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天正10年の武田攻めを語るスレ 3

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0001人間七七四年2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68T
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。

【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0047人間七七四年2011/04/30(土) 14:33:43.63ID:c7YiqVTm
>>46
信繁のように称えられたかもね
勝頼本人は義信と対立してたわけでも無さそうだし
0048人間七七四年2011/04/30(土) 22:22:03.33ID:pTzxUrzJ
2011年04月25日(月)
献花や舞奉納し武田勝頼を供養
甲州・景徳院で「慰霊法要」
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2011/04/25/10.html

 武田勝頼の菩提(ぼだい)寺「景徳院」(甲州市大和町田野)で24日、
勝頼と武田家臣を供養する「慰霊法要」が行われた。

 同寺には勝頼と家臣の墓があり、法要は例年、大和地区の一大イベント「武田勝頼公まつり」に合わせて実施してきた。
今年は東日本大震災を受けて祭りは中止して、法要だけとした。

 檀家だんからが参加して勝頼の墓に献花。この後、地元・大和中の女子生徒ら10人が「巫女の舞」を奉納した。
同寺の平山金吾総代長は「祭りは中止になったが、法要は例年通り実施できて良かった。地域の伝統は絶やさないようにしたい」と話していた。
0049人間七七四年2011/04/30(土) 23:57:02.79ID:ZuEZKD5m
地元民は勝頼公裏切っておきながらw
0050人間七七四年2011/05/04(水) 06:19:48.83ID:BcY4FB00
新府城の留守を預かる北条夫人が、韮崎の武田八幡に詣で、必死の祈りを込めて、
願文を納めたのは二月十九日のことである。

うやまって申し。
祈願のこと。
南無帰命頂礼八幡大菩薩、
この国の本主として武田の太郎と号せしより此かた、代々護り給ふ、
ここに不慮の逆臣出きたって国家を悩ます。
よって、勝頼運を天道にまかせ、命を軽んして敵陣にむかう。
しかりといへども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。
なんぞ木曽義昌若干の神慮をむなしくし、
身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ自らの母を害するなり。
なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする。
万民の悩乱、仏法の妨げならずや。
そもそも、勝頼いかでか悪心ならんや。
思いの焔天にあがり、瞋恚なお深からん。
われもここにして相共に悲しむ。
涙らんかんたり。
神慮天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。
この時に至って神心。私なく渇仰胆に銘ず。かなしきかな。
神慮まことあらば、運命この時にいたるとも、
願わくば霊神力をあわせて、
勝つ事を勝頼一しに告げしめたまい、
仇を四方に退けん。
兵乱却って命を開き、寿命重遠子孫繁昌の事。
右の大願成就ならば、勝頼、われと共に社檀みがきたて回廊建立の事。
敬って申し。

天正十年二月十九日
みなもと勝頼うち
0051人間七七四年2011/05/04(水) 07:06:33.71ID:KNqdciPk
北条夫人だけでも離縁して逃がしてやるべきだったな
そうすれば勝頼も上杉領まで逃げ切れたかも知れないのに
0052人間七七四年2011/05/04(水) 10:58:25.30ID:6Dqo6EP4
滅亡は長篠での敗戦より家臣の寝返りが直接の原因か
0053人間七七四年2011/05/07(土) 21:22:18.27ID:ZVBQpBqx
武田勝頼-貞姫-宮原晴克-宮原義辰-宮原義真
0054人間七七四年2011/05/09(月) 12:49:30.40ID:26Q+5Rs2
謙信が生きている内に同盟して徳川だけでも叩いておくべきだったな
0055人間七七四年2011/05/10(火) 23:25:12.79ID:ATQMmuLL
>>54
それは無理、家康は謙信と同盟済み。信長のように国境を接していないので極めて良好な間柄
勝頼がつけ込む隙がない。
0056人間七七四年2011/05/11(水) 22:12:35.33ID:LZINwqWT
>>55
甲越相三国で和睦が出来れば多少は違った展開になるかもなんだがなあ。
天正四年に足利義昭が例によって勝頼・氏政・謙信の三者の和睦を画策しているんだけど、
(このころすでに謙信は本願寺と和睦し、信長と手切れしている)
「勝頼との和睦は上意に応じる用意があるが、氏政をそれに加えるのはたとえ自分が滅亡しようが
将軍家から勘当されようが断固拒否」というのが謙信側のスタンスで、結局実現しなかった。
ただ、少なくとも勝頼とは和睦の余地があると謙信は考えていたみたい。
0057人間七七四年2011/05/11(水) 23:18:22.49ID:ebx+qIWQ
そりゃあ対織田という利害は一致してるからな。
ただ甲越同盟が果たされかどうかはまた別の話し。
0058人間七七四年2011/05/12(木) 00:17:09.28ID:LLvga0on
後出しで考えれば対織田自体貧乏くじな分けで
上杉からみれば織田と組んだまま武田本願寺攻めるほうが良かったわけだよな
0059人間七七四年2011/05/12(木) 00:49:48.02ID:kfR5vJD0
>>58
北陸で所領接してきてるから無理じゃねえの?
南進がちっとも成果上がらない状況では、織田と先端を開くのは大義名分的にも実利的にも良かったかと
0060ninja2011/05/12(木) 07:30:57.98ID:Rzq8R1ni
あれま、実は武田義信は生きていた。

武田信玄はこうなることを予期して義信を死んだことにしておいた。
正統な武田の棟梁。武田家は見事にまとまりました。
0061人間七七四年2011/05/12(木) 08:05:01.17ID:vVWwW0Eh
それじゃあ家臣に示しがつかないでしょ…
IFとしては面白いかもしれんけどありえないわ
0062人間七七四年2011/05/12(木) 15:08:25.82ID:BODvsuKv
勝頼期を描いた映画

「影武者」説明不要に近い名作
ただし、勝頼陣代説。


勝頼期も描いたドラマ

「おんな風林火山」 http://www.youtube.com/watch?v=_gr2U6s8Vdo

ただし、ドラマの基本コンセプトは恋愛&低視聴率

☆長篠の戦いや高遠城攻防戦や天目山あり(確か)

☆武田家滅亡後の本能寺の変あり(松姫と織田信忠絡みで)

☆武田の人質となる織田勝長(織田信房)が登場する珍しいドラマ

☆長篠の戦い直後に躑躅ヶ崎館で武田家の女性たちが「織田は卑怯にも鉄砲を使い」とか言っていたのが妙に面白かった
0063人間七七四年2011/05/12(木) 18:49:23.96ID:vBlE5v7O
武田頼政が救うお
0064人間七七四年2011/05/13(金) 12:02:56.86ID:xsLwwzt1
【鈴木保奈美】おんな風林火山【石立鉄男】
http://logsoku.com/thread/namidame.2ch.net/nhkdrama/1170333860/

21 : 日曜8時の名無しさん : 2007/02/04(日) 17:33:15.47 ID:chexJ/te [1回発言]
岡田が穴山夫人で比企理恵が木曾夫人だろ
穴山が武田を裏切った時の岡田の演技は神だと思った

26 : 日曜8時の名無しさん : 2007/02/05(月) 11:51:20.05 ID:vv1tpMob [1回発言]
歴史好きの友人が凄い凄いと見ることを勧めていたがなかなか機会がなかった。
見られるものなら見たいな。

長篠設楽原の戦で、鉄砲構えてる織田の竹矢来をよじ登って腹に銃口当てられて
撃ちまくられてるだ武田軍とか、よれよれになって裏の土間から帰ってくる
美木良介の勝頼とか、会いたいといって女の足で出かけていって「あそこが
信忠様の本陣でございます」とあっさり副将の本陣の裏を突いてしまう豪脚の
ヒロインとか、たしかに想像を超える場面の連続でのけぞった覚えが。

40 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/02/10(土) 00:15:33.47 ID:VEvTrteX [1回発言]
本能寺の変で信忠が死ぬシーンが描かれてるのってこれぐらいじゃないの。
たいていの作品では信忠はスルーされてるし。

115 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/04/13(金) 23:11:43.44 ID:a2sqTeas [1回発言]
そうそう穴山信君の裏切りのシーンもちゃんと出ていた。

116 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/04/13(金) 23:46:23.81 ID:ckuj6ULk [1回発言]
本能寺後、穴山信君が土民に襲われて殺されるシーンもあったよね。
0065人間七七四年2011/05/14(土) 15:39:08.23ID:S+f0WJsb
信長は二月末から三月初旬にかけ、信忠と連名の書状を武田の重臣たちに送り、
内応すれば過大な恩賞を与えると調略を行っていた。

武田の諸将は信長の甘言を信じ込み、勝頼に背いて滅亡させたが、
自らも後を追うこととなった。
0066人間七七四年2011/05/14(土) 18:38:36.79ID:S+f0WJsb
http://www.youtube.com/watch?v=IlfdVpJ7AKI

リメイク希望
0067人間七七四年2011/05/14(土) 19:48:36.00ID:DLwR+NQn
仁科盛信が信忠からの使いの僧を惨殺したってマジか?
へうげでやってたけど
0068人間七七四年2011/05/14(土) 19:50:42.48ID:S+f0WJsb
惨殺じゃなくて鼻を削いで信忠の陣に帰した
0069人間七七四年2011/05/14(土) 22:10:06.82ID:iTM8cqwR
鼻無し坊主はいつまで生きたの?
0070人間七七四年2011/05/14(土) 22:18:58.30ID:S+f0WJsb
私が「おんな風林火山」を見たのは平成3年(1991年)頃の夕方の再放送(生放送のときは見ていない)、当時はビデオデッキの時代。
「武田家滅亡を描く『貴重なドラマ』」になるとは予想だにせず録画しなかった。。。
もうCSでしか見れないそうなので、是非ともリメイクして欲しい。

「歴女(笑)」が好む武将に武田勝頼が含まれているので、それなりの視聴率は取れると思うのだが。
0071人間七七四年2011/05/14(土) 22:53:59.50ID:S+f0WJsb
ごめん、鼻じゃなくて耳だった。
新田次郎さんの小説「武田勝頼」でも耳だった記憶あり。

「信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。」


これが史料に残っているのか?逸話なのか?は知らんけど。
0072人間七七四年2011/05/15(日) 01:03:28.07ID:t8GtgxYC
>65
実際真っ先に裏切った輩は最低限の厚遇は受けてると思うけど…
0073人間七七四年2011/05/15(日) 08:32:49.84ID:PmYw21Gd
木曽とか穴山とかはね。

日和見して動かなかった連中は、動かなくていいと言われてたのに滅ぼされてるよね
0074人間七七四年2011/05/15(日) 11:38:04.88ID:1SAnCPwN
そりゃどっち付かずよりはっきりと裏切りの意思を示す方が信長の心象は良いに決まってる
0075人間七七四年2011/05/15(日) 16:14:30.92ID:Pkm/6P3A
穴山の死は因果応報としか言いようがないな
0076人間七七四年2011/05/15(日) 17:33:03.21ID:AMF7cqA6
穴山氏は嫡男早逝でお家断絶
木曾は1600年に改易
0077人間七七四年2011/05/16(月) 00:22:03.85ID:xgEIW5de
>>76
ただ、それは徳川の陰謀とか見方とは関係ないような・・・
わずかに梅雪には謀殺説もあるが。
0078人間七七四年2011/05/16(月) 09:58:25.75ID:ZDej0qyn
>>76
木曾も断絶だと武田って真田ぐらいしかいないの?
0079人間七七四年2011/05/16(月) 10:32:18.72ID:uWDJzLGE
>>78
武田旧臣って意味なら、土屋・向井・依田らがいる
旗本でいいなら信玄血筋で竜芳系や盛信系、上杉の信清系とか
0080人間七七四年2011/05/16(月) 15:04:45.20ID:zEpqxiYX
>>76
穴山も木曽もざまあだなw


天目山で勝頼に殉じた土屋昌恒の嫡男は大名に出世

高遠城で散った仁科盛信の嫡男は徳川の旗本となる
0081人間七七四年2011/05/16(月) 17:10:44.87ID:958HJvEv
>>76
木曽は信長に降ってその後豊臣期に転封だっけ?
木曽を離れるとか悲惨すぎるな
0082人間七七四年2011/05/16(月) 17:37:09.92ID:i+856xkw
>>79
まあ、依田もとっとと改易されているけどね。改易された時期は木曾と
同じぐらいだし。

>>81
木曾は与力大名ですらなく家康の臣下で、家康の転封に伴う転封だからねい。
まあ、しょうがない。
0083人間七七四年2011/05/16(月) 18:27:11.38ID:1/Il1nU/
>>74
小山田は判断遅らせたせいで信長の心証を悪くしたよね
0084人間七七四年2011/05/16(月) 19:00:31.46ID:958HJvEv
武田の旧臣で武田滅亡後に処刑された奴は
「こんなことなら新府城で戦えば良かった」って思っただろうね
0085人間七七四年2011/05/16(月) 19:43:25.53ID:dB9EFBT2
355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 22:36:17.70 ID:6ng6Ybi2
天正十年
織田の甲州征伐によって武田家は滅亡寸前に追い込まれていた。
窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸が申して曰く
「私の所持している上州我妻の岩櫃城へ一旦お移りください。まず安心でありましょう。
 そのわけは内藤修理亮は同国箕輪に居住し、武田左馬之介信豊は信州小諸に在城しています。 
 それ故是より路次の便りよく、我妻の城地は要害が勝れてよく、軍兵三千は籠ることができます。
 弾丸硝石をしっかりと用意し、兵糧を多く蓄えたなば、どれほどの大軍が攻めようとも
 昌幸が沼田に在城し、信州戸石には両人の小倅を以て守らせ、私の謀によって御籠城されれば、
中々落ちる城ではございません。
 二三年のうちに敵方の変化を見計らった上で交付に御旗を入れられるのがよろしいでしょう。
 まず一度御城を明け渡し、私の謀に従って岩櫃に御籠城なされるように。」

この意見に修理と左馬之介も同意したため勝頼は岩櫃入りを決断し
昌幸と修理に各々の城へと戻って籠城の準備を始めるよう命じた。
すでに各地でる落人狩りが始まり、道中の糧秣の確保にも苦労する有様であったが
昌幸は妻や一族を引き連れて岩櫃を目指した。
途中信州小諸で昌幸を迎えるべく甲州を目指していた湯本・鎌原・横谷・西久保・和田・恩田・金子といった
沼田の侍たち出会うことができ
昌幸は岩櫃城へと入って籠城の手配を始めた。

が、そこに勝頼父子が岩櫃ではなく岩殿城へと向かった末に裏切られ
天目山で死したという知らせが入り、昌幸は歯噛みして残念がった。


0086人間七七四年2011/05/16(月) 22:25:06.05ID:FATqdjp9
木曽は信長に下らなきゃそもそも勝頼より早く滅んだだろうから
裏切りが間違っていたわけじゃないだろう

まあ裏切るならもっと早くして秋山を挟撃とかしたら
もっと待遇良かっただろうけど
0087人間七七四年2011/05/16(月) 23:03:37.77ID:i+856xkw
>>86
木曾はどんなに多く見積もってもせいぜい1万石以下の所領の安堵に
過ぎないからなぁ。もし武田が続くのなら、同じ所領でも親族衆
扱いされるのでずっとマシということも言えただろうに…
0088人間七七四年2011/05/17(火) 01:34:19.49ID:ebo/aZ4N
表裏比興の真田を頼るとかないわ。
0089人間七七四年2011/05/17(火) 01:40:54.06ID:HJYKvvCw
武田が滅亡したからああなったんだよ
0090人間七七四年2011/05/17(火) 02:59:24.83ID:ljKTZZWF
木曽は千葉県旭市に飛ばされたから馬鹿
0091人間七七四年2011/05/17(火) 07:06:40.74ID:+hWLmQCu
木曽や穴山の末路は哀れだが、本能寺で信長が死ぬのは予想不能だろ
0092人間七七四年2011/05/17(火) 09:50:10.89ID:b7kIdgvP
木曾はそもそも外様みたいなもんだし
0093人間七七四年2011/05/17(火) 12:33:41.49ID:p1KLLLtr
>>80
高遠で散った方の小山田系も、真田の家老だしな。
0094人間七七四年2011/05/17(火) 13:42:13.68ID:LCSIbL6s
>>92
木曾も真田もド付きの外様だけど、木曾は親族衆でもある。
真田より格上。ただ、幸隆、昌幸が上野攻略で勢力伸ばしていた
真田と違って、織田と直接やりあうハメになる木曾谷じゃ
勢力伸ばしようがなかったから、所領は真田より狭いけどね。
0095人間七七四年2011/05/17(火) 21:13:05.98ID:VXBoFM4q
>>87
穴山はわからんが、木曽は武田に味方した状態では生き残れないから
真っ先に潰されるよりはいい選択をしたはず
0096人間七七四年2011/05/18(水) 01:55:00.36ID:yarQ6VkX
木曽義昌は本能寺のドサクサで信濃を統一しようとしてたらしいからな。
0097人間七七四年2011/05/18(水) 08:16:29.20ID:ILq45rNo
身の程知らずだなw
0098人間七七四年2011/05/18(水) 09:23:42.06ID:69cZ8Ift
小笠原「木曽が松本平で大きな顔するとか許されざるよ」

まあ武田攻めにおける木曽の功績が大きかったのはわかるが流石に
過分だったし本能寺後にこうなるのは止む無し
0099人間七七四年2011/05/18(水) 20:43:39.51ID:nfybr3gA
>>96
滝川一益と森長可から手に入れた信州の豪族の人質を利用しようとしていたんだよな。
なんかせこいなあ
0100人間七七四年2011/05/18(水) 22:15:19.07ID:mpfO5pxZ
木曾義仲でも夢見てたのかねw
身の程知らずもいいところだが。
0101人間七七四年2011/05/18(水) 23:02:35.44ID:0nrtdVPb
木曽氏の没落

 天正十八年(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、
豊かな山林資源を抱える父祖以来の木曽谷から下総国海上郡阿知戸一万石に移封をみた。
この転封によって、多くの譜代の家臣を流浪させるほどに経済的にも逼迫した義昌は、文禄四年(1595)阿知戸城で不遇な晩年を終えたと伝えられる。

 父義昌とともに阿知戸に移住した長子の義利は、叔父の上松義豊との間に不和を生じて、これを殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、
ために義昌死没後まもなくの慶長五年(1600)頃に、家康は義利を追放して阿知戸を直轄地にした。
木曽氏の改易は義利の暴虐もあっただろうが、江戸に近い下総に外様大名が存在することを嫌った徳川氏の政策の結果とも考えられる。

 義利の改易後、義利の母真竜院(信玄の娘)は末子の義通を伴って木曽に帰り黒沢に陰棲した。以後、木曽氏の消息を史料上から知ることはできない。
ここに至って、木曽谷を根拠地に戦国大名として覇を唱えた木曽氏は歴史の表舞台から脱落し、歴史の陰に埋没してしまったのである。

ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiso_k.html
0102人間七七四年2011/05/18(水) 23:32:26.98ID:/Gy7S62n
>>99
で、結果は森長可に城に乱入されて嫡男を人質に取られてしまっただけという。
0103人間七七四年2011/05/19(木) 00:48:51.48ID:i3vVW4Dg
>>102
ただ、このときには長可も信州の豪族の人質を木曾義昌に引き渡しているので(一益も
同様に木曾領を通過している)、義昌が実際に長可暗殺を謀ったかどうかは別としても、
そう悪い取引でもないんだよな。
実際義昌はこの人質を手札にして勢力拡大を目論むわけだし・・・・。
0104人間七七四年2011/05/19(木) 02:11:23.84ID:QEA6f2kl
>>80

仁科家は江戸時代を平穏に過ごし、大正4年(1915年)に正四位を贈られた。
0105人間七七四年2011/05/19(木) 11:09:25.94ID:5cSYEmx4
人質抱えながら松本(あ、当時は深志か) からあっさり逃げ出した木曾は
あららなのは確かだけど、あの状況で松本に返り咲いた小笠原の威光が
すごかったというべきかもしれない。

しっかし、wikipediaに長野では名君とされているとあるけど、どこを
どう評価すれば名君になるんだか…
0106人間七七四年2011/05/20(金) 18:29:33.60ID:XmqJ8s7c
人質の意味のなさなんて、自分の行いでよくわかってるからだろ
0107人間七七四年2011/05/20(金) 22:52:34.59ID:MIBMcwGD
武田を裏切った奴輩の末路などこんなもん。
0108人間七七四年2011/05/21(土) 00:08:19.50ID:wE0IITz3
安芸武田を裏切った熊谷もわやになった
>>107の言う通りなのかもしれないな
0109人間七七四年2011/05/21(土) 01:15:39.48ID:nJKmem2P
とりあえず武田滅亡まで離反しなかった諏訪や真田は明治まで大名として残ったわな
0110人間七七四年2011/05/21(土) 04:18:27.58ID:/XPGlbDh
>>109
でも、正直、偶然だと思うが?
穴山の横死や断絶も木曽のお家騒動も裏切りとはなんの関係もない。
因果応報ということにしたい気持ちはわかるけど。
あと真田はともかく諏訪はちょっと違うぞ。
そもそも諏訪は完全に武田の統制化なので裏切りようがないし、
最初は武田が諏訪頼重を騙まし討ちにして甲斐で腹を切らせたのに武田への忠誠もクソもない。
0111人間七七四年2011/05/21(土) 04:20:59.67ID:/XPGlbDh
ていうか、諏訪家は神様の血を引く武田家以上の名門だし、
>>107式の理屈が正当なら
武田信玄が諏訪家を裏切ったから武田家が滅んだんだろう。
0112人間七七四年2011/05/21(土) 05:05:24.93ID:SKxNGkwG
元の繋がりもあるにしろ最初に裏切った奥平は厚遇だし
やっぱり裏切りはタイミングだな
0113人間七七四年2011/05/21(土) 05:18:17.10ID:/AvFpYFb
奥平は家康娘を貰うのが裏切りの条件だったし、長篠城籠城の戦功もあるしな
0114人間七七四年2011/05/21(土) 09:10:11.35ID:p4Ul7yek
武田滅亡時の色々な話を読むと案外数十年前の恨みを持ち続けてるのな
諏訪も重臣が旧領回復を進言してたし
0115人間七七四年2011/05/21(土) 18:08:01.21ID:YlTDRMTW
だって会津とか南部とか未だに恨み言言ってるぞ
0116人間七七四年2011/05/21(土) 19:09:28.28ID:A/yrtgCE
それって大阪VS東京みたいなネタ話じゃないの?
本当に会津と長州って未だに争ってるんだろうか
0117人間七七四年2011/05/22(日) 03:22:13.58ID:NHiSulvM
御親類衆や武田の旧臣で、勝頼に協力せず家に引き込んでいた者の多くは、出てくれば恩賞を
与えるという織田信忠の廻状を信じて姿を現わし、首を刎ねられた。
記録に残っている大物だけで四十名ほどである。実際はその十倍か二十倍はあったであろう。
0118人間七七四年2011/05/22(日) 05:53:41.44ID:NHiSulvM
某金権政治家(故人)の先祖

金丸昌義 (?〜1582) 武田家準一門。金丸家嫡流。勝頼に従い天目山に討死
0119人間七七四年2011/05/22(日) 16:45:17.04ID:TCLaOD2v
>>118
先祖も草葉の陰で泣いてるだろうな
0120人間七七四年2011/05/22(日) 18:00:38.07ID:hOVXxkNC
それはどうかな?
一時期天下を牛耳ったんだよ
0121人間七七四年2011/05/22(日) 23:54:40.43ID:NHiSulvM
確かに金丸政局とまで言われた時代がありました
0122人間七七四年2011/05/23(月) 12:15:07.77ID:MSXJkJlR
ところで、真田はどうして生き残れたの?
裏で信長と通じていたという話を聞いたこともあるけど
0123人間七七四年2011/05/23(月) 12:18:07.11ID:pFScrH/I
勝頼が小山田に裏切られて死んでるから分からないけど
もし岩殿で徹底抗戦してたら真田はあっさり織田に降伏して岩殿に兵出してただろうね
0124人間七七四年2011/05/23(月) 19:53:36.67ID:BE1EEnT7
岩殿城って大月辺りの山城だよね
たしか見た感じ前面に一枚岩が聳え立ち、あんがい難攻不落っぽいが…
織田軍を撃退するのは無理だよな
0125人間七七四年2011/05/23(月) 20:14:09.97ID:OaLuvzG9
>>124
まぁその内裏切り者が出て落城するだろうけどね
0126人間七七四年2011/05/24(火) 00:02:43.68ID:D30Ff+9D
小宮山友晴は勝頼より日付的に前に戦死してるようなんですが、なぜなんですか?
天目山の戦いってのは3月11日だけではないのかな
0127人間七七四年2011/05/24(火) 23:08:28.08ID:3fwUNM9f
>>124
真田が迎え入れを考えていた岩櫃城も、さらに半端ない。
どうやっても大軍を送り込めない地形だし、岩殿城よりやっかいかと思った。

>>126
1日だけかと。wiki編集者の間違いでは。2日前は小山田の裏切りに遭った日のはず。
0128人間七七四年2011/05/24(火) 23:16:57.09ID:3fwUNM9f
勘違い、もしくは天正と西暦がごっちゃになって、月と日が混ざって書いたのかも。
0129人間七七四年2011/05/25(水) 02:07:31.59ID:h2f5vQyY
981 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/09/11(木) 07:32:54 ID:QFTCJ2hK
天正10年甲州崩れの際、次々と離反する武田家臣達
武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって
謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
0130人間七七四年2011/05/25(水) 02:26:52.69ID:h2f5vQyY
3月9日は小山田信茂が人質を奪った日。

Wikipediaの記載ミスでは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
小宮山 友晴(こみやま ともはる、生年不詳 - 天正10年3月9日(1582年4月11日))
0131人間七七四年2011/05/25(水) 02:40:10.84ID:ZJ1xku1n
小宮山氏は埼玉の行田に逃れて小宮氏を名乗ったとのことだけど、
これまた武田遺臣が大量にいる八王子にも小宮なんて地名があるし
小宮神社なんてものすらあるので、八王子にも来ているのかなぁと
思ったんだけど、八王子の小宮ってもっと由緒古くて、平安時代まで
遡れるんだな。
ttp://www.aa.alpha-net.ne.jp/suza43/rekishi.htm
0132人間七七四年2011/05/25(水) 19:26:16.63ID:kaeQwQGo
>>127・128・130
ありがとうございました
そうですかやはり誤記ですよね

生年不詳だけど小宮山友晴の年齢は50歳位なのかな

ところで、勝頼一行滅亡の顛末(従者の人数や討死した武者の名前、勝頼自身が自決あるいは乱戦中に斬殺されたとか説が色々)を記した文献ってのは
●武田三代軍記
●甲陽軍鑑
●理慶尼記
●甲乱記
●惣見記
●信長公記
●勝沼古事記
など様々あるようなんですが、どれが一番信頼性は高いと言えるのでしょうか?
0133人間七七四年2011/05/25(水) 22:50:39.24ID:SCBm9VBA
単に史料としての価値だけで判断したら、信長公記が一般的には該当かと。
最期については、勇戦したは美化含みにしろ、勝頼が具足櫃に座って動けなかったは無いと思う。
大善寺と駒飼、田野の距離、勝頼の年齢やらを考えて。
小山田寝返りは僅か1日ほど前で、最低その時点までは勝頼自身の食料まで滞ったとは考えづらいし。
数日前まで滞在した大善寺を、手ぶらで送り出されたとも思えないのもある。
その時点で困窮していたら、女人を何人も連れて行かないだろう。
侍女ですら田野まで着いて行ってる以上、食料が優先され、30代の勝頼が「動けなかった」は……
0134人間七七四年2011/05/25(水) 23:56:34.53ID:U2AYH1b3
>>133
飢えじゃなくて、絶望で憔悴して動けなかった(動かなかった)ってのはあるかもよ
家臣らはまだ忠義心という心の支えがあるが、勝頼に何が残っているのか
0135人間七七四年2011/05/26(木) 00:17:24.95ID:NI0/J0Pd
>>133
丁寧でわかりやすい長文ありがとうございます

飢えと疲れで動けず…云々は「三河後風土記」が元らしいですね
確かに、遡って1週間ずっと山中を彷徨してた訳ではなく、大善寺やら駒飼らで逡巡してたのですからそこまで疲労困憊してるとは考えづらいですね
あるとしたら家臣の離反や人心崩壊を目の当たりにみて諸行無常の諦念を抱き茫然自失となっていたとかかな

あと、武田家重宝の御旗楯無は塩山市の雲峰寺と菅田天神にあるということなんですが、天目山の戦い直前に信勝が元服の儀を御旗楯無の前で挙げたとする伝承が本当ならば、どうやってその四面楚歌の状況から略奪されずに済んだのでしょうか?

くだらん質問ばかりですみませぬ
0136人間七七四年2011/05/26(木) 00:35:30.59ID:+vnePTF+
>>135
楯無については、wikiに結構、詳しく書いてあるから、参考にして良いと思う。
正直言って、はっきりしないというのが結論かと。
「小桜韋威鎧」は、1つではないのもあり……
0137人間七七四年2011/05/26(木) 00:46:23.33ID:NI0/J0Pd
>>136
いま確認しました
ありがとうございます
0138人間七七四年2011/05/26(木) 01:12:43.43ID:+vnePTF+
一般的に言われてる話だと、楯無は、田野で儀式→その後、家臣が向岳寺に運び埋める→掘り出されて菅田天神に……かなぁ。
儀礼用があって、儀式にはそちらを使ったとも考えられるけど……聞いたことはないね。
0139人間七七四年2011/05/27(金) 06:41:44.96ID:UEGH3XVI
>>133-135
小山田に追い返されたときにドサクサに紛れて逃げた奴が
食料をくくりつけた馬を使って逃げたらしいよ。

まあ、滞在した寺で少しは飯は食わせてはもらっただろうけど、
あんまり満足できるものでもないと思うよ。
あと、あんまり季節も天候も良くない中、山の中、歩いてれば
疲労して当然だと思うが。精神的なものもあったろうけど。
前スレにもあったが、山梨の山中で遭難した人物が五月にもかかわらず凍死した零もあるそうだし。
0140人間七七四年2011/05/27(金) 09:18:38.31ID:nWPbs7lN
今、長野の山奥にいるが5月でも冷えるよ
GWに来たときは雪積もってたし
0141人間七七四年2011/05/27(金) 12:04:15.29ID:njkDggR7
十代の箱入り姫が同行できてるんだから、そういう面だけで勝頼が疲労困憊は無理あるって。
大善寺、駒飼は屋内滞在だし、山中にいたのなんて最期のわずかな時間に過ぎない。
0142人間七七四年2011/05/27(金) 12:14:24.10ID:njkDggR7
あと、長野と比べても仕方ないでしょ。
イメージ的には甲信で同じだけど、むしろ西東京に近いもの。
0143人間七七四年2011/05/27(金) 13:06:18.64ID:njkDggR7
勝頼が最期の前、屋外にいたのは、丸一日にも満たない。
駒飼に数日滞在、小山田裏切り発覚の翌日に出発、その翌日朝には田野で滅亡なので。
駒飼から3km程度なうえ、田野は山中というよりまだ山麓という地で、道もあったのだから行程としては緩い。
食料にしろ前記の通り、裏切りから丸1日程度の余命。発覚後に馬で大半の食料を持ち去られたとして、飢えるほどの時間はない。

ところで、天候が良くない中…って、最期に行軍した3月10日は雨だったの?
季節にしろ、現代ながら山梨のその辺では、もう桜が散ろうかって時期な気がするけど。
0144人間七七四年2011/05/27(金) 16:16:05.18ID:iW5cRXo5
上州岩櫃城って遠いな。
高遠城陥落したあとに行けるのか?
真田昌幸はどの道で帰ったのか?
でも、岩櫃方面に逃げれば最悪恥も外聞もかなぐり捨てれば上杉景勝が庇護してくれる可能性ってのはないもんか。北条よりは可能性高いと思うんだが。
0145人間七七四年2011/05/27(金) 18:27:43.56ID:m4w06jRT
武田領をほぼ制した織田が岩櫃城に手を焼いて放置プレイしてくれる可能性はあるだろうか?
勝頼が生きてるから無理?
一番良いのは勝頼は小山田を頼って信勝に上州に逃げさせるのがよかったかな
0146人間七七四年2011/05/27(金) 21:24:16.98ID:bhVIrDde
若いのに信勝がすげー潔いから落武者モードで諸国流離は同意しなさそう
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