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戦国ちょっといい話28

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0848人間七七四年2011/09/29(木) 10:41:41.80ID:s2tN12eE
>>844
キラキラ通としては「そのキラキラは違うんだよ」とか言いたくなるんじゃね
0849人間七七四年2011/09/29(木) 12:22:05.43ID:Rcwy8hs3
なにそれ可愛い
0850人間七七四年2011/09/29(木) 12:28:32.26ID:CYQQUAaN
そのキラキラはキライってか
0851人間七七四年2011/09/29(木) 17:37:06.38ID:XUBRYC9d
あまり関係ないが戦国武将の馬印も金が多いね。
0852人間七七四年2011/09/29(木) 18:23:37.06ID:UxUhVSAl
動乱期の武士の遺訓みると、
最近の若い侍は茶の湯なんぞに金使って・・・
みたいな人多いからな。
戦があるのが常な時代の武士は武具にこそ金使うのがデフォなんだろうね
0853人間七七四年2011/09/29(木) 18:29:56.91ID:7couifVY
直江状が本物として、山城守が三河者の家康に
「上方の武士は茶器などを集めているが、田舎武士は武具に金をかけるのだ」
と言っているのに違和感あったが、家康も派手好みだったのか
0854人間七七四年2011/09/29(木) 19:02:36.28ID:s2tN12eE
>>853
侘び茶が広まってない地域だと茶の湯というと闘茶のイメージが強かったんじゃね?
0855人間七七四年2011/09/29(木) 19:43:36.01ID:9Wn8sJjR
馬印は寧ろキラキラ目立たないいかんのじゃないか?
0856人間七七四年2011/09/29(木) 19:52:59.63ID:6Svqa0cw
家康の馬印に赤丸が書いてある金の扇があったと思うけど、あれは何故傾けてるんですかね?
0857人間七七四年2011/09/29(木) 20:21:08.65ID:+m92HzHL
扇子は91度以上180度未満で開くから、
片側を垂直に立てた棒にくくりつけると、片側は水平にも垂直にもならないから
0858人間七七四年2011/09/29(木) 20:30:22.28ID:cyH9kFXl
>>856
棒に閉じた扇を括って扇を開くと自然とあの傾いた形になる
元々アドリブで作った馬印だし、弦を担いでその傾いた形から変える必要性がなかっただけかと
0859人間七七四年2011/09/29(木) 22:06:14.75ID:xCOFNUC4
武者は目立って自分の手柄をアピールしてなんぼ。
目立つと敵の的になるのは当たり前で、敵に狙われるぐらいに自分の馬印を有名にしなくちゃいけない。
0860人間七七四年2011/09/29(木) 23:41:38.44ID:kIudkm3p
「小さな旗指物」

上杉謙信の家臣に北条長国という武将がいた。彼の旗指物は白い練り絹に黒い蟻の絵を描いた一尺四方という小さいものだった
ある時謙信が長国に何故そんな小さい旗指物を使っているのか尋ねた所、長国は
「私は戦の時は進む時には必ず一番駆けをし、退く時には必ず殿を勤める覚悟でいます。
つまり戦場で常に敵の一番近くにいるのですからこの程度の大きさでも充分敵の目に入るだろうと思い、使っているのです。」と答えた。
謙信はこの答えに深く感心し、頷いたという。
0861人間七七四年2011/09/29(木) 23:51:46.99ID:u3Ew21Iu
初鹿野伝右衛門「ですよね〜」
0862人間七七四年2011/09/30(金) 01:29:24.11ID:yhcwoWM8
国崩しきたああああああ
【歴史】大友宗麟が製造 最古の国産大砲か? ロシアの博物館に展示
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1317296597/
0863人間七七四年2011/09/30(金) 13:59:44.52ID:V5py4wHV
キタジョウさん?
0864人間七七四年2011/09/30(金) 19:05:21.11ID:Yk1NRgcF
仙石「戦場で地味なかっこしてるヤツって何なの?」
0865人間七七四年2011/09/30(金) 21:38:24.89ID:Moxt7eI8
あなたは派手というか五月蝿いでしょ
0866人間七七四年2011/09/30(金) 21:43:25.53ID:xxQAilDg
地味な格好で殿つとめるのと
派手な格好で真っ先に逃げるのと
0867人間七七四年2011/09/30(金) 22:10:19.73ID:Dvjq8KxX
鈴まみれ仙石さんは当時でも周りから
「幾らなんでもあいつ必死過ぎじゃない?^^;」とか思われなかったのだろうか
0868人間七七四年2011/09/30(金) 22:21:55.80ID:BrC6ALvo
北条長国って誰だと思ったら北条景広か
0869人間七七四年2011/09/30(金) 22:32:47.26ID:YOGY7AUu
吉川元春の深謀



太閤秀吉の九州攻めの際、安国寺恵瓊が吉川元春の陣を尋ねた。元春は折しも病気中であったため出雲、石見の諸将も多く来ていた。
そこで元春と恵瓊を中心に諸将達が軍談義をしたが、恵瓊が
「島津はここ数年、我が物顔に九州を暴れ回っていたが、来春にでも太閤殿下がご出馬されれば、たちどころに一門根絶やしとなるだろう」
と言うと、一座の諸将も同意した。所が元春のみが異議を唱えた。
「いかに太閤殿下と言えども、そう簡単に島津を根絶やしには出来ぬ。天下は未だに殿下の手中に納まり切れてなく、
このような時期に何年も大軍を九州に置くことは出来ない。かと言って島津には名将が多く、地の利もあるのだから短期決戦でもそうは勝てまい。
しかし島津とて完全に勝ちきる事は不可能なのだから、一度決戦してから最低薩摩、大隅を確保するための和平交渉に出るだろう。
太閤殿下も島津は仇敵ではないのだから、今までに切り取った国を返せば、根絶やしになどせず、薩摩大隅の領有を認めてやるに違いない。」
結果的には元春の予想した通りになり、恵瓊達は元春の深謀に大いに感服したと言う。
0870人間七七四年2011/09/30(金) 22:45:22.94ID:cYjFeDWS
思うに仙石さんは軍監という役割には向かない人だったんだと思う
0871人間七七四年2011/09/30(金) 22:54:42.71ID:PMTpUpUj
>>864
その逸話読んだ時、こいつがんばってるアピールし過ぎうぜえと思ったのは俺だけじゃないはず
0872人間七七四年2011/09/30(金) 23:29:53.12ID:IV74X+lV
まあ、頑張ってるアピールしなければ御終いな状況だしな
0873人間七七四年2011/09/30(金) 23:37:29.33ID:EkLvusEg
アピールだけでなく本当に頑張ったしな
0874人間七七四年2011/09/30(金) 23:41:34.53ID:G8M61ZWB
尾藤知宣が最後どうなったか知らない奴多すぎ
0875人間七七四年2011/09/30(金) 23:49:42.74ID:f9HgjpJW
そういやラスボスって島津にしても佐々、北条、長宗我部あたりも許してるよな。

北条は家康への配慮かな?
佐々は二度目はなかったけど。
0876人間七七四年2011/10/01(土) 00:15:00.63ID:TfC3dsY+
北条は許されるまで氏直が持たなかったという話が。
結局河内佐山一万石…
0877人間七七四年2011/10/01(土) 00:19:42.17ID:2aFH7PPE
>>876
狭山藩庁の狭山陣屋から、きっちり障子掘が発見されたのはやっぱり北条だなw
0878人間七七四年2011/10/01(土) 00:25:52.26ID:YkmngnrG
実績と信頼の障子掘。ただし手入れが面倒
0879人間七七四年2011/10/01(土) 01:52:05.12ID:EMucW1XH
弟の太田氏房も後を追うように死んでるのが怪しい
秀吉というより家康がなんかしたような気がする
0880人間七七四年2011/10/01(土) 02:27:19.57ID:rUza4jNS
そうか?家康にとって婿である氏直はキープしたいカードだったと思うぜ
0881人間七七四年2011/10/01(土) 02:38:40.67ID:v/Z1mi6o
>>847
利家は信長のお気に入りを切って追放されてもそれでもどうしても
信長に仕えたくて二年間浪人で貧乏暮らしをしてこたえてるから
でしょう。
他のメンツはそこまでのビンボーを味わっていないからね。
0882人間七七四年2011/10/01(土) 03:48:35.90ID:AijPZDUr
関ヶ原合戦の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名が方々で捕らえられ、洛中で引き回しの上斬首に処せられることになった時のことである。

その時正則は、この三人に小袖を二枚づつ贈られ、受け取らせた。

これに三成は特に心を動かされ「大夫殿のお心遣い、深く感じ入りました」と悦び、その小袖に着替えた。
そしてその小袖姿で洛中を引かれ、三条河原で首打たれたということである。

(福島太夫殿御事)
0883人間七七四年2011/10/01(土) 07:06:46.35ID:XmL9vE6y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3079.html

家康の時とはえらく対応が違うなw
番使が「上様」と言わなかったら素直に礼を述べたんだろうか。
0884人間七七四年2011/10/01(土) 13:10:56.10ID:kszt1gKF
三成と正則の仲って実際どうだったのかね
講談的には文武の両極で頭の天辺から足の爪先まで嫌いな対立構図になりがちだが
0885人間七七四年2011/10/01(土) 14:21:21.82ID:cGtB0+zg
三成を好きだった武将の方が少ないんだろう
豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに
あれだけ離反されたんだから
0886人間七七四年2011/10/01(土) 14:24:46.22ID:2aFH7PPE
> 豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに

そこは議論があると言うか、先に秀吉の遺命を破ったのは三成の方だというフシがある。
少なくとも秀吉が死んだ途端、対家康の政治闘争を始めたのは間違いなく三成。
0887人間七七四年2011/10/01(土) 14:35:28.74ID:M5eha+Wg
>>885
好き嫌いで陣営選んでるわけじゃないんだな
基本的に家を残すために勝ちそうな方についているたくさんの家来を養う責があるわけだし
正則も福島家存続のためには(豊臣見捨てても)是非も無しみたいな書状残ってたろ?
0888人間七七四年2011/10/01(土) 15:39:33.19ID:VaiSmuLA
西国大名でさえそうなんだから、東北がカオスになっても不思議はないな
伊達と佐竹が関ヶ原直前に和睦に向けて使者のやり取りしてるんだぜw
0889人間七七四年2011/10/01(土) 16:29:39.02ID:cGtB0+zg
>>887
それは大坂の陣じゃない?
関ヶ原は福島が徳川の味方しなければ状況は全く変わってくるはず
0890人間七七四年2011/10/01(土) 16:41:33.35ID:Gedb5xCM
>>887
最後は好き嫌い
0891人間七七四年2011/10/01(土) 16:50:46.54ID:EenNPniL
小野寺義道さんが猛然と頷いています
0892人間七七四年2011/10/01(土) 17:02:35.74ID:g7M+xTMV
>>889
三成が豊臣家主流になると結局正則にとってはマズい
0893人間七七四年2011/10/01(土) 17:27:07.88ID:g7M+xTMV
初めてのヨーロッパ

天文20年、フランシスコ・ザビエルが日本から離れる際、山口で洗礼を受けさせた日本人ベルナルドとマテウス(本名不詳)を連れてインドまで行った。
その翌年ザビエルはポルトガルのイエズス会に
「この二人の日本人に対し、出来るだけ丁重にもてなし、教会やら学校といった欧州の珍しい事物を視察させてやるべし
そして彼等を帰国させて日本人にその事を伝えさせるのだ。日本の貴族は海外旅行しないからこの二人が恐らく日本人で初めて欧州に行く事になるだろう。
他の信徒達にも欧州旅行を進めたが断られてしまった。だからとりあえずこの二人をローマに送ってその翌年帰国と言う風に計らってもらいたい。」
という紹介状を書いた。しかしマテウスはインドで死に、ベルナルドは欧州に行ってローマやポルトガルのコインブラまで行ったが、
結局そこの教会学校で死んでしまい、日本人初の欧州旅行者として帰国出来ずじまいだった
0894人間七七四年2011/10/01(土) 17:29:53.31ID:n0fjwKYT
突き詰めれば
石田三成が生きてたから関ヶ原の戦いが起こって、そして西軍が負けた。
豊臣家の安泰を真剣に福島公が望んでいたのなら三成公と淀君は暗殺しとくべきだった
0895人間七七四年2011/10/01(土) 18:03:09.10ID:AR4WGD0V
なにこの正則的思考w
0896人間七七四年2011/10/01(土) 18:21:21.06ID:QLNmfwXs
前田上杉宇喜多毛利島津と各個撃破されておしまいw
0897人間七七四年2011/10/01(土) 19:37:32.87ID:KTfOlJ3q
>>893
これは悪い話というか残念な話なのでは…
外国に行った人といったら、まーくん絡みのあの人思い出すけど
せっかく帰ってきたのにやっぱり残念なことに
0898人間七七四年2011/10/01(土) 20:48:16.43ID:HsnVRuGy
何となく思いついた

【突撃四天王】
・最上義光
・蒲生氏郷
・黒田長政
・井伊直政
0899人間七七四年2011/10/01(土) 21:05:46.97ID:8VUJVezQ
【ネット】 「韓国は、日本をコピーしまくり」動画が話題に…各国のネットユーザーに、嫌韓が広まりつつある★6
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1317463987/l50



↓まだ見てない方はどうぞ↓

日本語版
http://www.youtube.com/watch?v=sW4H2PGj6JU&feature=player_detailpage
英語版
http://www.youtube.com/watch?v=FaOCQ9AQyP0&feature=player_detailpage
0900人間七七四年2011/10/01(土) 21:10:39.39ID:VaiSmuLA
>>898
四天王というからには五人いなければ駄目だぞ
0901人間七七四年2011/10/01(土) 21:35:30.31ID:YMA5xABP
上杉謙信や立花道雪も突撃四天王に推薦してみる

これで四天王は五人に・・・



あるぇ?
0902人間七七四年2011/10/01(土) 21:39:04.81ID:eHM/UbKG
小早川隆景も結構突撃型だったよな
0903人間七七四年2011/10/01(土) 21:45:55.60ID:9e6bD10n
その部下の乃美宗勝も何度も一騎打ちで兜首上げてる猛者
0904人間七七四年2011/10/01(土) 22:36:49.58ID:nEPELKqS
部下というか、陪臣ならいくらでも突撃型はいるでしょう
0905人間七七四年2011/10/01(土) 22:47:10.72ID:9e6bD10n
一応毛利の方面軍も担った城主で水軍大将
0906人間七七四年2011/10/02(日) 00:47:32.52ID:DbFoKHop
以下、とある武将の送った書状の訳文(一部虫食いの為要約)である。誰が書いたか当ててみよう。



『常識知らずとは思いますが、あまりにもそちらの様子が気遣わしく思いましたので一筆したためました。

 一つ、早くも寒い季節になってまいりましたが、いかが達者でお過ごしでしょうか? 
 一つ、普請の方はどこまで進みましたか? 
 一つ、気分はいかがですか? 事細かにお聞かせください。
 一つ、私はこちらへ下ってきて、大体予定通りに進んでいます。ご安心ください。

 しかしながら私が再び世間に出ることを、貴方は笑われることでしょう。
 されど釈迦も再び人の世を出られ、遙か遠くまで広まる教えを作られたと言われています。
 そういうことですから、私は昔も今も四六時中、事を成すことばかり考えていました。

 定めなき世の習いですので、もう貴方に会えなくなるかもしれないと思うと、心引かれる思いがします。
 ただし、また定めなき世なだけに、普請の済んだ貴地で再会できるかもしれません。

 あまりにも伝えたい事が多くて筆の止めどころがありませんが、どんな事も書き残しておきます。恐惶謹言』



署名は“半(塙) 団右衛門 勝忠”。
大坂入城の直前(慶長19年9月29日)に、親しい知人に宛てたものと思われる。
諱がよく知られた直之ではなく勝忠なのは、
旧主・加藤嘉明(長い間、茂勝と名乗っていた)の偏諱を使い続けていたのだろうか?

豪傑の意外と繊細な一面が垣間見える一通である。
0907人間七七四年2011/10/02(日) 00:52:02.46ID:haK3YWe/
おせち商戦スタート 復興支援へ東北の味覚も 注目「KIZUNA」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111001/biz11100112060011-n1.htm

これ(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3420.html)思い出した。
もう今年もそんな季節なのか・・・。
0908人間七七四年2011/10/02(日) 03:39:12.68ID:9ybos65E
主君替え、八人目

何としても主君秀長に恥をかかせるわけにはいかなかった。

徳川家康と豊臣秀吉の和議が成立し、ようやく家康が上洛の運びとなった頃であった。
聚楽第のそばに家康の館をつくるよう命じられた秀長は、
縄張りと造営を高虎に任せた。
「まずもって、万が一のことがあってはならぬ。」
高虎は、華麗な秀吉好みより、堅固な屋敷造りを心掛けた。
「ここはやはりどうしても台所門が欲しい。欲しい、が。」
当初の予算はとうに使い切っている。
高虎は私財をつぎ込んで、台所門と外溝を造った。

上洛を果たした家康は、その屋敷を見ていたく感服した。
「さては、さすが秀長どの。よう心得てござる。」
「いえいえ、それがしは、ただこの者に命じただけ。
 なお、台所門はこの者の私財を投じておる由にございます。」
促されて、高虎は大声で名乗った。
「藤堂与右衛門高虎にございます!」
三十一歳の時である。
高虎は家康から長光の刀を賜ったのだった。


今や事は急を要していた。
その日の朝、家康は高虎を呼んで告げた。
「朝鮮に行って、在陣している方々に早く帰帆の工夫を考えるよう、伝えてもらいたい。」
そして、その晩。
「高虎殿は近いうちに出航するであろうな。」
家康は、言い残したことがあるから来て欲しいと、高虎のもとに使いを遣った。
しかし、使いは手ぶらで帰ってきた。
すでに高虎は博多に向けて出航したあとだったと言うのだ。
「そうであった!」
家康は手を打ち、こう言ったという。
「わしはやつが与右衛門と称しておる時から知っている。
 秀吉公の見立てで、どう出世してきたかもな。
 万事に早きこと、かくのごとし。只者ではないわ。
 若い者どもにも見習ろうてほしいものじゃ。」

それからの高虎の歩みは、徳川家康とともにあった。
さながら中学の歴史教科書の年表の見出しのごとくである。


外様で唯一、家康の臨終に侍ることを許された藤堂和泉守高虎は
その時、津藩二十八万石の藩主になっていた。
0909人間七七四年2011/10/02(日) 04:40:58.83ID:0Y6gSLwG
藤堂高虎って家康に
「国に危険あらば藤堂を一番手とせよ。」
とまで言われてるんだよねぇ。後宗教変えたり。
0910人間七七四年2011/10/02(日) 08:08:51.22ID:7MyDJQes
幕末に生きた藩祖の縁

津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。

それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。

最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。

西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。


主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。
0911人間七七四年2011/10/02(日) 08:49:26.71ID:yRyBcZbg
藤堂家が一番手にされた理由が分かった
行軍は間違いなく速くなるな
要地を占領して陣地造りとかも向いてそう
問題は先頭が始まってからだが

もう一つ早起きは三文の得ならず
早出は三十万石の得と言うわけだな
早起きしても遅刻魔の俺は今日悟った
しかし手遅れになった頃でないと仕事がはかどらないんだよな
0912人間七七四年2011/10/02(日) 08:50:09.08ID:yRyBcZbg
四行目は先頭じゃなく戦闘だ
0913人間七七四年2011/10/02(日) 10:14:03.33ID:SpA2YS9Q
しかも津藩は藩主じゃなくて、在城の家臣団の判断で官軍についてるしな
0914人間七七四年2011/10/02(日) 11:17:46.86ID:qtrqLuxi
>>906
団右衛門は豪傑と言われるわりに結構人間臭いところがあって好きだなあ
0915人間七七四年2011/10/02(日) 12:48:42.47ID:jJXvuh5t
>>904
最上義光
蒲生氏郷
黒田長政

小早川秀秋?
(一応、国持ちなのに半島で斬りまくったらしいし)
0916人間七七四年2011/10/02(日) 13:32:21.30ID:51esCWXX
秀秋は生まれるタイミングを間違えた
もしくは早死にし過ぎた
0917人間七七四年2011/10/02(日) 13:56:40.08ID:NITRYeJl
突撃型の大将は戦国前期のほうが多い気がするが(鉄砲の普及率の関係で)
後期の武将のほうが強く印象に残るな
0918人間七七四年2011/10/02(日) 14:04:32.25ID:SHeRS1zE
半島で蹴りまくった人も
0919人間七七四年2011/10/02(日) 14:11:34.00ID:jJXvuh5t
>>917
やっぱり、創業者は綺麗ごとじゃ務まらんからじゃね?
晴信に一騎駆けの伝説が少ないのは、お父さんから権力基盤毎貰える、継承者の立場だったからだろ。
0920人間七七四年2011/10/02(日) 14:11:57.87ID:mlmumIff
秀秋は関ヶ原では動くの遅いからなあ
0921人間七七四年2011/10/02(日) 18:25:03.08ID:YXecC1yN
経験則


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いも間近な信濃の出来事。
東軍の森忠政の家老である各務元正の軍が森家と領を接する西軍の真田昌幸の動きを牽制する為、国境付近の警備を請け負っていた時の話である。
病床に臥せり既に指揮を執れる状態では無かった元正は何か思う所があったのか息子たちを集めると一つ助言をした。

元正「真田の軍勢が弱々しく兵を退いても味方の先手の備えを崩して包囲しようとしてはいけない。
    こういう時は横に回りこませてある兵に味方が不意打ちを受ける事があるからだ。」

こうした元正の助言を受けて守備の任に就いた各務軍。
現れた真田の兵に鉄砲を撃ち込むと割りとあっさりと引き下がったが、元正の言うとおりに侮る事無く備えを崩さずに決して追いかけない。
その後も何度か真田軍が現れたがその度に鉄砲を撃って追い返すといった事が繰り返され、各務軍はさしたる被害を出すこと無く適当にあしらうだけで守備の任を果たしたのであった。
0922人間七七四年2011/10/02(日) 19:01:17.21ID:0pPwHX/l
かがみんの遺訓か・・・(ノД`)・゜・。
0923人間七七四年2011/10/02(日) 19:16:21.83ID:2NwQR/ht
>>874

あれねえ。けっきょく尾藤さんとセンゴクの違いは何だったんだろう。
秀吉自身の好き嫌い&虫の居所とかかね
0924人間七七四年2011/10/02(日) 19:48:53.44ID:TxoZzs2z
戦場には立たなくても大体パターンで何が起きるか読めるんだろうな、各務さん。
0925人間七七四年2011/10/02(日) 19:53:34.46ID:8qK17HA3
>>923
仙石→家康の斡旋+陣借りして武功をあげる
尾藤→戦終わってから謝りに来る
0926人間七七四年2011/10/02(日) 20:12:55.48ID:PimrdnBO
例えば、又左も信長の勘気を蒙った時は陣借りして手柄を何度も立ててようやく許してもらってるわけだし。
なんの手柄もなく、ただ許せ、って端的に言って「お前が俺を追放したのは間違いだってわかっただろ」って
言うようなもんだと思う。

使えねーんで首にした奴が、半年位して何の前触れもなく出社してきて、元通りに雇えっていきなり言ってきた
ようなもんだろ。正直、常識はずれだと思うぜ。
一方センゴクは系列子会社の有力社長の元でプロジェクト成功させて、その功績をもって、
以前の失敗の埋め合わせにこういう功績を挙げました、復帰させて下さい、ってその子会社の社長に口利き
してもらって訪ねてきたようなもの。 復帰させる理由もたつし、理由があるのに無碍に断れば社長の顔を
潰すことにもなる。 きちんと外堀から埋めていけば、首にしたほうだってまー許してやろうか、って話になる。
0927人間七七四年2011/10/02(日) 20:58:48.60ID:BAOI441A
卜伝ドラマが割と面白かったので、卜伝のお話

武者修行中のある日、近江の坂本から舟で琵琶湖を渡っている時
同じく武者修行中の武芸者もまた、その舟に乗っていた

「俺は今日まで立ち合い勝負で負けたことない!」と自慢話に花を咲かせる武芸者
最初はスルーしていたが、だんだん鬱陶しくなってきたのか
「俺も負けたことないんだけどー」とその男を挑発しだした

剣術は何流だと聞かれ、無手勝流と答える卜伝
ならば勝負だ! ということになり、船頭に頼んで近くの小さな島へ寄ってもらうことに
そして相手が先に、その島に上陸したのを見届けた卜伝は

船頭の手にしていた櫂をヒョイと手に取り、島を一突きした

舟はそのままゆらゆらと、男を小島に残したまま、一気に沖へと向かっていきましたとさ

「これが、無手勝流の極意なり!」
0928人間七七四年2011/10/02(日) 21:28:27.80ID:UAk0WxbK
落語の「巌流島(岸柳島)」そのままじゃないか、と思ったら
塚原卜伝由来と言われているのか
0929人間七七四年2011/10/02(日) 22:49:11.26ID:K84TBHeL
武芸者はちゃんと帰れたのだろうか?
0930人間七七四年2011/10/02(日) 23:27:28.12ID:Jbuh2CPu
これまた随分使い古されたのをドンと持ってきたな
09319232011/10/02(日) 23:39:30.54ID:JWHRoVqT
>>925
>>926

なある。勉強になりました。
尾藤さんは小田原攻めの2年前に大和で病死って説もあるのね。
0932人間七七四年2011/10/02(日) 23:49:16.18ID:lOYUDStY
>>928
『武芸小伝』に出てるよ。
0933人間七七四年2011/10/03(月) 00:06:53.57ID:vmiEx/n8
大友宗麟が製造 最古の国産大砲か?
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/265908

ソーリンの知名度更にUPか
0934人間七七四年2011/10/03(月) 00:12:42.62ID:P8UOUO3r
>>862
0935人間七七四年2011/10/03(月) 00:14:41.04ID:vmiEx/n8
>>934
あ、既出だった ごめんよ
0936人間七七四年2011/10/03(月) 03:26:06.33ID:8DAtZJ1J
>>925
山上宗二は戦の直前に北条陣営から逃げてきたからあんな事に・・・
0937人間七七四年2011/10/03(月) 18:46:42.49ID:EBKeU9Xu
大坂夏の陣において永見新右衛門は、衆目を驚かす活躍を見せた。しかしそれは抜け駆け等、軍令違反を
重ねてのものであり、軍法に照らし合わせた結果、新右衛門には切腹が命じられることになった。

そんな時、新右衛門の実父である今村彦兵衛が、首級を持って戦功の報告に現れた。
これを聞きつけた本多佐渡守正信は、急いで彦兵衛のもとに駆け寄った。

「でかした、彦兵衛どの!実は、これこれ、こういう事になっておる。どうじゃ、その戦功に換えて
上様(徳川秀忠)にお願いする儀があろうが。ん?」
「急に言われても、申し様がございませぬ。ましてや、一たび他家へ養子に出した子の事など。」

「ええいッ、頭の固い・・・!」
そこで正信は花籠を取り寄せると、彦兵衛の持って来た首を入れて派手に飾り立て、秀忠の首実検に及んだ。

「やっ、立派な首ではないか。これは誰の取った首だ?」
「今村彦兵衛が上げたる首にございます。」
「なに、彦兵衛の?・・・よし、彦兵衛を呼べ。」

御前にまかり出た彦兵衛に、秀忠は諭すように言った。「おお、彦兵衛よ。若い者が功に逸り、色々致すは
当然のことだが、老年のお前がこのように功を誇るは無用のことに思うぞ。以後、自重せよ。」

横で聞いていた正信は、この時とばかりに飛び出した。

「聞いたな、彦兵衛どの?!『若い者が功に逸り、色々致すは当然』との仰せじゃ。つまり、抜け駆けした
新右衛門も、当然の行いゆえ御免、との思し召しよ。何をしておる、早く御礼を申し上げぬか。」
「!・・・上様、ご厚情のほど、深く御礼申し上げまする!」

「佐渡め。」
言葉尻をとらえられた形の秀忠だったが、二人をとがめるような事はせず、苦笑して席を立つのみだった。

その後、新右衛門は謹慎を命じられたが、謹慎が解かれると加増を受けたという。(徳川実紀より)
0938人間七七四年2011/10/03(月) 19:20:09.18ID:kkOtqHJj
佐渡守とんち話
0939人間七七四年2011/10/03(月) 19:31:06.77ID:S9YHBjws
加増されてよかったね
0940人間七七四年2011/10/03(月) 19:45:43.35ID:f/4o4xvD
いい人だな 正信
0941人間七七四年2011/10/03(月) 20:55:04.71ID:7dRvxrP6
すごいほんわかする正信だ
0942人間七七四年2011/10/03(月) 21:35:10.54ID:S2w8xHJ1
なのに息子と孫は冤罪で改易。
配流先の居室は窓や戸を打ち付けられて蒸し風呂状態。
そのまま無念の死・・・・
0943人間七七四年2011/10/03(月) 22:34:33.94ID:6uN1OnSv
正純ならそのまま切腹させそう
0944人間七七四年2011/10/03(月) 23:16:59.96ID:S9RO6UXB
新右衛門さんよかったね
0945人間七七四年2011/10/04(火) 01:01:16.92ID:l/Pf5y3w
正信は腹黒いだのなんだの言われているけど
ちゃんといい話も残ってるんだよなー 信之兄さんにも優しかったし

秀忠はこれ言われるまでは、罰しようと考えていたのかな?
でも正信に言われちゃって、仕方ねーなーと思ったのかね 雰囲気が良い話だ
0946人間七七四年2011/10/04(火) 01:31:50.79ID:ibnDz7zs
秀忠のちょっと厳し過ぎるんじゃね?って罰を正信が腹芸で止める話は他にもなかったっけ?
0947人間七七四年2011/10/04(火) 02:53:05.04ID:xSmuQ+RP
S守さんマジいい人過ぎるw
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。