天正10年の武田攻めを語るスレ 3
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0001人間七七四年
2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68Tわずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0100人間七七四年
2011/05/18(水) 22:15:19.07ID:mpfO5pxZ身の程知らずもいいところだが。
0101人間七七四年
2011/05/18(水) 23:02:35.44ID:0nrtdVPb天正十八年(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、
豊かな山林資源を抱える父祖以来の木曽谷から下総国海上郡阿知戸一万石に移封をみた。
この転封によって、多くの譜代の家臣を流浪させるほどに経済的にも逼迫した義昌は、文禄四年(1595)阿知戸城で不遇な晩年を終えたと伝えられる。
父義昌とともに阿知戸に移住した長子の義利は、叔父の上松義豊との間に不和を生じて、これを殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、
ために義昌死没後まもなくの慶長五年(1600)頃に、家康は義利を追放して阿知戸を直轄地にした。
木曽氏の改易は義利の暴虐もあっただろうが、江戸に近い下総に外様大名が存在することを嫌った徳川氏の政策の結果とも考えられる。
義利の改易後、義利の母真竜院(信玄の娘)は末子の義通を伴って木曽に帰り黒沢に陰棲した。以後、木曽氏の消息を史料上から知ることはできない。
ここに至って、木曽谷を根拠地に戦国大名として覇を唱えた木曽氏は歴史の表舞台から脱落し、歴史の陰に埋没してしまったのである。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiso_k.html
0103人間七七四年
2011/05/19(木) 00:48:51.48ID:i3vVW4Dgただ、このときには長可も信州の豪族の人質を木曾義昌に引き渡しているので(一益も
同様に木曾領を通過している)、義昌が実際に長可暗殺を謀ったかどうかは別としても、
そう悪い取引でもないんだよな。
実際義昌はこの人質を手札にして勢力拡大を目論むわけだし・・・・。
0105人間七七四年
2011/05/19(木) 11:09:25.94ID:5cSYEmx4あららなのは確かだけど、あの状況で松本に返り咲いた小笠原の威光が
すごかったというべきかもしれない。
しっかし、wikipediaに長野では名君とされているとあるけど、どこを
どう評価すれば名君になるんだか…
0106人間七七四年
2011/05/20(金) 18:29:33.60ID:XmqJ8s7c0107人間七七四年
2011/05/20(金) 22:52:34.59ID:MIBMcwGD0109人間七七四年
2011/05/21(土) 01:15:39.48ID:nJKmem2P0110人間七七四年
2011/05/21(土) 04:18:27.58ID:/XPGlbDhでも、正直、偶然だと思うが?
穴山の横死や断絶も木曽のお家騒動も裏切りとはなんの関係もない。
因果応報ということにしたい気持ちはわかるけど。
あと真田はともかく諏訪はちょっと違うぞ。
そもそも諏訪は完全に武田の統制化なので裏切りようがないし、
最初は武田が諏訪頼重を騙まし討ちにして甲斐で腹を切らせたのに武田への忠誠もクソもない。
0111人間七七四年
2011/05/21(土) 04:20:59.67ID:/XPGlbDh>>107式の理屈が正当なら
武田信玄が諏訪家を裏切ったから武田家が滅んだんだろう。
0112人間七七四年
2011/05/21(土) 05:05:24.93ID:SKxNGkwGやっぱり裏切りはタイミングだな
0113人間七七四年
2011/05/21(土) 05:18:17.10ID:/AvFpYFb0114人間七七四年
2011/05/21(土) 09:10:11.35ID:p4Ul7yek諏訪も重臣が旧領回復を進言してたし
0115人間七七四年
2011/05/21(土) 18:08:01.21ID:YlTDRMTW0116人間七七四年
2011/05/21(土) 19:09:28.28ID:A/yrtgCE本当に会津と長州って未だに争ってるんだろうか
0117人間七七四年
2011/05/22(日) 03:22:13.58ID:NHiSulvM与えるという織田信忠の廻状を信じて姿を現わし、首を刎ねられた。
記録に残っている大物だけで四十名ほどである。実際はその十倍か二十倍はあったであろう。
0118人間七七四年
2011/05/22(日) 05:53:41.44ID:NHiSulvM金丸昌義 (?〜1582) 武田家準一門。金丸家嫡流。勝頼に従い天目山に討死
0120人間七七四年
2011/05/22(日) 18:00:38.07ID:hOVXxkNC一時期天下を牛耳ったんだよ
0121人間七七四年
2011/05/22(日) 23:54:40.43ID:NHiSulvM0122人間七七四年
2011/05/23(月) 12:15:07.77ID:MSXJkJlR裏で信長と通じていたという話を聞いたこともあるけど
0123人間七七四年
2011/05/23(月) 12:18:07.11ID:pFScrH/Iもし岩殿で徹底抗戦してたら真田はあっさり織田に降伏して岩殿に兵出してただろうね
0124人間七七四年
2011/05/23(月) 19:53:36.67ID:BE1EEnT7たしか見た感じ前面に一枚岩が聳え立ち、あんがい難攻不落っぽいが…
織田軍を撃退するのは無理だよな
0126人間七七四年
2011/05/24(火) 00:02:43.68ID:D30Ff+9D天目山の戦いってのは3月11日だけではないのかな
0127人間七七四年
2011/05/24(火) 23:08:28.08ID:3fwUNM9f真田が迎え入れを考えていた岩櫃城も、さらに半端ない。
どうやっても大軍を送り込めない地形だし、岩殿城よりやっかいかと思った。
>>126
1日だけかと。wiki編集者の間違いでは。2日前は小山田の裏切りに遭った日のはず。
0128人間七七四年
2011/05/24(火) 23:16:57.09ID:3fwUNM9f0129人間七七四年
2011/05/25(水) 02:07:31.59ID:h2f5vQyY天正10年甲州崩れの際、次々と離反する武田家臣達
武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって
謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
0130人間七七四年
2011/05/25(水) 02:26:52.69ID:h2f5vQyYWikipediaの記載ミスでは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
小宮山 友晴(こみやま ともはる、生年不詳 - 天正10年3月9日(1582年4月11日))
0131人間七七四年
2011/05/25(水) 02:40:10.84ID:ZJ1xku1nこれまた武田遺臣が大量にいる八王子にも小宮なんて地名があるし
小宮神社なんてものすらあるので、八王子にも来ているのかなぁと
思ったんだけど、八王子の小宮ってもっと由緒古くて、平安時代まで
遡れるんだな。
ttp://www.aa.alpha-net.ne.jp/suza43/rekishi.htm
0132人間七七四年
2011/05/25(水) 19:26:16.63ID:kaeQwQGoありがとうございました
そうですかやはり誤記ですよね
生年不詳だけど小宮山友晴の年齢は50歳位なのかな
ところで、勝頼一行滅亡の顛末(従者の人数や討死した武者の名前、勝頼自身が自決あるいは乱戦中に斬殺されたとか説が色々)を記した文献ってのは
●武田三代軍記
●甲陽軍鑑
●理慶尼記
●甲乱記
●惣見記
●信長公記
●勝沼古事記
など様々あるようなんですが、どれが一番信頼性は高いと言えるのでしょうか?
