【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】
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0001人間七七四年
2011/03/28(月) 03:08:51.00ID:+gVqz/RQ信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。
滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html
0002人間七七四年
2011/03/28(月) 03:09:49.35ID:+gVqz/RQ0003人間七七四年
2011/03/29(火) 02:45:49.77ID:xutXo2pX0004人間七七四年
2011/03/30(水) 14:34:26.73ID:FfUc2e5l0005人間七七四年
2011/03/30(水) 14:59:22.38ID:8APPD9D60006人間七七四年
2011/03/30(水) 17:37:55.65ID:KIt1RJZTと言われたときの一益の心境や如何に
0007人間七七四年
2011/03/30(水) 20:44:22.59ID:JwN9Ss330008人間七七四年
2011/03/30(水) 23:24:55.30ID:fpblugw0,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ 栄えある織田軍に
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l | 北条ごときに負ける弱将は無用
|. ,' //
. ',. ,' , r' 滝川一益を不名誉除隊と処す
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゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| |
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0009人間七七四年
2011/03/31(木) 00:03:17.86ID:6iCjJLUY0010人間七七四年
2011/03/31(木) 02:20:40.89ID:+gIKB7xI清洲会議やってる時は、まだ関東から逃げてくる途中だったね。
0011人間七七四年
2011/03/31(木) 02:48:05.97ID:be6nWExH0012人間七七四年
2011/03/31(木) 03:01:28.34ID:1VjLS+tw佐久間と林と信長親族除いて。
0013人間七七四年
2011/03/31(木) 03:19:25.39ID:8wrGB10K鉄砲云々の話は眉唾。
うちの怪しげな家系図を見る限りでは紀州か大和あたりの土豪だった模様。
大和あたりに残っている史料を見ると菅領細川氏が衰えて三好・松永が台頭した時期に畿内の土豪クラスの紛争もピークになった。
それで負けた側が落ち延びる先は伊勢・尾張方面が多かったみたいだ。
当時、伊勢湾〜三河湾が太平洋側の商業ルートでかなり繁栄していたらしく織田と北畠の争いもこのルートをどちらが押さえるかという争い。
滝川氏も畿内から先に尾張に移っていた同族の池田氏のツテをたよりに尾張に移った模様。
滝川氏が畿内にいた時期に鉄砲が土豪クラスで所持されていた可能性は限りなくゼロに近い。
尾張移住後に鉄砲に携わるような機会は特にはなかったと思われる。
忍者だった的な話はマンガの域を出ないし、出自に関しては田舎のヤンチャな地主ぐらいのイメージで間違いないと思われる。
ちなみに滝川氏は子沢山の一族だったようで伊勢やら美濃あたりの土豪や足軽組頭クラスの家に養子を出しまくっている。
そのうちの数家は滝川姓を名乗っていて江戸時代に元の姓に戻した近藤家なんかは旗本になっていたりする。
0014人間七七四年
2011/03/31(木) 03:48:46.89ID:8wrGB10K与えられた役目と与力から推定すると秀吉が長浜城主になるまでは柴田、丹羽、滝川で三番目。
その後は柴田、明智、羽柴、滝川、丹羽、荒木村重。
ただ前者三人と後者三人の間にはかなり差がある。
前者三人は方面軍司令官並みの役割を与えられてたのに対し、後者三人はこの三人を支援する師団の師団長のような扱い。
かなり有力な与力を与えられてはいたもののあちこち転戦ばかりしてたから出費ばかりが嵩んで、領地や手当ては少なかったみたいだ。
だからこそ茶碗のエピソードも生まれたと思われる。
0015人間七七四年
2011/03/31(木) 04:01:18.89ID:1VjLS+twなんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?
でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?
0016人間七七四年
2011/03/31(木) 05:04:39.00ID:8wrGB10K>なんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?
軍政っていうか行政面の手腕と各自の役割の差だと思う。
行政の手腕で言うと光秀、秀吉は畿内平定を進めている時期に最重要の京都行政を任されるほど信用されていた上、朝廷や他家との外交まで預かっている。
柴田は戦いでの実績はずば抜けていた上に譜代の筆頭と言う立場。
譜代も頑張ればちゃんと重用しますというメッセージを示すのと家中のバランスを取る意味でも柴田には重要な仕事を任せる必要があった。
この三人は織田家飛躍の象徴。
本能寺の変がなければ天下布武実現まで多分トップスリーのまま。
逆に言うとこの三人にいかに良い仕事をさせるかが重要になってくる。
なので三人が行き詰まりそうな局面になると信長は援軍を送る。
その時の援軍司令官は万に上る与力を預かり大量の軍事物資の調達と運搬まで管理する。
この役目を果たせる人もそうそういない訳で滝川や丹羽みたいな戦歴も行政的な手腕もある人物は長期作戦から外していつでも動けるようにしておく必要があった。
>でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?
確かに「関東菅領」とされた事で占領した土地の支配権をある程度優先的に与えられたのは間違いないと思う。
ただ天下布武実現のための戦略全体から見ると最優先は中国地方で次が北陸、四国。
関東は北条の拡張を食い止める防御的な意味合いが強くて攻略に移るのはまだ先だと考えていたと思う。
だからこそ丹波の明智をわざわざ秀吉の援軍に送った。
援軍であれば本来なら丹羽や池田恒興あたりのベテランに指揮を取らせるところを。
信長はそれだけ中国地方の攻略を急いでいたし重要だと考えていたんだと思われる。
なので関東菅領になったとは言え与えられた役割の重要さはやはり秀吉、光秀、柴田とは差があったと考えるのが妥当かなと思う。
中国地方攻略が済んだ後であれば関東方面でも攻勢を強め三人に並ぶ可能性はあったかも知れないね。
エライ長文になったw
0017人間七七四年
2011/03/31(木) 05:49:36.44ID:NGa6HSNE越後を柴田指揮下に北信濃の森や上野の滝川で挟み討ちで滅亡させたら
柴田が厩橋城に入城してきて
滝川や川尻は柴田の指揮下に編入されて家康などと先鋒させられ北条滅亡させると思うよ。
このあと家康に伊豆を加増させるどころか滅亡させると思うけど。
この時点で信長はまた領地没収の大リストラをやらかすよ。
佐久間信盛みたいに高野山へ行くか奥羽で討ち死に覚悟で功績をあげるか選べみたいな。
0018人間七七四年
2011/03/31(木) 08:35:12.05ID:6iCjJLUY0019人間七七四年
2011/03/31(木) 11:46:36.15ID:91hMD7zZむちゃくちゃ働いてたのに自刃や領地没収されたじゃん。
0020人間七七四年
2011/03/31(木) 13:57:20.13ID:+gIKB7xI「一益、関東管領」の初出はどこなんだろう?
0021人間七七四年
2011/03/31(木) 14:26:21.53ID:be6nWExH0022人間七七四年
2011/04/01(金) 11:43:16.32ID:4AFZBG+1滝川軍を「関東管領軍」と名づけたのが発端じゃなかったかなあ?
少なくとも、室町幕府の職制としての関東管領に一益が就任した形跡はないよ
>>16
ほぼ同意なんだが、おそらく、織田家の序列は佐久間と柴田がトップツー
その次に明智そして秀吉が続き、さらにその下にあなたのおっしゃるように
補助役として丹羽が滝川らがいたものと思われる
0023人間七七四年
2011/04/02(土) 06:47:44.59ID:WegqReJB0024人間七七四年
2011/04/02(土) 10:25:21.84ID:wSL0n9++信長が盲目だったから
0025人間七七四年
2011/04/02(土) 13:09:24.76ID:WegqReJB折檻状の順番を重視したら池田がもっと上でないとおかしくなってしまうし。
0026人間七七四年
2011/04/02(土) 22:59:06.70ID:TfIhxBrK何もなければもっと早く近江の羽柴、丹波の明智のように他方面への司令になった可能性はある
ただ長島一揆という厄介な存在がいたために出世が遅れたのは否めないな
0027人間七七四年
2011/04/03(日) 03:15:45.67ID:tN+NgnjV将軍や将軍側近の細川氏らとの縁を繋いだのと、美濃近江周辺の国人と様々な形で繋がっていたのを買われたんだと思う。
相撲の番付みたいなものはないからね。
その時々で前後はあるし任された仕事が長引いてしまえば次の仕事は与えられにくい。
そういう意味では城を与えられた時期や切り取った土地の処分権、どの程度の与力を与えられたかみたいな部分からの印象で序列をイメージするところはあると思う。
本能寺の変直前では秀吉の中国攻略作戦が一気に前進しかかっていて、そこに光秀と信長本人が増援で行く形になっていたから序列は秀吉、光秀と考えるのが妥当かな。
そのまま中国攻略が秀吉を中心に行われ毛利を下していれば秀吉が勝家、光秀、一益を置き去るほど加増されたと思われる。
その後粛清に合う可能性も劇的に高まっただろうけど…
丹羽、池田に関しては若い頃から信長の側近で、畿内の制圧に目処がついた頃には信長の子息が出陣する際に彼らを現場で支えるような役割が与えられている。
これは後継者の育成とその後継者を支える老臣の関係作りを始める意味合いもあったと思われる。
一益が光秀、秀吉に遅れを取ったのは長島での苦戦が大きかっただろうね。
それでも厳しい戦線を生き残り関東の攻略を任される機会を与えられたんだから、相当な信頼を受けていたのは間違いない。
0028人間七七四年
2011/04/03(日) 04:07:55.85ID:OTLRvz97柴田と秀吉は?
柴田も謙信死後の上杉に対して大攻勢を成功させてるじゃん?
あと光秀って丹波、丹後と来て秀吉と並行して山陰攻略担当になるのかと思ったら
畿内の管理統制みたいな仕事させられてたけどあれはどれくらい重要なの?
0029人間七七四年
2011/04/03(日) 15:22:36.67ID:XQYreiZg0030人間七七四年
2011/04/04(月) 23:43:51.51ID:wnbmui1r0031人間七七四年
2011/04/05(火) 00:24:12.38ID:SqOvn/Rd0032人間七七四年
2011/04/05(火) 00:33:29.45ID:P5SW1HmW0033人間七七四年
2011/04/06(水) 12:59:25.84ID:gXlMbd4H滝川ルネッサンス
0034人間七七四年
2011/04/14(木) 14:34:40.66ID:xIp21jXy瀧川一益の遊撃戦力・兵站以外のお仕事
・伊勢方面の織田連枝衆と愉快な配下たち(不愉快な先代当主とその御一門)の監督(監視),補助
・長島一帯の一向宗勢力の監視(戦力動向以上に物流・情報の監視−経済戦の一面)
・伊勢隣接国の検地代官などの民政補助
・佐久間とやってた東国取次の仕事(佐久間が近畿転出後は独占、これが武田殲滅戦、その後の転封の遠因)
・甲賀衆との人脈を生かした情報・物流の管理(佐治水軍、九鬼水軍などの指揮権保持)
羽柴と明智比べて劣っているからではなく、単に重要すぎて周辺が落ち着くまで動かせなかっただけが本当の理由
0035人間七七四年
2011/06/02(木) 07:23:34.42ID:bIBiXRWx0036人間七七四年
2011/06/02(木) 20:12:32.66ID:tW1x+F2V秀吉に接近しようが滝川はその他扱いしか受けなかっただろう。
滝川の存在は、伊勢を支配する信雄や美濃以東に野心を持つ池田勝入(と森長可)の利害と
真正面からぶつかるし。
0037人間七七四年
2011/06/02(木) 20:17:12.55ID:OqXd+0Vgいちおう、次男の一時は関ヶ原の時点で1.4万石の大名。
というのは置いといて、賤ヶ岳の時点では桑名城主で15万石程度か。
積極的に秀吉に付いた場合、50万石クラスの大名にせざるを得ない
だろうから、丹羽や蒲生同様に一益の死後に大減封喰らって、
せいぜい10万石程度になるんじゃじゃない?
中立の場合は15万石を安堵かせいぜい数万石の減封だろうから、
こっちのほうが結果的にはよさそうな気がする。
15万石程度だと、たとえば池田は恒興時代は13万石だったし、
小牧・長久手の戦いでの討死ってことで、石高的にも時期的にも
死因的にも減封することができなかった、何事も無く輝政に
家督相続できたんで。
0038人間七七四年
2011/06/18(土) 11:43:22.92ID:T07MysdJ【学習歴の記録】
美幌幼稚園 卒園 美幌小学校 卒業 美幌中学校 卒業 美幌高校 卒業
※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
順天堂大学 体育学部 健康教育学専攻 卒 業 ※ガンガン勉強しました!
青山学院大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
東洋大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
立教大学・大学院 文学研究科:博士課程(前期) 教育学専攻 修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
カリフォルニア神学大学院日本校 博士課程 キリスト教神学 修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
米ニューポート大学大学院 博士課程 教育学専攻 修 了 ※論文執筆に燃えました!-----------------
資 格
1973年03月19日 中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日 衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
0039人間七七四年
2011/06/20(月) 15:51:57.41ID:8C4SjfDhナンバー2 滝川一益
0040人間七七四年
2011/06/21(火) 02:18:31.17ID:syROGGE20041人間七七四年
2011/06/21(火) 03:50:08.56ID:m0myBDke0043人間七七四年
2011/07/14(木) 04:05:41.41ID:2bPsv1fS☆滝川一益=滝川左近将監
★滝川彦右衛門=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
★滝川儀太夫=滝川益重=前田利益の父?
★滝川益氏=佐治新助=前田利益の父?
?滝川法忠
?滝川彦九郎
その他、怪しい縁者?
☆滝川彦次郎=滝川忠征(一益の稚児?)
☆滝孫平次=中村一氏(甲賀滝家出身?)
☆中村一忠(滝川一忠の嫡男の就職先)
柘植保重(滝川雄利の姉の夫、或いは雄利の実父)
福地宗隆(伊賀の土豪、柘植保重の父?)
ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
0044人間七七四年
2011/07/14(木) 04:25:49.80ID:2bPsv1fS面白そうな番組だね。再放送ないかな。
東西の大役比較という感じ?
一益は伊勢で気ままに過ごしてたから、
秀吉と違い、身内の政争に疎く遅れをとったんだろうね。
0046人間七七四年
2011/07/14(木) 13:46:11.45ID:bdVn+Y6A今のところ再放送ないみたい。
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/12.html
0047人間七七四年
2011/07/15(金) 09:45:08.60ID:YZWNLz04滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
も問題なさそう。
井上力・もう一つの史話
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/index.html
高山右近の出自
しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』
0048人間七七四年
2011/07/18(月) 19:01:33.10ID:Y2GN5x1W>滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
世代的に無理だろ
0049人間七七四年
2011/07/19(火) 18:27:29.37ID:3yYF0ILP0050人間七七四年
2011/07/28(木) 23:55:43.44ID:3iTlEDVRどの資料からのものかなぁ?
0051人間七七四年
2011/08/05(金) 20:12:19.12ID:W/jp05AV>しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。
無理無理
0052人間七七四年
2011/08/06(土) 23:13:24.77ID:mW5r8/lQ『倉賀野淡路守書状写(家吉判)』(天正10年4月6日)
では、一益のことを伊予の守と呼んでいる。
やはり同一人物っぽい。
0053奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2011/08/07(日) 04:59:27.23ID:IlIRRS1M0054人間七七四年
2011/08/07(日) 08:02:48.36ID:HG/5TWOH戦国人名辞典の「倉賀野家吉」を見たら
群馬県史か新編高崎市史資料編にある書状みたいだけど
よければ内容を教えていただけませんか?
ふだん左近将監と名乗っている相手を
伊予守と呼ぶような例は珍しいよね
0055人間七七四年
2011/08/08(月) 13:28:36.15ID:mRuPZpwu0056人間七七四年
2011/08/08(月) 16:46:59.52ID:Uhab2HRf0057人間七七四年
2011/10/16(日) 01:48:41.77ID:iU7PvmzA近くの図書館で見つけたぞ。
新編高崎市史通史編2(中世) の補遺にあった。
急度令啓上候、仍今度自上方御乱入、因茲駿・甲・信・上属御手候、
西上州箕輪へ滝川伊予守殿移被申候、彼仁に被仰付候、
御様子者日の本迄被仰付候、(以下略)
0058人間七七四年
2011/11/04(金) 20:41:03.43ID:xxfoGyXy服部半蔵が忍者なら、一益も忍者でよいと思う。
0059人間七七四年
2011/11/06(日) 07:24:36.43ID:UiJxZp+C大概は臨時雇いで、大名の要請で略奪やら放火やら汚れ仕事やってた連中。
夜盗に毛が生えたレベルでしょ
半蔵は忍者じゃないし、伊賀甲賀出身ってだけで忍者扱いするのはどうかと思う
滝川さんについては論外。
0060人間七七四年
2011/11/06(日) 09:16:09.68ID:uoDdFOSJ中村一氏や百地丹波、佐治新助はどうだろう?
忍者と夜盗の区別は、地域性でしか分けられないのでは。
伊賀や甲賀の戦術が特徴的であり、夜盗レベルでは無かっただろうし。
あと一益の調略能力はかなり異常だと思う。
北畠、荒木、関、尾張前田と凄い崩れ方。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 06:03:44.17ID:A2/40o85すみません、遅くなりましたが、ありがとうございます。
厩橋城ではなく箕輪城なんですね
0062人間七七四年
2011/11/12(土) 11:16:07.28ID:6m4o+4yY0063人間七七四年
2011/11/12(土) 14:11:32.45ID:t+Q9bHwR0064人間七七四年
2011/11/13(日) 03:00:59.53ID:cp4SE/+O最初は箕輪城に入場してるから、史実通りだね。
>>62
一益は尾張出身ぽいけど、
本家が甲賀五十三家の可能性があるとかないとかw
0065人間七七四年
2011/11/18(金) 20:09:50.10ID:Rw48obto滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。
0066人間七七四年
2011/11/18(金) 20:24:34.92ID:+FfA8rVJ0067人間七七四年
2011/11/18(金) 21:43:44.76ID:umlTHGZA勝頼が高遠城を見捨てて
諏訪から甲斐に帰る馬鹿なことをして自爆しただけ。
0068人間七七四年
2011/11/18(金) 22:20:24.92ID:dnuLHagf河尻も同じ様な事を言われてたの?
0070人間七七四年
2011/11/19(土) 09:15:32.64ID:Z1ny/Hlw織田軍の侵攻を遅滞させる物理的な備えが無さ過ぎて、
木曽を通過したら速攻で南信濃が制圧され
高遠城までやすやすと
織田軍が進撃できた時点で終わってたからなあ。
本願寺降伏以降はいつ大規模進行が来てもおかしく無かったのに。
0071人間七七四年
2011/11/19(土) 21:37:04.08ID:yxSGM3V/天正十年四月五日の長沼山城守宛文書(栃木県庁採集文書)では、
滝川左近と署名してるよ
0072人間七七四年
2011/11/19(土) 22:02:36.40ID:itTbODvY0073人間七七四年
2011/11/20(日) 09:20:33.67ID:bvkb6op10074人間七七四年
2011/11/20(日) 19:01:26.59ID:jqiZOtO3信長は滝川・河尻に慎重策を命令している。
なのに信忠がどんどこ攻めた。武田勢が想像以上に崩壊してたので助かったけど
信忠が名将というより、末期武田の崩壊が激し過ぎた
0075人間七七四年
2011/11/20(日) 19:59:22.81ID:dEYclyI6武田には防衛する力が無かったからねぇ。
0076人間七七四年
2011/11/20(日) 20:01:19.57ID:J1xQbUyv0077人間七七四年
2011/11/20(日) 21:01:27.63ID:dEYclyI6同じように本能寺に
盲進撃して討死した挙げ句に
織田家を瞬殺した信忠…
0078人間七七四年
2011/11/20(日) 23:35:33.04ID:TypTBLyK松平左近衛権少将伊予守定昭っていうのが居るから、
滝川左近将監兼伊予守一益だったのかな?
>>69
滝川と河尻は、軍を分裂させるより、協力した方が良いと考えたのかも。
0079人間七七四年
2011/11/21(月) 14:56:03.92ID:8mBz5g8W勝頼の対内外信用度が
地の底に堕ちていたからなあ。
木曽や穴山離反スイッチになった。
0080人間七七四年
2011/11/21(月) 16:57:08.67ID:8f7Oubjq後世の人が松平左近定昭から伊予守を連想して、
滝川伊予守を作り出したのはありそうな話だな。
0081人間七七四年
2011/11/21(月) 18:25:29.24ID:YTxrpHDm内部がごたごたしてたところで高天神城落城だからな
滅亡に至る過程で桶狭間以来の今川と共通点が多い
そんな状況だったら信長本体待たずとも自分たちだけで潰せると
信忠が判断したのもむべなるかな
0082人間七七四年
2011/11/21(月) 19:15:36.16ID:9Z3+hQxRそこまで天才軍師なヤツなどいない。
0084人間七七四年
2011/11/21(月) 22:08:23.20ID:WN14IJu0左近大夫将監 五位相当
0085人間七七四年
2011/11/22(火) 21:45:27.61ID:TpEtaYLW信長の勝頼評は結構高かったと思った。
それゆえの慎重策の提言だったんじゃないかな。
それを聞いてれば、信忠が勝頼に対抗心を持っても不思議では無いかと。
実際は勝頼はそれほど大局を見れる人では無かった訳だが。
0086人間七七四年
2011/11/22(火) 22:04:25.77ID:v4YFQ4N6武田勝頼の主戦力を構成してた上州勢は何やってたんだ?
と思ったら浅間山噴火で大変だったんだね。
0088人間七七四年
2011/11/22(火) 23:34:20.45ID:v4YFQ4N60089人間七七四年
2011/11/23(水) 04:04:29.82ID:YvL+q4gF>>浅間山噴火
まじ?
0090人間七七四年
2011/11/23(水) 08:30:24.96ID:E1znGt1r天正十年の4月5日も6月も「左近」なのに
4月6日だけ「伊予守」っておかしいよね
0091人間七七四年
2011/11/23(水) 09:48:23.33ID:RrwRCbfj気象庁
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_history.html
1108(天仁元)年9月5日 大噴火
1281(弘安4)年7月3日 噴火?
1527(大永7)年5月 噴火
1528(享禄元)年 噴火
1532(享禄4)年1月14日 噴火
1534(天文元)年 噴火
1582(天正10)年2月16日 噴火
1590(天正18)年 噴火
1591(天正19)年 噴火
1595(文禄4)年 噴火?
1596(慶長元)年5、8月 噴火
5月1〜5日 噴火、5日 噴石のため死者多数、8月19日 噴火
1597(慶長2)年4月 噴火
1598(慶長3)年 噴火
1599〜1600(慶長4)年 噴火
1605(慶長10)年 噴火
1609(慶長14)年 噴火
1644(正保元)年2月 噴火
1645(正保2)年2、5月 噴火
1647(正保4)年2、3月 噴火
0092人間七七四年
2011/11/23(水) 10:01:45.06ID:RrwRCbfj今のところ自筆の史料はほぼ全部左近将監だけど、
同時代の他人の書いた史料や書状で伊予守がチラホラある。
兼任だった可能性が高くなってきたと思う。>>47>>57
(「滝川伊予守」について)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage25.htm
一益の官名については、文書の署名および宛名、それに〈公記〉にもすべて「左近(尉・将
監)」となっているが、〈勢州四家記〉〈三河物語〉〈木造記〉など後世の書には、「伊予守」で
登場することがある。
これを単純な誤記とするのは早計で〈宇野〉や〈言継〉といった一次史料にも「滝川伊予守」
は登場するのである。このうち〈言継〉にあるのは、天正四年六月八日、山科言継の信長訪問
のとき奏者を務め、同月二十四日、興福寺別当職をめぐる争いに関し、丹羽長秀とともに上洛
している人物で、これが一益であることは、ほとんど疑いない。
また、同三年十二月二十八日、勅願寺である伊勢金剛寺を欠所処分にした「滝川伊予守」
の違乱を、勅命によって停止したという事実もある(京都御所東山御文庫記録)。これも一益
である可能性が非常に高いであろう。
案ずるに、一益は、天正三年七月三日の信長家臣の叙目に際して、「伊予守」に任官した
のではなかろうか。しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』〈辞典〉
0093人間七七四年
2011/11/23(水) 10:25:05.09ID:E1znGt1r『織田信長家臣団辞典』に
「ほとんど疑いない」「可能性が非常に高いであろう」
と書いてあるからと言っても、それは証明にならない。
例えば柴田勝家も代理を出したことがあるよ
0094人間七七四年
2011/11/23(水) 10:25:25.40ID:Df9pa0ru左近将監が自官で、伊予守が任官した奴かと思ってた。
0095人間七七四年
2011/11/23(水) 11:22:07.40ID:9vNRn5sQ火山噴火で武田軍が木曾攻め止めて撤退したんじゃないのか?
北条の動きが悪いのも噴火のせいでは?
天変地異は為政者の徳が無いと中世には思われ
天皇も天変地異を不徳のせいだと自分を攻めてる記述あるし。
武田から離反増えたのもうなづける。
0096人間七七四年
2011/11/23(水) 12:18:50.58ID:RB5I4CfE0097人間七七四年
2011/11/23(水) 13:02:15.70ID:RrwRCbfjけっこういるみたい。
藤原良房 左近衛少将 兼 加賀守
平時望 蔵人頭 兼 伊予守
松平定昭 左近衛少将 兼 伊予守
0098人間七七四年
2011/11/23(水) 13:16:52.86ID:W6SWGafp0100人間七七四年
2011/11/23(水) 15:30:27.22ID:EOj0JAGm0101人間七七四年
2011/11/23(水) 15:52:27.98ID:RrwRCbfj0102人間七七四年
2011/11/26(土) 15:21:07.68ID:dMaMUTD/0103人間七七四年
2011/11/26(土) 16:21:24.92ID:tw2UYmVi0104人間七七四年
2011/11/26(土) 18:32:13.25ID:dMaMUTD/あえて伊予守よりも下位の左近将監を名乗り続ける理由は?
0105人間七七四年
2011/11/26(土) 19:07:14.17ID:tw2UYmVi0106人間七七四年
2011/11/26(土) 19:09:58.12ID:dMaMUTD/0107人間七七四年
2011/11/26(土) 19:12:42.86ID:tw2UYmVi0108人間七七四年
2011/11/26(土) 19:18:36.41ID:dMaMUTD/例えば九郎義経は任官後も「九郎判官」って呼ばれているし。
0109人間七七四年
2011/11/26(土) 19:18:53.64ID:mpTpRJ6x武士としていくらかでも内実があるものを名乗りたかったのでは
0110人間七七四年
2011/11/26(土) 20:19:54.64ID:tw2UYmVi言いたいこととはちょっとずれてると思うけど
もともと詐称してたものを詐称し続けてただけの話だろ
0111人間七七四年
2011/11/27(日) 01:40:17.59ID:Br4byeDc松井友閑:宮内卿(正四位下)
柴田勝家:修理亮(従五位下)
梁田広正:右近衛将監(正六位上)
滝川一益:左近衛将監(正六位上)、伊予守
佐久間信盛:右衛門少尉(正七位上)
明智光秀:日向守
原田直政:備中守
村井貞勝:長門守
羽柴秀吉:筑前守
武井爾伝:二位法印?
丹羽長秀:辞退?
なんか官位と織田家中の地位が一致してなくね?
0112人間七七四年
2011/11/27(日) 12:19:23.70ID:x8EyLg3p0113人間七七四年
2011/11/27(日) 17:30:50.12ID:q88fHAeZ信長は単なる箔付けくらいにしか考えてなかったのかも
0114人間七七四年
2011/11/27(日) 17:49:01.77ID:Br4byeDc官位 左衛門少尉、検非違使、佐渡守
確かに官位の序列を意識してる感じじゃないね。
むしろ武官を意識している感じ。
0115人間七七四年
2011/11/27(日) 18:49:26.29ID:rcvoOtpH武士らしくないと敬遠されてたからな
0116人間七七四年
2011/11/28(月) 08:28:54.69ID:5gTmBqt8佐渡守は父祖以来の官職であり、衛門尉と検非違使は兼帯が基本だから普通だよ
0117人間七七四年
2011/11/30(水) 19:17:11.65ID:d6WWGRD/結局、57の史料が正しければ、
左近将監と伊予守との兼官になんの不都合も無いってことかな。
0118人間七七四年
2011/11/30(水) 19:46:20.37ID:Io4rHJiw0119人間七七四年
2011/11/30(水) 19:55:59.98ID:d6WWGRD/言継卿記は、傍証くらいにはなるんじゃないの?
0120人間七七四年
2011/11/30(水) 20:16:39.28ID:TRVCgKD90121人間七七四年
2011/11/30(水) 21:34:04.94ID:Io4rHJiw0122人間七七四年
2011/11/30(水) 21:47:23.77ID:d6WWGRD/3人以外も、信長公記か当時の日記で任官を確認してるだけだし。
むしろ当時の信長政権下で自官か正式任官かというのは、大した問題じゃない気がするけど。
0123人間七七四年
2011/12/01(木) 02:09:36.89ID:JIck8F1f右大臣 兼 右近衛大将 織田信長
右近衛権少将 兼 三河守 徳川家康
左近衛権少将 兼 筑前守 前田利家etc
兼官なんてこのあたりの時代は山ほどいる
0124人間七七四年
2011/12/01(木) 06:14:31.67ID:Zshmou3z公家の日記に正式任官が書かれているならともかく、
(村井貞勝らは日記に加えて信長公記でも傍証されている)
「滝川伊予守」と書いてあっても、それは自官の可能性もあるし、
そもそも日記に出てくる「滝川伊予守」が一益のこととも限らないのでは?
0125人間七七四年
2011/12/01(木) 10:19:20.72ID:JIck8F1fつか滝川伊予守が一益である可能性を否定したいのなら
滝川伊予守は実は一益ではなく誰々だったという史料や
同日に別の場所に居たという史料でも提示すべきじゃないか
0126人間七七四年
2011/12/01(木) 22:56:58.07ID:yHnDkoky0127人間七七四年
2011/12/02(金) 01:32:16.13ID:2Oa/O13R■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています