戦国ちょっといい話28
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0001人間七七四年
2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話27
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0306人間七七四年
2011/08/29(月) 18:57:07.72ID:G7S70noyその死体を乗せたまま帰ってきた馬も凄いよね
0309人間七七四年
2011/08/29(月) 21:02:07.02ID:xy074avB> しかし遺言状?を読んで感動して
> 「きっと父も弟も戦で死んだから、戦が嫌いになったんでしょうね」
> といった学者か小説家がいたとか前に見たような
それは読み方を間違っていて、実際の鬼武蔵の遺言内容はそんなしおらしいものではなく、
鬼武蔵が秀吉に要求したのは、忠政には美濃の森家を継がせるのではなく「京の政権中枢で」使うように。
妹も「京で(政権に関わっている人間に)嫁がせるように」と、
政権に直接つながることを強く意識した遺言なのだ、って解釈を見たことがある。
0310人間七七四年
2011/08/29(月) 21:07:03.66ID:HzqxeYRg0311人間七七四年
2011/08/29(月) 23:42:30.97ID:r7XzikOY鬼武蔵の蛮勇が戦国を終結させると信じて…!
ご愛読ありがとうございました!
0312人間七七四年
2011/08/29(月) 23:57:37.69ID:FD7l8JTH現実にはその三河武士に殺されたんだが
0313人間七七四年
2011/08/29(月) 23:59:46.19ID:G7S70noy0314人間七七四年
2011/08/30(火) 00:03:36.21ID:tHRXCUMQまあ、後に家康が関ヶ原の時に「小牧長久手の時の鬼武蔵と比べたら、宇喜多秀家や石田三成なんて
全然怖くないだろ?」って言ってるから、三河武士の間でも相当の強敵と認識されてたのは確かなんでしょ。
0315人間七七四年
2011/08/30(火) 00:03:59.93ID:gfhI0sv4鬼武蔵に徳川勢がビビッた記述がどこかにあるの?
0316人間七七四年
2011/08/30(火) 00:05:25.34ID:vH9RoNlh0318人間七七四年
2011/08/30(火) 00:21:06.71ID:ZAKvhNZB0319人間七七四年
2011/08/30(火) 00:22:04.68ID:ZstUeY06逆に言えばそれだけ家康が凄いってことだな
0320人間七七四年
2011/08/30(火) 00:25:24.47ID:4HyhmfHc鬼武蔵の中の人が線の細いイケメンだったのにはワロタ
0325人間七七四年
2011/08/30(火) 08:29:25.71ID:M/cqqEo8鬼武蔵も何百年後に自分のことがこういった風に語られるとは思わなかっただろう
0326人間七七四年
2011/08/30(火) 11:18:28.72ID:1PuwfGWi信忠政権はどんなカオスになるのか見てみたかったな
0327人間七七四年
2011/08/30(火) 12:18:28.24ID:9Ioi+nb0堀とか蒲生なんかの若手が育っていくなかで
ヒャッハーし続けるのかねぇ
0328人間七七四年
2011/08/30(火) 12:25:45.15ID:PM9EGkEh胸熱だな
0329人間七七四年
2011/08/30(火) 13:04:33.82ID:OI072jz5森家の人(や馬)は討ち死に(や桃)しない限り基本とんでもなく長生きだから、
本当に織田政権の中枢に入ってたんだろうな。
0330人間七七四年
2011/08/30(火) 13:09:03.49ID:is4UR8tU勿論、イヤミで言ってんだろうけどさ
0331人間七七四年
2011/08/30(火) 13:19:37.97ID:is4UR8tU0332人間七七四年
2011/08/30(火) 13:22:30.56ID:nD3D3d3K鬼武蔵は生きてれば豊臣の大老格だったかもな
こうやって鬼武蔵の逸話見ると人物がでかいな聞いてて気持ちいいくらいのレベル
0334人間七七四年
2011/08/30(火) 13:44:56.03ID:ZstUeY06上にいきすぎたら、本格的に止める人がいなくなっちゃう
0335人間七七四年
2011/08/30(火) 14:07:32.59ID:BfDmu/lj0336人間七七四年
2011/08/30(火) 15:30:54.14ID:yTmLaSgN>信忠では普通に秀吉に乗っ取られるでしょう秀頼から政権乗っ取った家康のように
それはないな。本能寺の変が起きなければそんな力は持ってないだろう。
0337人間七七四年
2011/08/30(火) 16:53:40.28ID:JGEayxhLそれを若手エリートの筆頭格とはいえ、覆
せるものなん? なんか変だな。
0338人間七七四年
2011/08/30(火) 18:01:38.46ID:WIbINKtQ息子の信忠さんからして知ったこっちゃないわと速攻かけて武田潰してるし、そもそも信長の寵愛を楯に、色々好き放題やってた鬼武蔵だから、
「全くこいつは好き勝手やりやがるなあ」
くらいで済むと考えててもおかしくない
0339人間七七四年
2011/08/30(火) 18:18:28.99ID:tHRXCUMQ本田甚四郎といった面々が離脱、家康の優位が決定的になっていった。
さて、この頃一揆の主力の籠っていた土呂の本宗寺は、先に降服した面々を通して、家康に対し講和を
働きかけた。そこで出してきた降伏の条件は3つ
第一・この度一揆に参加した諸侍達の本領安堵のこと。
第二・真宗の道場ならびに僧俗共に、元のように立て置かるべきこと。
第三・一揆の張本人、一命を助けられるべきこと。
この条件を受け入れてもらえれば、今後家康に対し忠節をなし、未だ抵抗を続ける上野城も自分たちで攻め落とし、
さらに諸方の残党たちも尽く退治し、忠勤をなす。
土呂の一揆勢はこう言ってきたのだ。
この事を老臣・大久保忠俊より聞かされた徳川家康は即座にこれを拒絶する意向を示した。
徳川家中を二分するほどの内乱を起こした一揆勢にとってあまりにも都合が良すぎる、そう思ったのだ。
が、ここで大久保忠俊が強いて言上した
「殿の御憤は御尤の事です。しかし、ここはよくよく、今後のことも含めてお考えください!
第一に、このように国中騒動に及んでいるうちに、もし他国から攻め込まれれば、内外の敵に挟まれ
御家の存亡は計りがたく、例えそういったことがなかったとしても、考えてみてください、今度の一揆の
勃発により去年の冬以来我が御家は、他国に進出することが出来なくなりました。
これは非常に嘆かわしい状況です。
そもそも、今度の一揆に遺恨を言うなら。この常源(忠俊)こそ1番でしょう。
私はこの一揆との戦いで子供や孫たちを始め、親類たちが数多く討死致しました。
この老齢になってからの私の嘆き悲しみは、言葉にすることもできません。
ですが、これも全て殿様の御為である以上、例え子供たち全てが相果てるような事になろうと、
決してそれを厭うものではありません。
その上で申し上げます。なにとぞ一揆共の御願いを、言った通りに了解され、残らずお宥しなされてください。
そして一日も早く、再び御家が他国に進出できる態勢を整えてください!」
そう、涙を流して訴えた。
家康はこの大久保忠俊の言葉に深く感じ入り、しばらくしてつぶやくように言った。
「いかようにも、お前の良きようにせよ。」
これにより2月28日、ついに和平整う。三河一向一揆はついに収束した。
大久保忠俊が、家康に講和を受け入れさせた事の逸話である
(三州一向宗乱記)
0340人間七七四年
2011/08/30(火) 19:29:41.25ID:IgoapiSrっていう分岐点に必ずいた気がする。
0341人間七七四年
2011/08/30(火) 21:08:57.19ID:hUKiH2sX「真宗の道場、元のように」更地にしちゃったんだよね。
一向一揆を半年程度で後腐れなく収めたケースとしては
いい話なんだろうけど。
0342人間七七四年
2011/08/30(火) 21:10:46.01ID:ZstUeY060344人間七七四年
2011/08/30(火) 21:24:31.88ID:o7d314sJ一向宗の道場というのは、記録などでも「城」と表現されることがあるように、大規模な堀と土塁を要した
要害設備だったと言っていい。なので領主としては何にかあればそこに篭られては困るので、破却は
領主の立場としてはしょうがなかったと思うよ。
0345人間七七四年
2011/08/31(水) 01:13:41.78ID:txKEWVJ30346人間七七四年
2011/08/31(水) 01:16:34.62ID:ItUf5VjX0347人間七七四年
2011/08/31(水) 01:25:16.75ID:hGB7AKfaまさに安心の家康クオリティー
0348人間七七四年
2011/08/31(水) 01:33:18.92ID:zCy8ZROv0349人間七七四年
2011/08/31(水) 02:04:34.51ID:IpxZHOjQ現在はほぼ証明されている。
0350人間七七四年
2011/08/31(水) 07:38:35.51ID:mLoQ80MGてか徳川家の元通りってのは怖いなw
0351人間七七四年
2011/08/31(水) 08:02:18.93ID:SJXJRt7Dこの時代だまされた方が悪いと言うことなんだな
0352人間七七四年
2011/08/31(水) 13:29:43.45ID:vTv6p+M026歳のやることじゃねぇよなw
後の大坂攻めの破却の件を彷彿とさせる無理やり加減が恐ろしいww
>>348
悪い話?
いい話だろ、武士的には。
0353人間七七四年
2011/08/31(水) 13:48:49.52ID:II1bBQ/N0356人間七七四年
2011/08/31(水) 16:16:44.55ID:LQ7cubPBまあ大坂の陣に関しては>>349の言うとおりなんだけど、意外と知らない人多いみたいだねぇ
ただ有能さというものがお行儀の良さよりも優先される、実力主義の時代だったんだよな
0357人間七七四年
2011/08/31(水) 18:20:08.66ID:mangm6AO本能寺で織田信長が明智光秀に討たれると、
甥の織田信澄は内通の疑いをかけられ殺された。
嫁が明智の娘だったからである。
さて、山崎の合戦で勝利した羽柴軍秀長のもと、
三千石を拝する藤堂与右衛門高虎を頼って、女が訪ねてきた。
「信澄殿の嫁ごだと!?
信澄殿といえば、俺がどんなに頼んでも八十石しかくれなかったではないか。
いったいどのツラさげて参ったか?信澄殿の嫁!」
見ればわずかな供を連れ、人目を忍ぶ女がいた。
懐には二歳になる子を隠し抱いている。
「・・・・不憫じゃ。」
高虎は、母子を保護し、子を芦尾庄九郎と名乗らせた。
高虎の庇護のもと、成人した庄九郎がさすが大器の片鱗を見せ始めた頃、
徳川家の千姫が豊臣秀頼に輿入れすることになった。
庄九郎の母が明智の娘で、教養も才能もあるとして
千姫の上臈に抜擢された。すると、
庄九郎は母と共に秀頼のもとに行ってしまったのである。
「よりによって秀頼殿とは・・・」
しかし、時流は容赦ない。
豊臣家は滅びた。
徳川家康の腹心として、大坂の役の戦後処理に忙殺される高虎を頼って、
男が訪ねてきた。
「庄九郎だと!?
庄九郎といえば、さあこれからという時に
とっとと秀頼殿のところへ行ってしまったではないか。
いったいどのツラさげて参ったか!信澄殿の息子!」
見れば、昔日の若武者の面影はすでになく、
投降兵の姿があるばかりだった。
「・・・・不憫じゃ。」
高虎は家康に、庄九郎の助命と家名の存続をとりなした。
庄九郎は織田昌澄と称し、
子孫は旗本として二千石を拝領するようになったという。
0358人間七七四年
2011/08/31(水) 19:56:46.72ID:qRwCc0U/0359人間七七四年
2011/08/31(水) 20:06:11.33ID:RSCAwxlF0360人間七七四年
2011/08/31(水) 20:18:58.47ID:zCy8ZROv0361人間七七四年
2011/08/31(水) 20:54:55.98ID:pSa3ZAk70362人間七七四年
2011/08/31(水) 20:55:24.22ID:LE7hJ10d0363人間七七四年
2011/08/31(水) 21:05:47.31ID:kyQAoyB/でもあるよな。
いくら出世街道にのりつつある高虎とはいえ待遇への不満を理由に出て行った旧臣を頼るか?
織田・明智両方の縁をたどればもっと安易な道はいくらでもあったはずなのにこの選択はすごい。
さすが光秀の娘といったところか、ガラシャのすぐ下の妹なんだね。
0364人間七七四年
2011/08/31(水) 21:12:43.95ID:hwkPySbXより大きな大名にすがったほうが同情してくれる可能性も高いだろうし
0365人間七七四年
2011/08/31(水) 21:16:58.42ID:k3MJQfyD明智を討った秀吉の弟の直臣だし。つか父親を討った男の弟の部下を頼る気になった奥方様がすごいな
0366人間七七四年
2011/08/31(水) 22:11:05.03ID:glJgJGDD0367sage
2011/09/01(木) 00:54:00.60ID:2OZgzHLc天文七年二月下旬から三月上旬にかけて、山口では火事が多発していた。
二月二十五日、二十七日、翌月三月三日、七日と、放火なのか事故なのかはわからない。
なかでも三月七日に本町で発生した火事は「七日、本町家百はかり燃候」と記録されている。
この大火事のときに、鎮火のために奔走した集団がいた。
去年の天文六年十二月に、山口に人質としてやってきた毛利隆元が従えていた者達である。
隆元の山口での人質生活を書き留めている「毛利隆元山口滞留日記」には、
「此方衆走あひ、火をしつめられ候、其時内藤彦太郎殿爲御使、御館様御褒美にて候」
と記されており、具体的に何をどうしたのかは書かれていないが、大内義隆から褒美をもらうほど活躍したらしい。
のちに「優柔不断」と父・元就に評されてしまう隆元だが、一大事という時には部下を適切に動かすことはできたのだ。
まあ、隆元が自主的に動いたんじゃなくて「人手が足りないから手伝って!」とか言われたからかもしれんけど。
山口で人質中の隆元十六歳と、その配下のちょっといい話。
0368人間七七四年
2011/09/01(木) 00:56:23.45ID:2OZgzHLc0369人間七七四年
2011/09/01(木) 01:03:57.55ID:6aZ2QESu防災の日と隆元の命日が一緒なんだ 災いを防ぐ日なのに…
0370人間七七四年
2011/09/01(木) 01:55:43.80ID:YDkSPVnw0371人間七七四年
2011/09/01(木) 06:15:18.50ID:gjgHNumR勝手に消火活動に奔走してたって感じの文だな
0376人間七七四年
2011/09/01(木) 14:31:14.71ID:UklXVgq1丹後まで行くのが大変(ほぼ山道)な上、丹波方面は残党狩りで治安かなり悪いぞ
母子連れの少人数で行くのは無理
0377人間七七四年
2011/09/01(木) 14:46:28.28ID:/MDj4qXf家康家臣の永井伝八郎(直勝)に討ち取られた事はご存じの通り。
その経過は、安藤直次が勝入に槍を付けて、直勝にさし招かれた若武者・伝八郎が首を討ったもので
そしてそれを正直に報告した伝八郎と、クサイ芝居をして功を譲った直次という
これだけみると、過去にもこちらで挙がっている清々しい戦場の友情譚である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html
…が、事の真相はどうやらもっと深〜いものであったらしい。
実はこの戦前に、主君・家康から直々に直次にお達しがあった。
「井伊万千代(直政)に手柄を立てさせるように、よろしく援助してやってくれい」
戦歴が浅い為、目の中に入れても痛くない直政の事を頼まずには居られなかったのであろう。
可愛い直政にチョッカイを出そうと、その小姓部屋に忍び込んだとも言われる「敵」直次に頼み込む始末。
そして決戦の場。
直次は勝入に槍を付けて半死状態にした所で、後方から詰めている筈の直政に首を討たせようと、「万千代、万千代!」と叫んだ。
すると予期せぬ方角から武者が襲いかかり、あっという間に勝入の首を掻き斬った。
その人物こそ伝八郎であり、前髪の頃は直政と同じ「万千代」という童名の持ち主だったのだ。
永井伝八郎直勝とはどのような人物か?
「すぐれたる美童」だった伝八郎は、家康の長男・信康に見染められ児小姓として寵愛されていた為
後に家康の直臣となった際も、家康からも目をかけられた。
機転が利き、軽やかな身のこなしで勇敢な為、この度の戦で初めて母衣衆に抜擢された。
一説(『武野燭談』)に、直次と伝八郎は衆道の契りを結んでいたと伝えられ
(※余談ではあるが、かの「三島由紀夫」は伝八郎の子孫だそうだ)
伝八郎としてみれば、直次が自分に敵将の首を譲ってくれるのだと思い飛びかかったに違いない。
(万千代違いだったが、伝八郎なら丁度いい。伝八郎にも誤解させたままでおこう)と直次が思ったかどうかはわからない。
いずれにしても、伝八郎にとっては棚からぼたもちである。
その頃、本来の「万千代」はどうしていたかというと…
直次の思いは何のその、井伊隊の主将でありながら組下をどこかへ置き忘れて、敵陣深く攻め入り
一騎駆けよろしく池田隊と組みうちし、直次の助太刀もイラネとばかりに
勝入の黒母衣を組み伏せ、首を掻き斬っていたとさ。
もちろん直次に、「物主たるもの組下を置き去りにして一人働きするものではない!」と叱られました。
0378人間七七四年
2011/09/01(木) 15:01:41.36ID:r6KjBAj3なんかかわいいな 俺が呼ばれてる!と思って勇んで駆けてくるの
0379人間七七四年
2011/09/01(木) 15:46:01.49ID:35n8IDR5戦場の話なのに微笑ましいのは何故だろう
それにしても安藤さんはアッー!方面も抜かりがないねw
長久手では井伊隊のあげた首級がパネェし
「我に遅れたる者は男じゃねー」
と飛び出して行った直政には最初から援助なんていらんわ
という感じだね
0380人間七七四年
2011/09/01(木) 19:09:12.83ID:eYunOiCa0381人間七七四年
2011/09/01(木) 19:14:05.26ID:3+7HXbDB0382人間七七四年
2011/09/01(木) 19:23:52.76ID:5saW7Eokこの時代は嗜みだったんだし
0383人間七七四年
2011/09/01(木) 19:49:11.06ID:eYunOiCa衆道ネタを書きたいために書いているようにしか見えない
0384人間七七四年
2011/09/01(木) 20:01:07.31ID:dm3WrxJx「うろたえるんじゃあないッ! 滝川武士はうろたえないッ!」
と顔色一つ変えずに読書を続けたという。また、厩橋城主だった頃は一着しか無かった服が
洗濯中で全裸で過ごしていた所に来客が来た際も
「私の服が乾くまで待っていてもらえ。」
と服が乾くまで待たせたという。以上、「名将言行録」より滝川一益の豪胆さを示す逸話である。
0385人間七七四年
2011/09/01(木) 20:11:26.79ID:6aZ2QESu0387人間七七四年
2011/09/01(木) 20:22:07.74ID:iYm2bJ12「俺は将門とは違うぜ〜www」的なパフォーマンスだべwww
0388人間七七四年
2011/09/01(木) 20:24:23.46ID:6aZ2QESu池田恒興だったかな 違ったかな
0390人間七七四年
2011/09/01(木) 20:38:38.66ID:tr+CvJPh0391人間七七四年
2011/09/01(木) 20:42:49.72ID:c0sAsYNR0392人間七七四年
2011/09/02(金) 00:32:59.02ID:NkInj7FZ池田恒興の家臣に、森寺政右衛門忠勝という男がいた。恒興の守役と言うべき藤左衛門秀勝の子であり、
若いころから恒興に仕え、伊木清兵衛忠次とともに恒興の両腕たる男であったが、「常山紀談」に
『優れたる荒者』と書かれるように武勇に優れ、そして荒々しい男だった。
ある日、恒興が政右衛門に徳利を見せた。「どうじゃ!備前焼の逸品だとか。稲葉一鉄にもらった物だ。」
徳利を見た政右衛門、一言「ニセモノですな。」
「何だと!?」
「今ごろ一鉄殿は、さぞかし笑っておりましょう。にっくき奴輩ですな。この徳利を一鉄殿の目の前で
割ってやったら、さぞかし痛快でしょうな。」
「そりゃそうだが、さすがに無礼だろ。というか、あの一鉄の前でそんな事、やれるモンならやってみろ。」
恒興の言葉を聞くが早いか、政右衛門は徳利を抱えて飛び出した。
「…いかん!アイツの気性では、本当にやりかねん!」
ようやく気づいた恒興だったが、時すでに遅し。屋敷の門前まで出てハラハラしながら待っていると、
政右衛門が五体満足で駆け戻って来た。「せ、政右衛門!お前、無事だったか!」
「おう、殿!これを御覧あれ!!」
政右衛門は懐から、首だけになった徳利を差し出した。
「やりやがったぁぁああ!!」
「使者と申して一鉄殿に対面し、縁側の柱に徳利を叩きつけて、木っ端微塵にしてやりましたわい。
『そやつを捕らえろ!!』と叫んだ一鉄殿の顔、殿にも見せてやりとうござるな。まあ、縁側に出ていた
おかげで、こうして逃げ延びて参りました。」
「な、何という事を……」
「殿が悪うござる。およそ人の主たる者、一言たりとも慎みあるべし。わしの発言は確かに無礼でしたが、
それを『やれるものならやってみろ』などと侍が言われれば、たとえ骨を刻まれようと、やらいでか!
今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。」
0393人間七七四年
2011/09/02(金) 00:38:47.83ID:qltNker90394人間七七四年
2011/09/02(金) 01:05:13.46ID:L6/ZS2/dそもそも政右衛門の偽物指摘が発端だからなあw
0395人間七七四年
2011/09/02(金) 01:53:04.32ID:2wEtdf1N0396人間七七四年
2011/09/02(金) 02:22:38.95ID:dqmKRenLこれ一瞬恒興の言葉かと思ったら、割った本人の言葉なのかよw
0398人間七七四年
2011/09/02(金) 05:36:09.56ID:hSSto5aG0399人間七七四年
2011/09/02(金) 05:56:11.51ID:+Xlvpj6r0401人間七七四年
2011/09/02(金) 07:17:33.71ID:Os8P/mhs0402人間七七四年
2011/09/02(金) 11:18:58.56ID:1KCWKsp9司馬遼太郎の覇王の家にも載ってたな。
永井伝八郎の事を他人に思われ慣れた者の厚かましさというものかもしれないって、けっこう酷く書かれてたけどw
0403人間七七四年
2011/09/02(金) 12:28:49.28ID:RpXRtaE/あの場合は、永井の取った行動も最もな事だし仕方ないと思うけどなw
冷静になって、あれは自分を呼んだのではなく井伊万千代の事だったと気付いたはずだが
その後に権現様に直次殿からの貰い首と正直に言って褒められたエピも良い
0404人間七七四年
2011/09/02(金) 16:17:33.80ID:J6MLLiZh覇王の家をして読み返したけど、何故あんなに永井に厳しいんだろ
永井も家康に正直に事情を話したと文中に書いてるくせに
他人に想われ慣れた者の厚かましさとか
首を討ったのは確かなのに
譲り受けていわばけろりとしていたなんて書いたり。
逆に直政に対しては
その美貌は婦人にも稀なほどとか想い人のように好意的w
家康との衆道も、徳川家のみならず
町人まで知ってる事実とか断定しちゃってる
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