「信忠の意思で二条御新造へ向かった。」ってことは、妙覚寺に対して横鑓などの明智の手当て
がなかったことになる 手当てなかったということは、光秀が本能寺襲撃時点で信忠の在京を知
らなかったことの傍証となる。

もし知ってたら、「江源武鑑」のような経過をたどるか、妙覚寺からの移動の際に何らかの小競り合い
があるか、攻撃せずとも事前に包囲ぐらいするのが自然だが、その事実を示す1次史料は存在しない。

「当代記」の著者は、二条城に籠って死んだ信忠に対して
「光秀は謀反の意思を深く秘密にしていたため信忠逃亡防止の手当てをしていなかった。だから安土
に無事に行けたはずなのに、運が尽きるとはこういうことだ」と評している。

>>6
>オウム返しのレスの前に以下2点への回答を示して欲しいが。
>・光秀は京都の状況を自国でも知りえなかった理由
>・京都へ攻め入る前になっても斥候すら使わなかった理由
桐野・谷口は「光秀が信忠在京を知らなかった」説は光秀がマヌケ過ぎて採れないが、一方で1次
史料による証明もできなかったようで「明智軍記」の記述を採ってごまかしている。
「知っていたこと」の傍証は1次史料では無理なんだよ