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戦国ちょっといい話28

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0001人間七七四年2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002*2011/08/04(木) 21:29:29.46ID:1FE8Acpw
<,,`∀´,,> ニダー
0003人間七七四年2011/08/04(木) 21:54:12.46ID:2HCX4rPF
>>1
0004人間七七四年2011/08/05(金) 00:34:49.08ID:fHsnbfjJ
総合]毎週金曜 午前0:45〜1:28(木曜深夜)

タイムスクープハンター「髪結いちょんまげ騒動記」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1312455261/
0005人間七七四年2011/08/05(金) 00:53:16.19ID:9gCYktPg
>>1
0006人間七七四年2011/08/05(金) 09:40:36.65ID:JBrn15IF
 *     +    巛 ヽ
            〒 !   +    。     +    。     *     。
      +    。  |  |
   *     +   / /   イヤッッホォォォオオォオウ!
       ∧_∧ / /
      (´∀` / / +    。     +    。   *     。
      ,-     f
      / ュヘ    | *     +    。     +   。 +
     〈_} )   |
        /    ! +    。     +    +     *
       ./  ,ヘ  |
 ガタン ||| j  / |  | |||
0007人間七七四年2011/08/05(金) 20:10:57.23ID:uSfP1kRp
見事!見事!
0008人間七七四年2011/08/05(金) 20:55:35.96ID:UJFAqzzJ
大儀である。茶を服すがよいぞ。
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                     
 ( つ旦O
 と__)__)  旦    
       福島原発産放射性汚染水油入り  
0009人間七七四年2011/08/05(金) 22:24:15.21ID:JuJf4xbl
>>8
政宗「今度俺んちで鉄砲の試し撃ちするからお前も来いよ」
0010人間七七四年2011/08/06(土) 22:17:13.33ID:vHAMXvP6
豊臣秀吉の死後、政権奪取をもくろむ徳川家康と豊臣家臣の石田三成の対立が激化する中、
関東地方から上洛の途上だった榊原康政は、伏見城下にいた家康を三成が襲撃を計画している事を知り、
昼夜を問わない行軍で近江国瀬田までたどり着いた。そこで家康がまだ無事である事を知ると、
関所を設けて3日間京への通行を禁じた。その理由は足止めされた旅人と共に進軍し、敵に大軍だと思わせる事が目的だった。
さらに、京に入った康政は蔵から多額の資金を取り出して、兵達に

「徳川軍6万人分の兵糧が必要だ。」

と言いふらしながら京周辺の商店の食料を買い占める様に指示した。結果、市中には

「徳川軍は数十万の軍勢で上洛している。」

という噂が流れ、三成は襲撃を中止し、康政もその知略を称えられたと言う。
榊原康政、噂で家康を守ったいい話。
0011人間七七四年2011/08/07(日) 06:12:28.52ID:UWhz9p3U
1560年頃の越後での話である。
地侍だった人が重臣の家来に殺されてしまった…家族が頭に来た

重臣は金銀をわけあたえた。
戦国ならではの美談だね
0012人間七七四年2011/08/07(日) 06:14:33.65ID:xAA5//Th
まだ生きてたのか
0013人間七七四年2011/08/07(日) 08:52:57.35ID:+jQ4VG/v
>>11
同じ越後でも兼続は頭にきた家族をブッ殺したよな
0014人間七七四年2011/08/07(日) 09:49:52.99ID:vjWmdxxg
>>13
だからその話だろ
0015人間七七四年2011/08/07(日) 11:42:23.21ID:+jQ4VG/v
そうなんや
0016人間七七四年2011/08/07(日) 11:49:18.07ID:kKQGHti+
兼続だっていきなりぶっ殺したわけじゃないよ
詫びいれて懐柔をしようとしたらクレーマーだったでござるって話だからな
やりすぎではあるけど究極のクレーマー対策ではある
0017人間七七四年2011/08/07(日) 12:10:31.89ID:5E8nqrEV
島津忠恒の嘆願により死一等減じられ、八丈島へ流されることになった宇喜多秀家は、忠恒への謝礼として、
近臣の玉川伊予守義則を譲った。
備前中納言に仕えて上方で武芸百般を修め、馬術・弓術の名手である義則は、たちまち忠恒の寵臣となった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2333.html
しかし血気に逸る島津家の若侍たちは、主君の近くに侍る上方武士に白い目を向けた。

ある時、菩提寺の福昌寺へ参拝した忠恒のお供をした義則は、同じくお供の若侍たちに絡まれた。
「山門の脇に、大きな石灯籠がござったな。あの灯籠を、持ち上げてみて下されや。」

さすがの義則も、これには難を示した。
「あの大灯籠を持ち上げるのは、なかなか容易ではござるまい。」
「ふん!上方育ちの、行跡柔和なることよ。」
「・・・そこまで言われては、やらざるを得ませんな。」

やむなく義則は、大灯籠に取り掛かった。「ぬおぉぉおお―――――――――――――――っ!!!」

“歯噛をなし持被候へば、冬の事にて候に、足の指の又より血朱になりてみえし”と薩藩旧伝集が記す
恐ろしい形相になりながら、義則は灯籠を持ち上げる事に成功し、安堵した。

「よ、良かった・・・本当に良かった・・・」
「・・・ほ、ほんに良かったのう!これで貴殿の面目も立ったわけじゃ。」

「わしが『良かった』と申したのは、その事ではない。おぬしらの事じゃ。

持ち損じたならば、恥じて我が身を処するのはもちろん、わしを挑発し、恥を見届けたおぬしらを
ただでは置かぬところであった。余計な血を見ず済んだゆえ、『良かった』と申したのよ。
向後このような試しは、互いのために無用に願いたい。」

若侍たちは深く悔い、その後、義則を白い目で見る者はいなくなったという、
泳いで参った人の旧臣、薩摩隼人に意地を見せた話。
0018人間七七四年2011/08/07(日) 12:26:47.09ID:Yaf95qM8
あやうく非常に悪い話になるところだったな
0019人間七七四年2011/08/07(日) 13:24:33.84ID:zd38BlLF
大陸に鼎を持とうとして腰を折った王だか皇帝がいたよな
0020人間七七四年2011/08/07(日) 15:20:48.83ID:/OD7HNgu
つか悪久のおかげで秀さん助かったのか。いい奴じゃないか悪久
嫁とのあれこれでDQN扱いだが、実はああしても仕方ない事情があったと違うか
0021人間七七四年2011/08/07(日) 15:34:57.80ID:Lk/DsDSX
施政者としてはいいんじゃないか
一部家中についてはアコギで近世化のやり方としては強引かもだけど、
領民を苦しめていたりはしていないんじゃ?
0022人間七七四年2011/08/07(日) 17:20:42.63ID:KHi948p1
>>19
秦の武王だったっけ?
策士の張儀を毛嫌いしてたし、男らしいよね
0023人間七七四年2011/08/07(日) 18:41:37.00ID:8hjGYwD0
単に骨折しただけじゃなくてそれが基で若死にして国が乱れちゃったからな
軽率の謗りは避けられん
0024人間七七四年2011/08/07(日) 18:44:09.58ID:ATvjPugI
>>21
家久と細川忠興は一部をネタにして大げさにしてる
0025人間七七四年2011/08/07(日) 19:00:00.42ID:rqE5heeK
悪さんは、季節外れに「これから茶を植えたいから茶の実を持ってこい」と言う無茶な命令に、侏儒ドンとあだ名される薩摩の知恵者が「連れてきました
この婆さんが、我が郷で一番の茶飲みです」ととんちで答えたら、罰することなく済ませたりしてるしね
そもそも、季節外れの時期に茶の実を持ってこいと言うな、という突っ込みはしない方向でよろしく
0026人間七七四年2011/08/07(日) 21:29:35.40ID:VVU32IOu
アニメの一休さんで将軍様が突然狩りをするから近隣の百姓に獲物を集めさせろと例によって
わがまま言いだして困った新右衛門さんがこれまた例によって一休さんに助けを求めたら
百姓たちをそれぞれ鎌とか鍬を持ってこさせて「これが彼らの『得物』です」と答えて
やりこめた話を思い出した。これも元ネタがあるんだろうなあ
0027人間七七四年2011/08/08(月) 13:30:33.50ID:mRuPZpwu
ちょっといい男(性的な意味での話ありますか?
0028人間七七四年2011/08/08(月) 15:17:14.10ID:uTGcN1aw
永禄7年(1564)正月11日、三河一向一揆、上和田の戦いでのことである。

一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。
しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。
この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。

さて、その時

一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。
彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ

「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、
それを助けないというのは不本意というものではないか!
もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」

土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。

突然に裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、
ついに危機から脱出する。

土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。

戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。
そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。

家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。

一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、
土屋重治についての逸話である

(徳川実紀)
0029人間七七四年2011/08/08(月) 18:12:33.53ID:R6zgO21k
死に損だよな?
0030人間七七四年2011/08/08(月) 18:29:43.68ID:qipLCUJJ
そもそもそれだけの忠心があるのなら一揆に参加するなよと
まあ複雑な心境だったんだろうけどさ
0031人間七七四年2011/08/08(月) 19:04:12.30ID:kXLIvt+k
主君救ったのが死に損だったら、死に損じゃない討ち死に探すのは難しくないか?
まあ、だったら最初から一揆側につくなよというのはあるかもしれないけど
信仰ってのは難しいからなあ
0032人間七七四年2011/08/08(月) 19:49:57.15ID:/8Bv8BFK
身内を取り立てたとかはないの?
墓だけで済ましたのか?
0033人間七七四年2011/08/08(月) 19:54:27.38ID:JDPturvg
身内は一揆勢に居て死んでるんじゃね?
0034人間七七四年2011/08/08(月) 21:29:23.99ID:9NWWZRhY
後の四万五千石である
0035人間七七四年2011/08/08(月) 21:43:45.45ID:6nC3OKPw
こういう三河武士的な話、やっぱりいいなあ
頑固で陰険で閉鎖的って欠点込みでもそう思う
0036人間七七四年2011/08/08(月) 22:24:25.61ID:CdzVoE2n
なんか三河のめんどくさい人達の話を聞いていると
徳川家というより家康個人に忠誠を誓っているように見える人が多い希ガス
人質時代から一緒に苦労した人とかなのか?
0037人間七七四年2011/08/08(月) 22:47:13.97ID:OWs3tzcB
話がそれてすまんがやっぱ足利の三河軍団もそんな連中だったんかねえ?
0038人間七七四年2011/08/09(火) 02:47:38.88ID:Togfk+uu
>>37
三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。

というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw
0039人間七七四年2011/08/09(火) 10:24:22.68ID:eQJaVZCO
三河一向一揆って

家康本陣と対決

主君に弓は向けられねえ!

なんだか三河者らしい行動に出る

がテンプレになってるよな。
0040人間七七四年2011/08/09(火) 17:30:39.76ID:csQRiIQs
『戦国武士は「恩の死はせねど、情の死はする」といって、
知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋

前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど
0041人間七七四年2011/08/09(火) 18:39:22.74ID:V+frVMj+
必死で敵に立ち向かう家康を見て、はたと目が覚めたんだろうか。
俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。
0042人間七七四年2011/08/09(火) 19:08:14.13ID:6yE62ni4
一揆に参加することで門徒としての筋を通し、主君をかばって死ぬことで家臣としての筋を通した。ということか。
0043人間七七四年2011/08/09(火) 23:15:40.33ID:mKoL+rOT
一揆に参加することで主君を裏切り、主君をかばって死ぬことで門徒として中途半端。ということでもある。
0044人間七七四年2011/08/09(火) 23:17:39.71ID:csQRiIQs
理屈だけで生きられる人間はいない
0045人間七七四年2011/08/09(火) 23:25:44.75ID:RbH50BIh
逆に一向一揆を潰す為の埋伏の毒だったのだと考えればいい
家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
0046人間七七四年2011/08/09(火) 23:26:41.62ID:Togfk+uu
徳川家康が未だ竹千代と呼ばれ、駿府で人質生活を送っていた頃のことである。

ある日竹千代は駿府の大祥寺という禅寺に、20羽程の鶏が走り回っているのを見て、
そこの僧に

「あの中から1羽貰えないだろうか?」

と尋ねる。するとこの僧

「どうぞどうぞ。1羽と言わず全部でも差し上げますよ!
全くこいつらは、菜園を荒らす困った連中なのですが、勝手に生まれ育ってしまい、
しかたなくこのように飼っているのです。」

と、心底困ったように答えた。
竹千代はこれを聞いて笑いつつ

『ああ、この僧は鶏卵を食べるということをしないのだ』

と、心のなかで感心した。

のち、竹千代が徳川家康と名乗り、駿河も支配するようになったころ、
家康はこの僧を召し出し、殊勝な者であるとして寺領を寄進したそうである。
(徳川実紀)

そんな、竹千代と鶏と僧侶のお話
0047人間七七四年2011/08/10(水) 00:53:22.76ID:oPuZlGL1
家康さんの記憶力と賞罰のさじ加減の絶妙さは相変わらずパネェな
0048人間七七四年2011/08/10(水) 01:15:06.49ID:QKfHhj5l
決められた事を当たり前のように守れる人は尊敬できる。
平和な現代ですら、信号を守れなかったり人の物を勝手に取ったりする人が多いのに
社会全体が荒れてた当時にして、当たり前のように戒律を守れてるこの僧は偉いと思う
0049人間七七四年2011/08/10(水) 01:27:51.75ID:IagGc+WZ
この頃に鶏卵を食べる食文化が定着してたのかは知らないが
卵食べる事でしか間引くって思考が成り立ってない時点で鶏自体を食べる食文化は無いよな
竹千代は鶏を貰って何をしたかったのだろうか
0050人間七七四年2011/08/10(水) 02:01:56.91ID:oPuZlGL1
少なくとも、卵食わない僧が殺生するわけないやん。
0051人間七七四年2011/08/10(水) 02:11:12.88ID:2aWrYBAY
>49
家康の少年時代だし、鷹の代わりに飼うつもりだったのかもしれない
0052人間七七四年2011/08/10(水) 02:12:55.91ID:xiojDyaQ
まあこの時代鶏というと闘鶏だな。
0053人間七七四年2011/08/10(水) 02:20:02.93ID:7jJ+1hSY
この時代にも野良鶏がいたのか
0054人間七七四年2011/08/10(水) 03:52:12.84ID:aJICWtWQ
>>51
ハムテルみたい
0055人間七七四年2011/08/10(水) 05:05:36.67ID:IagGc+WZ
>>52
龍王丸「どうだ竹千代この鶏は横綱級だぜ」
孕石「可哀相ですよ龍王丸、コイツんち貧乏だから鶏なんて持って無いんですよ」
竹千代「…鶏くらい持ってるよ」
龍王丸「じゃあ今度お前と俺の鶏で闘鶏しようぜ」
そして20羽の鶏で龍王丸の鶏を八つ裂きにしてギャフンと言わせた訳か…
そう考えると僧への恩賞は妥当だな
0056人間七七四年2011/08/10(水) 12:10:02.96ID:tWE7rq+K
戦の最中に寺かどっかに泊まって
「初めに鶏が鳴いたら起こせ」って命じて、
やたら早く鳴いたけどそれで起きたのが勝利のきっかけ
だったって話無かったっけ?
0057人間七七四年2011/08/10(水) 12:26:58.67ID:YRGpQ71L
無名〜小大名だとやっぱり美談って作られもしないのかな
0058人間七七四年2011/08/10(水) 12:31:17.74ID:DPHMhRrZ
美談が作られるのは徳川系大名に多いね、支配者側だから当然か
0059人間七七四年2011/08/10(水) 14:32:38.51ID:eUwDCpG6
>>54
同じこと思ったw
鷹匠に憧れて訓練したら超凶暴ニワトリに…
0060人間七七四年2011/08/10(水) 15:44:43.82ID:iuiiTAk2
>>57
作られても知られてないのでは
無名だけに
0061人間七七四年2011/08/10(水) 16:02:40.81ID:MjsPKO0q
もしも小大名だったら、、、【和気藹々1】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l15
戦国〜江戸期の独立系小大名に関するスレです。

命をかけて籠を護る、20人ばかりの大名行列とか
数人の腰元が奥の全てを執り行うとか楽しくね?
0062人間七七四年2011/08/10(水) 17:15:41.65ID:dGbiFb6G
別にいい話じゃないけど小ネタ

佐賀藩といえばまず浮かぶのは有名な化け猫騒動だろう
じゃあその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂自身はネコをどう思っていたのだろうか
それが意外にも高くかっていたようだ

鍋島直茂「ネコほど重宝なものはない。家のネズミを防ぐためならどんな工夫をするよりも
       良いネコを連れてくるのが一番だ」
0063人間七七四年2011/08/10(水) 23:03:31.30ID:DPId/KRA
>>62
あら意外 確かにうちも猫飼ってる時期にねずみ見たことない 猫は重宝する動物だよね
しかしそれなのに、今も鍋島藩士の子孫の人は猫飼ってないんだってね

これだけじゃなんなので、徳川秀忠のいい話 wikiにもあったのでその文を抜粋

大坂の陣の後のことであるが、弟・徳川義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり
周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。

秀忠は小さい頃に、暴れ牛が入ってきても微動だにしなかったらしいから
終始沈着冷静な人物だったのかな でも時々短気だけど
0064人間七七四年2011/08/10(水) 23:18:04.45ID:QKfHhj5l
秀忠は戦がらみの話を見る限り、冷静な人とは思えないんだが……
突然の事態には強い人なんだろうか。
指揮官として軍勢を率いるより、小隊を率いた方が才能を発揮するタイプだったのかも?
0065人間七七四年2011/08/10(水) 23:20:56.88ID:DPId/KRA
惜しむらくは、その機会に恵まれなかったのがね いきなり大軍の将任されてるし
その前に参加した戦いって、初陣の小田原の役くらい? 
秀忠は名君であっても名将ではないんだよなあw でもそういうギャップ込みで秀忠好きなんだけど
0066人間七七四年2011/08/11(木) 00:56:53.07ID:T78i7rQ+
早い時期に生まれていれば戦の面でも才能を発揮できていたのかも
0067人間七七四年2011/08/11(木) 03:06:11.14ID:SAjhFFYa
秀忠は今までの逸話見る限りじゃ鋭利な能吏的イメージが強いな
あまり将軍様って感じじゃないや
0068人間七七四年2011/08/11(木) 03:55:55.20ID:Ayx5XGqg
前田利家はある時、若い衆を集めて語った。

「昔、織田家と斎藤家が争っていたときの事だ。
 夏の夕暮れ時に両軍が睨み合って居ったのだが、
 織田家の佐久間久右衛門という剛の者が近くに居った者達に『田を結べ、田を結べ』と囁いたのだ。
 言われた連中も了解して敵に怪しまれぬように槍を持ったまま稲を結んで12間ほど引き下がった。
 間も無く、斎藤方の兵が突進してきたのだが稲に躓いて、たちまち15人ほど討ち取られてしまった。
 これに参った斎藤方はこれより50日は兵を出さなかったとさ。
 ・
 ・
 ・
 と、さて、ここまで語っておいて何だがな、お前達、こういう話はうっかり聞くようなもんじゃないぞ。」
0069人間七七四年2011/08/11(木) 08:16:27.84ID:BdJKr394
間抜けな戦争w
0070人間七七四年2011/08/11(木) 09:50:43.64ID:2hBMj8Eh
間抜けだけど今から敵方をヒャッハーするぜってテンションあげている時にこんなのあったら普通に引っかかると思う
0071人間七七四年2011/08/11(木) 16:34:24.91ID:6ayPABIR
>>68
途中で脱落してたら
「大将の話最後まで聞けコラ。最近の若いもんはry」
とみせしめに串刺しだったとオモ
0072人間七七四年2011/08/11(木) 21:59:35.79ID:BC0UACuH
「細川越中殿ご内室、大坂屋敷にて自害!」
「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。

そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。

常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。

御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。

機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)

この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html

かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。
0073人間七七四年2011/08/11(木) 22:33:27.15ID:IAMtFCWD
1541年、少弐家に仕える竜造寺家は、肥前国小城を拠点とする千葉胤連と主家を結びつけて
日之江城城主の有馬家に対抗する事を画策した。この方針の下、竜造寺家の重臣だった鍋島家の
次男坊は、4歳で胤連の養子となった。事実上の人質であり、小城に来て間もない頃、胤連から

「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」

とこの少年に尋ねたが、

「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。」

と大人びた返答をした。これを聞いて大物になるだろうと確信した胤連に、この少年は大切に育てられ、
家臣や領地まで与えられたという。この少年は後に竜造寺家を背負って立つ事になる鍋島直茂である。

鍋島直茂4歳頃の逸話である。
0074人間七七四年2011/08/12(金) 04:40:47.82ID:GonQ/GCT
ひねておるなw
0075人間七七四年2011/08/12(金) 12:43:34.73ID:xXOg0fub
>>72
なんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね
0076人間七七四年2011/08/12(金) 13:05:00.53ID:nhM7i+8j
>>73
養子に入る時にその心得とかは言い聞かせられてはいたんだろうが、この問いに対して
この答えは、単に言いつけを守るだけじゃなくちゃんと意味を理解してないと出てこないもんな。
0077人間七七四年2011/08/12(金) 21:16:06.19ID:kvYsXv6g
>>72
中山さん可愛いなw こういう緊張の場を解きほぐせる人って貴重だよね
0078人間七七四年2011/08/13(土) 00:03:59.78ID:Hiaz1mgo
紀州守護、畠山尚順が野辺氏を改易しようとしたところ、野辺氏はこれに反抗し自らの紀州平須山城に立て篭もった。
畠山尚順はこれを討伐せんと河内に居た息子の稙長に使いを出し、守護代遊佐長教を派遣させ自らも出陣した。
一方の平須山城方にも日高地方に勢力を誇った湯河直光一党が応援に入った。
この湯河氏の一族に業阿弥という法師が居たのだが、この男が一策を献ずる。

業阿弥「私が河内からの使者と偽り、本陣に入り込み畠山尚順を討ち取りましょう。」

かくして、業阿弥は使者に化けて、易々と本陣に入り込むことが出来たのだが、問題が一つあった。

業阿弥「いずれが畠山尚順か・・・」

業阿弥は畠山尚順の面体を知らなかったのである。
しかしながら、業阿弥は床机に腰をかけ兵に指示を与えている者に目をつけた。

業阿弥「(この者が尚順に違いなかろう)こちらが河内からの書状にございます。」

と、書状を渡すが、その者は尚順ではなく遊佐長教であった。
そうとは知らず、業阿弥は長教が書状を開いた隙を狙い、二の太刀まで斬りつけたものの、
頭を丸め、鎧の上に僧服を着ていた尚順に後ろから斬られ、その場で絶命した。
業阿弥は倒れても目を見開き長教を睨み続けており、陣中の者もなんと名誉な勇士かと感嘆し
業阿弥の血を指につけ嘗める者まで居たという。

尚順は無傷であったが、実際に采配を取り仕切っていた長教が重傷を負った畠山方の動揺は相当なものであった。
さらに、そこに城方が夜襲をかけて来た為、尚順も長教もそれぞれの本拠に撤退せざるを得なくなったのである。
0079人間七七四年2011/08/13(土) 20:45:54.68ID:rqi45c4P
>>78
最後まで使命を果たそうとするとはあっぱれ。
写真やらがないこの時代、人の識別とかは苦労したんだろうなぁ。
0080人間七七四年2011/08/13(土) 21:51:14.60ID:GYOAaQo2
戦国最後の徒花、大坂夏の陣も果てたその日の夕暮れ。徳川秀忠は、旗本の今村伝四郎を呼んだ。

「お前は本日、兜首を二つ取ったそうではないか。」
「・・・はっ。」
「だが首帳では、お前の武功は“首一つ”と記録されている。これでは手柄の立て損ではないか。
なぜ正しく申し出ぬ?」

「実は拙者、本日真っ先を駆けましたが、早々に乗馬が鉄砲に当たりまして。」
「ほう。」

「徒歩で戦う拙者を見て、青山忠俊殿配下の近藤忠右衛門殿が、『良く働くのう。わしの馬を使え。』
と、乗っていた葦毛の馬を貸して下さいました。再び乗馬を得た拙者は、首尾良く敵を一人討ち取ることが
出来ましたが、その後下馬して戦っているうちに、馬を敵に盗まれてしまいました。

借りた馬を盗られた拙者は、『取り返さずば、生きて戻らず』と思い定め、取った首を近藤殿に預けて
徒歩で敵中深く分け入ったところ、幸運にも馬盗人を見つけ、これをも討ち取ることが出来ました。」
「ふむ。」

「ですが徒歩で首を取れたという事は、馬を借りずとも首を取れたという事。逆に近藤殿は、馬があれば
首を取れたやも知れませぬ。ゆえに、その首を近藤殿の物とし、首帳には記しませんでした。」


「誰かある。明かりを持てい!!」
運び込まれた燭台を手に取った秀忠は、伝四郎を呼び寄せた。

「もっと近う寄れ!お前のような真の強者はな、こうやって良く顔を見覚えておくべきなのだ。」
“首一つ”の男は旗本多くある中で、大いに面目を施した。(徳川実紀より)

今村伝四郎正長、ときに二十六歳。家康が若武者たちの不甲斐無さを嘆いたと言われる大坂の陣だが、
武士の誇りも意地も、そしてそれを遇する心もまだ生きていた、そんなお話。
0081人間七七四年2011/08/13(土) 22:00:13.40ID:kC6Ww9zJ
安心・安定の秀忠クオリティだな
0082人間七七四年2011/08/13(土) 22:16:45.12ID:BP8twgTw
今村さんかっけえ…自分のこともそうだが、相手のことも考える武士って最高だよね
そして秀忠もちゃんと評価してくれる人なんだよなあ そこんところは家康譲りか
0083人間七七四年2011/08/14(日) 21:34:58.09ID:LJCDN4Pi
いかにも恥を知ってる武士って感じだな。心根が卑しくない
こういう振る舞いは源平・南北朝の武士は真似できないね。あいつらなら100%首二つと申告する
0084人間七七四年2011/08/14(日) 21:37:26.58ID:ShiRuC79
その場合は、どっかでもう一つ首とってきて帳尻くらいは合わせるさ
0085人間七七四年2011/08/14(日) 21:50:08.63ID:DhcnHnMb
今村伝四郎正長か、地元近くのマイナー偉人の登場だ
下田奉行を長く勤めた人で、文官っぽいイメージを持っていたけど
武勇も優れていたんだな
0086人間七七四年2011/08/15(月) 00:22:29.49ID:BeXho3SF
家康だったら首2以上の評価はしても首3以上の評価はしないだろうな
そうじゃ無いと普段から首3以上取ってる人間がやってらんねぇってなるから
秀忠は普段厳しい癖に人柄に惚れたらホイホイやっちゃう感じがある
それで古参連中から相当妬まれた坊さんとか剣術家とか御書院番頭とかいるし
0087人間七七四年2011/08/15(月) 00:36:27.25ID:PIq/ftzB
鍋島直茂が息子の勝茂と共に毛利輝元の屋敷に招待された時の事である。宴席で勝茂は輝元に

「勝茂殿、この場で謡(うたい)を披露して貰えぬか?」

と求められたが、「・・・・・・」

全く謡おうとはしなかった。見かねた直茂が

「そ、某が代わりに謡いまする!!」

と謡い出した為、その場はしらけずにすんだものの、屋敷に戻った勝茂は

「父上の謡が可笑しくてしょうがなかった。」

と母の陽泰院に語ったのである。すると陽泰院は

「そなたが謡わないからじゃ。」

と叱責し、直茂も家臣を通じて、

「こういう時の為に稽古しているのだから、以後あの様な事がない様にせよ。」

とたしなめたのだった。 息子のフォローにまわった直茂のいい話。

ちなみに、勝茂には笑われた直茂だったが、輝元からは

「田舎者だと思っていたが、礼儀を知っている。」

と以外にも賞賛されたという。


0088人間七七四年2011/08/15(月) 00:38:25.97ID:RtKDHikd
これは勝茂の悪い話でもいいんじゃねーのw
0089人間七七四年2011/08/15(月) 00:50:48.29ID:LNrrdclm
何で歌わなかったんだろう勝茂 輝元嫌いだったの?
0090人間七七四年2011/08/15(月) 01:07:35.81ID:EAmhqRYT
いきなり歌えといわれても、素面だったり気が乗らなかったりしてると
難しいと思うなー
0091人間七七四年2011/08/15(月) 01:07:54.62ID:TpO4hKBC
カラオケが嫌いだったんだよ
0092人間七七四年2011/08/15(月) 01:10:57.24ID:8bNDRU9e
謡いみたいな芸者の業って賤しいこととされてたからじゃね
0093人間七七四年2011/08/15(月) 01:49:38.73ID:g8QnWfFG
カラオケ歌いたくないから歌わなかったら礼儀しらずで、
それをフォローしたら立派だと誉められる。
人間関係は現代とかわらないな。
悪い意味でめんどくさい
0094人間七七四年2011/08/15(月) 02:09:55.86ID:BeXho3SF
直茂「息子に敢えて社交辞令を教えず宴会に誘う事で俺の覚えもよくなり息子も教育できて一石二鳥、輝元と息子と面目?はて…」
0095人間七七四年2011/08/15(月) 09:38:46.12ID:VMYCWJ+0
>>92
室町以降の謡(というか能)は他の芸より一段上の扱いを受けていて
直茂も習っていいる様に基礎教養の一つくらいの認識だった。
0096人間七七四年2011/08/15(月) 10:39:49.94ID:iqE/T8aC
直前に史記で趙の恵文王と秦の昭襄王が会見する話を読んじゃったんじゃね?
0097人間七七四年2011/08/15(月) 10:49:47.28ID:WVXmKLRL
歌えと言われて歌ったら芸人みたいでかっこ悪いじゃん?
0098人間七七四年2011/08/15(月) 11:25:19.98ID:g8QnWfFG
この場では直茂と輝元の価値観が一致したけど、
勝茂の行動を評価する武将もたくさんいそう
0099人間七七四年2011/08/15(月) 13:32:22.17ID:OQg08i8C
屋敷に招待されてるのに気の利いた頓知も無く黙って拒否るだけじゃ誰も好評価せんよ
おまけに直茂はワザと謡の下手なふりして場を和ませたんじゃないかと思う
0100人間七七四年2011/08/15(月) 14:17:33.52ID:8bNDRU9e
でも輝元と勝茂って立場的にはそんなに変わらないわけだろ
将軍家ならともかく、輝元程度のご機嫌伺いなんてできるかとでも思ってたんだろう
0101人間七七四年2011/08/15(月) 14:21:51.46ID:vOpK5owu
だとしたらつまらない意地をはって宴をぶち壊しにしかけ
さらに後始末を親に丸投げした悪い話にならないか。
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