天正10年の武田攻めを語るスレ 3
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0001人間七七四年
2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68Tわずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0068人間七七四年
2011/05/14(土) 19:50:42.48ID:S+f0WJsb0069人間七七四年
2011/05/14(土) 22:10:06.82ID:iTM8cqwR0070人間七七四年
2011/05/14(土) 22:18:58.30ID:S+f0WJsb「武田家滅亡を描く『貴重なドラマ』」になるとは予想だにせず録画しなかった。。。
もうCSでしか見れないそうなので、是非ともリメイクして欲しい。
「歴女(笑)」が好む武将に武田勝頼が含まれているので、それなりの視聴率は取れると思うのだが。
0071人間七七四年
2011/05/14(土) 22:53:59.50ID:S+f0WJsb新田次郎さんの小説「武田勝頼」でも耳だった記憶あり。
「信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。」
これが史料に残っているのか?逸話なのか?は知らんけど。
0072人間七七四年
2011/05/15(日) 01:03:28.07ID:t8GtgxYC実際真っ先に裏切った輩は最低限の厚遇は受けてると思うけど…
0073人間七七四年
2011/05/15(日) 08:32:49.84ID:PmYw21Gd日和見して動かなかった連中は、動かなくていいと言われてたのに滅ぼされてるよね
0074人間七七四年
2011/05/15(日) 11:38:04.88ID:1SAnCPwN0075人間七七四年
2011/05/15(日) 16:14:30.92ID:Pkm/6P3A0076人間七七四年
2011/05/15(日) 17:33:03.21ID:AMF7cqA6木曾は1600年に改易
0079人間七七四年
2011/05/16(月) 10:32:18.72ID:uWDJzLGE武田旧臣って意味なら、土屋・向井・依田らがいる
旗本でいいなら信玄血筋で竜芳系や盛信系、上杉の信清系とか
0080人間七七四年
2011/05/16(月) 15:04:45.20ID:zEpqxiYX穴山も木曽もざまあだなw
天目山で勝頼に殉じた土屋昌恒の嫡男は大名に出世
高遠城で散った仁科盛信の嫡男は徳川の旗本となる
0082人間七七四年
2011/05/16(月) 17:37:09.92ID:i+856xkwまあ、依田もとっとと改易されているけどね。改易された時期は木曾と
同じぐらいだし。
>>81
木曾は与力大名ですらなく家康の臣下で、家康の転封に伴う転封だからねい。
まあ、しょうがない。
0083人間七七四年
2011/05/16(月) 18:27:11.38ID:1/Il1nU/小山田は判断遅らせたせいで信長の心証を悪くしたよね
0084人間七七四年
2011/05/16(月) 19:00:31.46ID:958HJvEv「こんなことなら新府城で戦えば良かった」って思っただろうね
0085人間七七四年
2011/05/16(月) 19:43:25.53ID:dB9EFBT2天正十年
織田の甲州征伐によって武田家は滅亡寸前に追い込まれていた。
窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸が申して曰く
「私の所持している上州我妻の岩櫃城へ一旦お移りください。まず安心でありましょう。
そのわけは内藤修理亮は同国箕輪に居住し、武田左馬之介信豊は信州小諸に在城しています。
それ故是より路次の便りよく、我妻の城地は要害が勝れてよく、軍兵三千は籠ることができます。
弾丸硝石をしっかりと用意し、兵糧を多く蓄えたなば、どれほどの大軍が攻めようとも
昌幸が沼田に在城し、信州戸石には両人の小倅を以て守らせ、私の謀によって御籠城されれば、
中々落ちる城ではございません。
二三年のうちに敵方の変化を見計らった上で交付に御旗を入れられるのがよろしいでしょう。
まず一度御城を明け渡し、私の謀に従って岩櫃に御籠城なされるように。」
この意見に修理と左馬之介も同意したため勝頼は岩櫃入りを決断し
昌幸と修理に各々の城へと戻って籠城の準備を始めるよう命じた。
すでに各地でる落人狩りが始まり、道中の糧秣の確保にも苦労する有様であったが
昌幸は妻や一族を引き連れて岩櫃を目指した。
途中信州小諸で昌幸を迎えるべく甲州を目指していた湯本・鎌原・横谷・西久保・和田・恩田・金子といった
沼田の侍たち出会うことができ
昌幸は岩櫃城へと入って籠城の手配を始めた。
が、そこに勝頼父子が岩櫃ではなく岩殿城へと向かった末に裏切られ
天目山で死したという知らせが入り、昌幸は歯噛みして残念がった。
0086人間七七四年
2011/05/16(月) 22:25:06.05ID:FATqdjp9裏切りが間違っていたわけじゃないだろう
まあ裏切るならもっと早くして秋山を挟撃とかしたら
もっと待遇良かっただろうけど
0087人間七七四年
2011/05/16(月) 23:03:37.77ID:i+856xkw木曾はどんなに多く見積もってもせいぜい1万石以下の所領の安堵に
過ぎないからなぁ。もし武田が続くのなら、同じ所領でも親族衆
扱いされるのでずっとマシということも言えただろうに…
0088人間七七四年
2011/05/17(火) 01:34:19.49ID:ebo/aZ4N0089人間七七四年
2011/05/17(火) 01:40:54.06ID:HJYKvvCw0090人間七七四年
2011/05/17(火) 02:59:24.83ID:ljKTZZWF0091人間七七四年
2011/05/17(火) 07:06:40.74ID:+hWLmQCu0092人間七七四年
2011/05/17(火) 09:50:10.89ID:b7kIdgvP0094人間七七四年
2011/05/17(火) 13:42:13.68ID:LCSIbL6s木曾も真田もド付きの外様だけど、木曾は親族衆でもある。
真田より格上。ただ、幸隆、昌幸が上野攻略で勢力伸ばしていた
真田と違って、織田と直接やりあうハメになる木曾谷じゃ
勢力伸ばしようがなかったから、所領は真田より狭いけどね。
0095人間七七四年
2011/05/17(火) 21:13:05.98ID:VXBoFM4q穴山はわからんが、木曽は武田に味方した状態では生き残れないから
真っ先に潰されるよりはいい選択をしたはず
0096人間七七四年
2011/05/18(水) 01:55:00.36ID:yarQ6VkX0097人間七七四年
2011/05/18(水) 08:16:29.20ID:ILq45rNo0098人間七七四年
2011/05/18(水) 09:23:42.06ID:69cZ8Iftまあ武田攻めにおける木曽の功績が大きかったのはわかるが流石に
過分だったし本能寺後にこうなるのは止む無し
0099人間七七四年
2011/05/18(水) 20:43:39.51ID:nfybr3gA滝川一益と森長可から手に入れた信州の豪族の人質を利用しようとしていたんだよな。
なんかせこいなあ
0100人間七七四年
2011/05/18(水) 22:15:19.07ID:mpfO5pxZ身の程知らずもいいところだが。
0101人間七七四年
2011/05/18(水) 23:02:35.44ID:0nrtdVPb天正十八年(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、
豊かな山林資源を抱える父祖以来の木曽谷から下総国海上郡阿知戸一万石に移封をみた。
この転封によって、多くの譜代の家臣を流浪させるほどに経済的にも逼迫した義昌は、文禄四年(1595)阿知戸城で不遇な晩年を終えたと伝えられる。
父義昌とともに阿知戸に移住した長子の義利は、叔父の上松義豊との間に不和を生じて、これを殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、
ために義昌死没後まもなくの慶長五年(1600)頃に、家康は義利を追放して阿知戸を直轄地にした。
木曽氏の改易は義利の暴虐もあっただろうが、江戸に近い下総に外様大名が存在することを嫌った徳川氏の政策の結果とも考えられる。
義利の改易後、義利の母真竜院(信玄の娘)は末子の義通を伴って木曽に帰り黒沢に陰棲した。以後、木曽氏の消息を史料上から知ることはできない。
ここに至って、木曽谷を根拠地に戦国大名として覇を唱えた木曽氏は歴史の表舞台から脱落し、歴史の陰に埋没してしまったのである。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiso_k.html
0103人間七七四年
2011/05/19(木) 00:48:51.48ID:i3vVW4Dgただ、このときには長可も信州の豪族の人質を木曾義昌に引き渡しているので(一益も
同様に木曾領を通過している)、義昌が実際に長可暗殺を謀ったかどうかは別としても、
そう悪い取引でもないんだよな。
実際義昌はこの人質を手札にして勢力拡大を目論むわけだし・・・・。
0105人間七七四年
2011/05/19(木) 11:09:25.94ID:5cSYEmx4あららなのは確かだけど、あの状況で松本に返り咲いた小笠原の威光が
すごかったというべきかもしれない。
しっかし、wikipediaに長野では名君とされているとあるけど、どこを
どう評価すれば名君になるんだか…
0106人間七七四年
2011/05/20(金) 18:29:33.60ID:XmqJ8s7c0107人間七七四年
2011/05/20(金) 22:52:34.59ID:MIBMcwGD0109人間七七四年
2011/05/21(土) 01:15:39.48ID:nJKmem2P0110人間七七四年
2011/05/21(土) 04:18:27.58ID:/XPGlbDhでも、正直、偶然だと思うが?
穴山の横死や断絶も木曽のお家騒動も裏切りとはなんの関係もない。
因果応報ということにしたい気持ちはわかるけど。
あと真田はともかく諏訪はちょっと違うぞ。
そもそも諏訪は完全に武田の統制化なので裏切りようがないし、
最初は武田が諏訪頼重を騙まし討ちにして甲斐で腹を切らせたのに武田への忠誠もクソもない。
0111人間七七四年
2011/05/21(土) 04:20:59.67ID:/XPGlbDh>>107式の理屈が正当なら
武田信玄が諏訪家を裏切ったから武田家が滅んだんだろう。
0112人間七七四年
2011/05/21(土) 05:05:24.93ID:SKxNGkwGやっぱり裏切りはタイミングだな
0113人間七七四年
2011/05/21(土) 05:18:17.10ID:/AvFpYFb0114人間七七四年
2011/05/21(土) 09:10:11.35ID:p4Ul7yek諏訪も重臣が旧領回復を進言してたし
0115人間七七四年
2011/05/21(土) 18:08:01.21ID:YlTDRMTW0116人間七七四年
2011/05/21(土) 19:09:28.28ID:A/yrtgCE本当に会津と長州って未だに争ってるんだろうか
0117人間七七四年
2011/05/22(日) 03:22:13.58ID:NHiSulvM与えるという織田信忠の廻状を信じて姿を現わし、首を刎ねられた。
記録に残っている大物だけで四十名ほどである。実際はその十倍か二十倍はあったであろう。
0118人間七七四年
2011/05/22(日) 05:53:41.44ID:NHiSulvM金丸昌義 (?〜1582) 武田家準一門。金丸家嫡流。勝頼に従い天目山に討死
0120人間七七四年
2011/05/22(日) 18:00:38.07ID:hOVXxkNC一時期天下を牛耳ったんだよ
0121人間七七四年
2011/05/22(日) 23:54:40.43ID:NHiSulvM0122人間七七四年
2011/05/23(月) 12:15:07.77ID:MSXJkJlR裏で信長と通じていたという話を聞いたこともあるけど
0123人間七七四年
2011/05/23(月) 12:18:07.11ID:pFScrH/Iもし岩殿で徹底抗戦してたら真田はあっさり織田に降伏して岩殿に兵出してただろうね
0124人間七七四年
2011/05/23(月) 19:53:36.67ID:BE1EEnT7たしか見た感じ前面に一枚岩が聳え立ち、あんがい難攻不落っぽいが…
織田軍を撃退するのは無理だよな
0126人間七七四年
2011/05/24(火) 00:02:43.68ID:D30Ff+9D天目山の戦いってのは3月11日だけではないのかな
0127人間七七四年
2011/05/24(火) 23:08:28.08ID:3fwUNM9f真田が迎え入れを考えていた岩櫃城も、さらに半端ない。
どうやっても大軍を送り込めない地形だし、岩殿城よりやっかいかと思った。
>>126
1日だけかと。wiki編集者の間違いでは。2日前は小山田の裏切りに遭った日のはず。
0128人間七七四年
2011/05/24(火) 23:16:57.09ID:3fwUNM9f0129人間七七四年
2011/05/25(水) 02:07:31.59ID:h2f5vQyY天正10年甲州崩れの際、次々と離反する武田家臣達
武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって
謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
0130人間七七四年
2011/05/25(水) 02:26:52.69ID:h2f5vQyYWikipediaの記載ミスでは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
小宮山 友晴(こみやま ともはる、生年不詳 - 天正10年3月9日(1582年4月11日))
0131人間七七四年
2011/05/25(水) 02:40:10.84ID:ZJ1xku1nこれまた武田遺臣が大量にいる八王子にも小宮なんて地名があるし
小宮神社なんてものすらあるので、八王子にも来ているのかなぁと
思ったんだけど、八王子の小宮ってもっと由緒古くて、平安時代まで
遡れるんだな。
ttp://www.aa.alpha-net.ne.jp/suza43/rekishi.htm
0132人間七七四年
2011/05/25(水) 19:26:16.63ID:kaeQwQGoありがとうございました
そうですかやはり誤記ですよね
生年不詳だけど小宮山友晴の年齢は50歳位なのかな
ところで、勝頼一行滅亡の顛末(従者の人数や討死した武者の名前、勝頼自身が自決あるいは乱戦中に斬殺されたとか説が色々)を記した文献ってのは
●武田三代軍記
●甲陽軍鑑
●理慶尼記
●甲乱記
●惣見記
●信長公記
●勝沼古事記
など様々あるようなんですが、どれが一番信頼性は高いと言えるのでしょうか?
0133人間七七四年
2011/05/25(水) 22:50:39.24ID:SCBm9VBA最期については、勇戦したは美化含みにしろ、勝頼が具足櫃に座って動けなかったは無いと思う。
大善寺と駒飼、田野の距離、勝頼の年齢やらを考えて。
小山田寝返りは僅か1日ほど前で、最低その時点までは勝頼自身の食料まで滞ったとは考えづらいし。
数日前まで滞在した大善寺を、手ぶらで送り出されたとも思えないのもある。
その時点で困窮していたら、女人を何人も連れて行かないだろう。
侍女ですら田野まで着いて行ってる以上、食料が優先され、30代の勝頼が「動けなかった」は……
0134人間七七四年
2011/05/25(水) 23:56:34.53ID:U2AYH1b3飢えじゃなくて、絶望で憔悴して動けなかった(動かなかった)ってのはあるかもよ
家臣らはまだ忠義心という心の支えがあるが、勝頼に何が残っているのか
0135人間七七四年
2011/05/26(木) 00:17:24.95ID:NI0/J0Pd丁寧でわかりやすい長文ありがとうございます
飢えと疲れで動けず…云々は「三河後風土記」が元らしいですね
確かに、遡って1週間ずっと山中を彷徨してた訳ではなく、大善寺やら駒飼らで逡巡してたのですからそこまで疲労困憊してるとは考えづらいですね
あるとしたら家臣の離反や人心崩壊を目の当たりにみて諸行無常の諦念を抱き茫然自失となっていたとかかな
あと、武田家重宝の御旗楯無は塩山市の雲峰寺と菅田天神にあるということなんですが、天目山の戦い直前に信勝が元服の儀を御旗楯無の前で挙げたとする伝承が本当ならば、どうやってその四面楚歌の状況から略奪されずに済んだのでしょうか?
くだらん質問ばかりですみませぬ
0136人間七七四年
2011/05/26(木) 00:35:30.59ID:+vnePTF+楯無については、wikiに結構、詳しく書いてあるから、参考にして良いと思う。
正直言って、はっきりしないというのが結論かと。
「小桜韋威鎧」は、1つではないのもあり……
0138人間七七四年
2011/05/26(木) 01:12:43.43ID:+vnePTF+儀礼用があって、儀式にはそちらを使ったとも考えられるけど……聞いたことはないね。
0139人間七七四年
2011/05/27(金) 06:41:44.96ID:UEGH3XVI小山田に追い返されたときにドサクサに紛れて逃げた奴が
食料をくくりつけた馬を使って逃げたらしいよ。
まあ、滞在した寺で少しは飯は食わせてはもらっただろうけど、
あんまり満足できるものでもないと思うよ。
あと、あんまり季節も天候も良くない中、山の中、歩いてれば
疲労して当然だと思うが。精神的なものもあったろうけど。
前スレにもあったが、山梨の山中で遭難した人物が五月にもかかわらず凍死した零もあるそうだし。
0140人間七七四年
2011/05/27(金) 09:18:38.31ID:nWPbs7lNGWに来たときは雪積もってたし
0141人間七七四年
2011/05/27(金) 12:04:15.29ID:njkDggR7大善寺、駒飼は屋内滞在だし、山中にいたのなんて最期のわずかな時間に過ぎない。
0142人間七七四年
2011/05/27(金) 12:14:24.10ID:njkDggR7イメージ的には甲信で同じだけど、むしろ西東京に近いもの。
0143人間七七四年
2011/05/27(金) 13:06:18.64ID:njkDggR7駒飼に数日滞在、小山田裏切り発覚の翌日に出発、その翌日朝には田野で滅亡なので。
駒飼から3km程度なうえ、田野は山中というよりまだ山麓という地で、道もあったのだから行程としては緩い。
食料にしろ前記の通り、裏切りから丸1日程度の余命。発覚後に馬で大半の食料を持ち去られたとして、飢えるほどの時間はない。
ところで、天候が良くない中…って、最期に行軍した3月10日は雨だったの?
季節にしろ、現代ながら山梨のその辺では、もう桜が散ろうかって時期な気がするけど。
0144人間七七四年
2011/05/27(金) 16:16:05.18ID:iW5cRXo5高遠城陥落したあとに行けるのか?
真田昌幸はどの道で帰ったのか?
でも、岩櫃方面に逃げれば最悪恥も外聞もかなぐり捨てれば上杉景勝が庇護してくれる可能性ってのはないもんか。北条よりは可能性高いと思うんだが。
0145人間七七四年
2011/05/27(金) 18:27:43.56ID:m4w06jRT勝頼が生きてるから無理?
一番良いのは勝頼は小山田を頼って信勝に上州に逃げさせるのがよかったかな
0146人間七七四年
2011/05/27(金) 21:24:16.98ID:bhVIrDde0147人間七七四年
2011/05/27(金) 21:40:50.54ID:3pHmsXoi本能寺みたいなのが起きれば甲州の回復くらい出来るかも
0148人間七七四年
2011/05/28(土) 00:54:01.12ID:2i+BE5TF0149人間七七四年
2011/05/28(土) 01:00:58.61ID:Il5vztBm森みたいに本領(厳密には弟の領地だが)が不安で帰った場合もある
特に甲信は信忠配下が多く、彼らにとっては主君を二重に失ったようなもの
0150人間七七四年
2011/05/28(土) 04:40:58.28ID:kkpxcvl3計算だけ言えば、一方は真田、一方は小山田で再起を期すのが、確率高いからねぇ。
>>148
優先度が低かった、っていうのが現実かも。
織田の連中にとって、武田は邪魔であっても、甲信の領土自体はさほど旨味がある土地とも感じてなかっただろうし。
取って僅かな時間のよく知らない土地、知らない連中がいる土地。一旦、撤退するのが賢いとも思える。
0151人間七七四年
2011/05/28(土) 06:13:29.37ID:ift2QfaT0152人間七七四年
2011/05/28(土) 13:44:05.25ID:iummxbJf0153人間七七四年
2011/05/28(土) 14:23:53.70ID:JW+4YFyR0154人間七七四年
2011/05/28(土) 18:29:19.92ID:h+y/kuQj0155人間七七四年
2011/05/28(土) 18:35:11.09ID:2lxcSVmo0156人間七七四年
2011/05/28(土) 22:36:25.05ID:Z+u7RFfG>勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?
無い
ただし、もしかしたら「おんな風林火山」( >>62 >>64 >>70)にあるかも?????
0158人間七七四年
2011/05/29(日) 00:46:37.36ID:H5savFZy0159人間七七四年
2011/05/29(日) 09:31:28.24ID:bVRiF51C0160人間七七四年
2011/05/29(日) 12:14:10.25ID:X3T22Y2v川尻の政策みてると、むしろまだ戦後処理中と言えるし
仮定の話で、本能寺のような事件が起きるのが武田滅亡後から
2〜3年後のことだったら、また変わったと思う
0161人間七七四年
2011/05/29(日) 12:52:41.42ID:mn/PoU7bキレたか、面子的に帰るに帰れなかったのかもw
0162人間七七四年
2011/05/29(日) 16:16:51.95ID:NCm6mcLI過去レス見てなかったスマン
やっぱそうなんだ、本能寺は腐るほどあるのによ。
ま、三文役者に演じてもらうのもどーかと思うし、それぞれのイメージを育んでたほうがいいか
0163人間七七四年
2011/05/29(日) 18:40:22.87ID:sgU+w6thしかし、あの混乱までは制御できなかった。
結果的にはさっさと逃げ出すのがベストだったろうな。
0164人間七七四年
2011/05/29(日) 20:42:09.19ID:2wS2FzZE0165人間七七四年
2011/05/29(日) 21:32:33.73ID:mn/PoU7b織田の支配強めるために散々やった直後で、
あげく武田旧臣を囲っている徳川が、狙いを定めて突っついてる状況じゃ……
0166人間七七四年
2011/05/29(日) 22:51:17.75ID:L8j6zTYU0167人間七七四年
2011/05/30(月) 04:18:25.03ID:SCNjUsWG旧朝倉家臣なんて一揆の餌にされちまったぞw
0168人間七七四年
2011/05/30(月) 07:52:02.61ID:QzEyXAXJ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています