戦国ちょっといい話28
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0001人間七七四年
2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0038人間七七四年
2011/08/09(火) 02:47:38.88ID:Togfk+uu三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。
というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw
0039人間七七四年
2011/08/09(火) 10:24:22.68ID:eQJaVZCO家康本陣と対決
↓
主君に弓は向けられねえ!
↓
なんだか三河者らしい行動に出る
がテンプレになってるよな。
0040人間七七四年
2011/08/09(火) 17:30:39.76ID:csQRiIQs知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋
前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど
0041人間七七四年
2011/08/09(火) 18:39:22.74ID:V+frVMj+俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。
0042人間七七四年
2011/08/09(火) 19:08:14.13ID:6yE62ni40043人間七七四年
2011/08/09(火) 23:15:40.33ID:mKoL+rOT0044人間七七四年
2011/08/09(火) 23:17:39.71ID:csQRiIQs0045人間七七四年
2011/08/09(火) 23:25:44.75ID:RbH50BIh家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
0046人間七七四年
2011/08/09(火) 23:26:41.62ID:Togfk+uuある日竹千代は駿府の大祥寺という禅寺に、20羽程の鶏が走り回っているのを見て、
そこの僧に
「あの中から1羽貰えないだろうか?」
と尋ねる。するとこの僧
「どうぞどうぞ。1羽と言わず全部でも差し上げますよ!
全くこいつらは、菜園を荒らす困った連中なのですが、勝手に生まれ育ってしまい、
しかたなくこのように飼っているのです。」
と、心底困ったように答えた。
竹千代はこれを聞いて笑いつつ
『ああ、この僧は鶏卵を食べるということをしないのだ』
と、心のなかで感心した。
のち、竹千代が徳川家康と名乗り、駿河も支配するようになったころ、
家康はこの僧を召し出し、殊勝な者であるとして寺領を寄進したそうである。
(徳川実紀)
そんな、竹千代と鶏と僧侶のお話
0047人間七七四年
2011/08/10(水) 00:53:22.76ID:oPuZlGL10048人間七七四年
2011/08/10(水) 01:15:06.49ID:QKfHhj5l平和な現代ですら、信号を守れなかったり人の物を勝手に取ったりする人が多いのに
社会全体が荒れてた当時にして、当たり前のように戒律を守れてるこの僧は偉いと思う
0049人間七七四年
2011/08/10(水) 01:27:51.75ID:IagGc+WZ卵食べる事でしか間引くって思考が成り立ってない時点で鶏自体を食べる食文化は無いよな
竹千代は鶏を貰って何をしたかったのだろうか
0050人間七七四年
2011/08/10(水) 02:01:56.91ID:oPuZlGL10051人間七七四年
2011/08/10(水) 02:11:12.88ID:2aWrYBAY家康の少年時代だし、鷹の代わりに飼うつもりだったのかもしれない
0052人間七七四年
2011/08/10(水) 02:12:55.91ID:xiojDyaQ0053人間七七四年
2011/08/10(水) 02:20:02.93ID:7jJ+1hSY0055人間七七四年
2011/08/10(水) 05:05:36.67ID:IagGc+WZ龍王丸「どうだ竹千代この鶏は横綱級だぜ」
孕石「可哀相ですよ龍王丸、コイツんち貧乏だから鶏なんて持って無いんですよ」
竹千代「…鶏くらい持ってるよ」
龍王丸「じゃあ今度お前と俺の鶏で闘鶏しようぜ」
そして20羽の鶏で龍王丸の鶏を八つ裂きにしてギャフンと言わせた訳か…
そう考えると僧への恩賞は妥当だな
0056人間七七四年
2011/08/10(水) 12:10:02.96ID:tWE7rq+K「初めに鶏が鳴いたら起こせ」って命じて、
やたら早く鳴いたけどそれで起きたのが勝利のきっかけ
だったって話無かったっけ?
0057人間七七四年
2011/08/10(水) 12:26:58.67ID:YRGpQ71L0058人間七七四年
2011/08/10(水) 12:31:17.74ID:DPHMhRrZ0061人間七七四年
2011/08/10(水) 16:02:40.81ID:MjsPKO0qhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l15
戦国〜江戸期の独立系小大名に関するスレです。
命をかけて籠を護る、20人ばかりの大名行列とか
数人の腰元が奥の全てを執り行うとか楽しくね?
0062人間七七四年
2011/08/10(水) 17:15:41.65ID:dGbiFb6G佐賀藩といえばまず浮かぶのは有名な化け猫騒動だろう
じゃあその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂自身はネコをどう思っていたのだろうか
それが意外にも高くかっていたようだ
鍋島直茂「ネコほど重宝なものはない。家のネズミを防ぐためならどんな工夫をするよりも
良いネコを連れてくるのが一番だ」
0063人間七七四年
2011/08/10(水) 23:03:31.30ID:DPId/KRAあら意外 確かにうちも猫飼ってる時期にねずみ見たことない 猫は重宝する動物だよね
しかしそれなのに、今も鍋島藩士の子孫の人は猫飼ってないんだってね
これだけじゃなんなので、徳川秀忠のいい話 wikiにもあったのでその文を抜粋
大坂の陣の後のことであるが、弟・徳川義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり
周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。
秀忠は小さい頃に、暴れ牛が入ってきても微動だにしなかったらしいから
終始沈着冷静な人物だったのかな でも時々短気だけど
0064人間七七四年
2011/08/10(水) 23:18:04.45ID:QKfHhj5l突然の事態には強い人なんだろうか。
指揮官として軍勢を率いるより、小隊を率いた方が才能を発揮するタイプだったのかも?
0065人間七七四年
2011/08/10(水) 23:20:56.88ID:DPId/KRAその前に参加した戦いって、初陣の小田原の役くらい?
秀忠は名君であっても名将ではないんだよなあw でもそういうギャップ込みで秀忠好きなんだけど
0066人間七七四年
2011/08/11(木) 00:56:53.07ID:T78i7rQ+0067人間七七四年
2011/08/11(木) 03:06:11.14ID:SAjhFFYaあまり将軍様って感じじゃないや
0068人間七七四年
2011/08/11(木) 03:55:55.20ID:Ayx5XGqg「昔、織田家と斎藤家が争っていたときの事だ。
夏の夕暮れ時に両軍が睨み合って居ったのだが、
織田家の佐久間久右衛門という剛の者が近くに居った者達に『田を結べ、田を結べ』と囁いたのだ。
言われた連中も了解して敵に怪しまれぬように槍を持ったまま稲を結んで12間ほど引き下がった。
間も無く、斎藤方の兵が突進してきたのだが稲に躓いて、たちまち15人ほど討ち取られてしまった。
これに参った斎藤方はこれより50日は兵を出さなかったとさ。
・
・
・
と、さて、ここまで語っておいて何だがな、お前達、こういう話はうっかり聞くようなもんじゃないぞ。」
0069人間七七四年
2011/08/11(木) 08:16:27.84ID:BdJKr3940070人間七七四年
2011/08/11(木) 09:50:43.64ID:2hBMj8Eh0071人間七七四年
2011/08/11(木) 16:34:24.91ID:6ayPABIR途中で脱落してたら
「大将の話最後まで聞けコラ。最近の若いもんはry」
とみせしめに串刺しだったとオモ
0072人間七七四年
2011/08/11(木) 21:59:35.79ID:BC0UACuH「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。
そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。
常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。
御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。
機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)
この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html)
かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。
0073人間七七四年
2011/08/11(木) 22:33:27.15ID:IAMtFCWD日之江城城主の有馬家に対抗する事を画策した。この方針の下、竜造寺家の重臣だった鍋島家の
次男坊は、4歳で胤連の養子となった。事実上の人質であり、小城に来て間もない頃、胤連から
「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」
とこの少年に尋ねたが、
「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。」
と大人びた返答をした。これを聞いて大物になるだろうと確信した胤連に、この少年は大切に育てられ、
家臣や領地まで与えられたという。この少年は後に竜造寺家を背負って立つ事になる鍋島直茂である。
鍋島直茂4歳頃の逸話である。
0074人間七七四年
2011/08/12(金) 04:40:47.82ID:GonQ/GCT0075人間七七四年
2011/08/12(金) 12:43:34.73ID:xXOg0fubなんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね
0076人間七七四年
2011/08/12(金) 13:05:00.53ID:nhM7i+8j養子に入る時にその心得とかは言い聞かせられてはいたんだろうが、この問いに対して
この答えは、単に言いつけを守るだけじゃなくちゃんと意味を理解してないと出てこないもんな。
0078人間七七四年
2011/08/13(土) 00:03:59.78ID:Hiaz1mgo畠山尚順はこれを討伐せんと河内に居た息子の稙長に使いを出し、守護代遊佐長教を派遣させ自らも出陣した。
一方の平須山城方にも日高地方に勢力を誇った湯河直光一党が応援に入った。
この湯河氏の一族に業阿弥という法師が居たのだが、この男が一策を献ずる。
業阿弥「私が河内からの使者と偽り、本陣に入り込み畠山尚順を討ち取りましょう。」
かくして、業阿弥は使者に化けて、易々と本陣に入り込むことが出来たのだが、問題が一つあった。
業阿弥「いずれが畠山尚順か・・・」
業阿弥は畠山尚順の面体を知らなかったのである。
しかしながら、業阿弥は床机に腰をかけ兵に指示を与えている者に目をつけた。
業阿弥「(この者が尚順に違いなかろう)こちらが河内からの書状にございます。」
と、書状を渡すが、その者は尚順ではなく遊佐長教であった。
そうとは知らず、業阿弥は長教が書状を開いた隙を狙い、二の太刀まで斬りつけたものの、
頭を丸め、鎧の上に僧服を着ていた尚順に後ろから斬られ、その場で絶命した。
業阿弥は倒れても目を見開き長教を睨み続けており、陣中の者もなんと名誉な勇士かと感嘆し
業阿弥の血を指につけ嘗める者まで居たという。
尚順は無傷であったが、実際に采配を取り仕切っていた長教が重傷を負った畠山方の動揺は相当なものであった。
さらに、そこに城方が夜襲をかけて来た為、尚順も長教もそれぞれの本拠に撤退せざるを得なくなったのである。
0079人間七七四年
2011/08/13(土) 20:45:54.68ID:rqi45c4P最後まで使命を果たそうとするとはあっぱれ。
写真やらがないこの時代、人の識別とかは苦労したんだろうなぁ。
0080人間七七四年
2011/08/13(土) 21:51:14.60ID:GYOAaQo2「お前は本日、兜首を二つ取ったそうではないか。」
「・・・はっ。」
「だが首帳では、お前の武功は“首一つ”と記録されている。これでは手柄の立て損ではないか。
なぜ正しく申し出ぬ?」
「実は拙者、本日真っ先を駆けましたが、早々に乗馬が鉄砲に当たりまして。」
「ほう。」
「徒歩で戦う拙者を見て、青山忠俊殿配下の近藤忠右衛門殿が、『良く働くのう。わしの馬を使え。』
と、乗っていた葦毛の馬を貸して下さいました。再び乗馬を得た拙者は、首尾良く敵を一人討ち取ることが
出来ましたが、その後下馬して戦っているうちに、馬を敵に盗まれてしまいました。
借りた馬を盗られた拙者は、『取り返さずば、生きて戻らず』と思い定め、取った首を近藤殿に預けて
徒歩で敵中深く分け入ったところ、幸運にも馬盗人を見つけ、これをも討ち取ることが出来ました。」
「ふむ。」
「ですが徒歩で首を取れたという事は、馬を借りずとも首を取れたという事。逆に近藤殿は、馬があれば
首を取れたやも知れませぬ。ゆえに、その首を近藤殿の物とし、首帳には記しませんでした。」
「誰かある。明かりを持てい!!」
運び込まれた燭台を手に取った秀忠は、伝四郎を呼び寄せた。
「もっと近う寄れ!お前のような真の強者はな、こうやって良く顔を見覚えておくべきなのだ。」
“首一つ”の男は旗本多くある中で、大いに面目を施した。(徳川実紀より)
今村伝四郎正長、ときに二十六歳。家康が若武者たちの不甲斐無さを嘆いたと言われる大坂の陣だが、
武士の誇りも意地も、そしてそれを遇する心もまだ生きていた、そんなお話。
0081人間七七四年
2011/08/13(土) 22:00:13.40ID:kC6Ww9zJ0082人間七七四年
2011/08/13(土) 22:16:45.12ID:BP8twgTwそして秀忠もちゃんと評価してくれる人なんだよなあ そこんところは家康譲りか
0083人間七七四年
2011/08/14(日) 21:34:58.09ID:LJCDN4Piこういう振る舞いは源平・南北朝の武士は真似できないね。あいつらなら100%首二つと申告する
0084人間七七四年
2011/08/14(日) 21:37:26.58ID:ShiRuC790085人間七七四年
2011/08/14(日) 21:50:08.63ID:DhcnHnMb下田奉行を長く勤めた人で、文官っぽいイメージを持っていたけど
武勇も優れていたんだな
0086人間七七四年
2011/08/15(月) 00:22:29.49ID:BeXho3SFそうじゃ無いと普段から首3以上取ってる人間がやってらんねぇってなるから
秀忠は普段厳しい癖に人柄に惚れたらホイホイやっちゃう感じがある
それで古参連中から相当妬まれた坊さんとか剣術家とか御書院番頭とかいるし
0087人間七七四年
2011/08/15(月) 00:36:27.25ID:PIq/ftzB「勝茂殿、この場で謡(うたい)を披露して貰えぬか?」
と求められたが、「・・・・・・」
全く謡おうとはしなかった。見かねた直茂が
「そ、某が代わりに謡いまする!!」
と謡い出した為、その場はしらけずにすんだものの、屋敷に戻った勝茂は
「父上の謡が可笑しくてしょうがなかった。」
と母の陽泰院に語ったのである。すると陽泰院は
「そなたが謡わないからじゃ。」
と叱責し、直茂も家臣を通じて、
「こういう時の為に稽古しているのだから、以後あの様な事がない様にせよ。」
とたしなめたのだった。 息子のフォローにまわった直茂のいい話。
ちなみに、勝茂には笑われた直茂だったが、輝元からは
「田舎者だと思っていたが、礼儀を知っている。」
と以外にも賞賛されたという。
0088人間七七四年
2011/08/15(月) 00:38:25.97ID:RtKDHikd0089人間七七四年
2011/08/15(月) 00:50:48.29ID:LNrrdclm0090人間七七四年
2011/08/15(月) 01:07:35.81ID:EAmhqRYT難しいと思うなー
0091人間七七四年
2011/08/15(月) 01:07:54.62ID:TpO4hKBC0092人間七七四年
2011/08/15(月) 01:10:57.24ID:8bNDRU9e0093人間七七四年
2011/08/15(月) 01:49:38.73ID:g8QnWfFGそれをフォローしたら立派だと誉められる。
人間関係は現代とかわらないな。
悪い意味でめんどくさい
0094人間七七四年
2011/08/15(月) 02:09:55.86ID:BeXho3SF0095人間七七四年
2011/08/15(月) 09:38:46.12ID:VMYCWJ+0室町以降の謡(というか能)は他の芸より一段上の扱いを受けていて
直茂も習っていいる様に基礎教養の一つくらいの認識だった。
0096人間七七四年
2011/08/15(月) 10:39:49.94ID:iqE/T8aC0097人間七七四年
2011/08/15(月) 10:49:47.28ID:WVXmKLRL0098人間七七四年
2011/08/15(月) 11:25:19.98ID:g8QnWfFG勝茂の行動を評価する武将もたくさんいそう
0099人間七七四年
2011/08/15(月) 13:32:22.17ID:OQg08i8Cおまけに直茂はワザと謡の下手なふりして場を和ませたんじゃないかと思う
0100人間七七四年
2011/08/15(月) 14:17:33.52ID:8bNDRU9e将軍家ならともかく、輝元程度のご機嫌伺いなんてできるかとでも思ってたんだろう
0101人間七七四年
2011/08/15(月) 14:21:51.46ID:vOpK5owuさらに後始末を親に丸投げした悪い話にならないか。
0102人間七七四年
2011/08/15(月) 14:37:53.58ID:CK8igihU0103人間七七四年
2011/08/15(月) 17:54:10.92ID:v/ANKqqB0104人間七七四年
2011/08/15(月) 18:21:11.81ID:LZkkqcYMホームパーティーに来た育ちのいいボンボンがいて、
たぶん、歌だって一通り習ってるはず。
褒めていい気分にさせてあげるためにも、
「ちょっと歌って」ぐらい言うよ、ホストとしてはさ。
0105人間七七四年
2011/08/15(月) 19:41:32.46ID:o3fwW92s逆じゃね?
普通なら遠路はるばる来てくれたゲストに対してホストが余興を用意するでしょ
まぁ、立場とか考慮してないんだけど
個人的には謡わなかったことより、後で乳を平気で笑っちゃうところにイラッとする
0106人間七七四年
2011/08/15(月) 19:42:55.93ID:o3fwW92s0107人間七七四年
2011/08/15(月) 19:46:02.29ID:aJIdJnNH輝と勝茂だったらやっぱり輝の方が一応立場的には上だと思う。
年齢的にも1世代は違うしね。
まぁこの話的には、直茂の言う事が結論で良いんじゃないかね。
どうせ勝茂ももう少ししたら能が好きな将軍(秀忠)を仰ぐ事になるんだから、
ここで練習でもしとけば良かったと思うがw
0108人間七七四年
2011/08/15(月) 20:02:09.86ID:FgtRwKt0著名人である幽斎に、ひと目会おうと多くの客が詰めかけ、その中には島津龍伯入道義久の姿もあった。
幽斎と龍伯、二人の関係は複雑である。歌道の師弟であり、秀吉政権への申次だった恩もある。
秀吉の過酷な要求を、弟・歳久を、かばい尽くしてくれなかった恨みもある。
が、今日は、細川家の人々も、島津家の人々も、小倉城に設けられた宴席において和気藹々と過ごした。
宴もたけなわとなったころ、細川家家老の有吉立行が龍伯に頼みごとをした。
「龍伯さまは、世に聞こえし一節切(竹の一節だけで作った小さめの尺八)の名手であられるとか。
拙者共などでは、このような場でなければ聞くことも出来ますまい。是非にお聞かせ下され。」
「よかろう、しからば所望に任すべし。・・・ただ笛吹くだけでは芸が無いのう。下野、相伴いたせ。
隆達節じゃ。」
「はっ、では、僭越ながら・・・」
有吉の求めに快く応じた龍伯は、重臣の島津下野守久元(忠長の子)にも小唄を歌わせた。
“♪尺八の 一節切こそ 音のよけれ 君と一夜は 寝も足らぬ・・・”
(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)
尺八の澄んだ音色と、朗々と歌い上げる恋歌に、両家の侍はしみじみと聞き入った。(細川家記より)
相手が歌の師匠とはいえ、戦国最強ひきこもりだってこれぐらい出来るんだから
勝茂が両親にイロイロ言われても仕方あるまいよ。
0109人間七七四年
2011/08/15(月) 20:52:31.93ID:Oh7YHTDI人付き合いは下手だけど。
0110人間七七四年
2011/08/15(月) 22:22:59.48ID:LNrrdclmこの一文読んで、幽斎と龍白のいけない関係を連想してしまった自分が嫌になった
0112人間七七四年
2011/08/16(火) 00:33:16.09ID:/G3yC2m80113人間七七四年
2011/08/16(火) 00:35:01.21ID:lfJNhWHrおわかり頂けましたかね、明らかに島津安堵の直後です
最近まで家康には病の為上洛出来ませんって言ってたよね?
速攻で宴会旅行とかあり得んだろ、取り繕う気ゼロかよ」
忠興「わかる、その気持ちなんか理解出来る」
0114人間七七四年
2011/08/16(火) 01:13:59.57ID:fGoh/kIE0115人間七七四年
2011/08/16(火) 13:11:33.45ID:FONKuQygところで料理がまだ出てきておりませんがまだでしょうか?」
0116人間七七四年
2011/08/16(火) 13:33:12.04ID:fGoh/kIE0117人間七七四年
2011/08/16(火) 19:36:52.18ID:g/RkSG76いい話か悪い話か判断つかない秀忠の話
天正18年、徳川家康が江戸入城
その折りに、秀忠がその地を巡覧していた時、田安稲荷という神社を参詣した所
その神木として橙の木が植えられたのを見て歓喜した
何故なら、『橙』は『代々』と同音である為、その神社を『代々世を継ぎ栄える宮』と称賛し
以降、田安稲荷を『世継稲荷』と命名したという
ちなみに巡覧していた時、十七件ほどあった民家には一人を除いて後はみな畑仕事をしていた為
その残っていた一人、飯田喜兵衛という村人が案内したので、その地を『飯田町』と名付けたらしい
(名付け親は家康という説もある)
あの親にしてこの子ありというお話
0118人間七七四年
2011/08/17(水) 02:26:48.94ID:nqIb0fhqそして秀忠巡閲中だろうとスルーする村人ハンパねえッス
まあ現代でもお偉方巡閲中は仕事してるフリを尊ぶ会社はあるけども
0119人間七七四年
2011/08/17(水) 02:41:05.66ID:ptAt8PIa定信含めた他の2子は養子に行っちゃって、
一橋家から養子をもらうから、
世継ぎに恵まれたとは言えないような
0120人間七七四年
2011/08/17(水) 17:06:13.18ID:hF/llaZ0それでも、それ以降も一揆とかないんだよな
0121人間七七四年
2011/08/17(水) 20:48:06.59ID:C/obvjCI百戦錬磨の正則は、死兵と争う愚を避け、家臣に深追いを禁じたが、正則の養子・正之など一部の将は
これを猛追した。
中でも穴沢某なる武者の勢いは凄まじく、大長刀をあたかも小枝の如く右に薙ぎ、左に払って道を作り、
義弘目がけてまっしぐらに迫ってきた。
「あれは尋常の武辺者ではない。大蔵、お前で無ければ相手になるまい。征けっ!」
「承った。」
義弘の指名に一言で応じた中馬大蔵少輔壱重方は、前線に飛び出ると自慢の強弓を番え、「来い!!」
と、穴沢に呼びかけた。
「おい、本当に向かって来たぞ。中馬殿、早く矢を射ぬか!」
「まだまだ。」
同僚の心配する声をよそに、中馬は微動だにしなかった。
「中馬殿!」「まだ!!」
もはや穴沢の顔がハッキリと分かる距離になっても、中馬は矢を射ようとしない。
ついに目前に迫った穴沢は、大長刀を一閃させ、中馬の弓を真っ二つに斬り折った。
と同時に、穴沢はバタリと倒れ伏した。その胸板には、中馬の放った矢が深々と突き立っていた。
(想古録より)
実はこの零距離弓術こそが、『良き敵』のみに使用する中馬大蔵必殺の技であり、彼は戦に臨んで
矢を二筋しか持って行かなかったという。
0122人間七七四年
2011/08/17(水) 21:08:07.47ID:5Cq6PbZZ0123人間七七四年
2011/08/18(木) 00:34:53.40ID:B764rqvz独立勢力として動いていた竜造寺家の当主、隆信に仕える事になった訳だが、1569(永禄12)年3月
大きな危機が訪れた。竜造寺家の本拠地である村中城が、豊後の大友宗麟の大軍に包囲されたのである。
多くの家臣は
「このまま戦っても勝ち目はありません。ここは降伏するか、筑後へ逃げましょう。」
と隆信に提案した。そんな中で直茂だけは、
「城中に裏切り者が出なければ簡単には城が落ちる事はありません。戦うべきです。」
と発言した。隆信も直茂の意見に賛同したものの、不安が拭いきれず、念の為占ってみる事にした。
すると一計を案じた直茂は、事前に占いを行う泰長院の住職である震龍に、
「『城を去らないのが吉、去るのが凶。』だと言うように」と要請した。
その結果、震龍がその通りに占って見せた為、その場は逃げずに篭城する事で決まった。
竜造寺軍は4月、中国の毛利家による大友領侵攻への対応に迫られた宗麟と和睦を結ぶ事に成功した。
村中城は翌年も再び大友軍に包囲されたが、この時は直茂が自ら夜襲で大友軍に大打撃を与え、やはり和睦に持ち込んだという。
占いで弱気な家臣を黙らせた、直茂のかっこいい話。
0124人間七七四年
2011/08/18(木) 01:19:49.18ID:A18oTpXSまぁ、いいけどさ
0125人間七七四年
2011/08/18(木) 01:27:52.86ID:DJ+3M4DL0126人間七七四年
2011/08/18(木) 02:52:17.35ID:honRDmw90127人間七七四年
2011/08/18(木) 08:58:21.15ID:CGWfRhLyそこは普通に種子島使うべきだろ
戦国時代は成功した厨2病は語り継がれるが、きっと何万何千もの厨2病患者の屍の上に築かれた栄誉なんだろうな…
義弘も若かりし時に刀じゃ無く大剣もってヒャッハーしようとしたら大怪我負ってたな…
0128人間七七四年
2011/08/18(木) 09:56:16.34ID:pENoDK33戦中なら自分が最も自信のある武具を用いるのがベターでないかい
0129人間七七四年
2011/08/18(木) 10:18:31.20ID:5lML0jXzカッコいいってのは確かに違う気もするが、これは運じゃなくて時間さ稼いでれば毛利にしろ島津他勢力にしろ
後ろに敵がいっぱいいる大友ならどこかは必ず動くってとこまで読み切ってるだろう。
どっちかという周りが単細胞ばっかりの中、一人だけものが見えてる人間の気苦労を感じるわ。
頭のキレる人間が真っ向から論破しちゃうとどうしても反発勢力が生まれるから、どうにかしてうまく乗せて
こいつら使わなきゃ、ってことじゃないか。
0132人間七七四年
2011/08/18(木) 20:09:35.90ID:N1SgclVI0133人間七七四年
2011/08/19(金) 05:52:01.27ID:drJIDQhw0135人間七七四年
2011/08/19(金) 20:51:42.44ID:LciVYVec義弘が見初めた娘を見に行かせたら「ワシの嫁だった」(←勿論まだ知り合いでもない)と報告して嫁にしちゃったり、
西日本一のめんどくさい侍だよなw
これに対抗できるのは三河もんか曲淵庄左衛門ぐらいだろうな
0136人間七七四年
2011/08/19(金) 21:13:59.83ID:m4CNpvlm■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています