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戦国ちょっといい話28

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0001人間七七四年2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0038人間七七四年2011/08/09(火) 02:47:38.88ID:Togfk+uu
>>37
三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。

というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw
0039人間七七四年2011/08/09(火) 10:24:22.68ID:eQJaVZCO
三河一向一揆って

家康本陣と対決

主君に弓は向けられねえ!

なんだか三河者らしい行動に出る

がテンプレになってるよな。
0040人間七七四年2011/08/09(火) 17:30:39.76ID:csQRiIQs
『戦国武士は「恩の死はせねど、情の死はする」といって、
知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋

前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど
0041人間七七四年2011/08/09(火) 18:39:22.74ID:V+frVMj+
必死で敵に立ち向かう家康を見て、はたと目が覚めたんだろうか。
俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。
0042人間七七四年2011/08/09(火) 19:08:14.13ID:6yE62ni4
一揆に参加することで門徒としての筋を通し、主君をかばって死ぬことで家臣としての筋を通した。ということか。
0043人間七七四年2011/08/09(火) 23:15:40.33ID:mKoL+rOT
一揆に参加することで主君を裏切り、主君をかばって死ぬことで門徒として中途半端。ということでもある。
0044人間七七四年2011/08/09(火) 23:17:39.71ID:csQRiIQs
理屈だけで生きられる人間はいない
0045人間七七四年2011/08/09(火) 23:25:44.75ID:RbH50BIh
逆に一向一揆を潰す為の埋伏の毒だったのだと考えればいい
家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
0046人間七七四年2011/08/09(火) 23:26:41.62ID:Togfk+uu
徳川家康が未だ竹千代と呼ばれ、駿府で人質生活を送っていた頃のことである。

ある日竹千代は駿府の大祥寺という禅寺に、20羽程の鶏が走り回っているのを見て、
そこの僧に

「あの中から1羽貰えないだろうか?」

と尋ねる。するとこの僧

「どうぞどうぞ。1羽と言わず全部でも差し上げますよ!
全くこいつらは、菜園を荒らす困った連中なのですが、勝手に生まれ育ってしまい、
しかたなくこのように飼っているのです。」

と、心底困ったように答えた。
竹千代はこれを聞いて笑いつつ

『ああ、この僧は鶏卵を食べるということをしないのだ』

と、心のなかで感心した。

のち、竹千代が徳川家康と名乗り、駿河も支配するようになったころ、
家康はこの僧を召し出し、殊勝な者であるとして寺領を寄進したそうである。
(徳川実紀)

そんな、竹千代と鶏と僧侶のお話
0047人間七七四年2011/08/10(水) 00:53:22.76ID:oPuZlGL1
家康さんの記憶力と賞罰のさじ加減の絶妙さは相変わらずパネェな
0048人間七七四年2011/08/10(水) 01:15:06.49ID:QKfHhj5l
決められた事を当たり前のように守れる人は尊敬できる。
平和な現代ですら、信号を守れなかったり人の物を勝手に取ったりする人が多いのに
社会全体が荒れてた当時にして、当たり前のように戒律を守れてるこの僧は偉いと思う
0049人間七七四年2011/08/10(水) 01:27:51.75ID:IagGc+WZ
この頃に鶏卵を食べる食文化が定着してたのかは知らないが
卵食べる事でしか間引くって思考が成り立ってない時点で鶏自体を食べる食文化は無いよな
竹千代は鶏を貰って何をしたかったのだろうか
0050人間七七四年2011/08/10(水) 02:01:56.91ID:oPuZlGL1
少なくとも、卵食わない僧が殺生するわけないやん。
0051人間七七四年2011/08/10(水) 02:11:12.88ID:2aWrYBAY
>49
家康の少年時代だし、鷹の代わりに飼うつもりだったのかもしれない
0052人間七七四年2011/08/10(水) 02:12:55.91ID:xiojDyaQ
まあこの時代鶏というと闘鶏だな。
0053人間七七四年2011/08/10(水) 02:20:02.93ID:7jJ+1hSY
この時代にも野良鶏がいたのか
0054人間七七四年2011/08/10(水) 03:52:12.84ID:aJICWtWQ
>>51
ハムテルみたい
0055人間七七四年2011/08/10(水) 05:05:36.67ID:IagGc+WZ
>>52
龍王丸「どうだ竹千代この鶏は横綱級だぜ」
孕石「可哀相ですよ龍王丸、コイツんち貧乏だから鶏なんて持って無いんですよ」
竹千代「…鶏くらい持ってるよ」
龍王丸「じゃあ今度お前と俺の鶏で闘鶏しようぜ」
そして20羽の鶏で龍王丸の鶏を八つ裂きにしてギャフンと言わせた訳か…
そう考えると僧への恩賞は妥当だな
0056人間七七四年2011/08/10(水) 12:10:02.96ID:tWE7rq+K
戦の最中に寺かどっかに泊まって
「初めに鶏が鳴いたら起こせ」って命じて、
やたら早く鳴いたけどそれで起きたのが勝利のきっかけ
だったって話無かったっけ?
0057人間七七四年2011/08/10(水) 12:26:58.67ID:YRGpQ71L
無名〜小大名だとやっぱり美談って作られもしないのかな
0058人間七七四年2011/08/10(水) 12:31:17.74ID:DPHMhRrZ
美談が作られるのは徳川系大名に多いね、支配者側だから当然か
0059人間七七四年2011/08/10(水) 14:32:38.51ID:eUwDCpG6
>>54
同じこと思ったw
鷹匠に憧れて訓練したら超凶暴ニワトリに…
0060人間七七四年2011/08/10(水) 15:44:43.82ID:iuiiTAk2
>>57
作られても知られてないのでは
無名だけに
0061人間七七四年2011/08/10(水) 16:02:40.81ID:MjsPKO0q
もしも小大名だったら、、、【和気藹々1】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l15
戦国〜江戸期の独立系小大名に関するスレです。

命をかけて籠を護る、20人ばかりの大名行列とか
数人の腰元が奥の全てを執り行うとか楽しくね?
0062人間七七四年2011/08/10(水) 17:15:41.65ID:dGbiFb6G
別にいい話じゃないけど小ネタ

佐賀藩といえばまず浮かぶのは有名な化け猫騒動だろう
じゃあその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂自身はネコをどう思っていたのだろうか
それが意外にも高くかっていたようだ

鍋島直茂「ネコほど重宝なものはない。家のネズミを防ぐためならどんな工夫をするよりも
       良いネコを連れてくるのが一番だ」
0063人間七七四年2011/08/10(水) 23:03:31.30ID:DPId/KRA
>>62
あら意外 確かにうちも猫飼ってる時期にねずみ見たことない 猫は重宝する動物だよね
しかしそれなのに、今も鍋島藩士の子孫の人は猫飼ってないんだってね

これだけじゃなんなので、徳川秀忠のいい話 wikiにもあったのでその文を抜粋

大坂の陣の後のことであるが、弟・徳川義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり
周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。

秀忠は小さい頃に、暴れ牛が入ってきても微動だにしなかったらしいから
終始沈着冷静な人物だったのかな でも時々短気だけど
0064人間七七四年2011/08/10(水) 23:18:04.45ID:QKfHhj5l
秀忠は戦がらみの話を見る限り、冷静な人とは思えないんだが……
突然の事態には強い人なんだろうか。
指揮官として軍勢を率いるより、小隊を率いた方が才能を発揮するタイプだったのかも?
0065人間七七四年2011/08/10(水) 23:20:56.88ID:DPId/KRA
惜しむらくは、その機会に恵まれなかったのがね いきなり大軍の将任されてるし
その前に参加した戦いって、初陣の小田原の役くらい? 
秀忠は名君であっても名将ではないんだよなあw でもそういうギャップ込みで秀忠好きなんだけど
0066人間七七四年2011/08/11(木) 00:56:53.07ID:T78i7rQ+
早い時期に生まれていれば戦の面でも才能を発揮できていたのかも
0067人間七七四年2011/08/11(木) 03:06:11.14ID:SAjhFFYa
秀忠は今までの逸話見る限りじゃ鋭利な能吏的イメージが強いな
あまり将軍様って感じじゃないや
0068人間七七四年2011/08/11(木) 03:55:55.20ID:Ayx5XGqg
前田利家はある時、若い衆を集めて語った。

「昔、織田家と斎藤家が争っていたときの事だ。
 夏の夕暮れ時に両軍が睨み合って居ったのだが、
 織田家の佐久間久右衛門という剛の者が近くに居った者達に『田を結べ、田を結べ』と囁いたのだ。
 言われた連中も了解して敵に怪しまれぬように槍を持ったまま稲を結んで12間ほど引き下がった。
 間も無く、斎藤方の兵が突進してきたのだが稲に躓いて、たちまち15人ほど討ち取られてしまった。
 これに参った斎藤方はこれより50日は兵を出さなかったとさ。
 ・
 ・
 ・
 と、さて、ここまで語っておいて何だがな、お前達、こういう話はうっかり聞くようなもんじゃないぞ。」
0069人間七七四年2011/08/11(木) 08:16:27.84ID:BdJKr394
間抜けな戦争w
0070人間七七四年2011/08/11(木) 09:50:43.64ID:2hBMj8Eh
間抜けだけど今から敵方をヒャッハーするぜってテンションあげている時にこんなのあったら普通に引っかかると思う
0071人間七七四年2011/08/11(木) 16:34:24.91ID:6ayPABIR
>>68
途中で脱落してたら
「大将の話最後まで聞けコラ。最近の若いもんはry」
とみせしめに串刺しだったとオモ
0072人間七七四年2011/08/11(木) 21:59:35.79ID:BC0UACuH
「細川越中殿ご内室、大坂屋敷にて自害!」
「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。

そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。

常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。

御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。

機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)

この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html

かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。
0073人間七七四年2011/08/11(木) 22:33:27.15ID:IAMtFCWD
1541年、少弐家に仕える竜造寺家は、肥前国小城を拠点とする千葉胤連と主家を結びつけて
日之江城城主の有馬家に対抗する事を画策した。この方針の下、竜造寺家の重臣だった鍋島家の
次男坊は、4歳で胤連の養子となった。事実上の人質であり、小城に来て間もない頃、胤連から

「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」

とこの少年に尋ねたが、

「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。」

と大人びた返答をした。これを聞いて大物になるだろうと確信した胤連に、この少年は大切に育てられ、
家臣や領地まで与えられたという。この少年は後に竜造寺家を背負って立つ事になる鍋島直茂である。

鍋島直茂4歳頃の逸話である。
0074人間七七四年2011/08/12(金) 04:40:47.82ID:GonQ/GCT
ひねておるなw
0075人間七七四年2011/08/12(金) 12:43:34.73ID:xXOg0fub
>>72
なんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね
0076人間七七四年2011/08/12(金) 13:05:00.53ID:nhM7i+8j
>>73
養子に入る時にその心得とかは言い聞かせられてはいたんだろうが、この問いに対して
この答えは、単に言いつけを守るだけじゃなくちゃんと意味を理解してないと出てこないもんな。
0077人間七七四年2011/08/12(金) 21:16:06.19ID:kvYsXv6g
>>72
中山さん可愛いなw こういう緊張の場を解きほぐせる人って貴重だよね
0078人間七七四年2011/08/13(土) 00:03:59.78ID:Hiaz1mgo
紀州守護、畠山尚順が野辺氏を改易しようとしたところ、野辺氏はこれに反抗し自らの紀州平須山城に立て篭もった。
畠山尚順はこれを討伐せんと河内に居た息子の稙長に使いを出し、守護代遊佐長教を派遣させ自らも出陣した。
一方の平須山城方にも日高地方に勢力を誇った湯河直光一党が応援に入った。
この湯河氏の一族に業阿弥という法師が居たのだが、この男が一策を献ずる。

業阿弥「私が河内からの使者と偽り、本陣に入り込み畠山尚順を討ち取りましょう。」

かくして、業阿弥は使者に化けて、易々と本陣に入り込むことが出来たのだが、問題が一つあった。

業阿弥「いずれが畠山尚順か・・・」

業阿弥は畠山尚順の面体を知らなかったのである。
しかしながら、業阿弥は床机に腰をかけ兵に指示を与えている者に目をつけた。

業阿弥「(この者が尚順に違いなかろう)こちらが河内からの書状にございます。」

と、書状を渡すが、その者は尚順ではなく遊佐長教であった。
そうとは知らず、業阿弥は長教が書状を開いた隙を狙い、二の太刀まで斬りつけたものの、
頭を丸め、鎧の上に僧服を着ていた尚順に後ろから斬られ、その場で絶命した。
業阿弥は倒れても目を見開き長教を睨み続けており、陣中の者もなんと名誉な勇士かと感嘆し
業阿弥の血を指につけ嘗める者まで居たという。

尚順は無傷であったが、実際に采配を取り仕切っていた長教が重傷を負った畠山方の動揺は相当なものであった。
さらに、そこに城方が夜襲をかけて来た為、尚順も長教もそれぞれの本拠に撤退せざるを得なくなったのである。
0079人間七七四年2011/08/13(土) 20:45:54.68ID:rqi45c4P
>>78
最後まで使命を果たそうとするとはあっぱれ。
写真やらがないこの時代、人の識別とかは苦労したんだろうなぁ。
0080人間七七四年2011/08/13(土) 21:51:14.60ID:GYOAaQo2
戦国最後の徒花、大坂夏の陣も果てたその日の夕暮れ。徳川秀忠は、旗本の今村伝四郎を呼んだ。

「お前は本日、兜首を二つ取ったそうではないか。」
「・・・はっ。」
「だが首帳では、お前の武功は“首一つ”と記録されている。これでは手柄の立て損ではないか。
なぜ正しく申し出ぬ?」

「実は拙者、本日真っ先を駆けましたが、早々に乗馬が鉄砲に当たりまして。」
「ほう。」

「徒歩で戦う拙者を見て、青山忠俊殿配下の近藤忠右衛門殿が、『良く働くのう。わしの馬を使え。』
と、乗っていた葦毛の馬を貸して下さいました。再び乗馬を得た拙者は、首尾良く敵を一人討ち取ることが
出来ましたが、その後下馬して戦っているうちに、馬を敵に盗まれてしまいました。

借りた馬を盗られた拙者は、『取り返さずば、生きて戻らず』と思い定め、取った首を近藤殿に預けて
徒歩で敵中深く分け入ったところ、幸運にも馬盗人を見つけ、これをも討ち取ることが出来ました。」
「ふむ。」

「ですが徒歩で首を取れたという事は、馬を借りずとも首を取れたという事。逆に近藤殿は、馬があれば
首を取れたやも知れませぬ。ゆえに、その首を近藤殿の物とし、首帳には記しませんでした。」


「誰かある。明かりを持てい!!」
運び込まれた燭台を手に取った秀忠は、伝四郎を呼び寄せた。

「もっと近う寄れ!お前のような真の強者はな、こうやって良く顔を見覚えておくべきなのだ。」
“首一つ”の男は旗本多くある中で、大いに面目を施した。(徳川実紀より)

今村伝四郎正長、ときに二十六歳。家康が若武者たちの不甲斐無さを嘆いたと言われる大坂の陣だが、
武士の誇りも意地も、そしてそれを遇する心もまだ生きていた、そんなお話。
0081人間七七四年2011/08/13(土) 22:00:13.40ID:kC6Ww9zJ
安心・安定の秀忠クオリティだな
0082人間七七四年2011/08/13(土) 22:16:45.12ID:BP8twgTw
今村さんかっけえ…自分のこともそうだが、相手のことも考える武士って最高だよね
そして秀忠もちゃんと評価してくれる人なんだよなあ そこんところは家康譲りか
0083人間七七四年2011/08/14(日) 21:34:58.09ID:LJCDN4Pi
いかにも恥を知ってる武士って感じだな。心根が卑しくない
こういう振る舞いは源平・南北朝の武士は真似できないね。あいつらなら100%首二つと申告する
0084人間七七四年2011/08/14(日) 21:37:26.58ID:ShiRuC79
その場合は、どっかでもう一つ首とってきて帳尻くらいは合わせるさ
0085人間七七四年2011/08/14(日) 21:50:08.63ID:DhcnHnMb
今村伝四郎正長か、地元近くのマイナー偉人の登場だ
下田奉行を長く勤めた人で、文官っぽいイメージを持っていたけど
武勇も優れていたんだな
0086人間七七四年2011/08/15(月) 00:22:29.49ID:BeXho3SF
家康だったら首2以上の評価はしても首3以上の評価はしないだろうな
そうじゃ無いと普段から首3以上取ってる人間がやってらんねぇってなるから
秀忠は普段厳しい癖に人柄に惚れたらホイホイやっちゃう感じがある
それで古参連中から相当妬まれた坊さんとか剣術家とか御書院番頭とかいるし
0087人間七七四年2011/08/15(月) 00:36:27.25ID:PIq/ftzB
鍋島直茂が息子の勝茂と共に毛利輝元の屋敷に招待された時の事である。宴席で勝茂は輝元に

「勝茂殿、この場で謡(うたい)を披露して貰えぬか?」

と求められたが、「・・・・・・」

全く謡おうとはしなかった。見かねた直茂が

「そ、某が代わりに謡いまする!!」

と謡い出した為、その場はしらけずにすんだものの、屋敷に戻った勝茂は

「父上の謡が可笑しくてしょうがなかった。」

と母の陽泰院に語ったのである。すると陽泰院は

「そなたが謡わないからじゃ。」

と叱責し、直茂も家臣を通じて、

「こういう時の為に稽古しているのだから、以後あの様な事がない様にせよ。」

とたしなめたのだった。 息子のフォローにまわった直茂のいい話。

ちなみに、勝茂には笑われた直茂だったが、輝元からは

「田舎者だと思っていたが、礼儀を知っている。」

と以外にも賞賛されたという。


0088人間七七四年2011/08/15(月) 00:38:25.97ID:RtKDHikd
これは勝茂の悪い話でもいいんじゃねーのw
0089人間七七四年2011/08/15(月) 00:50:48.29ID:LNrrdclm
何で歌わなかったんだろう勝茂 輝元嫌いだったの?
0090人間七七四年2011/08/15(月) 01:07:35.81ID:EAmhqRYT
いきなり歌えといわれても、素面だったり気が乗らなかったりしてると
難しいと思うなー
0091人間七七四年2011/08/15(月) 01:07:54.62ID:TpO4hKBC
カラオケが嫌いだったんだよ
0092人間七七四年2011/08/15(月) 01:10:57.24ID:8bNDRU9e
謡いみたいな芸者の業って賤しいこととされてたからじゃね
0093人間七七四年2011/08/15(月) 01:49:38.73ID:g8QnWfFG
カラオケ歌いたくないから歌わなかったら礼儀しらずで、
それをフォローしたら立派だと誉められる。
人間関係は現代とかわらないな。
悪い意味でめんどくさい
0094人間七七四年2011/08/15(月) 02:09:55.86ID:BeXho3SF
直茂「息子に敢えて社交辞令を教えず宴会に誘う事で俺の覚えもよくなり息子も教育できて一石二鳥、輝元と息子と面目?はて…」
0095人間七七四年2011/08/15(月) 09:38:46.12ID:VMYCWJ+0
>>92
室町以降の謡(というか能)は他の芸より一段上の扱いを受けていて
直茂も習っていいる様に基礎教養の一つくらいの認識だった。
0096人間七七四年2011/08/15(月) 10:39:49.94ID:iqE/T8aC
直前に史記で趙の恵文王と秦の昭襄王が会見する話を読んじゃったんじゃね?
0097人間七七四年2011/08/15(月) 10:49:47.28ID:WVXmKLRL
歌えと言われて歌ったら芸人みたいでかっこ悪いじゃん?
0098人間七七四年2011/08/15(月) 11:25:19.98ID:g8QnWfFG
この場では直茂と輝元の価値観が一致したけど、
勝茂の行動を評価する武将もたくさんいそう
0099人間七七四年2011/08/15(月) 13:32:22.17ID:OQg08i8C
屋敷に招待されてるのに気の利いた頓知も無く黙って拒否るだけじゃ誰も好評価せんよ
おまけに直茂はワザと謡の下手なふりして場を和ませたんじゃないかと思う
0100人間七七四年2011/08/15(月) 14:17:33.52ID:8bNDRU9e
でも輝元と勝茂って立場的にはそんなに変わらないわけだろ
将軍家ならともかく、輝元程度のご機嫌伺いなんてできるかとでも思ってたんだろう
0101人間七七四年2011/08/15(月) 14:21:51.46ID:vOpK5owu
だとしたらつまらない意地をはって宴をぶち壊しにしかけ
さらに後始末を親に丸投げした悪い話にならないか。
0102人間七七四年2011/08/15(月) 14:37:53.58ID:CK8igihU
まあ秀吉とか家康なら断わられても逆に勝茂をフォローするくらいの器量はありそうだがな
0103人間七七四年2011/08/15(月) 17:54:10.92ID:v/ANKqqB
結論:そもそも謡を所望するテルが悪い
0104人間七七四年2011/08/15(月) 18:21:11.81ID:LZkkqcYM
えー、それは輝が気の毒。

ホームパーティーに来た育ちのいいボンボンがいて、
たぶん、歌だって一通り習ってるはず。
褒めていい気分にさせてあげるためにも、
「ちょっと歌って」ぐらい言うよ、ホストとしてはさ。
0105人間七七四年2011/08/15(月) 19:41:32.46ID:o3fwW92s
>>104
逆じゃね?
普通なら遠路はるばる来てくれたゲストに対してホストが余興を用意するでしょ
まぁ、立場とか考慮してないんだけど

個人的には謡わなかったことより、後で乳を平気で笑っちゃうところにイラッとする
0106人間七七四年2011/08/15(月) 19:42:55.93ID:o3fwW92s
乳→父だった ゴメン
0107人間七七四年2011/08/15(月) 19:46:02.29ID:aJIdJnNH
>>100
輝と勝茂だったらやっぱり輝の方が一応立場的には上だと思う。
年齢的にも1世代は違うしね。

まぁこの話的には、直茂の言う事が結論で良いんじゃないかね。
どうせ勝茂ももう少ししたら能が好きな将軍(秀忠)を仰ぐ事になるんだから、
ここで練習でもしとけば良かったと思うがw
0108人間七七四年2011/08/15(月) 20:02:09.86ID:FgtRwKt0
慶長7年(1602)、細川幽斎は妻の麝香を伴い、わが子忠興の得た新領・豊後を訪れた。
著名人である幽斎に、ひと目会おうと多くの客が詰めかけ、その中には島津龍伯入道義久の姿もあった。

幽斎と龍伯、二人の関係は複雑である。歌道の師弟であり、秀吉政権への申次だった恩もある。
秀吉の過酷な要求を、弟・歳久を、かばい尽くしてくれなかった恨みもある。
が、今日は、細川家の人々も、島津家の人々も、小倉城に設けられた宴席において和気藹々と過ごした。

宴もたけなわとなったころ、細川家家老の有吉立行が龍伯に頼みごとをした。
「龍伯さまは、世に聞こえし一節切(竹の一節だけで作った小さめの尺八)の名手であられるとか。
拙者共などでは、このような場でなければ聞くことも出来ますまい。是非にお聞かせ下され。」

「よかろう、しからば所望に任すべし。・・・ただ笛吹くだけでは芸が無いのう。下野、相伴いたせ。
隆達節じゃ。」
「はっ、では、僭越ながら・・・」

有吉の求めに快く応じた龍伯は、重臣の島津下野守久元(忠長の子)にも小唄を歌わせた。

“♪尺八の 一節切こそ 音のよけれ 君と一夜は 寝も足らぬ・・・”
(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)

尺八の澄んだ音色と、朗々と歌い上げる恋歌に、両家の侍はしみじみと聞き入った。(細川家記より)


相手が歌の師匠とはいえ、戦国最強ひきこもりだってこれぐらい出来るんだから
勝茂が両親にイロイロ言われても仕方あるまいよ。
0109人間七七四年2011/08/15(月) 20:52:31.93ID:Oh7YHTDI
島津は古い家だから教養はあるんだよ。
人付き合いは下手だけど。
0110人間七七四年2011/08/15(月) 22:22:59.48ID:LNrrdclm
>>(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)
この一文読んで、幽斎と龍白のいけない関係を連想してしまった自分が嫌になった
0111人間七七四年2011/08/15(月) 22:59:55.25ID:M7rJYNUr
>>110
尺八だけにな
0112人間七七四年2011/08/16(火) 00:33:16.09ID:/G3yC2m8
日新斎の仕込みはさすが
0113人間七七四年2011/08/16(火) 00:35:01.21ID:lfJNhWHr
悪久「一見義久のいい話に見える本件、しかし年代を見てみよう……
おわかり頂けましたかね、明らかに島津安堵の直後です
最近まで家康には病の為上洛出来ませんって言ってたよね?
速攻で宴会旅行とかあり得んだろ、取り繕う気ゼロかよ」
忠興「わかる、その気持ちなんか理解出来る」
0114人間七七四年2011/08/16(火) 01:13:59.57ID:fGoh/kIE
NGMS「親父たちの若い頃とは違うってことを理解して欲しかったですよね」
0115人間七七四年2011/08/16(火) 13:11:33.45ID:FONKuQyg
宗茂「ハッハッハ、そうひねた考えをせずともよろしいではありませんか両名士らしくていい話ですよ。
   ところで料理がまだ出てきておりませんがまだでしょうか?」
0116人間七七四年2011/08/16(火) 13:33:12.04ID:fGoh/kIE
十時連貞「殿・・・本日の昼餉は雑炊でゴニョゴニョ」
0117人間七七四年2011/08/16(火) 19:36:52.18ID:g/RkSG76
偉大なる父を持つ二代目が集まった所で
いい話か悪い話か判断つかない秀忠の話

天正18年、徳川家康が江戸入城
その折りに、秀忠がその地を巡覧していた時、田安稲荷という神社を参詣した所
その神木として橙の木が植えられたのを見て歓喜した

何故なら、『橙』は『代々』と同音である為、その神社を『代々世を継ぎ栄える宮』と称賛し
以降、田安稲荷を『世継稲荷』と命名したという

ちなみに巡覧していた時、十七件ほどあった民家には一人を除いて後はみな畑仕事をしていた為
その残っていた一人、飯田喜兵衛という村人が案内したので、その地を『飯田町』と名付けたらしい
(名付け親は家康という説もある)

あの親にしてこの子ありというお話
0118人間七七四年2011/08/17(水) 02:26:48.94ID:nqIb0fhq
家康はタヌキのくせに稲荷神社に何かと縁があるな
そして秀忠巡閲中だろうとスルーする村人ハンパねえッス
まあ現代でもお偉方巡閲中は仕事してるフリを尊ぶ会社はあるけども
0119人間七七四年2011/08/17(水) 02:41:05.66ID:ptAt8PIa
しかし御三卿の田安家は嫡男死亡
定信含めた他の2子は養子に行っちゃって、
一橋家から養子をもらうから、
世継ぎに恵まれたとは言えないような
0120人間七七四年2011/08/17(水) 17:06:13.18ID:hF/llaZ0
関東に入ってまもない頃だろうし、まだまだ北条支配の気風もあったんだろう
それでも、それ以降も一揆とかないんだよな
0121人間七七四年2011/08/17(水) 20:48:06.59ID:C/obvjCI
関が原の戦いの時のこと。いわゆる『島津の退き口』の際、島津義弘は福島正則の陣中を横切った。
百戦錬磨の正則は、死兵と争う愚を避け、家臣に深追いを禁じたが、正則の養子・正之など一部の将は
これを猛追した。

中でも穴沢某なる武者の勢いは凄まじく、大長刀をあたかも小枝の如く右に薙ぎ、左に払って道を作り、
義弘目がけてまっしぐらに迫ってきた。
「あれは尋常の武辺者ではない。大蔵、お前で無ければ相手になるまい。征けっ!」
「承った。」
義弘の指名に一言で応じた中馬大蔵少輔壱重方は、前線に飛び出ると自慢の強弓を番え、「来い!!」
と、穴沢に呼びかけた。

「おい、本当に向かって来たぞ。中馬殿、早く矢を射ぬか!」
「まだまだ。」
同僚の心配する声をよそに、中馬は微動だにしなかった。
「中馬殿!」「まだ!!」
もはや穴沢の顔がハッキリと分かる距離になっても、中馬は矢を射ようとしない。

ついに目前に迫った穴沢は、大長刀を一閃させ、中馬の弓を真っ二つに斬り折った。

と同時に、穴沢はバタリと倒れ伏した。その胸板には、中馬の放った矢が深々と突き立っていた。
(想古録より)


実はこの零距離弓術こそが、『良き敵』のみに使用する中馬大蔵必殺の技であり、彼は戦に臨んで
矢を二筋しか持って行かなかったという。
0122人間七七四年2011/08/17(水) 21:08:07.47ID:5Cq6PbZZ
大坂の冬の陣で活躍した薙刀使いの穴沢主殿助と関係あるの?
0123人間七七四年2011/08/18(木) 00:34:53.40ID:B764rqvz
>>73 の逸話で千葉家へ養子として送り込まれた鍋島直茂は鍋島家に戻った後、
独立勢力として動いていた竜造寺家の当主、隆信に仕える事になった訳だが、1569(永禄12)年3月
大きな危機が訪れた。竜造寺家の本拠地である村中城が、豊後の大友宗麟の大軍に包囲されたのである。
多くの家臣は

「このまま戦っても勝ち目はありません。ここは降伏するか、筑後へ逃げましょう。」

と隆信に提案した。そんな中で直茂だけは、

「城中に裏切り者が出なければ簡単には城が落ちる事はありません。戦うべきです。」

と発言した。隆信も直茂の意見に賛同したものの、不安が拭いきれず、念の為占ってみる事にした。
すると一計を案じた直茂は、事前に占いを行う泰長院の住職である震龍に、

「『城を去らないのが吉、去るのが凶。』だと言うように」と要請した。

その結果、震龍がその通りに占って見せた為、その場は逃げずに篭城する事で決まった。
竜造寺軍は4月、中国の毛利家による大友領侵攻への対応に迫られた宗麟と和睦を結ぶ事に成功した。
村中城は翌年も再び大友軍に包囲されたが、この時は直茂が自ら夜襲で大友軍に大打撃を与え、やはり和睦に持ち込んだという。

占いで弱気な家臣を黙らせた、直茂のかっこいい話。
0124人間七七四年2011/08/18(木) 01:19:49.18ID:A18oTpXS
そうかなぁ…?
まぁ、いいけどさ
0125人間七七四年2011/08/18(木) 01:27:52.86ID:DJ+3M4DL
直茂公の運がいい話か
0126人間七七四年2011/08/18(木) 02:52:17.35ID:honRDmw9
とことん世渡り上手というかなんというか
0127人間七七四年2011/08/18(木) 08:58:21.15ID:CGWfRhLy
>>121
そこは普通に種子島使うべきだろ
戦国時代は成功した厨2病は語り継がれるが、きっと何万何千もの厨2病患者の屍の上に築かれた栄誉なんだろうな…
義弘も若かりし時に刀じゃ無く大剣もってヒャッハーしようとしたら大怪我負ってたな…
0128人間七七四年2011/08/18(木) 09:56:16.34ID:pENoDK33
戦が始まる前の心得としてはごもっともだが
戦中なら自分が最も自信のある武具を用いるのがベターでないかい
0129人間七七四年2011/08/18(木) 10:18:31.20ID:5lML0jXz
>>124-126
カッコいいってのは確かに違う気もするが、これは運じゃなくて時間さ稼いでれば毛利にしろ島津他勢力にしろ
後ろに敵がいっぱいいる大友ならどこかは必ず動くってとこまで読み切ってるだろう。
どっちかという周りが単細胞ばっかりの中、一人だけものが見えてる人間の気苦労を感じるわ。
頭のキレる人間が真っ向から論破しちゃうとどうしても反発勢力が生まれるから、どうにかしてうまく乗せて
こいつら使わなきゃ、ってことじゃないか。
0130人間七七四年2011/08/18(木) 11:57:50.79ID:bRnA5TpI
>>121
中馬 大蔵少輔 壱 重方 だよな?


この壱ってなんだ?
0131人間七七四年2011/08/18(木) 12:22:53.26ID:uiONzrgf
>>130
つい、中馬大蔵少輔・壱、中馬大蔵少輔・弐、中馬大蔵少輔・参…と続くのを想像してしまったw
0132人間七七四年2011/08/18(木) 20:09:35.90ID:N1SgclVI
義弘「中馬が量産の暁には徳川など(ry
0133人間七七四年2011/08/19(金) 05:52:01.27ID:drJIDQhw
中馬「殿の食事なぞ(ry

0134人間七七四年2011/08/19(金) 13:47:16.82ID:vSpXtfY8
>>132-133
仲良すぎだろ二人共
0135人間七七四年2011/08/19(金) 20:51:42.44ID:LciVYVec
中馬大蔵も食うに困って藩庫に入る年貢米を奪って居直ってみたり、
義弘が見初めた娘を見に行かせたら「ワシの嫁だった」(←勿論まだ知り合いでもない)と報告して嫁にしちゃったり、
西日本一のめんどくさい侍だよなw

これに対抗できるのは三河もんか曲淵庄左衛門ぐらいだろうな
0136人間七七四年2011/08/19(金) 21:13:59.83ID:m4CNpvlm
作佐と鳥居元忠を合わせた感じ
0137人間七七四年2011/08/19(金) 21:21:28.79ID:vSpXtfY8
>>135
それ、面倒臭いって類かな? 扱いに困る というのもまた何か違うし
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