戦国ちょっといい話25
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0001人間七七四年
2011/02/26(土) 00:47:58.26ID:H+4rDOmp戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0013人間七七四年
2011/02/28(月) 01:47:03.09ID:bbx+moJl森長可の所領であった信州川中島四郡でも状況は変わらず、長可は旧領金山への撤退を試みる。
それを知った川中島の郷民たちは長可を討つべく一揆を起こし
長可配下の国人たちもほぼすべてが長可を裏切り、逆に一揆を煽り立てる始末であった。
状況は長可自身が力戦して一揆を防がねばならないほど悪かったが、それでも節操を守って長可に従い続けた者もいた。
出浦盛清がそうであり、彼は金山を目指すは長可一行の案内役を買ってでたのだ。
一行は猿ヶ馬場峠で一揆を振り切り、長可は盛清に形見として脇差を送った。
盛清は後に真田氏に従い、件の脇差も代々伝えられたという。
0014人間七七四年
2011/02/28(月) 17:24:07.13ID:/kCfSaV/0015人間七七四年
2011/02/28(月) 17:58:30.79ID:dA/DcY9o0016人間七七四年
2011/02/28(月) 19:10:36.50ID:1mfU5+a3天庵さまの企画展が開かれるそうです
土浦市立博物館第32回特別展
「戦国武将小田氏と法雲寺」2011年3月19日〜5月8日
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1297304491_doc_44.pdf
↑のPDFと博物館のHPには詳細がなかったけど、手元のチラシを見る限り
猫と一緒の肖像画や法雲寺の寺宝が公開される模様
小田氏関係の記念講演会や史跡見学会もやるらしい
0017人間七七四年
2011/02/28(月) 22:59:42.32ID:R0EC0wD9テラ小田氏のお膝元ww
関係ないが、北条は勿論、佐竹もそうだが関東の連中って
結構領主に馴染んでるんだな。
まあ佐竹小田あたりは代々の名族だし、北条は善政敷いてるしな。
家康乙・・かな。
0018人間七七四年
2011/02/28(月) 23:06:32.30ID:DgFpWwK1安全圏まで到着したら皆殺しにしたんだったか。そういや盛清さんの家族は無事に返してもらえたのかな?
0019人間七七四年
2011/03/01(火) 00:40:52.31ID:02fz7yr4http://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001&rel=y&g=soc
0022人間七七四年
2011/03/01(火) 12:46:16.00ID:0pgIqbSo西軍方である尾張犬山城主・石川備前守貞清は、その元に木曽の国人衆からの人質をとっていた。
が、木曽方面は徳川秀忠からの工作により、人質を出していながら皆東軍に寝返った。
こういう時人質は、みな処断されるのが通常であろう。が、石川は
「このように人質を取っていながら、それにも構わず木曽衆は江戸中納言殿(秀忠)の軍勢に
道を開き寝返った。この上は人質を持っていても詮ない事である。」
と、誰一人害すること無く、すべての人質を解放した。
といってこの時石川も東軍に通じた、というわけではない。彼はこの後関ヶ原の決戦において
宇喜多秀家隊の右翼に陣取り奮戦するからである。
戦後、石川は所領没収されたが、先の木曽衆の人質解放が評価され、東軍と激しく
戦ったにもかかわらずその一命を許された。
石川貞清、人質の命を取らなかったことが、自らの命を助ける。と言うお話。
0023人間七七四年
2011/03/01(火) 13:33:45.46ID:0RSHq+2F0024人間七七四年
2011/03/01(火) 14:31:36.24ID:XcwNNJ3E0025人間七七四年
2011/03/01(火) 15:26:37.27ID:Tr4M3rW9武蔵さん殺っちゃってください
0026人間七七四年
2011/03/01(火) 18:29:02.37ID:MPNrX/b30027人間七七四年
2011/03/01(火) 20:31:08.93ID:psHK5HMN0028人間七七四年
2011/03/02(水) 08:46:50.15ID:0gb4s27c石川さんも解放するんじゃ無くて直接交渉しろよ
覚悟を持って寝返っていようとも実際に処刑寸前で泣き叫ぶ人質を目前にして
平常心を保っていられるとは限らないんだからサ
0030人間七七四年
2011/03/02(水) 12:54:32.65ID:NA/DcVa/商人へ転職して成功するのだから人生どうなるかわからんもんだね。
0031人間七七四年
2011/03/02(水) 18:49:50.56ID:mtgtRlj6後が怖すぎるだろw
さくざなら関係ないが。
今川氏は別の意味で人質を(ry
0032人間七七四年
2011/03/03(木) 00:47:24.66ID:4SO40kY3京の街を通った。
所司代の通行である、それなりに格式ある行列で進むのだが、この時、その行列が通っていると
いうのに、ある店舗の端の方で町人の男が、足をだらんと投げ出し鼓を打っているのが見えた。
しかもこれが、余りみっともいい姿ではなく、どうやら足の間から褌なども丸見えというような
ものだったらしい。
これを見つけた林永喜は甚だ怒り
「所司代が通るというのに形も改めず、あのような尾籠な姿で鼓を打っているとは何たる
不埒者でしょうか!あいつは所司代を侮っているに違いない!直ぐにここへ連れてきて
お叱りなさるべきでしょう!」
と、いかにも儒者らしい意見を申し上げた。
ところがこれに板倉重勝、
「いえいえ、私は全く別に考えました。あれでいいのですよ。
仮に私が公事(裁判)を裁くのに依怙を用いていれば、町人たちは私を恐れ、私という存在に
へりくだり非常に気を使うことでしょう。
私は誰であっても公事、訴訟の事があって司代の前に出るときは、その理非のみを見て
判断するようにしています。そのためでしょう、『あの所司代は普段は恐ろしくない』と、
町人たちに思われるようになりました。
そういう事だから、今のように我々の行列を見ても、彼らは姿を改めないのです。
逆に町人たちが私を恐れひれ伏すような事であれば、その時は私が恣意的に、
その権力を使っているということなのです。
だから町人たちが私の姿を気にしていない間は、自分が公平にこの職務を行っていると、
それを確認できるのです。」
林永喜はこれを聞いて、甚だ感服したという。
板倉勝重は町人の姿を見て己の職責の有り様を見る。と言うお話。
0033人間七七四年
2011/03/03(木) 02:48:07.23ID:D5OfQ3fb良い話だが、当時の感覚として褌が丸見えって今の感覚にしたらどんなもんなんだ?
ズボンのチャック全開みたいな感じか?
0034人間七七四年
2011/03/03(木) 03:31:11.94ID:OcJQHdM1今の政権与党の連中に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
0038人間七七四年
2011/03/03(木) 10:43:44.96ID:9V9Qzw9Z0039人間七七四年
2011/03/03(木) 12:40:39.58ID://jj0+3Pある意味正反対な意味を持つ言葉なのに。
0042人間七七四年
2011/03/03(木) 17:47:55.21ID:w7Z+lnwvむしろ過剰に反応してるの見る方が不快だわ
0043人間七七四年
2011/03/03(木) 18:46:15.35ID:6gyWTf+a言うほうも言われるほうも好きにやればいい。
0044人間七七四年
2011/03/03(木) 22:23:51.44ID:1N1x87lJ藤堂高虎は秀忠の命により、その総監督に任ぜられた。
高虎は、はりきっていた。
ことに石垣普請には自信を持っている。
これまでにない高石垣を築き上げたかった。
さて、加賀金沢城主前田利常らの北国衆が担当する石垣普請の持ち場である。
当時、大名間の技術格差は相当だった。
「・・・これは使えんな」
彼らの技術では無理と判断した高虎は、
自ら穴太衆と相談して北国衆の持ち場を担当すると、関係大名に言い渡した。
さらに高虎は決めつける。
北国衆の工事への関与は「御ふしんの邪魔」と。(あーあ、言っちゃった)
高虎は、はりきっていたのだ。
0045人間七七四年
2011/03/04(金) 03:05:45.97ID:ilzZdIh20046人間七七四年
2011/03/04(金) 20:02:49.15ID:ouWEUsqu0047人間七七四年
2011/03/04(金) 20:15:28.15ID:nEYEzGYP0048人間七七四年
2011/03/04(金) 22:34:26.09ID:jEFEHsAdしかもオヤジさん、この当時けっこういい年だよね。
0049人間七七四年
2011/03/05(土) 01:19:30.79ID:AGICzsco加賀百万石に邪魔と言えちゃうってのもすごい話だ。
0050人間七七四年
2011/03/05(土) 01:24:31.05ID:/w5bRdoR実質的な支配地が250万石くらいあったはず。
その意味では加賀百万石程度、らくらく見下せる立場だなw
0051人間七七四年
2011/03/05(土) 01:46:40.95ID:952KNXTC0052人間七七四年
2011/03/05(土) 02:13:55.06ID:s7b15JkE0054人間七七四年
2011/03/05(土) 02:48:25.03ID:/w5bRdoR藤堂家としてはあくまで幕府に従うという方針だった。
0055人間七七四年
2011/03/05(土) 07:09:31.70ID:cIo7hZ0k0056人間七七四年
2011/03/05(土) 09:11:51.55ID:qscUo9V3藤堂家の大砲が近代化への風穴を開けた、とか言われてる。一部では。
>>48
昭和な言い回しがいいね。ちびまる子ちゃんのお父さんかと思った。
0057人間七七四年
2011/03/05(土) 09:18:32.08ID:f8GDn/rJ譜代中の譜代である彦根藩が堂々と裏切ってる時点でもう・・・
地下で作左や彦左はどんな顔をしてたことやら
0058人間七七四年
2011/03/05(土) 09:44:41.05ID:KrftV3br0060人間七七四年
2011/03/05(土) 10:18:14.60ID:lnKj0+q30062人間七七四年
2011/03/05(土) 12:48:03.60ID:/w5bRdoR家老の独断というのは最近の研究によって解ったこと。
当時の藤堂藩はその後の政治的展開もあってそのことに口をつぐんでいた。
0066人間七七四年
2011/03/05(土) 14:25:18.54ID:fg8Hi8Dg結局は良かったのかもしれん。
>>61
小田氏治が土浦城を奪回。
だがもうかつての宿敵はいない・・・。
悲嘆にくれる天庵の前に立ちはだかる男、彼こそ・・
0067人間七七四年
2011/03/05(土) 14:51:48.16ID:hpis/iTbhttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/img/1291881990_1.JPG
土浦のイメージキャラクターの座をめぐり天庵の孤独な戦いが始まる…
0068人間七七四年
2011/03/05(土) 15:06:52.17ID:1NliEF5S0069人間七七四年
2011/03/05(土) 18:29:35.70ID:4ZMJgjIY高橋紹運配下で、岩屋城の前線砦である龍ヶ城に柴田小左右衛門という強弓で有名な武将がいた。
どれくらいの強弓だったかというと、天正14年9月に筑紫広門勢が攻めてきた時の言い伝えが残る。
敵情視察の命を受けた小左右衛門と他兵士6名が筑紫広門勢の方面に進んでいたら
ぱったり筑紫隊にでくわした。相手が小勢と見て筑紫隊が一斉に攻めかかったところ小左右衛門は
畦の上に登り狙いを定めて矢を放ち、その矢は一町余り(約109m)先を突進してきていた
筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。
どこの『花の慶次』の登場人物だろうかと言わんばかり。
どんだけ〜と思われるかもしれないが、ただの伝説では終わらない話がまた別に残っている。
小左右衛門は日々弓の鍛錬を行っていたのだが、それがなんと、2km以上先にある
たたみ二畳分の大きな石に向けて弓を引きまくっていたのだそうだ。この石は「的石」と呼ばれ
現在も筑紫野市阿志岐の田んぼの中に残っている。そりゃ一町程度の距離なら簡単に当てられる精度も
4〜5人は貫通させる強さもあったのかもしれないと思わせてしまう。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3&lr=&ie=UTF8&hq=&hnear=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%
9C%8C%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E7%9F%B3&gl=jp&ll=33.509697,130.563154&spn=0.031632,0.054331&z=14&brcurrent=3,0x35419c91312ca24d:0x60946b760ad31433,0
龍ヶ城近くの大行事原というところ(リンク先地図のA地点あたり)から矢を射ていたそうだから
阿志岐(地図左下に阿志岐小が見える)まで2km・・・どころか3km近くあるかもしれない。
ちなみに龍ヶ城はA地点の右、笹尾山の左側、農業試験場の後方の山にあった。
0070人間七七四年
2011/03/05(土) 18:30:36.35ID:4ZMJgjIY0071人間七七四年
2011/03/05(土) 19:33:26.26ID:4EidYzoEいや、第2次長州征伐までは頑張ってた。
小瀬川戦線で長州(岩国)に瞬殺された挙句、「井伊www」って対応を幕軍にされてやる気がなくなったっぽい。
伝統ってだけで、戦国以来の赤備えで完全洋式化済みの長州に突っ込まされたら負けて当然。
しかも、井伊が負けた後で出てきた紀州と幕府の洋式歩兵隊は長州と完全に互角。
「最初からお前ら戦えよ!」って普通は怒ると思う。
0072人間七七四年
2011/03/05(土) 19:35:01.97ID:WKcvJfcW0074人間七七四年
2011/03/05(土) 19:54:09.24ID:hpis/iTb0075人間七七四年
2011/03/05(土) 20:06:30.14ID:oR8VoFwo下級藩士の切子久兵衛が一員であったことで有名
0076人間七七四年
2011/03/05(土) 21:53:37.48ID:msSw3f6f0077人間七七四年
2011/03/05(土) 22:03:59.23ID:qnrj6DBr0079人間七七四年
2011/03/05(土) 23:36:18.66ID:gLs+/l1W西美濃三人衆のひとり稲葉良通(一鉄)。武勇と教養、そして頑固で知られていた。
とある合戦の後、信長は徳川家康および家臣一同を集めて論功行賞を行った。
このとき武功第一とされたのが一鉄である。だが一鉄は、はっきりきっぱり言った。
「わが殿はめくら大将におわすか!
(武功)第一は徳川様であること、誰の目にも明らかでござろう!」
信長の面子を潰しかねない発言だったが、一鉄は譲らず、信長も一鉄の主張を認めた。
この逸話から、自分の考えや態度を曲げようとしない人間を「一鉄者」と呼ぶようになり、
「頑固一徹」の語源になった言われている。
0080人間七七四年
2011/03/06(日) 00:03:37.82ID:5WXiAMp/0081人間七七四年
2011/03/06(日) 00:04:58.57ID:Aq/WVItG>筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。
完全に原哲夫の絵で脳内再生されたわw
0083人間七七四年
2011/03/06(日) 00:28:07.07ID:ZpTxQgb3一人目「ぱっ!」
二人目「びっ!」
三人目「ぶっ!」
四人目「ぺっ!」
五人目「ぽおっ!」
で再現されたw
0084人間七七四年
2011/03/06(日) 00:46:28.65ID:vn8tJvFS鳥羽伏見の戦いでの淀藩稲葉家の裏切りは、
慶喜に衝撃を与え、慶喜の大坂城脱出で天下の趨勢
は決した。
0085人間七七四年
2011/03/06(日) 01:16:08.16ID:kGqU0sHZ0088人間七七四年
2011/03/06(日) 02:32:55.47ID:56KrG4MG弓は使い手によっちゃ鎧をぶちぬくなんて朝飯前らしいからなぁ
0089人間七七四年
2011/03/06(日) 02:36:59.21ID:j/yZddOq0090人間七七四年
2011/03/06(日) 11:42:07.76ID:QkIRp1o3柔らかいからかな?
もしそうなら、裏打ちすればどうにかなるかも
一部の人間しか出来ない技だろうが
0091人間七七四年
2011/03/06(日) 11:56:52.82ID:Qi7bKFFp講演会等の情報のある手元のチラシとはこれのことか?
土浦市立博物館第32回特別展「戦国武将小田氏と法雲寺」
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1298977176_doc_147.pdf
0092人間七七四年
2011/03/06(日) 13:17:08.82ID:esYYv5G6http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1299375775/
0093人間七七四年
2011/03/06(日) 13:22:43.78ID:525D/YI40096人間七七四年
2011/03/06(日) 13:49:03.17ID:QkIRp1o30098人間七七四年
2011/03/06(日) 13:59:01.86ID:khTr4ulz0100人間七七四年
2011/03/06(日) 14:00:27.75ID:khTr4ulz0101人間七七四年
2011/03/06(日) 14:04:11.50ID:6HRmR9Ff0102人間七七四年
2011/03/06(日) 14:23:56.71ID:urmGjCVY豊臣?は家電メーカーにあったと思う。
TOYOTOMI社製のストーブが実家にあったので
0103人間七七四年
2011/03/06(日) 14:35:51.33ID:urmGjCVY手元の本によると、秀吉公は、平→藤原→豊臣と改姓していったとのこと。
0104人間七七四年
2011/03/06(日) 23:20:25.51ID:HLL1r5MZ0106人間七七四年
2011/03/07(月) 00:45:12.31ID:MP1RDi++君にその的になる権利を与えよう。もしくはガラシャさんの前に立つ権利でも、森長可が通ろうとする門の番をする権利でもいいぞ
0108人間七七四年
2011/03/07(月) 13:35:09.63ID:GbbaB/1Y豊臣氏成立以降は石田豊臣朝臣三成だったのだけど、
これは三成が豊臣氏を詐称してることになるの?
でも、秀吉公認なわけだし詐称ってのも違う気がする。
現代人からすると、いまいち氏がどういうものだったのかわからない
0109人間七七四年
2011/03/07(月) 20:49:23.40ID:4+xW7Db2■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています