戦国ちょっといい話28
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0001人間七七四年
2011/08/04(木) 21:20:45.23ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002*
2011/08/04(木) 21:29:29.46ID:1FE8Acpw0004人間七七四年
2011/08/05(金) 00:34:49.08ID:fHsnbfjJタイムスクープハンター「髪結いちょんまげ騒動記」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1312455261/
0006人間七七四年
2011/08/05(金) 09:40:36.65ID:JBrn15IF〒 ! + 。 + 。 * 。
+ 。 | |
* + / / イヤッッホォォォオオォオウ!
∧_∧ / /
(´∀` / / + 。 + 。 * 。
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/ ュヘ | * + 。 + 。 +
〈_} ) |
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ガタン ||| j / | | |||
0007人間七七四年
2011/08/05(金) 20:10:57.23ID:uSfP1kRp0008人間七七四年
2011/08/05(金) 20:55:35.96ID:UJFAqzzJ∧ ∧
( ´・ω・)
( つ旦O
と__)__) 旦
福島原発産放射性汚染水油入り
0010人間七七四年
2011/08/06(土) 22:17:13.33ID:vHAMXvP6関東地方から上洛の途上だった榊原康政は、伏見城下にいた家康を三成が襲撃を計画している事を知り、
昼夜を問わない行軍で近江国瀬田までたどり着いた。そこで家康がまだ無事である事を知ると、
関所を設けて3日間京への通行を禁じた。その理由は足止めされた旅人と共に進軍し、敵に大軍だと思わせる事が目的だった。
さらに、京に入った康政は蔵から多額の資金を取り出して、兵達に
「徳川軍6万人分の兵糧が必要だ。」
と言いふらしながら京周辺の商店の食料を買い占める様に指示した。結果、市中には
「徳川軍は数十万の軍勢で上洛している。」
という噂が流れ、三成は襲撃を中止し、康政もその知略を称えられたと言う。
榊原康政、噂で家康を守ったいい話。
0011人間七七四年
2011/08/07(日) 06:12:28.52ID:UWhz9p3U地侍だった人が重臣の家来に殺されてしまった…家族が頭に来た
重臣は金銀をわけあたえた。
戦国ならではの美談だね
0012人間七七四年
2011/08/07(日) 06:14:33.65ID:xAA5//Th0015人間七七四年
2011/08/07(日) 11:42:23.21ID:+jQ4VG/v0016人間七七四年
2011/08/07(日) 11:49:18.07ID:kKQGHti+詫びいれて懐柔をしようとしたらクレーマーだったでござるって話だからな
やりすぎではあるけど究極のクレーマー対策ではある
0017人間七七四年
2011/08/07(日) 12:10:31.89ID:5E8nqrEV近臣の玉川伊予守義則を譲った。
備前中納言に仕えて上方で武芸百般を修め、馬術・弓術の名手である義則は、たちまち忠恒の寵臣となった。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2333.html)
しかし血気に逸る島津家の若侍たちは、主君の近くに侍る上方武士に白い目を向けた。
ある時、菩提寺の福昌寺へ参拝した忠恒のお供をした義則は、同じくお供の若侍たちに絡まれた。
「山門の脇に、大きな石灯籠がござったな。あの灯籠を、持ち上げてみて下されや。」
さすがの義則も、これには難を示した。
「あの大灯籠を持ち上げるのは、なかなか容易ではござるまい。」
「ふん!上方育ちの、行跡柔和なることよ。」
「・・・そこまで言われては、やらざるを得ませんな。」
やむなく義則は、大灯籠に取り掛かった。「ぬおぉぉおお―――――――――――――――っ!!!」
“歯噛をなし持被候へば、冬の事にて候に、足の指の又より血朱になりてみえし”と薩藩旧伝集が記す
恐ろしい形相になりながら、義則は灯籠を持ち上げる事に成功し、安堵した。
「よ、良かった・・・本当に良かった・・・」
「・・・ほ、ほんに良かったのう!これで貴殿の面目も立ったわけじゃ。」
「わしが『良かった』と申したのは、その事ではない。おぬしらの事じゃ。
持ち損じたならば、恥じて我が身を処するのはもちろん、わしを挑発し、恥を見届けたおぬしらを
ただでは置かぬところであった。余計な血を見ず済んだゆえ、『良かった』と申したのよ。
向後このような試しは、互いのために無用に願いたい。」
若侍たちは深く悔い、その後、義則を白い目で見る者はいなくなったという、
泳いで参った人の旧臣、薩摩隼人に意地を見せた話。
0018人間七七四年
2011/08/07(日) 12:26:47.09ID:Yaf95qM80019人間七七四年
2011/08/07(日) 13:24:33.84ID:zd38BlLF0020人間七七四年
2011/08/07(日) 15:20:48.83ID:/OD7HNgu嫁とのあれこれでDQN扱いだが、実はああしても仕方ない事情があったと違うか
0021人間七七四年
2011/08/07(日) 15:34:57.80ID:Lk/DsDSX一部家中についてはアコギで近世化のやり方としては強引かもだけど、
領民を苦しめていたりはしていないんじゃ?
0023人間七七四年
2011/08/07(日) 18:41:37.00ID:8hjGYwD0軽率の謗りは避けられん
0025人間七七四年
2011/08/07(日) 19:00:00.42ID:rqE5heeKこの婆さんが、我が郷で一番の茶飲みです」ととんちで答えたら、罰することなく済ませたりしてるしね
そもそも、季節外れの時期に茶の実を持ってこいと言うな、という突っ込みはしない方向でよろしく
0026人間七七四年
2011/08/07(日) 21:29:35.40ID:VVU32IOuわがまま言いだして困った新右衛門さんがこれまた例によって一休さんに助けを求めたら
百姓たちをそれぞれ鎌とか鍬を持ってこさせて「これが彼らの『得物』です」と答えて
やりこめた話を思い出した。これも元ネタがあるんだろうなあ
0027人間七七四年
2011/08/08(月) 13:30:33.50ID:mRuPZpwu0028人間七七四年
2011/08/08(月) 15:17:14.10ID:uTGcN1aw一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。
しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。
この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。
さて、その時
一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。
彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ
「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、
それを助けないというのは不本意というものではないか!
もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」
土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。
突然に裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、
ついに危機から脱出する。
土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。
戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。
そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。
家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。
一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、
土屋重治についての逸話である
(徳川実紀)
0029人間七七四年
2011/08/08(月) 18:12:33.53ID:R6zgO21k0030人間七七四年
2011/08/08(月) 18:29:43.68ID:qipLCUJJまあ複雑な心境だったんだろうけどさ
0031人間七七四年
2011/08/08(月) 19:04:12.30ID:kXLIvt+kまあ、だったら最初から一揆側につくなよというのはあるかもしれないけど
信仰ってのは難しいからなあ
0032人間七七四年
2011/08/08(月) 19:49:57.15ID:/8Bv8BFK墓だけで済ましたのか?
0033人間七七四年
2011/08/08(月) 19:54:27.38ID:JDPturvg0034人間七七四年
2011/08/08(月) 21:29:23.99ID:9NWWZRhY0035人間七七四年
2011/08/08(月) 21:43:45.45ID:6nC3OKPw頑固で陰険で閉鎖的って欠点込みでもそう思う
0036人間七七四年
2011/08/08(月) 22:24:25.61ID:CdzVoE2n徳川家というより家康個人に忠誠を誓っているように見える人が多い希ガス
人質時代から一緒に苦労した人とかなのか?
0037人間七七四年
2011/08/08(月) 22:47:13.97ID:OWs3tzcB0038人間七七四年
2011/08/09(火) 02:47:38.88ID:Togfk+uu三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。
というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw
0039人間七七四年
2011/08/09(火) 10:24:22.68ID:eQJaVZCO家康本陣と対決
↓
主君に弓は向けられねえ!
↓
なんだか三河者らしい行動に出る
がテンプレになってるよな。
0040人間七七四年
2011/08/09(火) 17:30:39.76ID:csQRiIQs知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋
前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど
0041人間七七四年
2011/08/09(火) 18:39:22.74ID:V+frVMj+俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。
0042人間七七四年
2011/08/09(火) 19:08:14.13ID:6yE62ni40043人間七七四年
2011/08/09(火) 23:15:40.33ID:mKoL+rOT0044人間七七四年
2011/08/09(火) 23:17:39.71ID:csQRiIQs0045人間七七四年
2011/08/09(火) 23:25:44.75ID:RbH50BIh家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
0046人間七七四年
2011/08/09(火) 23:26:41.62ID:Togfk+uuある日竹千代は駿府の大祥寺という禅寺に、20羽程の鶏が走り回っているのを見て、
そこの僧に
「あの中から1羽貰えないだろうか?」
と尋ねる。するとこの僧
「どうぞどうぞ。1羽と言わず全部でも差し上げますよ!
全くこいつらは、菜園を荒らす困った連中なのですが、勝手に生まれ育ってしまい、
しかたなくこのように飼っているのです。」
と、心底困ったように答えた。
竹千代はこれを聞いて笑いつつ
『ああ、この僧は鶏卵を食べるということをしないのだ』
と、心のなかで感心した。
のち、竹千代が徳川家康と名乗り、駿河も支配するようになったころ、
家康はこの僧を召し出し、殊勝な者であるとして寺領を寄進したそうである。
(徳川実紀)
そんな、竹千代と鶏と僧侶のお話
0047人間七七四年
2011/08/10(水) 00:53:22.76ID:oPuZlGL10048人間七七四年
2011/08/10(水) 01:15:06.49ID:QKfHhj5l平和な現代ですら、信号を守れなかったり人の物を勝手に取ったりする人が多いのに
社会全体が荒れてた当時にして、当たり前のように戒律を守れてるこの僧は偉いと思う
0049人間七七四年
2011/08/10(水) 01:27:51.75ID:IagGc+WZ卵食べる事でしか間引くって思考が成り立ってない時点で鶏自体を食べる食文化は無いよな
竹千代は鶏を貰って何をしたかったのだろうか
0050人間七七四年
2011/08/10(水) 02:01:56.91ID:oPuZlGL10051人間七七四年
2011/08/10(水) 02:11:12.88ID:2aWrYBAY家康の少年時代だし、鷹の代わりに飼うつもりだったのかもしれない
0052人間七七四年
2011/08/10(水) 02:12:55.91ID:xiojDyaQ0053人間七七四年
2011/08/10(水) 02:20:02.93ID:7jJ+1hSY0055人間七七四年
2011/08/10(水) 05:05:36.67ID:IagGc+WZ龍王丸「どうだ竹千代この鶏は横綱級だぜ」
孕石「可哀相ですよ龍王丸、コイツんち貧乏だから鶏なんて持って無いんですよ」
竹千代「…鶏くらい持ってるよ」
龍王丸「じゃあ今度お前と俺の鶏で闘鶏しようぜ」
そして20羽の鶏で龍王丸の鶏を八つ裂きにしてギャフンと言わせた訳か…
そう考えると僧への恩賞は妥当だな
0056人間七七四年
2011/08/10(水) 12:10:02.96ID:tWE7rq+K「初めに鶏が鳴いたら起こせ」って命じて、
やたら早く鳴いたけどそれで起きたのが勝利のきっかけ
だったって話無かったっけ?
0057人間七七四年
2011/08/10(水) 12:26:58.67ID:YRGpQ71L0058人間七七四年
2011/08/10(水) 12:31:17.74ID:DPHMhRrZ0061人間七七四年
2011/08/10(水) 16:02:40.81ID:MjsPKO0qhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l15
戦国〜江戸期の独立系小大名に関するスレです。
命をかけて籠を護る、20人ばかりの大名行列とか
数人の腰元が奥の全てを執り行うとか楽しくね?
0062人間七七四年
2011/08/10(水) 17:15:41.65ID:dGbiFb6G佐賀藩といえばまず浮かぶのは有名な化け猫騒動だろう
じゃあその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂自身はネコをどう思っていたのだろうか
それが意外にも高くかっていたようだ
鍋島直茂「ネコほど重宝なものはない。家のネズミを防ぐためならどんな工夫をするよりも
良いネコを連れてくるのが一番だ」
0063人間七七四年
2011/08/10(水) 23:03:31.30ID:DPId/KRAあら意外 確かにうちも猫飼ってる時期にねずみ見たことない 猫は重宝する動物だよね
しかしそれなのに、今も鍋島藩士の子孫の人は猫飼ってないんだってね
これだけじゃなんなので、徳川秀忠のいい話 wikiにもあったのでその文を抜粋
大坂の陣の後のことであるが、弟・徳川義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり
周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。
秀忠は小さい頃に、暴れ牛が入ってきても微動だにしなかったらしいから
終始沈着冷静な人物だったのかな でも時々短気だけど
0064人間七七四年
2011/08/10(水) 23:18:04.45ID:QKfHhj5l突然の事態には強い人なんだろうか。
指揮官として軍勢を率いるより、小隊を率いた方が才能を発揮するタイプだったのかも?
0065人間七七四年
2011/08/10(水) 23:20:56.88ID:DPId/KRAその前に参加した戦いって、初陣の小田原の役くらい?
秀忠は名君であっても名将ではないんだよなあw でもそういうギャップ込みで秀忠好きなんだけど
0066人間七七四年
2011/08/11(木) 00:56:53.07ID:T78i7rQ+0067人間七七四年
2011/08/11(木) 03:06:11.14ID:SAjhFFYaあまり将軍様って感じじゃないや
0068人間七七四年
2011/08/11(木) 03:55:55.20ID:Ayx5XGqg「昔、織田家と斎藤家が争っていたときの事だ。
夏の夕暮れ時に両軍が睨み合って居ったのだが、
織田家の佐久間久右衛門という剛の者が近くに居った者達に『田を結べ、田を結べ』と囁いたのだ。
言われた連中も了解して敵に怪しまれぬように槍を持ったまま稲を結んで12間ほど引き下がった。
間も無く、斎藤方の兵が突進してきたのだが稲に躓いて、たちまち15人ほど討ち取られてしまった。
これに参った斎藤方はこれより50日は兵を出さなかったとさ。
・
・
・
と、さて、ここまで語っておいて何だがな、お前達、こういう話はうっかり聞くようなもんじゃないぞ。」
0069人間七七四年
2011/08/11(木) 08:16:27.84ID:BdJKr3940070人間七七四年
2011/08/11(木) 09:50:43.64ID:2hBMj8Eh0071人間七七四年
2011/08/11(木) 16:34:24.91ID:6ayPABIR途中で脱落してたら
「大将の話最後まで聞けコラ。最近の若いもんはry」
とみせしめに串刺しだったとオモ
0072人間七七四年
2011/08/11(木) 21:59:35.79ID:BC0UACuH「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。
そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。
常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。
御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。
機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)
この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html)
かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。
0073人間七七四年
2011/08/11(木) 22:33:27.15ID:IAMtFCWD日之江城城主の有馬家に対抗する事を画策した。この方針の下、竜造寺家の重臣だった鍋島家の
