天正10年の武田攻めを語るスレ 3
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0001人間七七四年
2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68Tわずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0795人間七七四年
2011/12/30(金) 20:56:26.18ID:ke+CWghbお前ら時代を先取りしてておいらは安心だ。
大噴火対策を本格検討
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20111230ddm001040056000c.html
「平和な時代が続きすぎた。日本の火山は今後活発化する」。多くの火山学者の
共通した見方だ。小山氏は言う。「『3・11』で災害に想定外があることを
大きな犠牲を払って皆が理解した。確率が低くても規模や被害が非常に大きい
現象には備えが必要だ」
0797人間七七四年
2011/12/31(土) 15:33:04.17ID:y6Pp+Eo0簡単に息子殺すしw
まあ山梨を高速から見りゃこりゃダメだわとか解るけどな。
まあ精々信濃の佐久辺りで我慢して信長に臣従してれば保身が出来たはずなのにw
オヤジ追い出す→息子殺す→無駄な戦を何度も長野で→病気なのに無理に遠征
珍玄の実情は余りそう能力無いだろうさ
0798人間七七四年
2011/12/31(土) 16:04:42.79ID:gloeHvY/2012年2月号の日経サイエンスの地震の特集記事に富士山の活動の年表が出てるぞ(P42)参考にしてみてくれ。
これだと16世紀の初期に噴火してて、次の大噴火まで200年のスパンがあるな。
富士山の噴火と南海トラフや相模トラフの関連性が見られるから、天正期に巨大地震若しくは大地震の記録が出てくれば、武田攻めの時の武田の脆さの理由が見えてくるのかも。災害が滅亡の原因とするならばだけど。
ライトな歴史好きだが、自分の専攻分野(防災・地震)絡むと楽しいな。
0799人間七七四年
2011/12/31(土) 16:49:21.73ID:aEVH4OsC遠征前からすでに病の体だとするのは甲陽軍鑑のネタ。
実際には突然の容態変更による
急死に近かったのではないかと思われる。
0800人間七七四年
2011/12/31(土) 17:03:51.00ID:DN56EAjp0802人間七七四年
2011/12/31(土) 18:07:39.73ID:UYdQL6DB地震と噴火が同時に起こるとも限らんし、だいたいプレートの歪みによるエネルギーの蓄積が放出されまで時間差もあるから、
むしろ天正期だと狭すぎて俺のできる計算じゃあ、16世紀に噴火を引き起こす地震があったんじゃないかと言えるレベルで・・・
ごめん、引っ込みます。
0803死
2011/12/31(土) 18:20:49.09ID:PFSwDUDG下から山梨まで走ってもダメだこりゃって思うわw
あの地形じゃな
近畿地方も走ったけど美濃〜近江までは障害無かったぞ
0804人間七七四年
2011/12/31(土) 22:58:43.60ID:VckicZIK勝頼の防御構想は、北条や毛利と比べると酷すぎた。
織田の進入経路は、木曽谷、伊那、駿河方面と3つあるのに、
伊那方面と駿河方面しか固めず手落ちもいいところ。
挙げ句に新府城とか意味不明な立地。
どうせなら諏訪湖畔に巨大陣地でも造れば組織的な防衛ができた。
結局木曽谷抜かれて、伊那谷に集めた信濃衆は降伏、上野衆は天災か何かで逃亡。
勝頼とその側近たちには根本的に防衛の軍事センスが欠落していたと思う。
0805人間七七四年
2011/12/31(土) 23:38:39.83ID:VKaltv/Fでも最後の遠征、最初は夏には出兵するはずだったのが、
最終的に10月になってしまったから、何らかの体の不調でもあったんじゃないか?
0806人間七七四年
2012/01/01(日) 02:12:09.89ID:oflSjFEv0807人間七七四年
2012/01/01(日) 04:37:15.81ID:Z4VP74Yo駿河は一国がほぼ健在だったし、木曽路はかって織田軍を撃退したこともある要害
しかもどちらも主将は一門
新府築城以前の防御構想に手抜かりはない
どんな堅城も門番が裏切ったら無力
0808人間七七四年
2012/01/01(日) 07:49:56.71ID:RemgNBFE0809人間七七四年
2012/01/01(日) 08:00:55.35ID:86IZD0bX夏とは明言してなくね?
飛騨攻略と美濃調略、越中の武田派支援と
信玄が上洛戦前の準備に念を入れてたからね。
>>806
謙信が生きていた時は、
まだ余裕あった。
ホントにヤバくなったのは北条との同盟崩壊と石山本願寺が信長と和睦してから。
0810人間七七四年
2012/01/01(日) 08:08:46.32ID:86IZD0bX街道が駿河や諏訪や上野、北信濃に行くのに都合がよい場所と研究家には評価が高いわけだが。
諏訪では上野戦線や北信濃戦線を放棄すると
誤ったシグナルを該当国人に与えてしまうだけだろ。
木曽谷は親類の木曽氏に任せてたんだから、
勝頼が固めないといけない理由は無い。
0811人間七七四年
2012/01/01(日) 09:56:37.31ID:6PKC9PJd0812人間七七四年
2012/01/01(日) 10:40:06.25ID:QQNN8t36>>809
武田が夏に出兵すると明言しているのは浅井朝倉側だな
事前での調整ではそうなっていたのが遅れたのか
ただの宣伝文書か
あと武田自身出兵が遅れたがとか書状で言っているので
最初の計画ではもっと早めの時期だった可能性は高い
0813人間七七四年
2012/01/01(日) 11:51:43.29ID:pdHilBYi勝長の返還をてこにした和睦を申し込んだ時点で信長に「武田弱し」と
見切られてはいたんだろうな。
0814人間七七四年
2012/01/01(日) 12:12:24.34ID:6mHv87zS勝頼も和睦を申し込むくらいなら信長に臣従誓うくらいの覚悟がないとな。
当時の織田と武田の力関係で対等の和睦なんて無理だろ。
まぁそんなことしたら臣従する前に武田があっという間に空中分解してしまうだろうけど。
0815人間七七四年
2012/01/01(日) 12:23:37.81ID:jNeW+xps内ヶ島氏が滅亡したという天正地震だっけ?
>>811
信長は勝頼が最後の決戦を挑んでくるとみていたようだけど、
実際はそれすらできなかったからなあ
0816人間七七四年
2012/01/01(日) 12:28:36.86ID:a95gEW7U7月末に三河の奥平定能を味方にしてるし
三河侵攻が円滑に進むように地ならしをしてた。
8/11に関東攻めの口実で信濃衆に軍事動員をかけてるし
ただ9/10に本願寺が織田と本願寺の和睦交渉の話を報告してんのよ。
それで一時的に軍事行動の発動を止めたのかもね。
9/26には山県昌景が先陣として甲府を出発してるし
晩秋出陣って感じだから遅れはしたかもしれないが
夏出陣の約束は守ったと言ってもよいと思うが。
ちなみにこの時期に信長が甲越和与を斡旋してきていたとする
年代規定は
柴辻氏が辻褄が合わないとして2008年の講演と2009年の論文で
元亀元年から元亀2年に関する書状だと主張し、
それに反論した者は今のところいないので除外。
0817人間七七四年
2012/01/01(日) 12:30:58.97ID:a95gEW7U×晩秋出陣って感じだから
○晩夏出陣って感じだから
0818人間七七四年
2012/01/01(日) 12:46:07.07ID:QQNN8t36>9/10に本願寺が織田と本願寺の和睦交渉の話を報告してんのよ
これは年代規定に疑問が出されている。
1572年9月26日は現在の暦に直すと
11月半ばでとても夏とは言えない。
0819人間七七四年
2012/01/01(日) 15:20:02.08ID:HZwH4rUm閏1月を追加してわざわざ調整したんだから、
11月のわけねーだろ。
調整する意味が全くなくなるとかわからないの?
根本が理解出来てない。
頭悪過ぎ。
0820人間七七四年
2012/01/01(日) 16:52:46.31ID:QQNN8t36その言葉そっくりそのまま返します。
何のために閏月があると思っているのか?
あまり適当なこと書かないで少しは調べてから書いて欲しい。
0821人間七七四年
2012/01/01(日) 17:00:40.16ID:h0a426fv元亀3年9月26日はグレゴリオ暦が1572年11月11日
ユリウス暦が 1572年11月1日
西暦ではどう見ても11月です。
というわけで818の方が正しい、気候的にはすでに秋。
0822人間七七四年
2012/01/01(日) 19:05:33.23ID:6PKC9PJd5千人と40人じゃ本能寺みたいじゃん。
0823人間七七四年
2012/01/01(日) 19:53:26.31ID:a95gEW7U>>夏に出兵すると明言しているのは浅井朝倉側
残念ながら私、その該当書状を知らないので、
良かったらどんな内容で、いつ誰が誰に出したものなのか
おしえてください。
0824人間七七四年
2012/01/01(日) 21:26:55.94ID:7FYmnVH/越中の寺社宛の書状と混ざっていないか?
>>823
>>夏に出兵すると明言しているのは浅井朝倉側
浅井は違うと思う。
浅井の方は20日以内に信玄は出馬するという
1572年9月5日の島宛の長政書状のならあるが。
信玄の出馬は10月入っているけど山県は一日間に合わなかったぐらいだから遅れたと言うほどでもないとおもうし、
どっちにしても既に秋だ。
病気で遅れたは、信玄の越中の寺社宛の書状で
越中救援のため越後へ攻めこもうとしたが病気で延期していたところ
謙信が(越中から?)去ったので引き上げた、一旦徳川を攻めて抑えこんだら、
そちらに出兵する
っていうのならあるな。
朝倉側はちょっとわからない。
0825人間七七四年
2012/01/01(日) 23:01:40.88ID:Iy7WIunN2009年5.31記念講演:柴辻俊六
武田信玄の上洛戦略と織田信長
「通説では四月二十一日に本隊が長篠城下に着陣したとされており(5)、...」
(5)芝辻「武田勝頼」(新人物往来者、二〇〇三年)。
自分の本を通説なんて言っちゃうあたり、誰からも相手されてないだけじゃねw
お前が自分のレスを根拠としてもって来ても誰も相手してくれなかっただろ?w
0827人間七七四年
2012/01/02(月) 10:21:03.63ID:QtK2+xjT話すりかえてんなよ、ボケw
どうも武田厨は自分に都合よく改竄する癖があるな
こりゃ今まで引用してきたのも怪しいわw
0828人間七七四年
2012/01/02(月) 10:26:38.97ID:t9BFid8a>「通説では四月二十一日に本隊が長篠城下に着陣したとされており(5)、...」
あとこれは上の文章の詳細は
>(5)芝辻「武田勝頼」(新人物往来者、二〇〇三年)。
に書いてありますって意味だから、そんな突っ込むようなところか?
0829人間七七四年
2012/01/02(月) 10:50:23.31ID:o6aVKUlR長篠城は武田家の鬼門といしか言いようがないな
0830人間七七四年
2012/01/02(月) 11:03:58.33ID:Jl9Zl+li0831人間七七四年
2012/01/02(月) 11:22:59.81ID:o6aVKUlR徳川は高天神城をほっといて諏訪原城を攻めたし
0832人間七七四年
2012/01/02(月) 11:46:01.83ID:t9BFid8a0833人間七七四年
2012/01/02(月) 12:00:14.88ID:QtK2+xjT違和感感じないならそれでいいよw
「報道によれば」と質問して、谷垣の「どこの報道?」に対して「朝日系列の...」という答えで失笑買った朝日の記者と同じレベルの論理ってだけだから
0834人間七七四年
2012/01/02(月) 12:14:07.44ID:o6aVKUlR0835人間七七四年
2012/01/02(月) 12:52:26.80ID:w+V24P0r高天神救援も徳川単独とならって思惑もあろう
0836人間七七四年
2012/01/02(月) 13:05:02.62ID:o6aVKUlR想定戦場も織田・徳川にとって高天神は遠く、逆に長篠は近すぎる
0837人間七七四年
2012/01/02(月) 13:09:57.07ID:7VhLsaRP馬防柵に特攻させた勝頼の責任はあまりにも重い。
0838人間七七四年
2012/01/02(月) 13:14:09.06ID:7VhLsaRPこれやってれば、徳川は1ヶ月で滅亡したのに。
0839人間七七四年
2012/01/02(月) 13:29:43.55ID:w+V24P0r天正2年に織田軍を釣り出せてたらどうなってたかなあ
いくら信長にやる気がなくても武田が城を落とさない限りは進軍するしか無かっただろうし
0840人間七七四年
2012/01/02(月) 14:47:48.79ID:90CoNdWp0842人間七七四年
2012/01/02(月) 17:28:22.23ID:90CoNdWp0844824
2012/01/02(月) 23:07:38.74ID:Jjg8IjMv>>843
>>812はいくつかの書状が混じっているんじゃないかって気はするが、
自分のレスだけで判断はしないで欲しいと思う。
朝倉側の書状までは記憶していないのでそっちにあるのかもしれないし、
自分だって浅井の書状をすべて確認したわけじゃないので。
ただ何かで8月に今月中に武田が出陣してくるって言っていたのがあったような気はする。
0845824
2012/01/02(月) 23:12:19.16ID:Jjg8IjMvでも8月中に出陣は義景のことだった気がするし。
ないほうを証明するのは難しいな。
でもまあ病気で延期したって越中宛に書いているから、それが言い訳じゃないんなら、
>遠征前からすでに病の体だとするのは甲陽軍鑑のネタ。
これはネタじゃなく事実ということだろう。
0846人間七七四年
2012/01/02(月) 23:20:09.19ID:wijLU9kf信玄は花押を書くのがめんどくさい時は、
眼病になったとか、
病になったとか
いい加減な理由つけてサボるからなあ。
その書状に花押が書いてあれば、
ホントに病だったかも知れ無いが。
0847人間七七四年
2012/01/02(月) 23:34:17.85ID:QtK2+xjT宅急便にチョチョイとサインで済ませるのとわけが違うぞ?
当時は書札礼が大事にされてたのに
0848人間七七四年
2012/01/03(火) 00:01:31.77ID:oAHe9oBQ0849人間七七四年
2012/01/03(火) 01:26:54.89ID:hMGQNeQNぷげらやが
0850人間七七四年
2012/01/03(火) 12:07:17.53ID:2A+2oEWw何度もなぞったりしてメンドクサイもんだったから
手に腫れ物ができたからとか言って朱印で済ますケースはけっこうあったが、
2/16の本願寺宛て書状(野田城落城し翌日信濃へ北上)
ではちゃんと花押を書いてるから、すくなくとも体調が悪いってことはなく
健康だったんじゃないかな。
>>841
うーんわからん。そんな書状ほんとにあったのかな。
0851人間七七四年
2012/01/03(火) 12:29:24.96ID:oAHe9oBQそれをウソでごまかせばどうなるか、誰でもわかること。
0852人間七七四年
2012/01/03(火) 13:24:10.85ID:2A+2oEWw花押の価値を高めるのが信玄の狙いだったと言うのが真相だろうし。
そもそもそんなに数も多くない。
眼病→蒲原宮内 あて先不明の2通
手に傷→浦野三河 浦野宮内 大井弾正の3通
取り乱し→大井左馬の1通
0853人間七七四年
2012/01/03(火) 21:29:15.61ID:OOzrjULl0854人間七七四年
2012/01/03(火) 23:49:50.18ID:SjND5o9n0855人間七七四年
2012/01/04(水) 01:35:42.23ID:6E33q3CV余程織田信長にコンプレックス持ってるんだな
織田信長が関係あるのか?
真相だろうというお前の妄想だな、正確に物事はいうように
花押を押した書状はむしろ年代が降るにつれ多くなるから価値を高めるとかはお前の妄想w
いや、願望か?w
花押は約500、晴信朱印はその十分の一
これで価値を高める?w
面白いなw
是非根拠を聞かせてもらおうかw
そして自筆文書は元亀三年四月までのものしか確認されていない
この頃から体調悪いんだろw
しかも現存する朱印書状は祐筆の筆跡と同じで、あえて「自ら筆をとった」なんていってブラフかますあたり、相当体調悪かったんじゃね?w
まあこれも根拠ないけど、少なくとも書状から「信玄は二月十六日まで健康だった!」というのは無理やりすぎるって覚えとけw
0856人間七七四年
2012/01/04(水) 10:10:57.48ID:nc197XvEま、ないと思うけど
0857人間七七四年
2012/01/04(水) 12:31:46.79ID:ZuP2iPx4病だからとか理由つけて朱印にしてたり、
諏訪大社への年賀みたいな習慣みたいなもんも朱印で済ますから、
花押をもらうと有難い感を出してたのは確かなんじゃない。
しかも完全に信玄手書き書状は、
祐筆が留守以外だと、
神に約束してたのに、
聞いたところ関で税をまだ取ってると聞いて驚いた。
いますぐやめさせろとか
結構に緊急性あったり
軍事機密だから祐筆を通さない書状だったり重要な時だし。
自筆文書を基本的に信玄は書かない人。
ちなみに信長の自筆文書は超激レアで数点しか現存してないから、
ほとんど書いてないんだろ。
15歳の細川忠興宛の初陣で武功を挙げたのを褒める信長自筆文書は重要文化財指定されてるほど。
0858人間七七四年
2012/01/04(水) 13:47:43.97ID:2NWlXkV9信玄「今回は健康だから花押書くね」
さて質問です。
花押をもらった方は、これによって「花押だ、ありがたい」と感じるでしょうか?
0859人間七七四年
2012/01/04(水) 14:06:02.84ID:M+joJc4O0860人間七七四年
2012/01/04(水) 15:19:14.22ID:2NWlXkV9924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 14:31:03.52 ID:M+joJc4O
>>891
>>いやそう書いてあるじゃん
はぁ?>>>>現存する今福昌和の起請文は、永禄九年、あるいは永禄十年に出されたもので
これのドコがそう書いてんだwお前は年代を確定できてなかった。
またネットから拾ってきたから、そこに年が書いてないからわからなかったんだろうが。
0861人間七七四年
2012/01/04(水) 17:26:13.31ID:6E33q3CVまず「面倒だから」とかいうくだらない理由で朱印用いたって事を証明するのが先だろw
武田厨の愛する信玄公は「体調わるいんでかけないんっすわwサーセンw」言ってるのになんでお前らがそれを信じてあげないんだw
外交文書の宣伝は文面どおり取るのに、なんで朱印は文面どおり受け取らないんだか武田厨はw
ここからお前ら自身に都合よく恣意的な解釈してるのがみえみえww
花押押されてる書状は1300点中500点で四割近い
これで花押が貴重?wありがたい?w笑わせんなよw
あと、自筆云々に逃げんなよ?w
>>852
>花押の価値を高めるのが信玄の狙いだったと言うのが真相だろうし。
>花押の価値を高めるのが信玄の狙い
>花押の価値
花押だからなw
0862人間七七四年
2012/01/04(水) 17:28:06.19ID:nc197XvE恐らくだが氏は歴史的事実や史料の方から永禄十年だと考えているのだろう。
今福昌和起請文に関しては、実物の彼の起請文内には年号は確認できない。
同じような起請文を書いてる別の武田家臣が永禄十年八月七日とあって、
史料にもそうあるからこいつも多分そうだろうと考えられてるだけで。
0863人間七七四年
2012/01/04(水) 18:15:42.75ID:364qaM1a鴨川氏が仮病を使ったりしてると書いてるから。
>>862
永禄九年の起承文は戦国遺文武田の1007から1010の連番収録されてるから
お前の屁理屈を通した今福のは絶対に九年じゃない。
ここで屁理屈言わずに、
遺文編集してる学者に文句言ってくれ。
いまのところ、
それへの反論論文は読んだことがない。
0864人間七七四年
2012/01/04(水) 18:42:45.39ID:nc197XvE屁理屈も何も最初から永禄十年は書いてある。
永禄十年なんてのは他の武田家家臣の起請文の日付でわかること。
ただ起請文の実物は見たことあるか?
今福昌和のそれからは年号を本来確認することはできないんだよ。
つまりこの起請文だけでは年号を判断することはできない。
恐らくその学者も永禄十年八月七日に武田家家臣が起請文を奉納したという史料の記述と、
他の武田家家臣の起請文が永禄十年八月七日だから、今福のもそれであろうと判断してそこにいれたのだろう。
0865人間七七四年
2012/01/04(水) 19:20:46.77ID:6E33q3CV具体的に?
どの論文でどういう論拠に基づいてどういう論理でそういってるのか明らかにしろよ、できるもんならなw
こう聞くと「相手にする価値無い」とか言って逃げるんだろw
まあ下みたいな人格攻撃しか出来ないやつに聞いたところで無駄だろうがなwwww
535 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 16:24:38.42 ID:364qaM1a
やっぱり織田厨って真性キチガイだな
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
545 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 17:03:53.34 ID:364qaM1a
>>514
分封問題をタネに家康に、
毛利領に介入されまくって輝元が
屈伏した挙句に
父兄の契りだからな。
どんだけ輝元が悔しかったかわかるな。
【反逆者】 荒木村重 【薄情者】
101 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 17:35:56.93 ID:364qaM1a
>>100
信長は裁判などやってないから、
罪をはかることなど出来ない。
信長領国には最後まで分国法が存在してない。
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
929 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 17:40:52.48 ID:364qaM1a
こりゃ完全に織田厨は
頭がおかしいわ。
曲解と屁理屈とケチをつけてるだけ。
完全に話にならんわ…
上杉景勝VS伊達政宗
906 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 18:01:02.12 ID:364qaM1a
>>904
デタラメ書くなよ。
そんな妄想はお前の頭の中でやれ。
天正10年の武田攻めを語るスレ 3
863 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 18:15:42.75 ID:364qaM1a
>>861
鴨川氏が仮病を使ったりしてると書いてるから。
>>862
永禄九年の起承文は戦国遺文武田の1007から1010の連番収録されてるから
お前の屁理屈を通した今福のは絶対に九年じゃない。
ここで屁理屈言わずに、
遺文編集してる学者に文句言ってくれ。
いまのところ、
それへの反論論文は読んだことがない。
信玄は上洛できるのか?
130 :人間七七四年[sage]:2012/01/04(水) 18:19:04.32 ID:364qaM1a
織田厨が誤魔化し始めたワロタ
0866人間七七四年
2012/01/04(水) 22:49:46.13ID:6E33q3CV>>539
しかし、
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
一方の三成にはなんら首謀者としての傍証すらなし。
(三成→直江書状を偽書状とした場合に限り)
546 名前: 539 投稿日: 2012/01/04(水) 22:18:51.61 ID:G2UmPFBW
>>541
何度も言ってるけど、文章改竄するのはやめれば?みっともないよ。
× 「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
○ 「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高いのではなかろうか。」
文意が変わらないなら原文に正確に転載すればいい。
0867人間七七四年
2012/01/05(木) 10:32:17.46ID:ywpcixfX0868人間七七四年
2012/01/05(木) 10:49:15.39ID:GmUui5sy0869人間七七四年
2012/01/05(木) 12:02:53.59ID:Coj05OML今川攻めも所詮はたなぼた
0870人間七七四年
2012/01/05(木) 18:15:35.09ID:b6UB/6A5だがさんのコピペはうっとうしいだの言われないのにw
0871人間七七四年
2012/01/06(金) 02:34:35.34ID:nd7J59bT0872死
2012/01/06(金) 02:40:38.54ID:+/k95//+家康は武田を高く評価していた
秀吉は勝頼を生かして関東の先鋒に使う考え持ってたようだし
0873人間七七四年
2012/01/06(金) 06:39:07.66ID:/KkYhMzy0875人間七七四年
2012/01/06(金) 09:31:48.79ID:J20Aw3Je史実より徳川が弱体化するのは間違いないが
0876人間七七四年
2012/01/06(金) 13:50:41.04ID:oJHd8nRr秀吉は勝頼を生かして関東の先鋒に使う考え持ってたようだ → ???
0877人間七七四年
2012/01/06(金) 19:03:27.33ID:zyAJYRCe0878死
2012/01/06(金) 19:22:48.78ID:5EQTqTyB秀吉が武田勝頼の滅亡を惜しんだこと
ほれ
家康は武田をお気に入りだったでしょ旧武田の家臣信長に殺されるの
防いでかくまったり
0879人間七七四年
2012/01/06(金) 21:08:22.31ID:V5JcAWQr著者が儒学者
さすがにこれは完全にお察しの信憑性だろ。
0880人間七七四年
2012/01/06(金) 21:19:01.60ID:zyAJYRCeしかし、今に続く勝頼擁護厨の先駆けだな。
0881人間七七四年
2012/01/07(土) 01:59:11.51ID:zIZPJZYeだが並みに気持ちが悪いなお前は
0882人間七七四年
2012/01/07(土) 14:48:47.96ID:E8OcvRu7「光秀!」
甲州軍は、既に二流の軍団に過ぎなかったから、手放しで信忠の働きを誉めるのをためらわれたのも確かだった。
「いつ働いた己れが。失せろ!てろ頭め」
0883人間七七四年
2012/01/08(日) 17:36:19.70ID:9tN4nQ6w0884人間七七四年
2012/01/08(日) 23:15:36.19ID:0eA+PPRW小田原攻めの先兵とか完全になめられているし、落ちるとこまで落ちたとしか見えんな。
0885人間七七四年
2012/01/10(火) 00:51:19.60ID:yK9porRs天下統一後に秀吉が回顧して語ってただけじゃねえの?
0886人間七七四年
2012/01/10(火) 01:07:52.82ID:jdRvNwUr0887人間七七四年
2012/01/10(火) 18:00:03.40ID:esgHaS8q京から北にいけば光秀の領国丹波
京から東にいけば光秀の領国近江坂本
明智謀叛を聞いて信長が是非に及ばずと言った気持ちもわかる。
家康で言うなら本多忠勝や榊原康政が家康に反逆するようなもの。
0888人間七七四年
2012/01/10(火) 20:35:49.62ID:jdRvNwUr武田滅亡前なら東西三河の重鎮である忠次や数正なら光秀並
0889人間七七四年
2012/01/11(水) 00:39:08.17ID:2bXpO+Gjその夜、宿泊した法華寺で酒宴があった。
不意に甲走った信長の怒号が上がったのは、酒宴の半ばである。それが自分にむけられたものだと解ったとき、光秀は一瞬蒼ざめた。
信長は敷皮の上に突っ立ち、日向、ここへ来い、と叫んでいた。
「なにごとか、お気にさわりましたか」
「白々しいことをぬかす」
「われらとは貴様がことか。吐かせ、今度の戦で貴様がどう働いた?」
0890人間七七四年
2012/01/28(土) 17:28:28.16ID:ULroEyD1高遠が落ちたのは三月二日だよな
一度書き直しがされている文書らしいのだが、
書き直しで間違えたか、三月五日まで何かあったのか
どっちなんだろう
0891人間七七四年
2012/01/28(土) 18:24:11.79ID:6RNaz/r10892人間七七四年
2012/01/28(土) 18:45:00.29ID:K4rkc6Xw信忠は確実に領国の美濃に引き返すだろうしね
でも小山田の裏切り後なら結局落ち武者狩りされてそう
小山田の裏切り前なら岩殿城に入城→北条、徳川の動きを見つつ甲斐の再統一かな
ただ信忠が生きてる以上織田家が即崩壊するわけでもなさそうだから信濃はどうだろうね
上杉、上州に居る真田と連携しながら押さえる感じなのかな
光秀と結ぶか信忠に松姫送って恭順するか
0893人間七七四年
2012/01/29(日) 12:42:25.81ID:bfQRfyy/「武田軍」は上原城から新府城への道中で霧散し、新府出発以降は「勝頼一行」でしかない。
0894人間七七四年
2012/01/29(日) 13:08:35.26ID:D3g33PqJ本能寺の教訓から本多や榊原には大領を持たせなかったとも考えられるんだよな
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