった。
ただ単に自分達の悪事を正当化できる権威を家康が持っていたから悪用しただけだし、
家康も野心満々で利家死後直後に武断派の挙兵を悪用し
蟄居をやめて伏見と大坂を占拠し三成を蟄居させるなど、
家康と武断派は利欲に目が眩んだ豚同士で持たれ持たれつの汚職グループだった
0455人間七七四年2014/10/10(金) 16:04:09.65ID:KzXCM98B
釣りはよそでやれ
0456人間七七四年2014/10/10(金) 17:49:31.03ID:pWe1bG8v
反論できない馬鹿の逃げ口上
0457人間七七四年2014/10/10(金) 17:50:47.82ID:pWe1bG8v
>>445
釣りはよそでやれ
0458人間七七四年2014/10/10(金) 18:46:19.63ID:q3GUfoga
何が正義で何が悪かを考えるにはアニメの機動戦士ガンダム(ファースト)を見るといいよ。
このアニメ地球連邦とジオンどちらが正義でどちらが悪というのはないから。
0459人間七七四年2014/10/10(金) 18:50:04.85ID:tWtMhajN
>>450
三成が嫌いとか、やり方に賛同できないとか完全な後世の妄想じゃんw

→しかし清正らは朝鮮出兵では間違いなく確執ができただろ。謹慎されたり殺されるように三成や行長に仕組まれたりしたんだろ、経過や実際に三成暗殺決行とか見るに武断派が三成をよく思ってるとは到底思えん

ただ単に家康を支持して乱を起して戦功をあげて領地を広げたかっただけの欲深い連中が東軍に参加しただけ

→暴れて戦功挙げたいなら別に西軍ついて家康倒せばいいだけの話、本来豊臣側なのに東軍についた理由は「何」よ?三成という男になるのでは

清正とか如水とかやたら家康に領土を要求しまくってるしw 武断派とか豊臣直轄領が減るので平気で自らの領地を拡大させて一国丸々を領地化してるし

→それこそ清正も息子長政も東軍につき戦功を挙げ勝利しましたからね、領土要求は別に変じゃないでしょう
0460人間七七四年2014/10/10(金) 19:11:05.60ID:/SvV+H1w
>>454
人の意見には一次資料がどうとか言いながら
自分の意見は一次資料とかも関係ない妄想じゃねーか
0461人間七七四年2014/10/10(金) 19:15:16.62ID:pWe1bG8v
それはお前の十八番だ
0462人間七七四年2014/10/10(金) 20:46:25.44ID:swhdzUUX
>>444
それっていいわけにならない
輝元のかわりに秀元や広家たちが現場にいるわけじゃん
彼らに相談せずに無断で物事を決めていいわけがない
0463人間七七四年2014/10/11(土) 10:43:51.79ID:KGPb8uF/
島津が静観とかやる気ないとかって言っても決戦が始まっちまえば死ぬ気で戦うしかない。
実際に小早川達が裏切るころに兵の半数を島津は失っている。
0464人間七七四年2014/10/11(土) 11:32:56.38ID:FTBLbCh2
>>454
>内府たがい条への反論が一切行われなかったのは、
>自分達に正義、公正を主張できる筋目が無かったことを証明している。

イスラム国みたいな連中の主張にいちいち反論などするわけがないだろう
三成たちは話し合いの余地など一切ない危険な武装集団であり叩き潰すしかないわけ
あるとしたら個々の大名に馬鹿な謀反で戦わないように説得することくらいだ
東軍は奸臣の謀反を鎮圧するという自己の正義が確定しているため正当性を論議する必要など最初からなかった
内府たがい条への反論が一切行われなかったのは東軍が西軍を反乱勢力として見下していた証拠といえる
0465人間七七四年2014/10/11(土) 16:10:43.25ID:ug62qNbv
>>458
ジオンは独裁を目論んでるんだから悪だろw
0466人間七七四年2014/10/12(日) 05:43:43.65ID:G3K31t2H
勝手に上杉討伐を開始した狸が1番反乱な気がする 大親友の兼続が居る場所だし三成は放置出来なかったろうに
0467人間七七四年2014/10/12(日) 08:31:14.40ID:Z1vgxc+F
勝手に(朝廷、秀頼の許可済み)
0468人間七七四年2014/10/12(日) 08:47:47.76ID:id98B05M
>>466
家康は秀頼の御前にまかり出て、上杉討伐の司令官を任命されてるので、
上杉討伐は形式的には徳川の私戦ではなく、豊臣政権の公式な戦。

要は、関白秀吉の島津征伐や北条征伐と同義な訳だ。
狸の家康は、その点は抜かりない。
家康からすれば、東下中に三成が挙兵してもしなくても、どっちでもいい話。
0469人間七七四年2014/10/12(日) 09:14:27.62ID:n/MrDpTZ
豊臣と朝廷の許可を得て軍資金と兵糧の授与まで行われた公式の遠征事業を
自分たちの権力欲だけで勝手に中止に追い込んだ三成たちこそ最悪の反逆者だろ
大親友の兼続が居る?てめえの私情で遠征の是非を決められるわけねえだろ
三成が豊臣を自分の私物と勘違いしているのは間違いないんだよ
三成の私物化と反逆をいまだに美化する奴がいるなんて信じられない
0470人間七七四年2014/10/12(日) 09:25:55.79ID:NI96sJMc
>>469
しかし公儀は徳川家康に掌返し
西軍こそ官軍に
https://www.youtube.com/watch?v=8DunOx63uVA
0471人間七七四年2014/10/12(日) 09:27:40.85ID:id98B05M
三成は挙兵の大義名分として、太閤没後の家康の専横を列挙しているので、
三成の挙兵は豊臣政権の秩序を乱す奸臣家康を除去するための聖戦。

その証拠に、徳川以外の殆どの諸侯が、西軍に参戦している。
つまり、家康の無法は、世間一般の常識だった訳。

それに、三成は秀頼の名で、東軍諸将に西軍参戦を呼びかけている。
因って、三成の私物化と反逆に当たらない。
0472人間七七四年2014/10/12(日) 11:24:43.08ID:n/MrDpTZ
自分が政権に返り咲きたいと正直に言って挙兵する奴なんかいるか
大義名分として見かけだけは立派な主張をするのは反逆者の常套手段だろ
実際は三成たち文治派が讒言や謀略を駆使して太閤生前から豊臣政権の秩序を乱していた
文治派のせいで関白継承も朝鮮の講和も滅茶苦茶にされたわけ
むしろ三成側の無法こそ世間一般の常識であり
小山評定による東軍の反転は奸臣三成を除去するための聖戦の開始を意味していた
だから三成が東軍諸将に西軍参戦を呼びかけても無視されて逆に西軍諸将が東軍になびいたわけ

本来なら三成は太閤の生前に処刑されなければいけない奸臣だったのに
そこを家康に頼りきってしまったのが豊臣政権の致命的な失敗だった
0473人間七七四年2014/10/12(日) 12:43:28.53ID:8VcKvZf9
三成が豊臣政権護持と安定化の為、自らが政権に返り咲きたいと思うのは必然。
その大前提は、豊臣政権の弱体化と簒奪を謀る奸臣家康の打倒。
この至極真っ当な方針が諸大名に支持されたからこそ、西軍はあれ程までに膨れ上がった訳だ。

三成達文治派は秀吉の意向に従い、豊臣政権の運営を忠実に履行していただけであり、
讒言や謀略を駆使して豊臣政権の秩序を乱していたのは、家康。
関白継承も朝鮮の講和も滅茶苦茶にされたという私見は、根拠皆無の単なる妄想のファンタジー。

小山評定による東軍の反転は、家康の意を受けた黒田長政の口車に騙された福島正則が、
真っ先に家康支持を表明したのがきっかけの、単なる雪崩現象。

そもそも東軍と西軍は、親三成か反三成かの色分けにすぎず。
東軍諸将からすれば、三成が政権中枢に返り咲けば、冷遇されるのは必定故に、家康に組しただけの話。
つまり、東軍とは、単なる諸将の利害打算の産物の臨時編成軍。
0474人間七七四年2014/10/12(日) 13:00:35.96ID:n/MrDpTZ
>そもそも東軍と西軍は、親三成か反三成かの色分けにすぎず。

なんだ三成が基準であることは認めているんだ
三成の謀反に義憤を感じて成敗しようとしたのが東軍で
三成の謀反に組して甘い汁を吸おうと企んだのが西軍の首謀者連中で
残りの西軍大名は人質で脅迫されて無理矢理西軍に組み込まれた連中だろ
関ヶ原でその実態が明らかになっただけで議論の余地は何もない
0475人間七七四年2014/10/12(日) 13:12:17.04ID:8VcKvZf9
三成が編成した西軍こそ、豊臣正規軍。
東軍は利害打算の思惑やその場の雰囲気に呑まれて、奸臣家康に加担した賊軍。

家康に加担して、甘い汁を吸おうと企んだのが黒田長政や細川忠興等の首謀者連中。
コイツ等にいいように利用されたのが、頭の悪い福島正則。

だから関ヶ原で東軍の西軍に押されっ放しで、焦った家康が戦の真っ最中の黒田の邪魔になる使いを送り出す醜態に因り、
東軍の実態が明らかになっただけで議論の余地は何もない。
0476人間七七四年2014/10/12(日) 13:17:27.20ID:dRZ17S35
>三成が豊臣政権護持と安定化の為、自らが政権に返り咲きたいと思うのは必然

それを私物化と呼ぶんだよ
別に豊臣政権は三成のものではないし三成が居座り続けなければいけない理由など何もない
三成は少し秀吉に可愛がられたからといってあまりにも増長し過ぎた
単なるクビになったいち官僚という立場をわきまえず豊臣政権が自分の為にあるかのような態度を取るから
武断派のような豊臣股肱の臣たちの怒りに触れ西軍大名たちからも関ヶ原で見放される羽目になった
0477人間七七四年2014/10/12(日) 13:28:04.47ID:n/MrDpTZ
>>475
三成が自分こそ豊臣正規軍代表という妄想を抱いていたのは事実だろうね
そうでなければ関ヶ原で迎え撃とうなんて行動には至らないし
あんなに陣を広げて西軍諸大名が日和見、寝返りをやりたい放題になる環境なんて作らない
悲しいことにいくら三成が妄想の世界に入り浸っても西軍諸大名は自分達を反乱軍であると思い込み
士気を上げるどころか東軍に許してもらうことばかりを考えていた
だから関ヶ原では軍事的には三成らごく少数の大名が倒れただけで西軍の兵力的にはまだ余裕があったにもかかわらず
西軍は完全に戦意喪失して東軍ともはや戦うことが不可能になっていた
政権返り咲きを目論む三成本人がいなくなったのに戦う動機なんて最早ないからね
0478人間七七四年2014/10/12(日) 13:48:32.86ID:8VcKvZf9
>>476
三成が私利私欲の為ではなく、豊臣政権護持と安定化の為、自らが政権に返り咲きたいと思ったので、私物化ではない。
事実、関ヶ原の戦が終わり、東軍が三成の佐和山城接収に向かうと、蓄財ゼロで生活は質素そのもの。
政権を私物化していたなら、しこたま財を溜め込んでいる。

秀吉没後の混乱期は、三成の様な実績十分な吏僚が必要なのは、子供でも分かる理屈。
そもそも三成はクビになったのではなく、家康の謀略に踊らされた武将連中に命を狙われた帰結の失脚。



>>477
戦闘意欲旺盛な西軍に比べ、東軍は豊臣正規軍相手の戦に気後れして、士気は上がらず、小早川が裏切るまで、西軍に押されっ放し。
東軍諸将は士気を上げるどころか、西軍に許してもらうことばかりを考えていたので、劣勢だったのは当然。
0479人間七七四年2014/10/12(日) 14:06:57.37ID:NI96sJMc
秀吉が決めた政治決定機関「五大老 五奉行」は東西どのように分かれたのかが決め手だろうね。
0480人間七七四年2014/10/12(日) 14:24:55.49ID:RMbONhKE
言われてみれば偏ってるな
二大巨頭徳川前田・奉行筆頭浅野vsその他雑魚
0481人間七七四年2014/10/12(日) 19:56:34.58ID:RR2W4WCj
初めは東軍でその後西軍になった将はあんまりいないけど
初め西軍でその後東軍になった将はいっぱいいるよね関ヶ原以外でも
三成の人気のなさはやばいレベルだな
0482人間七七四年2014/10/12(日) 20:33:27.35ID:b6SPgb47
>>478
仮に西軍が勝ったとして三成は五奉行筆頭と50万石くらいの領地を貰えるんだろ
これが私利私欲の為じゃなくてなんだ
随分三成にとって都合のいい話だな
それに蓄財がゼロだったのはこの戦のために使い切っただけだろ
0483人間七七四年2014/10/12(日) 22:08:32.27ID:QVbtzDC0
だな。
豊臣家が金出さなかった証左だな。
0484人間七七四年2014/10/12(日) 22:38:42.97ID:n/MrDpTZ
家康は事前に会津征伐をやることをきちんと報告し許可を取得したから
豊臣が金を出すのは当たり前
三成はある日突然に武装蜂起して大坂に押しかけて金をよこせと叫んだだけ
こんなものは強盗と変わりないので豊臣が拒否するのは当たり前
0485人間七七四年2014/10/13(月) 02:24:50.38ID:Vcka885z
何で当時五奉行筆頭が彼やなく、浅野なんかも不思議
0486人間七七四年2014/10/13(月) 05:11:02.51ID:GY9wVsbg
むしろ三成なんかが五奉行筆頭とか言われてる現状がおかしい
浅野は秀吉の義弟でもあるし三成なんかよりも
長年秀吉のために働いてるんだから当然と言える
0487人間七七四年2014/10/13(月) 07:54:59.83ID:chY2mBKQ
豊臣の金銭関連は長束正家が結構差配してたから水口城には結構な金があったんじゃなかったっけ?
0488人間七七四年2014/10/13(月) 09:30:24.56ID:35C7xlCk
毛利厨のフリをしてるキチガイ在日が
必死に工作しているスレ
0489人間七七四年2014/10/13(月) 11:12:31.12ID:7vacLOOB
>>487
よく三成厨が佐和山に金銀がなかったことを清廉の証拠にしているけど
実は水口城を落とした時には莫大な金銀が見つかっているんだよね
奉行全体として水口城に裏金をプールしていたと考えれば自然なことだ
奉行による横領があったことは紛れもない事実なんだよ
0490人間七七四年2014/10/13(月) 12:38:44.56ID:b09rfNp4
というか三成の書状で
「俺はこの戦のために城の金を使い果たしたんだぞ!」って言ってるから
ホントに清廉なのかどうかわからんよな
0491人間七七四年2014/10/13(月) 14:20:03.63ID:chY2mBKQ
三成って自分の禄の大半で渡辺新之丞とか島左近とか配下にして美談になってるけど
豊臣の金を流用出来て自分は金に困らないから自分の禄はばら撒いてただけなのかな
0492人間七七四年2014/10/13(月) 15:13:49.92ID:b09rfNp4
あと「領国において善政を行った名君」って言われてるけど
佐和山の統治は親父に丸投げしてるから彦根市民は三成より正継を顕彰してやれよ……
0493人間七七四年2014/10/13(月) 21:25:10.68ID:7vacLOOB
>>491
三成だって文禄で朝鮮に渡るなど困窮する諸大名と同じ出費をしている
にもかかわらず大枚はたいて家臣を集めまくったり奉行に過ぎたる城を建てたり
豊臣の公金を着服していますと宣伝しているようなものだろ
逆に言えば奉行を辞めれば石田家の財政なんて1年で破綻確実なわけだから
関ヶ原を起こしてでも政権に返り咲こうとするわけだよな
石田家臣が立派に戦った?三成を奉行に戻さないと自分の給料がゼロになるんだから必死に戦うに決まっている
0494人間七七四年2014/10/14(火) 10:58:29.09ID:F8XKuN6D
関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
0495人間七七四年2014/10/14(火) 11:24:22.80ID:XnD+a83e
触るな危険
0496人間七七四年2014/10/14(火) 11:26:25.51ID:F8XKuN6D
>>484
大坂城内に大坂城天守と同等の高さの天守を家康は作り7歳の秀頼と淀を睥睨。
この天守で家康は事実上の独裁をしていたので、家康に面と向かって反対できるものなど当時いなかった。
その状況を無視するつもりかwwww家康に反対したら、家康暗殺を企てたとかすぐ風聞が飛ぶし。
>>486
筆頭なんて呼ばれてねーよアホw
そもそも内府たがい条にすら三成は署名してねーし。
>>489
>>奉行全体として水口城に裏金をプールしていたと考えれば
で、それを証明するソースは?
>>490
その写し書状自体が中井俊一郎氏から、三成が書いたものとは文体・内容ともかけ離れていると
偽文書指摘を受けているものなんだが。
しかもお前の翻訳はでたらめ。そんな内容には書いてない。
>>492
丸投げとかwwwお前さ、まずは当時の支配体制を学ぼうぜwwww
三成本人が書状を発給して佐和山へ統治の指針など細かく農民のために規定をもうけているのは三成ぐらいなもんだぞ。
清正とか肥後への指針書もテキトーで大雑把だし。
例えば百姓に無理なことするな。何があっても俺が戻ってくるまで変えるな。
こんなもんしか領国に送ってない。
>>493
>>大枚はたいて家臣を集めまくったり奉行に過ぎたる城を建てたり
豊臣の公金を着服していますと宣伝している

意味不明。在日のお前が馬鹿なのはわかった。
0497人間七七四年2014/10/14(火) 11:31:03.81ID:jqnf2jxU
まーただがか
0498人間七七四年2014/10/14(火) 11:44:28.01ID:F8XKuN6D
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
0499人間七七四年2014/10/14(火) 12:29:17.17ID:F8XKuN6D
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
(大坂に集めた人質の管理も北政所の職責のひとつ)
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。

景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
0500人間七七四年2014/10/14(火) 13:22:54.87ID:kZxTRJHt
家康は董卓みたいなやり口だった。
呂布のようなキチガイがいなかったから成功しただけ。「」>>
0501人間七七四年2014/10/14(火) 18:07:11.41ID:jz6EsNdA
また発作起こしてんのか
0502名無し募集中。。。2014/10/14(火) 19:48:44.65ID:vSD3drpO
董卓似は秀吉
0503人間七七四年2014/10/14(火) 23:53:56.78ID:pB7jg8Ln
董卓みたいなやり口をしたのは三成だろ
秀頼を監禁して傀儡に貶めて権力を我が物にしようと横暴を働いた
呂布のような武将がいなかったから討伐軍にあっさりと負けただけ
0504人間七七四年2014/10/15(水) 09:50:50.78ID:Yy9pxfzD
董卓だって幼帝を殺す大逆はしなかったが、
家康は自分の妻子殺しどころか、
秀頼や秀頼の子まで殺したついでに大坂20万人虐殺し、
摂津を中心に人々を奴隷化させて、
諸将が領国へ大規模誘拐するのを容認した悪党だからな。
董卓なんてガキレベル
0505人間七七四年2014/10/15(水) 09:56:37.92ID:DfSmPxhD
劉弁が菅沼呪ってやるって言ってた
0506人間七七四年2014/10/15(水) 10:11:03.09ID:YWMn/mop
菅沼は無駄な例えして無知さらすのが大好きだな
0507人間七七四年2014/10/15(水) 11:06:17.10ID:I2E9lAlE
>>503
>>秀頼を監禁して傀儡に貶めて権力を我が物にしようと横暴を働いた
それは毛利輝元だろwww
0508人間七七四年2014/10/15(水) 12:31:31.81ID:hD/D7ryW
それ以前に秀吉は織田秀信を蔑ろにした
0509人間七七四年2014/10/15(水) 13:54:04.99ID:uWohLxb+
岐阜やって中納言にして生かしておいたんだぞ。
当時の世評や研究者の間でも、秀吉は秀信に良くしてるって
結論が出てるよ。
0510人間七七四年2014/10/15(水) 18:02:15.23ID:lZThKTOL
三法師は信孝やお市や勝家に
拉致られて安土に戻され無かった時点で終了。
これにより三法師の立場は傀儡になり、
対抗して信雄が当主当主なって三法師復権の目は無くなった。
三法師は信雄と信孝により立場を奪われた。
秀吉は秀信の成長を待って信忠の旧領岐阜を安堵し官位をガンガン上げてくれた恩人
0511人間七七四年2014/10/15(水) 20:07:10.96ID:cAN+BuRA
>>465
ジオンの独立を力で阻止しようとした地球連邦だって悪いだろが。
地球で言ったらアメリカの独立を阻止しようとしたイギリスみたいなもんだぞ。
イギリスは負けたけど。
0512人間七七四年2014/10/15(水) 22:52:12.39ID:XsoWTAw/
関白と宇喜多領のどちらが美味しいか、並みの知能なら簡単に分かりそうなもんだが、
それが理解できないのが阿呆の金吾。

んで、焦った家康から一斉射撃されると、激怒するどころか怯えて西軍に攻撃開始してしまい、
西軍壊滅後も家康を恐れて、松尾山に居座ったままで、東軍諸将から馬鹿にされてる始末。

んで、宇喜多領に栄転されると、自分に憎悪を向けて死んでいった三成や吉継の亡霊に怯え、
狂死した大馬鹿。
0513人間七七四年2014/10/15(水) 23:22:10.87ID:YWMn/mop
独り相撲沼
0514人間七七四年2014/10/15(水) 23:29:15.77ID:IMpLjskR
三成から関白にしてやると言われて信じる馬鹿がどこにいるんだよw
小早川でなくても論外すぎて選択の余地がない
恩賞というのはリアリティがなければ話にならないんだよ
三成は戦の素人なのでそれが理解できなかった
小早川は三成からふざけた提示をされたせいで西軍として戦うことが不可能になってしまった
関ヶ原で西軍が負けたのは全て三成のせいであることは明白だろう
0515人間七七四年2014/10/15(水) 23:55:59.59ID:3alYSoGD
そもそも関白でも権力者に邪魔に思われ家族家来もろともぶち殺された秀次の例が直近にあるのに
なんで関白なんてエサでつれると思ったのか ほんとに三成は空気読めないというか人気ないんだな
なんか細川忠興を茶席に招いたときの話みたいだわ
0516人間七七四年2014/10/16(木) 00:44:10.02ID:DgxGXkUL
で、三成が秀秋に関白にしてやると約したとする
一次史料を出して貰おうかねキチガイ在日織田チョン君www
0517人間七七四年2014/10/16(木) 01:15:28.44ID:ipjzWgM0
反論に困ったりすると一次史料がどうとかいいだすのか
関白の件は江戸初期には史料に記載されてるんだからそれなりに信憑性のある話じゃねーの?
それとも一次史料がない話は全部うそだってのか
0518人間七七四年2014/10/16(木) 01:41:49.60ID:DgxGXkUL
はぁ?江戸初期の史料だぁ?
バカも休み休みいえよ。
知らねーのかよ。
関ヶ原軍記大成とか軍記講談ネタだわwww
0519人間七七四年2014/10/16(木) 07:42:32.15ID:r72VFbqE
自演乙
0520人間七七四年2014/10/16(木) 07:56:53.34ID:ipjzWgM0
一応関原始末記にも載ってた気がするが
秀秋を関白にする説が非常に疑わしいのはわかってて話してるのに
ドヤ顔でその説は嘘なんだぜ知らないのって絡んでくるのはなんなんだ
0521人間七七四年2014/10/16(木) 08:25:11.44ID:4WQUjxUI
まあ何にしても、三成の褒賞に魅力を感じなかったのか、疑っていたんだろうな。
0522人間七七四年2014/10/16(木) 09:43:26.76ID:DgxGXkUL
在日織田チョンのやつ相変わらず捏造歪曲して
三成や秀吉ら豊臣政権を貶すのに必死だなw
0523人間七七四年2014/10/16(木) 10:18:49.27ID:nmqsPGUA
>>520
必死に弁解開始かよ。醜いだけでなく往生際も悪いやつだな。
0524人間七七四年2014/10/16(木) 21:26:29.95ID:iPtZfdQk
>>522
三成が秀秋を関白にするかどうかの話が
どうやったら秀吉ら豊臣政権を貶す話になるんだ?
おまえは秀吉が嫌いなくせに自分の好きな三成が批判されると
秀吉と三成をセットして批判してるようにみせようとしている
おまえの方が捏造歪曲してんだろ
0525人間七七四年2014/10/16(木) 21:44:16.34ID:xxWbsRTi
結果から見ると、金吾って後世で言われるほど馬鹿ではないと思う。
勝つ方に付いたんだからな。外道だけどw
0526人間七七四年2014/10/16(木) 21:56:39.60ID:WyT915kM
小早川軍が徳川方に向かって突撃してたら西軍が勝ってたよね。
0527人間七七四年2014/10/16(木) 22:55:37.93ID:f01oIdZo
何で小早川が徳川方に向かって突撃しなければならないのか
徳川は小早川に課された不当な領地没収処分を取り消してくれた恩人だろ
だいたい三成ら文治派は官位も石高も戦経験もしょぼいくせに
態度だけは100万石の大大名よりでかいのではやってられないよ
徳川に協力するのは外道でもなんでもない人間として当然行動といえる
0528人間七七四年2014/10/16(木) 23:01:17.12ID:Gfcni3ND
裏切りは罪ではない
播州戦では宇喜多が毛利を裏切り小早川に敵対した
関ヶ原では小早川が豊臣を裏切り宇喜多に敵対した
歴史は返される
0529人間七七四年2014/10/17(金) 08:59:51.13ID:gJ2jg699
>>527
態度でかいとか恩人とか意味わからん。
奉行職と大老職が同じ職務だと思って比較してる無知なのか?
それに秀秋の筑前筑後安堵は秀吉遺命であり五大老がその確認として連署発給であり、
家康が転封を中止させたわけじゃないから。
ほんと秀吉や三成や信玄や謙信を粘着非難してる
織田チョンって無知の恥さらしだなあ。
0530人間七七四年2014/10/17(金) 11:31:50.77ID:LJ0WHgru
>>526
金吾が西軍として戦っただけでは無理。
そこに毛利軍が付けば必勝だったな。
0531人間七七四年2014/10/17(金) 16:59:23.51ID:1dja7xtG
織田厨は願望妄想を書いてるだけ
しかも工作やレッテル貼り自演が大好き。
他人のレスを盗用改竄した上で武田厨のフリを装い馬鹿なフリをしたり、
秀吉や三成を貶す目的で、輝元や家康をキチガイ擁護する朝鮮人。
0532人間七七四年2014/10/17(金) 20:57:19.05ID:bNv0jEZd
>>530
確かに西軍にも勝ち目はあったと思うけど勝ったところでどうせ三成が誰得な論功行賞をやらかして
たちまち日本中で戦火があがることになっただろうと思う。
0533人間七七四年2014/10/17(金) 21:29:48.01ID:xGKd6YAm
そもそも岐阜陥落の時点で西軍の過半が東軍に内通したんだから西軍が勝てるわけがない。
西軍が勝つという事を考えるなら、岐阜城を何としても守り通さねばならなかった。
0534人間七七四年2014/10/17(金) 22:39:18.23ID:Uv2QqNGm
>>530
あの地形と軍の配置を見れば小早川でも毛利でも片方が前に出るだけで簡単に瓦解する。
0535人間七七四年2014/10/17(金) 22:43:19.40ID:xGKd6YAm
>>534
もしかして参謀本部の関ヶ原陣取り図を未だ信じてるのか?
あれこそ軍談講談から作り上げたものだぞ
0536人間七七四年2014/10/18(土) 00:11:47.93ID:/zwMjA05
>>533
そんな大事な城を秀信のような実戦経験ゼロのガキに与えている時点で西軍の負けだろ
0537人間七七四年2014/10/18(土) 01:18:34.49ID:W80StuhD
日本の歴史を決定付けた戦が日本人らしいドロドロの政局争いの果ての戦なんだから面白いんだよな
0538人間七七四年2014/10/18(土) 08:03:53.91ID:b0riR05Z
>>533
岐阜陥落の時点で西軍の過半が東軍に内通していたなんて事実はない。

>>536
しかし秀信側近団は信雄改易した時の家臣団を相続したと言っていい顔触れ。
信長→信雄→秀信と織田家臣団は基本的につながっている。
流罪だった信雄が秀吉に取り立ててもらった際もほとんど秀信側近に変化なし。
つまり織田家臣団は予想を遥かに超えて無能揃いだったのと
輝元の戦略眼の無さから伊勢長嶋が難攻不落なのに、
三成が提唱していた美濃から尾張へ南下するのではなく、
伊勢から尾張へ北上するのに
戦力集中をしたアホさ加減に問題があった。
尾張を落としてしまえば伊勢なんぞ勝手に落ちるどころか
武断派を主導していた福島正則の脱落を誘い、
東海の豊臣恩顧小身大名を次々とくだせたのに。
0539人間七七四年2014/10/18(土) 12:22:26.96ID:5L8VGV04
>>538
いや岐阜城陥落で即東軍に内通してるじゃん。事実として。
0540人間七七四年2014/10/18(土) 12:44:02.30ID:/zwMjA05
輝元を大将として据えたのだから西軍は一丸となって伊勢長島攻略に従うべきだったのに
三成が勝手なワガママを主張したせいで西軍は伊勢長島攻略に集中できず
結局は三成があまりにもやかましく騒ぐため伊勢部隊が美濃に転進せざるを得なくなった
司令官でもなんでもない三成が西軍の戦略に口を出す姿に諸大名は辟易し
この戦いを三成の権力欲による私戦と判断して内通や日和見を選択したのも当然だろう
西軍の戦略と勝機は三成のエゴによって崩壊させられた
0541人間七七四年2014/10/18(土) 12:58:10.30ID:R1ehez9t
デマ書くなっつーの。三成が大阪の軍議で美濃方面進出を
訴えたなんて史料は無い。
0542人間七七四年2014/10/18(土) 22:55:37.18ID:b0riR05Z
>>539
例えば誰?
0543人間七七四年2014/10/19(日) 01:10:24.82ID:I95kf4bh
関ヶ原の大戦の背景は、外征の大失敗と中央政府たる豊臣家に重鎮不在だったのが致命的だった。
だから前田利家死後、石高で一頭抜きん出た家康に、豊臣家の内部分裂を巧妙に突かれ、切り崩しされ放題。
が、結局、戦の趨勢は、小早川秀秋の気まぐれと秀吉嫌いの吉川広家の不戦傍観とグズの毛利輝元が秀頼を擁立せずの不出陣が効いた。
結局、腹黒小悪党の家康に悪運があっただけの話。
要するに、大志の無い小物は大志のある巨悪に負けるという真理だ。
秀吉に負けて自陣した柴田も同じ。
0544人間七七四年2014/10/19(日) 01:27:27.65ID:4/MUFhqV
秀吉に死後を任せられる嫡男がいなかったのが痛すぎる
0545人間七七四年2014/10/19(日) 03:02:19.72ID:jT55Kfks
信長が長島一向一揆に苦戦しまくったことすら知らんのか。
長島は数年がかりの攻略戦になるぞ。
0546人間七七四年2014/10/19(日) 07:46:35.71ID:mUeoa6ka
スパーランド楽しいよ
0547人間七七四年2014/10/19(日) 08:09:10.81ID:tpeP2Wqf
>>543自刃の間違いか?

長島もそうだが美濃攻略も7年も掛かったしな
利家も亡くなったのも痛いが隆景、氏郷もな
言えばきりがない 鶴松は仕方ないとして秀次、秀勝辺りも 織田本家の秀信がしっかり動いてくれてたらなと思う
0548人間七七四年2014/10/19(日) 09:00:17.79ID:I95kf4bh
信長は早期に後継者を信忠ただ一人に決め、事前に家中が分裂する元凶の種を排除する英明さがあったが、
信長の政策や家産をパクッて台頭した秀吉は、信長から内部統制だけは全く学ばず、実弟秀長に丸投げ。
秀吉に子種が無かったので、子沢山の信長と事情は異なるが、それならそれで最善の策を考えるのが天下人の責務だが、秀吉にそれを考えてた痕跡は皆無。

で、後継者は場当たり的に秀次に決めるも、淀がまた不倫して第二子を産むと、秀次を誅殺し豊臣家を希薄化させる自滅の愚。
外征の泥沼化により、尾張派と近江派の派閥争いは悪化し、後継者は当事者能力ゼロの子供。
この構図は、信長信忠が一瞬で居なくなった本能寺の変後の織田家と同じ。

秀吉は本能寺の変後の織田家と同じ環境を自ら作り出し、己と同じ獣面人非の家康に己と同じ政権簒奪の好機を与えた間抜けの低能。
これこそ秀吉の謀略により、恨み骨髄で切腹して死んでいった三七信孝の祟り。
0549人間七七四年2014/10/19(日) 13:33:13.84ID:SDstjNL8
>>547
岐阜城は誰でも簡単に速攻で落している正真正銘攻めやすい城
しかし長島は河川の中洲や湿原をたくみに取り込んだ本格的な要害だから。
だからこそ信雄も小牧長久手後に長島に逃げ込んでいたし、
秀吉も周囲の城を崩して、周囲に砦を築いて長期包囲しようと作業していた。
0550菅沼遼太2014/10/19(日) 17:43:16.96ID:7jBrNPD0
信濃の方が100倍攻略難しい
0551人間七七四年2014/10/19(日) 18:00:47.77ID:SDstjNL8
>>548
近江出身 淀・三成・浅野幸長・藤堂高虎・長浜で養育された長政

このメンツな時点で、淀を奉じる近江派とねねを奉じる尾張出身者で派閥を作っていたとする説は崩壊してるんだがwww
しかも>>498>>499のように淀もねねも西軍側で行動してるのがはっきりしてるしwww
0552人間七七四年2014/10/19(日) 19:58:04.24ID:cdYCpCeN
近江派も尾張派も関係ない
単に三成が豊臣を我が物にしようと簒奪しようとしたのが問題だろ
家康率いる東軍が三成の謀反を何とか鎮圧したからいいものの
三成の暴走を何も抑制できない豊臣家に問題があったのは明白
家康が安定政権樹立のために江戸幕府を作らざるをえなくなった
0553人間七七四年2014/10/19(日) 20:21:30.45ID:UmGJVUDv
朝鮮出兵での三成の行動
1 軍監として出兵するも各将を統率できずに野放し状態に
2 補給の関係で進撃が停滞したのを「みんなやる気なくしてわざと進撃やめてる」と告口
3 奮戦して清正を救った秀秋を「その後追撃しなかったのは怠慢」と告口、尚本人は京にいて親戚の軍監の話を盛りに盛る
4 兵站の遅れを「各将が必要以上に物資を消費してる。こっちはきっちり計算通りに送ってる」とか言って責任転嫁
5 名護屋に国内どころか国外の遊女も完備した最高の慰安状況を作るも梅毒大蔓延
6 サッルが亡くなった後にそれを隠し指令
7 調子に乗って今のロシア国境まで北上したお調子者を放置してそのお調子者は帰ったら謹慎させられる
8 偽りの和平交渉を推進、結果、第二次出兵が挙行される大失態
9 疲労困憊で返ってきて恨み骨髄の諸将に「茶会招くで〜」とか言って逆撫で
0554人間七七四年2014/10/19(日) 21:00:27.03ID:jT55Kfks
>>553
で、それを証明する一次史料はまだなの?
0555人間七七四年2014/10/19(日) 21:33:20.27ID:UNEtDJ31
>>554
3と7の話は聞いた事あるぞ
多分、事実じゃないかな
0556人間七七四年2014/10/20(月) 01:15:39.71ID:BkIkPPYd
いや軍記講談話と妄想願望だけだろ
0557人間七七四年2014/10/20(月) 01:54:36.35ID:ObQ8XYqB
現実は妄想を超える酷さだったのである
0558人間七七四年2014/10/20(月) 16:08:23.24ID:sHUgOjqP
>2 みんなやる気なくしてわざと進撃やめてる
実際に朝鮮に転封されたら嫌だろう。
これが現場の真実なんだろうよ。
0559人間七七四年2014/10/20(月) 21:34:15.76ID:zUBfb8PK
お膝元の商人たちが貿易で儲けているのを見ていながら
どうして武力侵攻なんていう最悪の行動をしたんだろうね>秀吉
0560人間七七四年2014/10/21(火) 11:20:48.27ID:pJ3LwMs3
そりゃ武士政権が軍事政権だからに尽きる。
武力で他国を攻めとり続けることが存在意義そのものなんやから。
外征は割に合わないってことが骨身に染みない限りは方針転換は容易でない。
0561人間七七四年2014/10/21(火) 11:53:17.15ID:TLnUCVGC
>>558
わざと進撃をやめたなんてことはない。
そしたら秀吉に改易されるだけだし。
勝手に妄想願望を入れ込むな。

>>559
最悪な方法だと思い込むのは朝鮮人の被害者視点だからなw。

そもそも秀吉が死ななければ朝鮮南部の領有化は可能だったし。
そこを経営して兵站さえ整備してしまえば朝鮮北部占領も視野に入った。
中国の茶器や美術品が日本では高額取引されていて需要が大きいのに
ttp://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/05/discription.html
ttp://www.mitsui-museum.jp/pdf/mokuroku_141004.pdf
明が室町時代のような勘合貿易を拒否していたのがそもそも悪いし、
ポルトガルなどの南蛮商人らの貿易利権を奪い取る帝国主義的重商政策は
その後の時代変遷経緯を見れば正しい政策だった。
本願寺教団による半島への教化政策の成功とともに
植民地化を進めようとしていた矢先に秀吉が死んだ。
0562人間七七四年2014/10/21(火) 12:00:06.31ID:fAPbYyfF
唐が果てしない版図拡大を続けた結果、タラス河畔の戦いでイスラムのアッバース朝に敗れたり、
ナポレオンがロシア遠征まで拡大をつづけたり、
強い国家指導体制を整えた場合は外征を続けるものだ。
逆に脆弱で脆い体制の国家は内向きに猜疑心を出して国内有力者を根絶やしにしたりと粛清をやらかす。
0563人間七七四年2014/10/21(火) 12:35:08.74ID:jqAhn1OE
>>562
ナポレオン前のブルボン王朝は強い国家指導体制を整えてたが、ロシア遠征はやってないがな。
ナポレオンが何故ロシア遠征をやったのか、その背景くらいは知っておこうな。
0564人間七七四年2014/10/21(火) 12:46:27.91ID:+WNZhsy6
>>562
秀吉は粛清もしているね
0565人間七七四年2014/10/21(火) 13:19:54.11ID:TLnUCVGC
>>563
アウクスブルク同盟にイギリスまで参加して大同盟を結成され
対仏同盟との戦いでロシアどころじゃねーだろアホ

>>564
誰のこと?
0566人間七七四年2014/10/21(火) 13:45:29.08ID:pJ3LwMs3
>>563
ブルボン王朝はスペインの継承権めぐって何十年も戦争やったがな。
新大陸じゃ植民地巡ってイギリスと第二次百年戦争状態だったし。
0567人間七七四年2014/10/21(火) 17:22:47.75ID:+WNZhsy6
>>565
秀次
0568人間七七四年2014/10/21(火) 18:08:57.17ID:9xfOWcdX
そりゃ自分に逆らったり敵に内通したら処分するだろ。
家康なんて実子殺してるだろう。
0569人間七七四年2014/10/21(火) 20:31:12.10ID:+WNZhsy6
秀次は族滅だよ
0570人間七七四年2014/10/21(火) 21:45:43.52ID:fAPbYyfF
秀次は助命されていた。
しかし勝手に自刃(福島正則の策謀説アリ)
そこが秀吉母の菩提寺だったので逆鱗に触れただけ。
秀吉は秀次を粛清するつもりは無かった。
そもそも秀次は毛利や伊達らに金を貸したり、
前田らとつるんで朝鮮出陣から逃れ、
また秀次に側室を送り込んだ最上は
総無事をガン無視して小野寺攻めをするなど
あきらかに秀吉に敵対していた
0571人間七七四年2014/10/21(火) 22:06:26.37ID:+WNZhsy6
>>570
矢部健太郎が最近唱えた説を通説のように扱われても
0572人間七七四年2014/10/21(火) 22:52:06.90ID:pJ3LwMs3
あれマトモな学者からはてんであいてにされてない珍説だよな
そもそものソース元が太閤記というwww
0573人間七七四年2014/10/21(火) 23:02:16.13ID:fAPbYyfF
都合が悪くなるといつものパターンwww
実際は誰からの反論もないし、
そもそもマトモかマトモじゃないかを
お前の偏ったキチガイ主観で判定してもなあwww
0574人間七七四年2014/10/21(火) 23:07:18.08ID:PqAwp755
>>573
反論するならその説がまともな学者から評価されているなり論文に引用されているなりの証拠を出せ。
俺はトンデモ極まるという反応しか知らん
0575人間七七四年2014/10/21(火) 23:53:33.84ID:pJ3LwMs3
肝心の論証の部分が推量だらけで話にならねえとか言われてたな。
0576人間七七四年2014/10/22(水) 00:01:31.82ID:oUR5NPa3
>>570
確かに秀次は除名されるはずだった
ところが豊臣乗っ取りを企てる三成が秀吉に讒言を吹き込み猜疑心を植え付け
秀次とその妻子を大量粛清させるように仕向けた
その証拠に秀次と親しかった大名は全員東軍として三成と戦ったうえに
秀次の切腹を見届けた福島正則も三成の陰謀に激怒し奸臣討伐を先導した
すべて三成の謀略であることは明らかなんだよ
0577人間七七四年2014/10/22(水) 00:06:19.36ID:PmoTYl9N
アホ
秀次にトドメを刺したのが福島正則だわ
秀次事件は官僚制による中央集権を進めたかった三成にとっちゃ逆にいい迷惑
あの事件が権力の所在が”豊臣家”ではなく”秀吉個人”に存在することを示しちゃったから
最強の秀吉が死ねばその次点の家康が繰り上がることを万民に知らしめてしまった
0578人間七七四年2014/10/22(水) 00:08:02.32ID:ArfTlqLq
>>577
お前官僚制の意味もわかってないだろ。
三成は官僚でも何でもない。君主に寄生する何でも屋の宮廷政治家にすぎん
0579人間七七四年2014/10/22(水) 00:15:03.84ID:PmoTYl9N
秀次事件の本質は秀吉本人による関白政治の否定。
権力の所在が関白の地位にあるのではなく秀吉個人にあるものだということの証明。
結果、秀吉という最強の個人が死ねば生き残った人間の中で最強の者がその後を継ぐのが
自然の成り行きという自業自得の結果を招いた。得をしたのは家康。
0580人間七七四年2014/10/22(水) 03:43:57.56ID:YyoarERH
三成関係ないだろw
0581人間七七四年2014/10/22(水) 08:57:57.68ID:A+dOexTr
>>574>>575
どの学者がそういう発言をしているのか教えてくれよ。
秀次の食事の世話を高野山に頼んでいる一次史料があるのに
その頼んだ矢先に自害を命じるわけねーだろ。
0582人間七七四年2014/10/22(水) 09:03:36.63ID:LqH2ugRU
そんなん「気まぐれ」「伝達ミス」でおわるな
0583人間七七四年2014/10/22(水) 09:19:11.71ID:A+dOexTr
>>582
そう判断する一次史料はまだなの?
お前の願望思いつきはいらねぇ。
0584人間七七四年2014/10/22(水) 09:22:23.17ID:A+dOexTr
>>579
太閤>関白
法皇や上皇>天皇
会長>社長
祖父>父
なのは当たり前だろアホ
0585人間七七四年2014/10/22(水) 09:48:03.83ID:PmoTYl9N
死刑囚相手でも食事の世話ぐらい普通に通達しますよ。
0586人間七七四年2014/10/22(水) 09:57:01.99ID:PmoTYl9N
>矢部准教授は「太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している。

そもそも『太閤記』なんかにマジレスしちゃってる時点で研究者としてアレである
0587人間七七四年2014/10/22(水) 10:26:13.89ID:LqH2ugRU
>>583
矢部氏のも一次史料に記された状況からの「推論」に過ぎないが
0588人間七七四年2014/10/22(水) 10:55:26.54ID:eOO2jyli
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。


漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。
0589人間七七四年2014/10/22(水) 10:57:13.12ID:eOO2jyli
南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。


安東と浅利も文禄3年秋からあちこちの部落に放火しまくり争いを開始し
文禄4〜5年の間に4回も交戦して見事に惣無事令違反してる。
浅利は安東の家臣だと再確認がなされただけだ。
そもそも蛎崎氏が安東氏から独立を秀吉に認められたことを知った浅利側が
蛎崎氏が独立を認められた手法を真似て有力大名に近づいたから起きた混乱だっただけ。
それで文禄2年に発覚したんだが、朝鮮出兵の浅利負担を誤魔化して安東氏の負担にしようとしてトラブった。
そこで豊臣政権から木村常陸介がやってきてとりあえず安東負担にした。
が、結局最後には数字に明るい長束が帳簿を照らして浅利側に未納があるのが確定し浅利は安東の家臣と再確認がなされただけ。
0590人間七七四年2014/10/22(水) 11:15:48.04ID:eOO2jyli
>>586>>587
おまえ、実際に執筆本を読んでないだろ。
仁木宏のコメントのあとに、矢部は出版にあたって
さらにいろいろ改変してるのを知らんとみえるw
本の内容と違ってそのコメント自体がおかしいからアホ乙w
0591人間七七四年2014/10/22(水) 11:30:37.49ID:BYtBkQC2
アスペやな
0592人間七七四年2014/10/22(水) 12:09:24.26ID:A+dOexTr
戦国板はネットでごく一部だけみただけで
読まずに批判してくる在日キチガイばっかだからな。
0593人間七七四年2014/10/22(水) 13:00:51.87ID:PmoTYl9N
だって根拠が『切腹の数日前に食事の世話の通達はおかしい』じゃなあ。

突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるぜ

・相手は仮にも関白の地位にいた人なんだから処刑前でも万全の世話をするのはなにも不自然なことではない。
・そもそも切腹の日付の出典元が『太閤記』。この時点でお前はなにと戦っているんだと。
0594人間七七四年2014/10/22(水) 14:48:45.16ID:tRUvr58L
矢部健太郎ってのは三成厨ゆえに三成が批判されそうなことはこじつけてでもなかったことにする学者として最低のクズだからな
0595人間七七四年2014/10/22(水) 21:50:09.29ID:Ulan/GQH
今日の午後10時からの歴史ヒストリアは
 三成VS官兵衛
やるぞ。 とりあえず見よう
https://www.youtube.com/watch?v=OG6u8CDvpI4
0596人間七七四年2014/10/22(水) 22:45:13.60ID:oUR5NPa3
>>593
>だって根拠が『切腹の数日前に食事の世話の通達はおかしい』じゃなあ。

これこそが三成の謀略の証拠と言ってもいいだろう
数日で食事の世話も考えていた秀吉の助命方針を180度変えて虐殺に走らせる
これは三成が讒言を吹き込んで秀吉をパニックに陥れたからでしかありえない
矢部健太郎によって三成の汚らわしい陰謀が白日の下に晒されたんだよ
0597人間七七四年2014/10/22(水) 23:12:38.27ID:PmoTYl9N
いや秀次事件に関しては三成関係ないって
つうかむしろ三成にとっちゃ秀次が後継いでた方が都合よかったし
成年の秀次が後継いでれば家康が入り込む余地なかったから
0598人間七七四年2014/10/23(木) 01:27:38.57ID:rhqhb83v
>>597
そんなわけねーだろ。秀次家中は秀吉奉行衆と系統が違うんだから。
どちらにしたって秀吉が死んだら三成はお払い箱だ。
何で秀次が秀吉に寄生してた奉行で、しかも悪評まみれのやつを継承せねばならんというのか。
0599人間七七四年2014/10/23(木) 04:12:39.62ID:1ffQ8N1K
三成は己の保身の為に、どーしても秀次を失脚させねばならんかった。
秀吉が政治の第一線から身を引き、秀次が名実共に秀吉の権力が継承すれば、三成は確実に秀次政権から除外され失脚。
因って三成は、秀次追い落としの為に、秀吉を洗脳し誘導したのは間違いない。
0600人間七七四年2014/10/23(木) 11:57:10.65ID:TkUr4Hr1
答え

在日織田チョン「秀吉を叩くためには絶対に認められないニダ」
0601人間七七四年2014/10/23(木) 12:53:01.94ID:Sem4k/Yu
ということにしたい菅沼遼太
0602人間七七四年2014/10/23(木) 14:24:03.88ID:d3jOGzse
秀次切腹を秀吉の命令とするのは、『言経卿記』『兼見卿記』『大外記中原師生母記』にあるな
0603人間七七四年2014/10/23(木) 16:49:19.55ID:g5QhhZCZ
つうか秀次に切腹の命令出せるの秀吉しかおらんだろ
0604人間七七四年2014/10/23(木) 17:37:38.49ID:rP08yDVe
秀吉に入れ知恵すんのは三成しかおらんだろ
0605人間七七四年2014/10/23(木) 17:48:58.71ID:fUH2kWim
いくらでもいるだろ<入れ知恵
むしろ三成ってあんま秀吉から好かれてないし。
単に使える官吏だから使ってるだけというか。
0606人間七七四年2014/10/23(木) 19:40:45.73ID:ykULuhrh
秀吉が三成を高評価してたら官位が治部少輔どまりなんてありえんよな。
本当に単なる役人という官位じゃないか。
0607人間七七四年2014/10/23(木) 20:11:31.75ID:hYN2MhRi
寝返らなかったら云々は実態は西軍視点で考えることじゃない
0608人間七七四年2014/10/24(金) 00:57:33.60ID:FO1yDL3t
秀次事件というと秀次と妻子の命が奪われたことに注目されがちだが
秀次お抱えの官僚も大量に粛清されている
単に秀吉が我が子かわいさにやったとか百歩譲って矢部がいうような勝手な切腹に怒ったとしても
官僚を大量殺戮する必要はまったくない
これは奉行連中が秀吉死後の秀次政権誕生による失脚を恐れて仕組んだから以外に有り得ない
秀頼という奉行にとって都合のいい傀儡児の誕生によって結果的に奉行の野心に火がついてしまった
だからこそ単に秀次一族を始末するだけでは足りず将来のライバルまでも始末する必要があったわけ
むしろ奉行にとっては秀次一族よりもこちらの粛清がメインであると言ってもいい
0609人間七七四年2014/10/24(金) 04:51:29.53ID:hA8Q19/r
秀頼は奉行連中にちっとも都合よくないよ母親の淀が三成を嫌ってたから
関ヶ原のときも淀が抵抗しまくったんで秀頼を掲げて出陣が叶わなかった
逆に三成と親しかったのは北政所。三成の娘を養女にしたりとかなり親密な間柄。
0610人間七七四年2014/10/24(金) 07:51:13.13ID:1MckNjKf
最近の大河ドラマに毒されているようだけど、奥向きが表に与える影響なんて大したもんではない
0611人間七七四年2014/10/24(金) 08:32:10.35ID:hA8Q19/r
その大したもんじゃないはずのものが東軍に三成討伐のお墨付きを与え
秀頼担ぎだすことを邪魔しまくり妹婿を寝返らせて大津城で立花宗茂含む1万5千を足止めさせたんだがな。
関ヶ原の西軍の敗因は浅井三姉妹を敵に回したこと。
0612人間七七四年2014/10/24(金) 09:12:12.61ID:1MckNjKf
関ヶ原合戦における秀頼出馬なんて講談の類です
京極高次も端から東軍寄りだし
0613人間七七四年2014/10/24(金) 18:26:02.54ID:xK+XL7Bv
>>604
その考えがおかしいんだよ。秀吉舐めすぎじゃね?
0614人間七七四年2014/10/24(金) 20:22:59.70ID:1MckNjKf
秀次の詰問使や切腹前に起請文を提出したことから三成と長盛の関与大とされてはいる
0615人間七七四年2014/10/24(金) 20:42:29.71ID:vB0nsfBL
増田も関連してたんか?
ところで秀次が乱行しまくりで殺人しまくりは事実?
0616人間七七四年2014/10/24(金) 21:30:14.76ID:1MckNjKf
公家の日記には皆無だから事実の可能性は限りなく低い
日記や書状では疑問符付きだがあくまで謀反が原因とされている
0617人間七七四年2014/10/25(土) 03:15:12.20ID:VuanQzxR
秀次の旧臣が多く三成の元に仕官してるから三成が図ったことなら
そういうことはないんじゃないかなあと思われる
0618人間七七四年2014/10/25(土) 03:23:23.40ID:VuanQzxR
秀次家臣の若江八人衆のうちの6人が後に三成に仕えている
舞兵庫なんかは秀次の連座で舅で伯父の前野長康を殺されてるし。
本当に三成が黒幕だったら自分たちのリストラの原因つくったやつにそう好き好んで仕えないだろうと。
どれも他に引く手あまたな名のある武将たちなんだし。
0619人間七七四年2014/10/25(土) 05:36:36.96ID:VuanQzxR
>>615
増田は息子が連座で蟄居命じられてるよ
0620人間七七四年2014/10/25(土) 08:03:30.96ID:ZaniETEU
逆に秀次旧臣なので痛くない腹を探られるのが嫌で敬遠された挙句、
その心配がない三成に仕えたかもしれない
0621人間七七四年2014/10/25(土) 08:20:55.25ID:VuanQzxR
ちなみに八人衆の残り二人は浅野幸長と藤堂高虎に仕えてる。
浅野幸長は秀次事件の連座で流刑にされてるし
藤堂高虎は秀次の実弟の秀保の元家臣だから
痛くない腹うんぬんもちと説得力に欠けるかな
0622人間七七四年2014/10/25(土) 08:40:29.53ID:ZaniETEU
安井喜内は幸長に仕える前は前田玄以に仕えていたし、
藤堂良政はそもそも高虎の従兄弟
0623人間七七四年2014/10/25(土) 14:43:31.83ID:6+dc0e7Y
当時は三成のせいだなんて考えが無かったんだろ。
悪いことはみんな三成のせいって、徳川史観の後世の創作だ。
0624人間七七四年2014/10/25(土) 14:45:46.16ID:/Ls5iBFy
史実を追求する姿勢が皆無。
ただ単に三成と秀吉を貶したいだけ。
根拠ゼロで偏った悪意で書き込む在日
0625人間七七四年2014/10/25(土) 14:47:44.80ID:SFwG4n+u
という事にしたい菅沼遼太
0626人間七七四年2014/10/25(土) 14:53:14.18ID:ZaniETEU
徳川史観w
0627人間七七四年2014/10/25(土) 16:49:42.01ID:ZaniETEU
石田三成と増田長盛は秀次死後の京都所司代に任じられている
(前田玄以は禁裏・公家・寺社に専任)

また秀次の居城清州城に三成が(これは変更)、同時期に亡くなった
秀保の居城大和郡山城に長盛が入ることになった

少なくとも秀次切腹前後ので両者の存在が濃厚なのは間違いない
0628人間七七四年2014/10/25(土) 17:08:06.39ID:8YRqGVb+
真犯人は秀頼、秀吉を操って邪魔者の秀次一族を殲滅した
0629人間七七四年2014/10/25(土) 18:45:59.65ID:6+dc0e7Y
何で間違いないとか断言出来るんだろw
0630人間七七四年2014/10/25(土) 19:38:04.60ID:VuanQzxR
老害秀吉の独断にみんな右に習えだったとしか言いようがない<秀次事件
犯人は誰とか言われてもそんなん秀吉本人にきまっとる。
0631人間七七四年2014/10/25(土) 19:41:32.12ID:ZaniETEU
>>>629
三成と長盛が他の人物より秀次事件の関わりが大きいから
0632人間七七四年2014/10/25(土) 20:44:36.44ID:s7PxO5Af
自分から後継ぎやめまぁすと言わなかった秀次が悪い
同じくしゃあなしで毛利の後継ぎになってた毛利秀元は毛利輝元に息子が生まれたら後継ぎ辞退したってのに
0633人間七七四年2014/10/25(土) 21:02:23.62ID:4+fyTphZ
関白は朝廷の役職なんだから秀次個人がどうこうできる話じゃない。
そもそも天皇の指南なんだから幼少の秀頼がすぐ引き継げる役職じゃないんだし。

秀吉が武家関白のシステムをまるで考えていなかったことが秀次事件の要因だよ
0634人間七七四年2014/10/26(日) 07:53:32.67ID:dsTGaCdp
一代で成り上がって帝王教育も受けて無くて長らく実子にも恵まれなかった秀吉に
自分が死んだ後のことまで想像するのは難しかったんだろうな
そこが信長や家康みたいな大名の子として生まれた奴らとの大きな差。
0635人間七七四年2014/10/26(日) 12:20:42.38ID:cLi5Nfmv
>>633
関白を独占したいなら藤原みたいに分家を大量に作って
その中の誰が関白になっても構わないんだというおおらかな気持ちで役職を持ち回す必要があるのに
一族も少ないうえに自分の息子じゃなきゃ嫌だと駄々をこねるようでは関白を使う意味がない
秀吉が深い考えを持たずに短絡的な権威を求めて武家関白をやりだしたのは明白だろう
0636人間七七四年2014/10/26(日) 13:01:36.52ID:dsTGaCdp
まあたまたま関白職が候補こじれているんでこれ幸いにと割り込んだだけだからな。
秀吉にしてみれば利用できる権威のある官職ならどれでも良かった。
0637人間七七四年2014/10/26(日) 14:48:54.64ID:wwHTMm6I
そもそも秀吉が与えられる予定だった右大臣が殺された信長の官職だから
嫌だと言ったのが関白相論の始まりで…
0638人間七七四年2014/10/27(月) 02:11:20.06ID:ZSzM1zEy
そうなると、信長横死の遠因はやはり秀吉も絡んでたのかって話になる
0639人間七七四年2014/10/27(月) 02:13:47.12ID:ZSzM1zEy
そう避けると信長横死の遠因が秀吉になるなあ
0640人間七七四年2014/10/27(月) 08:20:46.32ID:9imJdH9+
秀秋は筑前筑後の旗頭として立花や秀包を与力にしていた。
その秀秋騎下を輝元が自由に動かせる時点で、
小早川はもう毛利とは関係ないと言い逃れが出来ないんだよな。

相変わらず毛利厨見苦しいなw
大津城攻撃の実例を見る限り輝元は小早川を自由に指図できる指導的立場にいたのは明らかじゃんw
輝元は毛利元康を指揮官に、秀秋軍団を構成する
小早川秀包、立花宗茂、筑紫広門らを抽出して東軍を攻撃するために派兵してるのは事実なんだからw
0641人間七七四年2014/10/27(月) 08:26:20.21ID:urzGasDo
秀吉が死んだ時点で与力とかそういうの意味ないよ
0642人間七七四年2014/10/27(月) 17:57:42.72ID:cRRPOH6S
>>641
んなわけねーだろアホか
0643人間七七四年2014/10/27(月) 18:12:02.69ID:+GEva5ce
そもそも秀秋は一旦改易されてるから、秀吉死後に筑前に戻ったとはいえ指揮権まで回復したわけじゃない。
0644人間七七四年2014/10/27(月) 18:22:21.60ID:CQmNXr1u
関ヶ原の戦いで毛利って一族や与力含めて何万人動員してる?

大阪城の毛利輝元本体。松尾山の小早川秀秋。南宮山の毛利秀元隊・安国寺恵瓊・吉川広家。大津城攻めの毛利元康隊。後は、九州に毛利の援助で上陸した大友義統。

家康並の動員兵力だよね?
0645人間七七四年2014/10/27(月) 18:30:47.87ID:+GEva5ce
>>644
小早川秀秋を毛利に入れるのは無理があるし、毛利も宇喜多と同じく畿内の牢人集めてなんとか軍勢整えていたのが実情と考えられる。
0646人間七七四年2014/10/27(月) 19:11:53.43ID:1tmX6ZDS
>>644
毛利は徳川並みの動員能力はある。
朝鮮の時に、毛利は6万出すと豪語した。
最終的には3万だったけどね。他の大名との兼ね合いもあるし。
0647人間七七四年2014/10/27(月) 19:35:23.04ID:cRRPOH6S
指揮権もなにも秀吉の死後に
秀吉の遺言を奉じた五大老により
秀秋は筑前筑後を安堵されている。
明らかに立花らは秀秋の騎下である。
それを輝元が自由に兵力抽出できるのは、
毛利が小早川を騎下にしている証拠。
0648人間七七四年2014/10/27(月) 20:34:41.50ID:A1CpRZ1G
>>644
四国への出兵分が無い
0649人間七七四年2014/10/27(月) 20:57:40.60ID:1tmX6ZDS
おそらく、戦場に輝元が居て、東軍と戦っていたら
小早川勢は西軍と戦えなかっただろう。

主家の毛利に弓引くのは、仮に金吾がそうしたくても
兵達は言う事聞かなかったろうから。
0650人間七七四年2014/10/27(月) 20:59:40.35ID:EvwbFl2W
秀秋の騎下とか馬鹿じゃねーのかこいつ
0651人間七七四年2014/10/27(月) 21:10:48.84ID:pjMk8XIE
ゲームで秀包が秀秋の部下になってるから
そう思ってるんじゃない馬鹿だから
0652人間七七四年2014/10/27(月) 21:43:59.51ID:ETr++N1P
宍戸の娘が関ヶ原前に離縁されているのは何だったのかという
0653人間七七四年2014/10/28(火) 07:49:56.02ID:PYke0s7E
そもそも与力の意味を理解してないな
与力って寄り親の子分じゃなくてむしろお目付け役だぞ。
0654人間七七四年2014/10/28(火) 07:55:23.02ID:PYke0s7E
>>649
当時の小早川で実験持ってたのは林とかなんだが。
つうか小早川家は昔からの家臣は隆景存命中に秀秋への嫌がらせで
他へ引き上げられててほとんど秀秋の代からの家臣ばっかなんだが。
0655人間七七四年2014/10/28(火) 08:10:44.17ID:TpcFQzwU
柴田勝家の与力だった前田利家や佐々成政を
秀吉が勝手に指揮下に加えてしまうなんてことはできないし、
前田利家や佐々成政本人らもそんな命令に従うわけもない。
それが軍事指揮権明確化によるピラミッド構造秩序。
0656人間七七四年2014/10/28(火) 08:14:43.89ID:PYke0s7E
勝家の与力だった利家は賤ヶ岳で吉川もかくやというばかりの日和見決め込んだし
光秀の与力だった細川も筒井も光秀にはつかなかったし
自分を与力に付けた人間の存在あってこその指揮系統だから
そもそも先に言われてるように秀秋が北ノ庄に移った時点で指揮系統は一度断絶してるし
0657人間七七四年2014/10/28(火) 08:48:17.44ID:a6h2uqDr
小早川は血縁で結ばれているから同じにはできないな
0658人間七七四年2014/10/28(火) 13:39:57.67ID:PYke0s7E
それいうなら細川や筒井も明智と縁戚でしたが?
0659人間七七四年2014/10/28(火) 14:18:11.94ID:3KVLRVYs
>>657
どんな場合でも何かしら状況は違うんだから同じにできないと思うよ
個別に調べないと
0660人間七七四年2014/10/28(火) 15:29:44.21ID:TpcFQzwU
秀秋は北ノ庄に移ってないからwww
0661人間七七四年2014/10/28(火) 16:30:58.53ID:PYke0s7E
小早川の家臣団は隆景が自分の隠居地に引きつれていったのと
越前転封の際、三成に吸収されたのとで元からの小早川の家臣はほとんど残ってない。
名前だけ小早川状態で家中仕切ってるのは秀秋に秀吉がつけた奴ら。
0662人間七七四年2014/10/28(火) 16:48:03.42ID:PYke0s7E
やはりID:TpcFQzwUは菅沼くんだったか
0663人間七七四年2014/10/28(火) 19:41:15.15ID:nYNrVF8K
>>661
デタラメばっか吐くなよ。

古代氏族系図集成 松野連 系図
呉王夫差公子慶父忌後裔 牛慈→長堤(筑紫国夜須郡松峡野住)→大野→広石→津万呂(ここで松野連姓)→
(かなり長く面倒だから24代の名前は省略)→久親→種眞→(三代略)→主馬/仕小早川隆景※3
慶父忌以後、牛慈以前の系図は「百家系図稿」に卑弥呼や倭王を経る系図を参考史料に掲げている。

※3金吾中納言小早川秀秋の重臣に松野主馬首正重がおり、1万石を領していたが、関ヶ原役時に主人を諫めると言われる。

松野主馬の他にも三原へ行く隆景と別れて秀秋についていった村上景親 清水景治 日野景幸ら
隆景から景の名までもらっているほど信任されている重臣団がみえる。
秀秋家臣団はほぼ隆景遺臣。


慶長3年5/22 三成書状において秀秋の越前へ移動するが三成が筑前筑後の拝領を断ったため
蔵入地になるので代官を派遣するという内容が書かれている。

慶長3年8/18 秀吉死去という非常時により転封準備作業は中止。

慶長4年2/5 五大老連名で秀秋の筑前筑後の領地のことは太閤様の仰置きの如く全領地を安堵している。

秀吉の命で事実上の秀秋お目付け役兼補佐役の検地内政のプロの豊臣系家臣の山口宗永は
功績を評価され加賀大聖寺城主に抜擢され転封、隆景系家臣団が残留。
秀秋が実際に越前へ移封された事実はない。また三成や毛利が減転封予定だった秀秋家臣団の一部を召抱える話もあったが
転封話自体が消えているので、人の移動はほとんどないだろう。
0664人間七七四年2014/10/28(火) 21:48:09.64ID:PYke0s7E
菅沼乙
0665人間七七四年2014/10/28(火) 22:32:43.02ID:ncIGXWB/
>>646
レスありがとうございます。やはり、家康に近い動員兵力を擁してたから西軍の総大将にさせられたんですね。

四国にも、村上水軍が加藤義嘉の留守を襲撃してますね。

毛利はあちこち戦線拡大して、領土安堵は確かにむしがよすぎますね。

吉川広家は、武断派と仲良かったし唐入りの時も石田三成との関係も悪かったので東軍に内通したんだろうけど、それは毛利輝元は知っていたんですかね?
0666人間七七四年2014/10/29(水) 10:42:13.55ID:oTGGa87l
想像でしかもの言えないけどわりとあっさり大阪城から退去した当たり
ある程度は根回し進んでたんじゃないかねえ
0667人間七七四年2014/10/29(水) 11:05:44.64ID:aO3uuYMM
内通というか連絡を取り合っていた位は把握していたかと
そもそも家康のお陰で独立できた秀元と最初から家康寄りの広家を送った時点で、
輝元も家康とある時点で手仕舞いにする気だったかと

もっとも恵瓊を加えたのを見ると、例のごとくどっち付かずの風見鶏の気もするけど
0668人間七七四年2014/10/29(水) 18:03:08.68ID:PCC+ElrD
>>666
関が原後に、大坂城を明け渡したら全領地安堵で輝元の罪は問わないという破格の条件で見事にだまされたから。
輝元本人はまだ家康から朱印状もらえないのか?ってすげー不安に包まれまくりながら、
大坂城内の降伏説得を続け、明け渡す寸前まで家康本人の約束を守る書状を欲しがったが、
家康はそんなもん発給する気はないから、
完全に詐欺られる予感がありながら、そんなはずは…って美人局に騙されたようなもん。
大坂城を手に入れた家康は早速、首謀者毛利は改易し輝元の罪を問うと宣言。
最終的に島津征伐先陣として輝元自ら最前線出陣し、空の毛利領の城は家康にすべて明け渡す。
それと輝元強制出家し家督譲渡と二ヶ国安堵にしてもらったが、
広家を毛利家中は家を傾けた奸臣クズ呼ばわりしていた。
上杉や佐竹や島津が強制家督譲渡の刑にされていない点からみても毛利はハイレベルのバカ。
0669人間七七四年2014/10/29(水) 18:12:08.54ID:JcKcH8Ov
ろくな家来が居なかったからだろ。
叔父に頼りすぎたな。
0670人間七七四年2014/10/29(水) 18:35:49.70ID:KGer5jbZ
>>668
近衛前久が輝元の大阪城撤去の前に『安堵って言ってるけど実際は大幅厳封で合意したらしい』って報告を息子に送って
いるんだけど
0671人間七七四年2014/10/29(水) 19:17:02.37ID:oTGGa87l
ぶっちゃけあのまま大阪城にこもってたら輝元は暗殺されてた。
無理やりに付き合わされて鬱憤の溜まった大阪城の豊臣家臣団が
輝元の首を家康への手土産にしかねない状況。
0672人間七七四年2014/10/29(水) 21:36:08.81ID:PCC+ElrD
>>670
それは関が原の戦いが終わって、佐和山も落城し、
家康が大軍で道が狭く渋滞して守山から大津へ移動中の9/20時点の情報でしょ。
半分領地安堵を条件に輝元がキヅ川を取ったから安国寺がキヅから逃亡とか
明らかに誤情報にしかおもえないし。
好意的解釈をしたとしても輝元ではなく、現地にいた広家が安国寺憎さに
輝元を裏切って勝手に半分領地安堵の約束を取り付けておいて
大坂城明け渡しをするように広家が迫った時にも輝元に
家康が領地安堵してくれたと騙していたことになる。
0673人間七七四年2014/10/29(水) 21:50:46.77ID:KGer5jbZ
>>672
じゃあ防長転封の後も輝元が吉川広家を重く用いていた事実は何なんだ?
つか輝元を甘く見過ぎだよお前。輝元はガキじゃないんだぞ?ツンボ座敷にいたとでも思ってるのかよ。
輝元も解った上で芝居してるんだよ。
0674人間七七四年2014/10/29(水) 22:03:12.38ID:IDyXuvE6
お前が家康に騙されたせいでこの有り様だよ!って広家を滅ぼしたりしたら自分が惨めすぎるだろう>輝元
0675人間七七四年2014/10/29(水) 22:09:36.61ID:PCC+ElrD
輝元の広家に対する評価は
歳いってるのにすぐケンカする小人で
バカって言ってるくらい最低じゃん。

だいたい関が原後の広家は毛利家内でハブられて非難された挙句、
岩国の博物館で実物が見られる広家の超長文の言い訳書状が出されたくらい冷遇されてる。
広家が黒田長政らに騙されたものの二ヶ国安堵もらえた家康への伝手や指南としての
窓口価値があったから使ってただけだし。
0676人間七七四年2014/10/29(水) 22:12:06.94ID:oTGGa87l
広家だけじゃなく広家と共謀して徳川と内通してた福原も重用されてるからねえ。
0677人間七七四年2014/10/29(水) 22:17:13.72ID:PCC+ElrD
そもそも輝元がわかってやってたなら、
東軍の大津城にわざわざ秀秋軍団から兵を抽出して
輝元が手元に残していた最後の兵力と糾合し毛利元康を総大将に
京極攻めをやるバカはやらないわな。
バカ輝元と違い京極高次を家康は高く評価しとるからな。
0678人間七七四年2014/10/29(水) 22:48:36.70ID:7gipa9jX
輝元は馬鹿とかそんな次元ではなく明らかな精神分裂病だった
ある日突然やる気を出したかと思うと次の瞬間にはやる気がなくなるなど支離滅裂な行動しかできず
輝元がいつ何をするかは重臣たちにも全くわからない状態だった
凡君とか暗君とか以前に完全な病気といっていい
むしろ吉川や福原たちは重症の精神病患者を抱えながらよくぞ忠義を尽くして毛利を存続させたと称えていい
0679人間七七四年2014/10/29(水) 23:02:12.17ID:AIBd+0sG
まるで菅沼遼太みたいだな
0680人間七七四年2014/10/29(水) 23:26:51.47ID:PCC+ElrD
で、その広家や福原の書状は光成氏が後からアリバイ偽造した
偽書状だって指摘してるわけだがw
0681人間七七四年2014/10/29(水) 23:31:59.09ID:oTGGa87l
菅沼くんのトンデモ史観に存在しない秀秋軍団なるものの捏造も追加しとこう
0682人間七七四年2014/10/30(木) 06:15:31.64ID:gQOwjDV4
>>680
それまともな研究者は誰一人相手にしてないんだがなあ
0683人間七七四年2014/10/30(木) 08:01:51.76ID:+XmS87D6
>>682
アホかw
ふつうに関が原関係の論文を書く時に
光成氏の本に言及して
その部分の説明を省いたりしてるわけだがw
0684人間七七四年2014/10/30(木) 08:47:54.99ID:BJOQdbxN
>>672
指摘すると「キヅ川」は「吉川」つまり広家のことね
後、恵瓊が逃亡したのは吉川が捕らえようとしたから
0685人間七七四年2014/10/30(木) 09:00:51.72ID:ieUhdWkQ
父隆元が長生きしてれば馬鹿に成長はしなかったのに
0686人間七七四年2014/10/30(木) 09:20:44.04ID:terQDMew
親父の隆元も元就からアイツは人が良すぎてダメだとダメ出しされてるからなあ
内政手腕は優秀だったから平時なら名君だろうけど
0687人間七七四年2014/10/30(木) 12:18:11.74ID:e7vgRpCQ
>>682
俺は真面目に菅沼くんに自説をまとめた本を書いて出版してもらいたいと思っている。
日本の研究者の先生方々はあれ読んでどう思うかな?
0688人間七七四年2014/10/30(木) 15:04:11.52ID:8ixn7l7X
紙がもったいないと思う
0689人間七七四年2014/10/30(木) 15:44:38.63ID:BJOQdbxN
白峰旬の関ヶ原合戦本も結構同レベルかと
0690人間七七四年2014/10/30(木) 18:44:18.75ID:Aoyj2hvL
西軍の正統論にページをさきすぎとは思うがよくできてると思うがね
まあゆえに東軍好きは気にくわないか
0691人間七七四年2014/10/30(木) 19:55:06.20ID:rDhteaRU
関ヶ原で小早川の裏切りと毛利の傍観不戦という、一か八かの丁半博打頼み以外無策の家康に、小牧長久手で負けた秀吉。
所詮秀吉の取り得は、大軍を要する位攻めだけ。
それと、ただ城を取り囲んで待つだけの持久戦。
0692人間七七四年2014/10/30(木) 20:46:14.24ID:BJOQdbxN
>>690
その西軍正当論前提に話を組み立てているから、史料の読み方に齟齬を来している
後は軍記は役立たず、捏造という素人が良くする主張もアレかと
0693人間七七四年2014/10/30(木) 22:53:09.78ID:terQDMew
>>691
その大軍を用意できるか否かがそのまま大名の価値なんだけどね。
どんだけ戦強くても寡兵しか用意できないやつはいつまでたっても三流。
0694真田昌幸2014/10/31(金) 01:32:35.55ID:8tskC72A
>>693
俺の事かい?
0695人間七七四年2014/10/31(金) 07:04:14.66ID:oRwhb4av
うん。君の倍以上のの領地もらってそれを明治まで存続させた長男の方がずっと優秀。
0696人間七七四年2014/10/31(金) 20:45:21.03ID:nKZmd/yi
>>693
秀吉の大軍の全ては、信長の遺産。秀吉は信長が一から増殖させた大軍勢をネコババしただけの盗人。
そもそも秀吉なんて、信長が拾い上げてくれなきゃ、一生うだつの上がらない小物。
0697人間七七四年2014/10/31(金) 20:47:39.93ID:tZ7gfyc1
>>691
西軍に無断で松尾山を占拠した小早川はその時点で東軍と言えるし
毛利とは前日の時点で不戦の協定をしてるんだから
一か八かの博打頼みとは言えないんじゃない
むしろ三成たちの方がこれらの調略されている者たちを当てにしてるほうが
博打頼みじゃない
0698人間七七四年2014/10/31(金) 21:06:23.45ID:nKZmd/yi
家康は必死に西軍切り崩しの裏工作に精を出していたが、戦場で100%確実に履行される保証はどこにもない。
いつどんなきっかけで、戦局の流れは変わるか、分かったもんじゃない。
もし東軍の劣勢が明白になってたら、不戦傍観を決め込んでた吉川広家は、間違いなく方針転換して東軍攻撃を開始していた。
でないと、戦後の己の立場が無くなるからだ。
秀秋に並みの武将レベルの気概や矜持があったなら、家康は関ヶ原で惨敗して、ジ・エンド。
0699人間七七四年2014/10/31(金) 21:14:53.25ID:oRwhb4av
だから関ヶ原当時小早川を仕切ってたのは稲葉とかだし。
数えで19の小僧の矜持とか影響ないから。
0700人間七七四年2014/10/31(金) 21:30:57.30ID:mf3/El64
>>695
なんで親を捨てて徳川に付いた訳でもなく幕府から代々安泰の保証貰った訳でもないのをずっと優秀とか言うの?
0701人間七七四年2014/10/31(金) 21:33:49.52ID:nKZmd/yi
19の小僧でも、秀秋が伊達政宗レベルの器だったなら、120%西軍側として、東軍を攻撃していた。
世紀の裏切りで後世に汚名を残し、万人の軽蔑の対象となるより、遥かにマシ。
が、秀秋は馬鹿だから、そんな利害計算はできん。
0702人間七七四年2014/10/31(金) 21:45:14.91ID:oRwhb4av
伊達政宗も結局は先祖伝来の土地を失陥して
最終的に相続時から土地減らしたからそうたいしたもんじゃねえぞ
関ヶ原のときなんか変な色気だしたせいで刈田一郡しかもらえんかったし
0703人間七七四年2014/10/31(金) 22:17:10.68ID:oRwhb4av
伊達政宗の生涯

売らんでもいい喧嘩を売りまくって袋叩きにあいなんとか生き残って一時的に領土拡大
→その切り取った領土はことごとく召し上げられ費やした戦費と犠牲にした人命の分まる損である

会津取られた腹いせに蒲生に嫌がらせ工作しまくる
→先祖伝来の伊達郡や生まれ故郷の米沢をボッシュート食らう

関ヶ原のドサクサに紛れて領土拡大しようと上杉とはろくに戦わず同じ東軍側の南部領にちょっかいかける
→そのせいで加増をふいにする。占領した刈田一郡の領有だけ承認されたのみ

まあ、あんだけやらかしにやらかしまくってもしぶとく生き残ったのはある意味有能なんだろうけどなあ
0704人間七七四年2014/10/31(金) 22:25:15.81ID:nKZmd/yi
伊達政宗の不運は、既に中央に存在していた、国内に敵無しの天下統一確実な大勢力。
伊達政宗の全盛期が信長勃興前だったなら、天下は無理でも、東日本の王にはなってた筈。
なんせ、伊達の領土は島津同様、立地が悪過ぎる。
0705人間七七四年2014/10/31(金) 22:31:09.87ID:oRwhb4av
政宗が領土拡大できたのは伊達氏内部の内輪揉めを輝宗の代でおおかた片づけて
逆に対抗の芦名とかが内部分裂引き起こしてたからだよ
政宗が十年はやく生まれてたらその十年を内乱に費やしただけ
ところ構わず喧嘩売りまくる政宗だったらその時点で潰れてた可能性も高い
0706人間七七四年2014/10/31(金) 22:45:54.72ID:tZ7gfyc1
>>698
家康は必死に西軍切り崩しの裏工作に精を出していて
三成は東軍の切り崩しをしてもなければ
味方の離反に関しても小早川以外は注意もしていない
こんなんでいつどんなきっかけで、戦局の流れは変わるかといわれても
そのきっかけがないわけじゃない

>>701
伊達政宗レベルの器だったら秀次みたく秀吉に殺されてるんじゃない
0707人間七七四年2014/11/01(土) 00:15:14.40ID:6sl7SpID
政宗は信長のコピーだからクズ
0708人間七七四年2014/11/01(土) 00:46:50.35ID:paQ7Fnmx
>東軍の切り崩し

やろうとはしてただろうけど宮部長房なんて糞小物しかつれなかった
そんぐらい人望が無かった
西軍自体、毛利の威にものを言わせて無理やり編成したもんだからな
0709人間七七四年2014/11/01(土) 02:18:31.69ID:1xk5uMPo
ID:oRwhb4av
知名度コンプ丸出しやな
お前が持ち上げてる武将が政宗の立場やったら何にも出来ずにつけ込まれて滅亡してたやろ
前田島津伊達細川黒田…外様大名で明治まで存続させたからいいとかいう信者がいるの一度改易された立花や丹羽に追い越される程度のそいつだけやで
0710人間七七四年2014/11/01(土) 07:57:37.92ID:paQ7Fnmx
菅沼くんっていつから伊達信者になったの?
0711人間七七四年2014/11/01(土) 08:19:55.90ID:Fi50fv2q
>>706
三成は東軍切り崩し工作として、東軍諸将の妻子を人質にしようとしていたのがな。
逃げられたり、細川ガラシャの悲劇の死とかあって、成功はしなかったが。

味方の離反は、結局秀秋だけ。他は、不戦傍観止まり。
が、それも秀秋が東軍を攻撃していたなら、どーでもいい話。

結局、関ヶ原の勝敗の帰趨は、要衝の松尾山に陣取ってた秀秋の動向次第だった訳で、
早い話、三成に運が無く、家康に運があっただけ。

秀次粛清は、秀次個人の器の問題では無く、秀頼誕生に拠る秀吉の疑心暗鬼と、淀・秀吉側近衆と秀次側近衆の権力闘争の帰結。
それに秀秋より遥かにマシなレベルの秀家は秀吉に重用されていたので、秀秋が反秀吉的言動を示さない限り、伊達政宗レベルの器でも、失脚はしない。
0712人間七七四年2014/11/01(土) 08:27:19.75ID:paQ7Fnmx
>味方の離反は、結局秀秋だけ

一緒に寝返った脇坂とかいるんだけど?
大垣城にいた奴らなんて敗色濃厚と見るや味方の首刎ねて投降したし。
そもそも当初は西軍だった美濃の諸将がボロボロと東軍に鞍替えしたから美濃を速攻で落とされたんだし。
鍋島とか息子に途中で戦線離脱するように指示して東軍に米送って生き残り工作かけてたし。
本当に喋れば喋る程にボロが出るなあ。菅沼くんは。
0713人間七七四年2014/11/01(土) 08:45:20.94ID:Fi50fv2q
朽木・脇坂・赤座・小川等は、秀秋の裏切りに引きずられて変心しただけ。
コイツ等の主体的意思で西軍攻撃を開始したのではないのは、子供でも知っているのだが。
秀秋が東軍を攻撃していれば、西軍の枝葉末節な齟齬は全て帳消し。
東軍は秀忠軍の遅参という齟齬があったが、秀秋の裏切りで帳消しとなったしな。
戦局に影響の無い瑣末な事例を取り上げても無意味。
0714人間七七四年2014/11/01(土) 08:50:38.38ID:paQ7Fnmx
脇坂は元から裏切ること確約していたのだが
だから所領安堵された
本当にドサクサだった赤座とかは改易された
0715人間七七四年2014/11/01(土) 08:56:05.41ID:paQ7Fnmx
だいたい小早川裏切る前から徳川軍3万が温存された状態で
西軍は石田隊が潰れかけてる状態だったわけだが
そんなのを山の上から見てて東軍つっこむ判断できる奴がいたらただの馬鹿だろ。
0716人間七七四年2014/11/01(土) 08:56:17.99ID:Fi50fv2q
朽木・脇坂・赤座・小川等は秀秋が東軍を攻撃していたなら、間違いなく秀秋に続いて東軍攻撃に参戦していた。
事前の約束なんぞ、戦局次第で紙くずだ。
脇坂単独で西軍攻撃を開始できる筈もないのは、痴呆症老人でも理解できる話。
0717人間七七四年2014/11/01(土) 09:00:53.21ID:paQ7Fnmx
うん。その戦局が西軍だめポだったわけだが。
真面目に戦ってるのは1/3程度でそれさえも潰れかけてて
東軍は半分近く手つかずのまま。
いったいどれだけの「たら」「れば」を重ねたらいいんだろうね。
0718人間七七四年2014/11/01(土) 09:01:33.94ID:bEcMA2Me
三成は挙兵に参加してないし、
大坂城にもいなかったから
三成が人質とかガラシャがとか関係ないから。
三成参加はあくまでも風聞レベルだし
0719人間七七四年2014/11/01(土) 09:12:07.95ID:Fi50fv2q
真面目に戦ってるのは1/3程度の西軍に押され放しの劣勢だった惰弱な東軍。
で、家康は焦りまくって爪を噛みまくり、戦の真っ最中の黒田長政に秀秋の裏切り確認の使者を派遣して、味方の戦妨害の愚。
東軍は小早川軍への対応は全くの手薄で、左翼を小早川軍に突かれてたら、瞬殺。
で、家康は三方ヶ原の悪夢再びで、脱糞しながら戦場離脱し、武将生命は終わりとなり、零落の一途。
この程度の家康に小牧長久手で負けた秀吉って一体・・・
0720人間七七四年2014/11/01(土) 10:00:57.18ID:Ta/gFCyO
>>719
東軍劣勢も西軍即時崩壊という極論を主張しないと、取り上げられない
という史学の問題点
0721人間七七四年2014/11/01(土) 10:32:43.56ID:Be7Dz1CP
家康が脱糞したと思っている菅沼くんって小説レベルの知識しかないんだね
0722人間七七四年2014/11/01(土) 11:13:00.43ID:paQ7Fnmx
法螺吹き彦左衛門の愚痴日記を聖典とあがめているような人だからな。
0723人間七七四年2014/11/01(土) 11:59:05.68ID:smYVRxFl
渡邊大門『謎とき東北の関ヶ原』(光文社、2014年)

白峰旬『関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)
0724人間七七四年2014/11/01(土) 16:16:33.79ID:469S/PDk
家康公の糞って臭そうだな・・・
0725人間七七四年2014/11/01(土) 16:24:50.04ID:paQ7Fnmx
臭くない糞とかあんの?
0726人間七七四年2014/11/01(土) 18:03:29.51ID:tezlxRE+
島津が主力を出していたら黒田が天下をとれていたと書かれた手紙
宛先不明だけど誰にへの手紙だったんだろうね
0727人間七七四年2014/11/01(土) 18:05:08.03ID:MmfoSW+L
後世の偽造に決まってるだろそんなものアホらしい
0728人間七七四年2014/11/01(土) 18:10:26.36ID:tezlxRE+
>>727
後世の偽造も糞もあるか
俺が今考えたんだ
0729人間七七四年2014/11/01(土) 18:17:19.36ID:MmfoSW+L
>>728
だから偽造だって言ってるだろアホが。
0730人間七七四年2014/11/01(土) 18:45:38.01ID:tezlxRE+
>>729
悔しいのう(笑)
0731人間七七四年2014/11/01(土) 19:28:17.24ID:6mKwQTDk
つまんね
0732人間七七四年2014/11/03(月) 11:37:44.21ID:xc0GGWt1
>>718
三成が途中から西軍に入ったせいで、三成による謀反では?という疑いをかけられて西軍の士気は大きく下がってしまった
三成さえ入らなければ西軍に勝機はあったのに三成のせいで敗北に追い込まれたといっていい
0733人間七七四年2014/11/03(月) 15:53:57.72ID:sbcQJ4tc
まあ、三成が馬鹿ってことは確かだな。
大津城攻めに西軍最強の部隊を当ててる状況で関が原に釣り出されるって時点で終わってる。
あくまで大垣城を拠点にして佐和山城攻めに向かう東軍を追い打ちするか狭い地点で長蛇の陣形になってる
東軍を横撃するなりすれば良いのに一大開戦に持ち込むなんて大馬鹿かますんだからw
0734人間七七四年2014/11/03(月) 17:57:11.34ID:ctSgWP8W
大垣で籠城してタイミング図っているうちに、
福島や黒田らに立花や秀包がフルボッコされ、
大垣には秀忠軍がやってきてフルボッコされるだけだけどな。
そもそも大垣城敵前通過は、家康が尊敬した信玄の三方ヶ原の戦いの再現狙いだからな。
三成はよく見抜いたよ。

要するに関が原で毛利軍が横撃すれば、秀秋も呼応し、
もっとも軽く楽勝できた話だからwww
0735人間七七四年2014/11/03(月) 19:24:08.51ID:5o+ZYBds
家康は徳川譜代軍団を関ヶ原で消耗させたくなかったので
秀忠をわざと遅参させたという説があるみたいだけどどうなの?
小早川が裏切らなかったらとか立花軍が関ヶ原に到着したらとか
考えるとリスキーすぎるよね。
0736人間七七四年2014/11/03(月) 19:43:15.44ID:kjKdqvYr
関が原の戦いで西軍は一度も攻勢をかけられず、最初から自陣を何とか守るという防戦一方だった。
西軍には最初から勝ち目はなかった。
0737人間七七四年2014/11/03(月) 19:57:57.73ID:+gQ2AS0e
>>732
日本が東西に分かれた時に、じゃあ石田はどっちに付くんだ?ってなるだろ。
東軍から誘われたかどうか知らんが、西軍からは必ず誘いがきただろうw
0738人間七七四年2014/11/03(月) 20:18:54.90ID:+gQ2AS0e
>>735
遅参がわざとって事は無い。
秀忠の面目が立たないし、秀忠は戦後に怒った家康との面会すら出来なかった。
大体、一世一代の大合戦に三万八千の自軍を温存しておく理由が無い。
0739人間七七四年2014/11/03(月) 20:19:58.33ID:sbcQJ4tc
>>734
まあ、そうかもしれないな。
でも西軍では、司令官クラスが明石一人しかいない歴戦の宇喜多や中堅どころの小西、島や蒲生を擁しているとは言え
戦下手の石田、寡兵過ぎる島津?(実際は5000もいたというが本当?)よりは精強だと思うがね。
朝鮮で小早川秀包、立花宗茂の義兄弟コンビ+宗茂実弟とその姑の筑紫さんのカルテットは一緒に軍事行動をしてきた
連中だから戦場での連携は抜群だし、大津攻めしないで大垣に入城できてれば、そこそこ戦えると思えるがね。
0740人間七七四年2014/11/03(月) 20:34:02.59ID:k5XJnO21
>>735
あれは完全に家康の失態。秀忠じゃなくて家康のな
福島達が予想外の快進撃でこのままじゃ徳川いらなくね?になりかねない状況だったんで
焦って飛び出して情報伝達ミスで徳川は半分の戦力で決戦に挑む羽目になった
0741人間七七四年2014/11/03(月) 21:56:50.22ID:5o+ZYBds
>>738
>>740
レスさんくすです。
やっぱりわざと遅参というわけじゃないんですね。
あんだけ兵力を削いでやったのに敗軍になってしまった真田は気の毒ですね。
0742人間七七四年2014/11/03(月) 22:12:55.04ID:k5XJnO21
実は秀忠遅参は真田の影響はそれほどでもない。
まったく関係なかったとまではいかないけど。
当初、中山道を着実に押さえていく予定だったのが
先述の通り福島の快進撃で早期の出陣を余儀なくされて
それで急遽の方針転換。そのための伝令が間に合わなかったというオチ。
家康も当初は自分の落ち度棚に上げて遅れてきた秀忠に激怒したけど
榊原康正に「それは殿が悪い」と叱られてしょうがなく折れた。
0743人間七七四年2014/11/03(月) 22:13:30.89ID:Li6CjO2m
でも伝令が遅れた理由って大雨による増水じゃなかったっけ
0744人間七七四年2014/11/04(火) 04:13:19.80ID:wuwlHETB
>>741
真田はよくやったし気の毒だが
兵を分けてた徳川軍は、家康が着てないって前提があったから毛利も本隊を温存して
輝元は出なかった。

仮に兵を分けないで最初から家康が福島らと一緒に着てたら毛利も総軍で来てたから
どっちが良かったかは微妙かな。西軍的には、そっちの方が良かったかもしれん。
0745人間七七四年2014/11/04(火) 14:34:44.44ID:nyrbtFZY
石田が自力で出来たのは毛利小早川は味方でないものとして動くことだったのにどうしてあいつらがこう動かないから負けたと考える奴がいるのだろうか
0746人間七七四年2014/11/04(火) 17:56:35.52ID:Dro4azZ6
毛利・小早川を味方にしないで動くとするって意味不明
0747人間七七四年2014/11/04(火) 22:12:16.68ID:FqciyUDG
上杉と関ヶ原は全く別物の戦いとする説がある。

真田一族―家康が恐れた最強軍団 相川 司 (著)

タイトルは出版社がつけるものなので無視するとして、内容は一度読んでおくと知識の幅が大きく広がる。
0748人間七七四年2014/11/04(火) 22:12:17.33ID:XOQXHc/k
毛利小早川をあてにせず、関ヶ原で陣構え出来たのは石田の計算済み言う意味
ただ、金吾が裏切るまでは計算してなかった
0749人間七七四年2014/11/04(火) 22:25:36.16ID:Wn+7FGiB
いや小早川が裏切るのは半ば織り込みずみだったろ
ついでに裏切った脇坂たちに横を突かれたのがダメ押しになったんで
0750人間七七四年2014/11/04(火) 23:29:16.27ID:FqciyUDG
ついで連中はどーでもいいレヴェルじゃない?
ついで達が固まっても金吾をとめることは全然できないし
0751人間七七四年2014/11/04(火) 23:41:24.39ID:Wn+7FGiB
備えてた大谷隊が横からついで連中に突かれて壊滅しちゃったのよ。
その大谷隊だけで小早川はかなりの被害だしてるから案外バカにならんかったついで連中。
0752人間七七四年2014/11/05(水) 00:05:50.08ID:nO+G1E6Y
関ヶ原がもっと長期化してたら伊達が奥州関東制圧してその勢いで天下取ってたのに
半日で終わるんだもんな
西軍はマジで使えねー雑魚すぎ
0753人間七七四年2014/11/05(水) 00:50:24.14ID:q3jykZk0
家康もバカにならん兵数だから長期化してたら兵糧切れて終わりだったのにな
三成の戦略ミス
0754人間七七四年2014/11/05(水) 00:51:36.36ID:wG/NflWx
釣りにしてもつまらん
0755人間七七四年2014/11/05(水) 01:14:40.25ID:OamSjSk9
>>751
金吾の采配なんてどうせグダグダだから大谷軍に押し返されても仕方ないよな。
ついで連中の攻撃のほうがよっぽど威力があったんじゃないだろうか。
0756人間七七四年2014/11/05(水) 01:25:27.36ID:iXDQLMEh
>>753
兵站のことよく判らないんだけど
関ヶ原での東軍の兵量って全部家康持ちなの?
それでも各家で持ち回り?
0757人間七七四年2014/11/05(水) 01:47:57.75ID:iXDQLMEh
ごめん自己解決
鍋島直茂が自主的に用意したり
東海道の諸将が城ごと家康に渡したりしてたわ
0758人間七七四年2014/11/05(水) 04:16:21.74ID:8J2y5KwJ
長期戦も何も秀忠軍が来たら終わりだろ
0759人間七七四年2014/11/05(水) 07:53:38.58ID:8hzlp7Qg
長期戦だったとしよう 東からは秀忠30000ちょい
西からは秀頼出馬で士気高揚&宗茂らが到着 その間に金吾を暗殺成就出来れば西の勝ち
0760人間七七四年2014/11/05(水) 08:01:35.49ID:gYc7sfxb
秀頼出馬なんて毛ほどの影響もないだろう
0761人間七七四年2014/11/05(水) 08:09:19.52ID:RXAUQh1Y
輝元はともかく、秀頼は出てこないだろ。
豊軍は基本、家康の方だし。
0762人間七七四年2014/11/05(水) 08:39:17.12ID:aver7SIU
長期戦で兵糧持たなくなるのは西軍の方。
西国大名は朝鮮のダメージが抜けきってない。
東軍の主力は無傷の関東・東海道の領国から調達できる。
西軍も東海道筋を速攻で抑えることで東軍を根なし草にしようと図ってたんだろうけど
実際は東海道筋の諸城が徳川の統治下に置かれるだけだったという。
0763人間七七四年2014/11/05(水) 08:44:42.15ID:aver7SIU
とにもかくにも秀頼周辺から三成は嫌われてたからな。
淀の乳兄弟の大野治長も関ヶ原の時は東軍だし。
淀の叔父で育ての親みたいなもんな織田長益も東軍。
淀の妹婿は秀忠と大津城に立てこもった京極だし。
淀に近しい人間はたいがい関ヶ原のときは東軍サイド。
むしろ西軍サイドだったのは北政所周辺。
0764人間七七四年2014/11/05(水) 10:30:19.35ID:w2JfdybS
>>759
秀忠軍38000な。これが、家康の精鋭部隊。着陣して3日もすれば英気も甦ってもはや西軍に立花宗茂が来ても東軍が勝つよ。
0765人間七七四年2014/11/05(水) 10:49:33.48ID:9myFZbfN
西軍こそ官軍となったが、それが諸将にばれると東軍が瓦解するので家康は短期決戦にしなければならなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=8DunOx63uVA
0766人間七七四年2014/11/05(水) 11:15:23.24ID:sai6m6X5
旗だけでも出せばいいのに
山崎で秀吉は毛利の旗を掲げ毛利を味方のように見せかけて
明智の戦意をくじいたというけど
そのへん三成は融通きかないな
0767人間七七四年2014/11/05(水) 11:36:27.95ID:gYc7sfxb
>>765
何その机上の空論の名分論
0768人間七七四年2014/11/05(水) 11:49:17.87ID:aver7SIU
更に長期化すれば北陸の前田が丹羽とのプロレスに見切りをつけて下ってくる。
長期化すればするほど詰むのは西軍。既に伊勢戦線にいた鍋島とか戦線離脱決め込んでるし。
九州じゃ黒官が暴れまわってるから西軍の方が領国から切り離された根なし草にされる危険性もあった。
0769人間七七四年2014/11/05(水) 12:06:22.53ID:wG/NflWx
1ヶ月江戸城にこもってんのにばれないように短期決戦もくそもないわな
0770人間七七四年2014/11/05(水) 13:02:35.00ID:aver7SIU
むしろ福島たちが張り切り過ぎたせいで短期決戦を余儀なくされた感じだな
井伊隊が関ヶ原で抜け駆けを働いたことからも分かるように
なんとしても福島たちにこれ以上手柄をたてさせたくなかった
この頃の家康の立場は福島に抗議されたら直臣に腹切らせるぐらいには微妙だったし
0771人間七七四年2014/11/05(水) 13:40:00.97ID:1/INiGuY
半日で負けるとか西軍雑魚すぎ
特に三成は無能すぎんよ
0772人間七七四年2014/11/05(水) 14:17:22.03ID:gYc7sfxb
>>770
井伊の抜け駆けはとっとと戦えという督戦の意味があったと思う
そもそも井伊と忠吉は福島前面の宇喜多でなく、自隊前面の島津に攻めかかっているし
0773人間七七四年2014/11/05(水) 16:50:08.26ID:wG/NflWx
督戦の意味が大きいのは同意で、脇道の話になるけど
島津系の覚書類だと退き口までは誰とも戦ってないから
一部の軍記類の記述は退き口の島津井伊戦を混同した物で
井伊隊の抜け駆けはやっぱ明石隊に対してみたいよ
世に出回ってる合戦図の情報が古いのも問題だけど
0774人間七七四年2014/11/05(水) 17:56:36.23ID:gYc7sfxb
>>773
いや、軍記類だと井伊・忠吉対島津
島津の覚書は東軍と戦った事実を糊塗する意図が見られる
0775人間七七四年2014/11/05(水) 18:22:01.96ID:wG/NflWx
家譜なら徳川の顔色をうかがうのも、さもありなんだが
小身の覚書まで統制できたか必要があったか断言できる根拠を聞きたい処だけど
脇道だからやめとく
0776人間七七四年2014/11/05(水) 18:53:54.78ID:gYc7sfxb
>>775
『旧記雑録』の家臣の覚書を見る限りでは、戦死者や逃亡時の艱難辛苦には触れているが、
戦闘時のことを記したものはない
0777人間七七四年2014/11/05(水) 19:01:50.47ID:wG/NflWx
うん、戦闘してないから無い。
0778人間七七四年2014/11/05(水) 19:18:27.24ID:wG/NflWx
島津義弘記はもとより島津覚書群、細川家譜、(黒田)長政記、関原始末記あたりだと
島津は石田本隊の後備、脇備だったそうだから、開戦時に接触は物理的に難しいちゅう指摘はうなずけるけどね
石田隊方面への抜け駆けじゃ軍記類全般の福島との関係が矛盾ばかりになる
0779人間七七四年2014/11/05(水) 19:33:42.44ID:gYc7sfxb
>>777
東軍側の軍記にはある
>>778
あれは関ヶ原へ進軍中の順番
0780人間七七四年2014/11/05(水) 20:03:48.20ID:wG/NflWx
えw

脇道だからもういいやw
0781人間七七四年2014/11/06(木) 01:16:39.41ID:Zx+jJAOH
関ヶ原が長期化してたらどうなっていたかっていうと応仁の乱だろうな
官兵衛もそうなることを見越していたんだと思う
でもあまりにも嫌三成派が多すぎたのが応仁の乱にならなかった原因
0782人間七七四年2014/11/06(木) 01:25:32.69ID:4kRF6A/z
関ヶ原合戦場資料館には、島津は退却戦までに半数の兵を失ったと堂々と記されていたよ。
違う説が有力だと自信があるなら資料館の記載に指摘して訂正させた方が良いよ。
0783人間七七四年2014/11/06(木) 01:32:09.93ID:QYNlGgbq
よくわからん他人頼みだな
0784人間七七四年2014/11/06(木) 03:14:50.44ID:VyrPTeZ3
三成が嫌いだなんて口実だってのw
家康が怖くて仕方なかったから追従したに過ぎん
0785人間七七四年2014/11/06(木) 05:27:01.49ID:PeEJHsHg
というよりどっちがより自分の食い扶持を保証してくれるかどうかだわな。
現に大老筆頭として万事を差配する実権を手にしてる家康に対して
罷免された奉行にすぎない三成に味方しても恩賞は期待できないし
0786人間七七四年2014/11/06(木) 08:05:28.61ID:GVLiUA3/
まあ長期戦なら東北伊達、関東家康、一部佐竹、中央石田、九州黒田とか、面白い様相も有り得たかも
佐竹は家康伊達に挟まれてアウト
0787人間七七四年2014/11/06(木) 08:10:41.34ID:gN9jOppq
上杉はどこに消えた
0788人間七七四年2014/11/06(木) 13:50:26.48ID:PeEJHsHg
上杉さん自分から攻め込んで返り討ちにされてるからなあ
0789人間七七四年2014/11/06(木) 14:28:55.15ID:UpT5JgnH
上杉も佐竹も伊達に潰されるだろう
結城とは同盟組むだろうな
0790人間七七四年2014/11/06(木) 14:34:20.68ID:PeEJHsHg
西軍はそれこそ短期で決めないとボロボロ内部崩壊する一方だからなあ。
三成はタイムアタックに失敗した。これがもう全て。
0791人間七七四年2014/11/06(木) 16:57:41.50ID:GVLiUA3/
結城は小勢力ながら、狸の次男が養子に入ってるから狸側だろうなあ 上杉と佐竹、更に真田が加われば伊達位なら何とかなったかも
0792人間七七四年2014/11/06(木) 17:11:26.71ID:UpT5JgnH
伊達最上が組んだら上杉佐竹なんて余裕で潰せる
実際上杉は負けたからな
真田は小勢力過ぎるから無視しても別にかまわない
0793人間七七四年2014/11/06(木) 17:21:05.14ID:PeEJHsHg
真田は自分とこの小さな根城守ることに特化した存在だからな。
調子にのって森を攻めたけどたいした成果は上げられず
立場を余計に悪くしただけだったという。
0794人間七七四年2014/11/06(木) 21:59:00.81ID:8vfj6JKD
>>790
秀頼の成長と家康の寿命をひたすら待ち続けるという超持久戦略もあったと思う。
0795人間七七四年2014/11/06(木) 22:35:58.02ID:VyrPTeZ3
俺の学んだ歴史では、伊達・最上コンビは敗走して
正宗は負けたのが悔しくて、何度も最上のせいで負けたって
書状を残してるんだがなぁ・・・
正宗は単騎で逃げる途中に兜を落として、それを上杉の将が宝にした。

国が違うと教える歴史も違うんだな。
0796人間七七四年2014/11/06(木) 22:46:54.12ID:Lcoviv/O
伊達に白石城瞬殺で落とされて領地切り取られて
ビビって伊達に返しもせず最上に大軍で攻めこんだが返り討ちで大敗
ボロボロで敗走して直江は自刃寸前まで追い込まれた雑魚が上杉なのに
終いには徳川に土下座謝罪して90万石も減封される負け犬ww

負け犬上杉ヲタって事実を認めたがらない馬鹿なんだなw
それか脳内妄想が史実だと思い込んでんのかなwww
負け犬哀れwww
0797人間七七四年2014/11/06(木) 23:29:06.47ID:PeEJHsHg
>>795
きみの国は正しい字も書けないらしいね。
0798人間七七四年2014/11/07(金) 07:58:07.52ID:mZwa/s7g
家康は政宗が一度、領国に帰ってから動員し
家康の会津征伐軍の白河攻めに呼応して政宗の白石攻めが
行われることを望んでいたけど
家康が上杉と戦端を開く前に政宗が白石を受領したので
家康の計画が崩れてしまった。
無断で白石を受領した政宗は家康への言い訳として
「しかるべく、御取り合いを頼み奉ります」と弁解してる。

白石の布陣図は悪名高い日本戦史が妄想軍記の伊達治家や
片倉記のデタラメを盲信した結果から作られたんでしょうね。
そもそも伊達政宗記や録事蹟考記に収録された
白石城将登坂の降伏起請文書自体が前書であり原本は存在しないし
政宗が帰国する時に片倉や石川は随伴してないのに
その文書には署名している不可解な文書であることに起因してる。

>>白石城将登坂の降伏起請文
これの存在は一次史料との矛盾が大きいよね。

家康は政宗が一度、領国に帰ってから動員し
家康の会津征伐軍の白河攻めに呼応して政宗の白石攻めが行われることを望んでいた
→伊達治家では一度、領国に帰ってから伊達軍を動員したので
片倉や石川も白石攻めに参戦し激しく攻城したし、家康の指示通りに行動したと捏造してる。
しかし一次史料だけで読むと家康の指示を無視して暴発した政宗は
京から帰る途中で政宗単独で白石城を軽く手に入れたってことになる。
このことを光成氏は事前の交渉によって話がついていたから
簡単に政宗が白石城を手にいれたのだろうと指摘してる。

その布陣図についてですが、亘理源五郎と伊達安芸が書いてあるのですが
これは同一人物ではないのですか?亘理定宗が後の伊達安芸でしょう?
源五郎のほうは重宗かとも思いましたが白石城の戦いには参加してないですし

同一人物だと思われ
0799人間七七四年2014/11/07(金) 08:00:17.83ID:mZwa/s7g
白石は甘糟や御検使まできて御仕置をして防備強化がなされていた。
それを政宗が領国に帰ってから白石を攻めろと言う家康の命を無視して、
帰りがけの政宗が伴の者だけで落としたわけで、
不可能なことをやってるのは明らかにおかしい。
また村越宛書状によると即日、白石を手に入れているため
(軍記類だと政宗は帰国後に攻めてきて、翌日朝に降伏を受け入れたと改変されてる)
そのため北目の伊達軍が合流した証拠はまったくない。
川俣城奪回に24日には上杉軍が各地から出撃しているので、
政宗のお供だけで白石と川俣は同日に落とされたとするのは不審。
しかも上杉軍は川俣には兵を出しても、
白石奪回には一切兵を出さないのも不審。
白石を政宗に渡すのは上杉が了解済みだが、
川俣については受け入れてないと思われる。
つまりこの機会に旧伊達領だった川俣や大館では郷村指導者が一揆を起こし川俣古城に立てこもった。
その一揆指導者が桜田某であり27日以前に川俣は上杉に制圧され桜田某も討たれた。
伊達の主張だと桜田某を駒嶺城主の桜田元親だとしているが、
この人物は1615年に秀宗に仕えていて生存してるのがバレている。
つまり川俣古城で桜田某が蜂起したのは政宗の預かり知らない、
政宗にとっては上杉の不審を買っただけの迷惑行動だったので見捨てられて死んだ。
0800人間七七四年2014/11/07(金) 08:01:18.91ID:mZwa/s7g
>>833
どう考えても京からやってきて佐竹・相馬領などを通過してきた政宗が
実は大軍で押し通ったとは思えないし、供の者しかいなかっただろう。
また村越書状を読めば翌日までかかったとは、どう考えても解釈できない。
7/27書状って直江→石栗宛て?
それって米沢の者どもが川俣で働き討ち取りしたのを賞したあとに
白石表のこと聞いた。自然案内者候 城中堅固相抱候様可申遣候と書いてるやつ?

自然案内者ってのが直江と伊達の両方を結び付ける隠蔽してる人物を指してるんでしょ。
城中堅固相抱候というのは、村越宛書状において政宗が城中堅固相抱候と
同じ単語を使用してるように伊達と直江が言葉についても示し合わせておいてから
村越に報告している証拠じゃないかな(普通は普請堅固申付と書くのが常識)
しかも案内者を通じて政宗に白石城を城中堅固相抱ように直江が申し遣わしているわけで、
注目したいのは村越への書状で登坂式部らを抱え置き候と言っていて、
執拗に同単語がまた使用されてるように登坂式部らの遇し方まで打ち合わせ通り。

やはり直江と政宗の間で抱えておく話がデキているのがわかる。
白石の防備で甘粕らが来たと言うのも実は政宗へ譲渡する準備と調整で来ただけ。
直江が白石を御仕置をして防備強化したと言うのは本音ではなく外聞上の指示。
実際には直江が白石の御仕置きをやらせたのは政宗に申し遣わしたことで達成してる。
0801人間七七四年2014/11/07(金) 08:02:24.73ID:mZwa/s7g
上杉120万石のうち、
たった1万6000石譲渡で
背後が安定して
白河口で家康を待ち受けられるから
ものすごく得だね。
直江は白石方面に出陣するよ詐欺でポーズだけしてるが、
全く出陣する気がなかったよね。
それどころか上杉と伊達の連携は公儀のためだから白石は諦めよう運動してるし。
まさに直江の表裏の一策と言えるね。
上杉5路同時侵攻を掲げて
ドヤ顔してた家康も政宗と佐竹と上杉の連携を察知して疑心暗鬼になっていた。

政宗は南部で一揆を引き起こし最上口の上杉侵攻軍を崩壊させ、
越後遺民一揆に困った堀も大坂に内通するから勘弁してくれと申し出てるから
家康の大戦略は見事に崩壊し江戸に帰った。
0802人間七七四年2014/11/07(金) 08:03:25.71ID:mZwa/s7g
伊達の歪曲言い訳が各所に見られる政宗の小姓を勤めた木村宇右衛門覚書によると
南部が普通に考えて落ちるわけが無い白石城が伊達の手に入ったのは
政宗と景勝が内談していたからだと主張している。
白石城譲渡がなんら根拠のないものではなく、当時からすでに指摘されていることだ。
家康が南部の自作自演に騙される愚かな老人として描かれ
鷹商人高木小右衛門への扱いが悪かったバカな屋代勘解由に全ての責任を負わせている捏造ぶり。

岩城通りを通過し相馬領を経て北目城へなんなく下着したと書く。
(北目城へ戻ったので家康の命令に従ったとする捏造がすでに行われている)
白石城を攻める前日に南部の使者がやってきて
伊達が景勝を攻めるなら北目城へ我らも援軍を出すと申し出てきた。
一方で和賀が「南部と秋田と酒田と津軽と由利と松前が上杉と同心している。
しかし私は小身ながら同意せず。よって南部により
景勝への土産にされてしまうので援軍が欲しい」とのこと。
和賀への返答に政宗は「難儀あらば加勢する。南部を追い払い白石へ攻めかからん」
関が原後に南部が景勝との同心がバレるのを恐れ、
鷹商人の真似させて最上から会津経由で家康に鷹を献上し政宗が
「内々ハ景勝へ申合らるる事うたがいなく候 白石の城などさように落つる城にて
御座なく候へとも 両人内談四方へ聞こえのためなるへし 
其の言われハ南部之内に和賀と申す城主小身にハ候へとも 景勝廻文に一身の者に御座候」
和賀如きは軽く首を刎ねて家康への忠義を示そうとしたが政宗が手を貸してるので
それもできず逆臣が目の前で我侭に振舞ってます。御検使を派遣して貰ってから
和賀を攻めれば政宗の虚実を見せて御覧にいれますと伝えさせた。
家康がその検使に御前にいた鷹商人高木小右衛門に急ぎ鷹を買いに奥州へ下れと申した。
小右衛門が南部に内通し北目に乗り回し屋代勘解由に玄関にて案内を乞うたが
ちょうど碁で殊の外負けていた屋代が「どうせ物が欲しいとかだろw留守って言っとけ」と命じた。
勘解由が驕った態度が、結局は他国へ浪人するハメになった。奢る者久しからずや。
小右衛門が到着するや南部が急ぎ和賀を攻めると、和賀の加勢に白石相模の旗と人数が際限なく見えた。
南部は「あれ御覧候へ言上申たるに偽り無之段よく見給え」これにより政宗は冤罪になった。
0803人間七七四年2014/11/07(金) 08:07:22.85ID:mZwa/s7g
おかしい部分があるのは、
伊達を無理矢理擁護するために曲解した文章内容だからに過ぎないだろ。
そもそも伊達の主張は最初から崩壊していて
家康が南部側の主張が正しいと
認定した事実すらも
家康が南部に騙されただけと主張する一方で、
屋代がアホだから失敗したと言い訳を重ねる始末。
子供が思い付くレベルの反論しか出来ず、
伊達がちゃんとした反論材料をなに一つ持ちあわせてないのが露呈してるだけ。

>>623
8/5には佐竹も家康から人質出せと言われて拒絶し
直江が佐竹と家康も手切れと書いてるから
政宗が一揆の導火線を付けた時期と一致する。

秀頼様に忠節を尽くすことが肝要
その上、景勝と申し合わせている者として
関東即時破滅させるべくして伊達や最上らです。
大坂に人質がいることはあえて言うことでもないですが
家老の妻子もいますので。
このように伊達や最上らが同意してるのがはっきりわかる。
人質はあくまで保険として言及してるだけ。

>>白石表の儀、郡近辺りへ討ち出で候人数、
その文章はその前に出てくる「宮中より」に関係がある。
宮中とは宇都宮(結城)朝勝であり、政宗と直江の「案内者」がこいつだと判明する。
そして詰めの打ち合わせも完全に終わった為「珍敷儀到来」として白石での交通往来も正常になったとしてる。
上説が内府たがいの条だとすると最上口の撤兵の辻褄が合わない。
0804人間七七四年2014/11/07(金) 08:32:19.25ID:5Z+p6B/D
菅沼遼太のゴミコピペ
0805人間七七四年2014/11/07(金) 09:05:54.65ID:mZwa/s7g
ちなみに非常に珍しい中で必死に探すと
下記のようなのが出てきた。

陶晴賢書状と思われる某齋宛て書状では
大野方へ「よく被相調候 奇特候〜通心靜披見候」として
文書の返却したので、大野方が持ち帰る際に
「案内者」として椋飛騨守に申し付けた。
そして坪井に「可引合之由申付候」と
引き合わせることを仰せになっている。
これ内通交渉の引き合わせに椋飛騨守が登場してるし

毛利と山名が同盟した時も
高木越中守が双方を結びつける「自是爲案内者」となっている。

内通案内や同盟を結びつける使用例が散見された。 

白石は掠め取ってない譲渡だよ。
対家康で、政宗と景勝は血盟していたとのことだ。
看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したと書いている。

関が原での同盟仲間と家康から見られている伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達って。
0806人間七七四年2014/11/07(金) 11:36:23.93ID:3Fhia3CA
>>792
>伊達最上が組んだら上杉佐竹なんて余裕で潰せる
>実際上杉は負けたからな
負けたって言っても局地戦やん
上杉佐竹合わしたら伊達最上より大きいんだし
かりに中央での戦いが長引いたとして
徳川か堀家が参戦しない限り消耗戦で疲弊するの後者だろ
0807人間七七四年2014/11/07(金) 12:37:48.11ID:NyaQyCbC
佐竹は家中が割れまくってるから動くに動けないと思うよ。
そんな佐竹の内情を確認できたから家康も重い腰を動かす気になれたんだし。
0808人間七七四年2014/11/07(金) 12:45:22.17ID:XtmtpWBX
>>806
はぁ?
伊達に瞬殺で城落とされて領地切り取られ
最上に25000もの大軍で攻めるが返り討ちに合い敗走
最上伊達連合軍の前にボロボロで敗走 直江は自刃寸前だが前田慶次郎に止めさられ生き延びる
上杉側の武将も死んでるしどー見ても主力で負けてんだろうが

これが事実だから何の根拠もない脳内妄想は書かなくていいよ
0809人間七七四年2014/11/07(金) 13:17:54.19ID:NyaQyCbC
ぶっちゃけ奥州での戦いは上杉にとって地の利が悪い
上杉の領地って元々、伊達や最上の領地だったとこだし。
0810人間七七四年2014/11/07(金) 13:23:05.36ID:XtmtpWBX
言い訳かw
負け犬の泣き言だねw
そんな言い訳が戦国の世に通用すんのかなw現代でも通用しないけどw
なら最初から戦すんなよ馬鹿w
雑魚上杉ヲタだっさww
0811人間七七四年2014/11/07(金) 13:28:17.21ID:NyaQyCbC
ん?単に最上と伊達が有利って言ってるだけだが。
誰彼かまわずに噛みつくなんて君って菅沼くんの同類?
まあ、そういうわけで長期戦になった場合は奥州戦線は家康が心配することはあんまなさそう。
北陸戦線もいい加減前田も丹羽とのプロレスに飽きてくるだろうし。
長期化するほど西軍はジリ貧ってお話。
0812人間七七四年2014/11/07(金) 13:31:17.87ID:XtmtpWBX
家康が心配する必要ないなら政宗に百万石のお墨付きなんて出してないんだよな
ほんと史実を無視して脳内妄想する馬鹿は話にならんわw
長期化したら上杉佐竹は伊達最上結城に滅ぼされた可能性が高いのは確実
0813人間七七四年2014/11/07(金) 13:37:23.30ID:5Z+p6B/D
釣りにしても詰まらん
0814人間七七四年2014/11/07(金) 13:40:35.52ID:XtmtpWBX
上杉が伊達最上に大敗した事実を釣りにして逃げたいのかw
上杉雑魚過ぎww
0815人間七七四年2014/11/07(金) 13:42:28.13ID:GhdieX7H
横田大学が以前からずっと上杉家臣とする場合、
上杉家記が記す上山城敗戦記や最上合戦記で後陣を率いて
高松・長清水辺へ進軍してたら川口村で隠れていた
最上軍に敗れたエピソードで有名な横田式部少輔旨俊との混同。
この上山での敗報を聞き長谷堂から上泉泰綱が救援に来て戦死したとも書くが
泰綱の実際の戦死は10月朔日であり完全なデタラメであり、
敗北したはずの横田式部も敗北の責で降格もしてない。
完全に講談話で上山での上杉の敗走を証明するものは何もないのが実態である。
ここのように敗北してないのに敗北と隠蔽する裏に
実は最上と上杉の山形を前にした2週間で3回しか攻撃していない長谷堂の滞陣も
最上と上杉の講和談判の交渉中だった事実を消すための捏造があると思われる。
横田大学について
慶長三年ニ横田大学と申者 相馬商買之塩荷伊達信夫へ運送之為玉野山中ニ新田を取立
相馬参候塩荷之馬次ニ仕立て 其後福島へ奉行平林蔵人彼地見分仕 
と書かれており相馬側で運送の利便を図るために横田大学、
その後に福島側から平林と言う奉行が来たことが記されている。
横田大学が相馬&佐竹から特に対徳川の戦意ある者たちを選んで上杉へ派遣された客将であるのは明らか。
0816人間七七四年2014/11/07(金) 13:43:15.17ID:GhdieX7H
伊達史料の戦果報告はデタラメばっかり

「仙台領の戦国誌」は葛西大崎一揆についてしか書かれてないはずだが。
たしか政宗が甘言で大崎葛西一揆の首謀者達を集めて須江山で謀殺した数は葛西側資料には70以上はあり、
秀次の命でやむを得ず殺したと知る成実記は【ウソ】を書いてるし、伊達秘鑑における二十数名を殺したってのも【ウソ】だとしている。
「葛西氏と山内首藤一族」は伊達家治記録をまったくの【デタラメ】と指摘し
やはり大崎葛西一揆鎮圧で政宗は甘言で深谷に呼び出して集合させた武士500農民2000を虐殺したとしてる。
また関ヶ原に絡んだ記述として和賀一揆を支援した政宗に対して反撃した南部側に花巻で敗れた伊達軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
南部軍は4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破し26日には岩崎城を陥落させ、
伊達軍は岩崎が火の海になる中を逃げ惑い伊達領へ壊走した。
その時たまたま家康の鷹匠が現地にいたので南部利直はさっそく井伊直政宛に書状を書いてる。
政宗は家康に対しては、すべて和賀のせいにして無理やり自刃させ、その首を利直へ贈り、あなたの賊は政宗が成敗したから今回の事は水に流して欲しいと哀願。
さらに今井宗薫へ宛て百万石はムリでもせめて堪忍分として十万石でも二十万石でもどっちでもいいから加増させてもらいたいと哀願したと書かれている
伊達家治記録では存在を抹消している岩崎城攻撃は3月から約一ヶ月間。
南部の花巻城でのゴタゴタは政宗が山形に兵を送った頃で、花巻城防衛に南部が成功した後は、関ヶ原終了で南部側も様子見していた。
下手に伊達と大規模紛争したらまかり間違って上杉側と思われるような誤解が怖かったからだ。
政宗から山形へ兵をもらい助けてもらったはずの最上側もさっそく家康に政宗の南部侵攻の暴挙を報告してる。
そのうち雪が降ってきたので岩崎城を放置。
すると政宗が岩崎城の兵力と物資を増強。
3月には南部は伊達攻撃について家康から許可をもらったのだろう。
つまり家康は伊達を東軍とは到底認識しておらず見捨てたにも等しい。

だいたい落城させておきながら家臣への恩賞に関わる大切な討ち取り人数が【数百人】とか曖昧過ぎだろw
奥羽永慶ですら白石城での討ち取り人数はまったく【明記されてすらいない】わけだが
まぁ捏造報告だから曖昧なんだろうが。 商人や鷹匠らによる家康の監視があるから、
最初から密約に基づいて登坂が降伏するわけにはいかないから1日だけちょっと抵抗してみせた自演だろうが。
我等手前抱置候←降将に対する扱いではないな。やはり示し合わせた談合の証拠。
そして誰も見てない刈田郡奥地の湯原城では家康の監視もないので、
白石城のような戦うフリもせずに安心して無血開城して伊達にプレゼントしました。
政宗は秀宗と前年12月に生まれたばかりの赤子の忠宗と愛姫を大坂城で人質に取られ到底、東軍に付く気持ちはなく
それを知る家康は政宗家老衆に百万石の加増を餌に買収して政宗の牽制に使ったのである。

政宗の南部領花巻城攻撃では家康のスパイの鷹商にいち早く知られたと言う。
白石城では狂言の城攻めでうまく誤魔化したと言うことだろう。
0817人間七七四年2014/11/07(金) 13:44:49.28ID:GhdieX7H
白石城主は、甘粕備後が留守で登坂式部勝乃兄弟が城を守っていた。城中には大崎三次、葛西長三郎、…旧葛西
大崎の名のある武士団がかなり籠城していた。伊達家の厳しい残党刈りを逃れ、上杉氏傘下に入ることで再起を期した
ものだろう。」
「激戦の末、白石城兵七百余人が討ち取られ、大崎三次らは戦死し、城は本丸をのこすばかりで、落城必死の形勢と
なった。そのため城代の登坂兄弟は、伊達家武将の石川昭光、片倉景綱を通じ、降参の助命を申し出た。」
「石川、片倉の両将はこれを許し、誓詞を書き送り、開城の運びとなった」
が、籠城軍の中に鹿子田右衛門という過激武士がいて、降伏絶対反対、1人になっても戦うと宣言し、手の者を連れて
城外へ打って出てしまったのである。助命誓詞まで受けた城内の者は、鹿子田のルール違反に手を焼き、
仕方なく城内から鹿子田らを狙って鉄砲を打ち掛け、味方討ちの形にして全員殺してしまった。」
「味方撃ちの中で果てた右衛門の最後は哀れであるが、ここにも歴史の因果がにじみ出ている」
葛西大崎の研究家の紫桃氏によれば、「大崎三次」とは大崎三次義興、「葛西長三郎」とは葛西三郎清高。
前者は葛西十七代太守晴信の子、後者は大崎十三代太守義隆の子だとする家譜があると述べている。

【謎の人物である大崎三次&葛西長三郎について】
家系図や家臣団の中に名前が見つからない。 あくまでも自称で、どこの馬の骨がもわからない人物ではないのかね?
だいたいシナリオ通りに開城する約束を実行しようとして、土壇場で聞かされてなかった反対意見の者達を討つあたりは
やはり密約の存在を証明してるようなもんだな。例えば相馬の記録の補填になる奥相茶話記みたいに
田村旧臣の石川弾正【伊達家治記録では月夜畑の戦いを抹消してる都合上すでに死亡してると捏造】の肝煎りで景勝に紹介され、
相馬旧臣の泉左京胤政が700人扶持で上杉に召し抱えられ、また瀧迫日向がそれに合流。
直江騎下で最上侵攻に相馬衆119人で参加し、相馬流の軍配で功を立て戦後には泉に越後6万石、日向には1万石の内儀の約束があった。
このようなちゃんとした証拠くらいあるのかね?
三陸河北新報社の石巻かほく昭和60年8/20〜12/1連載小説の「危うし独眼竜」に触れているどころかまるまる書いてある。
さてその内容だが、三光録にある白石軍記(白石城攻略)と山中記(白石城攻略後日談で石川義宗の手柄話)と言う軍記を元ネタ種本にした片倉代々記に書いてある内容そのものだ。700人討ち取りのガセもこれ。
もちろん史実にはまったく認定されない妄想話で石川義宗などはとっくに死んだはずの
中野常陸介を討伐して政宗から褒められたりする笑える話が書かれている。
無論、大崎三次や葛西長三郎が当主の息子だとは一切書いてない。
それどころか鹿子田右衛門が二本松畠山義継を唆して輝宗を拉致させた張本人の息子だと書くムリヤリ感があり笑えるw実に講談風だ。
さて葛西氏の系譜は独自の口伝や相伝で30以上あるわけだ。
しかも2つのまったく別系統の系譜がありそれぞれが葛西当主だと主張してる。
>>紫桃氏は再起を期したものであろう、〜とする家譜がある。
さすがに紫桃氏も曖昧さのある書き方をしていて苦笑する。
さて実際に葛西再興運動後に葛西晴信は加賀へ行き慶長2年に死去。さすがに再興の望みを持ってれば白石城に篭るような変な真似はできん。
左沼城撫で切りで百姓2000人武士500と桃生郡江糠塚山の一揆物頭衆騙し討ちで伊達に殺された加西氏は完全に息の根を止められたしな。
大崎義隆は直江の2700石客将だが息子は義満・義道・満隆が確実に存在していたとされる。
大崎三次&葛西長三郎に至っては口伝レベルの史実かの確認がとれない実に怪しい話である。
0818人間七七四年2014/11/07(金) 13:45:39.04ID:GhdieX7H
北越軍記では甘粕が会津の妻の訃報で留守、また白石落城では鹿子田日向守171人討ち死にと記すね。もちろんこれも信用性ゼロの軍記だ。
ちなみに福島県史では甘粕が白河の軍議に参加していて留守と断定してる。
さて白石軍記では米沢から白石までの七ケ宿街道を伊達側の野伏達が支配し白石城から米沢へ向かおうとする鹿子田を襲撃したりしたと書く。
さらに茂庭の足軽隊200にその野伏ら(九代政宗時代からの恩を感じていたらしい)と湯原城守備を担った住民達(これまた政宗時代からの恩〜)が味方を申し入れ新宿攻略に活躍とのこと。
(新宿城主大畠吉兵衛に人質を取られていた湯原の18人も人質を犠牲にしてまで)
さて北越軍談→湯原城で政宗は甘粕備後や岩井備中の前に敗れ渡瀬へ逃走。
政宗→政景9/26「急度申遣候。昨日二十五日湯原へ足軽動申付、彼城即手に入候、内々撫切に可申付候処、普代の筋を以、頻に詫言候条、身命ばかり相助け引出候、新宿峠まで打かけ、悉く郷村放火仕り」
この政宗の文書でわかるのは、湯原城で撫で切りしようとしたが、住人達が詫びをいれたから助けたのち、
新宿城攻めに失敗し村に火を付け帰ったと言うこと。 さらに置賜郡史「米沢地名選」には
遠藤盛利の守る新宿城攻撃で大敗した片倉が湯原まで敗走したと言う。
白石軍記などは七ケ宿村の者達が口伝を書いて藩に提出したそうな。
明らかに七ケ村の者達が自分を擁護して伊達の恩とか主張してるし
片倉代々記が新宿城で大敗した話を黙殺してるのがわかる。

鹿子田日向が畠山家老の子などと言うのは上杉側資料にはないな。
この白石城攻めは白石軍記と北越軍記に記されており双方ともに信憑性ゼロだ。
ここではっきりわかるのは、甘粕が伊達の軍事的圧迫を気にせず白河決戦に向け白石城兵を連れて出撃してること。
七ケ宿街道で悠長に野伏が街道をふさいだりなんてことは伊達に対して貢献したとする嘘だろう。
七ケ宿側がいう新宿城主大畠吉兵衛は会津に帰ったのか?そこには遠藤盛利がいることになってるが遠藤は地元住人なのだろうか。
それとも七ケ村の住人達が大畠の元にいる人質を犠牲にしてまで伊達に尽くしたと主張するのは仙台に対する嘘か?
ただ政宗書状には湯原城に上杉兵がいなかったのがわかる。よって地元住人達が降伏し円滑に受け渡しが可能だった。
つまり刈田郡は伊達との密約で上杉が譲渡する予定だった。 白石城で1日抵抗してみせたのも家康の監視を誤魔化すため。
より奥域の西部にある湯原城では家康の目を気にする必要はなく上杉兵は伊達に渡すために撤退した。
新宿城にいた住人遠藤盛利は湯原の住人とは対立してきてたのか?降伏を潔しとせず抵抗したので片倉が攻め立てたが大敗した。
もちろん上杉の援軍は来ない。北越軍記もデタラメならもちろん片倉代々記も片倉マンセーのデタラメ書。
双方ともに徳川に対する密約の存在を隠蔽する為にもっともらしく捏造軍記を作ったわけだ。
0819人間七七四年2014/11/07(金) 13:46:06.40ID:XtmtpWBX
伊達に白石城落とされて領地切り取られ
最上領に25000もの大軍で攻めてフルボッコに返り討ちされてボロボロで敗走したのが史実なのにw

必死だなwww負け犬の雑魚上杉ヲタw
だっさwww
0820人間七七四年2014/11/07(金) 13:46:43.83ID:GhdieX7H
政宗の妄想からくる誰も見ていない
300余を討ち取ったとする
デタラメ戦の存在を思わせるような
傍証は何ひとつ無く
とつぜんパッと現れた300余の戦果は
政宗の妄想でしかないのは明らか。
そもそも一番隊茂庭 三番隊屋代はどっかで油を売ってたようで何をやってたか不明。
二番隊片倉はそんな戦は見てないと書いている。
戦況説明は会津陣物語の盗用である以上は、その戦が無かったのは明白。
だいたい1/10の本庄軍の戦力でまともに正面から戦うなんてのが理解し難いし
その戦いで300余も討ち取ったら、戦傷者などはその4割前後はいるはずで
とてもじゃないが磨耗疲弊した戦力では伊達郡・信夫郡の広範囲を守備することは不可能。
伊達治家記録でも、なんで政宗が撤退したかの最大の疑問にはお茶を濁すような記述で逃げている。
さらに政宗に協力して蜂起した寂光寺は全焼し伊達軍と一緒に仙台に逃亡している動かしがたい事実も存在している。


う〜ん論理的にみて政宗の書状は不審でおかしいんだよね。
まぁ本庄が福島城へ伊達を釣り込むために布陣したんだろうけど
大した被害も出さずに福島城へ撤退に成功したために
伊達軍が福島城で政宗陪臣の2人が討ち死にするほどな大敗北と
背後からの挟撃で政宗本陣まで炎上して
政宗自身も単騎で逃げたから大将が行方不明になった混乱で
伊達全軍が高速の早さで敗走したんだろうね。
0821人間七七四年2014/11/07(金) 13:48:08.19ID:XtmtpWBX
伊達最上に大敗して領地切り取られた雑魚が上杉www

これが史実なのに馬鹿だな 長文上杉ヲタはwww
誰も読まねーっつーの お前の妄想長文なんかよww馬鹿ww
0822人間七七四年2014/11/07(金) 13:48:21.50ID:GhdieX7H
結局、伊達治家記録の記述が会津陣物語のパクリだと認めざるおえないみたいね。。
実際、白石城攻めも実際は上杉側による密約譲渡だし
上杉の上山城攻めも一次史料では全く証明できない捏造話だしな。

※政宗は崖のような場所で
およそ人間とは思えない斜め立ちで
討ち取った300余の首をチェックしたが武功をあげた茂庭や屋代らを冷遇しまくり一切の感状も出さず
なぜか該当合戦を見てないと言うまったく活躍しなかった片倉のみ加増した。

神保味方撃ちの薩摩側史料も
月夜畑の戦いの相馬側史料も
最上も佐竹も南部も安東も上杉も結城も対立する史料は全部否定して歩くアホ伊達厨。
伊達に都合が悪い史料はぜんぶ怪しいと却下しまくる基地害脳伊達厨w

蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
0823人間七七四年2014/11/07(金) 13:49:37.94ID:XtmtpWBX
伊達>>>>最上>>>>>>>>>>>>>>
上杉

これが事実www
0824人間七七四年2014/11/07(金) 13:51:49.47ID:XtmtpWBX
伊達に葦名が滅ぼされ佐竹も滅亡寸前だった史実も知らない
馬鹿上杉ヲタwww
0825人間七七四年2014/11/07(金) 13:57:05.24ID:XtmtpWBX
白石城落とされて領地切り取られたのが密約譲渡?wwwww

だっさーwwww雑魚すぎ上杉ヲタww
領地切り取られてんのに言い訳に必死だなwww
クソウケるww
0826人間七七四年2014/11/07(金) 13:57:51.52ID:5Z+p6B/D
菅沼遼太マッチポンプすか
相手した人残念
0827人間七七四年2014/11/07(金) 14:00:18.68ID:mZwa/s7g
伊達厨って哀れだな。
0828人間七七四年2014/11/07(金) 14:01:50.24ID:XtmtpWBX
史実を捏造しても上杉が雑魚の負け犬な事実は変わらないんだぜwww

惨めな負け犬上杉ヲタw
08298062014/11/07(金) 14:49:42.73ID:3Fhia3CA
>>826
本当に
馬鹿に餌与えてスマン
0830人間七七四年2014/11/07(金) 14:55:10.61ID:XtmtpWBX
ID:3Fhia3CA
論破されて反論出来ない馬鹿
0831人間七七四年2014/11/07(金) 16:29:30.76ID:0b9BPOTw
長文連投は止めようぜ・・・荒れる元だ。
0832人間七七四年2014/11/07(金) 16:30:37.98ID:0b9BPOTw
菅沼って言うの?史料からの転載は評価するケドさ。
0833人間七七四年2014/11/07(金) 17:43:44.85ID:D5dddvTT
コピペ全部読んだが、長いな 氏郷って90万石以上拝領されてたっけ?彼が生きてたなら伊達らを挟み撃ちに出来てたろうに
0834人間七七四年2014/11/07(金) 17:53:20.90ID:GhdieX7H
11月8日の井伊への手紙の中での言い訳だったような。
なんせ10月16日にはすでに内応発覚してるんだから。
片倉陪臣2人を討たれ、梁川に兵糧を奪われ挟撃を恐れ、
しかも本庄が政宗が近くにやってくると決戦準備をして討ってでようとしてたのを受けて
片倉は後ろ向き発言を繰り返し、その意見を入れて恐ろしさのあまり早く帰ろうと思い
撤退寸前の深夜には新たに斉藤兵部の内応が政宗にもたらされてたけど
石川も周囲は敵だらけかも知れない恐怖に怯えて政宗に一刻も早く帰ろう発言が出てるじゃん。
明らかに本庄の福島釣りこみと後方遮断策の前に福島攻略初日の夕方には、伊達主従は早くも
恐怖感でいっぱいになっててマトモに戦略を考えるゆとりもない心理状態に陥ってる。

政宗→井伊へ
三月廿二日
南部からも攻撃されてまして伊達軍が討たれてるが
家康公から指示がないので南部への対応を控えてます←自分が悪いのに南部が悪いと言ってるw
佐竹から景勝へいろいろと話があったそうで
どうやら景勝の上洛は取りやめですぜ←上杉徳川の和睦をぶち壊そうと必死w
2.3日中に白石口を攻めますの、家康公も攻めてください←哀願w家康「だが断るw和賀同伴指名しますw」

そしてその後まもなく上杉側の文書に下記の者達へ福島での戦闘で
伊達軍を追い出した軍功は比類無いとの文書が発給されてます。
蓬田寒松斎
小島豊後守殿
築地修理青柳隼人佐
小田切安藝守

ここまでを以って松川合戦といえるでしょう。
だいたい小田原参陣のため一旦南会津口へ向かったが刺客を恐れ一旦引き返した。
その後、直江からの誘い(書状現存)を受けて
政宗は小国から上杉領内(越後、信濃)を通らせて貰ってやっと小田原に辿り着いている。
あと1日でも参陣が遅れれば、会津征伐は必ず実行されていただろう。政宗にとって直江は命の恩人。

岡左内、齋道二の話も元禄時代以降に編纂した伊達治家記録は、
なんらかの証明もせずにただ「偽リナリ」と必死に否定してるだけだし。
そんなに伊達が圧勝言うなら、こいつら何で討ち死にしてねーの?
須田が竹に雀の家紋を奪取した話も「両説不決」と証明もせずに必死に否定。
結局、伊達治家記録の編纂までは、それらをまったく否定してないわけで、
後世に政宗伝説を作り上げる必要性に駆られて伊達治家記録でマンセーしまくってるだけ。

白石にしたって上杉120万石のわずか東刈田郡8000石の地でしょ。
補給線の確保は信玄がいうように最も重要な任務であり優秀な大将に任せる。
政宗は補給線を軽視してたなら相当なアホだし、ナポレオンがロシアに敗れたのも、日露戦争で日本軍が早期和睦に持っていったのも補給能力に問題があったわけで
大東亜戦争の日本初期目的も補給能力を手に入れ自存自衛することであり、日本が敗北したのも通商破壊で日本への船舶輸送が破綻したから。
ゆえに伊達厨は荷駄による補給を出来る限り大したものじゃない重大じゃないと過小に印象づけたいわけだw
結局、政宗も牟田口や辻のような無能だったわけだ。
0835人間七七四年2014/11/07(金) 17:56:54.34ID:GhdieX7H
まー白石城に関しては、明らかに密約があったね。
当時は家康の鷹匠が陸奥各地で諜報活動してるから、
うまく演技しつつ頃合を見て
白石首脳陣が密約どおりに城を明け渡すことにした時に
それを知らされていない葛西大崎の旧臣が
城内で暴動を起こして反対して鎮圧されてるくらいだからね。
さらに白河から家康らが去るや、直江が福島へ着陣し情報分析。
小野寺の西軍化をみて、政宗はビビって白石城返還和睦を申し出る始末。
さらに東軍の南部を攻撃して直江に尻尾を振り、裏で必死に結城秀康に上杉攻撃を哀願w
呆れた直江も政宗の家老2人くらい同陣させるように交渉だけ続けとけと言って米沢へ帰る。

結城はデタラメを書いてる
島津はデタラメを書いてる
最上はデタラメを書いてる
上杉はデタラメを書いてる
佐竹はデタラメを書いてる
相馬はデタラメを書いてる
南部はデタラメを書いてる
蘆名に勝ってた(失笑)
佐竹に勝ってた(失笑)
最上に勝ってた(失笑)
蒲生に勝ってた(失笑)
上杉に勝ってた(失笑)
南部に勝ってた(失笑)
真田に勝ってた(失笑)
神保に勝った(事実www)
他家の史料と真っ向から正反対の記述を連発して書いている伊達史料だけが正しい事を記述している
もう基地外すぎてワロタwww 伊達史料ほど怪しいものはねぇよ。

松川での討死にしたって上杉側の討死の足軽頭と政宗陪臣2人じゃ率いる軍勢には大きな差があるわけだがw
しかも力押しの伊達軍2万と策を弄した本庄軍3000の戦いなのであってwww
0836人間七七四年2014/11/07(金) 18:00:28.72ID:XtmtpWBX
氏郷なんて政宗が切り取った領地を秀吉から棚ボタで貰っただけのカスだろw
葛西大崎一揆も沈められず伊達にビビって城に引きこもってた雑魚が氏郷
氏郷が生きてたら上杉より余裕で会津取り戻せてたなw

まぁ 馬鹿上杉ヲタがコピペで長文書こうが伊達に白石城落とされて領地切り取られて、
25000の大軍で最上に攻めたが返り討ちで大敗し最上伊達連合からボロボロで敗走した事実は変わらないのにwww


ホント哀れな雑魚負け犬上杉ヲタは惨めな馬鹿だなwww
0837人間七七四年2014/11/07(金) 18:01:17.06ID:0b9BPOTw
>>833
蒲生氏郷は会津で100万石弱だね。
家康嫌いで有名な奴だが、氏郷は意外と利に敏いから
生きてたら東軍に付いたと思うな。

前田利家が生きてたら話しは別だけどね。
0838人間七七四年2014/11/07(金) 18:06:50.63ID:XtmtpWBX
馬鹿上杉ヲタって蘆名が政宗に滅ぼされた史実も認めないんだwww

キチガイすぎwww馬鹿すぎて話になんねーなw
負け犬の雑魚上杉ヲタwww
0839人間七七四年2014/11/07(金) 18:13:42.05ID:GhdieX7H
伊達の本陣だった国見山を取り仕切ったという宮崎旨元が討たれてるしね。伊達の史料にはそう書かれてるし
上杉の史料にも似た内容がある。本陣を仕切った人物が指揮していた荷駄隊はある程度の大部隊だったと考えるのが自然
でもなければ荷駄隊なんてわざわざ編成する必要が無いんだし実際須田の記録では兵糧、弾薬、
首級(荷駄隊隊長以下警備の者、下人)が梁川城へ運ばれてるこれが一番大きな決め手になったようにしか見えないけどね
巻乃二十下479ページ (政宗)公、白石城御出陣、伊達郡国見山二御本人ヲ備ラル。
同上487ページ 宮崎内蔵助旨元 ハ国見山御陣場ヲ取リ仕廻テ、御幕等ヲ人夫持セ、御跡ヨリ福島表へ来ル。
で、宮崎旨元が梁川勢によって討取られるという内容へと繋がっていく訳だけど
この際奪われた陣幕は亘理伊達家、定宗の荷物に入っていた物かもしれないとも書かれてる

鮭延の口述記録の再評価で庄内や由利らの加増で、
最上は21万石だと書いてるし、
斯波→最上の系統を証拠だてるものは皆無どころか、
出羽探題に任命された史料も存在しない。
つかそもそも最上を名乗ったの自体が関ヶ原の戦い寸前の時期からで、
それ以前は山形氏と名乗っていた。
関が原の戦いの前哨戦において
義光が上杉に土下座書状を出したが
そこには最上と書いている。
最上と称し始めたのは
少なくとも1600年以前からなのは間違いない。

鮭延の口述記録は面白いね。
長谷堂城に上杉軍が来るころの最上内の雰囲気は年寄衆までもが
「最後には我々が負ける。厳しい戦いだ」といいあっていたと書かれてるし
長谷堂合戦で包囲後に唯一、上杉が攻撃してきた24日の戦いの記述では
義光が自ら長谷堂で指揮を執っていて、夜になっても戦いは終わらず
晩遅くについに最上側が追い立てられ義光の雁金の指物が完全包囲に陥り
撤退不可能になっちゃう。そこで鮭延が小高いところにそれを押したてた。
義光からの伝令で「なんとしも俺の指物を引かせろ」と命令がきて
鮭延が「鉄砲50でも100でも届けてくれ。鉄砲で相手を怯ませて、そのタイミングで引く」
と答えたものの義光は鮭延が留まっていたのを知らずにシカトしてたが
それを知って自らやってきて指物をひかせろと再度命令。
「だからさっきも言ったじゃん!鉄砲よこせ」「わかった」
これで30挺が届けられた。ついでに伊達の援軍が近くを通過したから
ここに上がってきてくれと頼むもシカトしてどっか行っちゃう。
安食七兵衛が今度は通過してきたので「ここに上がってきてくれ」というと
「わぁった」って行って上ってきたが上杉側から鉄砲の集中攻撃が加えられ
鮭延にあたった玉は鎧を通過せず、安食は股を打ち抜かれた。
そして30挺で反撃したタイミングで二人は引き上げてる。
直江ものちに出羽守雁金指物の激しい取り合いで牛のように驚かず
立ち回った方がいて取れなかったが、あとで鮭延と聞いた」と言ってたそうだし
最上方の誰もが直江方は強かったと話していたという。
また10/1の上杉の撤退戦では16時ごろ敵を追い崩したところ
上杉方が踏みとどまって200挺で反撃してきて、
敵軍もそれに合わせて引き返してきたから
最上軍が慌てて撤退する状況になったが
のちに鮭延がそれにしても見事な鉄砲殿だったと感嘆したところ
直江の鉄砲大将の鉄孫左衛門と言う人物だったのがわかった話とか。
0840人間七七四年2014/11/07(金) 18:17:16.07ID:XtmtpWBX
25000もの大軍率いて最上7000伊達3000に大敗した
雑魚が上杉と直江

これが事実だからwww負け犬の雑魚上杉ヲタw
0841人間七七四年2014/11/07(金) 18:19:04.34ID:GhdieX7H
長谷堂城の戦いは降伏待ちでしょ。
事実、包囲した後に2回しか攻撃してないし、
そのうちの一回は退却を悟らせない為に攻撃しただけだし。
上山城で上杉が負けた話も軍記だけの捏造話。
直江の軍事指揮にマイナス評価される部分なんて特に無いだろ。
伊達の小田原参陣の立役者は直江。
政宗宛や片倉宛の参陣を強く促す書状が何通も現存。
また、政宗が佐竹家との関係で白河街道を通れないため、わざわざ政宗と小十郎に上杉領上野他を通過させている。
直江がいなければ葛西や大崎と同様、間違いなく伊達も改易だったろう。

12日の直江から岩井への書状内での南部の動きを予言しており
それを裏づけするように8月13日の南部宛て政宗書状に「一揆少々蜂起之由 」とあ
り宛て先が南部信濃守殿御宿所となっているのは政宗が最上陣にいる南部へ出している証拠。
この日付の数日前には政宗は和賀一揆を引き起こしているはずで安東・六郷・仁賀保・小介川らが
前田・長束・増田の三名連署の檄文を受け取ったのは8/21付の家康の帰陣命令が届いた以後と
しているので南部の撤退が和賀一揆が原因なのが判明する。
上杉と伊達と佐竹は裏で通じており家康が白河決戦をする寸前のタイミングで
南部を最上陣から撤退させ、義光を狼狽させ伊達軍も南部領へ進撃を開始する手筈になっていた。
8月7日付書状で家康はやっと政宗に実は江戸に帰っていたと言っていて
往来の警戒が激しいのか書状の到着にものすごく時間がかかっている
この時期から政宗は家康がいまだ小山にいると誤認して一揆を引き起こしているのがわかる。
政宗が欲をかいて譲渡約束していた刈田郡の他に
信夫郡や伊達郡の一部までどさくさ紛れに受け取ろうとして川俣城を接収した為に
早速に伊達軍を瞬殺し、当初からの国境約束の信夫郡や伊達郡を上杉側のラインとして政宗に周知徹底させ
さらに刈田郡西部の譲渡は当分先送りの罰を与えただけ。
のち政宗が山形攻めに兵を出すことになりその恩賞として刈田郡西部が譲渡された。
上杉120万石に取って刈田郡1万6000石などカスみたいな地であった。
0842人間七七四年2014/11/07(金) 18:19:56.48ID:GhdieX7H
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。

伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w
0843人間七七四年2014/11/07(金) 18:21:40.65ID:GhdieX7H
本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
☆3/29会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152) ←最新の研究結果で発給された年の変更
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→21万石加増で34万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
0844人間七七四年2014/11/07(金) 18:25:32.29ID:XtmtpWBX
馬鹿上杉ヲタがどんな言い訳しようと伊達に白石城瞬殺で落とされて刈田郡刈り取られた事実
25000もの大軍で最上領に攻め込み返り討ち大敗最上伊達連合軍からボロボロに敗走した事実は変わらないんだな

結果は身の程知らずの負け犬雑魚上杉が徳川に土下座謝罪して大厳封
これが事実だからwww
雑魚負け犬上杉ヲタww
0845人間七七四年2014/11/07(金) 18:29:29.01ID:XtmtpWBX
最上伊達に負けてなかったら何故直江は自刃しようとしたんだ?

負け犬の雑魚上杉ヲタwww答えてみろやwww馬鹿w
0846人間七七四年2014/11/07(金) 18:55:32.60ID:GhdieX7H
伊達の歪曲言い訳が各所に見られる政宗の小姓を勤めた木村宇右衛門覚書によると
南部が普通に考えて落ちるわけが無い白石城が伊達の手に入ったのは
政宗と景勝が内談していたからだと主張している。
白石城譲渡がなんら根拠のないものではなく、当時からすでに指摘されていることだ。
0847人間七七四年2014/11/07(金) 18:58:25.21ID:XtmtpWBX
内談wwww
馬鹿だろwwwただで城と領地明け渡したってかww
どんだけ伊達にビビってんだよww

実際は瞬殺で落とされて切り取られたのが事実だからww雑魚負け犬上杉ヲタの馬鹿www哀れw
0848人間七七四年2014/11/07(金) 19:25:55.97ID:maa6+PVL
菅沼は相変わらずキチガイだなあ
0849人間七七四年2014/11/07(金) 19:44:14.38ID:D5dddvTT
>>837 確かに氏郷生きてたら狸に付いてたかもね
コピペ連投さん達、資料出してきて素晴らしいが、まあ引き分けって事で!
しかし菅沼と言われてる所以は?
戦国時代菅沼何たら言う部将居たような…
0850人間七七四年2014/11/07(金) 19:50:36.65ID:XtmtpWBX
第三みどりハイツ 菅沼でググれよ
有名なキチガイだから
0851人間七七四年2014/11/07(金) 20:50:50.35ID:GhdieX7H
史料を出して反論できない都合が悪い書き込みに対して、
菅沼とレッテルを貼って自作自演を繰り返し排除するのが戦国板のキチガイの習性です。
0852人間七七四年2014/11/07(金) 21:07:17.95ID:XtmtpWBX
ID:GhdieX7H
お前は菅沼だろうがww
それに上杉が伊達に白石城瞬殺で落とされて刈田郡刈り取られ
最上に25000もの大軍で攻めたが返り討ちで大敗しボロボロで敗走したのは史実、定説だから

馬鹿な雑魚負け犬上杉ヲタがいくら史実を歪曲、捏造しようと一般常識の事実は覆らないんだよなw
0853人間七七四年2014/11/08(土) 00:01:51.18ID:GhdieX7H
>>846
その文書には署名している不可解な文書であることに起因してる。

>>白石城将登坂の降伏起請文
これの存在は一次史料との矛盾が大きいよね。

家康は政宗が一度、領国に帰ってから動員し
家康の会津征伐軍の白河攻めに呼応して政宗の白石攻めが行われることを望んでいた
→伊達治家では一度、領国に帰ってから伊達軍を動員したので
片倉や石川も白石攻めに参戦し激しく攻城したし、家康の指示通りに行動したと捏造してる。
しかし一次史料だけで読むと家康の指示を無視して暴発した政宗は
京から帰る途中で政宗単独で白石城を軽く手に入れたってことになる。
このことを光成氏は事前の交渉によって話がついていたから
簡単に政宗が白石城を手にいれたのだろうと指摘してる。
白石は甘糟や御検使まできて御仕置をして防備強化がなされていた。
それを政宗が領国に帰ってから白石を攻めろと言う家康の命を無視して、
帰りがけの政宗が伴の者だけで落としたわけで、
不可能なことをやってるのは明らかにおかしい。
また村越宛書状によると即日、白石を手に入れているため
(軍記類だと政宗は帰国後に攻めてきて、翌日朝に降伏を受け入れたと改変されてる)
そのため北目の伊達軍が合流した証拠はまったくない。
政宗のお供だけで白石と川俣は同日に落とされたとするのは不審。
0854人間七七四年2014/11/08(土) 00:05:50.46ID:KSy00IEP
同じコピペの長文うぜーんだよ
馬鹿菅沼
同じ内容のトンデモ説を何度も貼ってんじゃねーよ キチガイ
0855人間七七四年2014/11/08(土) 05:48:43.28ID:9d3KR7ce
>>849
自分の本名をうっかりバらしちゃったのよ
0856人間七七四年2014/11/08(土) 08:48:36.05ID:WkkWhDFl
ダサッw
0857人間七七四年2014/11/08(土) 12:56:30.30ID:lw65M4a1
菅沼は相変わらずキチガイだわ
もっといいとこに住めよ
0858人間七七四年2014/11/08(土) 18:15:05.89ID:hAzYm3dR
味方の神保にしか勝ったことがない政宗www
蘆名の血すらひいてないガキの蘆名の自爆を必死に勝利カウントwww
0859人間七七四年2014/11/09(日) 01:17:40.64ID:n2BQHKUM
>>355です。
関ヶ原検定の結果が届きましたね。
私は3級が94点で合格。
2級が71点でどちらも合格しました(70点が合格ライン)。
2級の自己採点が68点で合格していなかってけど辛めに採点しといたのでギリギリ合格できてよかったあ。
特に2級合格は自己採点でもギリギリでどうだかわからなかったので超うれしい。
しかも3級2級共に西軍勝利(どうでもいいけど)。
やったー!万歳!万歳!万歳!
0860人間七七四年2014/11/09(日) 17:23:38.87ID:/Sl9LNhc
政宗は蘆名、佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう伊達包囲網を
自力で突破したからな 南奥連合滅ぼして蘆名は滅亡佐竹も滅亡寸前
これを家督継いで僅か5年の23才で行い領地拡大のスピードは信長以上の天才
最強戦国武将が伊達政宗だからな
上杉なんて雑魚は負けて当然だから何も恥ずかしくないよ
負け犬上杉厨
0861人間七七四年2014/11/09(日) 18:45:56.63ID:fEGmk8rB
結局は切り取った領地を丸ごと召し上げられたばかりか
先祖伝来の伊達の地を失ったけどな
0862人間七七四年2014/11/09(日) 19:05:07.20ID:/Sl9LNhc
それは上杉も一緒だけどな
しかも30万石に大減封された雑魚
0863人間七七四年2014/11/09(日) 19:08:48.80ID:fEGmk8rB
上杉sageても伊達ageにはならんぞ
どっちも家康に比べればクソ雑魚
幕末で勝ち組に転じた毛利・島津よりも雑魚
伊達は維新で宗家が分家に抜かれる始末 伊達宗家伯爵 宇和島分家侯爵 毛利と島津は公爵
0864人間七七四年2014/11/09(日) 19:20:34.81ID:/Sl9LNhc
幕末に政宗関係ねーけど
馬鹿なのか
それに明治天皇が政宗を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗の事である」と最大級に評価してる
官位も従二位権中納言
伊達政宗>>>>(越えられない官位の壁)>>>>毛利、武田、北条、上杉、今川、細川その他クズ大勢
0865人間七七四年2014/11/09(日) 19:31:16.81ID:fEGmk8rB
じゃあ大納言の前田利家の足をペロペロ舐めないといけないよね
0866人間七七四年2014/11/09(日) 20:03:08.01ID:/Sl9LNhc
>>863
それ言うなら幕末に潰された徳川も雑魚になんだろ
アホか
0867人間七七四年2014/11/09(日) 21:46:03.15ID:d3uph38F
>>864
戦国時代で比較するなら、
毛利元就は正一位になってるよ。
0868人間七七四年2014/11/09(日) 21:52:08.97ID:/Sl9LNhc
>>867
毛利元就は存命中は従四位で存命中の政宗の従三位の方が上だな
0869人間七七四年2014/11/09(日) 22:59:53.33ID:fEGmk8rB
>>866
徳川は維新後も公爵ですがなにか?
0870人間七七四年2014/11/09(日) 23:03:04.90ID:fEGmk8rB
公爵 島津 毛利 徳川宗家 徳川慶喜家
侯爵 宇和島伊達(政宗に冷遇されまくった妾腹の子の系譜)
伯爵 伊達宗家(政宗の正当な後継者)
0871人間七七四年2014/11/09(日) 23:30:19.10ID:d3uph38F
>>868
存命中で勝負するなら、
毛利輝元は従三位だから一緒じゃん。
0872人間七七四年2014/11/09(日) 23:38:54.63ID:/Sl9LNhc
>>870
政宗に関係ない幕末の話を延々してるお前はホントアホだな
ここは戦国板だろうがスレチなんだよ アホめ
それに島津、毛利なんか家康のお情けで潰されなかった負け犬だろ

>>871
元就逝去が元亀2年で贈従三位が元亀3年だろ
0873人間七七四年2014/11/10(月) 00:08:41.31ID:GF+mdiN3
>>871
あー輝元ね
輝元なんて関ヶ原の時も大阪城に籠もってただけで36万石に減らされた無能じゃん
0874人間七七四年2014/11/10(月) 00:16:31.83ID:/BC9OCiY
>>872
それいうなら政宗も秀吉や家康のお情けで首の皮つながっただけですが
0875人間七七四年2014/11/10(月) 00:23:33.99ID:GF+mdiN3
>>874
政宗は秀吉政権では関白秀次と仲よかったり
徳川政権では秀忠家光に尊敬され「天下の御意見番」として重宝された所が全然違うよね
島津毛利なんて冷遇されてたから
ここが能力の差だな
0876人間七七四年2014/11/10(月) 00:32:37.17ID:lJ6jJlQ4
官位の話をしてたから論破したら、
その次は、誰それと仲良いとか尊敬されてたとか
論点がずれまくってるな。
0877人間七七四年2014/11/10(月) 00:37:41.97ID:GF+mdiN3
ずれてないよ
官位だけじゃなく関ヶ原時の立ち回り方や石高、政権内に於ける立場、影響力、それら全てを総合的に見て評価してるんだよ
0878人間七七四年2014/11/10(月) 05:36:35.59ID:/BC9OCiY
利敵行為働いてお墨付き反故にされたマヌケさんの話題はどうでもいいよ
0879人間七七四年2014/11/10(月) 08:39:18.45ID:jrzqJbYk
政宗は取り潰されなかっただけでラッキー
上杉に感謝すべき
0880人間七七四年2014/11/10(月) 11:15:26.05ID:MQKVE5pN
>上杉に感謝すべき
秀吉・家康に感謝しろってのは分かるけど
なんで上杉に感謝するの?
0881人間七七四年2014/11/10(月) 19:44:38.23ID:bCfH3nZa
>>873
輝元は西軍総大将として積極的に行動したから36万石に減らされんだけど
関ヶ原の戦いを関ヶ原本戦での行動でしか見てないほうが無能じゃね
0882人間七七四年2014/11/10(月) 19:45:21.76ID:vXstsMYw
関ヶ原が半日で終わるなんて誰も予想出来ないだろ
長期化を見込んで天下取りに動くのは実力のある武将としては当然
家康三成の言い成りになってただけの小物とは政宗は器量が違うな

>上杉に感謝すべき
ほんと上杉厨は頭がおかしいな
0883人間七七四年2014/11/10(月) 19:49:38.03ID:vXstsMYw
>>881
三成、恵瓊に良い様に利用されただけだろ
大阪城に籠もってたのが総大将として積極的に行動した事になんのか
結果一族の小早川吉川も纏められない無能だろ
0884人間七七四年2014/11/10(月) 20:03:23.56ID:iGYTQk9F
無能におんぶにだっこな三成はもっと無能って話か?
0885人間七七四年2014/11/10(月) 20:05:36.13ID:vXstsMYw
8万の兵を率いても纏められずに半日で敗北したんだから普通に無能だよな
0886人間七七四年2014/11/10(月) 20:14:43.35ID:/BC9OCiY
>>883
家康は本当は毛利とは穏便にすましたかったけど大阪城はいったらガチで首謀者だったことが発覚して
罰せざるを得なくなって扱いに困った。最低でも改易しなきゃ筋が通らんけどそれやると毛利も全力で反抗してくるから
一旦、全部取り上げて防長二国を吉川にやってその吉川に本家に譲らせるという小芝居でなんとかやりすごした。
もっというなら毛利から削った土地を福島にやりたくなかった。でも、やらざるを得ない。
そんぐらい関ヶ原の直後は福島の発言力が強かった。家康が直臣に腹を切らさせられるぐらいに。
0887人間七七四年2014/11/10(月) 20:23:57.97ID:vXstsMYw
>>886
まぁ結果吉川のお陰で改易免れた無能って事だよね
0888人間七七四年2014/11/10(月) 20:30:07.25ID:Z1k6pT/p
創価信者がまた必死に輝元擁護してんなwww
そも三成はただの前線指揮官の一人であって
総指揮をとっていたのは毛利輝元であり、
東軍の大津城攻撃に毛利軍を派兵したのは完全に輝元の意思。
しかも総指揮輝元は両川の小早川秀秋軍団からも
立花隊や小早川隊や筑紫隊を抽出派兵。
家康は大坂城を手に入れるためにあえて輝元は騙されていただけだから
罪に問わないとしらばっくれてただけだから、誓詞を一切出さずに騙す気満々だったじゃんw
輝元本人も広家に一刻も早く、家臣の口約束ではなく、家康本人から誓詞をもらってくれって
疑心暗鬼で広家に哀願してる始末wwwww
0889人間七七四年2014/11/10(月) 20:38:53.83ID:lJ6jJlQ4
毛利はおもろいな。
本能寺の時も、関ヶ原も、幕末も、重要な時に出てくるな。
0890人間七七四年2014/11/10(月) 22:41:25.15ID:MQKVE5pN
>>884
三成だけじゃ諸将あつまらんからな
輝元の能力はともかくとして
毛利家は大老、家康に次ぐ大大名の格として、かなり他の大名にも一目置かれたみたいだし
0891人間七七四年2014/11/10(月) 23:45:49.10ID:mPoJD6Gz
毛利輝元は関ヶ原より後だけど
大名やめたいとかいって誰かに泣きついたって
どっかにあった
0892人間七七四年2014/11/11(火) 19:57:07.71ID:goYsqnK1
情けないのう
父隆元も天国で嘆いてただろう
0893人間七七四年2014/11/11(火) 20:11:01.11ID:IE30kY0D
家臣が切腹しろって言うって天下人に泣きついた池沼いたよな?
0894人間七七四年2014/11/12(水) 03:15:47.58ID:6DNe4xfQ
政宗のことじゃんwww
0895人間七七四年2014/11/12(水) 08:14:28.54ID:dAbcOJ8U
>>889
毛利の大元(本家筋)入れるとまで、日本の歴史に凄い関わっているよねw
0896人間七七四年2014/11/12(水) 18:20:03.54ID:TKvRmkhX
隆景に実子が居れば金吾なんぞが関ヶ原に出る幕は無かったはず 毛利はマジ戦国のカギだな
0897人間七七四年2014/11/12(水) 18:31:42.39ID:jojW1hFp
その場合の金吾は毛利宗家当主として関ヶ原に出る幕だなw
0898人間七七四年2014/11/12(水) 18:56:45.64ID:Ag2bJrx2
隆景って、何であんな晩年まで養子取らなかったんだ?
0899人間七七四年2014/11/12(水) 19:46:25.25ID:65ZHOFnQ
40半ばで弟を養子にしてるから晩年までということはないような
0900人間七七四年2014/11/12(水) 19:55:35.12ID:fupXKNGP
養子は養子で秀吉から別個に領地貰ってたからなあ。
その時点で別家扱いになった。
豊臣政権下ではわりとよくあることで親兄弟の領地をそのまま引き継げるとは限らない。
丹羽とか蒲生とか親が死んだらごっそりと領地もってかれたし。
0901人間七七四年2014/11/12(水) 20:11:07.70ID:UITljQPa
息子をビシビシ鍛えて代替わりのときになめられないようにしようと思っても
人質に取られてしまっていて鍛えようがなかったりするよね。
0902人間七七四年2014/11/12(水) 22:49:02.22ID:OwrWLSeI
>>895
毛利家の祖先は、
楠木正成に兵法教えていたり、
源頼朝の片腕として鎌倉幕府を仕切っていたり、
源義家に兵法教えていたり、
面白いよな。
0903人間七七四年2014/11/12(水) 23:36:57.85ID:huwNtPBr
120万石以上あった丹羽の場合はずっと上洛して
秀吉に挨拶してこなかったから大減封された。
それは上洛しない家康に対する威嚇と脅迫を意味しており、
案の定、家康も上洛してくることになった。
0904人間七七四年2014/11/13(木) 00:04:40.20ID:5RwNbPlh
人質として中央にいれば他の有力者とつながり持てたりしてなんかのメリットがあったり
0905人間七七四年2014/11/13(木) 00:15:29.84ID:nQubGA1q
死ぬまで五大老だった隆景は、秀吉に頼まれてゴミ金吾を養子にしたのが西軍の運の尽き
0906人間七七四年2014/11/13(木) 01:19:43.07ID:I8X49Fwb
毛利輝元がヘタレになってしまったのは
小早川隆景が虐待し続けたから。
委縮して心が折れてしまったんだよ。
関ヶ原前も福島正則や石田三成に脅され
毛利秀元に山陰50万石くらいを割譲するところだった。
秀元の機転と家康の仲裁で何とか免れたが。
西軍の大将なんて器じゃなかった。
0907人間七七四年2014/11/13(木) 02:30:20.16ID:V/KFv1Jq
毛利元就は何故に両川に天下を目指すなといったのか?
0908人間七七四年2014/11/13(木) 03:00:18.20ID:5RwNbPlh
大内パターンの天下取りくらいまでしか想像できなかったんだろ
労多くして功少なし
0909人間七七四年2014/11/13(木) 05:36:46.96ID:DiOVMiKu
>>907
自分の親父が京の政争に巻き込まれて散々な目にあったから
あとこの場合の天下ってのは天下統一の意味じゃなく畿内を示すから
用は地元を固めて中央の政局に色気は出すなと言いたかった
まあ現実の情勢の変化をかんがみればずっとそのままなんてわけにはいかないんだが
0910人間七七四年2014/11/13(木) 05:44:27.76ID:DiOVMiKu
>>906
割譲もなにも秀元の分離独立は毛利側から頼んだことなんだが
0911人間七七四年2014/11/13(木) 08:16:59.95ID:/1O4MU+e
>>906
輝元って、元就が生きている時代からヘタレじゃなかったっけ?
0912人間七七四年2014/11/13(木) 21:53:12.50ID:02Gn70f5
>>906
>>秀元の機転と家康の仲裁で何とか免れたが。
はいはい大うそ乙
秀元と家康が共謀して輝元を脅迫してできる限り割譲させて
毛利宗家の輝元を追い詰めていたから三成ら奉行衆と輝元が協調して
輝元の領地をできる限り削減されない方向で動いた結果だわ。
このことが原因で家康に対して輝元は遺恨が生まれ対抗していく姿勢を示すようになる。
秀吉生前には輝元と家康にまったく遺恨なんてなかったからな。
0913人間七七四年2014/11/13(木) 23:29:21.97ID:huzN4A8/
>>912
秀元の領地問題はもともと長門一国を貰うはずだったのが三成の馬鹿がなぜか
広家が支配していた領地に秀元を入れようとしそれに激怒した広家が黒田長政を通じて
家康に事の解決を頼み家康は本来の予定通りに秀元は長門一国を貰うように決定したのが
事の真相なんだけど
何で領地問題を起こした三成が領地問題を解決したように捏造してんの
0914人間七七四年2014/11/13(木) 23:33:36.84ID:hRs29zD4
三成、襲撃事件起きるのわかるわ。糞むかつくわ、三成。
0915人間七七四年2014/11/13(木) 23:57:13.17ID:x9EyreFb
なんで敗戦濃厚になった場合、大垣城への退却と籠城考えなかったのか。
秀頼って直轄軍いなかったの?秀頼出陣しなくても、直轄軍を出陣させろよ。
0916人間七七四年2014/11/14(金) 00:09:19.84ID:ptN4OgnV
秀頼の直轄軍なんて大阪の陣見ればたかが知れてんだろ
0917人間七七四年2014/11/14(金) 00:11:50.71ID:l2zkhWRP
結局直轄軍が家康より少ないうえに、名のある武将すらいない豊臣は、家康の敵じゃないな。。
0918人間七七四年2014/11/14(金) 00:17:27.81ID:Pr3ZWeyi
三成のバカがじゃなくて、輝元と三成ら奉行衆の総意。
家康は毛利や宇喜多や島津や前田や上杉らの弱体化をはかっていたからね。
長門一国を秀元に割譲したら、もともと家臣に恩賞で領地をあてがい過ぎて
輝元直轄地がまるでなかったので毛利本家は破綻するから無理なんだな。
0919人間七七四年2014/11/14(金) 00:23:14.98ID:iVfmRMga
大垣なんて小城に籠城してどうすんの
0920人間七七四年2014/11/14(金) 00:44:32.56ID:Pr3ZWeyi
家康が大垣を水攻めで落とすって書状に書いてるからな。
その策を三成は読んだ上での行動だろ。
あと正月に肥後から上洛してきて領国に帰ってない小西は
手持ち兵力が極端に少なかったので大坂城の兵力を与力につけてるし、
軍記だと三成も大坂城の兵力を与力にしてる。
いろいろな一次史料から淀もねねも西軍側だったのがわかるしな。
0921人間七七四年2014/11/14(金) 01:31:43.19ID:zX4YsB50
逆だろ。福島が水攻めしようとしたの短期決戦したい家康が止めた。
0922人間七七四年2014/11/14(金) 08:03:32.56ID:Pr3ZWeyi
逆じゃねーよ。
福島らが三成を大垣で包囲したっていう
家康を江戸から釣り出すためのデマを
真に受けたバカ家康の書状知らんのかよ。

福島らに大垣は水攻めする予定だから
俺が到着するまで
大垣攻めるの中止って書状を出して
引き込もってビビってた家康が
急いで江戸を出発したのも知らんのかよ。
0923人間七七四年2014/11/14(金) 12:21:52.33ID:hJS1DJOn
三成襲撃事件のメンツのwikiの肖像画がすごすぐる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86

こんな連中に襲撃されりゃ
三成でなくとも小便ちびっちゃいそうだ
0924人間七七四年2014/11/14(金) 12:25:30.05ID:zX4YsB50
>>922
細川家譜に詳細が載ってて家康が止めさせてる。
0925人間七七四年2014/11/14(金) 21:41:51.06ID:ZqyBFTDX
細川家譜は一次史料じゃねえよカス
0926人間七七四年2014/11/14(金) 22:16:43.80ID:zX4YsB50
お前かっこわるいなw
0927人間七七四年2014/11/15(土) 02:41:39.53ID:ITb//+Ub
家康の書状は一次史料
細川家譜は後世編纂による二次史料
そのくらいも理解できない人はゲーム板に行くべき。
0928人間七七四年2014/11/15(土) 11:12:32.94ID:QpNlcCrt
家譜見てみればいいじゃん。一次史料と矛盾せず補完する内容になっている。
当時の書状なんて箇条書きみたいなものだから行間の読み方次第で意味が変わるから
編纂物のうち信用しうる記述で補強して正確な意味を読み取ることが現代の研究の基本なんだが
0929人間七七四年2014/11/15(土) 16:22:01.84ID:6DWYJhp5
>>928
最近は白峰旬や矢部健太郎のように専門家でもそういうのを理解していないから困る
0930人間七七四年2014/11/15(土) 17:07:26.66ID:8Dfr1MI8
スレチだが、酒井家の家譜に三方ヶ原の戦いで
織田からの援軍は2万って書いてあるらしいんだよね・・・
徳川家重臣筆頭の酒井が書いてたんだから、それが真実じゃないかとオモタ
0931人間七七四年2014/11/15(土) 19:53:29.19ID:6DWYJhp5
兵数は本当に難しい
最近だと、白峰氏は岐阜城の戦い時の正則作成の兵数覚書を挙げているが、
これに従えば畿内以西の上方大名の兵数は三人役よりも大幅に少ないことになる

つまりそれらと戦った三成が数倍の相手に大奮闘という話も、嘘になる
が、そういう話に全く触れない辺りが白峰氏のアレなとこだが
0932人間七七四年2014/11/15(土) 20:48:23.05ID:ITb//+Ub
家譜なんて後世の人が書いた
自家の自己正当化の捏造じゃん。
そんなもん信じたらみんな藤原や源氏や平家の子孫ばっかじゃんwww
0933人間七七四年2014/11/15(土) 20:51:22.99ID:QpNlcCrt
この人もしかしてアホなんですか?
0934人間七七四年2014/11/15(土) 20:55:02.25ID:00977v5A
畿内以西の上方大名というのは上杉征伐に従軍した東軍参加組のこと?
黒田や加藤藤堂あたりの遠方組が3人役というのも朝鮮出兵や小田原征伐の例からすれば
確かにおかしいか。
0935人間七七四年2014/11/15(土) 21:04:49.51ID:QpNlcCrt
西国大名は基本大坂留守居役だから征伐軍に従軍したのがおかしいわけで
通常の軍役で考えるのもおかしいくなるんじゃないかな
0936人間七七四年2014/11/15(土) 21:23:13.21ID:Qtv9/Ygv
兵力に関しては島津義弘の手紙を元に
参謀本部が石高からの推算した兵力が今だに元になってるんでしょ
0937人間七七四年2014/11/15(土) 21:23:52.20ID:6DWYJhp5
そうなんだけど、これまでは日本戦史が仮に定めた一律三人役が、適用され続けていた訳で
0938人間七七四年2014/11/15(土) 21:32:33.45ID:6DWYJhp5
外にも家康の兵五万、上方大名の兵四万という話もあり、
これだと上方大名がいなければ勝てなかった家康という話も怪しくなる
0939人間七七四年2014/11/15(土) 22:57:46.81ID:QpNlcCrt
軍事面は戦後全然研究が進んでないからね。学者はこぞって軍事オンチだし
軍記物の兵力はまったく当てにならない。一次史料も外交文章の「号する」系の兵数も当てにならない
軍役と陣立書から参謀本部が仮に算出した兵数はまだ信用が置けるから、いまだに使われるのは致し方ない
昔より史料収集や評価が進んでるから、兵数もそうだが関ヶ原布陣図などもいい加減更新すべきだわね
0940人間七七四年2014/11/16(日) 00:45:43.20ID:lMIQifn9
>>927
こんなことほざいてるお前がゲーム板逝っとけw


196 :人間七七四年[sage]:2014/11/15(土) 02:37:55.53 ID:ITb//+Ub
だって自分こそが内裏そのものだから、
天皇に会う価値は全くないって宣教師に宣言してるんだから
信長は天皇否定and朝廷解体をめざしていたでしょ。
志賀の陣や石山本願寺との和睦など戦局劣勢の時に
天皇と朝廷にすがるために存続させてきただけで。
0941人間七七四年2014/11/16(日) 18:29:54.21ID:gIMGcPKy
同じ戦いなのに、史料によって参戦人数が違うとか
もうわけわからん・・・
0942人間七七四年2014/11/16(日) 18:36:38.63ID:yA5P+3wx
各大将がいるとは言えそんな人数どうやって統制するんだろう?
0943人間七七四年2014/11/16(日) 19:13:03.82ID:25tp6bGI
当事者が書いたものじゃない家譜なんか論文の論拠に全く採用されねーし。
0944人間七七四年2014/11/16(日) 19:39:09.86ID:LAnrnlgX
そんなことない
家譜も一次史料と照らしあわせて嘘か本当か検討したら有効だろ
それより覚書とかの方が酷い印象ある。
自身の武功褒め称えるためか
兵力とか有りえんだろって思うぐらい大げさに誇張したり
0945人間七七四年2014/11/16(日) 20:00:43.52ID:WzdXUhQh
勝者の歴史は捏造だらけという歴史学の常識からして
負けた側の資料が正解
0946人間七七四年2014/11/16(日) 20:06:20.08ID:LOv8zRN9
分からんぞ[
敗者は敗者で負けた言い訳を並べてるし
0947人間七七四年2014/11/16(日) 21:49:13.30ID:3PWusM0B
じゃ、分からんっていうことで議論終了。
0948人間七七四年2014/11/16(日) 22:01:35.46ID:iBSEoz1l
>>942
はっきり言ぅて、していない
独断専行の許容で戦国期日本の軍隊は成り立っている
0949人間七七四年2014/11/16(日) 22:18:41.67ID:pGddJ81O
>>931
「関ヶ原合戦の真実」(白峰旬)112〜120頁のアレか
この正則覚書(慶長五年八月二十一日付)だと
黒田隊1300、細川隊2000、加藤隊1600、藤堂隊1500で
苦戦したと言われてる部隊は軒並み(一万石あたり300人の従来算出法と比較して)
人数少ないんだよな
福島隊は6500でちょっと多いけど

従来算出法だと石田隊は6900になるので
黒田+細川=3300の倍以上居る計算になる

逆に池田隊6500・山内隊2600・田中隊4000等あまり交戦してなかった組は多め
トータルでも従来の算出法で54090のところ41100になってかなり少なくなる
0950人間七七四年2014/11/16(日) 22:26:13.25ID:Ax8wUe/u
>>944
史学の世界じゃ
一次史料>>>覚書や口述記録>>>家譜

家譜はそもそも後世の人間の願望妄想だから。
0951人間七七四年2014/11/16(日) 22:47:01.72ID:3XrWATVm
>>948
ありがとう
やっぱり無理があるよね
0952人間七七四年2014/11/17(月) 06:00:07.74ID:ri6F6P76
>>949
当たり前だけど
主戦場に近い大名ほど動員数多くて
遠国ほど少ないな。

地の利のあって動員もしやすいだろうに
あっさり落城させられた織田秀信が余計ショッパく感じる
0953人間七七四年2014/11/17(月) 08:34:30.19ID:XKMOiJWt
位が高いから兵をより多く率いれる
金吾は中納言だったから15000近く率いれたからあの大軍が裏切れば、そらたまらんわ
0954人間七七四年2014/11/17(月) 08:52:33.54ID:M7Z+Uvll
岐阜城は7回も落城しているんだぜ
そんな城じゃあ誰でもすぐに落とされるよ
0955人間七七四年2014/11/17(月) 16:16:01.79ID:mL9ppqcN
だいたい攻め手の池田輝政は元城主だしな。
城の穴なんて知り尽くしとる。
0956人間七七四年2014/11/17(月) 23:20:11.99ID:bQ2k8Mc7
関ヶ原は家康と三成の博打だと色んな資料みると思うよ。
賭けるものが大きい家康は慎重、真剣、大胆に事を動かし、賭けるものが小さい三成はそれが中途半端だった。
賭けは同じ力量同士じゃないと賭けるものが大きい方がだいたい勝つね。
せめて豊臣家全財産はたくくらいの戦略組まないと勝ち目ないよ。
0957人間七七四年2014/11/18(火) 00:06:16.45ID:uiDwfkTO
秀頼さまに馳走してなんか得あんの?って思うだろうね。豊臣政権で優秀で権力あるのは家康であって、秀頼は暗愚なのか将来有望なのかすら分からない。
これじゃ勝てないよね。戦う前に負けてる。
0958人間七七四年2014/11/18(火) 09:04:00.88ID:Z3fAij1u
どの大名もみんな家臣一族やしなわにゃならん立場だから基本的には食い扶持を保証してくれる実権を保持している奴になびく。
西軍なんて家康ぶっ殺してワンチャン狙おうぜな野心家かそいつらに囲まれて仕方なく取り込まれた不運なやつらのどっちかしかおらん。
0959人間七七四年2014/11/18(火) 11:27:01.72ID:YPjwEsEg
七将が三成屋敷襲撃した時、家康がそれ抑えたけど
七将は、コイツ(家康)も三成派だと憤慨し討たなかったのはなぜなのか
0960人間七七四年2014/11/18(火) 12:26:52.89ID:Xf49CwPx
小物が七人集まった所で家康に勝てる訳ない
0961人間七七四年2014/11/18(火) 12:38:48.70ID:AQ08g+Ju
裁定が三成蟄居で七将お咎め無し
憤慨する理由が無い
0962人間七七四年2014/11/18(火) 13:00:20.98ID:t/iKUrPq
軍師官兵衛とか今関ヶ原前やってるけど、ドラマとは言えやっぱり事の経過見ると争いはもう確定的だな
あんな状態で丸く治まるなんて無理だわな
0963人間七七四年2014/11/18(火) 13:53:05.42ID:IYKR0eKF
暗黒痔まで巻き込まれる訳か 七将言うても賤ヶ岳の七人に近いが、片桐且元もそろそろ出てきてほしい頃だ
0964人間七七四年2014/11/18(火) 16:46:10.89ID:Vikavg1S
>>960
あの時点だけで言えば、大阪屋敷だから
小物達の方が圧倒的に人数上だったんだがw
0965人間七七四年2014/11/18(火) 17:19:49.46ID:c3cxOapc
福島正則・加藤清正・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・蜂須賀家政・細川忠興・池田輝政・藤堂高虎
我ら9人揃って武断派七将!ってか
確かに9人居るのに7人扱いとか賤ヶ岳七本槍に似てるが
どこの龍造寺四天王やねん…

黒田&蜂須賀(第一次蔚山城攻防戦の論功行賞で涙目コンビ)が首謀者として
それに加藤清&浅野(蔚山城の中の人コンビ)と加藤嘉&藤堂(朝鮮出兵での水軍コンビ)
が加わって、正則(加藤×2と黒田とマブダチ)がオマケで入った形なんじゃねーのと思ってたが
それだとブレ枠の池田はともかく細川がスタメンな理由が無いな…
0966人間七七四年2014/11/18(火) 21:30:01.53ID:Sz72kB9m
>>964
7人集まっても家康に逆らうことすら出来ないんだから小物なんだよ
0967人間七七四年2014/11/19(水) 13:59:19.41ID:MlE2c3X4
細川と黒田、加藤喜明と藤堂は犬猿の中なのに
よくまとまったな。
7将間で争いになってもおかしくなかったのに
0968人間七七四年2014/11/19(水) 14:02:08.13ID:nfzZHZon
共通の敵がいれば仲悪いもん同士でも協力する。
0969人間七七四年2014/11/19(水) 17:24:27.76ID:i4Vgrzui
>>967
黒田と細川は関ヶ原後に犬猿となった。
0970人間七七四年2014/11/19(水) 20:54:27.76ID:2wwTZ2f5
細川忠興の手紙いわく
その後原因は不明だが、黒田長政と藤堂高虎も不仲になったとさ

共通の敵いなくなると子飼い世代でもこんなもんかな
0971人間七七四年2014/11/19(水) 23:40:24.14ID:i4Vgrzui
高虎は子飼いじゃないだろ
0972人間七七四年2014/11/19(水) 23:45:49.03ID:eyWz48oa
江戸時代の仲良い悪いは派閥や幕府へのポーズがあるから一概に言えたものじゃ無いし
混乱期の切迫した利害関係ともまったく別もんだから同一視して考えてちゃいかんよ
0973人間七七四年2014/11/20(木) 00:40:31.68ID:uCiYjs50
敵の敵は味方で7将の中でも状況によっては三成と組んだやつもいるかもな
0974人間七七四年2014/11/20(木) 00:55:06.70ID:NGt44ucR
居るだろ。関ヶ原の一戦だけでなく
長期化すれば、西国に領地ある連中は
兵糧持たないし。

家康が出してやるとも思えん。
0975人間七七四年2014/11/20(木) 14:17:35.65ID:Jzg5u4rZ
そもそも西軍の多くが上杉討伐の兵連れてきたら毛利と宇喜多と三成に恐喝されて仕方なく従った奴らばっかだからな。
0976人間七七四年2014/11/20(木) 15:22:37.51ID:ZtJXjmnL
東軍は豊臣家から兵糧と軍資金を貰えたからいいけど
自腹を余儀なくされた西軍は士気も低いし長期戦に耐えれないのも仕方がないな
0977人間七七四年2014/11/20(木) 16:20:06.00ID:95AM7hAi
そりゃあ東軍は豊臣軍だからな
0978人間七七四年2014/11/20(木) 16:52:16.85ID:xmWlYdEN
家康が豊臣軍であったのは会津征伐の時だけ。
内府たがい条が出されるや、
家康は奸臣となってしまったために、
会津征伐5路軍が瓦解し統御できなくなってる。
家康が三成の挙兵は大したことにないと言って、会津征伐を優先しようとするも、
武断派は西上してしまう始末。
前田軍や南部軍や堀軍や佐竹軍などことごとく家康の統帥を認めず帰国。
家康は江戸でビビり動けなくなる。
0979人間七七四年2014/11/20(木) 16:53:54.41ID:sPc08w2F
変わり映えしない釣りは飽きたでござる
0980人間七七四年2014/11/20(木) 17:37:47.52ID:Qjr9gHb2
白峰説は一次史料のみで考えた(ドヤァ、だから始末におえない
0981人間七七四年2014/11/20(木) 18:07:57.52ID:iOkKbXWG
【五大老筆頭の地位は江戸時代になってから作り出された架空の捏造職です。】
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。
0982人間七七四年2014/11/20(木) 18:09:20.97ID:iOkKbXWG
大坂城内に大坂城天守と同等の高さの天守を家康は作り7歳の秀頼と淀を睥睨。
この天守で家康は事実上の独裁をしていたので、家康に面と向かって反対できるものなど当時いなかった。
その状況を無視するつもりかwwww家康に反対したら、家康暗殺を企てたとかすぐ風聞が飛ぶし。
董卓だって幼帝を殺す大逆はしなかったが、 家康は自分の妻子殺しどころか
秀頼や秀頼の子まで殺したついでに大坂20万人虐殺し、 摂津を中心に人々を奴隷化させて、
諸将が領国へ大規模誘拐するのを容認した悪党だからな。 董卓なんてガキレベル
三法師は信孝やお市や勝家に拉致られて安土に戻され無かった時点で終了。
これにより三法師の立場は傀儡になり、
対抗して信雄が当主当主なって三法師復権の目は無くなった。
三法師は信雄と信孝により立場を奪われた。
秀吉は秀信の成長を待って信忠の旧領岐阜を安堵し官位をガンガン上げてくれた恩人

北政所の側近の孝蔵主という人物
孝蔵主は石田三成とは親戚で一説には三成の父、又は母の姉妹だったといわれている。
もう一人の側近に東殿という人物がいるがこの人は大谷吉継の母。
更に北政所は三成の三女・辰姫を自らの養女としていた。
関ヶ原の戦いでは西軍の出陣後に北政所は戦の神といわれる愛宕天神の神社と秀吉の墓前で
西軍勝利を祈願していて、大津城に使者を遣わして開城勧告を行わせたのも西軍の為の行動。
戦後は東軍についた福島正則らの武断派や寝返った小早川秀秋とは距離をおいている。

三成の娘が上杉へ
ttp://94979272.at.webry.info/200903/article_21.html
また三成次女の娘である振姫は家光側室。
北政所ねねが養女(三成娘)を直江に託したのは上杉が領国に帰る際なので関ヶ原の戦い前年。
また家光の長女が三成曽孫の子。 春日局の養女であり、
男衆狂い家光の気をひかせるために苦労していたくらいなので、
嫡男が生まれてたら正室になってた可能性が高かった。
と言うか男色好きの家光の初体験女性だったし。
クソ馬鹿奸賊徳富蘇峰が、
ねねが東軍支持だと喚いていたから、
そのままその史観が定説化していた。
また大友が奴隷貿易していたように誤解させたのもこのクソ馬鹿が原因。
日本国民を煽って敗戦に導いた巨大ジャーナリストでもあり、
戦後に天皇批判したりと終始一貫しないキチガイ。
0983人間七七四年2014/11/20(木) 18:11:02.26ID:sPc08w2F
ゴミコピペなぞ誰も読まんよ
0984人間七七四年2014/11/20(木) 18:11:23.22ID:iOkKbXWG
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
0985人間七七四年2014/11/20(木) 18:12:41.06ID:iOkKbXWG
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
(大坂に集めた人質の管理も北政所の職責のひとつ)
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。

景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
0986人間七七四年2014/11/20(木) 18:18:00.97ID:idVUzAkb
長文コピペキチガイ菅沼しね
0987人間七七四年2014/11/20(木) 18:20:11.04ID:iOkKbXWG
>>三成がはめたからではないか
ぜんぶ一次史料の根拠が存在しない大ウソです。
そもそも関が原の戦い前夜の三成は家康派として働き、
家康を攻撃しようとした前田軍の侵攻を阻止するため
兵を北陸路閉鎖のために出したり、
三成の兄の屋敷を家康に譲渡したりしていました。
また三成の挙兵自体があくまで「風聞」でしかなく
当時、大坂にいなかった三成が細川ガラシャを捕らえようとすること自体が不可能です。
(だいたい内府たがい条において家康を非難する中で、
諸侍の妻子を勝手に国許へ返したことを避難してるのですから辻褄が合いません)
当然、挙兵の大義名分であった内府たがい条には三成の署名はなく
三成が挙兵に参加したのは風聞通り本当か?を確かめるために書状を再三だしていた
佐竹や真田へ無視を続けていた三成が、ようやく反家康を宣言する書状を出すのが
7月末日であり、このタイミングは伏見城が落ち、瀬田の大橋を毛利軍が確保して、
次の標的が佐和山城になるタイミングです。
戦前は三成と直江が関が原前に書状を交換している証拠の写書状を根拠に
上杉と三成の共謀策が信じられてきましたが、
近年ではそれは捏造偽文書と認定されています。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」


関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
0988人間七七四年2014/11/20(木) 18:36:30.30ID:vTgDyIuf
コピペ連投の菅沼はくたばれ
0989人間七七四年2014/11/20(木) 18:43:46.63ID:iOkKbXWG
明との貿易が出来なかったために、武力で先進技術や茶器や文物を手に入れたいと考えていた。
本願寺も朝鮮南部に拠点を作り布教をしようと、宣教師の真似事をしていた。
当時のアジア貿易による収益を考えれば朝鮮の領地を得て布教活動と中間貿易をすれば
豊臣政権による東インド会社のようなものが出来たかもしれない。

出征前は期待が大きかったが、
実際に現地に行ったら日本より大きく劣化した貧困地域で、
おまけにむちゃくちゃアホみたいに寒かったからね。
だけれども陶磁器技術の大幅向上や朱子学発展につながる書籍類など
江戸時代に隆盛する文化芸術経済には朝鮮経由で得た中華技術が下地にはなってると思う。
ただ400年後の明治政府が同じ道を選んでいるのだから、
秀吉が時代を先取りしていて慧眼だったのがわかる。
ただ当時の技術力が時代に追いついていなかっただけだな。
悪意の解釈もしくは 朱子学について全く知らずに書いてるだけだろ。
水戸学が発展して、日本の国家体制にひとつの解答が生まれ、
世界の中の神国日本として海防意識も生まれ
それが発展した結果、明治維新に思想発展するなど、
日本近代化への知的蓄積と導火線になってるんだぞ。

秀吉はまだ戦国の気風が濃厚に残り平時に乱を望む諸大名らを
半島で疲弊させる目的を持っていたと看羊録に記録されてるし
半島へ出兵中の諸大名の領地を検地したり、戸籍を製作してしまってる。
また半島で失態を起した大名を改易して豊臣恩顧大名への加増に回すなど
よくよく考えられた政策を行っているし、
当時の西洋の植民地主義や重商政策というトレンドが、
日本でも秀吉の志向から芽生えていたのがわかる。
また半島からつれてきた陶磁技術を持つ人材や書籍法典が、
江戸時代の文化レベルを飛躍的に向上させている。
家康は強力な中央集権を放棄し幕藩体制という妥協をせざるを得なかった。
秀吉は絶対主義・絶対王権を背景にして半島南部に植民港湾を確保し、
重商主義のもとに三角貿易による巨額の貿易収支を上げる道を確立する前に死去してしまった。
秀吉の朝鮮征伐は、モンゴル軍を九州へ手引きをしたり、
足利義持が明と絶交した際に、明が日本に脅迫にきたり、
大雨で飢饉多発だった日本の衰退期に朝鮮が対馬侵略してきた応永の外寇への報復を兼ねてるし、
半島南部は大和政権時代の失地回復のためでもある。
なにせ朝鮮亡命貴族が多数日本にいたしな。
在日勢力が盛んに朝鮮出兵寸前のころから秀吉がキチガイ暴君になったとか
朝鮮を攻撃したのは倫理的に非常に悪い行いで、
それが原因で豊臣政権が因果応報のように滅んだと捏造歪曲しています。
しかし一次史料のどこにも秀吉が天下統一後に、
人格が豹変し信長のような悪魔DQNになったなどと書いてはいません。
0990人間七七四年2014/11/20(木) 19:33:44.47ID:Qjr9gHb2
便所の落書きだからこそ読まれる努力をしないと誰も読まんよ
0991人間七七四年2014/11/20(木) 20:35:27.84ID:UqxO3ZvP
菅沼は自分の文章に自信がないから長文書いてごまかしてるだけなんだよな
0992人間七七四年2014/11/21(金) 08:29:41.37ID:Z5h0Wz/4
秀吉の海外大規模渡海派兵力を見た宣教師が、
日本は植民地化できない。むしろ兵力を借りて海外植民地を作る方式の方がいいと報告しているからな。
秀吉の中央集権による統率でしか為せない技で、
家康の幕藩分割統治では不可能。
欧米の脅威が日本を襲わなかったのは秀吉が国の四方に武威を広めて一目置かれたから。
徳川の鎖国政策で日本は遅れに遅れたが、秀吉の武威の遺徳が宣教師の記した文献として残り助かった。
徳川が東アジアの日本町などの海外港湾植民地を切り捨てたのは大失敗。
0993人間七七四年2014/11/21(金) 08:42:51.51ID:zkFdKWM3
秀吉の唐入りなんて何の益も無く無意味無駄なアホ政策だったけどな
徳川の鎖国で近代化が遅れたのは日本にとってマイナスだったな
0994人間七七四年2014/11/21(金) 08:55:24.47ID:qZVM64pR
安土桃山時代は近代化に至る工程が何一つ整っていないので、
リソースを国内開発に振り向けなければ、結局はスイスのような傭兵国家に落ちぶれる
0995人間七七四年2014/11/21(金) 08:57:13.36ID:a11+R7m/
徳川は正確には鎖国なんてしてないけどな。
やったのは海禁政策(幕府による貿易の独占)でこれはどこ国も似たようなことはやってる。
それが後年になった朱子学かぶれのアホが鎖国は祖法なんてでたらめを吹聴したからおかしくなっただけ。
0996人間七七四年2014/11/21(金) 09:01:06.62ID:zkFdKWM3
貿易の独占も長崎でオランダと清に限った物で近代化の情報も技術も何も入って来てないだろ
結果ガラパゴス化し世界の潮流から遅れに遅れ幕末には欧米諸国の恫喝外交に対応出来なくなく全て言い成り
ホント無能
0997人間七七四年2014/11/21(金) 09:05:59.84ID:qZVM64pR
>>996
産業革命の成果が東アジアに伸びた=開国なので
0998人間七七四年2014/11/21(金) 09:18:09.62ID:zkFdKWM3
>>997
遅すぎ
徳川が鎖国してなかったらもっと早く対応出来ただろ
0999人間七七四年2014/11/21(金) 09:54:32.43ID:Z5h0Wz/4
徳川が大船建造を禁止したから、
造船技術や遠洋航海技術が
退化しまくりクソ過ぎた。
秀吉の海外進出路線が続いていれば、
大艦隊がゆくゆくは完成していただろう。
秀吉があと2年生きていたら朝鮮南部支配に成功し、
港湾施設付き沿岸倭城を使った植民地経営が可能だった。
1000人間七七四年2014/11/21(金) 09:59:06.11ID:zkFdKWM3
当時最先端のガレオン船造りスペインや国王やローマ法王への派遣が成功した政宗が天下取ってたら日本の近代化も早まり西欧一流国の仲間入りしてたことだろう
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