戦国ちょっといい話28
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0001人間七七四年
2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0724人間七七四年
2011/09/22(木) 23:14:29.61ID:PGtBiq3l0725人間七七四年
2011/09/22(木) 23:41:21.83ID:Fbtukd8+この手の家康の訓戒話は江戸中期頃に作られた話が多いのだが、
その時代、武田信玄は儒教的価値観ではいわずもがなの極悪人だが、上杉謙信も越後軍記などの
軍記物では、子供の頃あまりの凶暴さに長尾家の重臣たちが「こんな凶悪な子供は寺に入れようね」
と無理やり坊主にされるのだが、その幼少の頃の恨みを忘れず、成長して挙兵すると彼を寺に入れた
重臣たちを皆殺しにしたことになってる。
そういう信玄謙信の軍記物でのイメージが世間に広まった上で、はじめてこういった逸話が成立したと
見たほうがいいだろうね。
0727人間七七四年
2011/09/23(金) 00:13:07.70ID:5APFghmK0728人間七七四年
2011/09/23(金) 00:16:48.52ID:IOUHzGU70729人間七七四年
2011/09/23(金) 00:31:34.31ID:9jw5HCXA家臣を手打ちにしたことはないよね
0731人間七七四年
2011/09/23(金) 00:54:44.76ID:4FmrEjlZそりゃまそうだがw
ただ家康は剣術も相当の腕前だけど、それは攻撃ではなく身を守るためのものと
実際に割り切っていたようだね。
0732人間七七四年
2011/09/23(金) 01:18:07.20ID:KAnJlAJ+家臣の杉山山城を「山城殿」と言って呼び寄せ、
「この城は後20日と持たないだろう。そこで頼みがある。」と告げた。
主君からいきなり「殿」と呼ばれ、その理由が判らず山城が戸惑っていると
「その方の家は先祖をたどれば我が高橋家より上の家柄。今は立場が変わって主従となったが、
前々から同輩であった様な親しみを覚えていた。最後の役目に当たり、成功したら領地を与える
と言った所で絵空事でしかないので、『殿』をつけて呼ばせてもらってその方を軽んじていないという
私の心を表し、せめてもの褒美としたいのだ。」
と語り、
「そして頼みとは、死に臨んで心残りとならぬよう、敵中にいる次男の直次を宝満城に送り届けるか、
さもなくば殺してくださらぬか。」
と頼んだのである。紹運のこの心遣いに打たれた山城は、敵中を突破して無事に直次を宝満城へ連れて行ったという。
以上「名将言行録」より、高橋紹運の家臣への最後の恩賞を与えた話である。
0733人間七七四年
2011/09/23(金) 01:47:38.49ID:bS5pBE+R孕石さんにもしっかり復讐してるし。
0736人間七七四年
2011/09/23(金) 03:52:56.25ID:yTdXORKZ防御と言うのも念のため程度じゃないかな
本気で天下を狙うような大将なら、
部下に舐められないためとか、武家の本分を忘れないためといったメンタルの部分が大きいんじゃないかと
義輝とか義元とか信長とか、実際に戦闘になった時点で詰んでる筈
伊賀越えでは「鍛えといて良かったぁぁ」ぐらい思ってたかも知れんがw
0737人間七七四年
2011/09/23(金) 05:29:49.80ID:7wOoCzhm最上義光「ですよねー」
0738人間七七四年
2011/09/23(金) 06:51:43.45ID:2Sb+cY4kそりゃそうだろ
侍レベルからの攻撃武器は弓と槍(長巻きの人もいたそうだが)
刀は基本的に補助。
家康って今川の侍大将してた時期もあるんだろ?その頃は単騎駆けくらいしてたんじゃね
0739人間七七四年
2011/09/23(金) 08:23:27.23ID:4aoJAivx小勢の指揮官じゃないだろ
0742人間七七四年
2011/09/23(金) 13:23:24.65ID:xdzODYrtやっぱ普通に「上様」、「大御所」かな
0744人間七七四年
2011/09/23(金) 13:34:17.15ID:5APFghmK0746人間七七四年
2011/09/23(金) 15:18:54.74ID:Esd3zcNHなんとなくだけど、若いときは作左や忠次が、年取ってからは正信が諌めて、
手打ちなんてできなかった気がする
0747人間七七四年
2011/09/23(金) 16:54:22.82ID:72ntIoG9兵数百人単位の合戦で、自ら血槍振るってのガチバトルを経験してるはず
0748人間七七四年
2011/09/23(金) 17:32:18.87ID:cPVlTb2H松平家は確かに君主権が弱かったけれども、家康は違う
家康は戦国でも珍しい専制君主的な大名だよ
徳川に改称して三河一向一揆鎮圧した以降だとそれが如実
0749人間七七四年
2011/09/23(金) 19:53:56.66ID:4aoJAivx0750人間七七四年
2011/09/23(金) 20:22:55.44ID:y/iVCRT7これは家康存命中に描かれた関ヶ原合戦図屏風だけど
大半がその補助武器を抜いて突進して行ってるな。
http://history.harikonotora.net/img/200-61.jpg
補助というか状況に応じて使い分けたってところだろ。追撃をかけるときのように
機動力重視になると刀が便利なようだな。
0751人間七七四年
2011/09/23(金) 20:45:11.92ID:v90FH10I0752人間七七四年
2011/09/23(金) 21:49:10.72ID:alkcyFKp家康は五ヶ国時代すでに自力で一律の検地が出来るほど強大な君主権を確立している。
関東での施策は五ヶ国時代の延長線上だと今は捉えられているね。
三河時代から強力な君主直属軍を整備したことも含めて、少なくとも三河統一以降、あの時代でも最も強い
君主権を確立していた大名が家康だと考えていいと思うよ。
0753人間七七四年
2011/09/23(金) 21:50:09.50ID:ai/cLeMOどんな戦闘を前提に言ってんだか。
0754人間七七四年
2011/09/23(金) 22:46:57.05ID:IOUHzGU7頑固一徹って、稲葉一鉄さんの頑固な性格から生まれたんだね 知らなかった
戦国時代起源の言葉ってどれくらいあるんだろう
0755人間七七四年
2011/09/23(金) 22:53:53.85ID:P1SjRLwf洞ヶ峠
元の木阿弥
天王山
勝って兜の緒を締めよ
人は城、人は石垣
敵に塩を送る
外堀を埋める(別に大阪の陣に限ったことではないが)
青田刈り(戦国時代のいやがらせにもあるが、単に青田買いの間違いの可能性も)
0756人間七七四年
2011/09/23(金) 23:09:30.51ID:Er46AJAw0757人間七七四年
2011/09/23(金) 23:13:05.38ID:alkcyFKpヤマカン(山本勘助より)
一富士二鷹三茄子
現在は使われていないが、江戸時代、女にもて過ぎる事に困って女から逃げまわるような男のことを
「逃げ弾正」(高坂昌信の通称)と呼んだそうな。
0758人間七七四年
2011/09/23(金) 23:27:15.25ID:pxCOf3yg0759人間七七四年
2011/09/23(金) 23:30:40.26ID:4FmrEjlZ>>758
一応言っておくと例の武田信玄書状、高坂弾正の名前は後世になって後から書き加えられたものらしいぞ。
0760人間七七四年
2011/09/23(金) 23:32:42.23ID:IOUHzGU7やはり結構あるね
あと、小田原評定・伊達男・火蓋を切る・百万一心・知らぬ顔の半兵衛 なんてのも載ってた
>>757
内容知らず「逃げ弾正」だけ聞くと、松永久秀かと思ってしまう
0761人間七七四年
2011/09/23(金) 23:33:57.19ID:FHjM22p9「清正の茶碗」
ある日加藤肥後守清正が茶会を催したが、その際使った名物茶碗を出したままにしておいた所、
小姓の一人がその茶碗を誤って落として割ってしまった。
一同は驚いたが、その一人を庇う為に口裏を合わせ誰が割ったのかは絶対に言わないと誓いあった。しばらくして清正が席に戻ってみると自慢の茶碗が見事に砕けているので怒り出し小姓達に誰が割ったのか問い詰めた。
しかし、小姓達は誓い合った通り誰一人として返事せず、更に怒った清正は
「お前達は何という臆病者だ。いずれの父も立派な武功者であると言うのに
お前達はその父の名を汚すものである」と怒鳴った。
0762人間七七四年
2011/09/23(金) 23:34:46.18ID:FHjM22p9「何故、私達が父の名を汚す臆病者でしょうか」と問うと清正はいよいよ怒り、
「名物の茶碗を砕いた事を咎められ、切腹を申し付けられるとでも思い、
命惜しさに壊した者の名を言わないのだろう、だから臆病者なのだ」
すると平三郎は
「私達の中にはそのような臆病者はおりません、割った者の名を言わないのは名物とは言え、たかが茶碗の為に私達の大切な仲間が咎められるは忍びないからです
いざ戦が起きれば茶碗など何の役にも立ちませんが、私達は命を捨てて敵と戦い、
主君に代わり討死する事ができます。どんな名物茶碗よりも私達一人の方が大事です」
と答えた。清正はこの平三郎の言葉に感心して咎める事をやめ、褒美を与えたという
0763人間七七四年
2011/09/24(土) 00:11:21.38ID:5H94sX+P0766人間七七四年
2011/09/24(土) 01:09:38.50ID:iho0bFyf例の信玄からの書状があったからだろうな
その上に逃げ弾正なんた渾名が付いていたから俗説で広まったもの
0767人間七七四年
2011/09/24(土) 09:49:27.63ID:qncmHgdD0768人間七七四年
2011/09/24(土) 10:27:57.09ID:bQCWV6kRこんなの普通じゃ考えられない……!
