トップページsengoku
984コメント317KB

天正10年の武田攻めを語るスレ 3

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68T
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。

【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0002人間七七四年2011/03/29(火) 22:22:40.44ID:P3ML0tNu
0003人間七七四年2011/03/29(火) 23:57:46.43ID:pEFaANH7
まだやるの?
0004人間七七四年2011/03/30(水) 01:23:54.92ID:B0nHoH7N
天正10年にはもう無理だろう。
0005人間七七四年2011/03/30(水) 08:16:17.16ID:AGjKsruB
荒らされて終わりだったからもうちょっと見てみたいな
情勢無視で織田勢フルボッコ厨とか萎えるもんばっかだったし
初期の人たち帰ってこないべか
0006人間七七四年2011/03/30(水) 08:54:30.03ID:KvRyi3EV
勝頼本陣での軍議は区々として纏まらなかった。

足軽大将の城織部正が進言した。
「まず二万人のうち5千人をそれがしと横田甚五郎にお預け下されなば、一番合戦を
つかまつってごいす。また五千人を小山田八左衛門と初鹿野伝右衛門にお預け下され、
二番合戦をやらせ給うべし。
残る一万余人は小山田部衛尉、真田安房守、小幡上総介に指図させ、御旗本集とひとつに
なり九死一生の戦をなされませ。平場の合戦なれば、味方一人にて上方勢十人をあしらい
申しますれば、一応は切り崩しまする。御最期の合戦をば見事になされてのち、すみやかに
御生害あって然るべしと存じてごいす」
0007人間七七四年2011/03/30(水) 08:57:21.44ID:KvRyi3EV
誤:小山田部衛尉
正:小山田兵衛尉
0008人間七七四年2011/03/31(木) 10:39:28.15ID:Sbw9jA04
隔てなき法をぞ頼む身は田野の
あしたの露と消え果つるとも


「湖衣姫・北条夫人」募集 武田勝頼公まつり 山梨
2011.2.26 02:11
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110226/ymn11022602110002-n1.htm

戦国武将、武田勝頼が自刃した武田家終焉(しゅうえん)の地の甲州市(旧大和村)で4月24日に開かれる「第46回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり」
の実行委員会が、「勝頼公軍団」として武者や女武者に扮(ふん)する出演者を募集している。
甲冑(かっちゅう)姿の武者、着物に身を包んだ姫らの姿が戦国ロマンを彷彿(ほうふつ)とさせるまつりで勝頼一族の霊を慰め、遺徳をしのぶ。
0009人間七七四年2011/04/05(火) 19:00:52.52ID:pbors8F6
滅亡の原因は長篠だろうな。長篠の総大将が滅亡に導いたな。
0010人間七七四年2011/04/05(火) 19:19:46.57ID:NyVLDIfe
最後の決戦をIF小説化する作家はいないものか
0011人間七七四年2011/04/05(火) 20:22:00.33ID:0KPzNlLb
いるよ
0012人間七七四年2011/04/05(火) 21:03:21.50ID:394tFq57
>>10
「戦国武陣侠」とかいろいろ。
0013人間七七四年2011/04/05(火) 22:40:58.36ID:NbWSP5vi
>>5
デタラメばっかり書いてきて
ことごとく論破されて涙目の織田厨哀れだったよなw
0014人間七七四年2011/04/06(水) 07:36:57.84ID:GblM5TRo
タイトル忘れたが勝頼がちょっとだけ早死にして信勝が土壇場で武田を継ぐって小説が最近あったな
0015人間七七四年2011/04/06(水) 08:04:10.30ID:A3MyHMRM
「大逆転!信勝が征く」じゃなかった?
0016人間七七四年2011/04/06(水) 16:35:38.45ID:GblM5TRo
少し以前に信繁が実は生きていた!ってな話もあった気がする
0017人間七七四年2011/04/07(木) 07:21:24.98ID:hdmkpGKg
「士は子孫のために死す」と申す。

勝頼に殉じた土屋昌恒の嫡男は家康によって取り立てられ、二万石の大名にまで出世した。

土屋昌恒の死は無駄死にではなかった。後に、土屋家は老中を輩出するなど栄えた。

天目山での土屋昌恒の最期には諸説あるが、「士は子孫のために死す」とは、まさに土屋昌恒の為にあるような言葉だ。

なお、ドラマに何十回も描かれた赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際の土屋家の判断は、どのドラマを見てもお見事としか言いようがない。

私は子供のころ、ドラマで赤穂浪士を見るたびに、てっきり土屋家は三河譜代の徳川の家臣だろうと勝手に思い込んでいた。
土屋惣蔵昌恒の子孫と知ったのは昭和末期だった(恥)
0018人間七七四年2011/04/07(木) 08:02:40.11ID:9pliNDpM
やっぱ家風ってのはあるんだろね
0019人間七七四年2011/04/08(金) 09:56:13.28ID:3gxvaJ3I
組織としてまとまってると2万でも織田の大群を相手に地の利を生かして戦える
戦う前に組織自体が崩壊してたように感じるね
0020人間七七四年2011/04/08(金) 14:49:39.47ID:bGDO/RIh
調略は武田のお家芸だったのに織田にやられっぱなし
真田幸隆が死んだのが痛かったな
0021人間七七四年2011/04/08(金) 18:39:58.86ID:fTkIVdTS
元は猪突猛進って感じじゃなかったっけ?
真田が配下になるまではそんな感じだったような
0022人間七七四年2011/04/08(金) 19:12:00.49ID:VvgPg4X9
諏訪・高遠はうまいこと調略利用して攻略したやん。あれはまだ真田が配下になる前
0023人間七七四年2011/04/09(土) 01:11:38.85ID:bbXGsoRm
そもそも調略は有利な勢力が行うパターンが多いから
武田が織田をやるのは無理だろうね
0024人間七七四年2011/04/09(土) 01:15:30.08ID:5aFIU0KU
勝頼初期の明智城とかは?
0025人間七七四年2011/04/09(土) 01:23:18.43ID:bbXGsoRm
>>24
明智城は勝頼が囲んで織田の救援が遅かったから降伏したんじゃね?
0026人間七七四年2011/04/09(土) 01:37:42.81ID:sAHyZ3dB
信長が家康に高遠城の対応に関しての手紙を読んだ事あるけど
降伏を受け入れない提案をしてその場合武田家がどうなるかという
内容を記していたがこれが先を完全に読み切っているのに驚いた。
史実はその通りになってる。こういう相手と戦わなければならなかった
勝頼は気の毒だ。
0027人間七七四年2011/04/10(日) 17:22:48.87ID:I0E4rtlB
一生懸命、信濃と駿河取ったのに、戦わずに失うなんて信玄カワイソス。
0028人間七七四年2011/04/11(月) 13:53:43.82ID:sBw2f6wb
飯羽間右衛門が勝頼に内応して城内で謀反を起こしたため、明智城は勝頼の手中に落ちた。
0029人間七七四年2011/04/11(月) 14:34:11.28ID:HS/aAeH+
調略は有利な勢力が行う例と、一地域・城を追い詰めて内部崩壊したとこを調略する例、
調略される側が、宗家争い家督争いとか内部に問題が生じてる時に行う例が多いな。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています