なんで小国尾張がさくっと勝っちゃったの?
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0001人間七七四年
2011/09/19(月) 17:57:39.30ID:eeWft0+E0002人間七七四年
2011/09/19(月) 18:04:26.80ID:RTbMVwdm北条が尾張にいたら10年で天下取ってた
0003人間七七四年
2011/09/19(月) 18:06:41.76ID:eeWft0+E0004人間七七四年
2011/09/19(月) 18:40:07.97ID:PWrISszu以上
0005人間七七四年
2011/09/19(月) 19:07:28.76ID:99jXDuh2関東みたいな田舎とは訳が違うのよ
0006人間七七四年
2011/09/19(月) 20:01:44.79ID:xdSYq6pW上洛してるよな。
0007人間七七四年
2011/09/19(月) 20:45:26.11ID:xdSYq6pW関東は北条、千葉、佐竹、武田と4分割状態。
かなり不利だと思う。
0008人間七七四年
2011/09/19(月) 20:57:54.35ID:yWHfVHpp0009人間七七四年
2011/09/19(月) 22:23:08.50ID:P1EHmUI20010人間七七四年
2011/09/19(月) 22:31:58.28ID:5FPY9nOH北条なら二年で美濃攻略してたろう
0013人間七七四年
2011/09/20(火) 09:32:42.38ID:3ydYw9qNごときというが武田や上杉は信長より余程強いのは皆知っての通り
それら二つの勢力と戦い抜いた北条のが強いのは当たり前
仮に信長が相模にいたら武田や上杉どころか扇谷上杉に負けて滅亡していただろう
0014人間七七四年
2011/09/20(火) 09:42:48.73ID:n1ctOpjS信長は義元の首を挙げたが、ヘタレ北条はそれすらできなかったが何か?
0015人間七七四年
2011/09/20(火) 10:14:20.06ID:BYCqUE1/なんという意味の無い仮にだろう。
信長が市場と矢銭を重視するようになったのは熱田や萱津という経済都市をそれまでの慣習を無視して直接支配して力をつけた信定、信秀が影響しているのは間違いなく、仮に信長が相模にいたらなどという馬鹿げた空想話は何の意味も無い。
0016人間七七四年
2011/09/20(火) 11:58:31.53ID:tPTgjVyT北条なんか信長に媚売りまくってたじゃん
0017人間七七四年
2011/09/21(水) 15:18:12.07ID:bjFPxHvk時代が変わっちゃったからねぇ
0018人間七七四年
2011/09/24(土) 03:56:51.50ID:mVv6nFfS0019人間七七四年
2011/09/24(土) 08:42:33.34ID:GpjwEJ+50020人間七七四年
2011/09/24(土) 13:05:30.09ID:JkCFgZmx信長自体は弱小勢力。
0021人間七七四年
2011/09/24(土) 13:13:49.79ID:gBRIV2en0022人間七七四年
2011/09/24(土) 13:30:25.42ID:JkCFgZmxそう?信長公記なんか読んでると小勢で遮二無二城攻めして信長自身が最前線で鉄砲撃ったりしてるけど。
0023人間七七四年
2011/09/24(土) 14:32:13.93ID:d+5QzPin万桁の大兵力を動員しての総力戦が得意で
千桁の中規模戦力率いての戦術がど下手
0024人間七七四年
2011/09/24(土) 16:50:16.26ID:JkCFgZmx特に城砦群の建設による戦術ラインの形成は城攻め(小谷城攻め等)、防衛(長篠の戦い等)、対陣(賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い等)と活用範囲は広かった。
0025人間七七四年
2011/09/24(土) 16:53:35.26ID:OU2lDxDx0026人間七七四年
2011/09/26(月) 14:08:54.55ID:HHrRu2P+あれっぽっちの面積で50万石超えるような農業生産力があってこその商業だよな
0027人間七七四年
2011/09/26(月) 20:28:52.38ID:X0Dah4Tk尾張国には守護・斯波氏の下に守護代が二人いて、
上四郡守護代が織田伊勢守家(惣領)、下四郡守護代が織田大和守家、
織田弾正忠家は織田大和守家の三奉行の一つ。
信秀時代も一郡程度しか領してない。
>>23
天王寺の戦いは数千規模。
0028人間七七四年
2011/09/26(月) 21:18:16.28ID:mv90EDVo林や柴田、丹羽といった連中も家臣なのか寄騎だったのか疑問視されてる
家臣だったってはっきりしてるのが平手
寄騎だったのがはっきりしてるのが前田や佐々か
0029人間七七四年
2011/09/26(月) 21:38:43.87ID:QZO1bXTz>千桁の中規模戦力率いての戦術がど下手
信長が唯一野戦で敵の総大将を討った桶狭間で
率いていたのは人数は千桁だったような
0030人間七七四年
2011/09/27(火) 21:32:05.16ID:ysv04uTo一瞬で南近江守護が消えるなんて運良すぎじゃね?
0031人間七七四年
2011/09/27(火) 23:28:41.79ID:SEOQwsfwあの行軍速度が無ければあそこまで拡大できんかったぞ
なんつーか信長過小評価しすぎだわ
0032人間七七四年
2011/09/28(水) 08:10:52.00ID:Ub0hnN8v信長軍が来たら裏切るとか・・・
0033人間七七四年
2011/09/28(水) 20:28:04.43ID:wpiw8HHB0034人間七七四年
2011/09/28(水) 21:16:47.34ID:BtH5nw+D六角が南近江を追いやられたのは必然。
0035人間七七四年
2011/09/29(木) 22:57:20.07ID:gv9Y6XYt0036人間七七四年
2011/09/30(金) 02:51:46.63ID:PaGVyrgg0037人間七七四年
2011/10/01(土) 21:32:20.76ID:Ktu4LQdj0038人間七七四年
2011/10/01(土) 21:47:14.99ID:RJnXih4B信長がなんとか10年かけて美濃を攻略したのが大きかった。
これで天下を狙える勢力になった。
「信長の野望」の最初のバージョンで
最初の一国取るのが大変だが逆に取れてしまえばトントン拍子という点が
皮肉にもよく再現されている。
0039人間七七四年
2011/10/01(土) 21:49:03.95ID:Ktu4LQdj0040人間七七四年
2011/10/01(土) 23:43:13.82ID:x3u2FKyA0041人間七七四年
2011/10/04(火) 19:20:50.12ID:Ls9xdcaj0042人間七七四年
2011/10/04(火) 22:08:12.63ID:DdkCKeORなんで信長公のパンチ一発でKOされちゃったんだろ
そして信長公は群雄のすさまじい猛攻に耐えて首都を防衛したし
やっぱ信長公というリーダーの力が凄まじく重要なんじゃね?
0043人間七七四年
2011/10/04(火) 22:49:49.13ID:CBm4UFMp0044人間七七四年
2011/10/04(火) 22:56:29.47ID:TI3JMfB0三好は京の経済を掌握したわけじゃないからな。
信長は尾張の流通に美濃と伊勢の流通を支配して根拠として近江を同盟下において京の流通を支配した。
支配を広げる度に金の流れを掌握した信長との差がそこにはある。
0045人間七七四年
2011/10/05(水) 20:21:02.13ID:9sFEx03a三好は六角と戦ってたから、京の経済を掌握どころか、
京そのものも完全には掌握してないから。
信長が幸運なのは、六角と三好の両方が調度衰退してた時に上洛した事だな。
しかしその後の粘りは、頑固汚れ並に凄いと思う。
0046人間七七四年
2011/10/20(木) 14:56:09.49ID:n9Wgy11Fのかなにげにわかるぞ。愛知県まじ最悪だった。特に夏のあの蒸し風呂がサウナ
にいるような熱気は生き地獄だった。それに女もよくいわれるけど本当10人
いれば10人みんな並以下の水準でしかない。他国を攻めとって、目の覚める
ような美女を見て、欲望に火がついたんじゃないかwww『他国にはでぇりゃあ
美人がおるがや』wwwまじで愛知県がもうちょうと住みやすい土地柄だったら
信長も新たに美濃に拠点を移すのをちょっとは躊躇したような気がする。家康も
関東に移れなんていう無茶な命令は拒否して、さっさと先祖代々の地で滅亡する道を
選んでたんじゃないかww
0047人間七七四年
2011/10/22(土) 05:02:46.33ID:fXAAEeZb一望してみると,尾張はあの大きさで50万石って頷けるんだね。一方さ,
例えば久能山から一望してみるともう三保湾からすぐそこに山が迫っているし
掛川の辺りの論外だろ。唯一今の静岡空港辺り開けてるかなと思ってもすぐ上は
山だし救いなのは浜松周辺かもしれんが領土と言えないからなぁ・・・
沼津なんてもう海と山の間なんて僅かだよ。駿遠三総合すれば2万位は
頑張れたかもしれないけどあの尾張の広さは凄いと思うBy静岡県民
0048人間七七四年
2011/10/22(土) 13:31:20.43ID:HmaW4LWP信濃があんなだだっ広くても50万石しかないし
0049人間七七四年
2011/10/23(日) 11:16:09.50ID:EdqBg3KP0050人間七七四年
2011/10/23(日) 12:33:53.51ID:3t3d8ccg0051人間七七四年
2011/10/23(日) 13:13:18.78ID:/Hpu7vLj0053人間七七四年
2011/10/23(日) 13:43:48.82ID:Sjchz9hN始まる。http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B4%A5
0054人間七七四年
2011/10/23(日) 20:16:39.53ID:yIc3qlrm又守護代織田常竹により下津城へとなる。
0055人間七七四年
2011/10/24(月) 07:35:54.45ID:xDVVq25L尾張国中世の豪族。中島氏、蜂須賀氏。
0056人間七七四年
2011/10/28(金) 08:19:32.97ID:wiEPoWz/0057人間七七四年
2011/10/28(金) 20:58:12.49ID:4U6TGxkv0058人間七七四年
2011/10/29(土) 11:25:06.92ID:dyeKmwdM0059人間七七四年
2011/12/09(金) 22:43:40.83ID:+iz8Cvnn京都の復興に三好家が一枚噛んでなかったっけ。
織田が上洛した頃には、応仁の乱以前のの賑わいを取り戻していたらしいけれど。
0060人間七七四年
2011/12/10(土) 11:44:43.40ID:oohIA8EX0061人間七七四年
2011/12/20(火) 11:34:14.37ID:t//AMxSp0062人間七七四年
2011/12/29(木) 09:39:04.48ID:BWlJMdgZ山陽の赤松、浦上、
四国の細川、三好、
北陸の朝倉、浅井、武田、
東海の斎藤、織田、北畠
のどれかだから、ある意味順当だと思う。
0063人間七七四年
2011/12/29(木) 15:27:43.17ID:KCMjRYT0尾張美濃併合すれば超大国
0064人間七七四年
2011/12/30(金) 09:30:49.35ID:E15Q5Anl亜熱帯化した現代でさえ平野部が雪に埋まる尾張のどこが大国だ?
延喜式では尾張・美濃ともに上国。
近隣の大国は、伊勢くらい?
(大和と近江は忘れた)
余談だが甲斐も立派に上国。
仮に信長が成人時に尾張一国を掌握してたとしたら、武田信玄とスタート環境は互角。
但し、いたって常識の範囲での推測だが
シバ(字捜すの面倒い)の領地の尾張は、応仁の乱に人間を入れてるから国土の荒廃は甲斐とは比べるまでもなく悲惨ではなかろうか?
(まあ、アンチ信長は資料の取捨選択がお得意だから自分が偽資料としたものを引用してるような、一次資料wから尾張は豊かだ!って反論するだろうけど)
0065人間七七四年
2011/12/30(金) 09:38:09.80ID:E15Q5Anl赤松、細川、三好、武田(若狭のだろ?)は畿内を混乱させてる連中じゃないか?
まあ、朝倉と織田が有力候補には違いないだろうが。
斎藤道三や浅井家なんて下克上組じゃ畿内制圧は厳しいと思う。
美濃・近江を掌握仕切れないだろ。
0066人間七七四年
2011/12/30(金) 09:42:24.73ID:TE0PdU2F南九州が大国か。
0067人間七七四年
2011/12/30(金) 10:16:08.13ID:DRR+WBnE0068人間七七四年
2011/12/30(金) 10:36:55.16ID:ke+CWghb他はノーチャンスで、
尾張の織田家本命ということか。
0069人間七七四年
2011/12/30(金) 12:32:20.78ID:E33jn4C30070人間七七四年
2011/12/30(金) 16:52:51.85ID:GqM5Ax58愛知県民だが尾張が雪で埋まるなんて年に一回くらいしかねーよwww
北尾張は別だが濃尾平野は水穿けも良いし農作物作るなら最高の環境
犬山城か小牧山辺りから周辺見渡して見ろ
0071人間七七四年
2011/12/30(金) 21:37:06.04ID:DD9/EFwPその富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
0072人間七七四年
2011/12/30(金) 22:25:37.30ID:ke+CWghb継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
0073人間七七四年
2011/12/31(土) 08:29:56.31ID:WGenGiM4頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
0074人間七七四年
2011/12/31(土) 14:01:17.58ID:7Dmr82ek石高で尾張は59万石
甲斐は22万石
しかも太閤検地によるもの
災害オンパレードの戦国時代甲斐はこれより下がる可能性大
これでどうやったら対等になるんだよ
さらにいうと、尾張は信長の親父時代で既に朝廷献金額がトップレベルの凄い商業地
明らかに尾張は上国
お前が資料の読みあわせすらできないで、無理やり脳内変換で尾張を悲惨にしてるだけ
0075人間七七四年
2011/12/31(土) 17:36:55.04ID:aEVH4OsCそれで信玄も治水土木を必死にやりまくって
元亀に入ると飢餓も災害もほとんど見られなくなる。
0076人間七七四年
2012/01/05(木) 18:02:55.15ID:I4dYYDLN近江、伊勢、摂津、武蔵、陸奥、出羽は確定で、
尾張、越前、大和、和泉、播磨、常陸、肥前、肥後、越後あたりがそれに次ぐ感じでしょうか。
上記のうち、1560年代に統一勢力下に置かれたのは武蔵、尾張、越前、越後ぐらい?
0078人間七七四年
2012/06/02(土) 17:24:15.48ID:/ETKomvw0079人間七七四年
2012/06/02(土) 17:49:10.30ID:6ZEqH5Ka種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
0080人間七七四年
2012/06/02(土) 18:53:44.67ID:fgtbmXqf尾張、という地勢の問題なら、他時代も一貫してここから支配が出なきゃおかしいだろw
0081人間七七四年
2012/06/03(日) 09:14:13.87ID:kVlZXyqr三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
0082人間七七四年
2012/06/03(日) 09:40:47.55ID:aH8wa5wK0083人間七七四年
2012/06/04(月) 19:32:37.95ID:j6xO0UUs尾張人に関して言えば司馬遼太郎先生が的確に表してくれている。
0084人間七七四年
2012/06/05(火) 10:16:32.26ID:HkHcu1V1大河による海上交通網があったので
発展の余地が元々あったといえる。
0085人間七七四年
2012/06/06(水) 01:58:51.48ID:th4ouwFa0086人間七七四年
2012/06/07(木) 22:30:42.93ID:OO1uiFtl大国と言えるのでは。
0087人間七七四年
2012/06/10(日) 23:24:53.46ID:+wQHPgqX相当な大国だったのでは
0088人間七七四年
2012/06/14(木) 23:14:31.83ID:BQ1uAtf30089人間七七四年
2012/06/18(月) 22:57:15.51ID:UKm0HV7a■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎(菅生郷)に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
0090人間七七四年
2012/06/18(月) 22:57:47.39ID:UKm0HV7a■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0091人間七七四年
2012/06/18(月) 22:58:52.59ID:UKm0HV7a足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0092人間七七四年
2012/06/18(月) 22:59:47.24ID:UKm0HV7a【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
0093人間七七四年
2012/06/18(月) 23:05:09.81ID:UKm0HV7a空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
0094人間七七四年
2012/06/19(火) 21:28:47.99ID:ZRuMc3hEただ、尾張半国しか勢力下になかった信秀の代で朝廷献金額一位
という事からすれば大国だったのは間違いない。
太閤検地で日本全国1300万石だったか。
濃尾で100万石、伊勢・志摩と近江の8割を併呑して200万石、
山城・大和・摂津・河内・和泉の大半を制して250万石近く?と
草津・堺など全国有数の経済都市を直轄領にする。
包囲網で暫く苦しむが、滅ぼして越前・若狭・北近江を併呑(350万石?)。
その後は、加賀・能登・越中・伊賀・丹波・丹後・播磨・但馬・備前・美作・因幡・淡路を順次平定(600万石ぐらい?)。
生野銀山もゲット。
武田征伐で爆勝して甲斐・信濃・上野で700万石突破?
美濃攻略以降は圧倒的すぎて倍倍ゲームのようだな。
もちろん信長が凄かったのが一番の要因だろうけど。
0095人間七七四年
2012/06/19(火) 23:31:24.77ID:V1HWvytoこれだけ凄いことやってのけたんだから
時代を先読みし過ぎて、時代が追いつけなかった天才
0096人間七七四年
2012/06/19(火) 23:37:44.67ID:N1yUO9Qq0097人間七七四年
2012/06/20(水) 05:23:08.90ID:qR0D25sW武士勢力が全国に広がったのは北条義時から。
肩書とかで騙されやすいが、実は全国を統一して武士政権を築いた人間は中世でも稀
足利なんてgdgdすぎて話にならんからな
0098人間七七四年
2012/06/20(水) 07:27:45.51ID:lr5lcXVkしかし美濃を取ってからは破竹の快進撃で
三人衆、竹中、仙石など美濃衆の活躍も大きかった。
美濃を取れたのは三河の徳川との同盟が大きかったのかもしれないが。
それを仲介した水野を評価する声なんかもあったかな。
0099人間七七四年
2012/06/20(水) 08:02:18.12ID:qB5SvUSq0100人間七七四年
2012/06/20(水) 08:14:37.03ID:6YAaIokb美濃進出、徳川同盟で莫大な儲けになったのかもなぁ。
仙石は・・・俺もwを付けたいところだけど、当時の美濃衆としては頼りに
出来たんだと・・・思う。
森氏は違うんだっけ?
0101人間七七四年
2012/06/20(水) 09:29:35.43ID:lr5lcXVk加藤光泰や徳山なんかの方が良かったかな。
森氏は今の岐阜県だけど尾張国の笠松あたりだっけ。
最初は土岐氏に使えていたけど信秀の時代には既に織田方だったような。
他に元土岐氏ってなら河尻や池田や金森なんかもそうだな。
遅れて仕えたのには堀や明智や日根野なんかもいる。
美濃衆は織田家の中では中々の物だったのではないかと思う。
まあバラバラだから土岐、織田、豊臣、徳川のように
上手く使える奴らが必要だったのかもしれないが。
0102人間七七四年
2012/06/20(水) 13:04:26.97ID:fyCedogX信長をはじめ、前人未到の400勝投手、金田正一とか前人未到の高校野球
甲子園大会最多勝ち星の吉田正男とか、前人未到の日米通算最多安打のイチロー
とか。
0103人間七七四年
2012/06/20(水) 14:05:50.39ID:jiTASyAO「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国加茂郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0104人間七七四年
2012/06/20(水) 17:33:32.27ID:6YAaIokb0105人間七七四年
2012/06/21(木) 12:14:04.88ID:JSMIrgbZ0106人間七七四年
2012/06/23(土) 16:58:04.87ID:pWgYgTFU武田裏切り後は徳川がよく武田を押さえ込んでたし
同盟を簡単に反故にする武田が簡単に滅んだのとは
真逆に家康との同盟を堅持した信長だからこその快挙
0107人間七七四年
2012/06/25(月) 20:36:50.57ID:vMnIZEmy0108人間七七四年
2012/06/26(火) 02:34:45.13ID:Wwi6pTHV0109人間七七四年
2012/06/26(火) 06:07:26.76ID:IuldI+iGそれでも伊予の一郡しか領してない西園寺を攻略するのに10年かかった。
信長の攻略の早さは他大名とは比較にならない。
0110人間七七四年
2012/06/26(火) 08:17:44.75ID:yljUQN61が沸きそうw
石高が多いと言う事は、それだけ人が多いと言う事で、ライバルも多い。
ゲームみたいに最初から一国を支配していたわけじゃないのだから、そこの
実力は認めないといけないよね。
しかし不思議なのは、今の大阪辺りも栄えていたと思うのだよなぁ。
もうちょっと歴史的に名を残す人が出てきても良さそうな気がする。
0112人間七七四年
2012/06/26(火) 13:25:40.90ID:wuJcJMC6畿内は様々な政治的勢力が跳梁跋扈していた不安定な土地だったのが
三好の勢力伸長が止まってしまった最大の要因
武士同士の戦いになかなか集中できなかった
0113人間七七四年
2012/06/27(水) 00:17:31.21ID:8oDudBoe・阿波、讃岐を優先した
これはあるだろうが、西園寺は一条とも戦い続けて
その流れで長曾我部と戦ったから手抜きではないだろ。
・毛利の介入を恐れた
毛利の勢力は中予まで
・地形が急峻
これは豪雪地の冬季なら分かるが、普通に往来があるんだが
0114人間七七四年
2012/06/27(水) 01:00:53.43ID:dPm3LDpP0115人間七七四年
2012/06/27(水) 08:19:37.15ID:AgDvVmNhかったとか、どっかで読んだな。
伊予に比べ、貧乏だったんだろうなぁ。
0117人間七七四年
2012/06/28(木) 02:47:55.07ID:ergcNWbG北がダメなら攻めやすい南なんて
旧日本軍の南進策と一緒だもんなw
そう言えば北で凹られて同盟反故にして
南に攻め込んだ大名がいたけど
非道な事をすると必ず報いがあるからなぁw
0118人間七七四年
2012/06/28(木) 18:06:43.19ID:CsxIRvwh往来はあっても、ある程度の軍隊動かすほど整備された道はなかっただろ
水曜どうでしょうの四国八十八か所見てもここで軍隊動かすのは難しそうだなと思うし
0119人間七七四年
2012/07/01(日) 01:41:31.89ID:/xaDT4P0その記述は確か四国征伐の時の上方勢と土佐勢を比べての表現だったはず。
伊予東部は瞬殺されてたし、土佐と伊予だったらそんな変わらんだろ。
0120人間七七四年
2012/07/02(月) 18:15:21.73ID:F1uK6jKl尾張はおそらくぶっちぎりでトップ
耕作可能地域が広く、地味も肥えてる
その分大量の兵を養うことができる
あと、愛知県って今でも何気に農業県なんだよね
0121人間七七四年
2012/07/02(月) 21:18:54.46ID:r1t4Rg/s尾張は60万石
0122人間七七四年
2012/07/02(月) 22:29:35.35ID:F1uK6jKl各国の面積に対する比率の問題
面積では滋賀県全部と愛知県の半分(実質3分の2くらい?)ではかなりの差があるわけで
0123人間七七四年
2012/07/03(火) 06:40:51.60ID:fgJ2zOmB可住地面積なら尾張は相当広いだろ。
0124人間七七四年
2012/07/11(水) 13:26:53.30ID:pu7Vw6y8信長様だからこそさくっと勝っちゃったように見えるだけ
信長様以外の戦国大名なら義元に蹴鞠のように一蹴されて終わり
当時有無を言わさぬ世界最強だったこらこそ死んでから430年経った
今でも世界中の多くの軍オタから愛されて続けているのさ
0125人間七七四年
2012/09/05(水) 02:28:32.98ID:zEIkwKje味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…欧味
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…三和
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…鬼作堂
0126人間七七四年
2012/09/05(水) 12:32:47.43ID:XDF51cHU特に三好長慶が長生きしてたら一蹴されてただろうし、逆に史実以上に早死にしてたら朝倉が義昭連れて上洛してた可能性もある
ただ、仮に弟の信行が織田家継いでたら天下とれたかというと微妙なとこを考えると信長の力とか執念みたいなのとかもやはり評価すべきだろうね
0127人間七七四年
2012/09/06(木) 21:50:29.76ID:b7leZPH2狗奴国一宮
邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置を、愛知県一宮市萩原遺跡群を
はじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、
尾張平野一帯に大勢力が広がっていた。
0128人間七七四年
2012/09/07(金) 05:15:02.23ID:yBCK9BV2終わりは小国じゃないだろw
0129人間七七四年
2012/09/09(日) 03:01:27.90ID:PJGEa9Db0130人間七七四年
2012/09/09(日) 09:06:05.47ID:dTcnBZrx森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
0131人間七七四年
2012/09/09(日) 10:35:52.72ID:P8FZPksN0132人間七七四年
2012/09/09(日) 10:39:46.10ID:dTcnBZrx天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
0133人間七七四年
2012/09/09(日) 15:20:12.66ID:uK8srbXp東国のリーダー、天火明命の末裔・村国氏。
0134人間七七四年
2012/09/09(日) 20:06:11.00ID:Bl3G6Bm3>まあ実際、斎藤六角三好の内部崩壊は天運だよな
それ言い始めたら長慶が政権取れたのも、何代も前から続く細川の内部動揺だからなぁ。
本国寺、金ヶ崎、長光寺、姉川、志賀、野田福島、長島と何かのきっかけで
織田政権が崩壊する可能性も十分に有った。
その度に切り抜けてきた信長の粘り強さは、やっぱり凄いよ
0135人間七七四年
2012/09/10(月) 20:35:25.75ID:xN6Vkhst家康や秀吉がすごかった。
信長は相撲観戦したり、鷹狩りやったり、
強制的に召し上げたコレクション茶器を見せびらかせての御茶会やったり、名馬比べの競争や爆竹祭りやパレードとイベントをやりまくって豪遊してただけ。
0136人間七七四年
2012/09/10(月) 20:41:42.70ID:uWiR3UOw0138人間七七四年
2012/09/13(木) 21:34:05.36ID:FO73lA51犯罪やってでも成果をあげろやクズども!
0139人間七七四年
2012/09/13(木) 22:48:35.30ID:9kFi3XuO0140人間七七四年
2012/12/29(土) 13:00:23.22ID:UDUOguOY尾張国府領(斯波領)中島郡下津守護所を中心として尾張国織田家の平城は
作られ散らばって行く。
尾張国守護斯波氏が造った城は下津城と離れ屋敷だった清州城のみ。
織田一族が築城した城、大赤見城、岩倉城、勝幡城、楽田城、犬山城、小田井城
野府城、古渡城、
信長が築城した尾張国内は小牧城のみ。
0141人間七七四年
2012/12/29(土) 15:37:40.07ID:GGsffWws0142人間七七四年
2012/12/30(日) 01:55:10.43ID:NFtPzF6X0143人間七七四年
2013/06/26(水) 11:08:32.88ID:ryND/NSu戦乱と関の障害を克服してまで伊勢へ学びに行かずとも
普通に尾張なんて伝播してただろうね。
0144人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:Xcpwllfj0145人間七七四年
2014/01/10(金) 20:11:24.53ID:9kXGrZ30慶長郷長高や正保郷長高の検地では大した事なかったし。
0146人間七七四年
2014/01/10(金) 20:12:40.38ID:rnrgtrYj0147人間七七四年
2014/01/10(金) 22:40:59.18ID:5XADz76q0148人間七七四年
2014/01/11(土) 09:48:52.73ID:j1O9coOV豊作になると田畑の大きさが変わるわけじゃない。
日当たりや土壌や水はけなどを勘案して田畑のランク決めてるだけだし。
0149人間七七四年
2014/01/11(土) 12:54:04.49ID:peGruXhSそもそも天下統一を目指すとハッキリ宣言したのは美濃を獲ってからだし
0150人間七七四年
2014/01/11(土) 13:01:39.87ID:lmS1sWi8結局、信長は紀伊雑賀衆と高野山らの影響圏にあった、
大和南部、和泉南部、伊勢南部の制圧に失敗して、
畿内統一に大失敗した。
しかし秀吉は速攻で雑賀衆や高野山や紀伊惣国一揆を鮮やかに制圧し、
彼らを四国征伐に動員してる。
0151人間七七四年
2014/01/11(土) 13:35:08.44ID:/iaJHLV2そもそも検地も尾張みたいにかなりの程度土地を把握していて
ある程度厳密に検地出来るとこもあれば、
逆に指出で済ませたりと、ろくに把握できずに済ませたとこもあるしで、
いろいろ政治的要素も絡んでくる。
0152人間七七四年
2014/01/11(土) 14:15:08.83ID:peGruXhS今となっては戦国大名は上洛するものと
それが目標みたいにされてるけど
実際は当時、そんな事は全然無かったから。
朝倉だって浅井だって上洛できたけどしなかったのは
そこにそれほど大きなメリットを感じてなかったから。
ところが信長は岐阜を獲った後は一直線に明確に上洛を目指してるんだよね
しかも価値の無いもの(幕府の威信)から価値を生み出したところに天才性がある。
0153人間七七四年
2014/01/11(土) 16:25:02.44ID:W6kVvjZJ>上洛出来たけどしなかった
ゲーム脳か
浅井と朝倉が同列ってことはそうなんだろうな
信長だけが、上洛出来る程の実力も無いのに強行して成功しただけ
浅井みたいな京極の出涸らしには無理
0154人間七七四年
2014/01/11(土) 16:37:20.92ID:Lsewow5i例えばチート国力とか言われてる尾張なんて慶長郷長高や正保郷長高の検地では大した事なかったし。
他の国でも、短期間にやたら増えたり減ったりしてて、各藩の自己申告による所が大きいから
島津領なんてやたらと実高より高く書かれたりしてるし
0155人間七七四年
2014/01/11(土) 16:42:39.16ID:5PWAue+a増えてるならまぁともかく減ってる所もあるし
0156人間七七四年
2014/01/11(土) 18:52:55.23ID:TPPNZ1Zj0157人間七七四年
2014/01/11(土) 20:13:03.30ID:rDXfwYWK0159人間七七四年
2014/01/12(日) 04:47:01.77ID:E7h8o2YP大した事なかったし特にチート国力でもないでしょ。
逆に信濃なんかは、慶長郷長高や正保郷長高など他の時期の検地では結構高かったし。
0160人間七七四年
2014/01/12(日) 09:34:03.73ID:hrTxrxlt延喜式の時代はまだ寒冷化前だから、
戦国時代の甲斐みたいな冷夏や降雪水害氾濫がひどくなかった。
まだ石高制の前だから、
米での納税に限っておらず、
田を拡げて冷害で死ぬ悪循環に入る江戸時代と違い、
朝廷に貢ずる品目は多岐に渡っていたので甲斐でも納入するものはあった。
山谷国ほど寒冷化と米本位機軸制国体で弱国化した。
0161人間七七四年
2014/01/12(日) 10:42:47.68ID:DbTt2PQD慶長越えて、徳川期の石高の話になってね?
甲斐が残念なことになったのは、相模に幕府が出来て流通が変わったからじゃね
0162人間七七四年
2014/01/12(日) 11:53:43.75ID:kVWgJ/tg0163人間七七四年
2014/01/12(日) 12:41:21.96ID:HJLIfR6H積雪量が増加し、
雪解け水による河川氾濫が頻発したから、
甲斐盆地は治水技術が発達し、
幕府もその技術を独占したじゃん。
東山道に位置する山谷ある国々が一番、寒冷化の影響を受けてるだろ。
0164人間七七四年
2014/01/12(日) 18:22:07.68ID:vV7FCH8K流通の変動とか金山や特産物の枯渇のほうがまだ説得力ある
0165人間七七四年
2014/01/12(日) 18:26:14.39ID:DbTt2PQD>東山道
上国って扱いの時は東海道だろ
甲斐は物流拠点
武蔵、上野は補給拠点、会津は最前線基地
そんな昔であれば甲斐は間違いなく尾張に匹敵する価値はあった
0166人間七七四年
2014/01/12(日) 18:48:40.11ID:sZYEfqqI0167人間七七四年
2014/01/12(日) 21:29:57.23ID:M1Th6W9P尾張とか武蔵などは一応国境変更とかの影響もある。
>>160
石高は米だけじゃ無い、各生産物を米価換算してどれだけになるかみたいな感じ。
まあ屋敷もあるが。
>>163
その辺はほとんどネタの領域。
>>164
戦国時代は材木需要が高まったため各地が禿山状態になり、
そのせいで河川氾濫が頻発したって説もある。
家康は禿山だらけだったんで必死に植林したおかげで山が木々に覆われるようになったという逸話もある、
あくまで逸話だが。
0168人間七七四年
2014/01/13(月) 12:19:58.79ID:coVnNXhG寒冷化により、積雪量や一年を通じた平均気温の低下が激しくなるのは当たり前だろ。
晴信政権初期なんて、さんざん水鉄砲で田畠が流されたとか、8月に入っても寒かったなんて記述が出てくる。
だから甲斐では対応して麦栽培などが開始されてる。
上野碓氷峠→信濃善光寺→木曾から美濃へと続く流通に変更なんて無いし、
金山枯渇もただのネタで根拠ない。
特産物の枯渇なんて、お前の妄想だろ。
甲斐が物流拠点とか
上野が補給拠点とか
会津は最前線拠点とか意味不明の妄想だし。
0169人間七七四年
2014/01/14(火) 06:52:18.85ID:/hoRw1O+はいはい
賢い賢いw
0170人間七七四年
2014/01/14(火) 10:44:17.05ID:qBrSEuxm0171人間七七四年
2014/01/14(火) 14:24:19.47ID:XjQsmIZNアンチ信長キチガイたちの主張
・信長以外の武将が尾張にいたら、尾張で今川を迎撃するどころか自力で自分から攻撃して三河を攻略してるだろ。
・織田信長の支配基盤は、今川義元より遥かに強固
・織田信長の動員兵力は17000、今川義元は21000程度
・信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
・信長は義龍によって尾張の半分を奪われてしまった
・超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記
・桶狭間合戦前の織田家は博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル
0172人間七七四年
2014/01/14(火) 14:41:21.04ID:yC7jTEng0173人間七七四年
2014/02/07(金) 04:36:04.38ID:ADY2FvwY慶長3年高の57万1737石4斗(古高)は、慶長3年(1598年)の時点で豊臣政権が把握していた石高で、
実際の検地は文禄2年(1593年)に実施されている
徳川時代に入った慶長12年(1607年)に再検地が実施され、石高は48万0840石7斗(元高)に減った
ところが正保元年(1644年)に尾張藩は年貢を据え置きのまま
税率が六公四民から四公六民になるように石高の方を変更するという
机上での石高操作を行い、尾張国内の石高が一気に70万石(概高)に増えた
しかしながら幕府の方には従来通りの計算で正保高として52万6493石5斗1升を報告した
まとめると徳川時代に入り、住民の不満を和らげるために石盛を甘くした
その後、尾張藩内では昔の石高に戻したが、公式には減らした石高のまま継続した
0174人間七七四年
2014/02/19(水) 20:44:07.88ID:79uO9Hc7石高高いって策源地にするにはもってこいだよな。
同じ面積あたりの石高なら尾張は全国でもトップじゃないだろうか
0175人間七七四年
2014/02/19(水) 21:20:17.41ID:HUw+9aQw単位面積(方里)当たりの慶長3年石高 (1 方里 (1 里×1 里) ≒ 15.423 km2 )
5,504 河内 (242,105.8石/43.99方里)
5,488 尾張 (571,737.4石/104.18方里)
4,228 和泉 (141,512.7石/33.47方里)
3,803 摂津 (356,069.1石/93.63方里)
3,289 筑後 (265,998石/80.87方里)
3,082 山城 (225,262石/73.08方里)
3,015 近江 (775,379石/257.15方里)
ぎりぎりで河内の方が上
0176人間七七四年
2014/02/19(水) 21:26:15.94ID:HUw+9aQw7341 尾張 (764,774.1662石/104.18方里)
6663 河内 (293,118.5872石/43.99方里)
6637 筑後 (536,742.90265石/80.87方里)
5264 和泉 (176,190.7761石/33.47方里)
4449 摂津 (416,521.9358石/93.63方里)
4445 備前 (418,964.538石/94.25方里)
3992 筑前 (633,404.6354石/158.63方里)
正保以降の郡別石高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%9B%BD%E9%83%A1%E5%88%A5%E7%9F%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
郡別面積(数値化された中では多分一番古いやつ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976094/14
この辺を組み合わせると、具体的に尾張のどの郡が豊かだったか
もっと具体的に出せそうだけど
0177人間七七四年
2014/02/19(水) 22:58:18.55ID:FfTcJ6MU0178人間七七四年
2014/02/25(火) 01:27:57.22ID:J2FOUYi80179人間七七四年
2014/03/16(日) 15:08:30.17ID:zMyrorkW0180人間七七四年
2014/03/21(金) 14:21:09.24ID:FWYjAqG20181人間七七四年
2014/03/26(水) 07:18:44.95ID:8WdseDAA尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
0182人間七七四年
2014/03/27(木) 03:39:44.71ID:FU7bQWHT名古屋市ってのは中堅の県なみの人口を有する
0183人間七七四年
2014/03/27(木) 08:03:26.90ID:fVCnDNXx0184人間七七四年
2014/03/27(木) 15:13:22.42ID:s7P3bX5y0185人間七七四年
2014/03/28(金) 21:17:24.85ID:OqsXHhXO中でも中心地の名古屋市一帯が主な領地で朝廷に突出した献金してたり
相当な財力を誇ってたのは間違いない
所領地は農地が豊かで町には人が溢れ、海路で繋がった商業は盛んで
そこから上がる税収は莫大なものでそれを引き継いだ信長はその財力で
尾張を統一し、その後、美濃攻略へと繋がったと思われる
また桶狭間の戦いでは寡兵と大軍とされているが、織田の軍勢は寡兵ではなく
今川もまた兵をかなり分散させていたのもあるが圧倒的な大軍であった
わけではなくってのが通説になりつつある
桶狭間は兵を一つにまとめ今川本隊を強襲した織田勢と兵分散尚且つ、織田勢
の動きを把握出来てなく今川本隊にまで迫ってきていたのを察知出来なかった
今川勢 その結果が義元討ち死にとなったと思われ
3奉行の1人と言われれば大した事ないように思うが既に主家を上回る
勢力を持ち信長が継いだ時には総動員出来る兵数はその財力や石高から
5千〜6千人ぐらいで桶狭間の頃は1万5千人前後だった
0186人間七七四年
2014/03/28(金) 21:19:47.15ID:OqsXHhXO0187人間七七四年
2014/03/28(金) 22:22:12.49ID:U4fu/2X60189人間七七四年
2014/03/28(金) 22:34:48.20ID:0q3J5DCH信秀が残した外交的遺産は、六角との同盟+道三の後見+今川との同盟+朝廷の絶対的信頼
ここまで御膳立てしてもらいながら、
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり、
信長が今川を奇襲して同盟をぶち壊していたり、
織田外交を一手に引き受けていた信長後見役の平手が絶望して自殺。
数々の悪行で尾張国内の結束を自ら破壊して自壊に導き、
今川を恫喝していた後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
0190人間七七四年
2014/03/28(金) 22:36:01.64ID:OqsXHhXO尾張って地域は貿易都市としての機能は古い時代から築かれていて
尾張=小国じゃなく今川が統治していた3ヶ国と=になるぐらいの
肥沃な土地と貿易が盛んな経済都市だった
0191人間七七四年
2014/03/29(土) 02:58:32.46ID:yjFPiswEポケモンXYまとめ速報 ポケモンXY 長谷川亮太 メガ進化 信玄 戦国 菅沼遼太 なんj 片平亘 HSGW ぷりそく
ポケセン ぐるたみん 浅見祐希 片平 ペペロン そらる 肉体関係 ホモサピエンス 亘 母子家庭 ポケモンXY
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ゲームは一日10時間 片平亘 菅沼遼太 ハッセ だが 長谷川亮太 片平 佐藤 キニ ポケモンXYまとめ速報 >>1
0192人間七七四年
2014/03/30(日) 10:27:43.68ID:vRB+RQhm尾張藩=1607年〜1871年の264年間
名古屋県=1871年(明治4年7月)〜1872年(明治5年4月)の11ヶ月
愛知県=1872(明治5年4月)〜現在
0193人間七七四年
2014/03/31(月) 00:04:43.26ID:+g2tSK5S行政組織としての尾張国なら守護と一緒に室町時代中ごろに消滅している
一方住所としての尾張国なら、江戸時代はずっと使われているし、
明治以降も旧国を正式に廃止する法令は出されていない
0194人間七七四年
2014/03/31(月) 00:17:16.79ID:+vv4kYuS0195人間七七四年
2014/03/31(月) 00:49:13.02ID:+g2tSK5S在京だろうが守護代が守護所にいることになっているはずだが?
てか室町時代は下津城が尾張の守護所だろ
0196人間七七四年
2014/03/31(月) 06:07:16.22ID:pk7NWKcdそう、尾張国は江戸時代まで使われている。市町村区分で言うなら郡単位が
区分でしょうね。
>>194
斯波氏は在京が主だっただろうが斯波義重は尾張中島郡の頓聴寺に訪れている。
斯波氏の又守護代として命じられたのが織田家の織田常竹。守護所は中島郡にある
下津守護所。
0197人間七七四年
2014/03/31(月) 18:40:00.23ID:i+fp83G9名古屋県/愛知県の違いに拘るのなら、
尾張藩は歴史的用語であって、尾張藩と公称していた時期はない
江戸時代ならさしずめ「尾張大納言殿領分」とか「尾張侯国」
慶応4年旧暦閏4月に旧大名領を「藩」と呼ぶことが決まった際も、
藩庁の所在地をもって藩名とすることが決まったから、「名古屋藩」が正式名称
あと廃藩置県は西暦1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)
愛知県への改名は西暦1872年5月8日(明治5年旧暦4月2日)だから、
名古屋県が存在したのは9ヶ月も満たない
0198人間七七四年
2014/04/01(火) 20:10:47.71ID:5a4CxpKKこれの一次史料くれ。
0199人間七七四年
2014/04/01(火) 20:22:50.13ID:TqKryPcqhttp://okhome.fc2web.com/siba/memory/me201.html
0200人間七七四年
2014/04/01(火) 22:44:41.68ID:TqKryPcq抗争を始めたんだよなぁ。
0201人間七七四年
2014/04/02(水) 08:12:10.80ID:8mCXCijl0202人間七七四年
2014/04/02(水) 08:28:05.89ID:Py/T+Tnr史料的裏付けが皆無なんだがw
0203人間七七四年
2014/04/02(水) 14:48:03.37ID:Dq72pRWj>>202
国史大辞典によると尾張の守護所は、
南北朝時代から室町時代中頃まで府中下津、戦国時代は清洲
尾張国守護所の所在地だった所として明記されるのは、
江戸時代前期に尾張藩士天野信景によってまとめられた『塩尻』以降だけど、
同時代の史料としては、斯波義重が尾張の守護代である織田常竹に
応永15年(1408年)9月付で送った手紙の中で、宛先を「下津京兆」と記している
また醍醐寺文書では応永年間の尾張国国衛として下津が記載
15世紀前半の清厳正徹『なぐさめ草』によると下津は「国郡の政を行ふ」所
守護所についてはそもそも同時代に全国の分布をまとめた史料がないので、
鎌倉時代は4割以上の守護所が不明だが、室町時代以降は色々な手紙等や、
江戸時代以降の地誌に頼って研究者によって比定されている
詳しくは松山宏『守護城下町の研究』
0204人間七七四年
2014/04/02(水) 20:22:11.70ID:+Q3tDBO3すると尾張守護は織田常竹になっちゃうよね?
あたま大丈夫か?
それと国衙=守護所なわけねーだろアホか。
0205人間七七四年
2014/04/02(水) 21:09:56.63ID:Dq72pRWj>斯波が出した書状の宛名でなく宛先が下津京兆?
>すると尾張守護は織田常竹になっちゃうよね?
>あたま大丈夫か?
この場合の京兆は守護代である織田常竹で、
手紙の中で斯波は、「尾張国国衙正税」を納めようとしない三宝院に、
納税を催促し、さらにその誓約書を書かせろと織田に指示している。
>それと国衙=守護所なわけねーだろアホか。
尾張国府は国府宮にあったが既に尾張国の国府として機能しなくなって、
その代わりに下津を国衙と表現している
あと、なんか守護所が尾張にあるわけないと主張したいようだが、
それなら『守護城下町の研究』の著者の奈良大学名誉教授の松山宏や、
吉川弘文館の『国史大辞典』、平凡社の『日本歴史地名大系』の編集者にでも手紙を送って主張してくれ
『国史大辞典』は松山宏の『守護城下町の研究』等を元に、
『日本歴史地名大系』は『塩尻』の記述を元に、
下津を尾張の守護所として記載している。
0206人間七七四年
2014/04/03(木) 08:39:56.77ID:1bTRx1pE0207人間七七四年
2014/04/03(木) 11:42:33.15ID:gZphh5dAこの場合は「下津の長官」程度の地位を大袈裟に「京兆」と表現していて、
すでに武家官位の走りが始まっている
てか文句あるのなら国重要文化財の妙興寺文書は捏造だと、
松山宏や妙興寺、『新編一宮市史 資料編 5』の編集者に訴えろよ
0208人間七七四年
2014/04/03(木) 16:45:54.74ID:QxJFPsRyスレ糸冬
0209人間七七四年
2014/04/03(木) 18:56:57.81ID:atFUHV7Nそれで各砦と出撃した部隊合わせると5000以上の兵力でしょ?
尾張一国で1万、美濃を合わせば2万近いよね?
0211人間七七四年
2014/04/04(金) 08:13:59.86ID:Tuu646wi下津で納得。守護所は国衙の近隣に営まれると書かれている。妙興寺、頓聴寺なども
中島郡内。
国司や守護者が尾張に来る場合は中島郡に足を運んでいたと言う事。
0212人間七七四年
2014/04/04(金) 08:28:14.91ID:i5SN4FHa対応してないと主張するなら、具体的に誰が対応せずにそう呼ばれていたのか一次史料根拠で書いてくれ。
「下津の長官」程度の地位を大袈裟に「京兆」と表現したと妄想願望を書いたところでそこに証拠が一切無いのに書いてて気づかないのかね?
0213人間七七四年
2014/04/04(金) 11:04:08.47ID:9AVItHZO知らんがな
事実として妙興寺文書には斯波からの尾張での雑務を指示する手紙が何通か残っていて、
宛先には下津京兆と書かれている
で、これを松山宏は、織田常竹のことだと『守護城下町の研究』の中で述べている
文句があるのなら、松山宏かその弟子に読解力がないと訴えるか、
妙興寺文書に収録されている手紙が偽物だとか、勝手に主張しろよ
あと松山宏の研究を引用して、全国の守護所の場所を掲載している『国史大辞典』にでも文句を言ったら?
0214人間七七四年
2014/04/04(金) 11:55:11.86ID:Je+YDBNq0215人間七七四年
2014/04/04(金) 16:34:59.81ID:3at810gU0216人間七七四年
2014/04/04(金) 20:04:16.68ID:gKSEKlrO0218人間七七四年
2014/04/04(金) 21:02:38.04ID:Tuu646wi勝幡城の正式住所地は中島郡平和町六輪字城之内で日光川と三宅川の合流する三角州の北側。
0219人間七七四年
2014/04/04(金) 22:24:46.11ID:gKSEKlrO細川京兆家
織田京兆家wwwwwwwwwwwwwwww
斯波武衛家
畠山金吾家
0220人間七七四年
2014/04/04(金) 22:58:33.08ID:Tuu646wi0221人間七七四年
2014/04/05(土) 00:16:27.69ID:ASLneBkv織田家が京兆と斯波家から呼ばれていたなら
そもそも織田家の方が斯波家よりも上位権力者になってるじゃん・・・
そうだとすれば守護が織田で斯波が守護代でないと位階上おかしい。
0222人間七七四年
2014/04/05(土) 00:46:41.86ID:Ue8degdI斯波義重の官位は従三位右兵衛督
織田常竹の官位は左京亮(従五位下相当)なんだから、問題ないだろ
てか左京大夫・右京大夫の唐名が京兆尹で、
左京亮・右京亮の唐名が京兆少尹なんだから、
斯波義重が敬意を払って左京亮の地位の所司代に対して京兆と記したことに、
そもそも何ら矛盾がなかったんだな
0223人間七七四年
2014/04/05(土) 00:49:37.24ID:Ue8degdI守護代
0224人間七七四年
2014/04/05(土) 08:31:28.49ID:wsGqbFqI織田常竹の官位は左京亮になったとする記録自体が存在しません。
0225人間七七四年
2014/04/05(土) 09:14:11.91ID:zgdZYQoe足利義輝に接収されたことで事実上、斯波氏は滅亡。
尾張の下津に守護所があったとするのはでっち上げの捏造で、それを史料から証明できない。
完全に妄想願望レベル。
そもそも常任っていうのはいたが、
常竹なんて存在しない。
それを勝手に武功夜話が常竹は常松の兄弟って書いてあるから同一人物だとか比肩し始めるバカが現れ、
武功夜話で常竹に子孫がいないと書かれているから記録が存在しないのも隠蔽抹消されたという理論が成り立ってるだけの話。
武功夜話に依存してはじめて常竹が証明されるレベル。
だいたい常竹は尾張又守護代とか言い出してたりするが、そんな職制は足利幕府には存在しないし史料からも確認できない。
0226人間七七四年
2014/04/05(土) 09:50:33.65ID:zgdZYQoeこれ自体がなぜか尊卑分脈増補改訂ものにしか書いてない謎w
尊卑分脈は信憑性が低くく、改竄や存在しない人物が書いてあり、
先祖のでっち上げ掲揚が行われてるシロモノ。
実際に朝廷の記録に書かれる斯波義重の官位は正五位下だから。
0227人間七七四年
2014/04/05(土) 10:11:32.27ID:5hbTrb3M>斯波は在京守護だから、尾張に守護所は存在しない。
これは間違いってことでOKだよな。
0228人間七七四年
2014/04/05(土) 14:11:34.53ID:siHmGUgs織田左京亮は、妙興寺文書の応永9年5月28日「尾張国々衙正税内自守護御方違乱所々事」の書状で初出
同じく常竹の名前は、応永9年12月26日の書状で初出
妙興寺文書には織田常竹による妙興寺への判物も含まれ、
これらは妙興寺文書というれっきとした一次史料によるもの
左京亮が勝手に名乗っていた官位だろうが
少なくとも仲間内の間では左京亮という官位が認められていた
てか何で武功夜話?
常竹と常松の血縁関係なんて、
それこそまともな史料がないしどうでもいいこと
あと、守護が在任せず代わりに守護代などが派遣されている在所は守護所と呼ぶべきじゃない、
あるいは妙興寺文書は捏造だって主張したいんなら、
しかるべき本を出版するか論文投稿でもするかして言えよ
0231人間七七四年
2014/04/11(金) 21:33:05.23ID:koFjgXXe0232人間七七四年
2014/04/11(金) 22:03:02.94ID:koFjgXXe尾張守護代所すら史料皆無。
沙彌常竹=織田常竹なんてトンデモ解釈そのもの
それどころか織田左京亮ですら何者かよくわからんのに
さらなる飛躍で織田左京亮=沙彌常竹なんて論理飛躍もいいところ。
ガチでキモい捏造。何でもかんでも都合よく比肩させる昔の郷土史研究家かっつーのw
0233人間七七四年
2014/04/12(土) 07:15:20.31ID:8/7OOpz/0234人間七七四年
2014/04/12(土) 15:52:46.93ID:vojIGtwq沙彌というのは、応永10年前後に手紙を書く時の流行りの名乗りで、
妙興寺文書に収録されている応永10年前後のほとんどすべてが、
沙彌+花押(斯波重重)
沙彌+花押(織田常竹)、沙彌常竹+花押(織田常竹)
沙彌+花押(織田常松)
というスタイルで記述されている
花押の主に関しては、妙興寺文書に収録されていない分を含め、
複数の手紙を比較することで全て同定できている
ついでに織田左京亮への手紙(>>205)を妙興寺文書で確認したら、
正しくは応永18年2月19日に織田常松から織田常竹へ出された手紙で、
差出人は「常松+花押(織田常松)」
宛先は「京兆参下松へ」
妙興寺文書には斯波重重、織田常竹、織田常松の手紙が
合計50通ほど収録されているが、
「京兆参下松へ」以外に常竹宛てで使われている宛先は
「織田左京亮入道殿」、途中から「織田出雲入道殿」に変わっている
0235人間七七四年
2014/04/12(土) 15:54:53.60ID:vojIGtwq書き間違えた
×下松
○下津
なお「織田常竹」と自称している書状は一つもないが、
妙興寺文書収録の書状は、「織田左京亮」宛の手紙、
「常竹+花押」による書状や注文書・判物等の内容が、
すべて妙興寺に関する土地問題で繋がっている
官位を名乗らない人の場合は「平野左衛門太郎信徳+(花押)」
のように氏名をセットで差出人として記述しているから、
常竹はそれないに地位の高い人で、
さらに斯波重重や織田常松からの指示の内容と、
常竹が妙興寺に発してる書状の内容が一致していることから、
織田左京亮=常竹と同定されている
それでも常竹が織田じゃない別人と主張したいのなら、
だったらそう新説でも主張して論文を書けよ
0236人間七七四年
2014/04/12(土) 16:24:22.59ID:vojIGtwq本当に、研究書やそこからの引用に目を通しているのか?
妙興寺文書の内容は自分でも先週まで元文献はチェックしてなかったけど、
『新編一宮市史 資料編 第5』に活字化されているから確認すれば分かる
自分も活字化された妙興寺文書に目を通したのは先週だが、
それ以前に書いた内容は、奈良大の松山宏が書いた『守護城下町の研究』からの受け売りで、
元々は『国史大辞典』にまとめられている守護所の表から引用した
守護所が尾張にはなかったと主張したいんなら、
それこそそう主張している史家・本・論文でも挙げてくれるか、
あるいはそういう論文をどっかに投稿したとか言ってくれない限り、
こっちも何の根拠で主張しているのかさっぱり分からない
それに武功夜話に織田常竹なんて載っていたか(>>225)?
武功夜話に関しては、一応下のスレッドの
931-933、944-947、950、952、958-960、966-968を書いたのは自分だし、
調べようと思えば図書館で平日に調べられるけど、
自分の主張を通したいから勝手に武功夜話に載っているという話を書いてないか?
武功夜話は偽書?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169263287/
0237人間七七四年
2014/04/12(土) 16:39:57.79ID:aMkSvscG無茶苦茶。郷土研究家レベルなら、あぁそうですかw飛ばし記事乙でスルーするレベル。
そもそも沙彌というのは、応永10年前後に手紙を書く時の流行りの名乗りってのがもうデタラメw
沙彌は仏門の修行に入って間もない初心者って意味であり、
永享でも六角満綱がただ単に沙彌とだけ署名してるし、
信長時代に入っても六角承偵が天正に入ってから沙彌承偵と名乗ってるなど、
特に六角家において使われ続けている。
そういうことすら知らないのだなw
0238人間七七四年
2014/04/12(土) 16:50:45.88ID:vojIGtwq実際に妙興寺文書に目を通せよ
応永10年前後の手紙は、実際には仏門にも入っていないにも関わらず、
ことごとく皆沙彌を名乗っているのに、
応永20年前後からは同じ人間が名乗るを止めている
0239人間七七四年
2014/04/12(土) 23:33:00.96ID:9abCBiCA0240人間七七四年
2014/04/13(日) 14:45:27.91ID:FQJoI0T7妙興寺の尾張での領土だからと言って六角氏じゃない証拠にはならんし。
0241人間七七四年
2014/04/14(月) 07:01:39.06ID:OCPvf6fV0242人間七七四年
2014/04/15(火) 23:57:10.06ID:q0BauLrShttp://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-732-8.htm
0243人間七七四年
2014/04/26(土) 20:10:16.97ID:7v+7/Hor0244人間七七四年
2014/04/30(水) 01:21:17.15ID:mTeUVmqg領民人口・馬・牛の数
なお本史料での領民人口は寺社領の人口を含むかどうかは不明
尾張八郡合計概高:71万7511石9斗1升、領民人口37万5918人、馬15760疋、牛1986疋
(本田63万1528石余、新田7万8800石余、高外寺社領・伝馬給・船頭給・車田7182石余)
愛知郡:10万8806石7斗9升1合、領民人口5万9649人、馬2128疋、牛58疋
(本田9万5308石余、新田1万1679石余、高外寺社領・伝馬給1819石余)
春日井郡:14万4930石1斗7升4合、領民人口6万6131人、馬3038疋、牛24疋
(本田13万2899石余、新田1万1159石余、高外寺社領871石余)
丹羽郡:6万9809石1斗9升8合、領民人口3万9693人、馬1838疋、牛4疋
(本田6万6128石余、新田2622石余、高外寺社領1057石余)
葉栗郡:1万8703石8斗2升5合、領民人口1万3179人、馬149疋
(本田1万7608石余、新田863石余、高外寺社領231石)
中嶋郡:12万2433石4斗7升0合、領民人口5万7275人、馬2871疋、牛2疋
(本田11万1387石余、新田1万0424石余、高外寺社領621石余)
海東郡:12万1957石2斗9升4合、領民人口4万4522人、馬2393疋、牛5疋
(本田10万7045石余、新田1万2842石余、高外寺社領・船頭給2069石余)
海西郡:3万9568石6斗0升8合、領民人口1万8095人、馬1251疋、牛20疋
(本田1万4190石余、新田2万5269石余、高外寺社領・船頭給・車田108石余)
知多郡:9万1302石5斗4升9合、領民人口7万7374人、馬2092疋、牛1873疋
(本田8万6959石余、新田3939石余、高外寺社領403石余)
0245人間七七四年
2014/04/30(水) 01:26:54.25ID:mTeUVmqg史料内では村数・戸数・人口と集計していることから、
名古屋城下をはじめとする町方の人口も含んでいないと思われる
0246人間七七四年
2014/04/30(水) 22:14:15.27ID:zz3THpVy尾張国中島郡の地名で,現在の愛知県稲沢市の五条川・青木川沿いにある。折津・折戸とも記される。
古来からの交通の要地で,《源平盛衰記》には下津宿がみえている。鎌倉時代以降は黒田(くろだ)(愛知県一宮市木曾川町)と
萱津(かやづ)(現,愛知県あま市)の間の鎌倉街道の宿駅で,渡・町屋・市があり,特に市は五日市や国衙(こくが)職を持つ
醍醐寺三宝院支配下の国衙下津市が立てられていた。
0247人間七七四年
2014/05/05(月) 12:33:15.08ID:n165yUOG0248人間七七四年
2014/05/06(火) 11:40:49.68ID:taoJZq6K0249人間七七四年
2014/05/06(火) 12:55:32.18ID:IvrudrFm地元愛もいい加減にしろ
0250人間七七四年
2014/05/07(水) 08:27:16.72ID:40q/7xlT応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。
または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である【下津城】の別郭として建てられる。
0251人間七七四年
2014/05/08(木) 21:58:15.20ID:wt8wLrB50252人間七七四年
2014/05/09(金) 21:34:00.08ID:ZPMnI6BE誕生から480年の節目の年。http://www.ooutsuke.org/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E6%83%85%E5%A0%B1/
0253人間七七四年
2014/05/14(水) 19:05:20.77ID:I3Ym/8hp信長は勝幡城生まれ。「信長の城」の著者 千田嘉博・奈良大学学長
信長の生まれは勝幡城以外は考えにくい。
http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=179161&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113
0254人間七七四年
2014/06/10(火) 02:13:06.45ID:kE00tLa20255人間七七四年
2016/05/29(日) 00:42:04.98ID:uK9EVSu5■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています