小田原の役で後北条軍が豊臣軍に勝利する方法
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0001人間七七四年
2011/09/23(金) 17:50:27.74ID:Blwz8JaE0363人間七七四年
2011/10/30(日) 11:45:38.64ID:S6Twi14v0364人間七七四年
2011/10/30(日) 11:55:48.55ID:JRbKNXSe氏素性のしれん新政権にとって、土着の支配者は悪く言っといた方が得。
後北条なんて、ついこないだまで学校では、伊勢しんくろうって浪人って説明だったし
(浪人どころか、伊勢氏の血統書付きらしいが)
四民平等のどさくさに、歴史改竄しまくっててもおかしくない。
事実、小田原なんて自称北条の末裔の暴力団の噂を聞くんだが
0365人間七七四年
2011/10/30(日) 12:03:26.74ID:XZEjU1Oh毛利輝元の上洛日記みるとまあ大変w
北条は北関東ではずっと交戦中だし財政は苦しかったみたいね
氏規の上洛でもかなりの出費
上で氏政の上洛準備してる史料あるって言ってるけど、準備はしてるけど整えられないのが現実で
行かなかった(行けなかった)一つの理由にはなってると思うな
0366人間七七四年
2011/10/30(日) 12:09:56.71ID:Uoy4tGL00367人間七七四年
2011/10/30(日) 15:59:09.00ID:FmkXxsL+まあたぶん、普通に秀吉の力を見くびってたんだろうな。
敵対する勢力は容赦なく粉砕しその領土を自分の勢力に組み込んでいった強靭な信長政権に対し、
統一を急いで反抗しても最後に降参すれば寛大に処遇することで性急に勢力を拡張した秀吉は
北条からみれば張子の虎に見えたのかもしれない。
実際豊臣政権は張子の虎のようなところはあったけどそれが表面化するのは秀吉死去後であって
秀吉の存命中は相応の実力を伴っていたし、特に北条にとって不幸だったのは小田原攻めの前は
天下統一の総仕上げという意味もあって豊臣方の士気は最高潮にあったことだろうな。
今の人間から見れば秀吉に対する北条の対処は失点が多過ぎだと簡単に言えるが
当時の地方の人間から見れば豊臣の力を正確に計るのは案外難しかったのかもしれない。
潰されたのは北条だけだけど秀吉に無謀な戦いを挑んで負けたのは長宗我部も島津も同じだし。
かといって秀吉死後の豊臣家支配の崩れ方は余りに呆気ないし。
0368人間七七四年
2011/10/30(日) 16:21:34.11ID:S6Twi14v気がつかなかったっていうけどほんとかなあ 隣国の徳川と上杉が土下座してる相手だよ?
関東以外ぜんぶ抑え、関白になってるのにさ それをたいしたもんじゃねーだろってほんとに
思ってたならあたまイカレてるよ 比喩じゃなくてガチで
0369人間七七四年
2011/10/30(日) 16:27:49.98ID:Vtbyoye8どっちも領土を取り上げられた訳でもなく、むしろ政権の取り次ぎ役みたいなことやらせてもらってるんだぞ
0371人間七七四年
2011/10/30(日) 16:33:32.48ID:G1SSKmc3上洛するって事は、真田みてーなのが留守中にちょろちょろしないか警戒もしないきゃいけないし
平時の資産から資金を出さなきゃいけないわけで
必要に迫らせて無理くり徴収する戦費とは別物だろ
それくらいもわからんのか
0372人間七七四年
2011/10/30(日) 16:33:57.69ID:Vtbyoye8むしろ北条の回りは秀吉政権の弱さしか見えなかったんじゃないか九州四国は遠いし
0373人間七七四年
2011/10/30(日) 16:37:26.07ID:Vtbyoye8曲がりなりにも家が保てるかどうかの瀬戸際なのに甘っちょろ過ぎる気が…
それこそ合戦レベルの覚悟が必要だった気がする
0374人間七七四年
2011/10/30(日) 16:47:30.09ID:FmkXxsL+情報網の貧弱なあの時代なんてたぶんそんなもんだったんだよ。
島津だって関白秀吉に普通に戦争始めてるし。
徳川や上杉なんて北条の半分とかそれ以下の勢力だし国境を接してるから
取り敢えず従属したくらいにしか思ってなかったんだろう。
0375人間七七四年
2011/10/30(日) 17:36:27.87ID:G1SSKmc3>小牧・長久手で援軍を出さず
ほんのちょっとだけど北条は小牧長久手で徳川に援軍出してるよ。ほんのちょっとだけどな
>>373
家が保てるかどうかの瀬戸際だからこそ、一門や重臣を派遣して外交を重ねていたんだろ
北条から開戦したわけでも、挑発したわけでもない(名胡桃城の件が怪しいのは前に書いた)。
それを外交の使者を途中で捕縛したり、難癖つけて攻め込んできたのは秀吉の方じゃん
もともとやる気満々だったんだから、どう北条が動いても開戦は回避できんかった。
徳川が小牧長久手やってる頃に服従でもしてれば別だけどな。
あの時代にあのレベルの勢力が残っているって事自体がもう滅亡フラグなんだから。
0376人間七七四年
2011/10/30(日) 17:41:54.89ID:5rUOcYJUちょうどその頃、沼尻の合戦の真っ最中ですがな
北条の参戦を妨げたい秀吉の意を受けた佐竹らの軍事行動、って見方もあるぜ
まあそれが本当なら、秀吉すげえって話だけどね
0377人間七七四年
2011/10/30(日) 19:08:35.54ID:XZEjU1Oh北条クラスの大名当主が上洛するのは、まさに戦一つ分の出費を必要とする
だからこそ上洛すんのか、そんなのに金かけるなら戦でもっていう議論が巻き起こるわけで
そんなことも想像できない阿呆が何を言う、もうっと勉強しようぜ
0378人間七七四年
2011/10/30(日) 19:24:12.06ID:CqC9gUMNそうだよな…戦は一方がやる気満々で勝算と計画を立ててると、もう回避できない
それを回避するにはもう一方も武力を増強するか策略で相手の軍事力を削ぐか、相手に土下座するしかない
0379人間七七四年
2011/10/30(日) 20:47:03.06ID:JRbKNXSe秀吉が本気で受けちゃったって話だろ?
応仁の乱の主戦場からも離れ、地場勢力の小競り合いに慣れすぎた平和ボケ地域には、酷な戦争だったんじゃね?
0380人間七七四年
2011/10/30(日) 22:39:00.51ID:m66S1SuZほう
頭の良い君に質問だが
上洛にかかる費用はいかほどなのかね?
合戦にかかる費用と両方教えてくれ
0381人間七七四年
2011/10/30(日) 23:09:32.07ID:6jdGXxTG上の方じゃ、北条厨が愚にもつかない言い訳をぐだぐだとならべているが
早い話が屈服するか、開戦するか、どのように戦うか
対応策を協議してるうちに時間切れ、戦機をのがして籠城しかなくなったのさ
「汁掛け飯」はともかく「小田原評定」はガチだろう
0382人間七七四年
2011/10/30(日) 23:45:49.72ID:XZEjU1Oh揚げ足取りな言い方だね。まあそうでもしないと反論できないのはわかる。
氏政は実際に上洛してないんだから、どのくらいのお金かけたかは無理だが
北条以前に上洛して京都に滞在した毛利輝元を例にとって考えてる
輝元は上洛に当たって領国内の家臣に寄付を求めてる。
付き添う兵は3千人。出発から帰国までの期間は2ヶ月。
上洛先では秀吉を始め各大名に挨拶、その度に贈り物。
他にも公家・商人に同様の措置。
滞在費用・贈呈費用いくらになるか
輝元と氏政が一致するわけではないよ、率いる兵なんか特に。
でも安芸⇔京都と小田原⇔京都だと北条の方が日数かかるね
外務大臣クラスの氏規の上洛でも氏邦が反対するのもわかるだろ
単に上洛して秀吉と会ってハイおしまい、ってわけないんだからね
0383人間七七四年
2011/10/30(日) 23:51:32.23ID:zotx7lmg0384人間七七四年
2011/10/31(月) 00:13:03.86ID:xkwSKxDp0385人間七七四年
2011/10/31(月) 00:16:23.93ID:gStDyt9/北条氏政もバカじゃないから秀吉の家来にならないといけないことはわかってた
でも氏政はなぜか自分は軍神謙信なみの武闘派大名なのでかっこつけないと
いけないと思い込み、せめて徳川の武勇伝である秀吉生母人質取りぐらいは
やんないと自分を軍神とあがめる関東武士がガッカリすると思った説
0386人間七七四年
2011/10/31(月) 00:20:21.40ID:r7pZ93Iyほほう、上洛には関東の全領土を売り飛ばさなきゃならないくらいの費用がかかるのかね?
0387人間七七四年
2011/10/31(月) 00:22:50.96ID:LunJPNhp徳川が屈服した時点で北条に「戦機」なんて残されていないんだが。
協議はほとんど上洛降伏でまとまってるし、そのために氏規や重臣を派遣してる。
主戦論者がいたのは事実だが、北条から戦をふっかけたわけではない。
「おい、上洛しろよ」と言われてホイホイ大名が話もまとまってないのに莫大な費用かけて上洛するわけがない
ましてや、この時期ともなれば、いかなる外交を北条が尽くそうとも、秀吉が北条領を奪おうとしていたのは明白で
それが戦争によるものか移封(減封)になったかの違いでしかない。
早々に降ったところで、他に与える替え地も東北しか残ってないわけで、そんな事やるわけがない。
(相模伊豆の安堵だって徳川と隣接してる以上なかっただろ)
0389人間七七四年
2011/10/31(月) 00:48:11.98ID:8LEXrfnj自分で論拠も示さず他人をアホ呼ばわりしておいて、根拠の提示を求めたら揚げ足取りだとかどんだけ自分勝手なんだよw
それで、その数千人のお供と貢物を持って2ヶ月間上方に滞在するのが
大普請人足を賦課して領内の城をいくつも普請し、少年から老人に至るまで動員して、槍・弓・鉄炮・弾薬を増産し、期間未定の戦支度をする事より金がかかると言う根拠はなに?
0390人間七七四年
2011/10/31(月) 00:52:14.33ID:xkwSKxDpつまり北条は「戦機」なんて残されていないにも関わらず素直に屈服せず
「おい、上洛しろよ」と言われても銭を惜しんで上洛せず
秀吉が北条領を奪おうとしていたのは明白なのに最初から後詰のない籠城を選択し
早々に降れば減封で済んだところを半端に粘って全てを失った馬鹿大名ってことだなw
0392人間七七四年
2011/10/31(月) 02:17:37.75ID:LunJPNhp平時の外交予算と、戦時の臨時徴収を並べてどっちが費用かかるの?って言ってるのと同じ
比べる対象がおかしい。
結果論だけ見て、「ほらこっちの方が安かった」というのは簡単だが
外交で済むなら、それに越したことはないし、それがダメなら戦争というだけの話。
>>390
「戦争」による勝機は徳川が屈服した時点でなかった。
「外交」による譲歩・交渉の余地があるかと思って一生懸命一門やら重臣やら派遣してるのに
秀吉がそれに応じる気がなく、戦争やる気満々だったんだから、どうにもならない。
(でなければ徳川が外交帰途の武将を捕縛したりしない)
要するに外交しか残された選択肢がなく、それが一方的に受け入れられない状況に追い込まれ
「詰み」の状況に置かれたわけで、残された選択肢は戦うしかなく
大軍相手に兵を分散すれば各個撃破されるのはわかってるから小田原に集中させたまで。
捨てる場所は放棄して局地に兵を集めるのは島津だって長宗我部だってやってる。戦の常道。
早々に降ったら減封で済んだ=これがまず状況的にありえないと説明したつもりなんだが。
(東北のどっかの小領主に関東の大大名からあっさりと転落しろって要求をのんだらそれこそヘタレ呼ばわりされて後世に名を残したろ)
要するに大坂の陣の豊臣勢と同じだよ、戦をするしかない状況へ追い込まれた
後はへりくだって微禄で我慢するか、華々しく散るか、という詰みに持ってかれただけ。
0393人間七七四年
2011/10/31(月) 02:20:01.37ID:LunJPNhp通説だけでなく負けた側の大名(末期の甲斐武田とか朝倉とか)について
色々調べるのが好きなだけで、別に北条が好きなわけではない。
通説と結果論だけで語るんじゃなく、光が当たらない負け側の資料もいろいろ調べてから物を言った方がいいよ
0394人間七七四年
2011/10/31(月) 02:25:43.95ID:LunJPNhp・北条がちんたら上洛しなかったから攻め込まれた>そんな事はない、一門や重臣を送ってる。
大名は最後に交渉に赴くもので、実際に氏政が上洛準備をしていた書簡も残っている。
・総無事令出してるのに名胡桃城攻めたのが悪い>この事件そのものの資料性が怪しい
・後詰もないのに籠城かよ、小田原城に頼り過ぎw >野戦に打って出て勝てる戦況ではない。
俺が言いたいのはこんなとこ
0395人間七七四年
2011/10/31(月) 02:40:13.27ID:ymQ5YXFM上杉憲正みたいだった
0396人間七七四年
2011/10/31(月) 03:09:18.67ID:VkmZvxm/ひとつの城に守備兵の10倍以上の兵力を当てて損害を顧みずに攻めまくられたら
そう長く持たずに落ちるもんだな。
北条の防衛網といっても武田や上杉クラスの攻撃を撃退できるという程度のものだったってことか。
0397人間七七四年
2011/10/31(月) 06:15:24.15ID:5LvgjohQ家の浮沈のかかった対豊臣外交を、平時の外交予算で安くおさめたいとか世の中なめすぎだろ。
「戦争による勝機は徳川が屈服した時点でなかった」なら
「外交で済むなら、それに越したことはないし、それがダメなら戦争というだけの話。」にはならない。
なんとしても外交で決着をつけねばならず、そのためにはさっさと上洛せねばならない。
>>387でいう主戦論者が氏照・氏邦という超大物なのに上洛降伏でまとまってるとか無理ありすぎ。
協議が割れてるからこそ氏規や重臣に適当な事言わせて時間を稼いでいたと観るべき。
外交武将の捕縛は名胡桃事件の後の話。
要するに上洛しか選択肢がないのにだらだらと引き延ばしたあげく
名胡桃事件というタイムリミットがやってきたという話だろ。
戦争に関しては詭弁乙としか言いようがない。
戦端を開く前に降っていれば過去の例から言って本領(伊豆相模)の安堵くらいはあっただろ。
本拠地に集めた兵で最初から後詰のない籠城を選択するような愚策は島津や長宗我部もやっとらんぞ。
城を枕に華々しく散るためとしても結果は降伏開城切腹。sage
0399人間七七四年
2011/10/31(月) 06:19:20.31ID:5LvgjohQ・北条がちんたら上洛しなかったから攻め込まれた>そんな事はない、一門や重臣を送ってる。
大名は最後に交渉に赴くもので、実際に氏政が上洛準備をしていた書簡も残っている。
.>時間稼ぎでも一門や重臣ぐらい送る。協議が割れてても、ある程度の準備くらいはしとくだろ。
・総無事令出してるのに名胡桃城攻めたのが悪い>この事件そのものの資料性が怪しい
>というならソースくらい出してほしいな。まさかまた個人研究HPじゃあるまいな?
・後詰もないのに籠城かよ、小田原城に頼り過ぎw >野戦に打って出て勝てる戦況ではない。
>初手から籠城で勝てる戦況ではもっとない。
小田原を囲まれる前に降るか、でなきゃ>>362の言うように内線作戦による各個撃破でも狙うべき 。
俺が言いたいのはこんなとこ
0400人間七七四年
2011/10/31(月) 06:29:36.23ID:nnkguKvFそういえば氏規が上洛する時に特別税を領域全体から取ってたね
どのくらいだったかまでは記憶にないけど
>>396
武田や上杉クラスを撃退できれば上々だろ
0401人間七七四年
2011/10/31(月) 08:01:30.65ID:fp29bjTLそれが財政を圧迫してたのは想像に難くない。
氏規の上洛ですら特別税を領域全体から徴収せねば成らないようでは氏政の上洛どころではないだろう。
常識的に考えて北条が上洛降伏でまとまってるとしたら有り得ない予算配分だな。
0402人間七七四年
2011/10/31(月) 08:18:13.50ID:ZmImM8Q7秀吉がやる気満々な状態では、現実的に難しいよなぁ。
0403人間七七四年
2011/10/31(月) 09:52:05.78ID:4Om6MU5tあれはなんでだ?
0404人間七七四年
2011/10/31(月) 10:17:14.28ID:RqthZdIo0405人間七七四年
2011/10/31(月) 11:00:12.85ID:4Om6MU5t1次は、援軍の見込みなしで講和だったけどあんまり書籍がないからあれだけど、
冬将軍のおかげみたいと書いてる。スルタンのやる気の問題だったのかな?
小田原よりはるかに冬は寒いんだろうな。リンゴができるから青森くらいの寒さか。
小田原はミカンができるからな。
大阪小田原間は500Km、コンスタンチノープルとウィーンは1000Km。
ウィーンの城壁周囲4km、小田原の総構9Km。守備兵ともに5万ほど。
ウィーン攻囲兵12万という資料がある。たぶん北条兵の方が強兵だと思いたい。
ウィーンは弱兵だと思いたい。でもウィーンはしのいだぞ。
0406人間七七四年
2011/10/31(月) 11:26:38.47ID:zL+imXvdそれを秀吉から見れば北条は口では恭順の意を唱えながら
言を左右して氏政の上洛を先送りしつつ
国許では国力の大半をつぎ込んで軍備増強を図る怪しげな辺境の大国となるな
0408人間七七四年
2011/10/31(月) 12:57:42.39ID:MieqfexH名胡桃事件の出典がどこなのか、(できれば複数の)良質史料があるのか否かだろう
>>394はそこを出せばいいわけだ
>時間稼ぎでも一門や重臣ぐらい送る。協議が割れてても、ある程度の準備くらいはしとくだろ。
>小田原を囲まれる前に降るか、でなきゃ>>362の言うように内線作戦による各個撃破でも狙うべき 。
これはお前の主観だな。単に自分の主張を否定されムキになってるだけだ
0409人間七七四年
2011/10/31(月) 13:32:20.25ID:VkmZvxm/まずスレタイに対しては戦争が始まってから北条が勝つのは無理。
外交交渉どうのこうのというのはそもそもスレ違いだろう。
0410人間七七四年
2011/10/31(月) 15:52:14.44ID:RmNCFHua0411人間七七四年
2011/10/31(月) 16:32:45.80ID:LunJPNhp・総無事令出してるのに名胡桃城攻めたのが悪い>この事件そのものの資料性が怪しい
>というならソースくらい出してほしいな。まさかまた個人研究HPじゃあるまいな?
↑まず、個人HPを出典にしてたのは俺じゃない。
スレ内検索をしてもらえればわかるが、名胡桃城事件に関しては怪しい部分をいくつか指摘してある。
(城主の鈴木のそれまでの事績がゼロ、首謀者とされる猪俣(北条では重臣の方)の最後が不明瞭)
逆に「信ぴょう性が高い」とする資料を出して欲しいのだが。
0412人間七七四年
2011/10/31(月) 17:05:58.46ID:CeNV9hpCこのてのスレで語れる事ってほとんどなくね?
0413人間七七四年
2011/10/31(月) 18:56:17.55ID:j26y61PVなので終了。
0414人間七七四年
2011/10/31(月) 18:57:39.24ID:y97LGdU6第一次ウィーン包囲も長引けば援軍がくるかもしれない危惧はあった。
皇帝カール5世がウィーンで包囲されていた訳ではなく
包囲していたウィーンはハプスブルク領の一部でしかなく、
他の大部分のハプスブルク領は未制圧であり、
対仏戦の状況しだいでは大挙救援も有り得た。
他のカトリック諸国が援軍として加勢する可能性も常にあった。
このあたりが北条が孤立無援で、領土の殆どが先に制圧されていた小田原包囲との違い。
0415人間七七四年
2011/10/31(月) 20:16:43.49ID:LunJPNhp「その程度の」理由くらいを立証できる資料ないの?
「なかった」って立証するのは難しいんだよ
「あった」なら信用できる一次資料出すだけだろ?できないの?
0416人間七七四年
2011/10/31(月) 21:19:51.69ID:tkfAV1ae完全に豊政権に対する敵対行為。
主犯格は良くて切腹、悪くすりゃ三族根絶やし。
〜無事令が、言い掛かりなら、
言い掛かり付けてまで滅ぼしたいんだから
良くて、三族根絶やし。
どっちころんでも、秀吉が死ぬ前に講和なんて今時の平和ボケ以外には思い付かない選択肢だと思うんだが?
どうでもいい、揚げ足とりをするしかないほど、
小田原の役での北条方の勝利は無理なのか?
0417人間七七四年
2011/10/31(月) 22:18:51.75ID:WgH0FzKu小田原までの道中の何処かで奇襲をかければ
千に一つとか万に一つの確率で太閤さんを討てたんじゃね?
その場合であっても、太閤さんの後継者の座を巡って軍は瓦解するか(=小田原攻め回避)
太閤さんの仇討ちとして小田原に攻めてくるかは
わからんけどさ
0418人間七七四年
2011/10/31(月) 22:58:56.80ID:VHbHbAr50419人間七七四年
2011/11/01(火) 00:18:11.91ID:Go0qZC290420人間七七四年
2011/11/01(火) 06:26:17.45ID:HHmPH7C90421人間七七四年
2011/11/01(火) 06:37:04.55ID:aSBp1H/A0422人間七七四年
2011/11/01(火) 07:42:55.55ID:A5oFJudG0423人間七七四年
2011/11/01(火) 08:25:42.12ID:I9rIButx戦中なのに余裕で東北の大名を招集しているくらいだし、途中での奇襲は
まず無理じゃないかな。
そう考えると、石垣山に全軍突撃の方が勝算はあるか?
まあ、大阪城夏の陣と同じで、後々勝算じゃなくて、称賛はされる行動と
言われるかもしれないかなw
0424人間七七四年
2011/11/01(火) 09:00:26.45ID:sSyPlplv0425人間七七四年
2011/11/01(火) 09:36:23.72ID:pzDjGr4Wすたこら逃げると思うが
0426人間七七四年
2011/11/01(火) 11:11:21.26ID:93BYBj7e0428人間七七四年
2011/11/01(火) 11:58:50.90ID:lTwxIDx9横レスだが
小田原征伐の直接の原因が名胡桃城強奪事件なのは間違いないかと
秀吉自身がそう言ってるわけだし
0430人間七七四年
2011/11/01(火) 13:14:03.67ID:xTdn+QM+なんか最近どうも第一次湾岸戦争にカブって見える 父ブッシュとサダム・フセインの戦い
あのときアメリカの外交官はさかんにサダム・フセインにクウェートに侵攻してもアメリカは
中立を保ちますよと言ってた それでサダムはやったんだ やったとたんアメリカは宣戦布告した
北条のときも何人かの外交僧があのへんは北条が切り取ってもかまわないと嘘の情報を
流してたらしい それより前に秀吉は戦争を決意していた なぜか知らないけどもうやると
決めてたんだ そして適当な開戦理由を探してた
0431人間七七四年
2011/11/01(火) 14:26:16.68ID:lTwxIDx9適当でもなんでもないと思うけど
沼田問題は豊臣家が裁定して領域を取り決めたわけだけど
それを突然反故して攻めとるという暴挙に出たわけだから
どうみても豊臣家に喧嘩売ってるとしか思えない
こんな事したらどこの大名でも戦になるよ
0432人間七七四年
2011/11/01(火) 15:48:32.89ID:Go0qZC290433人間七七四年
2011/11/01(火) 21:42:24.94ID:lTwxIDx90434死
2011/11/03(木) 05:59:32.69ID:2gqLy2ERいたなら情けない負け方したもんだな
一益蹴散らした武勇は何処行ったんだよ?
0435人間七七四年
2011/11/03(木) 06:35:40.93ID:F7gNBckt今度は向こうのほうが大兵力だし
0436人間七七四年
2011/11/03(木) 07:34:21.57ID:Rdzs4wKN0437人間七七四年
2011/11/03(木) 08:32:25.67ID:fdU2vzwa三河勢の分、今川軍がもう少し多いかもだけど、本土決戦という地の利を
考えればそこまで絶望的でもねえべさ。
0438人間七七四年
2011/11/03(木) 10:23:20.40ID:0mAuU5dNあの時、直前まで滝川の下にいたのは信長という後ろ盾あってこそ従っていた
関東の諸豪族がほとんどで、滝川直轄の兵はそんないなかった。
変が知れて、関東諸豪族のほとんどは北条へ寝返り、みんな逃げちゃった。
(もちろん滝川勢に与したままの関東勢もいたけど)
だから北条が勝って当然。織田軍は当主の死で浮足立ってるしな。
>>436
>>437の言う通り、織田方の砦に主戦力を向けて兵力を分散していたとこへ
本陣へ特攻だから。
勝ち戦で生きて帰りたい連中に死兵が突っ込めば、多少の兵力差はどうとでもなる
3万とか言われる今川軍の全兵力が全部固まって迎撃したわけじゃないからな。
0439人間七七四年
2011/11/03(木) 11:09:04.91ID:me2JYb0eいや、今川軍の総数が2万とか3万とかいうのが信用ならんという話なのだが。
本国に氏真率いる守備隊も残してるんだし、駿河・遠江の石高を考えても、遠征軍全体で
せいぜい1万ぐらいじゃね?って話。
一方、尾張の全域を支配してないとはいえ、豊かな尾張で順調に勢力を伸ばしてた
織田軍が全軍で三千ってのもおかしい。
通説だと、各砦に立てこもった部隊を含めて三千だけど、直率だけで三千だったんじゃないかね?
そう考えてくと、信長と義元の率いていた兵力はほぼ互角だったんじゃないかな、と。
有利な高地に布陣していた義元軍が正面攻撃で粉砕されてるんだから、死兵とか奇襲とか
あっても、兵力差があったら勝てないと思う。
兵員のレベルに差があったって話もないし。
ご承知とは思うが、尾張はむしろ弱兵で有名。
0440人間七七四年
2011/11/03(木) 11:48:05.95ID:1P5gImMIこれに軍夫を含めると4万ぐらいになる
軍記物の数が大袈裟に見えるのは軍夫まで総数に含めてるからだろう
そこを考慮すればそれほど不自然な数字ではない
0441人間七七四年
2011/11/03(木) 12:32:45.92ID:Rdzs4wKN北条は小田原城に5万もの軍勢を入れてたと聞く このなかから玉砕覚悟の3千ほどの決死隊を
集めて出撃し、ただひたすら秀吉の首を目指せばどうなっていたか・・・
まさに万に一つ、なにか起きたかもしれない・・・
0442人間七七四年
2011/11/03(木) 14:13:05.07ID:e8pq5J6o徳川の陣に集中攻撃しかければ崩せたと思う
0443人間七七四年
2011/11/03(木) 14:32:38.52ID:O1sXGFFA夏の陣の家康本陣>>>>>>>>>>>>>>>小田原の役の秀吉本陣
捨て身の突撃で突き崩せたろ
0444人間七七四年
2011/11/03(木) 14:36:01.35ID:q6w/fyfJ今川の兵力は駿河・遠江だけでなく三河も含めるべきでないかと
この三ヶ国の石高合計は凡そ70万石に達する。
因みに小田原役でコ川は100石につき7人役だった
今川70万石を100石につき7人役で計算すると49000人になる
よって桶狭間時の今川が2万とか3万という兵力は余裕で動員可能
0445人間七七四年
2011/11/03(木) 15:09:56.55ID:mvzowQ0R何のために、捨て身の攻撃をしなきゃならないんだ?
って後北条の武将は思うんじゃね?
桶狭間の信長家中や、松平麾下の三河衆と、後北条傘下の関東衆じゃモチベーションが違うと思う。
0446人間七七四年
2011/11/03(木) 17:25:46.17ID:B9Vox8jXそんなに差があるうわけないだろう。
秀吉は小田原包囲に兵力を割いていたものの本陣は山の上の城だぞ。
家康本陣の方こそ平地なうえに司令部が秀忠と二つある分守備兵力も二分されている。
0448人間七七四年
2011/11/03(木) 19:13:57.21ID:QC4PdJ2Wあったけ。本当のところはどうなんだろうか
0449人間七七四年
2011/11/03(木) 19:22:06.44ID:Rdzs4wKN小泉純一郎さんも読んだという「信長の棺」では、降伏するといって信長公と幹部が非武装で
義元本陣に出向き、伏兵で暗殺したって説をとなえてました 斬新です 完全なるだまし討ち
もはや犯罪に等しい・・・
0450人間七七四年
2011/11/03(木) 22:38:48.56ID:InUfBQay世界戦史上でも勿論日本戦史上でも寡兵で大軍を破った例はいくらでもある
だから桶狭間で織田勢が寡兵で勝ったにしても別に不思議でも何でもない
根拠もないのに無理に変な説を唱える事の方が不可解
0451人間七七四年
2011/11/04(金) 03:38:33.05ID:qKSlljEf0452人間七七四年
2011/11/04(金) 04:05:05.37ID:iSG3QWqw>世界戦史上でも勿論日本戦史上でも寡兵で大軍を破った例はいくらでもある
大軍で小軍を破った戦いのほうが多いんだよ
兵数は勝利の絶対条件ではないけれど、数ある十分条件の一つ
多いなら多いほうがいい
もちろんそれをきちんと運用できれば、の話しだけどね
0453人間七七四年
2011/11/04(金) 08:25:24.46ID:T+q1+INKだったと個人的には思う。
でも義元を討ち取ることが出来たのはたまたまだったんじゃないかな。
秀吉と家康の小牧長久手でも、家康が当時の名だたる武将を討ち取った事から
秀吉が譲歩したとも言われている。
そう考えると、後詰めがない状態だし、打って出れば、万が一があったかもし
れないね。
0454人間七七四年
2011/11/04(金) 11:22:50.39ID:hEh5WEjN桶狭間が名勝負たる由縁は大名を討ち取って戦況一変させた事だろう
まあ、同じ事を北条にやれと言うのは無理だけど
秀吉は完全に包囲した上に城に滞在しているし
0455人間七七四年
2011/11/04(金) 17:40:18.65ID:EzvNi059築城が早かったとはいえグズグズし過ぎだ
0456人間七七四年
2011/11/04(金) 18:19:49.14ID:qKSlljEf城門からしか出られないから大軍で一気に突入できないし。
0457人間七七四年
2011/11/04(金) 19:53:43.96ID:J14S+MFL一日60万食、10日で600万食必要なんでしょ
一日2食でとかいったらそれこそ士気がた落ちだろうし
むしろ秀吉のことだからいいもんふるまったりしそう
我慢してれば秀吉側が食うもんなくなって一時退却してくれたんじゃないかなどと考えるんだけど。
そうもいかないのかな。
0458人間七七四年
2011/11/04(金) 20:02:14.71ID:0mkb7I3wいや、まったく正しい 退却ってか、講和になる そのとき北条側に有利な講和になる
島津などは逆らったのに玉砕して戦うといったら全所領安堵された
海外との貿易をスムーズにするために徳川がサービスしたと言われている
ほかでは上杉、毛利が2カ国残った 北条も半年籠城できれば2カ国、
1年籠城すれば全所領安堵が狙えたと思う
0459人間七七四年
2011/11/04(金) 20:45:02.28ID:qKSlljEf戦い続けてるからな。
海を隔てながらこの補給力ということは西国から関東へ20万人分の兵站維持って
秀吉には余裕だったのかもしれんよ。
0460人間七七四年
2011/11/04(金) 20:53:54.69ID:8BD/HKyP0461人間七七四年
2011/11/04(金) 20:58:26.68ID:cvE/2Ei+そうもいかない
極端なことを言ったら小田原城と忍城に包囲軍を貼り付けておけばいいので全軍を退却する必要は無い
それに関東の反北条軍の兵糧は自前だから頭数では使える兵力
上杉や徳川は嫌がるだろうけどこいつらに無理をさせればいい
あと兵糧が無くなるのは北条も同じ
豊臣の方は開城した北条の城から微量ながら兵糧を回収できる
そこまで必要はないかもしれないが奥羽から兵糧を献上させればいい
それに豊臣は兵站を確保できているので駿河や遠江の兵糧基地から輸送できる
逆に包囲された北条は枯渇するのを待つだけ
時間が経てば兵糧は必ず減るが増える可能性は皆無
北条は好きだけど粘れば何とかなるレベルではない
0462人間七七四年
2011/11/04(金) 22:30:56.76ID:UzV6XumAもっと粘っていればと言う議論は無意味
籠っていられるものなら実際そうしてるよ
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