織田信勝(信行/勘十郎)と津田信澄
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0001人間七七四年
2011/03/22(火) 00:30:41.13ID:B92HFMenその遺児で明智光秀の娘婿だった為に、本能寺の変直後に信孝と丹羽に謀殺された「津田信澄」。
活躍することもなく、若くして殺された悲劇の親子やその子孫について語れ。
織田信行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%A1%8C
津田信澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84
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0002人間七七四年
2011/03/22(火) 00:32:30.51ID:B92HFMen単に常識的な人物だっただけか?
0003人間七七四年
2011/03/22(火) 00:37:12.89ID:0g0DkCVQ信長が嫌なら誰かを担がなければならない
単純な消去方だと思う
0004人間七七四年
2011/03/22(火) 00:46:01.20ID:CuGzhn9N藤堂高虎の口添えのお陰だけど。
0005人間七七四年
2011/03/22(火) 00:50:26.81ID:0g0DkCVQ0006人間七七四年
2011/03/23(水) 01:27:17.91ID:TOM6K8MQ藤堂は信澄の家来だったことがあるんだよね。
0007人間七七四年
2011/03/23(水) 02:46:38.42ID:Mj88+Uxa0008人間七七四年
2011/03/23(水) 06:47:20.65ID:FHrUSD8Rそれはいわゆる「俗説」どおりだと思うよ。
つまり、信長が「尾張の大うつけ者」と言われる
ただの酷いタワケに見えたからだろ。
0009人間七七四年
2011/03/23(水) 06:48:38.63ID:FHrUSD8R0010人間七七四年
2011/03/23(水) 07:28:41.27ID:PXT4NrKw0011人間七七四年
2011/03/23(水) 19:37:48.20ID:YeMBVaYk信長に二度も反抗してるくらいだから結構気性激しかったんじゃないかと思った。
0012人間七七四年
2011/03/24(木) 00:29:12.34ID:Bqgcbcr/0014人間七七四年
2011/03/25(金) 01:16:51.42ID:ZsakRfBg悪く言うと単純、こんなイメージがある
0015人間七七四年
2011/03/25(金) 01:21:46.64ID:WsETP2gfよくいえば素直なんだろうけど。
0016人間七七四年
2011/03/25(金) 01:26:18.68ID:6nc4W73P一見爽やかそうで実はすげー我が強いの
0017人間七七四年
2011/03/25(金) 02:08:10.55ID:FtHrYjiK亡き弟へ思う所があったのかな?
0018人間七七四年
2011/03/25(金) 02:45:37.18ID:i+P+LUsAこれからと言うときだったのに惜しい
0019人間七七四年
2011/03/25(金) 22:59:15.01ID:gIISAq5I信澄の戦での功績が全く見えてこない
一級史料で信澄が合戦場に出陣したと記してるものあるのか
せいぜい相撲の奉行やったぐらいじゃないの
そもそも大溝城主になったのも信澄の養父であった磯野員昌が出奔したからというが
ほんとは信澄が信長に頼んで員昌を追放したのではないのか
0020人間七七四年
2011/03/26(土) 12:30:17.66ID:s0sJrcTF三重県上野のホテルで見た天正伊賀の乱の布陣図で信澄の名がある。
ただ信雄が神戸、信澄が織田と記されてるからいつの時代だ?
0021人間七七四年
2011/03/26(土) 13:01:46.63ID:iozshMO80022人間七七四年
2011/03/26(土) 13:16:46.47ID:dNhp/i5J信雄の元服は信勝死後ずいぶん経ってからだから、時期的に重なってはいないし、日常的に使うわけではないから問題ないといえばそのとおりなんだが。
どんな名前でもつけられたのに、なぜわざわざ同じ読みで名付けたか。
信雄が「のぶお」だったんだろうか。
0023人間七七四年
2011/03/26(土) 13:17:18.69ID:Fdf67IhV結局、光秀を討った後
信澄の子息は連座されずに生き延びたし
0024人間七七四年
2011/03/26(土) 13:22:58.83ID:iozshMO8息子に親父と同じ名前つける人だからあんま気にしてないんじゃね
奇妙丸とか茶筅とか犬とか適当だし
0026人間七七四年
2011/03/26(土) 15:56:37.52ID:3U6WQMGg信澄の家系は江戸時代、旗本になって続いているはず。
0027人間七七四年
2011/03/27(日) 13:30:39.68ID:kT2IXi1+0028人間七七四年
2011/03/27(日) 18:31:14.36ID:ebx11gaY信兼って最期まで信孝に殉じてるんだよね。
信孝への忠誠心が高過ぎたせいで実兄殺害へ至ったのかね?
0029人間七七四年
2011/03/27(日) 19:02:08.51ID:4Z/NBlCE自分は子守り役、兄貴は伯父に認められて一軍を率いている
0030人間七七四年
2011/03/28(月) 06:13:26.67ID:7DSUCtCR多分知らない間に事が起こってただけでは
0031人間七七四年
2011/03/28(月) 07:25:02.46ID:MaE0fokH信孝からどうする?って言われてるだろ
味方につけられるならこしたことないし
0032人間七七四年
2011/03/28(月) 08:11:07.95ID:vLNXXQTC信孝の器がでかいか、周りも含めてバカばっかりだったのか。
どちらにせよ凄いな。
0033人間七七四年
2011/03/28(月) 12:35:28.09ID:7bcJC7ti0034人間七七四年
2011/03/30(水) 23:44:42.32ID:w25Vb8Swそうだとしても、信澄が殺された後も信孝についていってるから、
兄弟仲は良くなかったんだろうな。
もし仲良かったら兄殺された時点で秀吉の下に走るだろう。
0036人間七七四年
2011/03/31(木) 14:49:25.13ID:hyc5WH8c信澄の遺児を匿ったのは池田じゃなくて信澄の家臣だった事もある高虎だよ
信澄が大阪で殺された後に二歳の息子を連れて奥方が高虎を頼った
光秀の娘だったからホント藁にもすがるような心細い思いだったと思う
高虎は二人を労わり息子が成人した後に芦尾庄九郎と名乗らせ家臣とした
関が原合戦の折、高虎不在の伊予で一揆が起きたが
その一揆の大将である三瀬六兵衛を討ち取ったのが芦尾庄九郎だ
後に千姫が秀頼に嫁ぐと庄九郎の母は上臈として千姫につき従った
その縁故により秀頼は庄九郎を呼び寄せ百人扶持を与え
織田主水正と改名して秀頼のお側に仕えさせた
で、大阪の陣の後に高虎の取り成しで旗本に取り立てられた、と
0037人間七七四年
2011/03/31(木) 16:41:06.71ID:8kGqREVxそもそも諱で呼ばれることがほとんどないし、信勝も「達成」「信成」など
別名もある。
信雄が元服したころには信勝はもう死んでるんだし、同じ読みでも問題はなかろう。
0038人間七七四年
2011/04/02(土) 17:45:57.72ID:NjaGxowY藤堂高虎はほんと義理堅いよなぁ。
信澄の遺児の面倒も後々まで見てるのもそうだけど、豊臣秀長の菩提寺の保護も徳川政権成立以降もしてるし。
司馬の小説とかで不当に貶められてるのが不憫というか腹立つなぁ。
0039人間七七四年
2011/04/06(水) 00:23:15.75ID:TD5RMyAa0042人間七七四年
2011/04/15(金) 12:18:23.02ID:cheFDZ1M家代々の広大な所領が付いてくるわけでもないし、
員昌は器量人なんだから、神戸や長野や北畠のような乗っ取りかけないで、
荒木のように普通に取り立てたら良かったんじゃね?
0043人間七七四年
2011/04/26(火) 00:52:07.19ID:KHfNMOXL0044人間七七四年
2011/04/26(火) 19:58:23.22ID:sonKM6wa>員昌は器量人
それを決めるのは信長であって他人がいくらそう思っても関係ないかと
0046人間七七四年
2011/05/10(火) 11:34:28.02ID:IL6BQcgs系図。
「信長公記」などでは一部を除いて通称を用いている。
信勝も「勘十郎」としか書かれていない。
系図があてにならないことは林秀貞とかを見ればわかる。
0047人間七七四年
2011/07/09(土) 21:59:20.23ID:7IBP2Z9/0048人間七七四年
2011/07/17(日) 08:57:36.78ID:Ysnp8VjQ0050人間七七四年
2011/07/21(木) 20:57:47.99ID:VfB7HXsu0052人間七七四年
2011/10/08(土) 09:01:11.84ID:RtzQ27mUもし領国にいれば細川家みたいにどっちにつくか考える余裕あったのに。
変が起きて何がなんだかわからんうちに疑われて殺されたからな。
まぁ領国にいて上手いこと秀吉に付いて本能寺の変の混乱を乗り越えたとしても、
その後の織田家中の主導権争いに巻き込まれて信孝みたいに死に追いやられたかもしれんが。
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