0769人間七七四年
2011/09/24(土) 11:22:16.26ID:5Qs/ILwg将軍足利義昭より急ぎ織田領への侵攻を求められていた上杉謙信は、
椎名氏と神保氏を滅ぼし、一向宗から越中の諸城を奪った後にこれと和睦し、
さらに矛先を転じて能登越中二国の守護畠山氏の領国、能登国と攻め入ろうとした。
上杉方は海路の進軍を選び、先ず目指すは越中にある畠山領、湯山続甚が守る森寺城を目指す。
しかし、である。
森寺城の手前、阿尾城を望むほどになったところ、上杉方の軍船の船足が突如止まった。
凪でもなく、潮の流れが悪いわけでもない。奇怪千万の自体である。
船団にあった上杉家臣鰺坂長実はこれを怪しく思い、これぞ人外の仕業に違いないと断じた。
ならば元凶たる妖を退治してくれんと、長実は雨晴の浜に上陸して早速探求を開始する。
すると果たして、浜辺の松の間には如何にも怪しげな地蔵がにこにこと笑みを浮かべて佇んでいるではないか!
「えいや、正体見たり!」
ずんばらり、と迷わず長実は太刀を一閃! 不埒な地蔵の首を撥ねると、たちどころに船団は船足を取り戻した。
かくして目的地に辿り着いた上杉勢はあっという間に森寺城を攻め落とし、七尾城への道を切り開いたのだった。
以後、雨晴の浜にある地蔵は海難から船を守る首切地蔵として地元の人に崇められ、
今も雨晴駅の一角に祭られているのだと言う。
0770人間七七四年
2011/09/24(土) 15:56:47.44ID:tevZKHcK0771人間七七四年
2011/09/24(土) 19:37:22.06ID:nEB1ACg+なんとなく後味悪いというか
現存する地蔵も首がないと言うことかなんか縁起悪そうだが
0772人間七七四年
2011/09/24(土) 20:41:51.25ID:SniT0OrVやっぱり一族の子孫とかそんな感じなのかな
0773人間七七四年
2011/09/24(土) 20:45:26.17ID:t2MAHlBB> 上杉謙信は、
> 椎名氏と神保氏を滅ぼし
椎名高志先生はこの越中椎名氏に繋がるのだろうか?
0774人間七七四年
2011/09/24(土) 21:13:44.90ID:tevZKHcK0775人間七七四年
2011/09/24(土) 21:42:03.33ID:+eRsVoUO0777人間七七四年
2011/09/24(土) 23:31:51.35ID:Cs1cejuI真田勢の接近を知った北条勢は人数を出し、両軍は碓氷峠の盤根石というところで両軍はぶつかりあった。
この時真田勢はまず真田信繁が敵を追い崩し、その後真田信幸が下知して峠の坂上へ引き上げを図った。
真田勢の殿は大熊勘右衛門と水科新介であったが、北条勢は食いついて後を追ってきた。
坂上からこれを見た真田昌幸は言った。
「これは危険な殿である。両人共に討たれるであろう。」
すると大熊勘右衛門の兄大熊五郎左衛門が答えた。
「何の差支えもありますまい。」
その時信幸が下知して鉄砲を激しく撃ち掛けさせ
赤沢加兵衛というものが追撃の指揮を執っていた北条勢の二人の黄母衣の武者うちの一人を撃ち倒したため
大熊、水科の両名は無事に人数を引き取ることがえきた。。
0778人間七七四年
2011/09/25(日) 00:02:50.03ID:fyGLA/zw0779人間七七四年
2011/09/25(日) 01:13:50.35ID:e+G4sWWf0780人間七七四年
2011/09/25(日) 11:01:49.57ID:rtLlarGm茶筅髪に羽織といういでたちで、大木長右衛門、居相孫作らわずかな家臣と共に
高野山にて念仏三昧の日々を送っていた藤堂高虎のもとに
生駒親正は老体をおして、太閤秀吉の命を高虎に伝えに来た。
ひとしきり秀吉の思いを伝えると、足を崩す。
「どうあっても否と申すか。」
「ありがたきおおせなれど、どうかお察しくだされ。」
「秀長殿なら、兄上をお助けしたいと思うであろうに・・・。」
高虎は天を仰いだ。
高虎は下山し、秀吉の直臣となった。
高虎を待っていたのは、伊予板島七万石と、
離散せず紀伊・大和国付近に仮住まいしていた家臣たちであった。
彼らは歓喜して高虎を迎えた。
しかしここにきて、大木長右衛門、居相孫作および服部竹助は憂慮していた。
「殿は我らに千石ずつくださるとおっしゃるがの。」
「我らに、例えば十人分の働きができるかの。」
「・・・・ま、できぬこともないが、今は十人の勇士を雇うことが先決じゃの。」
彼らは、加増を断り、七万石の屋台骨を築くことに奔走したのだ。
高虎は領民をいたわり、城を作り、街を作った。
高虎は四十歳になっていた。
慶長の役では、誰とは言わぬが武功争いであわや抜刀というすったもんだもあったが、
高虎は豊臣諸将の中で、着実に地歩を固めていった。
その、慶長の役のさなかに、太閤秀吉が崩御する。
さて、日本軍帰還任務をだれに当たらせるか。
徳川家康は高虎を推挙した。
「それがしのような者には、とても務まりませぬ。」
辞退する高虎に、なおも家康は言った。
「ぜひに」
秀長の在りし頃、家康に初めて我が名を名乗った日のことを
高虎は思い起こしていた。
0781人間七七四年
2011/09/25(日) 17:09:50.39ID:L4XAY/73伊達男の語源が政宗だってよく言われるけど、あれ嘘らしい。
よくは分からんが言語学的に語変化をたどると伊達さんと伊達男との間には因果関係が存在しないんだと。
0782人間七七四年
2011/09/25(日) 17:35:48.25ID:ZjyZfsG3でも「伊達」という漢字を当てるようになったのは政宗クンが由来だそうな
0784人間七七四年
2011/09/25(日) 22:44:59.17ID:SgqshKk1高虎は道三や松永さん辺りと比べりゃ
全然毒が無いなあ。
奸臣扱いさるのは
鳥羽伏見での子孫の立ち回りと
小説で解りやすい悪役として
散々使われてきた影響が
デカイな。
0785人間七七四年
2011/09/26(月) 02:11:56.43ID:tgvQREMY0786人間七七四年
2011/09/26(月) 02:40:52.90ID:BcQgayq/高虎さんは主殺しとか謀殺とかの役を持ってないからな。
まぁ高虎は結局生き残った側だから、
記録がどうしても良い方に寄るというのもあるだろうけど。
0787人間七七四年
2011/09/26(月) 17:55:36.51ID:ySNBKEb2その後で誰が家康公の側にいた、誰はいなかったということで討論が起きた。
家康公は諸将の刀を差し出させそれを確かめると誰々は右に、誰々は左に居たということを明瞭に指し示した。
家康公は後でこういった争いが起きることを予知して馬上から唾をあらん限り左右に吹き掛けていた。
そのため刀身にのこった汚点の有無を見ることで誰が従ったかの虚実を確かめ右か左に居たかも判断できたのである。
軍が戦意を喪失し旗色が既に乱れていたときに後のことを気遣う余裕があった。その非凡さを想い見るべし。
想古録、昌平黌の教授古賀侗庵談
0788人間七七四年
2011/09/26(月) 18:12:42.86ID:3RY+7dMU0789人間七七四年
2011/09/26(月) 18:51:20.74ID:2Z9ldu9Z0790人間七七四年
2011/09/26(月) 19:13:09.04ID:bXtP2px00791nttkyo282235.tkyo.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
2011/09/26(月) 19:39:41.23ID:8SrM7hzp0792人間七七四年
2011/09/26(月) 19:40:44.94ID:XxN9Zeuy味噌なら納得だな
0793人間七七四年
2011/09/26(月) 19:42:24.03ID:z1D/fM+W0795人間七七四年
2011/09/26(月) 21:11:54.91ID:JjFwZ8bL忠世「ホントはトイレ我慢して唾飛ばしてただけだというに。」
0796人間七七四年
2011/09/26(月) 21:21:57.54ID:v9VmSKVZ0797人間七七四年
2011/09/26(月) 21:22:12.50ID:ggiaxP0y0798人間七七四年
2011/09/26(月) 21:31:41.52ID:uuTvkJfhこれは清める行為なのだろうか
0799人間七七四年
2011/09/26(月) 22:20:30.45ID:W88m3/Tn0800人間七七四年
2011/09/26(月) 22:36:07.65ID:+sQd4ybXたしか大ムカデの吐く火で眉毛が焼かれそうになったので、眉に唾を付けて
ついで矢に唾を吐いて射掛けたとか。
この話は「眉唾」の語源になっていたはず。
あと、狐や狸に化かされないように眉に唾をつけるとか
唾には霊力があるってお話
0801人間七七四年
2011/09/26(月) 22:39:51.45ID:qKpWGIGXとある戦いで敵地深く侵入した時、索敵の斥候が家康にこう告げた
「この草原の前方右に、かなり広い湿地帯がございます
誤って馬などに乗り入れますと、ぬけなくなる恐れがございますので、御用心が肝要かと」
この報告を聞いた家康は、一瞬前進を躊躇した
敵はもしかして、その湿地帯に誘い込み、罠にかかったところを一斉攻撃してくるかもしれない
もしそうなれば、大勢の味方が命を落としてしまう
しかし敵城は間近 今更引き返すことも出来ず、味方は後ろから何も知らずに続いてくる
そこで家康は伝騎を次々と出して、後方部隊に知らせたが、どうも徹底した様子が見えなかった
それを見た家康は何を思ったのか、突然一騎で駈け出した
驚いた近時が慌てて後を追ったが、たちまち家康は件の湿地帯に向かって一直線に駈け出し
そのまま泥沼の中に身投げした
折からの初夏のこと、泥沼からやっと這いでた家康は、泥人形のようであったという
「殿が深田に落ちて泥だらけになったぞー!」
「あやうく一命を取り落とすところであったそうだぞ!」
このような知らせがたちまち全軍に伝わり、湿地帯への注意はこうして徹底され
その後始まった敵兵との遭遇戦で、深田に落ちて討ち取られた者は一人もいなかったという
0802人間七七四年
2011/09/26(月) 22:40:26.19ID:9eCCnqlO0803人間七七四年
2011/09/26(月) 23:31:25.36ID:HUoOVcQR0808人間七七四年
2011/09/27(火) 01:35:48.54ID:22/lDceb麹で発酵させて酒を造るのは曹操さんの開発した酒造り技術が輸入されてからだっけ?
0809人間七七四年
2011/09/27(火) 01:44:09.32ID:HmAljcdv上奏した曹操も凄い
↓
曹操が作った
に脳内変換される奴多すぎて困る。
0810人間七七四年
2011/09/27(火) 17:00:39.76ID:WDFfIYSD「汚い無礼な!」って首はねたと言う話もあるしやはり汚いと言う概念はあったんじゃないか
0811人間七七四年
2011/09/27(火) 18:21:41.38ID:bzRX7qE4それはそうと、清酒の始まりググったら、山中鹿之助の息子が偶然発見し、それが鴻池家の繁栄の基礎を築いたとか
ほんまかいな
0813人間七七四年
2011/09/27(火) 19:55:31.85ID:47hSjyui様は日持ちのする日本酒ができると
0814人間七七四年
2011/09/27(火) 21:11:04.01ID:SfoeI6Ukのちに家光は己の行いを後悔し、忠俊を呼び戻したが、忠俊はこれを断った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4666.html)
それに代わって、忠俊に連座して蟄居した者たちが再出仕を許された。特に嫡男の宗俊は、父譲りの実直さを
認められ、書院番・大番頭と昇進を重ねていった。
青山家が再び家光の信頼を得たのを見届けた忠俊は、配所で66年の生涯を閉じた。
それから何年か後、青山因幡守宗俊は、将軍家光の呼び出しを受けた。
「お前の所領3千石に、信州小諸2万7千石を加えて、3万石とする。」
「ははーっ!有難き幸せにございまする!」
「お前の父は、わしの幼き時より犬馬の労をいとわず尽くしてくれた。しかし若き日のわしには、
その事が分からず、良き忠臣を配所で死なせてしまった。その事、未だに悔やまれてならぬ。
ここに青山家を大名に復す。宗俊よ、忠俊がわしに仕えたのと同様に、竹千代(家綱)に仕えよ。」
「ははっ!・・・亡き父も・・・さぞや・・・・・・」
眼からあふれるものを平伏して隠し、ようやく落ち着いて退出しようとする宗俊に、再び家光が声をかけた。
「あぁ宗俊よ、今一つ命じる!お前はこれより下城した後は、どこにも立ち寄ってはならぬ。
まっすぐに帰宅して忠俊の位牌に、この事を伝えるのだ。良いな、頼んだぞ。」
宗俊は、もはや涙を隠すこともなく退出した。(榊原日記他より)
0815人間七七四年
2011/09/27(火) 23:45:01.95ID:syAC0ltj家光=DQNというイメージだったけど少し修正w
0816人間七七四年
2011/09/27(火) 23:53:46.92ID:u47H4fz5天正六年。
織田信忠が岐阜城で飼っていた四羽の鷹の子が、いずれもいい感じに育った。
いい感じに育てあげた鷹匠は、近頃めずらしいお手柄である。
七月二十三日。
信忠はこの鷹を鷹匠の山田と広葉の二人に持たせて安土へ届けた。
信長はその中から一羽を受け取り、あとの三羽は信忠に返してやった。
鷹匠二人には「育てるのは大変だったろう」と労りの言葉をかけたうえ、銀子五枚ずつに衣服を添えて与えたので、鷹匠は大感激しながら帰っていった。
十月十四日。
信長は信忠の鷹を使い、長光寺山で鷹狩りを行なった。
鷹が獲物を捕らえた為、信長は上機嫌だったという。
信長が鷹を献上される事自体は珍しい話ではないんだけど、一羽だけ受け取る例は珍しい。
0817人間七七四年
2011/09/28(水) 00:08:36.53ID:1zoL4d+g息子からはともかく北条から馬送られてほとんど送り返すとか
大名相手には礼儀知らずと取られたりしないのかな
0818人間七七四年
2011/09/28(水) 00:13:57.52ID:dUleUS2Q徳川家康の家臣が、軍勢を率いて織田家の加勢のため近江に向かっていた。
ダガシカシ、武田信玄が迫っているとの報が届き、慌てて引き返した。
「信玄が来襲するまでに、すぐに浜松に帰らねば!」
と急く家臣たち。だが、軍勢を率いている武将が
「このちかくに浅岡さんっていう弓矢の名人がいてさー、一度行ってみたかったんだよね。」
「との、まさか・・・。」
「寄 り 道 し て よ っ て い く ぞ。」
マイペースである。おまけにその武将がその弓の名手浅岡に教わったのは弓ではなかった。
射掛けという弓の手袋の緒の正式な結び方を教わったのである。
いや、結べたら何でもええやんという周りの家臣のツッコミに、当人は
「もし、今度の合戦で討ち死にした時、射掛けが正式じゃなかったら哂われるやん。」
と答えたとか。彼は三方ヶ原でまっさきに戦端を開いた。
その男とは、徳川家のナンバー・ツーといっても過言ではない人、
西三河衆を率いる石川数正だった。
0819人間七七四年
2011/09/28(水) 00:27:59.12ID:IArBNC1cつーかこれは良い話なのかwww
0821人間七七四年
2011/09/28(水) 01:40:57.61ID:BnJeMsMb>「宗俊よ、忠俊がわしに仕えたのと同様に、竹千代(家綱)に仕えよ。」
「蟄居になって配所で死ね」って意味ですか?
0822人間七七四年
2011/09/28(水) 02:37:50.84ID:2I2MgonG伊達さん絡みで。楽天が新球団の名前を一般公募した時に
“伊達男”=楽天ダンディーズ
と無い知恵を絞ってハガキを出したら、御存知の結果でした。
あれって、最初からイーグルスが決まってて、耳目を集める為の出来レースだったの?
0823人間七七四年
2011/09/28(水) 02:42:57.96ID:oe8+gQSw■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています