戦国ちょっといい話28
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0001人間七七四年
2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0863人間七七四年
2011/09/30(金) 13:59:44.52ID:V5py4wHV0864人間七七四年
2011/09/30(金) 19:05:21.11ID:Yk1NRgcF0865人間七七四年
2011/09/30(金) 21:38:24.89ID:Moxt7eI80866人間七七四年
2011/09/30(金) 21:43:25.53ID:xxQAilDg派手な格好で真っ先に逃げるのと
0867人間七七四年
2011/09/30(金) 22:10:19.73ID:Dvjq8KxX「幾らなんでもあいつ必死過ぎじゃない?^^;」とか思われなかったのだろうか
0868人間七七四年
2011/09/30(金) 22:21:55.80ID:BrC6ALvo0869人間七七四年
2011/09/30(金) 22:32:47.26ID:YOGY7AUu太閤秀吉の九州攻めの際、安国寺恵瓊が吉川元春の陣を尋ねた。元春は折しも病気中であったため出雲、石見の諸将も多く来ていた。
そこで元春と恵瓊を中心に諸将達が軍談義をしたが、恵瓊が
「島津はここ数年、我が物顔に九州を暴れ回っていたが、来春にでも太閤殿下がご出馬されれば、たちどころに一門根絶やしとなるだろう」
と言うと、一座の諸将も同意した。所が元春のみが異議を唱えた。
「いかに太閤殿下と言えども、そう簡単に島津を根絶やしには出来ぬ。天下は未だに殿下の手中に納まり切れてなく、
このような時期に何年も大軍を九州に置くことは出来ない。かと言って島津には名将が多く、地の利もあるのだから短期決戦でもそうは勝てまい。
しかし島津とて完全に勝ちきる事は不可能なのだから、一度決戦してから最低薩摩、大隅を確保するための和平交渉に出るだろう。
太閤殿下も島津は仇敵ではないのだから、今までに切り取った国を返せば、根絶やしになどせず、薩摩大隅の領有を認めてやるに違いない。」
結果的には元春の予想した通りになり、恵瓊達は元春の深謀に大いに感服したと言う。
0870人間七七四年
2011/09/30(金) 22:45:22.94ID:cYjFeDWS0872人間七七四年
2011/09/30(金) 23:29:53.12ID:IV74X+lV0873人間七七四年
2011/09/30(金) 23:37:29.33ID:EkLvusEg0874人間七七四年
2011/09/30(金) 23:41:34.53ID:G8M61ZWB0875人間七七四年
2011/09/30(金) 23:49:42.74ID:f9HgjpJW北条は家康への配慮かな?
佐々は二度目はなかったけど。
0876人間七七四年
2011/10/01(土) 00:15:00.63ID:TfC3dsY+結局河内佐山一万石…
0878人間七七四年
2011/10/01(土) 00:25:52.26ID:YkmngnrG0879人間七七四年
2011/10/01(土) 01:52:05.12ID:EMucW1XH秀吉というより家康がなんかしたような気がする
0880人間七七四年
2011/10/01(土) 02:27:19.57ID:rUza4jNS0881人間七七四年
2011/10/01(土) 02:38:40.67ID:v/Z1mi6o利家は信長のお気に入りを切って追放されてもそれでもどうしても
信長に仕えたくて二年間浪人で貧乏暮らしをしてこたえてるから
でしょう。
他のメンツはそこまでのビンボーを味わっていないからね。
0882人間七七四年
2011/10/01(土) 03:48:35.90ID:AijPZDUrその時正則は、この三人に小袖を二枚づつ贈られ、受け取らせた。
これに三成は特に心を動かされ「大夫殿のお心遣い、深く感じ入りました」と悦び、その小袖に着替えた。
そしてその小袖姿で洛中を引かれ、三条河原で首打たれたということである。
(福島太夫殿御事)
0883人間七七四年
2011/10/01(土) 07:06:46.35ID:XmL9vE6y家康の時とはえらく対応が違うなw
番使が「上様」と言わなかったら素直に礼を述べたんだろうか。
0884人間七七四年
2011/10/01(土) 13:10:56.10ID:kszt1gKF講談的には文武の両極で頭の天辺から足の爪先まで嫌いな対立構図になりがちだが
0885人間七七四年
2011/10/01(土) 14:21:21.82ID:cGtB0+zg豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに
あれだけ離反されたんだから
0886人間七七四年
2011/10/01(土) 14:24:46.22ID:2aFH7PPEそこは議論があると言うか、先に秀吉の遺命を破ったのは三成の方だというフシがある。
少なくとも秀吉が死んだ途端、対家康の政治闘争を始めたのは間違いなく三成。
0887人間七七四年
2011/10/01(土) 14:35:28.74ID:M5eha+Wg好き嫌いで陣営選んでるわけじゃないんだな
基本的に家を残すために勝ちそうな方についているたくさんの家来を養う責があるわけだし
正則も福島家存続のためには(豊臣見捨てても)是非も無しみたいな書状残ってたろ?
0888人間七七四年
2011/10/01(土) 15:39:33.19ID:VaiSmuLA伊達と佐竹が関ヶ原直前に和睦に向けて使者のやり取りしてるんだぜw
0891人間七七四年
2011/10/01(土) 16:50:46.54ID:EenNPniL0893人間七七四年
2011/10/01(土) 17:27:07.88ID:g7M+xTMV天文20年、フランシスコ・ザビエルが日本から離れる際、山口で洗礼を受けさせた日本人ベルナルドとマテウス(本名不詳)を連れてインドまで行った。
その翌年ザビエルはポルトガルのイエズス会に
「この二人の日本人に対し、出来るだけ丁重にもてなし、教会やら学校といった欧州の珍しい事物を視察させてやるべし
そして彼等を帰国させて日本人にその事を伝えさせるのだ。日本の貴族は海外旅行しないからこの二人が恐らく日本人で初めて欧州に行く事になるだろう。
他の信徒達にも欧州旅行を進めたが断られてしまった。だからとりあえずこの二人をローマに送ってその翌年帰国と言う風に計らってもらいたい。」
という紹介状を書いた。しかしマテウスはインドで死に、ベルナルドは欧州に行ってローマやポルトガルのコインブラまで行ったが、
結局そこの教会学校で死んでしまい、日本人初の欧州旅行者として帰国出来ずじまいだった
0894人間七七四年
2011/10/01(土) 17:29:53.31ID:n0fjwKYT石田三成が生きてたから関ヶ原の戦いが起こって、そして西軍が負けた。
豊臣家の安泰を真剣に福島公が望んでいたのなら三成公と淀君は暗殺しとくべきだった
0895人間七七四年
2011/10/01(土) 18:03:09.10ID:AR4WGD0V0896人間七七四年
2011/10/01(土) 18:21:21.06ID:QLNmfwXs0897人間七七四年
2011/10/01(土) 19:37:32.87ID:KTfOlJ3qこれは悪い話というか残念な話なのでは…
外国に行った人といったら、まーくん絡みのあの人思い出すけど
せっかく帰ってきたのにやっぱり残念なことに
0898人間七七四年
2011/10/01(土) 20:48:16.43ID:HsnVRuGy【突撃四天王】
・最上義光
・蒲生氏郷
・黒田長政
・井伊直政
0899人間七七四年
2011/10/01(土) 21:05:46.97ID:8VUJVezQhttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1317463987/l50
↓まだ見てない方はどうぞ↓
日本語版
http://www.youtube.com/watch?v=sW4H2PGj6JU&feature=player_detailpage
英語版
http://www.youtube.com/watch?v=FaOCQ9AQyP0&feature=player_detailpage
0901人間七七四年
2011/10/01(土) 21:35:30.31ID:YMA5xABPこれで四天王は五人に・・・
あるぇ?
0902人間七七四年
2011/10/01(土) 21:39:04.81ID:eHM/UbKG0903人間七七四年
2011/10/01(土) 21:45:55.60ID:9e6bD10n0904人間七七四年
2011/10/01(土) 22:36:49.58ID:nEPELKqS0905人間七七四年
2011/10/01(土) 22:47:10.72ID:9e6bD10n0906人間七七四年
2011/10/02(日) 00:47:32.52ID:DbFoKHop『常識知らずとは思いますが、あまりにもそちらの様子が気遣わしく思いましたので一筆したためました。
一つ、早くも寒い季節になってまいりましたが、いかが達者でお過ごしでしょうか?
一つ、普請の方はどこまで進みましたか?
一つ、気分はいかがですか? 事細かにお聞かせください。
一つ、私はこちらへ下ってきて、大体予定通りに進んでいます。ご安心ください。
しかしながら私が再び世間に出ることを、貴方は笑われることでしょう。
されど釈迦も再び人の世を出られ、遙か遠くまで広まる教えを作られたと言われています。
そういうことですから、私は昔も今も四六時中、事を成すことばかり考えていました。
定めなき世の習いですので、もう貴方に会えなくなるかもしれないと思うと、心引かれる思いがします。
ただし、また定めなき世なだけに、普請の済んだ貴地で再会できるかもしれません。
あまりにも伝えたい事が多くて筆の止めどころがありませんが、どんな事も書き残しておきます。恐惶謹言』
署名は“半(塙) 団右衛門 勝忠”。
大坂入城の直前(慶長19年9月29日)に、親しい知人に宛てたものと思われる。
諱がよく知られた直之ではなく勝忠なのは、
旧主・加藤嘉明(長い間、茂勝と名乗っていた)の偏諱を使い続けていたのだろうか?
豪傑の意外と繊細な一面が垣間見える一通である。
0907人間七七四年
2011/10/02(日) 00:52:02.46ID:haK3YWe/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111001/biz11100112060011-n1.htm
これ(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3420.html)思い出した。
もう今年もそんな季節なのか・・・。
0908人間七七四年
2011/10/02(日) 03:39:12.68ID:9ybos65E何としても主君秀長に恥をかかせるわけにはいかなかった。
徳川家康と豊臣秀吉の和議が成立し、ようやく家康が上洛の運びとなった頃であった。
聚楽第のそばに家康の館をつくるよう命じられた秀長は、
縄張りと造営を高虎に任せた。
「まずもって、万が一のことがあってはならぬ。」
高虎は、華麗な秀吉好みより、堅固な屋敷造りを心掛けた。
「ここはやはりどうしても台所門が欲しい。欲しい、が。」
当初の予算はとうに使い切っている。
高虎は私財をつぎ込んで、台所門と外溝を造った。
上洛を果たした家康は、その屋敷を見ていたく感服した。
「さては、さすが秀長どの。よう心得てござる。」
「いえいえ、それがしは、ただこの者に命じただけ。
なお、台所門はこの者の私財を投じておる由にございます。」
促されて、高虎は大声で名乗った。
「藤堂与右衛門高虎にございます!」
三十一歳の時である。
高虎は家康から長光の刀を賜ったのだった。
今や事は急を要していた。
その日の朝、家康は高虎を呼んで告げた。
「朝鮮に行って、在陣している方々に早く帰帆の工夫を考えるよう、伝えてもらいたい。」
そして、その晩。
「高虎殿は近いうちに出航するであろうな。」
家康は、言い残したことがあるから来て欲しいと、高虎のもとに使いを遣った。
しかし、使いは手ぶらで帰ってきた。
すでに高虎は博多に向けて出航したあとだったと言うのだ。
「そうであった!」
家康は手を打ち、こう言ったという。
「わしはやつが与右衛門と称しておる時から知っている。
秀吉公の見立てで、どう出世してきたかもな。
万事に早きこと、かくのごとし。只者ではないわ。
若い者どもにも見習ろうてほしいものじゃ。」
それからの高虎の歩みは、徳川家康とともにあった。
さながら中学の歴史教科書の年表の見出しのごとくである。
外様で唯一、家康の臨終に侍ることを許された藤堂和泉守高虎は
その時、津藩二十八万石の藩主になっていた。
0909人間七七四年
2011/10/02(日) 04:40:58.83ID:0Y6gSLwG「国に危険あらば藤堂を一番手とせよ。」
とまで言われてるんだよねぇ。後宗教変えたり。
0910人間七七四年
2011/10/02(日) 08:08:51.22ID:7MyDJQes津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。
それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。
最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。
西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。
主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。
0911人間七七四年
2011/10/02(日) 08:49:26.71ID:yRyBcZbg行軍は間違いなく速くなるな
要地を占領して陣地造りとかも向いてそう
問題は先頭が始まってからだが
もう一つ早起きは三文の得ならず
早出は三十万石の得と言うわけだな
早起きしても遅刻魔の俺は今日悟った
しかし手遅れになった頃でないと仕事がはかどらないんだよな
0912人間七七四年
2011/10/02(日) 08:50:09.08ID:yRyBcZbg0913人間七七四年
2011/10/02(日) 10:14:03.33ID:SpA2YS9Q0916人間七七四年
2011/10/02(日) 13:32:21.30ID:51esCWXXもしくは早死にし過ぎた
0917人間七七四年
2011/10/02(日) 13:56:40.08ID:NITRYeJl後期の武将のほうが強く印象に残るな
0918人間七七四年
2011/10/02(日) 14:04:32.25ID:SHeRS1zE0919人間七七四年
2011/10/02(日) 14:11:34.00ID:jJXvuh5tやっぱり、創業者は綺麗ごとじゃ務まらんからじゃね?
晴信に一騎駆けの伝説が少ないのは、お父さんから権力基盤毎貰える、継承者の立場だったからだろ。
0920人間七七四年
2011/10/02(日) 14:11:57.87ID:mlmumIff0921人間七七四年
2011/10/02(日) 18:25:03.08ID:YXecC1yN慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いも間近な信濃の出来事。
東軍の森忠政の家老である各務元正の軍が森家と領を接する西軍の真田昌幸の動きを牽制する為、国境付近の警備を請け負っていた時の話である。
病床に臥せり既に指揮を執れる状態では無かった元正は何か思う所があったのか息子たちを集めると一つ助言をした。
元正「真田の軍勢が弱々しく兵を退いても味方の先手の備えを崩して包囲しようとしてはいけない。
こういう時は横に回りこませてある兵に味方が不意打ちを受ける事があるからだ。」
こうした元正の助言を受けて守備の任に就いた各務軍。
現れた真田の兵に鉄砲を撃ち込むと割りとあっさりと引き下がったが、元正の言うとおりに侮る事無く備えを崩さずに決して追いかけない。
その後も何度か真田軍が現れたがその度に鉄砲を撃って追い返すといった事が繰り返され、各務軍はさしたる被害を出すこと無く適当にあしらうだけで守備の任を果たしたのであった。
0922人間七七四年
2011/10/02(日) 19:01:17.21ID:0pPwHX/l0923人間七七四年
2011/10/02(日) 19:16:21.83ID:2NwQR/htあれねえ。けっきょく尾藤さんとセンゴクの違いは何だったんだろう。
秀吉自身の好き嫌い&虫の居所とかかね
0924人間七七四年
2011/10/02(日) 19:48:53.44ID:TxoZzs2z0926人間七七四年
2011/10/02(日) 20:12:55.48ID:PimrdnBOなんの手柄もなく、ただ許せ、って端的に言って「お前が俺を追放したのは間違いだってわかっただろ」って
言うようなもんだと思う。
使えねーんで首にした奴が、半年位して何の前触れもなく出社してきて、元通りに雇えっていきなり言ってきた
ようなもんだろ。正直、常識はずれだと思うぜ。
一方センゴクは系列子会社の有力社長の元でプロジェクト成功させて、その功績をもって、
以前の失敗の埋め合わせにこういう功績を挙げました、復帰させて下さい、ってその子会社の社長に口利き
してもらって訪ねてきたようなもの。 復帰させる理由もたつし、理由があるのに無碍に断れば社長の顔を
潰すことにもなる。 きちんと外堀から埋めていけば、首にしたほうだってまー許してやろうか、って話になる。
0927人間七七四年
2011/10/02(日) 20:58:48.60ID:BAOI441A武者修行中のある日、近江の坂本から舟で琵琶湖を渡っている時
同じく武者修行中の武芸者もまた、その舟に乗っていた
「俺は今日まで立ち合い勝負で負けたことない!」と自慢話に花を咲かせる武芸者
最初はスルーしていたが、だんだん鬱陶しくなってきたのか
「俺も負けたことないんだけどー」とその男を挑発しだした
剣術は何流だと聞かれ、無手勝流と答える卜伝
ならば勝負だ! ということになり、船頭に頼んで近くの小さな島へ寄ってもらうことに
そして相手が先に、その島に上陸したのを見届けた卜伝は
船頭の手にしていた櫂をヒョイと手に取り、島を一突きした
舟はそのままゆらゆらと、男を小島に残したまま、一気に沖へと向かっていきましたとさ
「これが、無手勝流の極意なり!」
0928人間七七四年
2011/10/02(日) 21:28:27.80ID:UAk0WxbK塚原卜伝由来と言われているのか
0929人間七七四年
2011/10/02(日) 22:49:11.26ID:K84TBHeL0930人間七七四年
2011/10/02(日) 23:27:28.12ID:Jbuh2CPu0933人間七七四年
2011/10/03(月) 00:06:53.57ID:vmiEx/n8http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/265908
ソーリンの知名度更にUPか
0937人間七七四年
2011/10/03(月) 18:46:42.49ID:EBKeU9Xu重ねてのものであり、軍法に照らし合わせた結果、新右衛門には切腹が命じられることになった。
そんな時、新右衛門の実父である今村彦兵衛が、首級を持って戦功の報告に現れた。
これを聞きつけた本多佐渡守正信は、急いで彦兵衛のもとに駆け寄った。
「でかした、彦兵衛どの!実は、これこれ、こういう事になっておる。どうじゃ、その戦功に換えて
上様(徳川秀忠)にお願いする儀があろうが。ん?」
「急に言われても、申し様がございませぬ。ましてや、一たび他家へ養子に出した子の事など。」
「ええいッ、頭の固い・・・!」
そこで正信は花籠を取り寄せると、彦兵衛の持って来た首を入れて派手に飾り立て、秀忠の首実検に及んだ。
「やっ、立派な首ではないか。これは誰の取った首だ?」
「今村彦兵衛が上げたる首にございます。」
「なに、彦兵衛の?・・・よし、彦兵衛を呼べ。」
御前にまかり出た彦兵衛に、秀忠は諭すように言った。「おお、彦兵衛よ。若い者が功に逸り、色々致すは
当然のことだが、老年のお前がこのように功を誇るは無用のことに思うぞ。以後、自重せよ。」
横で聞いていた正信は、この時とばかりに飛び出した。
「聞いたな、彦兵衛どの?!『若い者が功に逸り、色々致すは当然』との仰せじゃ。つまり、抜け駆けした
新右衛門も、当然の行いゆえ御免、との思し召しよ。何をしておる、早く御礼を申し上げぬか。」
「!・・・上様、ご厚情のほど、深く御礼申し上げまする!」
「佐渡め。」
言葉尻をとらえられた形の秀忠だったが、二人をとがめるような事はせず、苦笑して席を立つのみだった。
その後、新右衛門は謹慎を命じられたが、謹慎が解かれると加増を受けたという。(徳川実紀より)
0938人間七七四年
2011/10/03(月) 19:20:09.18ID:kkOtqHJj0939人間七七四年
2011/10/03(月) 19:31:06.77ID:S9YHBjws0940人間七七四年
2011/10/03(月) 19:45:43.35ID:f/4o4xvD0941人間七七四年
2011/10/03(月) 20:55:04.71ID:7dRvxrP60942人間七七四年
2011/10/03(月) 21:35:10.54ID:S2w8xHJ1配流先の居室は窓や戸を打ち付けられて蒸し風呂状態。
そのまま無念の死・・・・
0943人間七七四年
2011/10/03(月) 22:34:33.94ID:6uN1OnSv0944人間七七四年
2011/10/03(月) 23:16:59.96ID:S9RO6UXB0945人間七七四年
2011/10/04(火) 01:01:16.92ID:l/Pf5y3wちゃんといい話も残ってるんだよなー 信之兄さんにも優しかったし
秀忠はこれ言われるまでは、罰しようと考えていたのかな?
でも正信に言われちゃって、仕方ねーなーと思ったのかね 雰囲気が良い話だ
0946人間七七四年
2011/10/04(火) 01:31:50.79ID:ibnDz7zs0947人間七七四年
2011/10/04(火) 02:53:05.04ID:xSmuQ+RP0948人間七七四年
2011/10/04(火) 11:17:00.76ID:RuYlgtUU0949人間七七四年
2011/10/04(火) 13:04:53.62ID:ozMkke3o0950人間七七四年
2011/10/04(火) 13:14:10.74ID:igl6I+jSそれを私利私欲に使わないから嫌いにはなれないな
同僚だったらウザいと思うのは間違いないがw
0951人間七七四年
2011/10/04(火) 13:24:12.42ID:/28pMXmp朝鮮の陣でのことである。加藤家の足軽某が、虎にくわえられて連れ去られてしまった。
虎はすぐには食おうとはせず、鼠をいたぶるようにじゃれていたが、いつしか寝てしまう。
そこで足軽が腹や脇の下を撫でてやると、気持ちよさそうにしている。足軽が周囲を見回すと、
木々に蔦葛が絡まっていた。このツタを噛み切って伸ばして、その先で虎の「キン」を撫でてやったら
熟睡してしまった。足軽はツタの先を木に結わえ、もう片方を虎のキンにくくりつけた。
そこでダッシュして逃げようとしたところ、虎は目覚めて襲いかかろうとしたが、くくりつけられた
ツタが締まってキンが潰れてしまい絶命したという。
無事帰還した足軽は仲間を呼んで虎の死骸を持ち帰った。
清正は足軽を大いに褒め、侍に取り立ててやった。そして「きん玉」という苗字をつけてやったという。
参謀本部編「朝鮮の役」より引用
原典は「吉田物語附尾」
0952人間七七四年
2011/10/04(火) 13:33:40.59ID:1ega2uXN褒美で金玉だから回りは笑えないだろうからきついだろうなw
0953人間七七四年
2011/10/04(火) 13:54:01.78ID:m8/6VeaV0954人間七七四年
2011/10/04(火) 14:01:31.96ID:/HDIGoBr0955人間七七四年
2011/10/04(火) 14:03:54.98ID:PUmLoT9A0957人間七七四年
2011/10/04(火) 15:57:32.27ID:Qz9MqGUuTPPという日本崩壊必至の協定に野田内閣は交渉参加しようとしている
11月12日のAPEC首脳会議でアメリカと大筋合意の予定
TPPは、市場アクセス 工業、繊維・衣料品・農業、 貿易円滑化、政府調達
知的財産権、電気通信、金融、投資、環境、労働力など、24の作業部会で「自由化」がテーマ
アジア地域などから安い労働力が大量に入り
賃金低下・失業・社会保障費の増大と、日本社会は崩壊
外国人参政権や人権救済法案は簡単に成立する
政府・政党・地元議員へ反対の意思を伝えよう
検索⇒ ここ変だろう? ウィキリークス 米国公電「TPPで日本と韓国を潰せる」
TPPに反対抗議する奥様★ 1
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/ms/1317472962/l50
0958人間七七四年
2011/10/04(火) 16:10:42.46ID:Y4fG9gwCいくらなんでも金玉はあんまりです(´;ω;`)
0959人間七七四年
2011/10/04(火) 18:01:02.40ID:MWv32dzc0960人間七七四年
2011/10/04(火) 20:00:57.47ID:+EgqQdzOたぶんこうだ。
加藤清正「式部(榊原康政)どの、馬印をお貸しいただきかたじけない。」
榊原康政「いやいや、なんの・・。それよりウチの殿の命名がさ・・」
加藤清正「!・・・新しい・・・。われも習わん。」
0961人間七七四年
2011/10/04(火) 21:32:40.78ID:VJX4jmh7関ヶ原の戦いで津軽為信は東軍に加わったが、嫡子の信建は大阪城にいて、
豊臣秀頼の小姓を務めていた。西軍敗れるの報が伝わると、小姓仲間だった
三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。
重成は後に杉山源吾と名を変えた。子孫は家老も出す藩重臣となり、通字は
「成」を使った。墓などでは豊臣姓を名乗った。
0962人間七七四年
2011/10/04(火) 21:47:27.55ID:VJX4jmh7信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。
直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。
妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。
満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-534.html
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