次男坊は、4歳で胤連の養子となった。事実上の人質であり、小城に来て間もない頃、胤連から
「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」
とこの少年に尋ねたが、
「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。」
と大人びた返答をした。これを聞いて大物になるだろうと確信した胤連に、この少年は大切に育てられ、
家臣や領地まで与えられたという。この少年は後に竜造寺家を背負って立つ事になる鍋島直茂である。
鍋島直茂4歳頃の逸話である。
0074人間七七四年
2011/08/12(金) 04:40:47.82ID:GonQ/GCT0075人間七七四年
2011/08/12(金) 12:43:34.73ID:xXOg0fubなんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね
0076人間七七四年
2011/08/12(金) 13:05:00.53ID:nhM7i+8j養子に入る時にその心得とかは言い聞かせられてはいたんだろうが、この問いに対して
この答えは、単に言いつけを守るだけじゃなくちゃんと意味を理解してないと出てこないもんな。
0078人間七七四年
2011/08/13(土) 00:03:59.78ID:Hiaz1mgo畠山尚順はこれを討伐せんと河内に居た息子の稙長に使いを出し、守護代遊佐長教を派遣させ自らも出陣した。
一方の平須山城方にも日高地方に勢力を誇った湯河直光一党が応援に入った。
この湯河氏の一族に業阿弥という法師が居たのだが、この男が一策を献ずる。
業阿弥「私が河内からの使者と偽り、本陣に入り込み畠山尚順を討ち取りましょう。」
かくして、業阿弥は使者に化けて、易々と本陣に入り込むことが出来たのだが、問題が一つあった。
業阿弥「いずれが畠山尚順か・・・」
業阿弥は畠山尚順の面体を知らなかったのである。
しかしながら、業阿弥は床机に腰をかけ兵に指示を与えている者に目をつけた。
業阿弥「(この者が尚順に違いなかろう)こちらが河内からの書状にございます。」
と、書状を渡すが、その者は尚順ではなく遊佐長教であった。
そうとは知らず、業阿弥は長教が書状を開いた隙を狙い、二の太刀まで斬りつけたものの、
頭を丸め、鎧の上に僧服を着ていた尚順に後ろから斬られ、その場で絶命した。
業阿弥は倒れても目を見開き長教を睨み続けており、陣中の者もなんと名誉な勇士かと感嘆し
業阿弥の血を指につけ嘗める者まで居たという。
尚順は無傷であったが、実際に采配を取り仕切っていた長教が重傷を負った畠山方の動揺は相当なものであった。
さらに、そこに城方が夜襲をかけて来た為、尚順も長教もそれぞれの本拠に撤退せざるを得なくなったのである。
0079人間七七四年
2011/08/13(土) 20:45:54.68ID:rqi45c4P最後まで使命を果たそうとするとはあっぱれ。
写真やらがないこの時代、人の識別とかは苦労したんだろうなぁ。
0080人間七七四年
2011/08/13(土) 21:51:14.60ID:GYOAaQo2「お前は本日、兜首を二つ取ったそうではないか。」
「・・・はっ。」
「だが首帳では、お前の武功は“首一つ”と記録されている。これでは手柄の立て損ではないか。
なぜ正しく申し出ぬ?」
「実は拙者、本日真っ先を駆けましたが、早々に乗馬が鉄砲に当たりまして。」
「ほう。」
「徒歩で戦う拙者を見て、青山忠俊殿配下の近藤忠右衛門殿が、『良く働くのう。わしの馬を使え。』
と、乗っていた葦毛の馬を貸して下さいました。再び乗馬を得た拙者は、首尾良く敵を一人討ち取ることが
出来ましたが、その後下馬して戦っているうちに、馬を敵に盗まれてしまいました。
借りた馬を盗られた拙者は、『取り返さずば、生きて戻らず』と思い定め、取った首を近藤殿に預けて
徒歩で敵中深く分け入ったところ、幸運にも馬盗人を見つけ、これをも討ち取ることが出来ました。」
「ふむ。」
「ですが徒歩で首を取れたという事は、馬を借りずとも首を取れたという事。逆に近藤殿は、馬があれば
首を取れたやも知れませぬ。ゆえに、その首を近藤殿の物とし、首帳には記しませんでした。」
「誰かある。明かりを持てい!!」
運び込まれた燭台を手に取った秀忠は、伝四郎を呼び寄せた。
「もっと近う寄れ!お前のような真の強者はな、こうやって良く顔を見覚えておくべきなのだ。」
“首一つ”の男は旗本多くある中で、大いに面目を施した。(徳川実紀より)
今村伝四郎正長、ときに二十六歳。家康が若武者たちの不甲斐無さを嘆いたと言われる大坂の陣だが、
武士の誇りも意地も、そしてそれを遇する心もまだ生きていた、そんなお話。
0081人間七七四年
2011/08/13(土) 22:00:13.40ID:kC6Ww9zJ0082人間七七四年
2011/08/13(土) 22:16:45.12ID:BP8twgTwそして秀忠もちゃんと評価してくれる人なんだよなあ そこんところは家康譲りか
0083人間七七四年
2011/08/14(日) 21:34:58.09ID:LJCDN4Piこういう振る舞いは源平・南北朝の武士は真似できないね。あいつらなら100%首二つと申告する
0084人間七七四年
2011/08/14(日) 21:37:26.58ID:ShiRuC790085人間七七四年
2011/08/14(日) 21:50:08.63ID:DhcnHnMb下田奉行を長く勤めた人で、文官っぽいイメージを持っていたけど
武勇も優れていたんだな
0086人間七七四年
2011/08/15(月) 00:22:29.49ID:BeXho3SFそうじゃ無いと普段から首3以上取ってる人間がやってらんねぇってなるから
秀忠は普段厳しい癖に人柄に惚れたらホイホイやっちゃう感じがある
それで古参連中から相当妬まれた坊さんとか剣術家とか御書院番頭とかいるし
0087人間七七四年
2011/08/15(月) 00:36:27.25ID:PIq/ftzB「勝茂殿、この場で謡(うたい)を披露して貰えぬか?」
と求められたが、「・・・・・・」
全く謡おうとはしなかった。見かねた直茂が
「そ、某が代わりに謡いまする!!」
と謡い出した為、その場はしらけずにすんだものの、屋敷に戻った勝茂は
「父上の謡が可笑しくてしょうがなかった。」
と母の陽泰院に語ったのである。すると陽泰院は
「そなたが謡わないからじゃ。」
と叱責し、直茂も家臣を通じて、
「こういう時の為に稽古しているのだから、以後あの様な事がない様にせよ。」
とたしなめたのだった。 息子のフォローにまわった直茂のいい話。
ちなみに、勝茂には笑われた直茂だったが、輝元からは
「田舎者だと思っていたが、礼儀を知っている。」
と以外にも賞賛されたという。
0088人間七七四年
2011/08/15(月) 00:38:25.97ID:RtKDHikd0089人間七七四年
2011/08/15(月) 00:50:48.29ID:LNrrdclm0090人間七七四年
2011/08/15(月) 01:07:35.81ID:EAmhqRYT難しいと思うなー
0091人間七七四年
2011/08/15(月) 01:07:54.62ID:TpO4hKBC0092人間七七四年
2011/08/15(月) 01:10:57.24ID:8bNDRU9e0093人間七七四年
2011/08/15(月) 01:49:38.73ID:g8QnWfFGそれをフォローしたら立派だと誉められる。
人間関係は現代とかわらないな。
悪い意味でめんどくさい
0094人間七七四年
2011/08/15(月) 02:09:55.86ID:BeXho3SF0095人間七七四年
2011/08/15(月) 09:38:46.12ID:VMYCWJ+0室町以降の謡(というか能)は他の芸より一段上の扱いを受けていて
直茂も習っていいる様に基礎教養の一つくらいの認識だった。
0096人間七七四年
2011/08/15(月) 10:39:49.94ID:iqE/T8aC0097人間七七四年
2011/08/15(月) 10:49:47.28ID:WVXmKLRL0098人間七七四年
2011/08/15(月) 11:25:19.98ID:g8QnWfFG勝茂の行動を評価する武将もたくさんいそう
0099人間七七四年
2011/08/15(月) 13:32:22.17ID:OQg08i8Cおまけに直茂はワザと謡の下手なふりして場を和ませたんじゃないかと思う
0100人間七七四年
2011/08/15(月) 14:17:33.52ID:8bNDRU9e将軍家ならともかく、輝元程度のご機嫌伺いなんてできるかとでも思ってたんだろう
0101人間七七四年
2011/08/15(月) 14:21:51.46ID:vOpK5owuさらに後始末を親に丸投げした悪い話にならないか。
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