トップページsengoku
984コメント317KB

天正10年の武田攻めを語るスレ 3

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68T
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。

【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0134人間七七四年2011/05/25(水) 23:56:34.53ID:U2AYH1b3
>>133
飢えじゃなくて、絶望で憔悴して動けなかった(動かなかった)ってのはあるかもよ
家臣らはまだ忠義心という心の支えがあるが、勝頼に何が残っているのか
0135人間七七四年2011/05/26(木) 00:17:24.95ID:NI0/J0Pd
>>133
丁寧でわかりやすい長文ありがとうございます

飢えと疲れで動けず…云々は「三河後風土記」が元らしいですね
確かに、遡って1週間ずっと山中を彷徨してた訳ではなく、大善寺やら駒飼らで逡巡してたのですからそこまで疲労困憊してるとは考えづらいですね
あるとしたら家臣の離反や人心崩壊を目の当たりにみて諸行無常の諦念を抱き茫然自失となっていたとかかな

あと、武田家重宝の御旗楯無は塩山市の雲峰寺と菅田天神にあるということなんですが、天目山の戦い直前に信勝が元服の儀を御旗楯無の前で挙げたとする伝承が本当ならば、どうやってその四面楚歌の状況から略奪されずに済んだのでしょうか?

くだらん質問ばかりですみませぬ
0136人間七七四年2011/05/26(木) 00:35:30.59ID:+vnePTF+
>>135
楯無については、wikiに結構、詳しく書いてあるから、参考にして良いと思う。
正直言って、はっきりしないというのが結論かと。
「小桜韋威鎧」は、1つではないのもあり……
0137人間七七四年2011/05/26(木) 00:46:23.33ID:NI0/J0Pd
>>136
いま確認しました
ありがとうございます
0138人間七七四年2011/05/26(木) 01:12:43.43ID:+vnePTF+
一般的に言われてる話だと、楯無は、田野で儀式→その後、家臣が向岳寺に運び埋める→掘り出されて菅田天神に……かなぁ。
儀礼用があって、儀式にはそちらを使ったとも考えられるけど……聞いたことはないね。
0139人間七七四年2011/05/27(金) 06:41:44.96ID:UEGH3XVI
>>133-135
小山田に追い返されたときにドサクサに紛れて逃げた奴が
食料をくくりつけた馬を使って逃げたらしいよ。

まあ、滞在した寺で少しは飯は食わせてはもらっただろうけど、
あんまり満足できるものでもないと思うよ。
あと、あんまり季節も天候も良くない中、山の中、歩いてれば
疲労して当然だと思うが。精神的なものもあったろうけど。
前スレにもあったが、山梨の山中で遭難した人物が五月にもかかわらず凍死した零もあるそうだし。
0140人間七七四年2011/05/27(金) 09:18:38.31ID:nWPbs7lN
今、長野の山奥にいるが5月でも冷えるよ
GWに来たときは雪積もってたし
0141人間七七四年2011/05/27(金) 12:04:15.29ID:njkDggR7
十代の箱入り姫が同行できてるんだから、そういう面だけで勝頼が疲労困憊は無理あるって。
大善寺、駒飼は屋内滞在だし、山中にいたのなんて最期のわずかな時間に過ぎない。
0142人間七七四年2011/05/27(金) 12:14:24.10ID:njkDggR7
あと、長野と比べても仕方ないでしょ。
イメージ的には甲信で同じだけど、むしろ西東京に近いもの。
0143人間七七四年2011/05/27(金) 13:06:18.64ID:njkDggR7
勝頼が最期の前、屋外にいたのは、丸一日にも満たない。
駒飼に数日滞在、小山田裏切り発覚の翌日に出発、その翌日朝には田野で滅亡なので。
駒飼から3km程度なうえ、田野は山中というよりまだ山麓という地で、道もあったのだから行程としては緩い。
食料にしろ前記の通り、裏切りから丸1日程度の余命。発覚後に馬で大半の食料を持ち去られたとして、飢えるほどの時間はない。

ところで、天候が良くない中…って、最期に行軍した3月10日は雨だったの?
季節にしろ、現代ながら山梨のその辺では、もう桜が散ろうかって時期な気がするけど。
0144人間七七四年2011/05/27(金) 16:16:05.18ID:iW5cRXo5
上州岩櫃城って遠いな。
高遠城陥落したあとに行けるのか?
真田昌幸はどの道で帰ったのか?
でも、岩櫃方面に逃げれば最悪恥も外聞もかなぐり捨てれば上杉景勝が庇護してくれる可能性ってのはないもんか。北条よりは可能性高いと思うんだが。
0145人間七七四年2011/05/27(金) 18:27:43.56ID:m4w06jRT
武田領をほぼ制した織田が岩櫃城に手を焼いて放置プレイしてくれる可能性はあるだろうか?
勝頼が生きてるから無理?
一番良いのは勝頼は小山田を頼って信勝に上州に逃げさせるのがよかったかな
0146人間七七四年2011/05/27(金) 21:24:16.98ID:bhVIrDde
若いのに信勝がすげー潔いから落武者モードで諸国流離は同意しなさそう
0147人間七七四年2011/05/27(金) 21:40:50.54ID:3pHmsXoi
武田滅亡後の甲州で織田はかなり厳しい統治してたから
本能寺みたいなのが起きれば甲州の回復くらい出来るかも
0148人間七七四年2011/05/28(土) 00:54:01.12ID:2i+BE5TF
本能寺起きただけで、何で甲斐・信濃から織田家の支配が一掃されたの?
0149人間七七四年2011/05/28(土) 01:00:58.61ID:Il5vztBm
滝川が北条に粉砕されたのと、川尻ら新領主が支配を固める前に情勢不安になっちゃったこと
森みたいに本領(厳密には弟の領地だが)が不安で帰った場合もある
特に甲信は信忠配下が多く、彼らにとっては主君を二重に失ったようなもの
0150人間七七四年2011/05/28(土) 04:40:58.28ID:kkpxcvl3
>>146
計算だけ言えば、一方は真田、一方は小山田で再起を期すのが、確率高いからねぇ。

>>148
優先度が低かった、っていうのが現実かも。
織田の連中にとって、武田は邪魔であっても、甲信の領土自体はさほど旨味がある土地とも感じてなかっただろうし。
取って僅かな時間のよく知らない土地、知らない連中がいる土地。一旦、撤退するのが賢いとも思える。
0151人間七七四年2011/05/28(土) 06:13:29.37ID:ift2QfaT
残った河尻秀隆は一揆勢に殺されているしね
0152人間七七四年2011/05/28(土) 13:44:05.25ID:iummxbJf
さっさと逃げた森や毛利秀頼はまだ若手なので次があるが河尻は歳なのでちょっと固執したところがあったかもしれない。
0153人間七七四年2011/05/28(土) 14:23:53.70ID:JW+4YFyR
ちょっと納得がいった。無論それだけではないだろうが。
0154人間七七四年2011/05/28(土) 18:29:19.92ID:h+y/kuQj
甲斐の一揆は家康が糸を引いていたって説があるけど、どこまで信憑性がありますか?
0155人間七七四年2011/05/28(土) 18:35:11.09ID:2lxcSVmo
勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?
0156人間七七四年2011/05/28(土) 22:36:25.05ID:Z+u7RFfG
>>155
>勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?

無い

ただし、もしかしたら「おんな風林火山」( >>62 >>64 >>70)にあるかも?????
0157人間七七四年2011/05/28(土) 23:39:19.53ID:Il5vztBm
>>152-153
森や毛利は一城主だが、川尻は甲斐一国任されてたのもあるだろう
0158人間七七四年2011/05/29(日) 00:46:37.36ID:H5savFZy
おそらく四十近いであろう毛利秀頼を若手と呼ぶのはどうだろうか
0159人間七七四年2011/05/29(日) 09:31:28.24ID:bVRiF51C
30代ならまだまだ若手!
0160人間七七四年2011/05/29(日) 12:14:10.25ID:X3T22Y2v
統治がまだ固まっていなかったというのもあるだろうしねえ
川尻の政策みてると、むしろまだ戦後処理中と言えるし
仮定の話で、本能寺のような事件が起きるのが武田滅亡後から
2〜3年後のことだったら、また変わったと思う
0161人間七七四年2011/05/29(日) 12:52:41.42ID:mn/PoU7b
迷っていたところに、徳川から露骨な使者が来て、
キレたか、面子的に帰るに帰れなかったのかもw
0162人間七七四年2011/05/29(日) 16:16:51.95ID:NCm6mcLI
>>156
過去レス見てなかったスマン
やっぱそうなんだ、本能寺は腐るほどあるのによ。
ま、三文役者に演じてもらうのもどーかと思うし、それぞれのイメージを育んでたほうがいいか
0163人間七七四年2011/05/29(日) 18:40:22.87ID:sgU+w6th
河尻秀隆は決して無能な男ではなかったと言われてるな。
しかし、あの混乱までは制御できなかった。
結果的にはさっさと逃げ出すのがベストだったろうな。
0164人間七七四年2011/05/29(日) 20:42:09.19ID:2wS2FzZE
だいたい、無能に甲斐任せるとも思えんしな
0165人間七七四年2011/05/29(日) 21:32:33.73ID:mn/PoU7b
いくら優秀でも、あの時点の甲斐の制御は無理でしょ。
織田の支配強めるために散々やった直後で、
あげく武田旧臣を囲っている徳川が、狙いを定めて突っついてる状況じゃ……
0166人間七七四年2011/05/29(日) 22:51:17.75ID:L8j6zTYU
朝倉旧臣は懐柔してそのまま統治させた場合が多かったのに。
0167人間七七四年2011/05/30(月) 04:18:25.03ID:SCNjUsWG
越前と甲斐とでは全然状況違うだろw

旧朝倉家臣なんて一揆の餌にされちまったぞw
0168人間七七四年2011/05/30(月) 07:52:02.61ID:QzEyXAXJ
しかしそもそも真田はなぜそこまで武田に忠を尽くしたのかが疑問。昌幸のその後の変わり身をみれば、織田に寝返る良いタイミングもわかってたとおもうんだが、そうすれば旧武田領の恩恵にもあずかれただろうに
0169人間七七四年2011/05/30(月) 08:07:02.99ID:rUjajMEv
真田というか、昌幸は信玄子飼いの武将で、元々真田を継ぐわけではなく、名家
である「武藤家」を名乗るのを許されている。
当時はかなりの忠義心があったんじゃないかな。
確か信玄子飼いの同僚は5人程度いて、生き残っていた最期の1人が昌幸だった
はず。
変わり身がどうのは、武田が滅んでしまったかだと思う。
0170人間七七四年2011/05/30(月) 10:18:34.64ID:vyl82gLn
曽根昌世は義信事件の恨みであっさり徳川に降ったのかな?
0171人間七七四年2011/05/30(月) 16:22:29.23ID:Dmxtvh4o
そこまでするなら武田に殉じれば良かったのに
0172人間七七四年2011/05/31(火) 00:16:30.78ID:e4bOSvXA
高天神城の生き残り横田甚五郎は結構長生きしたんだな。
0173人間七七四年2011/05/31(火) 00:54:44.75ID:qCUsu6vy
>>168
逆に時勢を読めるがゆえに
ちょうどいいタイミング自体ないと判断したのかも
終盤に裏切っても恩恵ないし
長篠前じゃ織田徳川に組するには位置が悪い
0174人間七七四年2011/05/31(火) 01:43:27.70ID:Pw/uXlX5
>>173
勝頼と昌幸って結構歳も近いしウマがあったんじゃないかな
0175人間七七四年2011/05/31(火) 01:55:54.97ID:UQ9ogEKr
昌幸が嫡男の息子を差し置いて武藤家から出戻りして真田家の家督を
継いだことも、勝頼の影響があったろうし。
0176人間七七四年2011/05/31(火) 07:08:44.96ID:+mNb03ck
>>174
ウマがあったとも思えないが。
0177人間七七四年2011/05/31(火) 07:12:46.27ID:Nw8xLJ2Y
出戻りで家督をついだのは長篠合戦後で信綱昌輝が死んだから三男の昌幸にまわってきたんじゃないの?
0178人間七七四年2011/05/31(火) 10:29:35.22ID:YAycwTAH
>>177
本来なら長兄信綱嫡男、つまり幸隆嫡孫に家督が回るべきでしょ
ちなみに次兄昌輝にも男子はいます

勝頼と昌幸のウマがあったかはわからんが、武田・真田家中が昌幸家督を許す環境だったのは確か
0179人間七七四年2011/05/31(火) 11:44:05.39ID:ugjK/MLH
昌幸の四男(天正十年以降生まれ)が信勝って名前なのは偶然か
0180人間七七四年2011/05/31(火) 12:07:01.08ID:IfweBuDb
>>179
信勝伝説始まったな
0181人間七七四年2011/05/31(火) 12:17:31.36ID:Nw8xLJ2Y
>>178
あっそっか。完全に忘れてた。確かに家督優先順位は低いな…
0182人間七七四年2011/05/31(火) 12:37:02.21ID:7p2Ytw77
武田は若年の者には城代任せないから
岩櫃城代を真田にそのまま任せようとすれば昌幸が継ぐしかない
0183人間七七四年2011/05/31(火) 12:57:58.40ID:CLfiSSDM
>>180
そうなんですよ
嫌っていたら滅んだ主君の若君様の名前をわざわざ息子に付けるかとは思いますね
0184人間七七四年2011/05/31(火) 12:59:28.72ID:5icipPxB
>>183
180が言いたいのは武田信勝生きていた!伝説と言いたかったのだと思われ
0185人間七七四年2011/05/31(火) 13:10:44.54ID:CLfiSSDM
>>184
そっか
ま、真田信勝も逐電したとか斬殺されたとかで、はかばかしい活躍もなかったのではありまするが
0186人間七七四年2011/05/31(火) 13:52:53.36ID:7p2Ytw77
信繁と似たような感じで信勝ってつけたんじゃね
武田に義理立てというかどうか
0187人間七七四年2011/05/31(火) 20:15:50.16ID:boRkwwnl
土屋あたりの家といい、やっぱり長篠は想像以上に混乱をもたらしてるよな。
一発逆転狙うなら、あの直接対決しかなかったとはいえ。
0188人間七七四年2011/05/31(火) 21:31:38.54ID:YAycwTAH
>>182
陣代って方法もあるからなあ
たしか山県昌景の子は年少で当初は家老が陣代だったような
0189人間七七四年2011/05/31(火) 21:36:05.66ID:boRkwwnl
年齢が適当な後継者がいなきゃ、そうなるでしょ。
次ぐにふさわしい年齢の弟やらがいたという話は知らないが。
0190人間七七四年2011/05/31(火) 21:46:14.89ID:YAycwTAH
>>189
年齢だけなら継いでもおかしくない弟が二人いたが、そいつらも養子に出されてるから昌幸には勝てんな
0191人間七七四年2011/06/01(水) 01:12:26.22ID:oz/p/Zyz
>>188
だから山縣家は江尻城代降ろされた。
0192人間七七四年2011/06/01(水) 04:50:12.60ID:WlKNlNAQ
既出かもしれんが…
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
武田勝頼土佐の会
こんなのあるんだ
0193人間七七四年2011/06/01(水) 19:59:12.93ID:ZZMtl5FY
武田も真田も自称末裔っているけどさ
恥ずかしくないのかね?
0194人間七七四年2011/06/01(水) 21:11:47.38ID:gd6fLZag
自称末裔なんてそれこそ戦国以前からあったことだしなあ…
0195人間七七四年2011/06/01(水) 22:42:20.97ID:aGb+A7cm
血統的には武田本家が柳沢、真田本家は吉宗〜松平定信の流れか
本家ですら信玄や昌幸の血は引いてないからなあ
0196人間七七四年2011/06/01(水) 23:04:15.35ID:87nnkfyf
血統でも、女系も含めていいなら、結構残ってそうだけどねぇ。
0197人間七七四年2011/06/01(水) 23:42:22.18ID:je6rhpet
>>175−176
昌幸の場合、竜朱印状の奏者をつとめたこともあるなど、若いころから武田氏のそば近くにあったわけだし、
彼が真田氏を継ぐほうが勝頼にとってもプラスとなる面は多いだろう。
馬があったかどうかは別としても勝頼は真田昌幸を重用しているな。

>>195
国持クラスの大名ですら藩祖の血を引いていないケースもあるくらいだしな。
0198人間七七四年2011/06/01(水) 23:46:01.91ID:U7OGyTGE
>>192
Yahoo知恵袋に自分は土佐出身で勝頼の末裔だって暴れてるバカがいたな。
最近見ないけど。
0199人間七七四年2011/06/02(木) 10:52:49.58ID:+Fqp9x9W
>>197
実際勝頼期後半の領土拡張は殆ど昌幸正面じゃね?
0200人間七七四年2011/06/03(金) 20:36:00.74ID:KoLFIYsE
小山田が 悪いのかい?
0201人間七七四年2011/06/03(金) 20:40:27.19ID:BSV5TAKD
まぁあの期に及んで裏切りはねーだろ
やるなら穴山とつるんどけよと
0202人間七七四年2011/06/03(金) 22:05:54.23ID:oalE/xZZ
小山田は部下に迫られて無理やり裏切らされたと推測。
0203人間七七四年2011/06/03(金) 22:08:23.86ID:7RZn+vP6
武田勝頼一行が新府を落ち東に向かった事を聞き、これに合しようと笹子峠に向かった。
しかし、小山田信茂の家臣に阻まれ、やむなく今度は田野へ抜ける大菩薩峠を目指し武州の北嶺を越えようとした。
が、ここも北条軍らに遮られ追撃を受けてしまう。
詮なく、武州の箱根ヶ崎に撤退し様子を見ようとしたところ、今度は別の北条軍に攻められ、ついに一族は勝頼の安否不明のまま滅んでしまったといわれている。




武州上野原の豪族加藤丹後守信景一族
0204人間七七四年2011/06/03(金) 23:08:42.15ID:DoKn+9f0
俺達もさぁ頑張ったんだけどさぁ、しょうがなく降伏したんだよ的な
言い訳家譜じゃなくて滅んでるのか、せつないな
0205人間七七四年2011/06/04(土) 03:26:47.12ID:woohBj7h
せめて信忠軍と一戦交えて欲しかったな
負けるにしろ
0206人間七七四年2011/06/04(土) 03:58:29.29ID:kwlR9GBJ
信豊が木曽で惨敗してなきゃ、そうなってたろうな。
0207人間七七四年2011/06/07(火) 13:17:27.99ID:/8LKQLBW
信豊って御親類衆じゃなかったら日の目を見ることなく終わってたレベルだな
0208人間七七四年2011/06/07(火) 20:28:07.21ID:JCkLDcfv
そうでもない。
0209人間七七四年2011/06/08(水) 00:07:43.72ID:l6yMEdlo
>>207
パッとしない逸話もあるけど、親父よりも史料に出てくるのは信豊のほうが
多いんじゃないか?勝頼期にはかなり重要な地位を占めてたようだし。
0210人間七七四年2011/06/08(水) 14:38:37.48ID:mNyIJwYt
前線指揮官より内政向き?
上杉との同盟とかで取り次ぎ役してますね
0211人間七七四年2011/06/08(水) 18:49:07.48ID:wRZw0qac
北条夫人の祈願文は後世の作り物だと確定したんでしたっけ?
0212人間七七四年2011/06/08(水) 20:45:52.02ID:l6yMEdlo
>>211
柴辻俊六氏は「なお議論の余地はあるが」後世のものだろうとし、最近ミネルヴァから
出た『武田勝頼』(笹本正治氏)でも特に考察はないけど、柴辻説を引用している。
0213人間七七四年2011/06/13(月) 16:26:56.52ID:UyXCU9I3
鴨川達夫「武田信玄と勝頼」(岩波新書)のP197に「また、これも重臣の小山田信茂は、勝頼を討ち取ることを信忠に申し出たという」と書いてありますが、根拠となる文献あるいは書状などはあるのでしょうか?
0214人間七七四年2011/06/13(月) 22:56:21.46ID:1/4phLNM
諏訪神軍はまだか?
0215人間七七四年2011/06/14(火) 16:38:04.22ID:ojKfBNuM
御館の乱で景虎見捨てたわけだけどさ
その後北条と手切れした理由は何?
甲相越で不戦条約的な事出来なかったんだろうか
0216人間七七四年2011/06/14(火) 17:54:00.76ID:s2n0TdzE
北条の動きが悪すぎたからじゃね?
0217人間七七四年2011/06/14(火) 19:21:20.31ID:Hj7H5zc9
>>215
上野半国から上野一国を支配した勝頼は関東制覇を目指す北条と対立してしまったのだよ。
0218人間七七四年2011/06/14(火) 21:55:20.54ID:iGYMMkt5
>>215
敵の味方は敵ってことじゃねえの?
北条自身が落ち目の武田より織田と通じたいってのもあっただろうが(景虎支援に消極的だった一因でもあるかと)
0219人間七七四年2011/06/14(火) 23:02:36.04ID:bk6x0T1g
勝頼の時代に小田原城包囲するくらいの北条との激突すべきだったな
中途半端に侵略するより
佐竹で牽制も出来るし上杉も援軍少しは出すでしょ
0220人間七七四年2011/06/14(火) 23:24:00.60ID:oYQXZpre
>>215
もう徳川通して、織田との話も着いてたんでしょ、北条は。
0221人間七七四年2011/06/15(水) 08:04:15.54ID:rztiUn68
>>220
北条は織田にかなりの土下座外交してた。でも、織田にとっては
まともな同盟国としてみられていなかったようで、武田攻め後の仕置きでは
北条が攻め込んだ駿東 -> 徳川へ
北条が厩橋城などに圧力をかけた上野 -> 滝川一益
北武蔵、下総の国人衆 -> 滝川一益参りをしている
と言った具合で、恩賞がないどころか、傘下の国人衆を切り崩されている始末。

本能寺の変がなかったら、北条は伊豆・相模ぐらいまでしか
安堵されなかったんじゃないかという説もあるぐらい。
0222人間七七四年2011/06/15(水) 20:37:23.97ID:CotAlGlJ
そのくせ信長以上に巨大な勢力となった秀吉に歯向かって潰されるとかどうしようもないな。
0223人間七七四年2011/06/15(水) 21:18:01.20ID:rztiUn68
>>222
織田相手に土下座外交をしたのにも関わらずああだったのと、
秀吉が一貫して北条に敵対的だったのと、武田攻め前後に比べれば
北条もひょっとすると倍近くになるぐらいに巨大化したのと。

上野のごく一部と下野の一部と常陸以外の関東全域が勢力圏だし、
徳川・伊達とは同盟関係にあったし。
0224人間七七四年2011/06/15(水) 22:01:32.33ID:ppDOYyp3
>>221
あれだけ下手に出る外交政策が、短期でまとまったとは思えないよね。
交渉以前に、国内の意見を一致させるまでに、相当な時間がかかるはず。小田原評定の家だしw
武田と手切り後のあっという間の徳川・織田との提携を見るに、事前交渉が十分にあったとしか思えないわ。
0225人間七七四年2011/06/15(水) 22:47:46.49ID:rztiUn68
>>224
本能寺の変後の北条の動きもとんでもなく速い。

6月2日に本能寺の変だったけど、神流川の戦いはそのちょうど2週間後の
6月16日。しかも、そのたったの2週間で5万人以上動員。
0226人間七七四年2011/06/16(木) 01:13:35.36ID:hYWOySOK
神流川の戦いは遠征じゃなく、所領奪還戦みたいなものだから、領地から近く迅速に行える範疇に思う。
武蔵付近なんて、関東制圧が悲願の北条にとって、いつかは必ず奪還すべく考えていた地だろうし、
元々地の利もあり、何か機会があれば、いつでも攻撃できるような計画くらいは事前にあったと思われる。
あと、5万はないよね、実際。
0227人間七七四年2011/06/19(日) 19:38:04.51ID:U+dimFEq
すこしは 小山田氏を 社会に だしてね。
0228人間七七四年2011/06/21(火) 15:44:50.92ID:iJT59+dx
やっぱさ、織田が武田進攻なんて聞いても、北条はまた付き合い程度に兵を出しとくか〜くらいな軽い気持ちで
武田滅亡なんて夢にも思ってないから
事態の急展開に付いていけず
心構えなんて北条には無かったから織田の力が図れず動揺したんだと思う。
しかし秀吉の時は充分な時間が与えられていたからね。
しかも真田にちょっかい出したらあんなに秀吉がキレるとも思ってないから既成事実を作っちゃえとか条件闘争の交渉材料を作ろうとしただけでしょ。
それに長宗我部や島津は本領安堵されてるから反抗しても伊豆と相模くらいは安堵されんだろみたいな甘さもあったかも。
0229人間七七四年2011/06/22(水) 08:29:46.80ID:N55rH6pS
北条が秀吉に抵抗したのは家康との同盟と伊達の後詰め期待してでしょ
北条だけで籠城じゃ結局負けるのは当然というか
ただ信長の浅井・朝倉征伐以降それまでの常識を越えた侵攻スピードの戦いが起きてる事実を
北条が見誤ってたのは確かだろうね
0230人間七七四年2011/06/22(水) 08:47:07.48ID:MzkmZ4/D
確かに迅速だよね
尾張兵は弱兵だったっていう話だけど実際はよく訓練されてた気がする
やっぱ徳川史観で神君の活躍なくして、信長公の立身はなかった!っていうアレかね
0231人間七七四年2011/06/22(水) 16:07:38.10ID:tCp2+ZIq
長宗我部や島津でも本拠地には攻め込ませてないのにいきなり本城囲まれてる時点で終わり
0232人間七七四年2011/06/22(水) 19:51:08.33ID:Lkfi/X4N
元々野戦する気が全くないからなぁ
小田原城は強襲で落城したことはないわけで
0233人間七七四年2011/06/23(木) 03:28:57.55ID:I+ypMESY
小田原城は東側からの侵攻に対してほぼ最前線になるからな。領土と本城の位置が良く無かったよ
島津なら薩摩だし長宗我部なら土佐なわけだし一応
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています