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【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】

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0001人間七七四年2011/03/28(月) 03:08:51.00ID:+gVqz/RQ
忍者出身と言われるなど正確な出自不詳ながら、
信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。


滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A


■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html
0082人間七七四年2011/11/21(月) 19:15:36.16ID:9Z3+hQxR
>>81
そこまで天才軍師なヤツなどいない。
0083人間七七四年2011/11/21(月) 21:15:00.60ID:WN14IJu0
>>80
当時も伊予守って呼ばれてたみたいだよ。>>57
0084人間七七四年2011/11/21(月) 22:08:23.20ID:WN14IJu0
伊予守 従五位下相当
左近大夫将監 五位相当
0085人間七七四年2011/11/22(火) 21:45:27.61ID:TpEtaYLW
>>81
信長の勝頼評は結構高かったと思った。
それゆえの慎重策の提言だったんじゃないかな。
それを聞いてれば、信忠が勝頼に対抗心を持っても不思議では無いかと。
実際は勝頼はそれほど大局を見れる人では無かった訳だが。
0086人間七七四年2011/11/22(火) 22:04:25.77ID:v4YFQ4N6
>>74
武田勝頼の主戦力を構成してた上州勢は何やってたんだ?
と思ったら浅間山噴火で大変だったんだね。
0087人間七七四年2011/11/22(火) 23:09:30.01ID:pOrqD3vy
>>57の文書が後世に作られた可能性はないのかな?
0088人間七七四年2011/11/22(火) 23:34:20.45ID:v4YFQ4N6
どうしてそう思うん?
0089人間七七四年2011/11/23(水) 04:04:29.82ID:YvL+q4gF
>>86
>>浅間山噴火
まじ?
0090人間七七四年2011/11/23(水) 08:30:24.96ID:E1znGt1r
>>87
天正十年の4月5日も6月も「左近」なのに
4月6日だけ「伊予守」っておかしいよね
0091人間七七四年2011/11/23(水) 09:48:23.33ID:RrwRCbfj
くぐってみた。
気象庁
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_history.html
1108(天仁元)年9月5日 大噴火
1281(弘安4)年7月3日 噴火?
1527(大永7)年5月 噴火
1528(享禄元)年 噴火
1532(享禄4)年1月14日 噴火
1534(天文元)年 噴火
1582(天正10)年2月16日 噴火
1590(天正18)年 噴火
1591(天正19)年 噴火
1595(文禄4)年 噴火?
1596(慶長元)年5、8月 噴火
5月1〜5日 噴火、5日 噴石のため死者多数、8月19日 噴火
1597(慶長2)年4月 噴火
1598(慶長3)年 噴火
1599〜1600(慶長4)年 噴火
1605(慶長10)年 噴火
1609(慶長14)年 噴火
1644(正保元)年2月 噴火
1645(正保2)年2、5月 噴火
1647(正保4)年2、3月 噴火
0092人間七七四年2011/11/23(水) 10:01:45.06ID:RrwRCbfj
>>90
今のところ自筆の史料はほぼ全部左近将監だけど、
同時代の他人の書いた史料や書状で伊予守がチラホラある。
兼任だった可能性が高くなってきたと思う。>>47>>57


(「滝川伊予守」について)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage25.htm
一益の官名については、文書の署名および宛名、それに〈公記〉にもすべて「左近(尉・将
監)」となっているが、〈勢州四家記〉〈三河物語〉〈木造記〉など後世の書には、「伊予守」で
登場することがある。
これを単純な誤記とするのは早計で〈宇野〉や〈言継〉といった一次史料にも「滝川伊予守」
は登場するのである。このうち〈言継〉にあるのは、天正四年六月八日、山科言継の信長訪問
のとき奏者を務め、同月二十四日、興福寺別当職をめぐる争いに関し、丹羽長秀とともに上洛
している人物で、これが一益であることは、ほとんど疑いない。
また、同三年十二月二十八日、勅願寺である伊勢金剛寺を欠所処分にした「滝川伊予守」
の違乱を、勅命によって停止したという事実もある(京都御所東山御文庫記録)。これも一益
である可能性が非常に高いであろう。
案ずるに、一益は、天正三年七月三日の信長家臣の叙目に際して、「伊予守」に任官した
のではなかろうか。しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』〈辞典〉
0093人間七七四年2011/11/23(水) 10:25:05.09ID:E1znGt1r
>>92
『織田信長家臣団辞典』に
「ほとんど疑いない」「可能性が非常に高いであろう」
と書いてあるからと言っても、それは証明にならない。
例えば柴田勝家も代理を出したことがあるよ
0094人間七七四年2011/11/23(水) 10:25:25.40ID:Df9pa0ru
兼官って出来るの?
左近将監が自官で、伊予守が任官した奴かと思ってた。
0095人間七七四年2011/11/23(水) 11:22:07.40ID:9vNRn5sQ
木曾に武田が負けたんじゃなくて、
火山噴火で武田軍が木曾攻め止めて撤退したんじゃないのか?
北条の動きが悪いのも噴火のせいでは?
天変地異は為政者の徳が無いと中世には思われ
天皇も天変地異を不徳のせいだと自分を攻めてる記述あるし。
武田から離反増えたのもうなづける。
0096人間七七四年2011/11/23(水) 12:18:50.58ID:RB5I4CfE
ようは武田がびびったってことだろ
0097人間七七四年2011/11/23(水) 13:02:15.70ID:RrwRCbfj
>>94
けっこういるみたい。

藤原良房 左近衛少将 兼 加賀守
平時望 蔵人頭 兼 伊予守
松平定昭 左近衛少将 兼 伊予守
0098人間七七四年2011/11/23(水) 13:16:52.86ID:W6SWGafp
伊予守と左少将なら釣り合うけど、左近将監では低すぎる
0099人間七七四年2011/11/23(水) 15:15:03.20ID:RrwRCbfj
>>98
同じくらいじゃない?>>84
0100人間七七四年2011/11/23(水) 15:30:27.22ID:EOj0JAGm
左近将監の自官が正式任官されるのと一緒に伊予守に任官する、と解釈する意味がわからない
0101人間七七四年2011/11/23(水) 15:52:27.98ID:RrwRCbfj
両方、正式任官の記録は無いんだよね。
0102人間七七四年2011/11/26(土) 15:21:07.68ID:dMaMUTD/
谷口克広も正式任官したという記録は見つけていない
0103人間七七四年2011/11/26(土) 16:21:24.92ID:tw2UYmVi
任官後も藤吉朗署名で書状出し続けてた秀吉と似たようなものだったのかね
0104人間七七四年2011/11/26(土) 18:32:13.25ID:dMaMUTD/
左近将監は元々自官であり、伊予守との兼官で正式任官されたとしても
あえて伊予守よりも下位の左近将監を名乗り続ける理由は?
0105人間七七四年2011/11/26(土) 19:07:14.17ID:tw2UYmVi
だから秀吉と同じだろ
0106人間七七四年2011/11/26(土) 19:09:58.12ID:dMaMUTD/
「藤吉郎」は字だから官途の「左近」とは違うよ
0107人間七七四年2011/11/26(土) 19:12:42.86ID:tw2UYmVi
は?
0108人間七七四年2011/11/26(土) 19:18:36.41ID:dMaMUTD/
筑前守に任官したら、藤吉郎では無くなる、というものでも無いんじゃない?
例えば九郎義経は任官後も「九郎判官」って呼ばれているし。
0109人間七七四年2011/11/26(土) 19:18:53.64ID:mpTpRJ6x
江戸初期の池田光政(新太郎少将)や内藤忠興(四位帯刀)のように
武士としていくらかでも内実があるものを名乗りたかったのでは
0110人間七七四年2011/11/26(土) 20:19:54.64ID:tw2UYmVi
>>108
言いたいこととはちょっとずれてると思うけど
もともと詐称してたものを詐称し続けてただけの話だろ
0111人間七七四年2011/11/27(日) 01:40:17.59ID:Br4byeDc
1575(天正3)年頃の任官

松井友閑:宮内卿(正四位下)
柴田勝家:修理亮(従五位下)
梁田広正:右近衛将監(正六位上)
滝川一益:左近衛将監(正六位上)、伊予守
佐久間信盛:右衛門少尉(正七位上)

明智光秀:日向守
原田直政:備中守
村井貞勝:長門守
羽柴秀吉:筑前守

武井爾伝:二位法印?
丹羽長秀:辞退?

なんか官位と織田家中の地位が一致してなくね?
0112人間七七四年2011/11/27(日) 12:19:23.70ID:x8EyLg3p
○○守はそこを攻めさせようっていう意図を表してはいるが、おそらく上下についてはあまり意識してない
0113人間七七四年2011/11/27(日) 17:30:50.12ID:q88fHAeZ
官位で序列をつけるようになったのは江戸時代に入ってからだから
信長は単なる箔付けくらいにしか考えてなかったのかも
0114人間七七四年2011/11/27(日) 17:49:01.77ID:Br4byeDc
判官といえば、佐々木道誉

官位 左衛門少尉、検非違使、佐渡守

確かに官位の序列を意識してる感じじゃないね。
むしろ武官を意識している感じ。
0115人間七七四年2011/11/27(日) 18:49:26.29ID:rcvoOtpH
受領名も位が高すぎると現場から離れる印象があって
武士らしくないと敬遠されてたからな
0116人間七七四年2011/11/28(月) 08:28:54.69ID:5gTmBqt8
>>114
佐渡守は父祖以来の官職であり、衛門尉と検非違使は兼帯が基本だから普通だよ
0117人間七七四年2011/11/30(水) 19:17:11.65ID:d6WWGRD/
>>114
結局、57の史料が正しければ、
左近将監と伊予守との兼官になんの不都合も無いってことかな。
0118人間七七四年2011/11/30(水) 19:46:20.37ID:Io4rHJiw
左近将監と伊予守のどちらも正式任官の傍証が残っていないから悩んでいるんでしょ
0119人間七七四年2011/11/30(水) 19:55:59.98ID:d6WWGRD/
>>118
言継卿記は、傍証くらいにはなるんじゃないの?
0120人間七七四年2011/11/30(水) 20:16:39.28ID:TRVCgKD9
柴田、佐久間も正式任官の傍証無いんだろ
0121人間七七四年2011/11/30(水) 21:34:04.94ID:Io4rHJiw
佐久間、柴田、滝川の3人の任官は他の武将の任官事例から推測しただけでしょ
0122人間七七四年2011/11/30(水) 21:47:23.77ID:d6WWGRD/
>>121
3人以外も、信長公記か当時の日記で任官を確認してるだけだし。
むしろ当時の信長政権下で自官か正式任官かというのは、大した問題じゃない気がするけど。
0123人間七七四年2011/12/01(木) 02:09:36.89ID:JIck8F1f
兵部卿 兼 大宰大弐 兼 侍従如元 大内義隆
右大臣 兼 右近衛大将 織田信長
右近衛権少将 兼 三河守 徳川家康
左近衛権少将 兼 筑前守 前田利家etc

兼官なんてこのあたりの時代は山ほどいる
0124人間七七四年2011/12/01(木) 06:14:31.67ID:Zshmou3z
兼官事例が多いからといっても、滝川一益が正式任官した証明にはならないからね。
公家の日記に正式任官が書かれているならともかく、
(村井貞勝らは日記に加えて信長公記でも傍証されている)
「滝川伊予守」と書いてあっても、それは自官の可能性もあるし、
そもそも日記に出てくる「滝川伊予守」が一益のこととも限らないのでは?
0125人間七七四年2011/12/01(木) 10:19:20.72ID:JIck8F1f
重臣格の仕事をする滝川さんは一益以外居るのか?というところだろう
つか滝川伊予守が一益である可能性を否定したいのなら
滝川伊予守は実は一益ではなく誰々だったという史料や
同日に別の場所に居たという史料でも提示すべきじゃないか
0126人間七七四年2011/12/01(木) 22:56:58.07ID:yHnDkoky
滝川儀太夫かもしれない
0127人間七七四年2011/12/02(金) 01:32:16.13ID:2Oa/O13R
一益以外の一族を伊予守と誤伝されたってことか。
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