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「卯刻…前右府(信長)打死、同三位中将妙覚寺ヲ出テ、下御所(二条御新造)ヘ取籠之所二、
同押寄、後刻打死」 (言経卿記)

「世子(信忠)はこの報を聞き、まだ床についていたが起出で、滞在していた寺院は安全ではないと考え、
駆けつけた人々と共に付近にあった内裏の御子の居に赴いた」 (日本年報追加)

「信忠此是聞給、本能寺へ可有御籠とて出給所、村井春長親子三人参上して、本能寺ははや火懸
て事終て候、妙覚寺へは御帰不可有、二条の御新造へ被為籠尤と言上、則二条に御移」(当代記)

これらの史料によると信忠は自分の意思で本能寺ではなく二条城に移動しているように見えるが、どこをどう
読めば明智の横鑓で二条城への移動を余儀なくされたと解釈できるんだ?