戦国ちょっといい話25
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0001人間七七四年
2011/02/26(土) 00:47:58.26ID:H+4rDOmp戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0176人間七七四年
2011/03/10(木) 21:23:16.34ID:dg9EzNxN別に信長がオリジナルに制度を作った、と言う訳じゃない。(山川の教科書を見ると、「都市政策として、楽座と言うシステムをオリジナルで作った」にも取れる。)
まぁ、オリジナルを作ることも確かにそうだが、オリジナルをどう活用するか、どう改良するかも重要だと思う。
そう言う意味では戦国の三傑と言われた人物は確かに傑物だと思うところもある。
0177人間七七四年
2011/03/10(木) 21:26:38.15ID:IO5tgaC4この部分を誰が書いたかとか書いてねーよw
著作者なら
石井進、伊藤隆、笠原一男、勝俣鎮夫、児玉幸多、五味文彦
笹山晴生、白石太一郎、高埜利彦、高村直助、坂野潤治、吉田伸之
とある
0178人間七七四年
2011/03/10(木) 21:28:48.22ID:09KX0lgs堺は欧州のヴェネツィアのような自由都市や都市国家。
信長主導の安土桃山文化はルネッサンス
室町時代〜信玄や謙信ら守護大名崩れは略奪奴隷売買の悪魔で
朝廷権威否定・政教分離し宗教全否定の信長は左翼が大好きな共産革命家と位置づけてるからね…(ソ連や中共も宗教否定し弾圧)
足利幕府は右翼からも左翼からも暗黒時代とされてるから非難放火の危険がありすぎて満足に大河ドラマにもならない。
0179人間七七四年
2011/03/10(木) 21:29:17.68ID:bhxQwN9w安土に関しては自由な商業活動認めていたからその記述は正解
信長は領国全土をフリーにしたのではなく、部分的に自由商売が可能な都市を開放した
というか、完全フリーな商売なんて江戸時代にだって認めていない
信長の評価に関しては、90年代に「革命家信長」というイメージが広められた結果、
今世紀に入ってからは「かつて言われていたほど革命的だったわけではない」と
再びの再評価が行われているが、それがまた行き過ぎて「信長なんて全然革命的ではない」
「むしろ保守的」という前提で資料を解釈して評価を下すような人が出ている始末
ほんと、毀誉褒貶が激しい人だ
普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
異なる革新的なこともしている、というくらいに落ち着くんだがなあ
で、ここから個人の評価なんだが、信長がまったく革新性がなく保守一辺倒な人物だったとしたら、
まるで代わり映えのない従来の政治軍事で尾張半国から二十数カ国を領する天下人に伸し上がった
彼の政治軍事の能力ってどれほどずば抜けているのよ?そんな人物に勝てなかった他の大名たちは?
0180人間七七四年
2011/03/10(木) 21:32:57.53ID:KPo9AJgC>普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
>異なる革新的なこともしている
ということは普通だな!
普通武将信長!
・・・・・・・ごめん、なんかがっかりくるから、やっぱり今まで通りのイメージでいいや
多分こんなカンジで創作作品での信長のイメージは未だに革命的イメージなんだろうと思います
0182人間七七四年
2011/03/10(木) 21:47:18.84ID:S956SWOB2人の実質がどうであったかはまた別の話だが。
戦前までに人気のあった人物は思想や政治色が強いから、
戦後は持ち上げにくかったかもね。
楠木正成は右翼色があるから避けられそうだし、
太閤様は晩年のあれがあるし、
権現様は前体制の創始者だから
0183人間七七四年
2011/03/10(木) 21:50:05.67ID:yMicKBbw0184人間七七四年
2011/03/10(木) 21:50:16.71ID:IO5tgaC4元寇の部分見てみたら蒙古襲来絵巻は竹崎季長に例の三人が立ちふさがってる奴だったし
教科書が検定されたのも1997年だった
0185人間七七四年
2011/03/10(木) 21:59:09.55ID:bhxQwN9w詭弁もいいところな文章だなあ
六角も信長も、やったことは同じ、坐を保護しつつ、楽市で部分的に開放した
六角にも坐を保護する文書が残っている
>164は、六角が坐を保護した点は隠して楽市を行ったことは取り上げ、
信長が坐を保護した点は取り上げて楽市を行ったことは無視することで
イメージ操作をしている
>>166
挙兵に呼応した勢力がいたのは事実だが、それが信長の重税故とする根拠は?
特に山城や大和はまだ信長の領国圏外で、信長は将軍の権として京や寺社、
および自分が支配を許された堺への矢銭は課したが、それ以外の畿内の土地に
信長が課税する根拠も権限もなく、そのような命令文書も残っていない
仮にそれらの地で重税が課せられたのならそれは信長でなく他者の政策だ
それから、義昭挙兵の時に山城や近江で呼応した者もいたが、
信長に従うことを選んだ豪族達も多くいる。彼らを無視するするのはどうよ?
0186人間七七四年
2011/03/10(木) 22:00:14.61ID:jh9Javie信長はやはり天才としか言いようのない人で、そこは外しちゃいけないのだけど、
その天才性というのは組織や社会を変える方向というよりも、権力を確立、拡大する
方向においての天才と言うべきだろうね。
その真骨頂はやはり1にも2にも政治力で。「革新的ではない。既得権益の丸呑み。旧権威との密着」
というのは、当然好みもあっただろうけど、おそらく意図的な「政策」としてやってた。
そうじゃないと地域地域で状況の異なる恐ろしく複雑なあの時代の日本を平定していく、
なんて事業は無理だったと思う。
現実の信長の歴史的な意義ってのは、彼の創り上げた一定の安定が、後の秀吉や家康に、
社会に合わせた改革を構想し実行する余裕を与えた、という部分が大きいんじゃないかな?
0187人間七七四年
2011/03/10(木) 22:09:26.82ID:1a47N5fM商人なんかから役銭をとるのを禁止するようになったのは秀吉なんだよね。
諸国の牛に役銭をかけた山科言継の息子・薄諸光はそのために殺され、薄家は廃絶しちゃったわけで。
>>160
美濃加納や安土でやった楽市楽座(非課税とか新規参入可能とか)というのは特定の都市での市場振興策といった感がつよいんだよね。
越前では旧来の座の特権を安堵しているし、尾張でも加藤氏に大きな権限を与えていたりするので、座の
全廃策を掲げていたわけではないんだよね。一般的にイメージされる「中世の破壊者」みたいなのは当てはまらないだろうな。
0188人間七七四年
2011/03/10(木) 22:10:18.72ID:FFospOxv0189人間七七四年
2011/03/10(木) 22:15:38.35ID:GTFzOSTA0190人間七七四年
2011/03/10(木) 22:22:48.11ID:PADhEA5n0192人間七七四年
2011/03/10(木) 23:00:03.75ID:jh9Javie寛永15年2月(1638)島原の乱、幕府軍の総攻撃により、原城に籠ったキリシタンたちも
遂にその終焉を迎えようとしていた。
と、その時
知恵伊豆こと、幕府軍の総指揮を取る松平信綱の嫡男、当時19歳の甲斐守輝綱は、
戦闘に参加するためただ一騎馬を走らせ城へと向かった。
これを知り信綱は激怒し、家臣の岩上角左衛門を呼んで「輝綱をすぐに止めてくるように!」
と命ずる。
岩上は直ぐ様馬に飛び乗り輝綱の後を追い、遂に追いつくと彼の馬の前に立ちふさがり
輝綱に向かって叫んだ
「伊豆守様よりのお言葉を伝え申す!
『伊豆守は将軍家の御代官としてこの地に来たのであって、諸軍と功を争ってはならないと、
家中の者たちにも固く命じていたところである!ましてその長男がその様に抜け駆けし、
先陣を争うなどあり得べきことではない!
その行為をすぐに辞めるように!!』
以上でござる!」
と、輝綱の馬の頭を取って本陣に帰らせようとした。
しかし輝綱19歳、血気盛んでありまた、幼少より武芸に秀で、後に武士の手本とまで
呼ばれた人物である。岩上の言うことも聞かず再び戦場に向けて馬を走らせようとした。
ここで岩上角左衛門、兜を脱ぎ捨て輝綱の前に自分の首を差し出した!そして
「それがしの首を取らねば、戦に出ることかないませぬぞ!
さあ、速やかにこの首を刎ね、その後で思い通りになされませい!!」
睨み合う輝綱と岩上角左衛門。が、輝綱遂に馬の首を返し、一鞭当てて本陣へと戻っていった。
後々、松平輝綱は事あるごとに
「私に戦の高名がないのは、全部岩上のせいだ!」
と恨み言を言ったという。そしてその上で必ずこう付け加えた。
「でもな、主人を諌めるって言うのは、あのくらいじゃないと駄目なんだ。」
島原の乱での、伊豆守家主従のヒトコマである。
0193人間七七四年
2011/03/10(木) 23:04:49.43ID:tZDLgP3w彼の家臣に「顎なし孫右衛門」とあだ名されていた勇士がいた。
その「加藤孫右衛門」は、高玉城の1番乗りをなして、城壁へつかまった
とたんに、鉄砲弾で顎半分をとばされてしまったが、そのまま敵陣に踊りこんで
獅子奮迅の活躍という勲功の者・・その後、彼の旗指物の印が、野猪で生憎と
彼の面相と類似してたので、戦友たちがからかっては笑っていた
(猪の顎は小さく、かれの欠損した顎の顔に似てた)。それはやがて政宗の耳にも入った。
政宗は彼を呼び、「この猪は、殊勲者であるのに、笑われ者になっておるのは、この髭が
余りにも貧しくまばらだからだ。余が威厳をそなえてつかわすであろう」と
筆を取って、小旗の猪へ立派な髭を描き足してやった。勇者多しといえども
主君直筆のお墨付きの指物をもっているの者は、孫右衛門ただ一人、その名誉を敬われ
以来誰一人彼を笑う者はいなくなったと言う
0194人間七七四年
2011/03/10(木) 23:06:54.52ID:IO5tgaC4美しいよな
0195人間七七四年
2011/03/10(木) 23:14:49.75ID:EUrCXwPG0196人間七七四年
2011/03/10(木) 23:17:39.11ID:NjN3kGqd森家の家臣にそんなの居ないw
甲州入りの時も、信長からも信忠からも「深入りするな」って命じられてたのに
「命令?知るか!」
とどんどん戦線を拡大しちゃったわけでw
0197人間七七四年
2011/03/10(木) 23:28:53.35ID:bhxQwN9w輝政 「親父の仇は厚遇するけど、仇討ち邪魔したアイツは冷遇する」
0198人間七七四年
2011/03/10(木) 23:29:36.12ID:EUrCXwPG森家某家臣『殿、抜け駆けをしなければなりませぬ、どうしてもしないというならそれがしの首を討ってくだされ』
0199人間七七四年
2011/03/10(木) 23:51:26.51ID:yMicKBbw0200人間七七四年
2011/03/10(木) 23:56:34.46ID:/qGWaj0J0201人間七七四年
2011/03/10(木) 23:58:19.03ID:EUrCXwPG森家某家臣『殿、これは抜け駆けではござらん、奇襲でござるよ、某が良い働きをできなければ首を討ってくだされ』
もはや原文台無しwww
0202人間七七四年
2011/03/11(金) 00:26:43.95ID:/YietsRZ0203人間七七四年
2011/03/11(金) 00:48:40.40ID:7ObqDUCr森家主君「ヒャッハー?」
森家家臣「ヒャッハー!!」
森家主君「ヒャッハー!!!」
0204人間七七四年
2011/03/11(金) 00:59:23.64ID:KCTIUxg3六角は観音寺城で座の保護してない。
>>187
美濃加納での楽市は斎藤がやってたのを信長が調略した際に追認しただけ。
安土は新しく造ったから商人を誘致する必要があったからで同時に半ば強引に御用商人への引っ越しも要求してる。
0205人間七七四年
2011/03/11(金) 01:11:20.37ID:amS6Ud5k家臣団 「エンジョイ&エキサイティングッ!!」
ここまで幻視した
0206人間七七四年
2011/03/11(金) 01:15:27.33ID:LYFJsyiH夏目吉信「うるせえこれからは俺が領主になってやる。」
とか
徳川家康「秀忠ゆるさーーーんっ!」
榊原康政「そうですか、では私は腹を切りますね^^」
本多正純「父の首を取ってきまーす」
な三河武士は格が違った。
0207人間七七四年
2011/03/11(金) 01:43:53.56ID:amS6Ud5k上段については、観音寺ではしてなくても領国における近江の座を保護している
下段については、だからなに?まだ詭弁を繰り返すの?
0208人間七七四年
2011/03/11(金) 01:46:48.60ID:F+fv4rdu戦国大名の経済力 3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267685156/
0209人間七七四年
2011/03/11(金) 01:56:08.71ID:811sMbraふと忠政がお兄ちゃん達を生け贄に捧げたんじゃないかと思った
0210人間七七四年
2011/03/11(金) 02:07:25.15ID:kZYZIcpU0211人間七七四年
2011/03/11(金) 02:11:11.28ID:CvnClEb7逸話を書き込んだあと反応にわくわくしながらリロードして
そういうのが来るとがっくりくるよね。
○○「〜〜〜〜」とかも。
0212人間七七四年
2011/03/11(金) 02:20:19.91ID:LZD51hgkでも家臣は喜ぶんだろうな
名誉な話だな
0213人間七七四年
2011/03/11(金) 02:55:01.90ID:3DX1CNXb0214人間七七四年
2011/03/11(金) 04:37:05.26ID:abPVXvD9スルーしなよ。
0217人間七七四年
2011/03/11(金) 09:55:48.72ID:WGRTX8QD0218人間七七四年
2011/03/11(金) 10:42:46.67ID:4h5CEtA1スルーできないとかマナー云々なんて肩肘はったこと言わないでさ
所詮は便所の落書き、気楽に肩の力抜いていこうや
0219人間七七四年
2011/03/11(金) 11:21:27.45ID:lTgcsmGi寝ぼけながら読んでたら、ヒゲ描き足されたのは
旗じゃなく孫右衛門さんの顔かと勘違いしてしまった
花粉症の薬ききすぎて歩きながら眠れそうだ
昔は花粉症なんてなかったのかな
0220人間七七四年
2011/03/11(金) 11:30:01.36ID:F+fv4rduだからな。現代病だ。
0221人間七七四年
2011/03/11(金) 11:34:03.41ID:hwhmYygi寄生虫が居ると発症しにくいとかもあるが当時は中の虫飼ってる人も結構居ただろうし
0223人間七七四年
2011/03/11(金) 12:30:20.64ID:UegvWUID杉の無い東京から杉が裏山に普通に生えてる田舎に移り住んだら
花粉症がかなり楽になった。寄生虫は流石に居ないと思うが
0224人間七七四年
2011/03/11(金) 12:34:22.20ID:o1EZ6h6Vスレ違いになりつつあるが。
しかし当時命に関わるようなアレルギーとかの場合原因不明でたたり扱いだったりしたんだろうなぁ。
蕎麦アレルギーみたいなのだと普通に死ぬし。
そういう観点で見ると何かを食べた後苦しみ出し、とかの逸話で色々想像出来る部分がある
0225人間七七四年
2011/03/11(金) 12:40:34.68ID:amS6Ud5k0226人間七七四年
2011/03/11(金) 12:44:55.88ID:AofI0U4E居心地いいです
0227人間七七四年
2011/03/11(金) 12:46:27.25ID:noKM2N+m0228人間七七四年
2011/03/11(金) 13:07:03.28ID:3DX1CNXbアレルギー反応という言葉がなかっただけで、
食品にアタる体質があるという知識は当時すでにあった。
西洋医学はまだ理解されていなかったけど、漢方の歴史は充分にあったし。
戦国時代はなんでも祟りですませられるほど古代ではないよ
0229人間七七四年
2011/03/12(土) 03:07:33.51ID:+fhHTV3m大谷吉継と石田三成といえば、幼い頃より秀吉のもとで育ち、最後吉継は三成の挙兵に
殉じたこと、これはみな知っていることであろう。
…が、この二人の若い頃、吉継はなにかと三成を叱りつけ、怒りのあまり
頭を張り叩くこと度々であったそうだ。
この逸話だと三成の先輩格のようなので、吉継は三成より1歳年上の、永禄2年(1559)生まれ説を
取るべきであろうか。
で、三成の方はそんな厳しい吉継に、何故だか恋をしちゃったらしいのだ。
そして吉継に猛アタックをかけ、ついに吉継の恋人に収まってしまった。
(石田大谷に恋慕して、知音になり候。)
そう言う関係になってからも吉継は、相変わらず遠慮なく三成の頭をはたいていたらしいのだが、
三成の方ははたかれても、「忝し(うれしい♪)」なんて言ってイチャイチャしていたそうだ。
(それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候由。)
(武功雑記)
そんな衝撃的な、吉継三成恋人説。しかも吉継は少々DV気味、というお話。
0231人間七七四年
2011/03/12(土) 04:11:50.01ID:TvpclFCQしかし目を覚ます気配が無かった為、家臣が
「もっと気付け薬の量を増やそう」と相談。朦朧とする意識の中で、その言葉を聞いた直政は
「余計な事はするな!」と激怒した。当時、気絶は武士にとって最も恥ずべき事の一つだった為、直政は
「俺は気絶などしていない!」と強がって、薬を吐き出してしまった。
それを見ていた家臣の一人が、
「殿、これは気付け薬ではなく、ただの血止めです。」と取り繕うと、
「そうか、それならば問題ない。」
と安心した直政は以後、堂々と薬を飲みながら戦い抜いたと言う。
以上、直政もやっぱり三河武士なんだな、と思わせる話。
0233人間七七四年
2011/03/12(土) 06:11:15.30ID:rmVY81dT0234人間七七四年
2011/03/12(土) 06:57:13.82ID:iM0t562y徳川家中はどこの出身でも三河武士化してるだろう
0235人間七七四年
2011/03/12(土) 09:28:37.17ID:A5JFZ+kr九州新幹線の開通式典は中止になりました
式典に伴いブルーインパルスが九州入りしてたらしいが
ブルーインパルスのある松島近辺の状況を考えると不幸中の幸いなんだろうな
0237人間七七四年
2011/03/12(土) 13:37:32.51ID:sO32RpoW司馬の言うには、その三河武士が政権を取ったため、日本中が三河武士化したということだ
確かに、三河武士のめんどくささをどことなくほほえましいと思ってしまうあたり、
オレも三河武士化してしまったのかも知れん
0238人間七七四年
2011/03/12(土) 13:38:26.45ID:KeiG20qe0239人間七七四年
2011/03/12(土) 13:52:39.79ID:gIzLl8bI結局ソースなんて無かったんじゃね。
0241人間七七四年
2011/03/12(土) 13:59:57.57ID:8+BYMAb60242人間七七四年
2011/03/12(土) 14:50:05.80ID:OkuNnQxn地震加藤と埋もれた城くらい?
0243人間七七四年
2011/03/12(土) 15:03:05.86ID:xtSD1pLu0245人間七七四年
2011/03/12(土) 15:12:27.74ID:pydVAal0調べてみたら東海や東北に津波地震も来てるんやな
0246人間七七四年
2011/03/12(土) 15:12:46.05ID:+fhHTV3m伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆討ち入りのきっかけにもなったと言われる明応大地震
明応大地震
明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2〜8.4の大地震。
地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は
紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、
無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。
これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。
日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、
「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。
志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。
大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、
大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、
四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。
遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた
大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では
津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、
二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が
津波によって水没したとされる。
また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、
壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。
http://proto.harisen.jp/other/meiou-daijisin.htm
0248人間七七四年
2011/03/12(土) 18:35:26.35ID:LWJXT4YU0250人間七七四年
2011/03/12(土) 20:39:30.60ID:+fhHTV3m太閤記系か清正系の軍記や史料あたれば未だなにか出てきそうだが。
そういえば家康も被災してたな。
0251人間七七四年
2011/03/12(土) 20:53:29.86ID:vMZuxmwz駆けつけるという、当時としては政治的に危険極まりない行為をやってしまった話が
やっぱり好きだな。
緊急時にはその人間の本音がさらけ出るものだ。
0252人間七七四年
2011/03/12(土) 21:27:10.67ID:WDZhQ4P5ほぼ唯一の近親有力者である秀次が失われた豊臣にいつまでもくっついているメリットはない
むしろ政治的にはかなり妥当な判断だし、若干スタートが遅れている感すらある
義光ほどの頭のいい大名の行動が政治抜きの感情だけってのは考えられん
0253人間七七四年
2011/03/12(土) 21:41:35.40ID:vMZuxmwzいやあ、そう言う見方はわかるんだが、未だ秀吉の強力な独裁化なんだよ?
あんな非常時に秀吉よりも家康を優先したなんて秀吉やその周辺に知られたら、
義光自身どんな目に会うかわからんのはもちろん、家康にも迷惑かかるでしょ?
それこそこの一件だけで危険視されて潰されてもおかしくない。
なので政治的に計算された行動というのは、あまりにも脇の甘い行為だと思うんだ。
0254人間七七四年
2011/03/12(土) 22:34:49.35ID:uFPccG+7閏7月9日 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の
内陸地震のさきがけとなる。
閏7月12日 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の
2つの島が沈んだとされている。
閏7月13日 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。
伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。
この連鎖地震を受けて文禄5年10月27日(1596年12月16日)、慶長へ改元された。
慶長元年中に豊臣秀吉の子、数え4歳のお拾が禁裏で元服して豊臣秀頼を名乗っており
死期が忍び寄る秀吉の焦燥感が伺えるが、連続大地震から半年も経たずに再度外征を始めると
いうのは異常な状況だ。
0255人間七七四年
2011/03/12(土) 22:44:25.94ID:vMZuxmwz徳川家の軍監、横田甚右衛門尉尹松(ただとし)はある日眠りが深くつい寝坊し、
軍監の職務である陣営巡検の時刻を過ごしてしまった。
大急ぎでその場に行くが、当然、もう巡検は終わっている。
同僚のものは「横田殿、どうして今日はあんなに遅参されたのか?」と問うたが、横田
「い、いやいや、拙者今朝は浜辺のほうが気になって、そちらの方を
巡検したのです。そのためこちらに来るのがこのように遅れてしまいました。」
と、つい嘘をついて誤魔化してしまった。
しかし同僚たちもその説明に納得し、疑うものも居なかった。
さて、大坂の陣が終わる。
徳川家康のもと旗本たちの武功の論考をする会議が開かれ、その場には軍監である
横田甚右衛門も当然呼ばれた。
ところが、この席で思いつめたような顔をしていた横田は、突然その場の皆に向かって
叫んだ
「せ、拙者は!大坂の役の過日、寝坊し巡検の時刻に遅れました!
しかしその場で本当のことを言うことが出来ず、浜辺の方に巡検に行ったため
遅刻したと、誤魔化してしまいました。
そんな卑怯な私が今この、重要な会議である論功の場にいること大いに恥じております。」
そして家康の方に向かって土下座し
「どうか、どうか拙者を、軍監のお役目から解任してください!!」
その席、会議を前に静まりかえる。
これを聞いた家康、声をかけた。
「甚右衛門よ、わしはな、お前がそんなふうに正直であることを知っているから、
この席に呼んだのだ。
さあ、堂々と会議に加わるが良い。」
この言語に甚右衛門は咽び泣いた。
そして会議の席に加わった、と言う。
横田甚右衛門尉尹松の嘘と正直、と言うお話。
0256人間七七四年
2011/03/12(土) 23:10:12.64ID:WDZhQ4P5いや、そもそも秀次の罪状は謀反の疑い
この事に連座して娘が斬られてる時点で豊臣サイドからはもう半ば敵性勢力扱い
それに家康は秀吉が死ねば兵を挙げることはほぼ確実視されてた。実際内々に家康と接触してる連中は既に多数いたしね
であれば身を守るために旗色を明らかにしておくのは絶対に必要
中途半端な動きでは豊臣からは睨まれ、徳川の信用も得られず、あの場合は危険が大きすぎる
実際、どっちつかずだった長宗我部は関ケ原でほとんど働かなかったにも関わらず、戦後領土を召し挙げられてる
もちろん秀吉の雷のリスクはあったろうけど、家康の弁護を期待できるだろうし危険としてはまだ小さい
義光は悲しんだろうけどあの行動の基盤はやはり冷徹な情勢分析に基づいたものだと思う
そもそも義光は弟を殺し、親父を攻めて家督を分どり、妹を伊達に嫁に出す一方裏で色々仕掛けるような男だぞ
市松じゃあるまいし、感情を交えて政治的な動きをするほど可愛げのある奴じゃないだろ
0257人間七七四年
2011/03/12(土) 23:29:33.20ID:3I5rkx6x妹の婚姻はやったのは親父だしなあ
0258人間七七四年
2011/03/12(土) 23:44:28.02ID:3+0lwGbcそれまでに死んでるだろうしな。
0261人間七七四年
2011/03/13(日) 01:27:45.30ID:ZNDXKsc00263人間七七四年
2011/03/13(日) 07:01:04.31ID:PnSCZBDU横田尹松って高天神城のときからずっと現役なんだから息が長いね。
家康にとっても若き日の好敵手だったんだろうから大事にしたのかも。
0264人間七七四年
2011/03/13(日) 09:37:56.33ID:f4ALFCPq0265人間七七四年
2011/03/13(日) 09:45:21.72ID:u3hUxyr20266人間七七四年
2011/03/13(日) 12:42:35.13ID:SjhqW7540268人間七七四年
2011/03/13(日) 13:35:48.06ID:ca1MVb9R火がつけない場合生米を食べると腹を壊す
水に浸して柔らかくして食べるんだぞ
0269人間七七四年
2011/03/13(日) 14:11:05.13ID:u3hUxyr2信濃衆は勝頼から見れば譜代だとおもう。
それに長篠で名立たる甲斐出身の老臣はやられちゃったからね
将も兵も小粒になってしまったんだろう。
0270人間七七四年
2011/03/13(日) 14:15:33.46ID:uzSltVqn「今日は直茂公の時代の話をしようか。
当時、直茂公に仕えるなかに徳久という者がいた。
彼は生まれつき変わり者で、どこか抜けたふうに見られがちな人であったという。
あるとき、家に客を招きドジョウのナマスを出したので、
『徳久殿のドジョウナマス』
と、そのころの人々の間で笑い話のタネになっていた。
ある日、徳久殿がお城に出仕したときに事件はおこった。
城中である者が例の『ドジョウナマス』を持ち出して徳久殿をからかったところ、
徳久殿がその場で抜き討ちに斬り捨ててしまったのだ。
殿中での抜刀であるから勿論お取り調べとなった。
結果、徳久殿には切腹を申しつけることになったのだが、
調べの一部始終を聞き終えて直茂公は、
『人に馬鹿にされて黙っている者は腰抜けである。
殿中だからといって、見過ごすわけにもいくまい。
そもそも、人を馬鹿にするような者こそがたわけ者である。
馬鹿にした者は斬られ損だ。』
と仰せになられたという」
0271人間七七四年
2011/03/13(日) 14:43:05.17ID:2Gd6YxUn余計なこと書かないで
加熱しないと米の澱粉は吸収できない。
栄養にならないうえ、腹を壊す。
家康は「とりあえず空腹感を満たす」ためにその指示を出しただけ。
生で食うのは最後の手段だ。
0272人間七七四年
2011/03/13(日) 14:49:56.31ID:ca1MVb9Rそんなことで糞を漏らすとは最近の者は見かけばかり飾って軟弱に過ぎる
昔の武士はそうではなかった
0273人間七七四年
2011/03/13(日) 14:53:15.35ID:II/OSLaz被災地で下痢が蔓延したらそれこそ悲惨だぞ
0274人間七七四年
2011/03/13(日) 14:55:13.40ID:ZNDXKsc0そもそも甲斐衆自体、信虎が強引にまとめたのを信玄個人のカリスマで繋ぎ止めてただけで
もともと地侍の連合体にしかすぎなかったからな
個々の戦闘力はともかく、集団としての本質はどうしようもない鳥合の衆
団結力は三河衆や土佐の一領具足に遠く及ばない
0275人間七七四年
2011/03/13(日) 15:09:11.73ID:2Gd6YxUn反省するどこるか、何だこいつは
真性のクズか?
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