【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】
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0001人間七七四年
2011/03/28(月) 03:08:51.00ID:+gVqz/RQ信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。
滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html
0046人間七七四年
2011/07/14(木) 13:46:11.45ID:bdVn+Y6A今のところ再放送ないみたい。
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/12.html
0047人間七七四年
2011/07/15(金) 09:45:08.60ID:YZWNLz04滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
も問題なさそう。
井上力・もう一つの史話
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/index.html
高山右近の出自
しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』
0048人間七七四年
2011/07/18(月) 19:01:33.10ID:Y2GN5x1W>滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
世代的に無理だろ
0049人間七七四年
2011/07/19(火) 18:27:29.37ID:3yYF0ILP0050人間七七四年
2011/07/28(木) 23:55:43.44ID:3iTlEDVRどの資料からのものかなぁ?
0051人間七七四年
2011/08/05(金) 20:12:19.12ID:W/jp05AV>しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。
無理無理
0052人間七七四年
2011/08/06(土) 23:13:24.77ID:mW5r8/lQ『倉賀野淡路守書状写(家吉判)』(天正10年4月6日)
では、一益のことを伊予の守と呼んでいる。
やはり同一人物っぽい。
0053奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2011/08/07(日) 04:59:27.23ID:IlIRRS1M0054人間七七四年
2011/08/07(日) 08:02:48.36ID:HG/5TWOH戦国人名辞典の「倉賀野家吉」を見たら
群馬県史か新編高崎市史資料編にある書状みたいだけど
よければ内容を教えていただけませんか?
ふだん左近将監と名乗っている相手を
伊予守と呼ぶような例は珍しいよね
0055人間七七四年
2011/08/08(月) 13:28:36.15ID:mRuPZpwu0056人間七七四年
2011/08/08(月) 16:46:59.52ID:Uhab2HRf0057人間七七四年
2011/10/16(日) 01:48:41.77ID:iU7PvmzA近くの図書館で見つけたぞ。
新編高崎市史通史編2(中世) の補遺にあった。
急度令啓上候、仍今度自上方御乱入、因茲駿・甲・信・上属御手候、
西上州箕輪へ滝川伊予守殿移被申候、彼仁に被仰付候、
御様子者日の本迄被仰付候、(以下略)
0058人間七七四年
2011/11/04(金) 20:41:03.43ID:xxfoGyXy服部半蔵が忍者なら、一益も忍者でよいと思う。
0059人間七七四年
2011/11/06(日) 07:24:36.43ID:UiJxZp+C大概は臨時雇いで、大名の要請で略奪やら放火やら汚れ仕事やってた連中。
夜盗に毛が生えたレベルでしょ
半蔵は忍者じゃないし、伊賀甲賀出身ってだけで忍者扱いするのはどうかと思う
滝川さんについては論外。
0060人間七七四年
2011/11/06(日) 09:16:09.68ID:uoDdFOSJ中村一氏や百地丹波、佐治新助はどうだろう?
忍者と夜盗の区別は、地域性でしか分けられないのでは。
伊賀や甲賀の戦術が特徴的であり、夜盗レベルでは無かっただろうし。
あと一益の調略能力はかなり異常だと思う。
北畠、荒木、関、尾張前田と凄い崩れ方。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 06:03:44.17ID:A2/40o85すみません、遅くなりましたが、ありがとうございます。
厩橋城ではなく箕輪城なんですね
0062人間七七四年
2011/11/12(土) 11:16:07.28ID:6m4o+4yY0063人間七七四年
2011/11/12(土) 14:11:32.45ID:t+Q9bHwR0064人間七七四年
2011/11/13(日) 03:00:59.53ID:cp4SE/+O最初は箕輪城に入場してるから、史実通りだね。
>>62
一益は尾張出身ぽいけど、
本家が甲賀五十三家の可能性があるとかないとかw
0065人間七七四年
2011/11/18(金) 20:09:50.10ID:Rw48obto滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。
0066人間七七四年
2011/11/18(金) 20:24:34.92ID:+FfA8rVJ0067人間七七四年
2011/11/18(金) 21:43:44.76ID:umlTHGZA勝頼が高遠城を見捨てて
諏訪から甲斐に帰る馬鹿なことをして自爆しただけ。
0068人間七七四年
2011/11/18(金) 22:20:24.92ID:dnuLHagf河尻も同じ様な事を言われてたの?
0070人間七七四年
2011/11/19(土) 09:15:32.64ID:Z1ny/Hlw織田軍の侵攻を遅滞させる物理的な備えが無さ過ぎて、
木曽を通過したら速攻で南信濃が制圧され
高遠城までやすやすと
織田軍が進撃できた時点で終わってたからなあ。
本願寺降伏以降はいつ大規模進行が来てもおかしく無かったのに。
0071人間七七四年
2011/11/19(土) 21:37:04.08ID:yxSGM3V/天正十年四月五日の長沼山城守宛文書(栃木県庁採集文書)では、
滝川左近と署名してるよ
0072人間七七四年
2011/11/19(土) 22:02:36.40ID:itTbODvY0073人間七七四年
2011/11/20(日) 09:20:33.67ID:bvkb6op10074人間七七四年
2011/11/20(日) 19:01:26.59ID:jqiZOtO3信長は滝川・河尻に慎重策を命令している。
なのに信忠がどんどこ攻めた。武田勢が想像以上に崩壊してたので助かったけど
信忠が名将というより、末期武田の崩壊が激し過ぎた
0075人間七七四年
2011/11/20(日) 19:59:22.81ID:dEYclyI6武田には防衛する力が無かったからねぇ。
0076人間七七四年
2011/11/20(日) 20:01:19.57ID:J1xQbUyv0077人間七七四年
2011/11/20(日) 21:01:27.63ID:dEYclyI6同じように本能寺に
盲進撃して討死した挙げ句に
織田家を瞬殺した信忠…
0078人間七七四年
2011/11/20(日) 23:35:33.04ID:TypTBLyK松平左近衛権少将伊予守定昭っていうのが居るから、
滝川左近将監兼伊予守一益だったのかな?
>>69
滝川と河尻は、軍を分裂させるより、協力した方が良いと考えたのかも。
0079人間七七四年
2011/11/21(月) 14:56:03.92ID:8mBz5g8W勝頼の対内外信用度が
地の底に堕ちていたからなあ。
木曽や穴山離反スイッチになった。
0080人間七七四年
2011/11/21(月) 16:57:08.67ID:8f7Oubjq後世の人が松平左近定昭から伊予守を連想して、
滝川伊予守を作り出したのはありそうな話だな。
0081人間七七四年
2011/11/21(月) 18:25:29.24ID:YTxrpHDm内部がごたごたしてたところで高天神城落城だからな
滅亡に至る過程で桶狭間以来の今川と共通点が多い
そんな状況だったら信長本体待たずとも自分たちだけで潰せると
信忠が判断したのもむべなるかな
0082人間七七四年
2011/11/21(月) 19:15:36.16ID:9Z3+hQxRそこまで天才軍師なヤツなどいない。
0084人間七七四年
2011/11/21(月) 22:08:23.20ID:WN14IJu0左近大夫将監 五位相当
0085人間七七四年
2011/11/22(火) 21:45:27.61ID:TpEtaYLW信長の勝頼評は結構高かったと思った。
それゆえの慎重策の提言だったんじゃないかな。
それを聞いてれば、信忠が勝頼に対抗心を持っても不思議では無いかと。
実際は勝頼はそれほど大局を見れる人では無かった訳だが。
0086人間七七四年
2011/11/22(火) 22:04:25.77ID:v4YFQ4N6武田勝頼の主戦力を構成してた上州勢は何やってたんだ?
と思ったら浅間山噴火で大変だったんだね。
0088人間七七四年
2011/11/22(火) 23:34:20.45ID:v4YFQ4N60089人間七七四年
2011/11/23(水) 04:04:29.82ID:YvL+q4gF>>浅間山噴火
まじ?
0090人間七七四年
2011/11/23(水) 08:30:24.96ID:E1znGt1r天正十年の4月5日も6月も「左近」なのに
4月6日だけ「伊予守」っておかしいよね
0091人間七七四年
2011/11/23(水) 09:48:23.33ID:RrwRCbfj気象庁
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_history.html
1108(天仁元)年9月5日 大噴火
1281(弘安4)年7月3日 噴火?
1527(大永7)年5月 噴火
1528(享禄元)年 噴火
1532(享禄4)年1月14日 噴火
1534(天文元)年 噴火
1582(天正10)年2月16日 噴火
1590(天正18)年 噴火
1591(天正19)年 噴火
1595(文禄4)年 噴火?
1596(慶長元)年5、8月 噴火
5月1〜5日 噴火、5日 噴石のため死者多数、8月19日 噴火
1597(慶長2)年4月 噴火
1598(慶長3)年 噴火
1599〜1600(慶長4)年 噴火
1605(慶長10)年 噴火
1609(慶長14)年 噴火
1644(正保元)年2月 噴火
1645(正保2)年2、5月 噴火
1647(正保4)年2、3月 噴火
0092人間七七四年
2011/11/23(水) 10:01:45.06ID:RrwRCbfj今のところ自筆の史料はほぼ全部左近将監だけど、
同時代の他人の書いた史料や書状で伊予守がチラホラある。
兼任だった可能性が高くなってきたと思う。>>47>>57
(「滝川伊予守」について)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage25.htm
一益の官名については、文書の署名および宛名、それに〈公記〉にもすべて「左近(尉・将
監)」となっているが、〈勢州四家記〉〈三河物語〉〈木造記〉など後世の書には、「伊予守」で
登場することがある。
これを単純な誤記とするのは早計で〈宇野〉や〈言継〉といった一次史料にも「滝川伊予守」
は登場するのである。このうち〈言継〉にあるのは、天正四年六月八日、山科言継の信長訪問
のとき奏者を務め、同月二十四日、興福寺別当職をめぐる争いに関し、丹羽長秀とともに上洛
している人物で、これが一益であることは、ほとんど疑いない。
また、同三年十二月二十八日、勅願寺である伊勢金剛寺を欠所処分にした「滝川伊予守」
の違乱を、勅命によって停止したという事実もある(京都御所東山御文庫記録)。これも一益
である可能性が非常に高いであろう。
案ずるに、一益は、天正三年七月三日の信長家臣の叙目に際して、「伊予守」に任官した
のではなかろうか。しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』〈辞典〉
0093人間七七四年
2011/11/23(水) 10:25:05.09ID:E1znGt1r『織田信長家臣団辞典』に
「ほとんど疑いない」「可能性が非常に高いであろう」
と書いてあるからと言っても、それは証明にならない。
例えば柴田勝家も代理を出したことがあるよ
0094人間七七四年
2011/11/23(水) 10:25:25.40ID:Df9pa0ru左近将監が自官で、伊予守が任官した奴かと思ってた。
0095人間七七四年
2011/11/23(水) 11:22:07.40ID:9vNRn5sQ火山噴火で武田軍が木曾攻め止めて撤退したんじゃないのか?
北条の動きが悪いのも噴火のせいでは?
天変地異は為政者の徳が無いと中世には思われ
天皇も天変地異を不徳のせいだと自分を攻めてる記述あるし。
武田から離反増えたのもうなづける。
0096人間七七四年
2011/11/23(水) 12:18:50.58ID:RB5I4CfE0097人間七七四年
2011/11/23(水) 13:02:15.70ID:RrwRCbfjけっこういるみたい。
藤原良房 左近衛少将 兼 加賀守
平時望 蔵人頭 兼 伊予守
松平定昭 左近衛少将 兼 伊予守
0098人間七七四年
2011/11/23(水) 13:16:52.86ID:W6SWGafp0100人間七七四年
2011/11/23(水) 15:30:27.22ID:EOj0JAGm0101人間七七四年
2011/11/23(水) 15:52:27.98ID:RrwRCbfj0102人間七七四年
2011/11/26(土) 15:21:07.68ID:dMaMUTD/0103人間七七四年
2011/11/26(土) 16:21:24.92ID:tw2UYmVi0104人間七七四年
2011/11/26(土) 18:32:13.25ID:dMaMUTD/あえて伊予守よりも下位の左近将監を名乗り続ける理由は?
0105人間七七四年
2011/11/26(土) 19:07:14.17ID:tw2UYmVi0106人間七七四年
2011/11/26(土) 19:09:58.12ID:dMaMUTD/0107人間七七四年
2011/11/26(土) 19:12:42.86ID:tw2UYmVi0108人間七七四年
2011/11/26(土) 19:18:36.41ID:dMaMUTD/例えば九郎義経は任官後も「九郎判官」って呼ばれているし。
0109人間七七四年
2011/11/26(土) 19:18:53.64ID:mpTpRJ6x武士としていくらかでも内実があるものを名乗りたかったのでは
0110人間七七四年
2011/11/26(土) 20:19:54.64ID:tw2UYmVi言いたいこととはちょっとずれてると思うけど
もともと詐称してたものを詐称し続けてただけの話だろ
0111人間七七四年
2011/11/27(日) 01:40:17.59ID:Br4byeDc松井友閑:宮内卿(正四位下)
柴田勝家:修理亮(従五位下)
梁田広正:右近衛将監(正六位上)
滝川一益:左近衛将監(正六位上)、伊予守
佐久間信盛:右衛門少尉(正七位上)
明智光秀:日向守
原田直政:備中守
村井貞勝:長門守
羽柴秀吉:筑前守
武井爾伝:二位法印?
丹羽長秀:辞退?
なんか官位と織田家中の地位が一致してなくね?
0112人間七七四年
2011/11/27(日) 12:19:23.70ID:x8EyLg3p0113人間七七四年
2011/11/27(日) 17:30:50.12ID:q88fHAeZ信長は単なる箔付けくらいにしか考えてなかったのかも
0114人間七七四年
2011/11/27(日) 17:49:01.77ID:Br4byeDc官位 左衛門少尉、検非違使、佐渡守
確かに官位の序列を意識してる感じじゃないね。
むしろ武官を意識している感じ。
0115人間七七四年
2011/11/27(日) 18:49:26.29ID:rcvoOtpH武士らしくないと敬遠されてたからな
0116人間七七四年
2011/11/28(月) 08:28:54.69ID:5gTmBqt8佐渡守は父祖以来の官職であり、衛門尉と検非違使は兼帯が基本だから普通だよ
0117人間七七四年
2011/11/30(水) 19:17:11.65ID:d6WWGRD/結局、57の史料が正しければ、
左近将監と伊予守との兼官になんの不都合も無いってことかな。
0118人間七七四年
2011/11/30(水) 19:46:20.37ID:Io4rHJiw0119人間七七四年
2011/11/30(水) 19:55:59.98ID:d6WWGRD/言継卿記は、傍証くらいにはなるんじゃないの?
0120人間七七四年
2011/11/30(水) 20:16:39.28ID:TRVCgKD90121人間七七四年
2011/11/30(水) 21:34:04.94ID:Io4rHJiw0122人間七七四年
2011/11/30(水) 21:47:23.77ID:d6WWGRD/3人以外も、信長公記か当時の日記で任官を確認してるだけだし。
むしろ当時の信長政権下で自官か正式任官かというのは、大した問題じゃない気がするけど。
0123人間七七四年
2011/12/01(木) 02:09:36.89ID:JIck8F1f右大臣 兼 右近衛大将 織田信長
右近衛権少将 兼 三河守 徳川家康
左近衛権少将 兼 筑前守 前田利家etc
兼官なんてこのあたりの時代は山ほどいる
0124人間七七四年
2011/12/01(木) 06:14:31.67ID:Zshmou3z公家の日記に正式任官が書かれているならともかく、
(村井貞勝らは日記に加えて信長公記でも傍証されている)
「滝川伊予守」と書いてあっても、それは自官の可能性もあるし、
そもそも日記に出てくる「滝川伊予守」が一益のこととも限らないのでは?
0125人間七七四年
2011/12/01(木) 10:19:20.72ID:JIck8F1fつか滝川伊予守が一益である可能性を否定したいのなら
滝川伊予守は実は一益ではなく誰々だったという史料や
同日に別の場所に居たという史料でも提示すべきじゃないか
0126人間七七四年
2011/12/01(木) 22:56:58.07ID:yHnDkoky0127人間七七四年
2011/12/02(金) 01:32:16.13ID:2Oa/O13R■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています