「細川越中殿ご内室、大坂屋敷にて自害!」
「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。

そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。

常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。

御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。

機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)

この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
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かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。