0133人間七七四年
2011/05/25(水) 22:50:39.24ID:SCBm9VBA最期については、勇戦したは美化含みにしろ、勝頼が具足櫃に座って動けなかったは無いと思う。
大善寺と駒飼、田野の距離、勝頼の年齢やらを考えて。
小山田寝返りは僅か1日ほど前で、最低その時点までは勝頼自身の食料まで滞ったとは考えづらいし。
数日前まで滞在した大善寺を、手ぶらで送り出されたとも思えないのもある。
その時点で困窮していたら、女人を何人も連れて行かないだろう。
侍女ですら田野まで着いて行ってる以上、食料が優先され、30代の勝頼が「動けなかった」は……
0134人間七七四年
2011/05/25(水) 23:56:34.53ID:U2AYH1b3飢えじゃなくて、絶望で憔悴して動けなかった(動かなかった)ってのはあるかもよ
家臣らはまだ忠義心という心の支えがあるが、勝頼に何が残っているのか
0135人間七七四年
2011/05/26(木) 00:17:24.95ID:NI0/J0Pd丁寧でわかりやすい長文ありがとうございます
飢えと疲れで動けず…云々は「三河後風土記」が元らしいですね
確かに、遡って1週間ずっと山中を彷徨してた訳ではなく、大善寺やら駒飼らで逡巡してたのですからそこまで疲労困憊してるとは考えづらいですね
あるとしたら家臣の離反や人心崩壊を目の当たりにみて諸行無常の諦念を抱き茫然自失となっていたとかかな
あと、武田家重宝の御旗楯無は塩山市の雲峰寺と菅田天神にあるということなんですが、天目山の戦い直前に信勝が元服の儀を御旗楯無の前で挙げたとする伝承が本当ならば、どうやってその四面楚歌の状況から略奪されずに済んだのでしょうか?
くだらん質問ばかりですみませぬ
0136人間七七四年
2011/05/26(木) 00:35:30.59ID:+vnePTF+楯無については、wikiに結構、詳しく書いてあるから、参考にして良いと思う。
正直言って、はっきりしないというのが結論かと。
「小桜韋威鎧」は、1つではないのもあり……
0138人間七七四年
2011/05/26(木) 01:12:43.43ID:+vnePTF+儀礼用があって、儀式にはそちらを使ったとも考えられるけど……聞いたことはないね。
0139人間七七四年
2011/05/27(金) 06:41:44.96ID:UEGH3XVI小山田に追い返されたときにドサクサに紛れて逃げた奴が
食料をくくりつけた馬を使って逃げたらしいよ。
まあ、滞在した寺で少しは飯は食わせてはもらっただろうけど、
あんまり満足できるものでもないと思うよ。
あと、あんまり季節も天候も良くない中、山の中、歩いてれば
疲労して当然だと思うが。精神的なものもあったろうけど。
前スレにもあったが、山梨の山中で遭難した人物が五月にもかかわらず凍死した零もあるそうだし。
0140人間七七四年
2011/05/27(金) 09:18:38.31ID:nWPbs7lNGWに来たときは雪積もってたし
0141人間七七四年
2011/05/27(金) 12:04:15.29ID:njkDggR7大善寺、駒飼は屋内滞在だし、山中にいたのなんて最期のわずかな時間に過ぎない。
0142人間七七四年
2011/05/27(金) 12:14:24.10ID:njkDggR7イメージ的には甲信で同じだけど、むしろ西東京に近いもの。
0143人間七七四年
2011/05/27(金) 13:06:18.64ID:njkDggR7駒飼に数日滞在、小山田裏切り発覚の翌日に出発、その翌日朝には田野で滅亡なので。
駒飼から3km程度なうえ、田野は山中というよりまだ山麓という地で、道もあったのだから行程としては緩い。
食料にしろ前記の通り、裏切りから丸1日程度の余命。発覚後に馬で大半の食料を持ち去られたとして、飢えるほどの時間はない。
ところで、天候が良くない中…って、最期に行軍した3月10日は雨だったの?
季節にしろ、現代ながら山梨のその辺では、もう桜が散ろうかって時期な気がするけど。
0144人間七七四年
2011/05/27(金) 16:16:05.18ID:iW5cRXo5高遠城陥落したあとに行けるのか?
真田昌幸はどの道で帰ったのか?
でも、岩櫃方面に逃げれば最悪恥も外聞もかなぐり捨てれば上杉景勝が庇護してくれる可能性ってのはないもんか。北条よりは可能性高いと思うんだが。
0145人間七七四年
2011/05/27(金) 18:27:43.56ID:m4w06jRT勝頼が生きてるから無理?
一番良いのは勝頼は小山田を頼って信勝に上州に逃げさせるのがよかったかな
0146人間七七四年
2011/05/27(金) 21:24:16.98ID:bhVIrDde0147人間七七四年
2011/05/27(金) 21:40:50.54ID:3pHmsXoi本能寺みたいなのが起きれば甲州の回復くらい出来るかも
0148人間七七四年
2011/05/28(土) 00:54:01.12ID:2i+BE5TF0149人間七七四年
2011/05/28(土) 01:00:58.61ID:Il5vztBm森みたいに本領(厳密には弟の領地だが)が不安で帰った場合もある
特に甲信は信忠配下が多く、彼らにとっては主君を二重に失ったようなもの
0150人間七七四年
2011/05/28(土) 04:40:58.28ID:kkpxcvl3計算だけ言えば、一方は真田、一方は小山田で再起を期すのが、確率高いからねぇ。
>>148
優先度が低かった、っていうのが現実かも。
織田の連中にとって、武田は邪魔であっても、甲信の領土自体はさほど旨味がある土地とも感じてなかっただろうし。
取って僅かな時間のよく知らない土地、知らない連中がいる土地。一旦、撤退するのが賢いとも思える。
0151人間七七四年
2011/05/28(土) 06:13:29.37ID:ift2QfaT0152人間七七四年
2011/05/28(土) 13:44:05.25ID:iummxbJf0153人間七七四年
2011/05/28(土) 14:23:53.70ID:JW+4YFyR0154人間七七四年
2011/05/28(土) 18:29:19.92ID:h+y/kuQj0155人間七七四年
2011/05/28(土) 18:35:11.09ID:2lxcSVmo0156人間七七四年
2011/05/28(土) 22:36:25.05ID:Z+u7RFfG>勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?
無い
ただし、もしかしたら「おんな風林火山」( >>62 >>64 >>70)にあるかも?????
0158人間七七四年
2011/05/29(日) 00:46:37.36ID:H5savFZy0159人間七七四年
2011/05/29(日) 09:31:28.24ID:bVRiF51C0160人間七七四年
2011/05/29(日) 12:14:10.25ID:X3T22Y2v川尻の政策みてると、むしろまだ戦後処理中と言えるし
仮定の話で、本能寺のような事件が起きるのが武田滅亡後から
2〜3年後のことだったら、また変わったと思う
0161人間七七四年
2011/05/29(日) 12:52:41.42ID:mn/PoU7bキレたか、面子的に帰るに帰れなかったのかもw
0162人間七七四年
2011/05/29(日) 16:16:51.95ID:NCm6mcLI過去レス見てなかったスマン
やっぱそうなんだ、本能寺は腐るほどあるのによ。
ま、三文役者に演じてもらうのもどーかと思うし、それぞれのイメージを育んでたほうがいいか
0163人間七七四年
2011/05/29(日) 18:40:22.87ID:sgU+w6thしかし、あの混乱までは制御できなかった。
結果的にはさっさと逃げ出すのがベストだったろうな。
0164人間七七四年
2011/05/29(日) 20:42:09.19ID:2wS2FzZE0165人間七七四年
2011/05/29(日) 21:32:33.73ID:mn/PoU7b織田の支配強めるために散々やった直後で、
あげく武田旧臣を囲っている徳川が、狙いを定めて突っついてる状況じゃ……
0166人間七七四年
2011/05/29(日) 22:51:17.75ID:L8j6zTYU0167人間七七四年
2011/05/30(月) 04:18:25.03ID:SCNjUsWG旧朝倉家臣なんて一揆の餌にされちまったぞw
0168人間七七四年
2011/05/30(月) 07:52:02.61ID:QzEyXAXJ0169人間七七四年
2011/05/30(月) 08:07:02.99ID:rUjajMEvである「武藤家」を名乗るのを許されている。
当時はかなりの忠義心があったんじゃないかな。
確か信玄子飼いの同僚は5人程度いて、生き残っていた最期の1人が昌幸だった
はず。
変わり身がどうのは、武田が滅んでしまったかだと思う。
0170人間七七四年
2011/05/30(月) 10:18:34.64ID:vyl82gLn0171人間七七四年
2011/05/30(月) 16:22:29.23ID:Dmxtvh4o0172人間七七四年
2011/05/31(火) 00:16:30.78ID:e4bOSvXA0173人間七七四年
2011/05/31(火) 00:54:44.75ID:qCUsu6vy逆に時勢を読めるがゆえに
ちょうどいいタイミング自体ないと判断したのかも
終盤に裏切っても恩恵ないし
長篠前じゃ織田徳川に組するには位置が悪い
0175人間七七四年
2011/05/31(火) 01:55:54.97ID:UQ9ogEKr継いだことも、勝頼の影響があったろうし。
0177人間七七四年
2011/05/31(火) 07:12:46.27ID:Nw8xLJ2Y0178人間七七四年
2011/05/31(火) 10:29:35.22ID:YAycwTAH本来なら長兄信綱嫡男、つまり幸隆嫡孫に家督が回るべきでしょ
ちなみに次兄昌輝にも男子はいます
勝頼と昌幸のウマがあったかはわからんが、武田・真田家中が昌幸家督を許す環境だったのは確か
0179人間七七四年
2011/05/31(火) 11:44:05.39ID:ugjK/MLH0182人間七七四年
2011/05/31(火) 12:37:02.21ID:7p2Ytw77岩櫃城代を真田にそのまま任せようとすれば昌幸が継ぐしかない
0185人間七七四年
2011/05/31(火) 13:10:44.54ID:CLfiSSDMそっか
ま、真田信勝も逐電したとか斬殺されたとかで、はかばかしい活躍もなかったのではありまするが
0186人間七七四年
2011/05/31(火) 13:52:53.36ID:7p2Ytw77武田に義理立てというかどうか
0187人間七七四年
2011/05/31(火) 20:15:50.16ID:boRkwwnl一発逆転狙うなら、あの直接対決しかなかったとはいえ。
0189人間七七四年
2011/05/31(火) 21:36:05.66ID:boRkwwnl次ぐにふさわしい年齢の弟やらがいたという話は知らないが。
0190人間七七四年
2011/05/31(火) 21:46:14.89ID:YAycwTAH年齢だけなら継いでもおかしくない弟が二人いたが、そいつらも養子に出されてるから昌幸には勝てんな
0192人間七七四年
2011/06/01(水) 04:50:12.60ID:WlKNlNAQhttp://katsuyoritosa.web.fc2.com/
武田勝頼土佐の会
こんなのあるんだ
0193人間七七四年
2011/06/01(水) 19:59:12.93ID:ZZMtl5FY恥ずかしくないのかね?
0194人間七七四年
2011/06/01(水) 21:11:47.38ID:gd6fLZag0195人間七七四年
2011/06/01(水) 22:42:20.97ID:aGb+A7cm本家ですら信玄や昌幸の血は引いてないからなあ
0196人間七七四年
2011/06/01(水) 23:04:15.35ID:87nnkfyf0197人間七七四年
2011/06/01(水) 23:42:22.18ID:je6rhpet昌幸の場合、竜朱印状の奏者をつとめたこともあるなど、若いころから武田氏のそば近くにあったわけだし、
彼が真田氏を継ぐほうが勝頼にとってもプラスとなる面は多いだろう。
馬があったかどうかは別としても勝頼は真田昌幸を重用しているな。
>>195
国持クラスの大名ですら藩祖の血を引いていないケースもあるくらいだしな。
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