>>961の続き

信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。

直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。

妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。

満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
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