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天正10年の武田攻めを語るスレ 3

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0001人間七七四年2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68T
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。

【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0100人間七七四年2011/05/18(水) 22:15:19.07ID:mpfO5pxZ
木曾義仲でも夢見てたのかねw
身の程知らずもいいところだが。
0101人間七七四年2011/05/18(水) 23:02:35.44ID:0nrtdVPb
木曽氏の没落

 天正十八年(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、
豊かな山林資源を抱える父祖以来の木曽谷から下総国海上郡阿知戸一万石に移封をみた。
この転封によって、多くの譜代の家臣を流浪させるほどに経済的にも逼迫した義昌は、文禄四年(1595)阿知戸城で不遇な晩年を終えたと伝えられる。

 父義昌とともに阿知戸に移住した長子の義利は、叔父の上松義豊との間に不和を生じて、これを殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、
ために義昌死没後まもなくの慶長五年(1600)頃に、家康は義利を追放して阿知戸を直轄地にした。
木曽氏の改易は義利の暴虐もあっただろうが、江戸に近い下総に外様大名が存在することを嫌った徳川氏の政策の結果とも考えられる。

 義利の改易後、義利の母真竜院(信玄の娘)は末子の義通を伴って木曽に帰り黒沢に陰棲した。以後、木曽氏の消息を史料上から知ることはできない。
ここに至って、木曽谷を根拠地に戦国大名として覇を唱えた木曽氏は歴史の表舞台から脱落し、歴史の陰に埋没してしまったのである。

ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiso_k.html
0102人間七七四年2011/05/18(水) 23:32:26.98ID:/Gy7S62n
>>99
で、結果は森長可に城に乱入されて嫡男を人質に取られてしまっただけという。
0103人間七七四年2011/05/19(木) 00:48:51.48ID:i3vVW4Dg
>>102
ただ、このときには長可も信州の豪族の人質を木曾義昌に引き渡しているので(一益も
同様に木曾領を通過している)、義昌が実際に長可暗殺を謀ったかどうかは別としても、
そう悪い取引でもないんだよな。
実際義昌はこの人質を手札にして勢力拡大を目論むわけだし・・・・。
0104人間七七四年2011/05/19(木) 02:11:23.84ID:QEA6f2kl
>>80

仁科家は江戸時代を平穏に過ごし、大正4年(1915年)に正四位を贈られた。
0105人間七七四年2011/05/19(木) 11:09:25.94ID:5cSYEmx4
人質抱えながら松本(あ、当時は深志か) からあっさり逃げ出した木曾は
あららなのは確かだけど、あの状況で松本に返り咲いた小笠原の威光が
すごかったというべきかもしれない。

しっかし、wikipediaに長野では名君とされているとあるけど、どこを
どう評価すれば名君になるんだか…
0106人間七七四年2011/05/20(金) 18:29:33.60ID:XmqJ8s7c
人質の意味のなさなんて、自分の行いでよくわかってるからだろ
0107人間七七四年2011/05/20(金) 22:52:34.59ID:MIBMcwGD
武田を裏切った奴輩の末路などこんなもん。
0108人間七七四年2011/05/21(土) 00:08:19.50ID:wE0IITz3
安芸武田を裏切った熊谷もわやになった
>>107の言う通りなのかもしれないな
0109人間七七四年2011/05/21(土) 01:15:39.48ID:nJKmem2P
とりあえず武田滅亡まで離反しなかった諏訪や真田は明治まで大名として残ったわな
0110人間七七四年2011/05/21(土) 04:18:27.58ID:/XPGlbDh
>>109
でも、正直、偶然だと思うが?
穴山の横死や断絶も木曽のお家騒動も裏切りとはなんの関係もない。
因果応報ということにしたい気持ちはわかるけど。
あと真田はともかく諏訪はちょっと違うぞ。
そもそも諏訪は完全に武田の統制化なので裏切りようがないし、
最初は武田が諏訪頼重を騙まし討ちにして甲斐で腹を切らせたのに武田への忠誠もクソもない。
0111人間七七四年2011/05/21(土) 04:20:59.67ID:/XPGlbDh
ていうか、諏訪家は神様の血を引く武田家以上の名門だし、
>>107式の理屈が正当なら
武田信玄が諏訪家を裏切ったから武田家が滅んだんだろう。
0112人間七七四年2011/05/21(土) 05:05:24.93ID:SKxNGkwG
元の繋がりもあるにしろ最初に裏切った奥平は厚遇だし
やっぱり裏切りはタイミングだな
0113人間七七四年2011/05/21(土) 05:18:17.10ID:/AvFpYFb
奥平は家康娘を貰うのが裏切りの条件だったし、長篠城籠城の戦功もあるしな
0114人間七七四年2011/05/21(土) 09:10:11.35ID:p4Ul7yek
武田滅亡時の色々な話を読むと案外数十年前の恨みを持ち続けてるのな
諏訪も重臣が旧領回復を進言してたし
0115人間七七四年2011/05/21(土) 18:08:01.21ID:YlTDRMTW
だって会津とか南部とか未だに恨み言言ってるぞ
0116人間七七四年2011/05/21(土) 19:09:28.28ID:A/yrtgCE
それって大阪VS東京みたいなネタ話じゃないの?
本当に会津と長州って未だに争ってるんだろうか
0117人間七七四年2011/05/22(日) 03:22:13.58ID:NHiSulvM
御親類衆や武田の旧臣で、勝頼に協力せず家に引き込んでいた者の多くは、出てくれば恩賞を
与えるという織田信忠の廻状を信じて姿を現わし、首を刎ねられた。
記録に残っている大物だけで四十名ほどである。実際はその十倍か二十倍はあったであろう。
0118人間七七四年2011/05/22(日) 05:53:41.44ID:NHiSulvM
某金権政治家(故人)の先祖

金丸昌義 (?〜1582) 武田家準一門。金丸家嫡流。勝頼に従い天目山に討死
0119人間七七四年2011/05/22(日) 16:45:17.04ID:TCLaOD2v
>>118
先祖も草葉の陰で泣いてるだろうな
0120人間七七四年2011/05/22(日) 18:00:38.07ID:hOVXxkNC
それはどうかな?
一時期天下を牛耳ったんだよ
0121人間七七四年2011/05/22(日) 23:54:40.43ID:NHiSulvM
確かに金丸政局とまで言われた時代がありました
0122人間七七四年2011/05/23(月) 12:15:07.77ID:MSXJkJlR
ところで、真田はどうして生き残れたの?
裏で信長と通じていたという話を聞いたこともあるけど
0123人間七七四年2011/05/23(月) 12:18:07.11ID:pFScrH/I
勝頼が小山田に裏切られて死んでるから分からないけど
もし岩殿で徹底抗戦してたら真田はあっさり織田に降伏して岩殿に兵出してただろうね
0124人間七七四年2011/05/23(月) 19:53:36.67ID:BE1EEnT7
岩殿城って大月辺りの山城だよね
たしか見た感じ前面に一枚岩が聳え立ち、あんがい難攻不落っぽいが…
織田軍を撃退するのは無理だよな
0125人間七七四年2011/05/23(月) 20:14:09.97ID:OaLuvzG9
>>124
まぁその内裏切り者が出て落城するだろうけどね
0126人間七七四年2011/05/24(火) 00:02:43.68ID:D30Ff+9D
小宮山友晴は勝頼より日付的に前に戦死してるようなんですが、なぜなんですか?
天目山の戦いってのは3月11日だけではないのかな
0127人間七七四年2011/05/24(火) 23:08:28.08ID:3fwUNM9f
>>124
真田が迎え入れを考えていた岩櫃城も、さらに半端ない。
どうやっても大軍を送り込めない地形だし、岩殿城よりやっかいかと思った。

>>126
1日だけかと。wiki編集者の間違いでは。2日前は小山田の裏切りに遭った日のはず。
0128人間七七四年2011/05/24(火) 23:16:57.09ID:3fwUNM9f
勘違い、もしくは天正と西暦がごっちゃになって、月と日が混ざって書いたのかも。
0129人間七七四年2011/05/25(水) 02:07:31.59ID:h2f5vQyY
981 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/09/11(木) 07:32:54 ID:QFTCJ2hK
天正10年甲州崩れの際、次々と離反する武田家臣達
武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって
謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
0130人間七七四年2011/05/25(水) 02:26:52.69ID:h2f5vQyY
3月9日は小山田信茂が人質を奪った日。

Wikipediaの記載ミスでは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
小宮山 友晴(こみやま ともはる、生年不詳 - 天正10年3月9日(1582年4月11日))
0131人間七七四年2011/05/25(水) 02:40:10.84ID:ZJ1xku1n
小宮山氏は埼玉の行田に逃れて小宮氏を名乗ったとのことだけど、
これまた武田遺臣が大量にいる八王子にも小宮なんて地名があるし
小宮神社なんてものすらあるので、八王子にも来ているのかなぁと
思ったんだけど、八王子の小宮ってもっと由緒古くて、平安時代まで
遡れるんだな。
ttp://www.aa.alpha-net.ne.jp/suza43/rekishi.htm
0132人間七七四年2011/05/25(水) 19:26:16.63ID:kaeQwQGo
>>127・128・130
ありがとうございました
そうですかやはり誤記ですよね

生年不詳だけど小宮山友晴の年齢は50歳位なのかな

ところで、勝頼一行滅亡の顛末(従者の人数や討死した武者の名前、勝頼自身が自決あるいは乱戦中に斬殺されたとか説が色々)を記した文献ってのは
●武田三代軍記
●甲陽軍鑑
●理慶尼記
●甲乱記
●惣見記
●信長公記
●勝沼古事記
など様々あるようなんですが、どれが一番信頼性は高いと言えるのでしょうか?
0133人間七七四年2011/05/25(水) 22:50:39.24ID:SCBm9VBA
単に史料としての価値だけで判断したら、信長公記が一般的には該当かと。
最期については、勇戦したは美化含みにしろ、勝頼が具足櫃に座って動けなかったは無いと思う。
大善寺と駒飼、田野の距離、勝頼の年齢やらを考えて。
小山田寝返りは僅か1日ほど前で、最低その時点までは勝頼自身の食料まで滞ったとは考えづらいし。
数日前まで滞在した大善寺を、手ぶらで送り出されたとも思えないのもある。
その時点で困窮していたら、女人を何人も連れて行かないだろう。
侍女ですら田野まで着いて行ってる以上、食料が優先され、30代の勝頼が「動けなかった」は……
0134人間七七四年2011/05/25(水) 23:56:34.53ID:U2AYH1b3
>>133
飢えじゃなくて、絶望で憔悴して動けなかった(動かなかった)ってのはあるかもよ
家臣らはまだ忠義心という心の支えがあるが、勝頼に何が残っているのか
0135人間七七四年2011/05/26(木) 00:17:24.95ID:NI0/J0Pd
>>133
丁寧でわかりやすい長文ありがとうございます

飢えと疲れで動けず…云々は「三河後風土記」が元らしいですね
確かに、遡って1週間ずっと山中を彷徨してた訳ではなく、大善寺やら駒飼らで逡巡してたのですからそこまで疲労困憊してるとは考えづらいですね
あるとしたら家臣の離反や人心崩壊を目の当たりにみて諸行無常の諦念を抱き茫然自失となっていたとかかな

あと、武田家重宝の御旗楯無は塩山市の雲峰寺と菅田天神にあるということなんですが、天目山の戦い直前に信勝が元服の儀を御旗楯無の前で挙げたとする伝承が本当ならば、どうやってその四面楚歌の状況から略奪されずに済んだのでしょうか?

くだらん質問ばかりですみませぬ
0136人間七七四年2011/05/26(木) 00:35:30.59ID:+vnePTF+
>>135
楯無については、wikiに結構、詳しく書いてあるから、参考にして良いと思う。
正直言って、はっきりしないというのが結論かと。
「小桜韋威鎧」は、1つではないのもあり……
0137人間七七四年2011/05/26(木) 00:46:23.33ID:NI0/J0Pd
>>136
いま確認しました
ありがとうございます
0138人間七七四年2011/05/26(木) 01:12:43.43ID:+vnePTF+
一般的に言われてる話だと、楯無は、田野で儀式→その後、家臣が向岳寺に運び埋める→掘り出されて菅田天神に……かなぁ。
儀礼用があって、儀式にはそちらを使ったとも考えられるけど……聞いたことはないね。
0139人間七七四年2011/05/27(金) 06:41:44.96ID:UEGH3XVI
>>133-135
小山田に追い返されたときにドサクサに紛れて逃げた奴が
食料をくくりつけた馬を使って逃げたらしいよ。

まあ、滞在した寺で少しは飯は食わせてはもらっただろうけど、
あんまり満足できるものでもないと思うよ。
あと、あんまり季節も天候も良くない中、山の中、歩いてれば
疲労して当然だと思うが。精神的なものもあったろうけど。
前スレにもあったが、山梨の山中で遭難した人物が五月にもかかわらず凍死した零もあるそうだし。
0140人間七七四年2011/05/27(金) 09:18:38.31ID:nWPbs7lN
今、長野の山奥にいるが5月でも冷えるよ
GWに来たときは雪積もってたし
0141人間七七四年2011/05/27(金) 12:04:15.29ID:njkDggR7
十代の箱入り姫が同行できてるんだから、そういう面だけで勝頼が疲労困憊は無理あるって。
大善寺、駒飼は屋内滞在だし、山中にいたのなんて最期のわずかな時間に過ぎない。
0142人間七七四年2011/05/27(金) 12:14:24.10ID:njkDggR7
あと、長野と比べても仕方ないでしょ。
イメージ的には甲信で同じだけど、むしろ西東京に近いもの。
0143人間七七四年2011/05/27(金) 13:06:18.64ID:njkDggR7
勝頼が最期の前、屋外にいたのは、丸一日にも満たない。
駒飼に数日滞在、小山田裏切り発覚の翌日に出発、その翌日朝には田野で滅亡なので。
駒飼から3km程度なうえ、田野は山中というよりまだ山麓という地で、道もあったのだから行程としては緩い。
食料にしろ前記の通り、裏切りから丸1日程度の余命。発覚後に馬で大半の食料を持ち去られたとして、飢えるほどの時間はない。

ところで、天候が良くない中…って、最期に行軍した3月10日は雨だったの?
季節にしろ、現代ながら山梨のその辺では、もう桜が散ろうかって時期な気がするけど。
0144人間七七四年2011/05/27(金) 16:16:05.18ID:iW5cRXo5
上州岩櫃城って遠いな。
高遠城陥落したあとに行けるのか?
真田昌幸はどの道で帰ったのか?
でも、岩櫃方面に逃げれば最悪恥も外聞もかなぐり捨てれば上杉景勝が庇護してくれる可能性ってのはないもんか。北条よりは可能性高いと思うんだが。
0145人間七七四年2011/05/27(金) 18:27:43.56ID:m4w06jRT
武田領をほぼ制した織田が岩櫃城に手を焼いて放置プレイしてくれる可能性はあるだろうか?
勝頼が生きてるから無理?
一番良いのは勝頼は小山田を頼って信勝に上州に逃げさせるのがよかったかな
0146人間七七四年2011/05/27(金) 21:24:16.98ID:bhVIrDde
若いのに信勝がすげー潔いから落武者モードで諸国流離は同意しなさそう
0147人間七七四年2011/05/27(金) 21:40:50.54ID:3pHmsXoi
武田滅亡後の甲州で織田はかなり厳しい統治してたから
本能寺みたいなのが起きれば甲州の回復くらい出来るかも
0148人間七七四年2011/05/28(土) 00:54:01.12ID:2i+BE5TF
本能寺起きただけで、何で甲斐・信濃から織田家の支配が一掃されたの?
0149人間七七四年2011/05/28(土) 01:00:58.61ID:Il5vztBm
滝川が北条に粉砕されたのと、川尻ら新領主が支配を固める前に情勢不安になっちゃったこと
森みたいに本領(厳密には弟の領地だが)が不安で帰った場合もある
特に甲信は信忠配下が多く、彼らにとっては主君を二重に失ったようなもの
0150人間七七四年2011/05/28(土) 04:40:58.28ID:kkpxcvl3
>>146
計算だけ言えば、一方は真田、一方は小山田で再起を期すのが、確率高いからねぇ。

>>148
優先度が低かった、っていうのが現実かも。
織田の連中にとって、武田は邪魔であっても、甲信の領土自体はさほど旨味がある土地とも感じてなかっただろうし。
取って僅かな時間のよく知らない土地、知らない連中がいる土地。一旦、撤退するのが賢いとも思える。
0151人間七七四年2011/05/28(土) 06:13:29.37ID:ift2QfaT
残った河尻秀隆は一揆勢に殺されているしね
0152人間七七四年2011/05/28(土) 13:44:05.25ID:iummxbJf
さっさと逃げた森や毛利秀頼はまだ若手なので次があるが河尻は歳なのでちょっと固執したところがあったかもしれない。
0153人間七七四年2011/05/28(土) 14:23:53.70ID:JW+4YFyR
ちょっと納得がいった。無論それだけではないだろうが。
0154人間七七四年2011/05/28(土) 18:29:19.92ID:h+y/kuQj
甲斐の一揆は家康が糸を引いていたって説があるけど、どこまで信憑性がありますか?
0155人間七七四年2011/05/28(土) 18:35:11.09ID:2lxcSVmo
勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?
0156人間七七四年2011/05/28(土) 22:36:25.05ID:Z+u7RFfG
>>155
>勝頼近習の逃避行を映像化した作品ってありましたっけ?

無い

ただし、もしかしたら「おんな風林火山」( >>62 >>64 >>70)にあるかも?????
0157人間七七四年2011/05/28(土) 23:39:19.53ID:Il5vztBm
>>152-153
森や毛利は一城主だが、川尻は甲斐一国任されてたのもあるだろう
0158人間七七四年2011/05/29(日) 00:46:37.36ID:H5savFZy
おそらく四十近いであろう毛利秀頼を若手と呼ぶのはどうだろうか
0159人間七七四年2011/05/29(日) 09:31:28.24ID:bVRiF51C
30代ならまだまだ若手!
0160人間七七四年2011/05/29(日) 12:14:10.25ID:X3T22Y2v
統治がまだ固まっていなかったというのもあるだろうしねえ
川尻の政策みてると、むしろまだ戦後処理中と言えるし
仮定の話で、本能寺のような事件が起きるのが武田滅亡後から
2〜3年後のことだったら、また変わったと思う
0161人間七七四年2011/05/29(日) 12:52:41.42ID:mn/PoU7b
迷っていたところに、徳川から露骨な使者が来て、
キレたか、面子的に帰るに帰れなかったのかもw
0162人間七七四年2011/05/29(日) 16:16:51.95ID:NCm6mcLI
>>156
過去レス見てなかったスマン
やっぱそうなんだ、本能寺は腐るほどあるのによ。
ま、三文役者に演じてもらうのもどーかと思うし、それぞれのイメージを育んでたほうがいいか
0163人間七七四年2011/05/29(日) 18:40:22.87ID:sgU+w6th
河尻秀隆は決して無能な男ではなかったと言われてるな。
しかし、あの混乱までは制御できなかった。
結果的にはさっさと逃げ出すのがベストだったろうな。
0164人間七七四年2011/05/29(日) 20:42:09.19ID:2wS2FzZE
だいたい、無能に甲斐任せるとも思えんしな
0165人間七七四年2011/05/29(日) 21:32:33.73ID:mn/PoU7b
いくら優秀でも、あの時点の甲斐の制御は無理でしょ。
織田の支配強めるために散々やった直後で、
あげく武田旧臣を囲っている徳川が、狙いを定めて突っついてる状況じゃ……
0166人間七七四年2011/05/29(日) 22:51:17.75ID:L8j6zTYU
朝倉旧臣は懐柔してそのまま統治させた場合が多かったのに。
0167人間七七四年2011/05/30(月) 04:18:25.03ID:SCNjUsWG
越前と甲斐とでは全然状況違うだろw

旧朝倉家臣なんて一揆の餌にされちまったぞw
0168人間七七四年2011/05/30(月) 07:52:02.61ID:QzEyXAXJ
しかしそもそも真田はなぜそこまで武田に忠を尽くしたのかが疑問。昌幸のその後の変わり身をみれば、織田に寝返る良いタイミングもわかってたとおもうんだが、そうすれば旧武田領の恩恵にもあずかれただろうに
0169人間七七四年2011/05/30(月) 08:07:02.99ID:rUjajMEv
真田というか、昌幸は信玄子飼いの武将で、元々真田を継ぐわけではなく、名家
である「武藤家」を名乗るのを許されている。
当時はかなりの忠義心があったんじゃないかな。
確か信玄子飼いの同僚は5人程度いて、生き残っていた最期の1人が昌幸だった
はず。
変わり身がどうのは、武田が滅んでしまったかだと思う。
0170人間七七四年2011/05/30(月) 10:18:34.64ID:vyl82gLn
曽根昌世は義信事件の恨みであっさり徳川に降ったのかな?
0171人間七七四年2011/05/30(月) 16:22:29.23ID:Dmxtvh4o
そこまでするなら武田に殉じれば良かったのに
0172人間七七四年2011/05/31(火) 00:16:30.78ID:e4bOSvXA
高天神城の生き残り横田甚五郎は結構長生きしたんだな。
0173人間七七四年2011/05/31(火) 00:54:44.75ID:qCUsu6vy
>>168
逆に時勢を読めるがゆえに
ちょうどいいタイミング自体ないと判断したのかも
終盤に裏切っても恩恵ないし
長篠前じゃ織田徳川に組するには位置が悪い
0174人間七七四年2011/05/31(火) 01:43:27.70ID:Pw/uXlX5
>>173
勝頼と昌幸って結構歳も近いしウマがあったんじゃないかな
0175人間七七四年2011/05/31(火) 01:55:54.97ID:UQ9ogEKr
昌幸が嫡男の息子を差し置いて武藤家から出戻りして真田家の家督を
継いだことも、勝頼の影響があったろうし。
0176人間七七四年2011/05/31(火) 07:08:44.96ID:+mNb03ck
>>174
ウマがあったとも思えないが。
0177人間七七四年2011/05/31(火) 07:12:46.27ID:Nw8xLJ2Y
出戻りで家督をついだのは長篠合戦後で信綱昌輝が死んだから三男の昌幸にまわってきたんじゃないの?
0178人間七七四年2011/05/31(火) 10:29:35.22ID:YAycwTAH
>>177
本来なら長兄信綱嫡男、つまり幸隆嫡孫に家督が回るべきでしょ
ちなみに次兄昌輝にも男子はいます

勝頼と昌幸のウマがあったかはわからんが、武田・真田家中が昌幸家督を許す環境だったのは確か
0179人間七七四年2011/05/31(火) 11:44:05.39ID:ugjK/MLH
昌幸の四男(天正十年以降生まれ)が信勝って名前なのは偶然か
0180人間七七四年2011/05/31(火) 12:07:01.08ID:IfweBuDb
>>179
信勝伝説始まったな
0181人間七七四年2011/05/31(火) 12:17:31.36ID:Nw8xLJ2Y
>>178
あっそっか。完全に忘れてた。確かに家督優先順位は低いな…
0182人間七七四年2011/05/31(火) 12:37:02.21ID:7p2Ytw77
武田は若年の者には城代任せないから
岩櫃城代を真田にそのまま任せようとすれば昌幸が継ぐしかない
0183人間七七四年2011/05/31(火) 12:57:58.40ID:CLfiSSDM
>>180
そうなんですよ
嫌っていたら滅んだ主君の若君様の名前をわざわざ息子に付けるかとは思いますね
0184人間七七四年2011/05/31(火) 12:59:28.72ID:5icipPxB
>>183
180が言いたいのは武田信勝生きていた!伝説と言いたかったのだと思われ
0185人間七七四年2011/05/31(火) 13:10:44.54ID:CLfiSSDM
>>184
そっか
ま、真田信勝も逐電したとか斬殺されたとかで、はかばかしい活躍もなかったのではありまするが
0186人間七七四年2011/05/31(火) 13:52:53.36ID:7p2Ytw77
信繁と似たような感じで信勝ってつけたんじゃね
武田に義理立てというかどうか
0187人間七七四年2011/05/31(火) 20:15:50.16ID:boRkwwnl
土屋あたりの家といい、やっぱり長篠は想像以上に混乱をもたらしてるよな。
一発逆転狙うなら、あの直接対決しかなかったとはいえ。
0188人間七七四年2011/05/31(火) 21:31:38.54ID:YAycwTAH
>>182
陣代って方法もあるからなあ
たしか山県昌景の子は年少で当初は家老が陣代だったような
0189人間七七四年2011/05/31(火) 21:36:05.66ID:boRkwwnl
年齢が適当な後継者がいなきゃ、そうなるでしょ。
次ぐにふさわしい年齢の弟やらがいたという話は知らないが。
0190人間七七四年2011/05/31(火) 21:46:14.89ID:YAycwTAH
>>189
年齢だけなら継いでもおかしくない弟が二人いたが、そいつらも養子に出されてるから昌幸には勝てんな
0191人間七七四年2011/06/01(水) 01:12:26.22ID:oz/p/Zyz
>>188
だから山縣家は江尻城代降ろされた。
0192人間七七四年2011/06/01(水) 04:50:12.60ID:WlKNlNAQ
既出かもしれんが…
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
武田勝頼土佐の会
こんなのあるんだ
0193人間七七四年2011/06/01(水) 19:59:12.93ID:ZZMtl5FY
武田も真田も自称末裔っているけどさ
恥ずかしくないのかね?
0194人間七七四年2011/06/01(水) 21:11:47.38ID:gd6fLZag
自称末裔なんてそれこそ戦国以前からあったことだしなあ…
0195人間七七四年2011/06/01(水) 22:42:20.97ID:aGb+A7cm
血統的には武田本家が柳沢、真田本家は吉宗〜松平定信の流れか
本家ですら信玄や昌幸の血は引いてないからなあ
0196人間七七四年2011/06/01(水) 23:04:15.35ID:87nnkfyf
血統でも、女系も含めていいなら、結構残ってそうだけどねぇ。
0197人間七七四年2011/06/01(水) 23:42:22.18ID:je6rhpet
>>175−176
昌幸の場合、竜朱印状の奏者をつとめたこともあるなど、若いころから武田氏のそば近くにあったわけだし、
彼が真田氏を継ぐほうが勝頼にとってもプラスとなる面は多いだろう。
馬があったかどうかは別としても勝頼は真田昌幸を重用しているな。

>>195
国持クラスの大名ですら藩祖の血を引いていないケースもあるくらいだしな。
0198人間七七四年2011/06/01(水) 23:46:01.91ID:U7OGyTGE
>>192
Yahoo知恵袋に自分は土佐出身で勝頼の末裔だって暴れてるバカがいたな。
最近見ないけど。
0199人間七七四年2011/06/02(木) 10:52:49.58ID:+Fqp9x9W
>>197
実際勝頼期後半の領土拡張は殆ど昌幸正面じゃね?
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