戦国ちょっといい話25
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0001人間七七四年
2011/02/26(土) 00:47:58.26ID:H+4rDOmp戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/
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http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2011/02/26(土) 00:56:04.36ID:VFaIDwm8∧ ∧ (ハハ)
( ´・ω・) (ヮl` )
( つ旦O O旦⊂ヽ
と__)__) 旦 旦 旦 旦 旦 旦 (_(_つ
濃茶 薄茶 玉露 煎茶 番茶 出涸し 日当山一のちゃのみ(天庵)
;; コポ
旦 旦 旦 旦 旦 コポ 旦 旦 旦 旦
生茶 雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン お〜いお茶 髭茶 八女茶 狭山茶
旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦
緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯 ミユキのお手製太陽バクバク茶
0003人間七七四年
2011/02/26(土) 16:11:20.09ID:6iC3lGD7ドドドドドドドドドドドド!! |風| _ |風|
|林| _ .|風| |林|
|火| |風| .|林| |火|
|山| |鈴| |火| |山|
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|火| |山|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚ )|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
||` || ( | ( |(´⌒(´ ||` || ( | ( | (´⌒(´⌒;; (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
'~ ~(´⌒(´⌒;; (´⌒(´⌒ (´⌒(´⌒ (´⌒(´⌒;;
(´⌒(´⌒;;
0004人間七七四年
2011/02/26(土) 17:14:14.94ID:ubJhAwLrドドドドドドドドドドドド!! |重| _ |お|
|文| _ .|家| |珠|
|破| |屋| .|臣| |命|
|壊| |上| |粛| |!|
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|乱| |清|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |射| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚ )|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
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'~ ~(´⌒(´⌒;; (´⌒(´⌒ (´⌒(´⌒ (´⌒(´⌒;;
(´⌒(´⌒;;
0007人間七七四年
2011/02/27(日) 00:38:25.99ID:ZFtXCcQe後藤家信は、文禄の役のとき鍋島直茂に従って渡航して、加藤清正とともに戦った。
慶長の役のときもまた渡航して、兄の家種を失いながらもまた戦った。
このとき蔚山籠城中の加藤清正を救出する際に武功を立てて、
清正が手を取って、「吾死を千百に免れ首頸を全うすることを得たるは一に吾子の賜なり」と謝辞を述べ、
太刀一振り大砲三十丁を贈ったそうな。
後藤家信はその後病気を患って、早めに朝鮮から引き上げるんだけど、
加藤清正とはそれ以来交友を持って、何度か清正が武雄を訪ねて来てるらしい。
清正が没した時は、家信はその死を悼んで清正寺を建立して、
その清正寺は、今でも武雄市若木町に残っている。
そんな武将同士の交友関係の、ちょっといい話
0008人間七七四年
2011/02/27(日) 03:38:28.33ID:LSVMH6ay佐賀の武士にとって、首がなくても大した問題じゃないことを示してくれ。
0009人間七七四年
2011/02/27(日) 04:33:09.05ID:ZTSkg9I60013人間七七四年
2011/02/28(月) 01:47:03.09ID:bbx+moJl森長可の所領であった信州川中島四郡でも状況は変わらず、長可は旧領金山への撤退を試みる。
それを知った川中島の郷民たちは長可を討つべく一揆を起こし
長可配下の国人たちもほぼすべてが長可を裏切り、逆に一揆を煽り立てる始末であった。
状況は長可自身が力戦して一揆を防がねばならないほど悪かったが、それでも節操を守って長可に従い続けた者もいた。
出浦盛清がそうであり、彼は金山を目指すは長可一行の案内役を買ってでたのだ。
一行は猿ヶ馬場峠で一揆を振り切り、長可は盛清に形見として脇差を送った。
盛清は後に真田氏に従い、件の脇差も代々伝えられたという。
0014人間七七四年
2011/02/28(月) 17:24:07.13ID:/kCfSaV/0015人間七七四年
2011/02/28(月) 17:58:30.79ID:dA/DcY9o0016人間七七四年
2011/02/28(月) 19:10:36.50ID:1mfU5+a3天庵さまの企画展が開かれるそうです
土浦市立博物館第32回特別展
「戦国武将小田氏と法雲寺」2011年3月19日〜5月8日
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1297304491_doc_44.pdf
↑のPDFと博物館のHPには詳細がなかったけど、手元のチラシを見る限り
猫と一緒の肖像画や法雲寺の寺宝が公開される模様
小田氏関係の記念講演会や史跡見学会もやるらしい
0017人間七七四年
2011/02/28(月) 22:59:42.32ID:R0EC0wD9テラ小田氏のお膝元ww
関係ないが、北条は勿論、佐竹もそうだが関東の連中って
結構領主に馴染んでるんだな。
まあ佐竹小田あたりは代々の名族だし、北条は善政敷いてるしな。
家康乙・・かな。
0018人間七七四年
2011/02/28(月) 23:06:32.30ID:DgFpWwK1安全圏まで到着したら皆殺しにしたんだったか。そういや盛清さんの家族は無事に返してもらえたのかな?
0019人間七七四年
2011/03/01(火) 00:40:52.31ID:02fz7yr4http://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001&rel=y&g=soc
0022人間七七四年
2011/03/01(火) 12:46:16.00ID:0pgIqbSo西軍方である尾張犬山城主・石川備前守貞清は、その元に木曽の国人衆からの人質をとっていた。
が、木曽方面は徳川秀忠からの工作により、人質を出していながら皆東軍に寝返った。
こういう時人質は、みな処断されるのが通常であろう。が、石川は
「このように人質を取っていながら、それにも構わず木曽衆は江戸中納言殿(秀忠)の軍勢に
道を開き寝返った。この上は人質を持っていても詮ない事である。」
と、誰一人害すること無く、すべての人質を解放した。
といってこの時石川も東軍に通じた、というわけではない。彼はこの後関ヶ原の決戦において
宇喜多秀家隊の右翼に陣取り奮戦するからである。
戦後、石川は所領没収されたが、先の木曽衆の人質解放が評価され、東軍と激しく
戦ったにもかかわらずその一命を許された。
石川貞清、人質の命を取らなかったことが、自らの命を助ける。と言うお話。
0023人間七七四年
2011/03/01(火) 13:33:45.46ID:0RSHq+2F0024人間七七四年
2011/03/01(火) 14:31:36.24ID:XcwNNJ3E0025人間七七四年
2011/03/01(火) 15:26:37.27ID:Tr4M3rW9武蔵さん殺っちゃってください
0026人間七七四年
2011/03/01(火) 18:29:02.37ID:MPNrX/b30027人間七七四年
2011/03/01(火) 20:31:08.93ID:psHK5HMN0028人間七七四年
2011/03/02(水) 08:46:50.15ID:0gb4s27c石川さんも解放するんじゃ無くて直接交渉しろよ
覚悟を持って寝返っていようとも実際に処刑寸前で泣き叫ぶ人質を目前にして
平常心を保っていられるとは限らないんだからサ
0030人間七七四年
2011/03/02(水) 12:54:32.65ID:NA/DcVa/商人へ転職して成功するのだから人生どうなるかわからんもんだね。
0031人間七七四年
2011/03/02(水) 18:49:50.56ID:mtgtRlj6後が怖すぎるだろw
さくざなら関係ないが。
今川氏は別の意味で人質を(ry
0032人間七七四年
2011/03/03(木) 00:47:24.66ID:4SO40kY3京の街を通った。
所司代の通行である、それなりに格式ある行列で進むのだが、この時、その行列が通っていると
いうのに、ある店舗の端の方で町人の男が、足をだらんと投げ出し鼓を打っているのが見えた。
しかもこれが、余りみっともいい姿ではなく、どうやら足の間から褌なども丸見えというような
ものだったらしい。
これを見つけた林永喜は甚だ怒り
「所司代が通るというのに形も改めず、あのような尾籠な姿で鼓を打っているとは何たる
不埒者でしょうか!あいつは所司代を侮っているに違いない!直ぐにここへ連れてきて
お叱りなさるべきでしょう!」
と、いかにも儒者らしい意見を申し上げた。
ところがこれに板倉重勝、
「いえいえ、私は全く別に考えました。あれでいいのですよ。
仮に私が公事(裁判)を裁くのに依怙を用いていれば、町人たちは私を恐れ、私という存在に
へりくだり非常に気を使うことでしょう。
私は誰であっても公事、訴訟の事があって司代の前に出るときは、その理非のみを見て
判断するようにしています。そのためでしょう、『あの所司代は普段は恐ろしくない』と、
町人たちに思われるようになりました。
そういう事だから、今のように我々の行列を見ても、彼らは姿を改めないのです。
逆に町人たちが私を恐れひれ伏すような事であれば、その時は私が恣意的に、
その権力を使っているということなのです。
だから町人たちが私の姿を気にしていない間は、自分が公平にこの職務を行っていると、
それを確認できるのです。」
林永喜はこれを聞いて、甚だ感服したという。
板倉勝重は町人の姿を見て己の職責の有り様を見る。と言うお話。
0033人間七七四年
2011/03/03(木) 02:48:07.23ID:D5OfQ3fb良い話だが、当時の感覚として褌が丸見えって今の感覚にしたらどんなもんなんだ?
ズボンのチャック全開みたいな感じか?
0034人間七七四年
2011/03/03(木) 03:31:11.94ID:OcJQHdM1今の政権与党の連中に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
0038人間七七四年
2011/03/03(木) 10:43:44.96ID:9V9Qzw9Z0039人間七七四年
2011/03/03(木) 12:40:39.58ID://jj0+3Pある意味正反対な意味を持つ言葉なのに。
0042人間七七四年
2011/03/03(木) 17:47:55.21ID:w7Z+lnwvむしろ過剰に反応してるの見る方が不快だわ
0043人間七七四年
2011/03/03(木) 18:46:15.35ID:6gyWTf+a言うほうも言われるほうも好きにやればいい。
0044人間七七四年
2011/03/03(木) 22:23:51.44ID:1N1x87lJ藤堂高虎は秀忠の命により、その総監督に任ぜられた。
高虎は、はりきっていた。
ことに石垣普請には自信を持っている。
これまでにない高石垣を築き上げたかった。
さて、加賀金沢城主前田利常らの北国衆が担当する石垣普請の持ち場である。
当時、大名間の技術格差は相当だった。
「・・・これは使えんな」
彼らの技術では無理と判断した高虎は、
自ら穴太衆と相談して北国衆の持ち場を担当すると、関係大名に言い渡した。
さらに高虎は決めつける。
北国衆の工事への関与は「御ふしんの邪魔」と。(あーあ、言っちゃった)
高虎は、はりきっていたのだ。
0045人間七七四年
2011/03/04(金) 03:05:45.97ID:ilzZdIh20046人間七七四年
2011/03/04(金) 20:02:49.15ID:ouWEUsqu0047人間七七四年
2011/03/04(金) 20:15:28.15ID:nEYEzGYP0048人間七七四年
2011/03/04(金) 22:34:26.09ID:jEFEHsAdしかもオヤジさん、この当時けっこういい年だよね。
0049人間七七四年
2011/03/05(土) 01:19:30.79ID:AGICzsco加賀百万石に邪魔と言えちゃうってのもすごい話だ。
0050人間七七四年
2011/03/05(土) 01:24:31.05ID:/w5bRdoR実質的な支配地が250万石くらいあったはず。
その意味では加賀百万石程度、らくらく見下せる立場だなw
0051人間七七四年
2011/03/05(土) 01:46:40.95ID:952KNXTC0052人間七七四年
2011/03/05(土) 02:13:55.06ID:s7b15JkE0054人間七七四年
2011/03/05(土) 02:48:25.03ID:/w5bRdoR藤堂家としてはあくまで幕府に従うという方針だった。
0055人間七七四年
2011/03/05(土) 07:09:31.70ID:cIo7hZ0k0056人間七七四年
2011/03/05(土) 09:11:51.55ID:qscUo9V3藤堂家の大砲が近代化への風穴を開けた、とか言われてる。一部では。
>>48
昭和な言い回しがいいね。ちびまる子ちゃんのお父さんかと思った。
0057人間七七四年
2011/03/05(土) 09:18:32.08ID:f8GDn/rJ譜代中の譜代である彦根藩が堂々と裏切ってる時点でもう・・・
地下で作左や彦左はどんな顔をしてたことやら
0058人間七七四年
2011/03/05(土) 09:44:41.05ID:KrftV3br0060人間七七四年
2011/03/05(土) 10:18:14.60ID:lnKj0+q30062人間七七四年
2011/03/05(土) 12:48:03.60ID:/w5bRdoR家老の独断というのは最近の研究によって解ったこと。
当時の藤堂藩はその後の政治的展開もあってそのことに口をつぐんでいた。
0066人間七七四年
2011/03/05(土) 14:25:18.54ID:fg8Hi8Dg結局は良かったのかもしれん。
>>61
小田氏治が土浦城を奪回。
だがもうかつての宿敵はいない・・・。
悲嘆にくれる天庵の前に立ちはだかる男、彼こそ・・
0067人間七七四年
2011/03/05(土) 14:51:48.16ID:hpis/iTbhttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/img/1291881990_1.JPG
土浦のイメージキャラクターの座をめぐり天庵の孤独な戦いが始まる…
0068人間七七四年
2011/03/05(土) 15:06:52.17ID:1NliEF5S0069人間七七四年
2011/03/05(土) 18:29:35.70ID:4ZMJgjIY高橋紹運配下で、岩屋城の前線砦である龍ヶ城に柴田小左右衛門という強弓で有名な武将がいた。
どれくらいの強弓だったかというと、天正14年9月に筑紫広門勢が攻めてきた時の言い伝えが残る。
敵情視察の命を受けた小左右衛門と他兵士6名が筑紫広門勢の方面に進んでいたら
ぱったり筑紫隊にでくわした。相手が小勢と見て筑紫隊が一斉に攻めかかったところ小左右衛門は
畦の上に登り狙いを定めて矢を放ち、その矢は一町余り(約109m)先を突進してきていた
筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。
どこの『花の慶次』の登場人物だろうかと言わんばかり。
どんだけ〜と思われるかもしれないが、ただの伝説では終わらない話がまた別に残っている。
小左右衛門は日々弓の鍛錬を行っていたのだが、それがなんと、2km以上先にある
たたみ二畳分の大きな石に向けて弓を引きまくっていたのだそうだ。この石は「的石」と呼ばれ
現在も筑紫野市阿志岐の田んぼの中に残っている。そりゃ一町程度の距離なら簡単に当てられる精度も
4〜5人は貫通させる強さもあったのかもしれないと思わせてしまう。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3&lr=&ie=UTF8&hq=&hnear=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%
9C%8C%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E7%9F%B3&gl=jp&ll=33.509697,130.563154&spn=0.031632,0.054331&z=14&brcurrent=3,0x35419c91312ca24d:0x60946b760ad31433,0
龍ヶ城近くの大行事原というところ(リンク先地図のA地点あたり)から矢を射ていたそうだから
阿志岐(地図左下に阿志岐小が見える)まで2km・・・どころか3km近くあるかもしれない。
ちなみに龍ヶ城はA地点の右、笹尾山の左側、農業試験場の後方の山にあった。
0070人間七七四年
2011/03/05(土) 18:30:36.35ID:4ZMJgjIY0071人間七七四年
2011/03/05(土) 19:33:26.26ID:4EidYzoEいや、第2次長州征伐までは頑張ってた。
小瀬川戦線で長州(岩国)に瞬殺された挙句、「井伊www」って対応を幕軍にされてやる気がなくなったっぽい。
伝統ってだけで、戦国以来の赤備えで完全洋式化済みの長州に突っ込まされたら負けて当然。
しかも、井伊が負けた後で出てきた紀州と幕府の洋式歩兵隊は長州と完全に互角。
「最初からお前ら戦えよ!」って普通は怒ると思う。
0072人間七七四年
2011/03/05(土) 19:35:01.97ID:WKcvJfcW0074人間七七四年
2011/03/05(土) 19:54:09.24ID:hpis/iTb0075人間七七四年
2011/03/05(土) 20:06:30.14ID:oR8VoFwo下級藩士の切子久兵衛が一員であったことで有名
0076人間七七四年
2011/03/05(土) 21:53:37.48ID:msSw3f6f0077人間七七四年
2011/03/05(土) 22:03:59.23ID:qnrj6DBr0079人間七七四年
2011/03/05(土) 23:36:18.66ID:gLs+/l1W西美濃三人衆のひとり稲葉良通(一鉄)。武勇と教養、そして頑固で知られていた。
とある合戦の後、信長は徳川家康および家臣一同を集めて論功行賞を行った。
このとき武功第一とされたのが一鉄である。だが一鉄は、はっきりきっぱり言った。
「わが殿はめくら大将におわすか!
(武功)第一は徳川様であること、誰の目にも明らかでござろう!」
信長の面子を潰しかねない発言だったが、一鉄は譲らず、信長も一鉄の主張を認めた。
この逸話から、自分の考えや態度を曲げようとしない人間を「一鉄者」と呼ぶようになり、
「頑固一徹」の語源になった言われている。
0080人間七七四年
2011/03/06(日) 00:03:37.82ID:5WXiAMp/0081人間七七四年
2011/03/06(日) 00:04:58.57ID:Aq/WVItG>筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。
完全に原哲夫の絵で脳内再生されたわw
0083人間七七四年
2011/03/06(日) 00:28:07.07ID:ZpTxQgb3一人目「ぱっ!」
二人目「びっ!」
三人目「ぶっ!」
四人目「ぺっ!」
五人目「ぽおっ!」
で再現されたw
0084人間七七四年
2011/03/06(日) 00:46:28.65ID:vn8tJvFS鳥羽伏見の戦いでの淀藩稲葉家の裏切りは、
慶喜に衝撃を与え、慶喜の大坂城脱出で天下の趨勢
は決した。
0085人間七七四年
2011/03/06(日) 01:16:08.16ID:kGqU0sHZ0088人間七七四年
2011/03/06(日) 02:32:55.47ID:56KrG4MG弓は使い手によっちゃ鎧をぶちぬくなんて朝飯前らしいからなぁ
0089人間七七四年
2011/03/06(日) 02:36:59.21ID:j/yZddOq0090人間七七四年
2011/03/06(日) 11:42:07.76ID:QkIRp1o3柔らかいからかな?
もしそうなら、裏打ちすればどうにかなるかも
一部の人間しか出来ない技だろうが
0091人間七七四年
2011/03/06(日) 11:56:52.82ID:Qi7bKFFp講演会等の情報のある手元のチラシとはこれのことか?
土浦市立博物館第32回特別展「戦国武将小田氏と法雲寺」
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1298977176_doc_147.pdf
0092人間七七四年
2011/03/06(日) 13:17:08.82ID:esYYv5G6http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1299375775/
0093人間七七四年
2011/03/06(日) 13:22:43.78ID:525D/YI40096人間七七四年
2011/03/06(日) 13:49:03.17ID:QkIRp1o30098人間七七四年
2011/03/06(日) 13:59:01.86ID:khTr4ulz0100人間七七四年
2011/03/06(日) 14:00:27.75ID:khTr4ulz0101人間七七四年
2011/03/06(日) 14:04:11.50ID:6HRmR9Ff0102人間七七四年
2011/03/06(日) 14:23:56.71ID:urmGjCVY豊臣?は家電メーカーにあったと思う。
TOYOTOMI社製のストーブが実家にあったので
0103人間七七四年
2011/03/06(日) 14:35:51.33ID:urmGjCVY手元の本によると、秀吉公は、平→藤原→豊臣と改姓していったとのこと。
0104人間七七四年
2011/03/06(日) 23:20:25.51ID:HLL1r5MZ0106人間七七四年
2011/03/07(月) 00:45:12.31ID:MP1RDi++君にその的になる権利を与えよう。もしくはガラシャさんの前に立つ権利でも、森長可が通ろうとする門の番をする権利でもいいぞ
0108人間七七四年
2011/03/07(月) 13:35:09.63ID:GbbaB/1Y豊臣氏成立以降は石田豊臣朝臣三成だったのだけど、
これは三成が豊臣氏を詐称してることになるの?
でも、秀吉公認なわけだし詐称ってのも違う気がする。
現代人からすると、いまいち氏がどういうものだったのかわからない
0109人間七七四年
2011/03/07(月) 20:49:23.40ID:4+xW7Db20110人間七七四年
2011/03/07(月) 23:24:20.58ID:XFtsVtcZ0111人間七七四年
2011/03/07(月) 23:33:50.78ID:f9WvKasE「人は誰でも、趣味や得意なものがある。弓・鉄砲、馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、和歌、碁・将棋、鷹狩。
数寄道だろうが武士道だろうが、自分の好きな事は他人に話したくなり、他人が自分の好きな事を話していれば、
その話を聞きたくなるだろう。
つまり人がふだん何を話し、何を面白がるかを知るのは、その人を知る上で大切なことだ。例えば侍ならば、
武道について話し、他人が武辺話などを面白がって聞く者は、それだけで良き心がけの者を言えよう。
昔、松永という名人も“人間の心中は大抵、その人の趣味の話を聞き、一緒にいる友人を見れば分かる”
と言っていた。間違いなかろう。」
剣豪将軍の仇を評価しちゃうんだ・・・
0112人間七七四年
2011/03/07(月) 23:35:03.95ID:GbbaB/1Y当時に詐称してる感覚はあったのだろうか?
たとえば織田信長が平氏を名乗ったのは現代感覚で言う詐称だったのだろうか?
氏というのは石田三成が豊臣朝臣であったように、
血の繋がりがなくても問題なさそうだし。
誰か氏、姓に詳しい人いないかね
0113人間七七四年
2011/03/07(月) 23:56:22.90ID:XFtsVtcZ乱世とはいえ、現代に比べれば遙かに権威主義の時代だし、詐称を誰も気にしないような状況なら、詐称する意味はないわけで。
そもそも、源平籐橘と豊臣を同じ氏として考えたら駄目だろ。豊臣は前にも後にも一度きりの例外だし。
豊臣は氏としても姓としても賜りまくってわけがわからない。
0114人間七七四年
2011/03/08(火) 00:07:01.62ID:JD7UJbke0115人間七七四年
2011/03/08(火) 00:08:55.32ID:2RinM+Cu大体賛成だが、補足。
信長については、最近は、縁もゆかりもなかったんじゃないかという説が強い。
元々は藤原氏を名乗っていたわけだが、それすら根拠無しだと。
ただし、尾張や三河では、怪しい家系は大体藤原名乗っとけみたいな感じがある。
だから藤原氏を名乗ることについては、別に詐称という抵抗はなかったかも知れない。
まあとにかくスレ違い。>>112は詳しい人云々の前に少しは本でも借りて調べろよ
0116人間七七四年
2011/03/08(火) 00:14:26.56ID:kaNjRwzU当時は、よほどの名家以外は、
口伝でウチの先祖は○○だと伝わっていたくらいだろうから、
詐称の意識はなかった武将が多い説もありえると思う
0117人間七七四年
2011/03/08(火) 00:15:52.84ID:2t7Jpcgf久秀の縁者とされる松永貞徳は歌の弟子にあたるし、連歌についても三好長慶の立ち振る舞いを
理想としたなんて話もあるし、それほど三好氏に悪い印象は持ってなさそうだよね
>>113
一応家康も松平清康が源姓を名乗っていたらしいけど、家康は「藤原氏」を称したりもしているし、
その時々で都合よく使い分けてたみたい。
0118人間七七四年
2011/03/08(火) 00:28:37.75ID:DY233kST> 一応家康も松平清康が源姓を名乗っていたらしいけど、家康は「藤原氏」を称したりもしているし、
それは三河守を叙任するときに朝廷から「得川氏のものが三河守になった例はない」って言われて、
困った家康に取次していた近衛前久が、家康を自分のところの家の子扱いにして、藤原氏ということで
三河守を叙任させたため。
なので後でそう言うの気にしなくてもいいようになると、源氏に「戻った」わけだ。
0119人間七七四年
2011/03/08(火) 01:28:09.24ID:f/OsFQRc北条家の家臣であった富永主膳は、北条没落後徳川家に召しだされ、槍奉行の大役を
仰せつかった。
そんな富永が、石谷十蔵の所に中田與三が居るということを知り、石谷にこう申し込んだ
「中田殿と言えば懐かしき旧友でござる!ぜひお会いしたいと申し上げてください!」
石谷はお安い御用とこれをすぐさま中田に伝えた。徳川家中で出世した昔の友の誘いである。
さぞ喜ぶと思ったのに、あにはからんや
「いやいや、会うのはやめておこう」
とつれない返事。どうしてだと石谷聴けば
「あー、主膳の奴な、ぶっちゃけ北条家で大した働きはしてないんだわ。
それを誰が言い出したか、凄い武功の者みたいに呼ばれて、徳川家に召しだされ
結構なお役をいただいているわけだ。
ついでにな、あいつ小田原にいたときすげー貧乏だったの。
もうあんまり貧乏で兵量もまともに用意できなくて、俺なんかカンパしたこともあるよ。
でさー、今あいつと会った時にさ、あいつどうせ家中の方々に自分の戦功のこと
話してたりするんでしょ?その主膳の戦功ってのを、わしは全然知らないわけさ。
だから話を合わせるのが目茶目茶難しいだろ?
だからといってご家中で責任ある立場になってる主膳を、わしが適当にあしらうってのも
良くないだろうからなあ。
なので、会わない。」
中田も懐かしくない、といえば嘘だろう。
だがむかし貧乏で苦労した同僚の富永主膳が、色々あって運良く徳川家で重いお役についた。
そんな富永の北条家時代について、自分が会えば周りに変に疑惑を持たれるのではないか、
富永に取って、それはせっかくの幸運を失うことに繋がるのではないか、
だから合わない。ということだろう。
そんな、中田與三さんのちょっと人情小話。
0120人間七七四年
2011/03/08(火) 07:15:31.85ID:pv7bOLQI三河松平氏が得川氏(源氏と藤原氏双方の末流)の末裔で「ない」という証明ができない以上、
詐称と断言するのもどうかと思うよ。
得川氏が消滅している以上、その傍流が落ちぶれて流れ流れて三河松平の祖になった、という
のは十分ありそうな話だし。
0121人間七七四年
2011/03/08(火) 07:46:30.70ID:47UbTSGx0122人間七七四年
2011/03/08(火) 07:59:16.34ID:kaNjRwzU0123人間七七四年
2011/03/08(火) 09:27:41.09ID:RTgdZHtwやった事を持って人の優れた部分まで否定するのは狭量だと思うのですよ。
老醜さらしたから全盛期も否定するとかもありがちだけどさ
0124人間七七四年
2011/03/08(火) 10:07:11.90ID:IIjYXYXN確かにいい話ではあるのかもしれないが…
ちょっと悪い話の方のでもそうだけど、説明の仕方がぶっちゃけすぎなタイプだなこの人w
経歴詐称状態で出世した富永さんを内心小馬鹿にしてたりして
0126人間七七四年
2011/03/08(火) 14:50:55.21ID:Hu96k1l00128人間七七四年
2011/03/08(火) 22:07:26.01ID:zJ2rXISp秀吉死亡時、官位最高位が内大臣である家康当人になってしまった異常事態から
せっせと朝廷の立て直して公卿の取り込みもしており、朝廷としても然るべき報償を
との機運も高まっていた。
0129人間七七四年
2011/03/09(水) 11:36:25.35ID:1pq2hTjZ0130人間七七四年
2011/03/09(水) 12:56:15.08ID:wfue5VTg肥前の雄、鍋島直茂の晩年の話。
彼の隠居先の近くに小さな寺があった。
欠かさず日の出には鉦を叩き、お経をあげる声が聞こえてくる。
「奇特である。人間はあの坊主のようにわが職分に励みたいもの」
すっかり感心した直茂は「何か褒美をとらせねばなるまい」と使いを出した。
が、寺をうかがいに行った家臣は顔色をかえて帰ってきた。
坊主は寝そべったまま、バチを足にはさみカネを叩いていたという。
直茂はうれしそうに笑い「苦しからず。手が足に替わろうが、カネの音にかわりがあるものか。
よきことは真似でもせよというではないか。寺禄を与えてやれ」と言ったという。
いかにも結果オーライな鍋島直茂のいい話。
寺の坊主にとってはバツの悪い話。
0131人間七七四年
2011/03/09(水) 13:18:27.15ID:7CyUdqL6「三昧」の境地に至っていたのかもしれんぞ
0133人間七七四年
2011/03/09(水) 18:52:04.35ID:XL8Z3P1/部下より先に敵情を視察し、見てきたと言う素破のサボりを見抜いたという逸話が残る。
って一文があるんだけど、この逸話の詳細ってどこかにあるかな?
0134人間七七四年
2011/03/09(水) 21:59:52.07ID:zHseRVgYたぶん「上野国吾妻記」か「真田家御事蹟稿」かな?
今両方とも手元にないんで確認できないスマソ
「吾妻記」だと出浦さんの息子の出浦対馬が上忍として腕利き忍者の割田下総を粛清した話とか
小松さんの握撃メイドかがり花ちゃんの話とかトンデモ話が載ってる
「真田家御事蹟稿」だと鈴木右近さんとかアイキャンフライ赤沢嘉兵衛とか
お兄ちゃんの家臣の逸話がけっこう載ってる
0135人間七七四年
2011/03/09(水) 22:30:10.48ID:F74B19ax0137人間七七四年
2011/03/09(水) 23:39:22.47ID:XL8Z3P1/って調べてみたら両方とも入手困難すぎだったwww
0138人間七七四年
2011/03/10(木) 00:50:10.32ID:fjdMjkIc前にムガル帝国記に又兵衛の逸話に似てるのが載ってるって人もいたし
守備範囲どうなってんだ…
0139人間七七四年
2011/03/10(木) 00:57:51.98ID:Z6B+vZPZごくふつうのリーマンとニートと学生だと思うよ。
会社では歴史の話は一切しないけどw
0141人間七七四年
2011/03/10(木) 01:46:24.58ID:UExCtHss江戸時代初期、家康は他国との貿易に興味深々でした。南蛮貿易を奨励し、朱印状を与えて大名たちにも行わせました。
そんなある日、家康はイスパニヤ(スペイン)との交易を望みました。そこで、使者を太平洋航路で送りました。その使者たちの
返還および答礼の使者として日本に訪れたのが、セバスチャン・ビスカイノです。でも、彼は実は、イスパニヤ国王の命令
で、当時「金銀島」と呼ばれていた日本列島の探索にきたのでした。いわゆるスパイです。
ビスカイノは、日本に来ると、将軍に会いました。そして、「通商できる大きな港を探すために、東海岸の測量をお許しくださ
い」と言いました。通商が叶うと思った家康は喜んで、これを許しました。
家康は、本格的なイスパニヤとの通商が始まると思って、巨大な船をつくらせ始めました。ところが、測量を一通り終えたビスカ
イノは、家康に無断でさっさと撤収。いかにもしらじらしい逃げ方で日本を離れました。
家康は、「たばかられた!ヤツはイスパニヤの間者(スパイ)だったかもしれん!」と焦りましたが、意外にも、ビスカイノは船が
難破してすぐ帰ってきました。船が壊れて、故郷(くに)に帰れなくなったビスカイノは、家康に泣きつきましたが、家康は
もう相手にしてくれません。
途方にくれるビスカイノに一人の隻眼の男が手を差し伸べた。。。
サンファン バウチスタ号。ガレオン級帆船、イスパニヤを目指す、帰途中マニラでスペイン艦隊に買収され海戦に・・・その後不明。
太平洋を往復した日本で建造された最初の西洋帆船。艦尾には細川家から拝領した九曜紋が彫られてる。
明治に渡欧した岩倉使節団により偉業と書類が発見される。
0142人間七七四年
2011/03/10(木) 03:03:59.68ID:EUrCXwPG0143人間七七四年
2011/03/10(木) 07:52:18.49ID:DRaMbnj4行軍中、道端でお婆さんがうずくまって泣いてるので、信長が『どうしたんだ?』と尋ねると
『村長と対立し、嫌がらせで家を壊されてしまった。どこに住めばいいのか』というので信長は激怒。そのまま村に行き『老婆をいじめて家を壊すとは何事か!』と。
村長に家を建てなおさせた。
信長が将軍義昭と対立したとき、近衛前久に
『自ら立てた将軍を自ら滅ぼさねばならないとは・・・運命は数奇なものだ。後の世の人は俺を「将軍を追放した悪者」と謗るだらうか。』
と落ち込んだという。
織田信長の意外な一面。
婆さんが一向一揆の信者だったらどうなっていたことやら・・・
0144人間七七四年
2011/03/10(木) 08:02:07.76ID:NtDD0gAS0145人間七七四年
2011/03/10(木) 08:13:05.31ID:23/T0wvM部下の家族とかのが多いけど結構思いやってる逸話も多い
0146人間七七四年
2011/03/10(木) 09:45:37.51ID:iS7fQI7P面倒見がよくなきゃあ成り立たないでしょ
0147人間七七四年
2011/03/10(木) 10:22:47.48ID:vZROiVyl0148人間七七四年
2011/03/10(木) 10:44:46.92ID:bhxQwN9w残った記録が多いだけなのかもしれないが、宣伝工作も大規模にやってるし
ただし、世論を気にして行動を変えるということはしないのだが
0149人間七七四年
2011/03/10(木) 10:46:09.75ID:mauyQIj20150人間七七四年
2011/03/10(木) 11:12:40.68ID:S956SWOBそんな任侠、映画にしかいない
0152人間七七四年
2011/03/10(木) 12:41:15.37ID:yMicKBbw0154人間七七四年
2011/03/10(木) 13:01:25.06ID:jh9Javieただ信長が京の市民からはめちゃめちゃに評判悪かったのも確か。
まあ上京焼き討ちとかしたんだから当然なんだが。あと信長統治下の京は
かなりの重税で、なおかつ臨時の矢銭(戦争税)なんかが頻繁で、とにかく負担が重かったらしい。
(有力な公家なんかは別。彼らは信長から既得権益を完全に保護されてた)
なので本能寺でヌッ殺されたとき京市民は大喜びしたフシがある。
0155人間七七四年
2011/03/10(木) 13:18:05.78ID:bhxQwN9w戦争税その他の負担は以前からあったものだし、その見返りとしてアメも多かったから、
単純に嫌われていたと断言することもないかと。
もちろん、織田政権を嫌っていた人たちの存在も、割合はともかくいただろうけどね。
あと、京公家の権益ってのは京の町民や商人の権益とも繋がっている。
例えば山科家は京の生魚市場の半分を占める商人を抱えているので、
山科家の権益を保護するということは、山科家が保護していた傘下の商人たちの
権益を保護するということでもある。これは他の商人や寺社、町民も同じ。
0156人間七七四年
2011/03/10(木) 13:33:29.67ID:Z6B+vZPZ京の市民全員に嫌われてたみたいな言い方は実態にそぐわないと思う
0157人間七七四年
2011/03/10(木) 13:47:51.70ID:S956SWOBお気に入りの重臣のムチャを許した例も多い。
あと当人に落ち度のない弱者にはわりと優しい逸話も残ってる。
ただ、才能のない者、信長からみて意味のない者が規則違反すると、
超厳罰主義になるんだよな。
首はねなくても良さそうな場面でもはねちゃう。
見せしめにして規則を守らせるという側面もあるのだろうけど
0158人間七七四年
2011/03/10(木) 14:37:57.23ID:09KX0lgsそれを御用商人達が持つ既得権益である市や座の保護と言う。
美濃や近江でも商人の既得権の追認をしていただけで、
信長が楽市楽座なんてやってなかった論拠になってる。
そして御用達が主催する団体から税を巻き上げてた。
0159人間七七四年
2011/03/10(木) 15:58:26.05ID:KylRJdBsじゃ下京と権益外の人からは
焼き討ちと重税のせいで嫌われていた
本能寺ばんじゃーい∩(`・ω・´)∩
0160人間七七四年
2011/03/10(木) 16:32:55.71ID:bhxQwN9wそれは楽市楽座の誤解というか勘違い
信長も含めた戦国時代に発せられた楽市楽座というのは座を否定したのではなく
既存の座に統制された旧来の独占市場とは別の新らしい市場を提供したということ
これは新規商人にも既存の商人にも、新たな商業と販路の開拓という利益をもたらした
>信長が楽市楽座なんてやってなかった論拠
信長の楽市楽座ははっきりと資料的に確かめられる根拠ある政策なんで
そんなこと言っている人は単に勉強不足なだけですね
0161人間七七四年
2011/03/10(木) 16:44:15.11ID:jh9Javieただ、そもそも「座」というものが一体どんなものだったのか、未だによく解っておらず、
その為に「楽市楽座」も一体何を指していたのか、研究者によって解釈がまちまちだったりする。
どうも信長当時の楽市などの「楽」は、「自由」ではなく「安全」を指していたのではないか、
という説もある。
0162人間七七四年
2011/03/10(木) 17:02:06.83ID:Qug6q3mv武田の家臣に、桜井重久という武将がいました。
重久は大そう強い武将だったのですが、武田家が滅びると富県村の貝沼に住みつき、名前も
貝沼重久と改めて暮らしていました。
ある日、重久は犬をつれて狩りに出かけました。
ちょうど、まこもが池のそばを通りかかると、池の中ほどにオシドリが二羽、仲良く浮かんでいたのです。
「これは、良い獲物だ」
重久はさっそく弓矢を放ち、一羽のオシドリの首を射貫きました。
ところがどうしたわけか、犬がくわえてきたそのオシドリには首がなかったのです。
さて、それから数日後の夕方、重久が座敷でくつろいでいると、どこからか女の悲しい歌が聞こえてきました。
♪桜井の、名もうらめしき、貝沼の
♪まこもが池に、のこるおもかげ
それは、
「桜井も貝沼という名前もうらめしい、まこもが池には、今は亡きあの方の面影がいつまでも残っております」
と、こんな意味の歌です
重久は急いで表に出てみましたが、そこには誰もおらず、ただ、田んぼの上を風が吹いているだけです。
それから一年がすぎた、ある日の事。
重久は狩りの途中で、また、まこもが池を通りかかりました。
すると今度は、めすのオシドリが一羽、池を泳いでいたのです。
重久はさっそく、弓矢を放ちました。
犬はすぐさま池にとびこむと、オシドリをくわえてもどってきました。
そして犬がくわえてきたオシドリを手にして、びっくりです。
そのめすのオシドリの羽の下には、ミイラになったおすのオシドリの首がしっかりとはさまっているではありませんか。
そのとたん重久の耳に、いつかの悲しげな女の歌がよみがえってきたのです。
「そうか、そういうことか」
重久は自分の犯した罪を深く反省して、その日から弓矢を捨てました。
そして頭を丸めて、まこもが池の近くに寺を建てると、自分が殺した二羽のオシドリの供養をしたそうです。
今も残る鴛鴦山東光寺(えんおうざんとうこうじ)が、この寺だといわれています。
0163人間七七四年
2011/03/10(木) 17:20:55.48ID:S956SWOB0164人間七七四年
2011/03/10(木) 17:28:25.76ID:Z1ZCdtlU六角定頼が始めた観音寺城への家臣集住と
その城下へ店を持つ商人への優遇策が
楽市であり、その政策を斉藤や今川が学んで施行していった。
織田は逆に熱田の門前町にいた排他的御用商人達の組合である座を優遇し
自由な商売を保障する六角・斉藤・今川と対立していた。
信長が斉藤や六角を討ったあとに、それら楽市で行っていた商人の既得権益を追認しただけ。
そしてその既得権益の追認が特定個人たちにだけ行われたので
特権階級である御用商人組合の座となり税金を集めて織田へ上納する楽座に堕ちただけ。
0165人間七七四年
2011/03/10(木) 17:38:08.77ID:50sZjgfi0166人間七七四年
2011/03/10(木) 17:43:45.22ID:Z1ZCdtlU信玄の西上の時に義昭が挙兵したが
その際に山城・近江・大和で義昭に呼応して
挙兵する者が多かった。
それ以前から丹波の国人衆達も織田に対して挙兵してたし
基本的に京洛周辺は重税かけてる信長を嫌っていた。
0167人間七七四年
2011/03/10(木) 18:08:31.92ID:8hU9JffN0168人間七七四年
2011/03/10(木) 18:12:15.39ID:XNh/KCzZ0169人間七七四年
2011/03/10(木) 20:37:21.45ID:4+bCU/pf0170人間七七四年
2011/03/10(木) 20:48:50.67ID:IO5tgaC4高校の頃の教科書見直してみた
「信長は、組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、すぐれた軍事指揮官として、
次々と戦国大名を倒すだけでなく伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し
関所の撤廃など新しい支配体制を作ることをめざしていた。
信長は〜機内の高い経済力を自分のもとに集中させた。
また安土の城下町に楽市・楽座令を出しこの町にきて住む商工業者に自由な営業活動を認めるなど
新しい都市政策を打ち出した」
まぁ5、6年も前の教科書だが
0172人間七七四年
2011/03/10(木) 20:58:18.94ID:iAQCkqw10174人間七七四年
2011/03/10(木) 21:04:26.32ID:jh9Javieなかなか挑戦的な信長描写だなw
> 「信長は、組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、すぐれた軍事指揮官として、
組織的には信長のところは室町守護大名と殆ど変わらず新しさはない。強力な軍事力は同意
> 次々と戦国大名を倒すだけでなく伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し
むしろ伝統的な秩序・権威に密着して勢力を伸ばしたのが信長
> 関所の撤廃など新しい支配体制を作ることをめざしていた。
撤廃していない。信長が排除したのは「敵のつくった」軍事上の関所で、経済関所はすべて温存された。
> 信長は〜機内の高い経済力を自分のもとに集中させた。
ちょっと意味が分からないなw当時の畿内の経済中心である京・奈良・堺を掌握していたということなら
その通りだけど
> また安土の城下町に楽市・楽座令を出しこの町にきて住む商工業者に自由な営業活動を認めるなど
> 新しい都市政策を打ち出した」
上の議論にあるように信長の楽市楽座は必ずしも自由な商業活動を指していたとは、現在は
考えられていない。
0176人間七七四年
2011/03/10(木) 21:23:16.34ID:dg9EzNxN別に信長がオリジナルに制度を作った、と言う訳じゃない。(山川の教科書を見ると、「都市政策として、楽座と言うシステムをオリジナルで作った」にも取れる。)
まぁ、オリジナルを作ることも確かにそうだが、オリジナルをどう活用するか、どう改良するかも重要だと思う。
そう言う意味では戦国の三傑と言われた人物は確かに傑物だと思うところもある。
0177人間七七四年
2011/03/10(木) 21:26:38.15ID:IO5tgaC4この部分を誰が書いたかとか書いてねーよw
著作者なら
石井進、伊藤隆、笠原一男、勝俣鎮夫、児玉幸多、五味文彦
笹山晴生、白石太一郎、高埜利彦、高村直助、坂野潤治、吉田伸之
とある
0178人間七七四年
2011/03/10(木) 21:28:48.22ID:09KX0lgs堺は欧州のヴェネツィアのような自由都市や都市国家。
信長主導の安土桃山文化はルネッサンス
室町時代〜信玄や謙信ら守護大名崩れは略奪奴隷売買の悪魔で
朝廷権威否定・政教分離し宗教全否定の信長は左翼が大好きな共産革命家と位置づけてるからね…(ソ連や中共も宗教否定し弾圧)
足利幕府は右翼からも左翼からも暗黒時代とされてるから非難放火の危険がありすぎて満足に大河ドラマにもならない。
0179人間七七四年
2011/03/10(木) 21:29:17.68ID:bhxQwN9w安土に関しては自由な商業活動認めていたからその記述は正解
信長は領国全土をフリーにしたのではなく、部分的に自由商売が可能な都市を開放した
というか、完全フリーな商売なんて江戸時代にだって認めていない
信長の評価に関しては、90年代に「革命家信長」というイメージが広められた結果、
今世紀に入ってからは「かつて言われていたほど革命的だったわけではない」と
再びの再評価が行われているが、それがまた行き過ぎて「信長なんて全然革命的ではない」
「むしろ保守的」という前提で資料を解釈して評価を下すような人が出ている始末
ほんと、毀誉褒貶が激しい人だ
普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
異なる革新的なこともしている、というくらいに落ち着くんだがなあ
で、ここから個人の評価なんだが、信長がまったく革新性がなく保守一辺倒な人物だったとしたら、
まるで代わり映えのない従来の政治軍事で尾張半国から二十数カ国を領する天下人に伸し上がった
彼の政治軍事の能力ってどれほどずば抜けているのよ?そんな人物に勝てなかった他の大名たちは?
0180人間七七四年
2011/03/10(木) 21:32:57.53ID:KPo9AJgC>普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
>異なる革新的なこともしている
ということは普通だな!
普通武将信長!
・・・・・・・ごめん、なんかがっかりくるから、やっぱり今まで通りのイメージでいいや
多分こんなカンジで創作作品での信長のイメージは未だに革命的イメージなんだろうと思います
0182人間七七四年
2011/03/10(木) 21:47:18.84ID:S956SWOB2人の実質がどうであったかはまた別の話だが。
戦前までに人気のあった人物は思想や政治色が強いから、
戦後は持ち上げにくかったかもね。
楠木正成は右翼色があるから避けられそうだし、
太閤様は晩年のあれがあるし、
権現様は前体制の創始者だから
0183人間七七四年
2011/03/10(木) 21:50:05.67ID:yMicKBbw0184人間七七四年
2011/03/10(木) 21:50:16.71ID:IO5tgaC4元寇の部分見てみたら蒙古襲来絵巻は竹崎季長に例の三人が立ちふさがってる奴だったし
教科書が検定されたのも1997年だった
0185人間七七四年
2011/03/10(木) 21:59:09.55ID:bhxQwN9w詭弁もいいところな文章だなあ
六角も信長も、やったことは同じ、坐を保護しつつ、楽市で部分的に開放した
六角にも坐を保護する文書が残っている
>164は、六角が坐を保護した点は隠して楽市を行ったことは取り上げ、
信長が坐を保護した点は取り上げて楽市を行ったことは無視することで
イメージ操作をしている
>>166
挙兵に呼応した勢力がいたのは事実だが、それが信長の重税故とする根拠は?
特に山城や大和はまだ信長の領国圏外で、信長は将軍の権として京や寺社、
および自分が支配を許された堺への矢銭は課したが、それ以外の畿内の土地に
信長が課税する根拠も権限もなく、そのような命令文書も残っていない
仮にそれらの地で重税が課せられたのならそれは信長でなく他者の政策だ
それから、義昭挙兵の時に山城や近江で呼応した者もいたが、
信長に従うことを選んだ豪族達も多くいる。彼らを無視するするのはどうよ?
0186人間七七四年
2011/03/10(木) 22:00:14.61ID:jh9Javie信長はやはり天才としか言いようのない人で、そこは外しちゃいけないのだけど、
その天才性というのは組織や社会を変える方向というよりも、権力を確立、拡大する
方向においての天才と言うべきだろうね。
その真骨頂はやはり1にも2にも政治力で。「革新的ではない。既得権益の丸呑み。旧権威との密着」
というのは、当然好みもあっただろうけど、おそらく意図的な「政策」としてやってた。
そうじゃないと地域地域で状況の異なる恐ろしく複雑なあの時代の日本を平定していく、
なんて事業は無理だったと思う。
現実の信長の歴史的な意義ってのは、彼の創り上げた一定の安定が、後の秀吉や家康に、
社会に合わせた改革を構想し実行する余裕を与えた、という部分が大きいんじゃないかな?
0187人間七七四年
2011/03/10(木) 22:09:26.82ID:1a47N5fM商人なんかから役銭をとるのを禁止するようになったのは秀吉なんだよね。
諸国の牛に役銭をかけた山科言継の息子・薄諸光はそのために殺され、薄家は廃絶しちゃったわけで。
>>160
美濃加納や安土でやった楽市楽座(非課税とか新規参入可能とか)というのは特定の都市での市場振興策といった感がつよいんだよね。
越前では旧来の座の特権を安堵しているし、尾張でも加藤氏に大きな権限を与えていたりするので、座の
全廃策を掲げていたわけではないんだよね。一般的にイメージされる「中世の破壊者」みたいなのは当てはまらないだろうな。
0188人間七七四年
2011/03/10(木) 22:10:18.72ID:FFospOxv0189人間七七四年
2011/03/10(木) 22:15:38.35ID:GTFzOSTA0190人間七七四年
2011/03/10(木) 22:22:48.11ID:PADhEA5n0192人間七七四年
2011/03/10(木) 23:00:03.75ID:jh9Javie寛永15年2月(1638)島原の乱、幕府軍の総攻撃により、原城に籠ったキリシタンたちも
遂にその終焉を迎えようとしていた。
と、その時
知恵伊豆こと、幕府軍の総指揮を取る松平信綱の嫡男、当時19歳の甲斐守輝綱は、
戦闘に参加するためただ一騎馬を走らせ城へと向かった。
これを知り信綱は激怒し、家臣の岩上角左衛門を呼んで「輝綱をすぐに止めてくるように!」
と命ずる。
岩上は直ぐ様馬に飛び乗り輝綱の後を追い、遂に追いつくと彼の馬の前に立ちふさがり
輝綱に向かって叫んだ
「伊豆守様よりのお言葉を伝え申す!
『伊豆守は将軍家の御代官としてこの地に来たのであって、諸軍と功を争ってはならないと、
家中の者たちにも固く命じていたところである!ましてその長男がその様に抜け駆けし、
先陣を争うなどあり得べきことではない!
その行為をすぐに辞めるように!!』
以上でござる!」
と、輝綱の馬の頭を取って本陣に帰らせようとした。
しかし輝綱19歳、血気盛んでありまた、幼少より武芸に秀で、後に武士の手本とまで
呼ばれた人物である。岩上の言うことも聞かず再び戦場に向けて馬を走らせようとした。
ここで岩上角左衛門、兜を脱ぎ捨て輝綱の前に自分の首を差し出した!そして
「それがしの首を取らねば、戦に出ることかないませぬぞ!
さあ、速やかにこの首を刎ね、その後で思い通りになされませい!!」
睨み合う輝綱と岩上角左衛門。が、輝綱遂に馬の首を返し、一鞭当てて本陣へと戻っていった。
後々、松平輝綱は事あるごとに
「私に戦の高名がないのは、全部岩上のせいだ!」
と恨み言を言ったという。そしてその上で必ずこう付け加えた。
「でもな、主人を諌めるって言うのは、あのくらいじゃないと駄目なんだ。」
島原の乱での、伊豆守家主従のヒトコマである。
0193人間七七四年
2011/03/10(木) 23:04:49.43ID:tZDLgP3w彼の家臣に「顎なし孫右衛門」とあだ名されていた勇士がいた。
その「加藤孫右衛門」は、高玉城の1番乗りをなして、城壁へつかまった
とたんに、鉄砲弾で顎半分をとばされてしまったが、そのまま敵陣に踊りこんで
獅子奮迅の活躍という勲功の者・・その後、彼の旗指物の印が、野猪で生憎と
彼の面相と類似してたので、戦友たちがからかっては笑っていた
(猪の顎は小さく、かれの欠損した顎の顔に似てた)。それはやがて政宗の耳にも入った。
政宗は彼を呼び、「この猪は、殊勲者であるのに、笑われ者になっておるのは、この髭が
余りにも貧しくまばらだからだ。余が威厳をそなえてつかわすであろう」と
筆を取って、小旗の猪へ立派な髭を描き足してやった。勇者多しといえども
主君直筆のお墨付きの指物をもっているの者は、孫右衛門ただ一人、その名誉を敬われ
以来誰一人彼を笑う者はいなくなったと言う
0194人間七七四年
2011/03/10(木) 23:06:54.52ID:IO5tgaC4美しいよな
0195人間七七四年
2011/03/10(木) 23:14:49.75ID:EUrCXwPG0196人間七七四年
2011/03/10(木) 23:17:39.11ID:NjN3kGqd森家の家臣にそんなの居ないw
甲州入りの時も、信長からも信忠からも「深入りするな」って命じられてたのに
「命令?知るか!」
とどんどん戦線を拡大しちゃったわけでw
0197人間七七四年
2011/03/10(木) 23:28:53.35ID:bhxQwN9w輝政 「親父の仇は厚遇するけど、仇討ち邪魔したアイツは冷遇する」
0198人間七七四年
2011/03/10(木) 23:29:36.12ID:EUrCXwPG森家某家臣『殿、抜け駆けをしなければなりませぬ、どうしてもしないというならそれがしの首を討ってくだされ』
0199人間七七四年
2011/03/10(木) 23:51:26.51ID:yMicKBbw0200人間七七四年
2011/03/10(木) 23:56:34.46ID:/qGWaj0J0201人間七七四年
2011/03/10(木) 23:58:19.03ID:EUrCXwPG森家某家臣『殿、これは抜け駆けではござらん、奇襲でござるよ、某が良い働きをできなければ首を討ってくだされ』
もはや原文台無しwww
0202人間七七四年
2011/03/11(金) 00:26:43.95ID:/YietsRZ0203人間七七四年
2011/03/11(金) 00:48:40.40ID:7ObqDUCr森家主君「ヒャッハー?」
森家家臣「ヒャッハー!!」
森家主君「ヒャッハー!!!」
0204人間七七四年
2011/03/11(金) 00:59:23.64ID:KCTIUxg3六角は観音寺城で座の保護してない。
>>187
美濃加納での楽市は斎藤がやってたのを信長が調略した際に追認しただけ。
安土は新しく造ったから商人を誘致する必要があったからで同時に半ば強引に御用商人への引っ越しも要求してる。
0205人間七七四年
2011/03/11(金) 01:11:20.37ID:amS6Ud5k家臣団 「エンジョイ&エキサイティングッ!!」
ここまで幻視した
0206人間七七四年
2011/03/11(金) 01:15:27.33ID:LYFJsyiH夏目吉信「うるせえこれからは俺が領主になってやる。」
とか
徳川家康「秀忠ゆるさーーーんっ!」
榊原康政「そうですか、では私は腹を切りますね^^」
本多正純「父の首を取ってきまーす」
な三河武士は格が違った。
0207人間七七四年
2011/03/11(金) 01:43:53.56ID:amS6Ud5k上段については、観音寺ではしてなくても領国における近江の座を保護している
下段については、だからなに?まだ詭弁を繰り返すの?
0208人間七七四年
2011/03/11(金) 01:46:48.60ID:F+fv4rdu戦国大名の経済力 3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267685156/
0209人間七七四年
2011/03/11(金) 01:56:08.71ID:811sMbraふと忠政がお兄ちゃん達を生け贄に捧げたんじゃないかと思った
0210人間七七四年
2011/03/11(金) 02:07:25.15ID:kZYZIcpU0211人間七七四年
2011/03/11(金) 02:11:11.28ID:CvnClEb7逸話を書き込んだあと反応にわくわくしながらリロードして
そういうのが来るとがっくりくるよね。
○○「〜〜〜〜」とかも。
0212人間七七四年
2011/03/11(金) 02:20:19.91ID:LZD51hgkでも家臣は喜ぶんだろうな
名誉な話だな
0213人間七七四年
2011/03/11(金) 02:55:01.90ID:3DX1CNXb0214人間七七四年
2011/03/11(金) 04:37:05.26ID:abPVXvD9スルーしなよ。
0217人間七七四年
2011/03/11(金) 09:55:48.72ID:WGRTX8QD0218人間七七四年
2011/03/11(金) 10:42:46.67ID:4h5CEtA1スルーできないとかマナー云々なんて肩肘はったこと言わないでさ
所詮は便所の落書き、気楽に肩の力抜いていこうや
0219人間七七四年
2011/03/11(金) 11:21:27.45ID:lTgcsmGi寝ぼけながら読んでたら、ヒゲ描き足されたのは
旗じゃなく孫右衛門さんの顔かと勘違いしてしまった
花粉症の薬ききすぎて歩きながら眠れそうだ
昔は花粉症なんてなかったのかな
0220人間七七四年
2011/03/11(金) 11:30:01.36ID:F+fv4rduだからな。現代病だ。
0221人間七七四年
2011/03/11(金) 11:34:03.41ID:hwhmYygi寄生虫が居ると発症しにくいとかもあるが当時は中の虫飼ってる人も結構居ただろうし
0223人間七七四年
2011/03/11(金) 12:30:20.64ID:UegvWUID杉の無い東京から杉が裏山に普通に生えてる田舎に移り住んだら
花粉症がかなり楽になった。寄生虫は流石に居ないと思うが
0224人間七七四年
2011/03/11(金) 12:34:22.20ID:o1EZ6h6Vスレ違いになりつつあるが。
しかし当時命に関わるようなアレルギーとかの場合原因不明でたたり扱いだったりしたんだろうなぁ。
蕎麦アレルギーみたいなのだと普通に死ぬし。
そういう観点で見ると何かを食べた後苦しみ出し、とかの逸話で色々想像出来る部分がある
0225人間七七四年
2011/03/11(金) 12:40:34.68ID:amS6Ud5k0226人間七七四年
2011/03/11(金) 12:44:55.88ID:AofI0U4E居心地いいです
0227人間七七四年
2011/03/11(金) 12:46:27.25ID:noKM2N+m0228人間七七四年
2011/03/11(金) 13:07:03.28ID:3DX1CNXbアレルギー反応という言葉がなかっただけで、
食品にアタる体質があるという知識は当時すでにあった。
西洋医学はまだ理解されていなかったけど、漢方の歴史は充分にあったし。
戦国時代はなんでも祟りですませられるほど古代ではないよ
0229人間七七四年
2011/03/12(土) 03:07:33.51ID:+fhHTV3m大谷吉継と石田三成といえば、幼い頃より秀吉のもとで育ち、最後吉継は三成の挙兵に
殉じたこと、これはみな知っていることであろう。
…が、この二人の若い頃、吉継はなにかと三成を叱りつけ、怒りのあまり
頭を張り叩くこと度々であったそうだ。
この逸話だと三成の先輩格のようなので、吉継は三成より1歳年上の、永禄2年(1559)生まれ説を
取るべきであろうか。
で、三成の方はそんな厳しい吉継に、何故だか恋をしちゃったらしいのだ。
そして吉継に猛アタックをかけ、ついに吉継の恋人に収まってしまった。
(石田大谷に恋慕して、知音になり候。)
そう言う関係になってからも吉継は、相変わらず遠慮なく三成の頭をはたいていたらしいのだが、
三成の方ははたかれても、「忝し(うれしい♪)」なんて言ってイチャイチャしていたそうだ。
(それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候由。)
(武功雑記)
そんな衝撃的な、吉継三成恋人説。しかも吉継は少々DV気味、というお話。
0231人間七七四年
2011/03/12(土) 04:11:50.01ID:TvpclFCQしかし目を覚ます気配が無かった為、家臣が
「もっと気付け薬の量を増やそう」と相談。朦朧とする意識の中で、その言葉を聞いた直政は
「余計な事はするな!」と激怒した。当時、気絶は武士にとって最も恥ずべき事の一つだった為、直政は
「俺は気絶などしていない!」と強がって、薬を吐き出してしまった。
それを見ていた家臣の一人が、
「殿、これは気付け薬ではなく、ただの血止めです。」と取り繕うと、
「そうか、それならば問題ない。」
と安心した直政は以後、堂々と薬を飲みながら戦い抜いたと言う。
以上、直政もやっぱり三河武士なんだな、と思わせる話。
0233人間七七四年
2011/03/12(土) 06:11:15.30ID:rmVY81dT0234人間七七四年
2011/03/12(土) 06:57:13.82ID:iM0t562y徳川家中はどこの出身でも三河武士化してるだろう
0235人間七七四年
2011/03/12(土) 09:28:37.17ID:A5JFZ+kr九州新幹線の開通式典は中止になりました
式典に伴いブルーインパルスが九州入りしてたらしいが
ブルーインパルスのある松島近辺の状況を考えると不幸中の幸いなんだろうな
0237人間七七四年
2011/03/12(土) 13:37:32.51ID:sO32RpoW司馬の言うには、その三河武士が政権を取ったため、日本中が三河武士化したということだ
確かに、三河武士のめんどくささをどことなくほほえましいと思ってしまうあたり、
オレも三河武士化してしまったのかも知れん
0238人間七七四年
2011/03/12(土) 13:38:26.45ID:KeiG20qe0239人間七七四年
2011/03/12(土) 13:52:39.79ID:gIzLl8bI結局ソースなんて無かったんじゃね。
0241人間七七四年
2011/03/12(土) 13:59:57.57ID:8+BYMAb60242人間七七四年
2011/03/12(土) 14:50:05.80ID:OkuNnQxn地震加藤と埋もれた城くらい?
0243人間七七四年
2011/03/12(土) 15:03:05.86ID:xtSD1pLu0245人間七七四年
2011/03/12(土) 15:12:27.74ID:pydVAal0調べてみたら東海や東北に津波地震も来てるんやな
0246人間七七四年
2011/03/12(土) 15:12:46.05ID:+fhHTV3m伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆討ち入りのきっかけにもなったと言われる明応大地震
明応大地震
明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2〜8.4の大地震。
地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は
紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、
無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。
これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。
日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、
「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。
志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。
大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、
大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、
四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。
遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた
大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では
津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、
二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が
津波によって水没したとされる。
また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、
壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。
http://proto.harisen.jp/other/meiou-daijisin.htm
0248人間七七四年
2011/03/12(土) 18:35:26.35ID:LWJXT4YU0250人間七七四年
2011/03/12(土) 20:39:30.60ID:+fhHTV3m太閤記系か清正系の軍記や史料あたれば未だなにか出てきそうだが。
そういえば家康も被災してたな。
0251人間七七四年
2011/03/12(土) 20:53:29.86ID:vMZuxmwz駆けつけるという、当時としては政治的に危険極まりない行為をやってしまった話が
やっぱり好きだな。
緊急時にはその人間の本音がさらけ出るものだ。
0252人間七七四年
2011/03/12(土) 21:27:10.67ID:WDZhQ4P5ほぼ唯一の近親有力者である秀次が失われた豊臣にいつまでもくっついているメリットはない
むしろ政治的にはかなり妥当な判断だし、若干スタートが遅れている感すらある
義光ほどの頭のいい大名の行動が政治抜きの感情だけってのは考えられん
0253人間七七四年
2011/03/12(土) 21:41:35.40ID:vMZuxmwzいやあ、そう言う見方はわかるんだが、未だ秀吉の強力な独裁化なんだよ?
あんな非常時に秀吉よりも家康を優先したなんて秀吉やその周辺に知られたら、
義光自身どんな目に会うかわからんのはもちろん、家康にも迷惑かかるでしょ?
それこそこの一件だけで危険視されて潰されてもおかしくない。
なので政治的に計算された行動というのは、あまりにも脇の甘い行為だと思うんだ。
0254人間七七四年
2011/03/12(土) 22:34:49.35ID:uFPccG+7閏7月9日 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の
内陸地震のさきがけとなる。
閏7月12日 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の
2つの島が沈んだとされている。
閏7月13日 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。
伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。
この連鎖地震を受けて文禄5年10月27日(1596年12月16日)、慶長へ改元された。
慶長元年中に豊臣秀吉の子、数え4歳のお拾が禁裏で元服して豊臣秀頼を名乗っており
死期が忍び寄る秀吉の焦燥感が伺えるが、連続大地震から半年も経たずに再度外征を始めると
いうのは異常な状況だ。
0255人間七七四年
2011/03/12(土) 22:44:25.94ID:vMZuxmwz徳川家の軍監、横田甚右衛門尉尹松(ただとし)はある日眠りが深くつい寝坊し、
軍監の職務である陣営巡検の時刻を過ごしてしまった。
大急ぎでその場に行くが、当然、もう巡検は終わっている。
同僚のものは「横田殿、どうして今日はあんなに遅参されたのか?」と問うたが、横田
「い、いやいや、拙者今朝は浜辺のほうが気になって、そちらの方を
巡検したのです。そのためこちらに来るのがこのように遅れてしまいました。」
と、つい嘘をついて誤魔化してしまった。
しかし同僚たちもその説明に納得し、疑うものも居なかった。
さて、大坂の陣が終わる。
徳川家康のもと旗本たちの武功の論考をする会議が開かれ、その場には軍監である
横田甚右衛門も当然呼ばれた。
ところが、この席で思いつめたような顔をしていた横田は、突然その場の皆に向かって
叫んだ
「せ、拙者は!大坂の役の過日、寝坊し巡検の時刻に遅れました!
しかしその場で本当のことを言うことが出来ず、浜辺の方に巡検に行ったため
遅刻したと、誤魔化してしまいました。
そんな卑怯な私が今この、重要な会議である論功の場にいること大いに恥じております。」
そして家康の方に向かって土下座し
「どうか、どうか拙者を、軍監のお役目から解任してください!!」
その席、会議を前に静まりかえる。
これを聞いた家康、声をかけた。
「甚右衛門よ、わしはな、お前がそんなふうに正直であることを知っているから、
この席に呼んだのだ。
さあ、堂々と会議に加わるが良い。」
この言語に甚右衛門は咽び泣いた。
そして会議の席に加わった、と言う。
横田甚右衛門尉尹松の嘘と正直、と言うお話。
0256人間七七四年
2011/03/12(土) 23:10:12.64ID:WDZhQ4P5いや、そもそも秀次の罪状は謀反の疑い
この事に連座して娘が斬られてる時点で豊臣サイドからはもう半ば敵性勢力扱い
それに家康は秀吉が死ねば兵を挙げることはほぼ確実視されてた。実際内々に家康と接触してる連中は既に多数いたしね
であれば身を守るために旗色を明らかにしておくのは絶対に必要
中途半端な動きでは豊臣からは睨まれ、徳川の信用も得られず、あの場合は危険が大きすぎる
実際、どっちつかずだった長宗我部は関ケ原でほとんど働かなかったにも関わらず、戦後領土を召し挙げられてる
もちろん秀吉の雷のリスクはあったろうけど、家康の弁護を期待できるだろうし危険としてはまだ小さい
義光は悲しんだろうけどあの行動の基盤はやはり冷徹な情勢分析に基づいたものだと思う
そもそも義光は弟を殺し、親父を攻めて家督を分どり、妹を伊達に嫁に出す一方裏で色々仕掛けるような男だぞ
市松じゃあるまいし、感情を交えて政治的な動きをするほど可愛げのある奴じゃないだろ
0257人間七七四年
2011/03/12(土) 23:29:33.20ID:3I5rkx6x妹の婚姻はやったのは親父だしなあ
0258人間七七四年
2011/03/12(土) 23:44:28.02ID:3+0lwGbcそれまでに死んでるだろうしな。
0261人間七七四年
2011/03/13(日) 01:27:45.30ID:ZNDXKsc00263人間七七四年
2011/03/13(日) 07:01:04.31ID:PnSCZBDU横田尹松って高天神城のときからずっと現役なんだから息が長いね。
家康にとっても若き日の好敵手だったんだろうから大事にしたのかも。
0264人間七七四年
2011/03/13(日) 09:37:56.33ID:f4ALFCPq0265人間七七四年
2011/03/13(日) 09:45:21.72ID:u3hUxyr20266人間七七四年
2011/03/13(日) 12:42:35.13ID:SjhqW7540268人間七七四年
2011/03/13(日) 13:35:48.06ID:ca1MVb9R火がつけない場合生米を食べると腹を壊す
水に浸して柔らかくして食べるんだぞ
0269人間七七四年
2011/03/13(日) 14:11:05.13ID:u3hUxyr2信濃衆は勝頼から見れば譜代だとおもう。
それに長篠で名立たる甲斐出身の老臣はやられちゃったからね
将も兵も小粒になってしまったんだろう。
0270人間七七四年
2011/03/13(日) 14:15:33.46ID:uzSltVqn「今日は直茂公の時代の話をしようか。
当時、直茂公に仕えるなかに徳久という者がいた。
彼は生まれつき変わり者で、どこか抜けたふうに見られがちな人であったという。
あるとき、家に客を招きドジョウのナマスを出したので、
『徳久殿のドジョウナマス』
と、そのころの人々の間で笑い話のタネになっていた。
ある日、徳久殿がお城に出仕したときに事件はおこった。
城中である者が例の『ドジョウナマス』を持ち出して徳久殿をからかったところ、
徳久殿がその場で抜き討ちに斬り捨ててしまったのだ。
殿中での抜刀であるから勿論お取り調べとなった。
結果、徳久殿には切腹を申しつけることになったのだが、
調べの一部始終を聞き終えて直茂公は、
『人に馬鹿にされて黙っている者は腰抜けである。
殿中だからといって、見過ごすわけにもいくまい。
そもそも、人を馬鹿にするような者こそがたわけ者である。
馬鹿にした者は斬られ損だ。』
と仰せになられたという」
0271人間七七四年
2011/03/13(日) 14:43:05.17ID:2Gd6YxUn余計なこと書かないで
加熱しないと米の澱粉は吸収できない。
栄養にならないうえ、腹を壊す。
家康は「とりあえず空腹感を満たす」ためにその指示を出しただけ。
生で食うのは最後の手段だ。
0272人間七七四年
2011/03/13(日) 14:49:56.31ID:ca1MVb9Rそんなことで糞を漏らすとは最近の者は見かけばかり飾って軟弱に過ぎる
昔の武士はそうではなかった
0273人間七七四年
2011/03/13(日) 14:53:15.35ID:II/OSLaz被災地で下痢が蔓延したらそれこそ悲惨だぞ
0274人間七七四年
2011/03/13(日) 14:55:13.40ID:ZNDXKsc0そもそも甲斐衆自体、信虎が強引にまとめたのを信玄個人のカリスマで繋ぎ止めてただけで
もともと地侍の連合体にしかすぎなかったからな
個々の戦闘力はともかく、集団としての本質はどうしようもない鳥合の衆
団結力は三河衆や土佐の一領具足に遠く及ばない
0275人間七七四年
2011/03/13(日) 15:09:11.73ID:2Gd6YxUn反省するどこるか、何だこいつは
真性のクズか?
0276人間七七四年
2011/03/13(日) 15:20:54.17ID:a/hvyA9X焼き味噌の話で落とすつもりが、誰ものらなかっただけでは?
0277人間七七四年
2011/03/13(日) 15:41:05.34ID:HzWebi3s不謹慎だとか、馬鹿かお前はとか、色々と言いたい事もあるが……
とりあえず人間の消化器では生の米を消化する事は出来ない。
昔も今もないんだよ。
無論、水に浸しただけの米は生のままだ、という事は理解出来るな?
いや、まぁ人間が猿だった時代まで昔に遡れば話は違うけどさ。
0278人間七七四年
2011/03/13(日) 16:08:05.58ID:uzSltVqn戦国時代は精米せずそのまま玄米だよね?
戦場でどうやって食べてたんだろ。
塩だけのシンプルなオニギリか、
はたまた焼き味噌溶かしてぶっかけ飯か
0279人間七七四年
2011/03/13(日) 16:13:53.19ID:Lvc4yRF20280人間七七四年
2011/03/13(日) 16:22:39.42ID:5fmkUmX+まぁ間違った知識による発言をした事への照れ隠しか何かだろうよ。
そこら辺は武士の情けで勘弁してやりな。
一億総本多正純時代じゃあるまいし、柔らかい対応も必要だぜよ。
0281人間七七四年
2011/03/13(日) 16:34:23.02ID:II/OSLaz0283人間七七四年
2011/03/13(日) 16:49:22.22ID:2Gd6YxUnおれは茨城の被災者だが、少しも言い過ぎとは思わん。
こいつの言う通りにして、生米食って体壊す人が出たら
ID:ca1MVb9Rは『昔の武士』らしく腹を切って詫びてほしい。
0284人間七七四年
2011/03/13(日) 16:53:52.81ID:sH3ZYnMX言い出し者が実際に食べてみて試す辺りで手を打ちませぬか
0286人間七七四年
2011/03/13(日) 17:42:29.08ID:ca1MVb9R同情はするが八つ当たりされてもなあ
食べてもいいんだけど家康の言う水に浸してってのはどれくらいの間なんだろ
それと当時の兵糧米って白米ってことはないよね?
あと俺は下痢の持病もちで人より消化能力弱いからあんまり実験の意味がないな
0287人間七七四年
2011/03/13(日) 17:49:29.57ID:NJIale5i0288人間七七四年
2011/03/13(日) 17:51:08.07ID:2Gd6YxUn>あと俺は下痢の持病もちで人より消化能力弱いから
おお、むしろ最適な被験者じゃん。
1時間浸したあとに一合ばかり食って報告してくれ。
0289人間七七四年
2011/03/13(日) 18:02:18.64ID:ca1MVb9Rやれやれ
0290人間七七四年
2011/03/13(日) 18:02:54.57ID:5fmkUmX+ただ俺、今中国留学中なんで、別の理由で腹を下す可能性が(ry
プラスチック米は流石にちょっと……
0291人間七七四年
2011/03/13(日) 18:07:11.18ID:vP95rKxY違反者はさくざがしかる。
0294人間七七四年
2011/03/13(日) 18:12:55.97ID:II/OSLazお前も構い過ぎだ
そういうことする場じゃないだろう?
残念ながらネットには狂人も平然と闊歩してるもんなんだよ
狂人へのネット規制なんてないし
お前はリアルでも狂人相手にそんな風に構うのか?
0295人間七七四年
2011/03/13(日) 18:13:18.62ID:ca1MVb9Rちょっとした笑いを提供しようと思っただけだ
腹でも減ってるのか?
0296人間七七四年
2011/03/13(日) 18:13:31.61ID:uzSltVqn反省なんて出来るはずもないわな。
自分に落ち度があるのをわかってて意地になってるのならなおさら最低だが。
結局、弱いから自分の間違いを認められないんだよ。
口先で誤魔化そうとしても傍から見てる人間には一目瞭然。
震災者の人が怒るのももっとも。
けどもうほっとくしかないよ
0297人間七七四年
2011/03/13(日) 18:16:38.79ID:2Gd6YxUnOK!
これは真性のキ印だ。以後は放置するよ
0298人間七七四年
2011/03/13(日) 18:16:47.63ID:n0QK2Qycどうせ織田厨と伊達厨だろうが。
0299人間七七四年
2011/03/13(日) 18:31:53.69ID:IqM4EtPO0301人間七七四年
2011/03/13(日) 19:31:50.69ID:ZNDXKsc0間違えたらどうする!なんて切れてるのは電子レンジに猫放り込んだアメリカ人と同じ臭いがするわ
0302人間七七四年
2011/03/13(日) 20:07:46.50ID:hkMcCzeS「電気の備蓄が底をついてる」なんてチェーンメールが出回ってるしな
※電気は貯蓄出来ません
0303人間七七四年
2011/03/13(日) 20:10:12.05ID:qxDXQbNO腹をこわさないようによく水に浸して食えという話。
0304人間七七四年
2011/03/13(日) 20:28:54.95ID:LVEKcZG2豊臣政権の五大老の一人であった家康は、秀吉の死後、後継者である幼い秀頼が成人するまで後見人を
勤める事になったが、次第に政権奪取への動きを活発化させ、五奉行の一人である石田三成との確執を深めていた。
この頃、伏見屋敷の留守を任されていた井伊直政は、三成が家康暗殺を企ているとの情報を得ると、急いで大阪の家康に報告。
船で伏見屋敷へ帰る途中、家康一行は船着場に武装した兵が待ち受けてるのを見て、三成の手の者ではないかと警戒したが、
ある者が、「この緊急事態に直政殿が黙って見ているはずが無い。」と言い出し、
近づいて見ると兵を率いた直政だった。この一件で、直政は改めて家康から深い信頼を得たと言う。
0305人間七七四年
2011/03/13(日) 20:32:04.84ID:IWnc3oJMまったくキチガイはどっちだよ。
このスレで言うことでないのは分かっているが、嘘を嘘と分からない人には難しい掲示板でもこの有様かと嫌になった。
0308人間七七四年
2011/03/14(月) 00:19:40.39ID:HnsHAUrr徳川家康は小田原城惣構えのうち、東にある篠曲輪(別名捨曲輪)という曲輪について、
井伊直政に報告をさせた。
これに直政
「篠曲輪は城中より橋一筋を渡して、昼間は曲輪の兵に加え城からも兵を出して守備しております。」
家康これを聞くと
「橋か。…うん、橋か。」
とだけつぶやき、その他に何も言わなかった。
直政はその事の意味がわからず、大いに悩み考え
「はっ!?もしや殿は橋の下の浅深を知りたかったのではないか!?」
と、すぐに橋の周囲に杭を立てて水の深さを測り、杭ではよく解らないところは自ら水の中に入って詳しく調べた。
そしてその調査結果を持って家康の御前に出、この事詳しく報告した。が、家康、これを聞いても
「橋か。…うん、橋か。」
と前と同じことを言うだけである。
直政はいよいよ思い悩み、この事を考えた。考え抜いた。考えぬいたあげく最初に報告した日から48日目となった。
いくらなんでも考えすぎだ。が、このときひらめいた!
「もしかして!」
直政はその夜自ら忍んでその橋に行き、橋の上に上がってその強度を見た。桁が弱く渡るのに危なっかしい
橋であった。これを見ると急いで家康のもとに行き、かくかくと報告する。
これに家康ニヤリと笑い
「わしが聞きたかったのはその事だ。だがな、これしきのことは自分で気づいてもらわないと困る。
なのではっきりとは言わなかったのだ。
この程度のことを自分で下知するのは、この家康の役目ではないからな。」
と語った。気づいてもらうために家康も48日間待ったのだ。なんとも気の長い話である。
と、直政これを聞いて悟った
『さては!殿はあの篠曲輪をこの直政の軍勢で攻めろ、と仰っているのだ!
しかもあれだけ橋のことを問われたのだ。篠曲輪を破ってもその橋を渡って次の曲輪まで攻め入れなければ
お味方の人々にも甲斐なく、嘲りさえ受けるだろう!』
そう覚悟を決めて、6月26日夜、井伊直政の軍勢は篠曲輪を攻めた。そこをたちまち攻め破ると
次の曲輪へと攻め寄せる!この時直政はまっさきに駆け、あの橋のほとりに立って自ら鉄砲を取り
これを曲輪に向かって撃ち放った。
この時玉薬が強すぎたか、鉄砲の筒が裂け直政は左手を負傷した。
が、直政これを物ともせず、その手で鉄の盾を掲げ持ち、えい声を出して攻め入る。
大将のこの勢いに井伊軍の士卒も我もと続き、ついに次の曲輪まで入り散々に戦ったという。
小田原の陣において、諸軍の中で唯一小田原城の惣構の中に攻め行ったという、
井伊直政、篠曲輪での戦いぶりである。
0309人間七七四年
2011/03/14(月) 00:37:04.43ID:U24G159V教養人としての能力は一流だった
自分の過去の栄光とそこから転落した現実とを対比させる歌が残っている
名ばかりは沈みもはてぬうたかたの あはれながとの春のうらなみ
出典は江戸時代の「続英雄百人一首」ですがこの本伊達政宗や高橋紹運といった英雄として名を残した人や
織田信雄や松永某など現代では英雄と呼べるかどうか怪しい人が大勢載ってますw
0310人間七七四年
2011/03/14(月) 02:26:58.95ID:pJrDrzFaなかなかに世をも人をも恨むまじ
時にあはぬを身の科にして
があるけど、オレは氏真さんのこの歌は、
性根の良さが伝わってきて好き
0312人間七七四年
2011/03/14(月) 06:04:54.61ID:q2e+Syee0313人間七七四年
2011/03/14(月) 10:26:14.48ID:rk5dOMGi0314人間七七四年
2011/03/14(月) 11:04:47.23ID:4m+m4+ls直政は考えたけど
面倒くさい三河回路だと思うよ
0315人間七七四年
2011/03/14(月) 11:07:27.69ID:IXpqvqvN0316人間七七四年
2011/03/14(月) 11:12:51.23ID:L87vjS0s0317人間七七四年
2011/03/14(月) 18:32:56.61ID:9bU2SDwm従来1両7石ほどであったのが1両2石まで上がったという。
この頃細川忠興が詠んだ。
「米の値は富士より高くなりにけり何か駿河の陣の賄ひ」
これを聞いた父幽斎は狂歌であるなら「ば陣の賄ひ何と駿河ぞ」と直すよういったという。
0318人間七七四年
2011/03/14(月) 19:58:42.93ID:HnsHAUrr> これを聞いた父幽斎は狂歌であるなら「ば陣の賄ひ何と駿河ぞ」と直すよういったという。
ここに吹いたwさすがは細川親子だわ。
0319人間七七四年
2011/03/14(月) 20:26:57.74ID:R9Bm559f0320北条家家臣
2011/03/14(月) 21:19:29.43ID:nCs2heHX永禄12年に至って、上杉謙信は小田原に使者を送り、北条氏康と盟約を結んだ。
その際の贈り物は、昆布、鱈、干鮭、それに三荷の酒樽であった。
氏康はいずれも相州にない珍品であることを喜び、とくに越後の酒を有難がった。
酒を嗜む人である。酒との付き合いも彼なにの心得があって、
「酒は朝に飲むべき」
と家臣たちに語っている。これから一日の仕事の始まる朝方の酒は、慎しみが持てるし、程よい気映えも生じてよいし、また酒とはそのような心掛けで飲めば益になると説いたのであろう。
0321人間七七四年
2011/03/14(月) 21:29:32.56ID:bGRGhOGR岡崎城に送られてきた大政所・なかの警護を任された。毎日のようになかの元に通ってはお菓子を振舞うなどして
機嫌を伺った直政は大いに慕われ、事あるごとに
「井伊殿、井伊殿。」と声を掛けられたという。
「あまりにへりくだった態度である。」同僚から指摘されると、
「秀吉の元にいる家康様に万一の事あらば、速やかに大政所を殺さねばならないから、
顔を覚えておく必要がある。」
と答えたと言うが、無事岡崎城に帰った家康と入れ替わりに大政所が京に戻る際も警護を任される程信頼は絶大だった。
その後、直政は警護の慰労として大阪城で秀吉に接待を受けたのだが、元徳川家家臣で秀吉の家臣となった石川数正を見ると、
「主君に背き殿下(秀吉)に従う臆病者とは同席できない!」
と大声を張り上げ退出してしまった。また、秀吉が
「貴殿に豊臣の姓を与えよう」と申し出ると、
「井伊家は由緒ある名家である。」と言う理由で辞退した。
理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。
以上、井伊直政のどこまでも家康一筋なお話。個人的には、直政は三成と友達になれたような気がする。
0322人間七七四年
2011/03/14(月) 21:29:37.47ID:pJrDrzFa0323人間七七四年
2011/03/14(月) 21:55:40.74ID:Ic/dtfmh0324人間七七四年
2011/03/14(月) 22:13:42.16ID:TQIvZI1s0325人間七七四年
2011/03/14(月) 23:10:48.44ID:L87vjS0s0326人間七七四年
2011/03/14(月) 23:50:10.18ID:sQQ2seNUあ、不識庵さんあなたはいいです。
0327人間七七四年
2011/03/15(火) 06:53:59.50ID:QafLPdxn0328人間七七四年
2011/03/15(火) 07:56:36.53ID:bKxSQ6SI0329人間七七四年
2011/03/15(火) 08:27:55.47ID:h+4B8Nf1理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。
そんな直政は家康の竿による快感で手なづけられてるのであった。
でも味噌で手なずけられるよりはいいか。
一応家康は主君だし。
0330人間七七四年
2011/03/15(火) 09:25:27.89ID:+yDHCx+e道理で少し毛色が違うと思ったわ
0331人間七七四年
2011/03/15(火) 09:27:35.25ID:KQmMeH9O「たとえ親しい者同士でも、淫乱にわたるような雑談をしてはならぬ。
もしも、他の者からそんな話をしかけられたなら、
こっそりとその場から立ち去るがよい。
古語に、『思ったことを全て口に出しては笑いの種となる』、というのもある。」
0332人間七七四年
2011/03/15(火) 10:16:55.62ID:PYhkBdz10333人間七七四年
2011/03/15(火) 10:21:27.43ID:9J8J0rU/0334人間七七四年
2011/03/15(火) 11:02:35.04ID:M1BeSJH20335_
2011/03/15(火) 12:28:33.63ID:LBBGsEdQたしかにそうなんだけど、かといって井伊家は今川の家臣、というわけでもなかったようで。
井伊家も元は独立した国人領主で、本拠の引佐、井伊谷って、長篠あたりから遠州側に
峠越えたすぐ向こう側だし。家を保つために今川の傘下に入ったという意味では、三河
の国人領主達と立場は一緒。
直政の祖父直満、父直親は、内応を疑われてそれぞれ義元、氏真に誅殺されてるし。
桶狭間後の混乱を経て、岡崎が膨張していく過程で、多少の早い遅いはあっても、家康軍団
に取り込まれて面倒くさくなっていったwという意味では、やっぱり直政も同類だと思われ。
0336人間七七四年
2011/03/15(火) 14:02:52.17ID:sIRLWHrA「相馬の家紋は九曜紋であるな。どのようないわれがあるのか」
相馬義胤、答えて
「九曜紋とは九つの星、すなわち北極星、北斗七星、輔星であります。
相馬の祖先は平将門であります。
将門が戦いに敗れて葦の中に身を潜めていたとき、北斗の化身である妙見菩薩が現れて
将門を助力し、脱出させたばかりか勢力を盛り返して関東を席巻させました。
その後将門はおごって朝敵となったので神の加護を失いましたが、
子孫であるわれらは妙見菩薩を変わらず崇拝しているのであります」
相馬義胤、九曜紋由来を語るの巻。
でも、考えたら秀吉はなぜそんなことを聞いたんだろう。家臣に調べさせればすぐわかりそうなのに。
きっとあれか、話題のない相手に話しをふって、気分よくお家自慢をさせたのかもしれない。
というわけで、しゃべらせ上手な秀吉の話。
ちなみにこの話、源頼朝と千葉常胤が同じ会話をしているらしいので、信憑性は察してほしい。
0337人間七七四年
2011/03/15(火) 17:15:37.98ID:e/7eWDSA0338人間七七四年
2011/03/15(火) 17:41:16.63ID:sGJEXDjK十中八九凍結だろうとは思うが。
0339人間七七四年
2011/03/15(火) 17:50:30.75ID:iiO+655d電力どうするんだろ
0340人間七七四年
2011/03/15(火) 18:01:15.31ID:LcLonGfK盛岡築城の総指揮をまかされた南部利直は、自ら現場監督と共に普請の現場を見回っていた所、
ひとりの人夫が気にかかり声を掛けた。
「お前の面体は並の百姓には見えない。さだめし名のある者だろう、名を名乗れ」
百姓は一度は否定したが、利直の眼識に服して潔く伊達の家臣であることを認めた。人夫に紛れ
て城の様子を探ろうとしたのだ。
間者は処罰を覚悟していたが、利直は平然と間者に聞いた。
「この城地を見てお前はどう思う?」
「は?」
「城を探っていたなら心得はあるだろう。どんな感想を持った?」
「……されば、全て結構な惣構えですが、東北の方に山を負っているのが惜しいことです。
ここを占拠すれば遠目が利くものなら城内を一望できてしまいます」
この山とは現在の愛宕山の事らしく、実際、現在この山には展望台があり、盛岡の街が一望でき
るようになっている。
利直はこれに頷き、その間者を処罰することなく、人数をそえて仙台に送り返させた。伊達さん
への皮肉も感じさせる対応である。
南部利直、間者に城の感想を聞く話。
0342人間七七四年
2011/03/15(火) 18:58:08.38ID:+yDHCx+eってディスりまくってなかったっけ
0343人間七七四年
2011/03/15(火) 19:07:52.69ID:KQmMeH9Oいや、
頼朝公とオレが日本史上の武功ツートップだろうな!!
で、まぁ、でもオレの場合スタートの条件が違ったからな!!
どうよ?
くらいな感じ
0344人間七七四年
2011/03/15(火) 20:56:10.92ID:wNH9G+F7江戸時代のような生活もいいじゃないか
0346人間七七四年
2011/03/15(火) 21:14:43.25ID:aNeElFP4素人考えだけど海水を使った発電というのは無理なんかね
まあできたとしても災害にかなり弱そうだけど
0347人間七七四年
2011/03/15(火) 21:18:43.64ID:g3Z4ifXC0348_
2011/03/15(火) 22:09:11.83ID:LBBGsEdQに研究していかなきゃいけないし、今後関心も高まるだろうけど、現段階では、発電量
の面でも、効率、安定供給(天候によって発電できたりできなかったりじゃ困る)の面
でも、まだまだ頼りになるレベルのものはない。
河川の高低差を利用した水力発電は、日本の河川がダムだらけなことからわかるように、
もう開発し尽くされてる。
今回の件で明らかなように、電力は「品切れ」が絶対に許されないだけに、年々増え続
ける電力需要をカバーするためには、現実的には、何かを炉で燃やして熱で発生させた
水蒸気の圧力でタービン回す式の発電(タービン&冷却に大量の水を必要とするので海
岸であることが必要)に頼らざるを得ない。
日本は残念ながら燃やすモノの資源に乏しいので、輸入の石炭・液化天然ガスの火力発
電を軸にしつつも、半ば国策として原子力発電に望みを託してきたわけだが…さて。
0349人間七七四年
2011/03/15(火) 22:10:13.28ID:Qm2dE4nw0350_
2011/03/15(火) 22:43:15.30ID:LBBGsEdQ実は俺三河者なんだけど、三河に牧野家の「参州牛久保之壁書」っていうのがある。
後に長岡藩に伝わった『常在戦場』ってやつ。皆さんご存知でしょうけど。
常在戦場、いまちょっと噛みしめてる。
と打ってるそばから揺れてるし。
0351人間七七四年
2011/03/15(火) 22:48:42.20ID:mGJQ1/O0風の通り道に建てなきゃならないから渡り鳥が風車のプロペラであばばばbbbb
0352人間七七四年
2011/03/15(火) 22:49:27.84ID:rvcmuil8家康が関東に移る少し前のこと、その鳥居元忠が豊臣秀吉に呼ばれた。
元忠に官位を与える、というのだ。
元忠、これを聞いて
「私は無骨な田舎者にて、この身もまた、このように片端であります」
と、諏訪原城攻めで銃弾に貫かれたため、まともに動かなくなった左足をさすった。
そして
「こんな体たらくですので、叙爵などしていただいても殿下のお役には立ちません。
どうぞその件は、御免下されませ。」
と、断った。
だが秀吉は、そんな鳥居元忠を強く気に入ったらしい。少し後で再び元忠を呼び寄せ
こう提案した
「彦右衛門尉(元忠)よ、おぬしの嫡子新太郎を羽柴下総守(滝川雄利)の娘(養女・生駒家長娘)と
縁組させその養子とするのだ。その上でわしが召し使おう」
滝川雄利は羽柴性を頂いた秀吉の直臣大名である。その娘を、陪臣に過ぎぬ元忠の息子に娶せ、
天下人たる秀吉の直参としようと言うのだ。大変な栄誉であり出世であろう。が、これにも元忠
「我が愚息をもって下総守殿の息女と縁組せるということ、これは仰せに従いましょう。
…ですが、その息子を殿下に召し仕えさせるということ、これはお断り申す!
この元忠の家は、先祖以来徳川譜代相伝の家従の者であり、それは子孫へと伝えていくものです。
他家に奉公仕る事の出来るものではありませぬ!」
結婚は認めるが秀吉に仕えさせるのは御免被る、というのだ。
半ば秀吉の顔を潰すも同様である。しかし秀吉
「鳥居が申すところ、道理である」
とあっさりその条件を認め、滝川雄利の娘を鳥居新太郎(忠政)に娶らせた。
やはり秀吉は、元忠のような無骨で主家への忠誠の塊のような男が、心底好きだったのであろう。
そんな事を感じさせる、鳥居元忠と豊臣秀吉のお話。
0353人間七七四年
2011/03/15(火) 23:04:45.69ID:CavAUwDn0354人間七七四年
2011/03/15(火) 23:34:50.63ID:pELZY6x7まぁ、これが直臣だったら後で・・・
0355人間七七四年
2011/03/15(火) 23:34:58.93ID:rvBRvm8A0356人間七七四年
2011/03/16(水) 00:21:10.95ID:GCgpdInTスレチだが長岡藩と言えば河井継之助のオーラ凄すぎ。
幕末の写真の中でも異質なオーラ発してると思う。
あと土方歳三のイケメンぶりも凄いw
新撰組に京女から山のように恋文が届いたのも納得。
あと坂本龍馬もカッコいい。
高杉晋作はそのまま不良少年の雰囲気。
戦国武将も写真観たかった・・・
0357人間七七四年
2011/03/16(水) 00:32:04.27ID:cvxVzX8M0358人間七七四年
2011/03/16(水) 00:35:49.68ID:7ilZbabx裏表紙が志士の集合写真で一人一人名前も宛てて・・・
まぁ、数年後フレにあれは全部嘘って聞かされてショックも凄かったんですけどね^^;
0360人間七七四年
2011/03/16(水) 00:41:13.40ID:fvoHUbX4イケメンと言えば木戸孝允もじゃね?
0361人間七七四年
2011/03/16(水) 00:42:46.89ID:Wlp5JdFm0362人間七七四年
2011/03/16(水) 00:45:10.66ID:lG4vdcEB一体何が出典なのだろう?未だに解からん。司馬の創作かなあ?
0363人間七七四年
2011/03/16(水) 01:58:32.08ID:RmWOFRX7以前TVで「明治に行われた日本初の美人コンテスト」(花魁の写真に投票)というのを見たが、
人気上位はやや面長に偏るとはいえ、みんな普通に超美人だったぞ。
浮世絵とかは当時のデフォルメされた萌え絵にすぎないんだよ。
余談が過ぎた
0365人間七七四年
2011/03/16(水) 08:54:29.13ID:rjy/QNdL「僕の小説を読んで『あれは本当(史実)なんですか?』と問い合わせてくる人が多い」
と書いてた
それくらい小説と史実の違いが分からない人が多いって事だね、教養のない人が増えている嘆きかな
0366_
2011/03/16(水) 10:58:15.13ID:urB1neu4戦国時代の美人もそうだったのかなぁ
もしそうなら、あれだけ三歳様が執着したお玉さんとか、やっぱりガチで美人だったんだろうか
生で見てみたかったのぉ
おや、宅配便が届いたようだ
0367人間七七四年
2011/03/16(水) 11:00:01.98ID:5oO/3yVA鼻筋も通ってそうだし
0368人間七七四年
2011/03/16(水) 16:05:04.20ID:dbxYid4M(爻><爻)
| ̄川 i 川 ̄|
丶__⊥__ノ
/|= =|ヘ
|| / ||
|| 二 || 面長二重に鼻筋すっきりでありんす
 ̄>ー< ̄ でも化粧が現代人とかけ離れすぎでやンス
/|\ /|\
/| | У冂| |丶
0369人間七七四年
2011/03/16(水) 16:50:52.99ID:wgU/bgb3津浪の文言でてきたのはこれが初かな?
慶長の年だったような
0370人間七七四年
2011/03/16(水) 18:45:01.40ID:pq5CqzRh伝奇小説を脱して歴史小説になってからの司馬小説は
史談だか取材の雑感だかわからんような随想文を混ぜてくるから
史実と創作の境界が曖昧で紛らわしいんだよ
歴史に詳しくない人が勘違いしても仕方ない部分はある
0371人間七七四年
2011/03/16(水) 19:04:20.76ID:QsdVcv/Z0372人間七七四年
2011/03/16(水) 19:12:00.74ID:GCgpdInT彼独自の世界観があるから。
それ故に、自分の好きな歴史人物を司馬遼太郎にディスられると本気で腹が立つw
0373人間七七四年
2011/03/16(水) 19:29:16.21ID:rhWmmS8N前を白髭、後を黒髭の大津波と称す。」
古文書・東日流六郡誌考察図解添書より
偽書だけど
0374人間七七四年
2011/03/16(水) 19:51:07.62ID:JFQqYgLe逸話を真似してたというのはマジ?
0375人間七七四年
2011/03/16(水) 21:15:26.66ID:lG4vdcEB宗治は左右のものに命じて髭を剃らせた。これにその場にいた者達は聞いた
「我らの命、もはや旦夕に迫っております。長左衛門(宗治)様はそんな時期に何故、
髭を剃って容貌を整えるのでしょうか?」
宗治、彼らを返り見ると笑って
「それはな、秀吉が私の首を信長に献じたとき、もしその首が垢付き鬚髯蓬々としていては、
宗治の奴め久しく包囲されていたため、顔は憔悴して少しの生色も無し、などと嘲られるではないか。
私はそれを大いなる恥辱だと思う。だからこうして整えるのだ。」
と語ったという。
のち、明智光秀を滅ぼし小早川隆景と再開した秀吉は、隆景にこう言ったという
「清水宗治は、武士の鑑であった。」
清水宗治、切腹前日のエピソードである。
0376人間七七四年
2011/03/17(木) 11:57:31.40ID:nLDsgA/Oまさに武士のダンディズムだな
0377人間七七四年
2011/03/17(木) 12:00:44.17ID:yMqHK86Bフケは恥にならなかったのかな
03781/2
2011/03/17(木) 16:18:54.01ID:ssXHTjZy文禄4年(1595)7月、世に言う秀次処分が起こった。この時『伊達政宗も秀次の与党である』との
風聞が流れ、国元にいた政宗は大いに驚き急いで大阪に向かい、まず政宗の秀吉への申次たる医師、施薬院全宗の
屋敷に入り、そこから秀吉に対し自分の無罪を訴えた。
施薬院の屋敷には秀吉からの糾問の使いが2度まで送られ、その後政宗に命じられたのは
『わが子秀頼が誕生したとき、汝の息子兵五郎(後の伊達秀宗)を参らせた。これは秀頼の被官となった者の
初めである!されば、かの兵五郎を以て伊達の家を継がせよ。そして汝は伊予に国替えさせる!
伊達家の主な家臣たちも皆上洛させ、政宗自身は京のおのが屋敷で謹慎しておれ!』
つまり政宗は強制的に隠居させられ、伊予への国替えを申し付ける、と言うのだ。
政宗はこれに驚愕した。そしてどうにか秀吉からの赦免を得るべく、留守政景ともう一人側近をつけ
徳川家康のもとに派遣した。この時家康は、伏見にいた。
京から夜を徹して駆け早朝、徳川家の伏見屋敷についた二人に、家康はすぐに対面した。
その朝はやや寒く、家康は火鉢に寄って体を温めていた。
二人が申す旨を聞くと、家康は表情を和らげ「こんな朝早くに来たのだ、朝食も未だであろう?
丁度朝食が出来たところだ、お前たちもこれを食すが良い」と言うと、そこに食事が運ばれてきた。
二人は遠慮をし、その場を下がろうとすると家康、「よいよい、お前たちもこの場で食せよ。」と留めた。
ところで家康はご飯を黄銅の鉢に入れ、それを火鉢の上に置いて、なんと保温していたらしい。
そして給仕のものに「あの二人の飯はもう冷えているだろうから、これをあたえよ」と、保温されたご飯を
分け与えた。
さて食事が済みお茶が出され、一息ついたところで二人は再び家康に訴えた。
「政宗はどうすればよろしいのでしょうか!?ご返事受け賜わるべし!」
すると家康、上座から降りてきて突然、大音を響かせた!
「やあ!おのれらの主人は、さしも日頃は世の人をば這う虫程度にも思わず、無遠慮な言葉を吐き散らかし、
馬鹿げた振る舞いばかりしているが、このような窮地に至るとそれまでの威勢が夢ばかりもないではないか!
そう言う人間を、臆病者というのだ!
お前たちは伊予に渡って、魚の餌になろうと思うか!?それとも都のうちで犬の餌になろうと思うか!?
この二つのうちどちらかに思い極め、その上で愁訴せよ!
わしからの返事がある。…お前たち、近くに来いッ!」
「は、ははっ」
二人、恐る恐る家康の側に行くと、なにやら耳打ちされた。
03792/2
2011/03/17(木) 16:21:16.42ID:ssXHTjZy驚き怯え、大阪にも聞こえたため秀吉は「すぐに様子を見てこい!そして政宗の家臣たちの上洛を急がせよ!」
と命ずる。秀吉の使者が伊達屋敷の門前に至ると、屋敷の者達、侍だけでなく雑人に到るまで弓矢を背負い鉄砲に
火縄を挟み、槍や長剣で杖ついて大庭に満ち満ちているのが見えた。そこに御使到着と聞いた政宗が、
頭は髻を切った大童、刀も差さぬ姿で兵たちを押し分け現れ、門を開かせ内に招き入れた。そして御使の
仰せを聞いてから
「この政宗が、先の隠居、国替えという仰せを承ると、家の子郎党たちが集まって私に対し建議しました。
その内容は
『どうして先祖累代の地を離れて知らぬ国にさまよい、天下に恥をさらすことが出来ましょうか!?
政宗様は尋常にお腹を切りなされ!我々は討ち手を待って斬り死にいたします!』
私はこれを制し、そんな事をしてはならぬ、考え直せと説得しました。ところがこれに家臣たちは
『こんな大臆病の主人だとは知らなかった!』と反発し、もはや私の下知は受け入れません。
今まで私の下知を、一体どんなことであっても必ず背くことのなかった彼らが!
いま政宗が太閤殿下のお咎めを受けたため、家臣たちは己の主人が有るとも考えもせず、このような
酷い振る舞いに至りました。この事、きっと殿下のお耳にも達するでしょうが、これは全く政宗の所存では
ありません。もしお尋ねがあったら、どうかその事をくれぐれもお伝え下さい!
また在国の家臣たちですが、上洛するように何度催促しても、一通の返事すらよこしません。
彼らもまた何か、良からぬことを企てているのではないかと大変心配しております。」
と伝えて、御使を返した。
さて、この事で大阪城も騒ぐ中、伏見の家康が「洛中の騒動を聞いた」と登城し秀吉に対面した。
そして秀吉に言うには
「殿下、都において政宗の家人たちを打ち滅ぼすこと、これは何程の事もない。ごく簡単に済ませられるでしょう。」
「むう。京は問題ない。だが…」
「はい、在国の者達が累代の主人が失われたと聞けば、彼らは理非をわきまえぬ荒えびす共ですから、
殿下からどんな仰せがあっても、その御下知に従わず反乱を起こすでしょう。
現在、朝鮮のこと未だ決着が見えておりません。外征のさなか、国内で兵乱を起こすべきではありません。
卑しきものの言葉ですが、大事の前の小事、と言います。また、罪が疑わしければこれを軽んずる、という
言葉もあります。そして何よりも、あの伊達の所領を奪ったところで、遠く離れた所領でありその管理に
大変な労力が必要となります。
以上の理由により、先ずこの度は寛宥の御沙汰があって然るべき…、かと存じます。」
そんな家康の言葉もあり、また、何故かこのころ、京伏見にいかにもわざとらしい
『伊達政宗が太閤殿下を討ち給わらん謀り事の様』なる立て札が現れ。これを見た秀吉は
「どうも政宗を憎み陥れたい人間が
、このような噂を流しているようだ」と判断、
結局、政宗の処分は撤回されたという。
以上、伊達政宗が秀次処分での危機を逃れた顛末である。
0380人間七七四年
2011/03/17(木) 18:09:57.76ID:t2HbQv5p0381人間七七四年
2011/03/17(木) 18:29:19.76ID:c7GyQffmあまり他のスレでは使わないように
0382人間七七四年
2011/03/17(木) 19:45:29.61ID:lhz2+s+0力作書いてもらっといて、こんなこと言うのもアレなんだけど。
0383人間七七四年
2011/03/17(木) 21:14:04.16ID:9OlioCmOすでにまとめにあった気がするが。
こっちは秀次の時という設定だと山岡荘八の小説にあるやつだな。
こっちがまとめにあったかは忘れた。
この話は読む本によってだーいぶ印象が変わるな。
0385人間七七四年
2011/03/17(木) 22:40:18.93ID:7X2GAQ9L0386人間七七四年
2011/03/17(木) 22:52:06.12ID:J7a4GCWI彼は先ず西に向いた廊下ではるかに拝礼をした。そして判決を下す部屋に至るのだが、
ここには茶臼一つを置き明障子を立て、その内に座して手づから茶を挽きながら訴えを聞いていた。
これを人々は非常に不思議に思ったが、重宗がその理由を語ることはなかった。
しかしはるか後年、重宗が相当に老いた頃、昔話の合間にふと、その理由を語ったそうだ
「私が決断所に出る前に、西面の廊下で礼拝していたのは、愛宕権現に祈っていたのです。
多くの神の中で愛宕権現は特に霊験あらたかだと聞いています。それ故、それを拝んでいました。
私の所願はこういうものでした。『今日、重宗は訴えについての判決を下します。
もし、私の判断に少しでも私心がまじっていれば、直ちに私の命を奪い給え』と。
判決の判断が曇るのは、その判断に私心が入り込む故だと思っているからです。
それから、茶臼ですが、ほんとうに出来た人というのは、自分の心を自ら動揺さないよう
出来るものだそうです。が、この重宗はそこまで出来た人間ではありません。
そのため、我心が動いているか静かであるかを、茶を挽くことで知るのです。
心が定まって静かなときは、手もそれに応じて、臼の回転も一定で、挽かれて落ちる茶も、
いかにも細やかです。
この細やかな茶が落ちた時に至って初めて、自分の心も定まったと知り、そこで判決を
下すのです。
それから、明障子を隔てて訴えを聞くのは、おおよそ人の面貌を見れば、憎々しい顔、哀れ気な顔、
信用できない顔と、沢山の種類があります。
正直そうな顔の人の言うことは誠にように聞こえ、信用できそうにない者の言うことは、何を聞いても
嘘のように感じるものです。哀れがましい人の訴えは、何か不正なことをされた被害者であると
思わせ、憎々しい人の紛争の訴えは、当人のほうが悪いように思ってしまいがちです。
こう言った事は我が目が見たものが心に移され、彼らが言葉を出さないうちから、彼は邪である、
正しくない、正直ではないなどと、先入観が生まれてしまい、訴えを聞いても、その先入観を元に
言葉を判断してしまう。そんな事は多いのです。
裁判において、哀れがましい者に憎むべきことがあり、憎々しい者に哀れなる事があり、
まことしやかな者に嘘偽りが多い、そんな事例は実にたくさん有りました。
人の心は知り難く、その容貌を以て定められるものではありません。
古には訴えを聞くには、その表情をもって聴くのだと言ったそうです。
ですがそれは、心がとらわれる事の無い人にだけ出来ることです。
この重宗がごときは見たものに心がとらわれ、先入観を作ってしまうことが多いのです。
また本来人々は、裁判の場に出ること自体が恐ろしいと思っているのに、さらに目の前に
自分の生殺を握る人間を見れば、心が萎縮して言うべきことも言えず、罪科を受けるという人も
いるかもしれません。ですから、互いに顔を見も見せられもしないほうが良いと、
あのようにしたのです。」
板倉重宗の、訴訟を判断するに当たっての姿勢である。
0387人間七七四年
2011/03/17(木) 23:14:24.30ID:UX4B1y5T0390人間七七四年
2011/03/18(金) 09:09:23.48ID:S/gaJNjq0391人間七七四年
2011/03/18(金) 09:15:10.29ID:eG0nUjmfたしかにsophistication
はソフィストから派生した言葉だが、
詭弁のほかに洗練されたものという意味がある
承知の上での発言だとしたらスマン
0393人間七七四年
2011/03/18(金) 10:02:04.87ID:9tM73zybhttp://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110318t13004.htm
施設全損で木造帆船だけ無事だったとか
さすが太平洋を往復した慶長使節船
なんだかうれしい話
0394人間七七四年
2011/03/18(金) 13:52:44.48ID:UFlwAyXLサン・ファン・バウティスタ無事だったんだ!
津波の被害が大きかった地域だろうに。
よく耐えたな。
0395人間七七四年
2011/03/18(金) 16:05:50.99ID:U+6Ubfsoしかしどれほどの歴史的な建造物亡失したんだろうなぁ…
0396人間七七四年
2011/03/18(金) 18:04:24.26ID:EKekKIrZ嬉しいなぁ、この春に見に行こうと思って計画立ててたらこんな事になっちまって
二度と見られないかと思ったよ。
今は無理かも知れないけど、絶対見に行くって決めたわ。
0397人間七七四年
2011/03/18(金) 18:27:16.73ID:Hh32T/zy堀家が越前を所領したとき北ノ庄城の改修が行われたが、この時秀政は
多賀秀種のやり方がひどく悪いと人々の前で叱り、その面目を傷つけた。
これを多賀は大変口惜しく思い、明朝、北ノ庄を出奔した。
秀政はこれを聞くと
「困った奴だ。きっと準備もせず出奔したのだろう、道端で飢えてしまうぞ。」
と黄金10枚を取り出し、人を走らせてこれを多賀に届け、そのはなむけとした。
さて、秀政は黄金を送り届けると、その黄金を包んでいた紙を自ら一枚ずつ
丁寧にシワを伸ばした上で、大切に箱に納めた。
と、小姓たちがこれを興味深そうに見ていることに気が付き、彼らに向かって
「およそ財というもの、用いるべき時には黄金10枚であっても惜しむに足らぬ。
しかし必要がないのなら、この10枚の紙もみだりに費やすべきではない。
おまえたち、私を卑しい奴だと思うなよ?」
と語ったという。
名人久太郎の、財の使い方である。
0398人間七七四年
2011/03/18(金) 18:33:46.51ID:QvcgEsPm堀秀政、出奔した弟の多賀秀種に
既出かと
0399人間七七四年
2011/03/18(金) 18:34:38.01ID:Hh32T/zy0401人間七七四年
2011/03/18(金) 20:24:36.93ID:Uqp7Km4jつか、武蔵さんも小姓になってればまた違ったんかね〜
0402人間七七四年
2011/03/18(金) 20:34:01.92ID:Kv1sjHu40403人間七七四年
2011/03/18(金) 20:51:09.49ID:6S/PCmkn落合彦助と言う家臣が、信玄のお気に入りだった同僚をけんかの末に殺害して逃亡した。その後、二人の浪人が彦助の首を討ち取ったと
首を差し出してくると、夏の暑さで腐り顔の判断がつかなかったにも拘らず、喜んだ信玄は領地を与えようとした。しかし昌幸が、
「あの二人は、出世の糸口をつかむ為なら手段は選ばない者です。領地を与えるのは良く調べてからにした方がよろしいでしょう。」
と言っていると知った信玄は思い留まった。その後、第4次川中島の戦いで、彦助が存命していて、敵対する上杉方として出陣している事が発覚し、
昌幸の観察力が証明されたのだった。
以上、真田昌幸、浪人の嘘を暴いたお話。
0405人間七七四年
2011/03/18(金) 21:08:06.92ID:y2B7w3Sehttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1769.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4457.html
なお殺された人は横目役の金丸昌直(金丸虎義の長男。弟に土屋昌次、土屋昌恒など)という
譜代家臣のホープであったため家中では結構な事件だったと思われる。
0406人間七七四年
2011/03/18(金) 22:09:35.72ID:JDh5iAAJ俺も探してくるからさぁ
0407人間七七四年
2011/03/18(金) 22:18:29.52ID:jjXTo+ti瑞巌寺も破損はあるけど無事で避難所になってる
政宗公、あなたの残したものは400年経っても民の役に立ってますよ
0408人間七七四年
2011/03/19(土) 01:18:10.13ID:SqEtq045海の中に位置してるから諦めてたのに!
絶対復興するよ!! by仙台藩民
04101/2
2011/03/19(土) 10:49:23.69ID:IVblgCDcこれに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。
しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。
常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた
『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』
これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ
「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」
急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。
と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。
「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。
世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!
それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1〜3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。
さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。
ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」
これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。
04112/2
2011/03/19(土) 10:54:27.99ID:IVblgCDcまた政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。
「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」
「左様でござる!」
「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」
とだけ言い、また寝所へと下がっていった。
そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。
さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う
「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?
また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」
このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。
さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に
「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」
と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。
長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)
0412人間七七四年
2011/03/19(土) 11:45:02.48ID:WbdxuAwv0413人間七七四年
2011/03/19(土) 13:14:18.64ID:Zf/4Cio3こっちの話より生々しいなw
0414人間七七四年
2011/03/19(土) 14:06:43.99ID:eQy7oi6G0415人間七七四年
2011/03/19(土) 18:23:52.04ID:aRvmxkqN0416人間七七四年
2011/03/19(土) 21:06:22.92ID:Y8uPdnvQ一条信龍シリーズ前編
信龍さんの鬼瓦
武田家というのは言うまでも無く武功でナンボの家であるが、知名度もまんま武功の多寡による感がある。
一族重臣であっても、外交情勢と配置役柄によっては、空気のような人もいるのである。今回は、その一人のお話。
晴信の異母弟に信龍という者がいた。
折しも中央集権化のための武田姓召し上げ&信虎が切りまくった名跡の回復のため、一条家の家跡を継がせた。
親族衆として騎馬200騎、市川上野城を領し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当した。
甲陽軍艦では山県、内藤ら七人の重鎮の一人として描かれ、山県昌景が「一条殿は、伊達男にして花麗を好む性質であるが、
馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている」と賞している逸話も残る。
さて、この信龍が拝領した頃の市川上野城(上野椿城とは別)というのは、城というよりは砦であった。
かつて福島正成の乱入時には、勝山城ともに武田一族が籠もり、激戦の舞台となった甲斐南部の要衝であった。
当時今川との関係は落ち着いていたが、晴信はこの期にと思ったのであろうか、信龍を城主に命じ、大規模な増改築をさせたのである。
ところがこの信龍さん、先ほども言ったように、近隣領主はお下がりの武具で装備が揃ってしまうという、無茶苦茶な傾き者である。
普通に立派な城を作っただけでは満足しなかった。しかし戦闘用の山城である。他に飾りようもない……と思いきや、あったのである。
「鬼瓦作ろうぜ!!! 黄金張りの馬鹿でっかい奴!!!!!」
左右の者が止めるが、聞かない。さらには、自分で名産地に向い、鬼瓦を作らせ始めてしまった。
費用の半分を申しつけられた近隣領主は、あまりの巨額さに晴信に泣きついた。
晴信は信龍を呼び出し、こっぴどく叱った上で、「中くらいで黄金を貼らないなら良い」として、つまり普通の鬼瓦を作らせた。
信龍は非常に残念がり、自腹を切る予定だった総費用の半分を、迷惑料としてか周りに配ったという。
「金の大鬼瓦が守ってくれない城だから、この金で各自怠りなく戦に備えよ」ということだろうか。
安土城の金のしゃちほこは有名だが、戦闘用の山城に金の大鬼瓦を取り付けようとした男のお話。
傾き者で猛将で信玄の弟とか、こんなキャラ立ってるのになんで今ひとつマイナーなのか……。
0417人間七七四年
2011/03/19(土) 22:31:42.53ID:j95q+rA20418人間七七四年
2011/03/19(土) 23:23:26.00ID:iIPOmc8Aお兄ちゃん意外と優しくてワロタwww
0419人間七七四年
2011/03/19(土) 23:54:44.84ID:2Q+vUFkp0420人間七七四年
2011/03/20(日) 00:12:08.93ID:e1ctvNHX武田氏がいっぱい居たって事?
0423人間七七四年
2011/03/20(日) 00:38:11.42ID:5KcQmPYs俺だっていっぱい書いてるぞ!
武田マイナー武将を書く人も無しとの言動、許せぬ!
>>420
いっぱいいた。やたらいた。ちょっと補足。
武田一族は400年以上甲斐に君臨(逸見のみ例外、ただし逸見も広く見れば武田一族)し、
それこそ武田をルーツにする家は掃いて捨てるほどあった。
彼らはたいていは別の苗字を名乗っていたが、
(俺らが「新宿のおばさん」「甲府のおじさん」とか言うような感じで自然発生)、
時と場合によっては「武田」を使うこともあった。「源」ほど本式ではないけど。
事実、神格化されるほどの晴信であっても、勝沼信元(信虎の弟)や嫡子義信などに
乗っ取られそうになったこともある。武田家ではこれがデフォ。
信玄後期の武田一族衆が両手で余るほど少ないのは、甲陽軍艦を読んでもらえば分かると思う。
これは武田姓を名乗るのに免許制にしたからだけど、徹底して信玄の卑属ばかりで、尊属はゼロ。
武田姓が免許されると、例えば穴山信君が外交文書で武田左衛門(字が若干違うかも)と名乗ったように、
公式の場で武田姓を名乗ることが出来る。逆に、それまでバリバリの武田姓だった家も名乗れなくなった。
中央集権化を徹底できなかったのが武田家滅亡の主な原因だという人も多いし、それは反対しないが、
全く逆に、曹操の魏みたいに一族衆を冷遇したことも、要因の一つと言えないこともない。今川も同じ。
0424人間七七四年
2011/03/20(日) 00:43:38.31ID:VuEqA+Io穴山、板垣、栗原、金丸、秋山とか支族も多いからな
みんな武田を名乗られたら蒲生一家もびっくりな状況になっちゃう
0425人間七七四年
2011/03/20(日) 00:50:18.56ID:Z1lUETZU養子政策で甲信の名家を武田一門に取り込みまくったもんな…
勝頼が正式に家督を継ぐことができなかったのもその辺の事情があるのか。
0426人間七七四年
2011/03/20(日) 01:24:47.45ID:5KcQmPYs花菱クラスがもっと変形した菱に変えられたりと、デフレというかデノミが行われた感じだよね。
>>423
あとごめん、やや誤解を招く書き方になってしまったので、自己レスだがさらに補足。
武田姓が免許されたのは、血縁よりも政治状況によると考えた方がいいっぽい。
婚姻や養子で見かけ上の血縁を濃くしただけの木曽や穴山が免許されている一方、
上の一条信龍は、信玄の弟でありながら後半生で一切武田を名乗った形跡がないし、
縁も遠く免許されていない駒井高白斎が外交文書や上書でも武田を名乗っていたり、
室住虎光(諸角虎定)みたいに近親で、活躍して願い出たのに免許されなかったり。
むしろ実際の血縁が近い方が、名乗っちゃ駄目というケースが多い希ガス。
実際の血筋が総領に近く、さらに名目上も武田を堂々と名乗られたら怖いということか。
0427人間七七四年
2011/03/20(日) 01:24:51.23ID:guei7VHx0429人間七七四年
2011/03/20(日) 07:32:36.48ID:jpEEnOlF0430人間七七四年
2011/03/20(日) 09:13:49.36ID:Gz9sJK3s宗家が先祖(自称)の名に変えた家康は、発想の逆転だったのかしら。まあ、今川義元が足利を名乗ったり、武田晴信が源を名乗るのは
いろいろと問題すぎたんだろうけど
0431人間七七四年
2011/03/20(日) 10:32:22.05ID:RDeMMYHQ0432人間七七四年
2011/03/20(日) 14:13:49.96ID:5KcQmPYs武田晴信は普通に源を名乗ってるよ。だって源は姓じゃなくて氏だもの。同じく今川も源を名乗ってる。
>>431
たぶん。異姓の者は武田に戻って頭領になれない、っていう慣習を作りたかったんだと思う。
事実、俺が宗家に取って代わってやるという発言で家中にいられなくなった一族もいたし(名前失念)。
>>421が言ってて初めて知ったんだが、どうも今川からの輸入みたいだね。勉強になりました。
信虎時代はほとんど行われて無くて、晴信時代から始まった感じ。ただはっきり明文化された制度でもなさそう。
これが(これだけのせいじゃ無論ないが)勝頼につながっちゃうんだからジェットストリームスパイラルアチャーとしか言いようがない。
これは俺の勝手な武田史観なんだが、結局は信虎が進めつつあった中央集権化を、晴信が止めてしまった感はある。
中央集権化で噴出した豪族・領主達の不満を背景にクーデターを起こした以上、急速な中央集権化はできなくなった。
そして、彼らの意向に沿わなければ、一族を旗頭にクーデターを起こされても文句が言えない立場になってしまった。
結果として血の濃い一族は冷遇、危険な嫡子は廃嫡、勝頼は諏訪家へ、寄親寄子という折衷制度、武功派と側近の争い、
全てが中途半端になってしまった。それでも晴信が生きている頃は、そのカリスマと天才的なバランス感覚で持っていた。
しかし勝利を重ねて不満を和らげるという信虎と変わらない綱渡りと、不誠実な外交姿勢が常態化してしまったせいで、
勝頼の時代になると打った手がことごとく裏目に出ることになり、家中の統率は崩れるように失われていった。つまり、
,ィィr-- ..__、j
ル! { `ヽ, ∧
N { l ` ,、 i _|\/ ∨ ∨
ゝヽ _,,ィjjハ、 | \
`ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ > 武田家を滅ぼした張本人は
{___,リ ヽ二´ノ }ソ ∠ 信玄公その人だったんだよ!!
'、 `,-_-ュ u /| ∠
ヽ`┴ ' //l\ |/\∧ /
--─‐ァ'| `ニ--‐'´ / |`ー ..__ `´
く__レ1;';';';>、 / __ | ,=、 ___
「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
| |::.V;';';';'| /.:.|トl`´.! l _,,,l | _,,| , -,
! |:.:.:l;;';';';'|/.:.:.:||=|=; | | | | .l / 〃 ))
l |:.:.:.:l;';';'/.:.:.:.:| ! ヽ \!‐=:l/ `:lj 7
| |:.:.:.:.l;'/.:.:.:.:.:.! ヽ:::\:: ::::| ::l /
0433人間七七四年
2011/03/20(日) 14:26:52.35ID:kgi5BjKU信虎「ヒャッハー!権力を集めて近代化だー!!」
信玄「ヒャッハー!中途半端な状態だけど何とかしちまうぜー!!」
勝頼「……継いだ家がブラックでダメかもしれん」
ということか?
0435人間七七四年
2011/03/20(日) 15:36:30.27ID:5KcQmPYs信虎「ヒャッハー!仕方ないから戦争だー!!」
信玄「ヒャッハー!仕方ないから戦争だー!!」
勝頼「ヒャッハー!仕方ないから戦争だ―あああ!!」
>>434
新羅太郎晴信ってこと?
無茶がある。
けど、そもそも新羅三郎や八幡太郎や加茂次郎って、寺社の名前から取っているし、姓なのかな?
子に継承されたとも聞かないし。苗字・・・ではあるのか?エロくないので分からない。
0436人間七七四年
2011/03/20(日) 17:09:29.66ID:x1eyZms2輝みたいに頼りになる叔父が生き残ってたら良かったんだけどね
0437人間七七四年
2011/03/20(日) 17:40:49.41ID:Z1lUETZUあと信玄時代は武田宗家の独自財源として金山開発が進んだのだけれど
勝頼時代には枯渇していたというのもあったな。
0438人間七七四年
2011/03/20(日) 18:56:25.87ID:iAN9WHGYたしかに
信繁(戦死)、信是(早世)、信実(戦死)ときて、
生き残ってるの文化系とカブキ者しかいないもんな
0439人間七七四年
2011/03/20(日) 19:03:02.38ID:eqlxF85P言っても詮ないことだけど
0440人間七七四年
2011/03/20(日) 19:32:53.43ID:k4fYL9YC家臣に裏切られるんだものな
0441人間七七四年
2011/03/20(日) 19:44:25.32ID:C2fcDgf50442人間七七四年
2011/03/20(日) 19:57:14.17ID:JbIu/tq10443人間七七四年
2011/03/20(日) 20:20:05.98ID:MA2qlh5Pそんな気がしてしまう
0444人間七七四年
2011/03/20(日) 20:28:17.85ID:FiDCeB1Ihttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4898.html
0445人間七七四年
2011/03/20(日) 20:32:42.36ID:RDeMMYHQ天球さんの性格的にそれはないんじゃね?
0447人間七七四年
2011/03/20(日) 20:39:45.82ID:k4fYL9YC0448人間七七四年
2011/03/20(日) 20:42:47.15ID:Gz9sJK3s武田信吉と保科正之の人生が変わってたかもな。正之は、信玄の娘に保護されて、武田の継承者にも目論まれてたという話もあるし
0450人間七七四年
2011/03/20(日) 23:52:24.20ID:5KcQmPYs0451人間七七四年
2011/03/21(月) 00:21:30.74ID:QiwQxwrY5万(信長公記)の北条軍を10分の1の兵で押さえた後典厩をふがいないとな?
0452人間七七四年
2011/03/21(月) 00:24:18.33ID:vylA11jo0453人間七七四年
2011/03/21(月) 00:35:57.21ID:KFKqow820454人間七七四年
2011/03/21(月) 00:39:00.51ID:1Ly9naeRいわゆる神君伊賀越えである。
さてこの一行にあった本多正信は、家康に従う宇治の茶商人、上林政重と語らい、
彼に地元の者達百人ほどを集めさせ木津川のあたりに控えさせた。
そして家康が近江信楽は多羅尾氏の屋敷に入ったのを確認すると、
この宇治の上林の人々に「徳川殿はここに入られるぞ!」と言わせ、
さらに先の百人に川の上下に篝火をたかせ、いかにも家康の来訪を待っている、
という姿をとらせた。
これに明智の軍兵も家康は宇治に入るものと思い込み、その隙をもって
家康は無事、伊賀を廻って三河へと帰りついたのだという。
この話は後年、上林政重の子、上林正次峰順が語った話だそうだ。
神君伊賀越での、本多正信の計略についての逸話である。
0456人間七七四年
2011/03/21(月) 11:29:39.27ID:aSi5BcVg上林、家康を助けてるのか
でもこのころの上林はまだ茶師のトップにはなってないんだよな
あとで利休と組んで森を追い落とすことになる
0457人間七七四年
2011/03/21(月) 18:39:54.31ID:Zmq0WPZA駿河攻めの蒲原城かなんかで勝頼&信豊が大将にもかかわらず矢玉が降り注ぐ中
真っ先に城に飛びついていって困ったよ…^^;って真田幸隆宛の書状があったような
素肌攻めといい二人とも力攻め大好きっ子で気が合ったのじゃなかろうか
0458人間七七四年
2011/03/21(月) 19:32:21.70ID:7iKaAAWh山県(内藤だったかも?)は慌てて援軍を差し向けることになり、信玄は怒り呆れ心配したというアレか。
0459人間七七四年
2011/03/21(月) 22:05:40.07ID:o9Epjr9y息子さんの討ち死の報を聞きさぞ悲しんでいると思いますが、孫の三左衛門殿と藤三郎殿が
無事であった事が不幸中の幸いかと思います、私がこの両者を引き立ててあげようと思ってますので
お袋様のお嘆きは御尤もですが亡くなった勝入親子の供養のためにも孫二人の面倒を
お願いします。またお袋様がよろしければ私を勝入斎の代わりと思って下さい、どんなことでも
お世話します。またお袋様には物詣もなされるように取り計らいますので人の言う事も
良くお聞きになって身をご寛容になさって下さい。
で、その後もちょくちょく手紙を出してたようで。
「貴女様も私の母と同じようにお世話しますので私の母と一緒に京や堺に遊山にお出かけ下さい、
必要なものがあればご用立てしますので」みたいな手紙の内容が伝わってたりも。
ラスボスさんは池田恒興のお母さんに凄く気を遣ってるんだけど、若い頃に世話になってんのかいな?
0460人間七七四年
2011/03/21(月) 22:13:48.52ID:aa+YH4EWこの当時の恒興がまだどちらかというと「協力してもらっている」感が強かったことに加え、
信長の乳母だったってのもあるんじゃないかと
0461人間七七四年
2011/03/21(月) 23:40:42.08ID:RN3Gn2ky池田恒利と離縁して織田信秀の側室にもなっていたからな。
0462人間七七四年
2011/03/21(月) 23:56:59.97ID:6nevVd9t0463人間七七四年
2011/03/22(火) 09:00:20.60ID:S2MJJPg7憧れだから強引に物にとかそんな気にならなかったとか?
0464人間七七四年
2011/03/22(火) 10:17:07.96ID:FVw2YyFeだが大阪夏の陣で一番乗りの功を上げるも、軍規で禁止された先陣争いをしたため謹慎処分となり、
その為武士を辞めた、という、文武に優れた人物であった。
さて、そんな石川丈山が後年、家康の謀臣として知られた本多正信について語ったことがある。
それに曰く
「本多正信という人は大御所様(家康)が何か仰せになったとき、自分の考えと違う場合は
その場で居眠りしていて何も発現されなかった。
またその仰せが良いと思った場合には、それを大変に褒め上げた。
私は長く大御所様の近くで仕えていたが、世の中で考えられているのと違い、
大御所様と正信殿が何か事を謀っていると見えたことは、わずかに2度しか無かった。
それも世の人が事を謀る姿とは全く違う、大変珍しいものであった。
1度目は大御所様が正信殿の座されている前を通った折、ふと足を止められ
正信殿に3,4言、密かにつぶやかれた。これを聞くと正信殿は大いに褒められ
『良く候!良く候!』と繰り返し申し上げておられた。
もう1度は大阪冬の陣の講和が成った直後のことである。
大御所様は京に入られ、ある家臣に『お前は大阪に行き、将軍(秀忠)に、家康はこれこれの日に
駿河に帰ろうと思っている、と申し伝えよ。』と仰られ、ふと正信殿の方を見られると
例のごとく居眠りしておられ、これについて何も言われない。
大御所様は大声で『やあ佐渡守!!』と仰られると、本多殿目を開き、だが物を言わず
右手を上げ、指を折って物を数える仕草をしてから
『大殿よ大殿よ!数年前に伏見の御館にて正信が申せしことをば忘れ給うな!』
と言われた。これに大御所様はしばらく御思案する様子であったが、先に将軍家への
使者を命じた者に『今日のところは使いを参らせない事にする』と仰り、そして座を立ち内に
入られた。
今の人は本多正信といえば、大御所様に対し古を引き今の状況を明らかにし、道理と正義を
分析し微細なところまで献策した、などと言われるのだが、そういうのは全て後世の、
弁を好む者たちの虚言である。」
家康に近侍した武士の見た、本多正信像である。
0465人間七七四年
2011/03/22(火) 11:04:11.04ID:wUninStd0466人間七七四年
2011/03/22(火) 11:12:33.77ID:23FVCgio0468人間七七四年
2011/03/22(火) 15:07:16.53ID:4WQLqEPXこれ読んだら、権現様以外にも狸寝入りで助言?をしていたようだ
0469人間七七四年
2011/03/22(火) 15:19:12.66ID:WhYowHfk三成「おっといかんいかん。うっかり眠ってしまいました。で、なんですか?」
○○「怒」
三成「なんで佐渡と同じことをしたのに違う反応が来るのだろう?」
年寄りキャラじゃないと狸寝入りは無理だな。
0470人間七七四年
2011/03/22(火) 15:45:48.14ID:u1drskft気になって調べたら正純役はやってるけど正信やってなかった。
シエつまんないけど、本多佐渡守役が草刈正雄らしいのでそこは気になってる。
0471人間七七四年
2011/03/22(火) 16:03:37.68ID:l6t6t9hf聞き流す事は許されないんだな。
反論するか、聞いていなかった事にするしかないとは。
0472人間七七四年
2011/03/22(火) 17:40:41.71ID:R+N+GBJQ0473人間七七四年
2011/03/22(火) 18:27:30.54ID:SyIpts1c0475人間七七四年
2011/03/22(火) 19:15:40.67ID:nnLc7D960476人間七七四年
2011/03/22(火) 21:19:03.98ID:GGjmmPq60478人間七七四年
2011/03/23(水) 11:52:18.76ID:DWoFxvyn友
0480人間七七四年
2011/03/23(水) 19:01:29.02ID:pw3UXs7Dオレの夢は・・・・小学5年生くらいのときに、
20〜30代の大人のおねえさんの、穴という穴を味わい尽くしたかった
大人になってからではダメなんだわ(´・ω・`)ショボーン
大 人 の 女 の 味 を 知 る 小 学 生
これだな
0485人間七七四年
2011/03/23(水) 21:09:55.95ID:3RgGq3rV0486人間七七四年
2011/03/23(水) 21:17:46.07ID:GMtrMXTg0487人間七七四年
2011/03/23(水) 21:41:01.43ID:+0cMQVdf0488人間七七四年
2011/03/23(水) 21:45:29.56ID:BMqMUfri0489人間七七四年
2011/03/23(水) 21:49:10.79ID:iyC/c3300490人間七七四年
2011/03/23(水) 21:53:16.40ID:K6iQXZCj0491人間七七四年
2011/03/23(水) 21:58:47.17ID:jRtC6JAw0493人間七七四年
2011/03/23(水) 23:12:31.52ID:qMIsz3JK0496人間七七四年
2011/03/24(木) 12:30:34.63ID:fKau0LAV後を継ぐべき嫡男の虎之助は未だ六歳、領内泉田村に隠居していた義胤は孫を後見するため現役復帰。
まもなく八十に届こうという老体に鞭打って、再び働き続けた。
寛永6年5月、ようやく虎之助は元服。手塩にかけて育てた孫に対し、義胤は己の名乗り『義胤』を譲り渡した。
元服後の初御目見えのため、老人と孫が江戸城に登城すると、ちょうど伊達政宗が退出してくる所に出くわした。
駕籠に乗りかけていた政宗は、下馬して城内へと向かう相馬家一行を、立ったまま何をする訳でもなく、見送った。
「あれで良いのだ。」
尊敬する祖父に対する政宗の態度に、不満気な顔を浮かべたままの孫に向かって、義胤は声をかけた。
「我らは若い頃、仇敵同士であった。武士たる者、仇敵に対して構えるのは当然のことだ。
今の若者も、日ごろ親しい人であっても、気を抜かずに用心して付き合うべきなのだ。」
0497人間七七四年
2011/03/24(木) 13:23:18.18ID:ZA1o8lKB0498人間七七四年
2011/03/24(木) 13:25:44.68ID:ogWsox2P0499人間七七四年
2011/03/24(木) 13:35:20.00ID:Hr7NaFEn絡まない:自分がめんどくさいと評価される
絡む:自分がめんどくさい目にあう
よし、酒に酔った市松の前横切ってくる!むろん挨拶とかガン無視で!!
0500人間七七四年
2011/03/24(木) 13:45:19.18ID:KesQ7rse確かにこれで良いのかもしれん
0501人間七七四年
2011/03/24(木) 16:16:36.66ID:9+oewzJl0502人間七七四年
2011/03/24(木) 21:31:31.92ID:xgB9DlKu05031/2
2011/03/24(木) 22:52:31.85ID:bmRiC4wc天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次、大久保忠世、岡部正綱、
石川康道、大須賀康高、本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。
と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る
「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」
驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない
「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」
誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!
「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」
諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も
「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」
売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし
他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」
ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次
「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」
そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない
05042/2
2011/03/24(木) 22:54:39.44ID:bmRiC4wc先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」
バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち
偵察「あの〜、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」
岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」
さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない
「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」
と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える
北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」
北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!
酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。
…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!
三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。
0505人間七七四年
2011/03/24(木) 23:03:59.76ID:w5Q318qDしかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。
0506人間七七四年
2011/03/24(木) 23:07:15.83ID:10g3/AbDあの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。
史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。
0507人間七七四年
2011/03/24(木) 23:14:20.86ID:f5x4eJ3r0508人間七七四年
2011/03/25(金) 16:26:03.65ID:4FGFxj+k麻生太郎元首相は24日、相馬市で風評被害が広がっている地元産野菜を味わった。
原発事故で一部野菜から放射性物質が検出され、汚染が確認されていない野菜も売
れなくなっている。元首相はこれらシイタケやトマトを食べて「1年間摂取しても健康に
影響はない。過剰反応は慎んで」と訴えた。
元首相は相馬家33代当主の相馬和胤さん(長野県在住)の義兄に当たる。市立中村
第一小の避難所を視察し、被災者から「原発事故を解決して」「JR常磐線の復旧を急い
で」などと要望を受けた。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20110325ddlk07040161000c.html
麻生さんって相馬家と親戚だったのか
0509人間七七四年
2011/03/25(金) 16:34:58.58ID:aOaHxOp70510人間七七四年
2011/03/25(金) 16:41:51.17ID:+s3ej5+d0511人間七七四年
2011/03/25(金) 16:44:13.41ID:j1VLWXpyその縁で麻生さんに来てもらったと、ニコニコとのインタビューで話してた
0512人間七七四年
2011/03/25(金) 17:04:50.83ID:pLKSyTHX0514人間七七四年
2011/03/25(金) 19:23:00.84ID:NzyuqrX10515人間七七四年
2011/03/25(金) 19:27:21.84ID:0sNaSOpo09年の相馬野馬追で総大将役を勤められた34代相馬行胤氏
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c3/3167fb57cc66c3ae65324004db7c7245.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/21/c1cacfcae2c673fe636b5fd1db50e939.jpg
http://blog.goo.ne.jp/kage-yh7/e/b8d671b3a9f814fc8efae816cf7488a5
北海道に移住してるけど、今なんとか相馬に入って救援活動をされているそうな。
0517人間七七四年
2011/03/25(金) 19:43:28.18ID:He85ORgG0518人間七七四年
2011/03/25(金) 20:12:38.17ID:RyY1JiK50519人間七七四年
2011/03/25(金) 20:15:33.97ID:Y1xE/E240520人間七七四年
2011/03/25(金) 20:47:44.05ID:+xcTm2Qj0521人間七七四年
2011/03/25(金) 20:49:46.38ID:PMRqooip0522人間七七四年
2011/03/25(金) 20:52:49.72ID:enK1KbG/お婆様が三池藩の血筋
ちなみに女系から伊達政宗公の血も受け継いでおられます
麻生!麻生!(_゚∀゚)o彡°
0523人間七七四年
2011/03/25(金) 21:27:46.63ID:4FGFxj+k0524人間七七四年
2011/03/25(金) 21:51:28.22ID:IaI+Qpz60525人間七七四年
2011/03/25(金) 21:57:46.26ID:KQoOXQHb0526人間七七四年
2011/03/25(金) 22:00:24.48ID:3m6H3uEn0527人間七七四年
2011/03/25(金) 23:01:48.20ID:hQj4Op3V菅さんは菅公が先祖らしいからスレ違いかもしれないが。
0528人間七七四年
2011/03/25(金) 23:06:28.03ID:D3qnQPAP家臣であった。
さて永禄2年(1559)の事、岩倉と織田信長勢との戦いで、岩倉勢は夜討ちを敢行した。
この時未だ元服も済んでいない堀尾仁王丸はまっさきに駆け込んで、名のあるものの首を
取って帰る、という功名をなした。
だが人々、元服も未だの若い仁王丸がそんな手柄を立てられるとは思えず、
「拾い首でもしたのだろう」と、彼の手柄をまるで信じなかった。
そして翌日、今度は岩倉勢が敵に散々に打ち負け総退却となった。
ところがこの中で仁王丸は一人馬から降りて敵のほうに立ち向かった。
仁王丸の叔父の修理亮がこれを見つけ大いに驚き、彼に向かって叫んだ
「どうして味方に遅れるのか!?とにかく直ぐに撤退するんだ!!」
ところがこれに、仁王丸
「若党の一人である山田が未だにこちらに帰ってきません!彼を探します!」
と答え、遂に敵中に残されていた山田を見つけ、連れて帰った。
この仁王丸の勇敢な行為に、「さては昨晩の功名も本当であったか!」と、岩倉の人々
自分たちの不明を恥じたという。
堀尾仁王丸、明年の夏元服し”茂助”を名乗る。
後に豊臣政権三中老の一人となる堀尾吉晴の、少年の頃のエピソードである。
0529人間七七四年
2011/03/25(金) 23:54:04.57ID:U1J7lSOe「行軍中は如何なる理由があっても立ち止まってはならない」と言うものがあった。
ある家臣が、馬に履かせていた草鞋を直すと言う理由でこの軍法を破った時にはすぐさま処刑した程だった。
その徹底ぶりは、九戸の乱の鎮圧に氏郷と共に参加した石田三成が
「氏郷殿は只者ではありません。これ程軍法に厳格な部隊は見た事がありません。」
と秀吉に書状で報告したほどで、ついでに敵に回せば手強い相手になると警戒されたという。
0530人間七七四年
2011/03/26(土) 00:18:47.55ID:bNxUSQ+I相馬救援隊!
http://ja-jp.facebook.com/sohma.aid
0531人間七七四年
2011/03/26(土) 03:48:43.96ID:15ULkTtbhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/
0533人間七七四年
2011/03/26(土) 07:42:26.07ID:KeF/dCJfんで成人してから茂助とか吉晴とか
なんだろうこのギャップは
0534人間七七四年
2011/03/26(土) 07:52:15.63ID:QGQHEGxH豊臣秀吉の臣に河内国出身の市角頼母(いちかくたのも)という武将がいたそうだ。
若い市角は関ヶ原の戦いでは西軍、大坂冬の陣と夏の陣では豊臣側で出陣したはいいが、
結果は知っての通りであり、彼は命からがら下総国の大久保という地まで逃げ延びた。
全てを失った市角だったが、当時は何もなかった大久保では上方の文化や知識を知ることから歓迎され、
多くの新田や寺社を作るなど開拓に協力し、最終的には大久保の豪農として名主にまでなった。
そんな人々から尊敬される市角であったが、それを妬む者は彼のその生い立ちから、
「一度も戦に勝ったことのない勝ち知らず」などと馬鹿にしたそうだが市角は決まって、
「私は風の噂ではあるが、乱世では武功に優れ天下に名を轟かせていたというのに、
治世となってからは役目を終えたかのように消えて行った家をよく聞く。
彼らは乱世で活躍したために治世ではその力が恐れられ身を滅ぼしたのだ。
だが、私は若い時に負け続けたことで自分の身の程と処世術を知り、余生を楽しんでいる。
戦の勝ち負けよりもそれによって何を得て何を失ったのかを見なければ人生はわからんよ。」
とそうした者たちを戒めたという。
伝承では市角は九十歳ちょっとまで生き天寿を全うしたとされている。
余談だが市角が河内国から勧請した誉田八幡宮は、
明治時代になると周辺に習志野騎兵旅団の演習場や司令部がおかれたため、
騎兵第一旅団は戦地に赴く前にそこで勝利を八幡神に祈願していった。
生まれて一度も勝利を経験したことがない男によって開拓された土地が、
後に軍都となったというどこか皮肉でちょっといい話。
0535人間七七四年
2011/03/26(土) 10:32:06.76ID:wdq+fGFR0537人間七七四年
2011/03/26(土) 10:59:07.23ID:eKdB/pOO日露戦争のときロシア最強の騎兵隊を破った
太平洋戦争中に第3戦車師団に編入されて消滅するけど
編入後も45年の老河口作戦で日本軍最後の騎兵突撃やって成功させたりしてる
要は騎兵最強の部隊
今も陸自最強って言われてる第一空挺団が駐屯してる
0538人間七七四年
2011/03/26(土) 12:47:01.56ID:d3ZPLmxf0539人間七七四年
2011/03/26(土) 12:52:44.71ID:L9tlkcyw北斗の拳のヒャッハーどもも泣いて逃げ出すリアル残虐非道戦闘マシーン。
0540人間七七四年
2011/03/26(土) 13:36:35.60ID:yu6fKR5p0542人間七七四年
2011/03/26(土) 14:25:05.52ID:1VfN3Fhx0544人間七七四年
2011/03/26(土) 15:18:26.22ID:d3ZPLmxf朝廷に最後まで殉じた楠木正成、身を削って恩賞を与えた源義家、
私費で大工事を行い大阪入城した安井道噸、あと民衆のために幕府に楯突いた大塩平八郎もそうかな?
狭気に富んだ有名人がみんな河内出身ってのは意外っちゃ意外だわ
時勢が読めて計算高く、立ち回りがうまいのはむしろ近江人か
0545人間七七四年
2011/03/26(土) 15:19:12.81ID:J2up+iE8五畿だからやっぱあんの?
0546人間七七四年
2011/03/26(土) 20:13:54.56ID:E6LmyBQ3文字通り大和川と淀川の氾濫原だから
都とか置けない
上町台地に難波宮はあったが
0547人間七七四年
2011/03/26(土) 21:35:25.29ID:L9tlkcyw信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、卯月(4月)のころ、いまだ郭公(ホトトギス)を聞かずと
物語いでけるに、信長、
鳴かずんば 殺してしまえ時鳥
とありしに秀吉、
なかずとも なかせて聞こう時鳥
とありしに、
なかぬなら なく時聞こう時鳥
とあそばれしは神君の由。自然とその御徳化の温順なる、又残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、
紹巴(里村紹巴)もその席にありて
なかぬなら 鳴かぬのもよし郭公
と吟じけるとや。
『耳袋』巻ノ八より
0548人間七七四年
2011/03/26(土) 23:30:39.55ID:cR84NLxg>>老河口作戦で日本軍最後の騎兵突撃
日本軍最後どころか騎兵部隊が軍事行動下で世界最後の騎兵突撃
0550人間七七四年
2011/03/27(日) 01:15:34.67ID:DP+eJ+QTWW1でガシガシやっとるわい。
ソンムの戦いでのイギリス騎兵の突撃がヨーロッパでは最後。
ポーランド騎兵がドイツの機甲師団に突撃かましたというのはあくまで伝説だけど。
0551人間七七四年
2011/03/27(日) 02:35:49.51ID:Jt1yn6el「自分は出雲の浪人である」
とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が
「何か食べ物を寄こせ!」
と庵に立ち入ってくると、鹿介は
「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。
その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目が
「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」
と願い出ると、鹿介は
「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」
とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
鹿介は庵を立ち去ったという。
0557人間七七四年
2011/03/27(日) 12:09:04.82ID:e64FFxsb盗賊集団「山中さまと立つより、毛利に売ったほうが得だな」
となる可能性もあったからじゃないか?
0559人間七七四年
2011/03/27(日) 12:12:15.26ID:ajbCM5qm0560人間七七四年
2011/03/27(日) 12:14:10.14ID:rlaXEJ3Yある時、家康を始めとする諸大名に、ラスボス秀吉がこんな質問をぶつけたそうな。
ラスボス「お前らの持っている大事な宝ってなによ?」
諸大名「え〜と・・・。」
ラスボスは、「ワシは何何の名茶器とか云々・・・。」という。(仕事中の合間に読んだので会話の中身は結構曖昧です。スマソ)
諸大名たちの中には、「私の持っている、何何の名器や何何由来の名刀云々・・・。」とか答える者もいたのだが、そういうものを持っていない連中は買い漁って集めて「これこれの〜です」と答えるしかなかったそうな。
そういった中で家康はこう答えたという。
家康「私は家臣たちが一番の宝でございます」
ラスボス「ほ〜う」
ラスボスはこのあと、鼻で笑いながら「さすが家康殿だ。羨ましい」とかなんとかのくだりがあったんだが、あまりに忙しい仕事の合間に読んだ逸話なので結構飛んでますスマソ・・・。
社報の解説だと、「部下は大切にして庇ってやろうぐらいの気持ちで云々」の教訓じみたお話・・・。云々ばっかでスマソorz
0564人間七七四年
2011/03/27(日) 12:43:45.27ID:ATbcOIp1騎兵突撃のあった日付:3月26日
だな。
0567人間七七四年
2011/03/27(日) 14:28:12.48ID:jGGWVMQY基本的にはいい話だと思うんですが、少々グロい表現があります。
ですので、この話を投下する事が空気を読めているのかどうか、ちょっと自信あり
ません。
不快に感じた方がおられたら申し訳ない。
岩城国を治める相馬家の家中に、一人の男が仕えていた。
気が利かず、何の特技もない男であったが、高い忠義が主君に認められ、側用人と
して雑用を言いつけられていた。
ある時、相馬家の屋敷が火事で全焼してしまう。
火の勢いは強かったが、誰もが身一つで逃げ出して来た為、意外と犠牲者は少なく
て済んだという。
しかし、
「屋敷や家財道具は別に惜しくもないが、先祖伝来の家系図だけは何とか助けたか
ったものだ」
相馬家と言えば平将門の末裔として名高い、東北の名門である。
その出自を記した家系図は、家宝として代々受け継がれていたのだった。
主君が残念そうに漏らした言葉を聞いた雑用係の男は、
「それでは、私が今から取って参ります」
と言って走り出してしまう。
屋敷は今も絶賛延焼中。
「お、おい! 何考えてんだ!」
「無理だよ、戻れ!」
引き止める同僚や主君を振り切って、男は燃え盛る炎の中に飛び込み、二度と戻っ
てはこなかった。
鎮火後、せめて男の遺体だけでも拾ってやろうと捜索を始めた相馬家の主従であっ
たが、彼らが見つけた男の遺体は、少々様子がおかしかった。
焼死の筈なのに、腹から大量の出血がある。そう、男は焼け落ちる屋敷の中で切腹
していたのである。
「焼死が避けられぬとみて、切腹して果てたのであろうか……」
「だから無理だと言ったのに……」
最後まで愚直ではあったが、気が回らず、役に立てなかった男を悼んだ一同が、遺
体を運び出そうとした時、体を動かしたのが悪かったのか、焼け焦げた男の腹の『中
身』が外に溢れ出してしまう。
現代の我々は勿論、戦国が終わって暫く経つ当時の侍であっても、眼を背けたくな
るようなグロテスクな光景だっただろう。
しかし、彼らは男の腸に混じって、『ある物』が男の腹の中から転げ落ちた事に気
がついた。
「……これは」
「先祖伝来の家系図ではないか!!」
間一髪、家系図を助け出した男は死の間際、自分の腹の中に家系図を押し込む事で、
炎から守り抜いたのである。
以来相馬家では、この血染めの家系図を『血系図』と呼び、将門以来の血筋を誇る
よりも、命を捨ててこの家系図を守ってくれた忠臣がいた事を誇るようになったと
言う。
0568人間七七四年
2011/03/27(日) 14:49:54.31ID:KdZYUSkCまあ江戸時代の話とすればその後はでかい戦争もないだろうし、
絶好の死に場所だったのかもしれんけど。
0569人間七七四年
2011/03/27(日) 15:03:04.68ID:WhWig7fJ0570人間七七四年
2011/03/27(日) 15:13:12.95ID:xbdBDTo8市松『日本号!』
0571人間七七四年
2011/03/27(日) 17:19:51.68ID:WTYtA827http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-736.html
この時代、火事の中大切なものを守る最後の手段は自分の腹の中ってのが流行りだったのかな
0572人間七七四年
2011/03/27(日) 17:33:13.86ID:bpgdehDE体内なら焼け残るからでしょ
惨いけれども、重用してくれた主君のために何が何でも残さなければって思ったんだろうな
相馬って、実質的に千葉一門だっけか?
0573人間七七四年
2011/03/27(日) 19:38:44.97ID:c632fA3K平貞盛の子孫:平家主流、北条etc
平将門の子孫:相馬
逆賊の子孫を名乗るのはなかなか勇気があるな
0574人間七七四年
2011/03/27(日) 19:44:59.80ID:nl7jDLQN腹の中は一番安全な場所ってイメージがけっこうあったんじゃないの?
0575人間七七四年
2011/03/27(日) 19:54:45.67ID:4WFbV9Eeこれだな
徳川家康の、何にもかえがたい宝・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2100.html
0577人間七七四年
2011/03/27(日) 20:46:53.21ID:C9GR5vE80578人間七七四年
2011/03/27(日) 21:51:03.39ID:VtvMTl9p仙台藩祖大地に立つ!(`;ω;´)
ttp://getnews.jp/archives/105866
0579人間七七四年
2011/03/27(日) 21:59:43.81ID:0l0RTzzN五大堂・瑞巌寺・バウティスタ号(復元)と、政宗関連はほとんど無傷だよね。
有備館は残念なことになってしまったけど…
0580人間七七四年
2011/03/27(日) 23:04:37.38ID:Vh9GiZ+E0581人間七七四年
2011/03/27(日) 23:25:26.04ID:nl7jDLQN一応、仙台って地震とかの災害に強い場所を選んで作った都市なの?
0583人間七七四年
2011/03/28(月) 00:26:55.12ID:zxJkOLDwでも、相馬って系図上は平将門の従兄弟が祖先でそ
>>581
仙台城は山の上だけあって地盤しっかりしているし、地震でもそう問題ないでそ。
平野部が問題だらけだけど、まあこれは日本中どこでもそうだし。
0585人間七七四年
2011/03/28(月) 02:39:18.61ID:MwZdKRyOそれは前半生が謎に包まれているからだろうか。
一説によると会津高田の出身で蘆名一族出身の人間とも言われている。
そんな天海僧正に伊達政宗が宛てた手紙が残っている。
一見するとあまり接点がないような二人だが、奇妙な接点がある。
天海の前半生一つとして会津に戻っていた説がある。
天海は天正元年(1573)より十数年のもの間、
蘆名盛氏の招きにより会津に定住する。
しかし、天正17年(1589)に蘆名義広と伊達政宗との間に
摺上原の戦いが勃発し、蘆名氏は破れ、蘆名氏側についていた
天海は会津を離れることを余儀なくさる。
この時、蘆名氏を滅ぼした政宗に対して天海は相当な恨みを持つ。
天海は蘆名氏を護って常陸へ行くことになり、江戸崎不動院の住職を務め、
その後、歴史の表舞台へと立った天海は家康・秀忠・家光と三代に仕える。
江戸幕府が成立し、政宗と天海は顔を合わせる機会が増える。
蘆名氏を滅亡させた仇敵政宗に対して、恨みを持っていた天海であったが
次第に政宗と恩讐を越えた関係が築かれて行く。
そんな天海に政宗はいくつかの手紙を出しており、そのうちの一通が
龍興寺(福島県会津美里町)に残っている。
伊達政宗
「天海殿にぜひともご面談したかったのですが、先客があるとのことで
そちらもお疲れのようですから、今回はこれで帰ります。」
文面からはごく親しい人を訪ねる政宗の気持ちが表れているようで
気心通じた親密さがうかがえる。
天海と言うと、大坂の陣の発端となる方広寺鐘銘事件に崇伝、本多正純と
関わったとされ、ダーティな部分を連想させる。
しかし、紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出たり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出てたり
堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したり、また民政にも
力を入れている。
後世でDQN扱いされる政宗。
黒幕・妖僧・明智光秀同一人物説などという扱いを受ける天海僧正。
彼らの本当の姿とは?
0586人間七七四年
2011/03/28(月) 02:45:51.99ID:dNlhN9Yp金地院とごっちゃにしすぎ
崇伝はそういうの無いもんね。
0588人間七七四年
2011/03/28(月) 07:24:42.50ID:03fq79X8鳥居燿蔵「御先祖様・・・」
0589人間七七四年
2011/03/28(月) 08:54:21.93ID:fqr94LUg金地院さんは「あずみ」でムチャクチャ悪役だよ。
あと「あずみ」の宮本武蔵はカッコよすぎ。
「バガボンド」の武蔵はバスケ部員が剣豪始めましたみたいで苦手
0590人間七七四年
2011/03/28(月) 10:20:55.72ID:CfmRa1cB衆道に関する佳話は無いのかナッ?
0591人間七七四年
2011/03/28(月) 14:15:10.66ID:lGzUW2XQこの時信之が小膳に歳を尋ねると十三であるという。
それを聞いた信之がこう言った。
「静謐の世と言いながらお前たちは侍の冥加に叶っている。
我らは十三まで刀など持たなかった。十四で初めて指したのである。
それも父安房守からではなく母から二貫文で調えたのだ。
甲州では一四で初陣を飾るのが法であったからそれ以前は指さなかったのだろう。
刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。
金銀の乏しい頃であったから今の五、六十金にも勝るのである。
また刀の寿命も今の十分の一にも及ばなかった。
戦となれば打ち折り打ちかき捨てるのだから名作であろうと安直なものだった。」
伊木三郎右衛門が信之に仕えたのは大坂の陣の後
もはや戦の気配はない時代に信之が語った話
0592人間七七四年
2011/03/28(月) 15:37:19.30ID:EttIvdFV漫画的には天海の方が字面にインパクトあるし強敵っぽいからね
実際には崇伝の方が悪役・黒幕的な要素が濃い気がするが
0593人間七七四年
2011/03/28(月) 15:43:18.83ID:88Ew93xR……ごめんなさい
0594人間七七四年
2011/03/28(月) 15:50:56.88ID:iNTW8Jnl0595人間七七四年
2011/03/28(月) 15:58:27.40ID:/8c0sQ2B自分用のがないってことか?
0596人間七七四年
2011/03/28(月) 16:14:04.50ID:zxJkOLDwwikpediaに「伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子で、
将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする」とあるのか。なるほどというか、
こじつけというか…
>>595
稽古で真剣使わせる流派には入門したくないなぁ
0597人間七七四年
2011/03/28(月) 16:26:37.75ID:tVz2gvoe0598人間七七四年
2011/03/28(月) 17:21:30.98ID:YDfdUZYX0599人間七七四年
2011/03/28(月) 20:48:35.48ID:lOGfiZDe0600人間七七四年
2011/03/28(月) 21:30:16.91ID:TtVUO1AI0601人間七七四年
2011/03/28(月) 23:08:08.78ID:vLNXXQTC> 刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
> 永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。
ゴメン、まったく想像つかない。
0602人間七七四年
2011/03/29(火) 01:07:16.00ID:Mx/sONYQ0603人間七七四年
2011/03/29(火) 02:10:30.67ID:hls/vBwJ0604人間七七四年
2011/03/29(火) 03:32:45.13ID:1HIW+/X90605人間七七四年
2011/03/29(火) 06:04:41.75ID:tdksv+0t戦乱の時代が終わって平和がやってくると
生産・商業が活発になり物価や地価が上がった
つまり高度成長期
0607人間七七四年
2011/03/29(火) 10:26:04.45ID:ksf/PHhwそういえば蜂須賀家政の話にも
当時の大名の逸話らしく、質素倹約を尊ぶ話が多いんだが、
中に毛色の変わったものがあった
浅田亀之亟という家臣が御用があって料理を頂いていた時
そこに家政が入ってきて雑談していったそうだ
「お前は今知行をいかほど取っているのか」と聞かれたので
百五十石ですと申し上げたところ
「私が織田信長に仕えていた頃も百五十石取っていたが
あれは不自由なものだった
とはいえ、私は元々親が大身であったので、その分家で使っている人間も多く、
それほどでもないところがあったが、その方はさぞ難儀だろうな」
こう言ったあと、ふと付け加えて笑ったそうだ
「その頃私は革袴を持っていて、それを周りの者から随分羨ましがられた
ものだったが、今時ではそんなこともないだろうな」
経済が成長して、ちょっとしたぜいたく品だったものが一般に普及したり
戦がなくなったせいで需要が減ったりしたのかなーと考えさせられた
平和な時代だと、武士もいざという時のためにひたすら貯め込んでおく必要性薄れるだろうしね
0608人間七七四年
2011/03/29(火) 10:52:14.91ID:IrkOfTjv刀も消耗品と、一本あればいい平時では同じ収入でも余裕が違う。
0609人間七七四年
2011/03/29(火) 12:19:49.29ID:903fpAuW0611人間七七四年
2011/03/29(火) 12:52:33.36ID:eRDgox0+0612人間七七四年
2011/03/29(火) 12:55:26.78ID:4YtqyzhVなんて話もあったな。
0613人間七七四年
2011/03/29(火) 13:16:46.97ID:Ftar+IRJ0614人間七七四年
2011/03/29(火) 14:04:28.75ID:jl621Qg50615人間七七四年
2011/03/29(火) 14:37:31.31ID:cojrAYavあの事件、実は在日の仕業
0618人間七七四年
2011/03/29(火) 21:13:44.47ID:+Y7rM1H9毛利の騎馬武者の一団を相手に、鹿介がただ一人で立ちむかう話が好き。
永禄五年(1562年)七月、毛利勢、出雲に来襲。
しかし、決戦を挑む尼子義久に対して毛利勢はまともに取り合わず、稲や麦を刈り取る破壊
工作を行うばかり。
毛利勢の死体の山を築いてくれる、と意気込む鹿介は民家に一人ひそんで好機を待つ。
そこに現れた毛利の騎馬武者3,40騎。
当時、山中鹿介17歳。
若いが、8歳の時には既に人を殺した経験があるというこの男は動じない。
鹿介が騎馬武者の一人目を切り捨てた後、馬から降りて向かってきた二人目に一撃をくれると、
相手は木っ端微塵になって谷底に落ちていったという。
(真っ二つとかじゃなくて「微塵になる」と記されていて、この表現が素敵)
その後、縦横に切り結んで16,17騎ほど倒すと、さすがに生き残りは退散。
それを見届けた鹿介は、近くの民家でご飯を奢って貰って悠々と月山富田城に戻っていったという。
こういうエピソードがあるんだから、無双やBASARAみたいなゲームでもっと注目されても
おかしくないと思うんだけどね。
0620人間七七四年
2011/03/29(火) 21:54:00.85ID:C7A/BqTr鈴木本人は一度も「刀は使われなかった」なんて主張してないから。
本人が長年居合をやってたしな
0621人間七七四年
2011/03/29(火) 22:08:41.83ID:hls/vBwJみたいなイメージは流石に違うって話じゃなかったかあの人のは?
その話が行き過ぎて全く刀を使わなかったみたいに言う人も出てきちゃったけど
0622人間七七四年
2011/03/29(火) 22:14:45.39ID:ne50t0eo0623人間七七四年
2011/03/29(火) 22:36:27.90ID:8rXibiK8槍が小銃みたいなもんだと
0624人間七七四年
2011/03/29(火) 22:48:45.73ID:ne50t0eo槍の長さが十丈もあるってぇなら話は変わるがw
0627人間七七四年
2011/03/29(火) 22:55:13.43ID:hKeiY2E50628人間七七四年
2011/03/29(火) 22:58:59.99ID:C7A/BqTr「一本で十分だろ?重いだけじゃね?」と。
0629人間七七四年
2011/03/29(火) 23:09:11.62ID:ne50t0eo0630人間七七四年
2011/03/29(火) 23:22:13.36ID:ITeY+K8m0631人間七七四年
2011/03/30(水) 01:43:32.07ID:lrBMgrSc戦国でも剣豪将軍の無双を始め刀の活躍を伝える逸話は多いし、
やっぱり刀は槍や弓と変わらず十分実用的で重要な武器だったと思うぞ
0632人間七七四年
2011/03/30(水) 01:57:07.27ID:1KKz+0FN0633人間七七四年
2011/03/30(水) 02:11:36.82ID:+TLXR2Wf0634人間七七四年
2011/03/30(水) 02:16:22.78ID:ul0yzAJN有名なのは為那都比古神社の逸話であり、
内容は記録によってゆらぎがあるものの大体の流れは、
ある日のことキリスト教信者の信長が高山右近に命令して寺社を壊した後に
祭神を自分が信仰する牛頭天王の祇園社やキリスト教の教会にした
という信長の伝説らしい豪快な話である。
この話は伝説だけで終わらず、
後の幕末や明治初期になると国学者を中心に強く主張され出した上に、
「日本中のほとんどの祇園社は信長を恐れて祭神を変えてしまった神社であり、
戦国時代に誕生したものだと言ってもいい!」というレベルにまで内容が発展し、
神仏分離や廃仏毀釈の流れの中で、
最終的には日本から祇園社がほぼ消えることになる。
死後数百年経った幕末でも、
日本中の多くの寺社を祇園社に変えてしまったと言われてる辺りが、
信長のスケールの大きさを感じさせる。
0635人間七七四年
2011/03/30(水) 02:26:40.05ID:+TLXR2Wf怪作「信長あるいは戴冠せるアンドロギュノス」を思い出したw
あの話の筋にはこんな裏付もあったのか
0637人間七七四年
2011/03/30(水) 08:36:25.08ID:1AJcPF7q0638人間七七四年
2011/03/30(水) 09:02:16.80ID:zNg129x7山本常朝
「昔の人たちは刀を落とし差しに差していた。
今の人は刀の差し方をあまり考えていないようだ。
柳生流では、刀を鞘がよく見えるくらいに抜き出して差させるとのこと。
近頃は抜き出して差す者が多いが、
彼らは柳生流を習ったわけでもないのに、
ファッション感覚で柳生流の形だけを真似ているようにも見える。
直茂公、勝茂公ともに落とし差しにされておられた。
そのころの腕に覚えのある者は落とし差しであったというのだから、
いざというときには有利な点があるのだろう。
それに、抜き出して差していると、不意に抜き取られる心配もある。
光茂公は勝茂公のお指図で落とし差しにされた」
0639人間七七四年
2011/03/30(水) 11:40:17.24ID:ue8ihzwi0640人間七七四年
2011/03/30(水) 11:42:41.51ID:n96kxtNj思い出したことがあったので、記載する。
(まだ、まとめサイトにもなかったと思う。)
関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)初頭
伊達政宗は堺の豪商、今井宗薫(今井宗久の息子)に預言書のような
手紙を出している。
( ●_ ̄)<今井宗薫 様へ
「秀頼様が幼少の間は江戸か伏見か、とにかく家康公の側に置き、
成人し天下の政道を行う、一国の主たるべき人物にならなかった場合は
2〜3カ国程の大名にした方がよいでしょう。今のように母子を切り離さず
大坂に置いておけば、秀頼様を担いで謀反でも興し、
何もご存じない秀頼様が腹を切る事になります。それでは
亡き太閤殿下の亡魂に対して相済みませぬ。自分から申し上げると角が立つ
恐れがありますので、貴殿から家康公の側近の本多正信殿などに
ご相談して頂けないでしょうか」
今井宗薫は当時、徳川家康に接近し、政宗の娘”五郎八姫”と家康の息子”松平忠輝”婚約成立
に尽力し、晩年は徳川幕府に仕え、大坂の陣で被害を受けた堺の復興に務めている。
政宗の予言通り、13年後の慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発する。
大坂冬の陣の直前、豊臣秀頼側は軍備を整える一方で政宗に和平交渉を申し入れている。
徳川寄りの政宗に和平交渉を頼んでいる事に違和感を感じるが、実は関ヶ原の戦いの直後
政宗は上洛し秀頼親子に謁見した節があり、それを豊臣方は後々まで頼ったようである。
しかし、和平交渉を申し入れたが時既に遅く開戦となる。
「葵徳川三代」で秀頼の台詞として
「島津も伊達もやって来なかったではないか・・・」
という台詞がある。
また、今から15、6年前に放映された「愛と野望の独眼竜伊達政宗」という作品では
政宗と秀頼の仲は良好に描かれており、秀頼の命を何としてでも助けようとする政宗の苦悩が
滲み出ていた。
少なくとも、政宗は豊臣家に対して気にかけていた節があり、豊臣家も政宗に期待していた節がある。
0641人間七七四年
2011/03/30(水) 11:46:21.52ID:vj6BSitE0642人間七七四年
2011/03/30(水) 12:26:56.41ID:KQ8tNJJdこういった人は計算には入れども、宛てにして頼っちゃダメだね
0643人間七七四年
2011/03/30(水) 12:33:41.88ID:Lt1PkM9W> 「秀頼様が幼少の間は江戸か伏見か、とにかく家康公の側に置き、
> 成人し天下の政道を行う、一国の主たるべき人物にならなかった場合は
> 2〜3カ国程の大名にした方がよいでしょう。今のように母子を切り離さず
> 大坂に置いておけば、秀頼様を担いで謀反でも興し、
> 何もご存じない秀頼様が腹を切る事になります。それでは
> 亡き太閤殿下の亡魂に対して相済みませぬ。自分から申し上げると角が立つ
> 恐れがありますので、貴殿から家康公の側近の本多正信殿などに
> ご相談して頂けないでしょうか」
豊臣への心配というより、どちらかと言えば政宗からの
『徳川家が豊臣家をどう処分してもオッケーっすよ!俺は支持するっすよ!』
って、徳川上層部への政治的表明だねえ。
0644人間七七四年
2011/03/30(水) 12:47:04.08ID:BqSuGec5以前、鍋島勝茂の逸話が投稿された際、「登場人物を鍋島光茂と水戸光圀に変えて、
水戸黄門でやっていたエピソードだ」と言うコメントがついていた。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4607.html
ドラマの中だけではなく、光茂(勝茂の嫡孫)と光圀は仲が良く、互いの屋敷を訪
問し、一緒に遊ぶ事が多かったらしい。
そんなある日、光圀は光茂に船についての知識を披露し始める。
「いやぁ、前々から船については●●で▲▲だと聞いていたのですが、本当なのか
どうか、確かめる方法がない。でも、考えてみたら丹後殿(光茂)は長崎警固の担
当者ではないですか。丹後殿ならこの話、本当なのかどうかご存知ではありません
か?」
光圀のこの言葉、どこまで本気で聞いているのだろう。
しかし光茂は平然とした顔で答えを返した。
「なんとまぁ、よくそんな事までご存知ですな」
自分の知識が正しいと確認出来た光圀は、御機嫌な様子であった。
自分の屋敷に帰った後、光茂に付き従っていた従者達、
「殿、いつの間に船の知識など学んだのです?長崎警固と言っても、殿は江戸で生
まれ育ち、ご自身の手で船を動かした事などないでしょう?」
「そりゃそうだ。専門知識など持たなくても、詳しい家臣に任せればいいだけの話。
黄門様に聞かれた話も本当の事は知らんよ。適当に答えただけだ。黄門様とて船を
動かす事などありゃしないんだから、問題はなかろ?」
また、江戸城の櫓に鳥が止まっているのを見た旗本が光茂に
「あの鳥が止まっている櫓の高さはどの位でしょうなぁ。丹後殿は長崎警固の担当
者ですから、当然測量法くらいはご存知なのでしょう?」
それを聞いた光茂は
「まあ、測量くらいは出来ぬものでもありませんが、江戸城の櫓の高さを、大名で
ある私が測ってしまって良いものなのでしょうか? 問題になりませんか?」
と応え、旗本を黙らせてしまったという。
何でみんな、大名に現場の知識を求めるんだ(笑)
光茂もシレッと上手にかわすよな。そのスキル、爺様に少し分けてやれ。
0645人間七七四年
2011/03/30(水) 12:55:23.94ID:ojVgVBsx母子ともに大坂で一緒にしておけば処分できるのか。これはいいことを聞いた。
>644
日本人気質だよね。
総理や大臣が官僚に助けを求めてはいけないみたいな。
0647人間七七四年
2011/03/30(水) 13:31:04.99ID:38R2Mlcw実際には「君主が間違った政治判断をしたらこういう目に会うんだぞ。」っていう、
自戒を求める意味合いが大きいとか。
0649人間七七四年
2011/03/30(水) 15:15:35.62ID:ul0yzAJN引っぱたいてくる嫌な上司がいたかもしれないなw
0651人間七七四年
2011/03/30(水) 15:36:25.66ID:KZ4QvMEU0652人間七七四年
2011/03/30(水) 16:01:09.06ID:zNg129x70653人間七七四年
2011/03/30(水) 17:07:50.28ID:KbVUF5B00654人間七七四年
2011/03/30(水) 17:52:51.46ID:41iY8Zst江戸時代を通じての整備と建築ラッシュと魔改造の果てに小路だらけになった京都、
さらには「街そのものには手をつけない」という制約と兎角相性が良かったんだろうな>刀
これが戦国までなら初期段階でまず市街が焼き払われる。そして飛び道具戦からスタート
0658人間七七四年
2011/03/30(水) 21:19:33.71ID:1KKz+0FN京都での本格的な戦いなら、蛤御門やら鳥羽伏見やら、鉄砲つかいまくり。
鳥羽伏見では大砲も使いまくり。
刀が活躍したのはあくまで暗殺と護身。
0659人間七七四年
2011/03/30(水) 21:26:35.15ID:WuP8rycTマンガに出てくるような糞長いヤツ
0662人間七七四年
2011/03/30(水) 23:12:06.61ID:qeiEGy/v0664人間七七四年
2011/03/30(水) 23:34:00.22ID:mTuoV0li0666人間七七四年
2011/03/31(木) 00:46:50.44ID:3P4CdmS/まぁ、江戸生まれの江戸育ちだし…死ぬことと〜でも葉隠武士たちと意識の隔絶があるみたいに書かれてたかなー
0667人間七七四年
2011/03/31(木) 22:54:25.74ID:iBrOgTxu「如何に太閤様御子に候えども、日本の御置目など取り行わるべき御人に御座なく候由、内府様御覧
届け候はば、御国の二、三カ国も、またその内も進せられ候て、ながながの御進退申され候ひて能く
候はん」と政宗は述べてて、少なくともこの当時の政宗にとって、家康のもとで秀頼がひとかどの人物になったのならば、秀頼が
世を治めることになろうという認識があったことを示すとともに、たとえ秀頼が天下人たる資格がない(=家康が
名実ともに豊臣家に取って代わる)にしても、秀頼の身の上がたつようにすべきと考えていたことが伺えるよね。
>>643
たしかにここで政宗は秀頼から家康に名実共に政権が移る可能性について認めてはいるんだけど、家康に近い立場にある
はずの今井に対しても、終始慎重な言い回しをしているし、「豊臣家をどうしても構わないよ」という内容とは言いがたいとおもう
0668人間七七四年
2011/04/01(金) 02:08:54.31ID:rPqLkektいや、その認識は当たり前。家康はまだ征夷大将軍にすらなっていない時期ってことを
忘れちゃいけない。家康の天下というのを人々が知ったのは家康が征夷大将軍になったとき。
でも、どうせ秀頼に天下を持っていかれるのにという認識。
徳川の天下というのを人々が知るようになったのは、家康が征夷大将軍を
秀忠に譲ったとき。
0670人間七七四年
2011/04/01(金) 02:45:25.87ID:bjsTE8s80671人間七七四年
2011/04/01(金) 02:52:25.22ID:62UdVtGC家康=天下様となったと考えていいと思うよ。
今で言えば首相府や大統領府の主人となった、ってことだもの。
ついでにあの当時政治的首都はあくまで伏見で、大阪は豊臣家の私的な城に過ぎなかった。
0672人間七七四年
2011/04/01(金) 06:30:26.62ID:RE644NyY0673人間七七四年
2011/04/01(金) 07:46:05.72ID:x4WFKWMQ伊達政宗=はらこ飯好物=鮭の炊き込みご飯
鮭好きは血筋だった件
0674人間七七四年
2011/04/01(金) 08:41:46.23ID:6lyciId7吉川元春「えっ?」
0675人間七七四年
2011/04/01(金) 09:59:36.07ID:qSb56gu+0676人間七七四年
2011/04/01(金) 12:10:47.06ID:po7ObpLN0677人間七七四年
2011/04/01(金) 12:28:16.33ID:SOkyOdPi0678人間七七四年
2011/04/01(金) 13:56:15.78ID:qo96En4vhttp://www.google.co.jp/intl/ja/doodle4google/2009/images/vote/1-1-5-h.jpg
あと、城は松山城との事w
http://www.google.co.jp/intl/ja/doodle4google/2009finalists.html
0681人間七七四年
2011/04/01(金) 17:21:33.77ID:NF0BTbZ60682人間七七四年
2011/04/01(金) 18:04:46.49ID:9REQjoWx三成じゃね?大河の葵や天地人でこんな鎧兜だったし
「乱髪兜」というらしい
ttp://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/image/090914tenchi.jpg
0683人間七七四年
2011/04/01(金) 21:03:08.65ID:evzsJxaw0684人間七七四年
2011/04/01(金) 21:14:28.74ID:62UdVtGC水野忠重が加賀井重望に殺害されるという事件が起こる。
これにより「あの」水野勝成が急遽水野家の家督を継ぐことになったりと、色々な事が起るのだが、
この事件がひこ起こした最も大きな混乱は、水野忠重が加賀井重望に殺された酒席に
堀尾吉晴も同席しており、当初「堀尾吉晴が水野を殺した!」と見られたことである。
水野家から関東の家康に最初に届いた通報も、「堀尾吉晴による殺害」というものであった。
時に堀尾吉晴の嫡男・忠氏は、徳川秀忠に従い宇都宮にあった。
家康はこの情報に驚き、宇都宮の秀忠のもとに急報した。仮に堀尾吉晴が徳川家に対し
二心を持っていた場合、息子の忠氏も怪しい、と考えられるからである。
が、この知らせを聞いた秀忠は冷静であった。
彼は使者に
「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに
堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」
と答えた。
やがて関東にも水野殺害の詳しい状況が伝わり、堀尾吉晴の疑いは晴れた。
この時人々「中納言殿(秀忠)は人の心をよく知り召される」と感じ入り、また堀尾忠氏も
後でこれを聞いて忝く思い、後の関ヶ原での前哨戦に於いて大いに働くことと成る。
ちょっと珍しい、徳川秀忠の関ヶ原前、関東でのいい話。
0685人間七七四年
2011/04/02(土) 02:45:02.47ID:pLWIvhoG参考
0687人間七七四年
2011/04/02(土) 05:31:35.09ID:n8K4t/gZ従者は何してんだよ!!
0688人間七七四年
2011/04/02(土) 11:14:42.32ID:LFR3emiD間を美濃国の斉藤に遮られた尾張国の織田と近江国の浅井の場合は、次のような策を講じて信長の妹・お市を
浅井長政のもとに送り届けたという。
永禄3年正月、剛勇で鳴る浅井家家臣・磯野員昌は大病にかかるも九死に一生を得た。
ついては伊豆・箱根・三島明神・浅間神社に祈願した霊験のおかげなのでお礼参りをしたいと東海・東山道筋の
各城主に員昌の使者が送られた。
員昌は音に聞こえた勇士。戦乱の世とはいえ、お礼参りとあれば今川も北条も通行を許可しない訳には行かない。
しかし員昌のお礼参りは口実だった。
道中、尾張に立ち寄った員昌は織田家の佐久間信盛と密会し、お市と浅井長政との婚姻の話を取り決める。
翌永禄4年6月、員昌は再びお礼参りの旅に出る。今回は夫婦共に参拝したいと今川・北条に申し送り、女輿や
侍女を多く連れて東国を巡る旅となった。
そして、帰路に立ち寄った清洲にて、員昌の妻として輿に乗っていた替え玉の女性とお市とを入れ替えた。
その後、お市を加えた員昌一行は何食わぬ顔で小谷まで戻り、無事長政の祝言を執り行ったのである。
以上、後に姉川の合戦における十一段崩しで有名となる磯野員昌は意外と策謀にも長けていたという、
「川角太閤記」に記されたウソみたいな本当の作り話。
0689人間七七四年
2011/04/02(土) 14:16:54.07ID:cuHJRVlm0690人間七七四年
2011/04/02(土) 14:41:05.80ID:4ad6l7GN0691人間七七四年
2011/04/02(土) 15:31:48.08ID:n8K4t/gZ0692人間七七四年
2011/04/02(土) 16:43:16.50ID:679CCU9z市自身のアイデアで対斎藤には囮の輿をしたて、市は少数の侍女を従えた旅人を装って小谷に入っていたっけ
0694人間七七四年
2011/04/03(日) 00:58:44.28ID:UOCUQZ4x信忠もかなり早い頃から登場しているね。
0695人間七七四年
2011/04/03(日) 01:52:02.97ID:KrUk5c+1伊達政宗の元服と同時にその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍し
活躍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡の佐沼城主となる。
文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、
中島宗求と共に伏見の”津田が原”にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功。
主君の疑惑を晴らそうと、熱誠をこめて切々と愁訴する武人景康の姿に秀吉は
「小十郎(片倉景綱)といい、伊達政宗は良き家来を持ちおるわ・・・」と呟いたとされる。
この功で景康は1,000石を加増されるとともに、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ
津田景康と改名。何とも変わった改名エピソードである。
その後、伊達家中で奉行職に名を列ね、政宗没後は2代藩主・忠宗より評定役に任命される。
伊達家の中でも忠臣としてその名を現代に残すが、実は江戸時代前期にもう一人の”津田景康”が存在する。
3代目・津田”玄蕃”景康である。(初代は津田”豊前”景康と区別される)
この3代目景康は初代景康のように忠臣としてではなくある騒動に巻き込まれた為に現代に名を残す。
景康は伊達家のお家騒動である”伊達騒動”の伊達宗勝派の中心人物と目されていた。
※義兄が原田(甲斐)宗輔であったというのも伊達宗勝派として景康が見られた。
そのため、寛文11年(1671年)大老・酒井忠清邸にて刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、
義兄・原田宗輔に連座して仙台城下の屋敷にて逼塞を命じら、延宝2年(1674年)
ようやく佐沼への帰還が許されるも、逼塞処分は解除されず、知行半分を没収された上で隠居。
弟・春康が代わって佐沼の領主となった。
初代・津田景康は草葉の陰で何を思うか・・・
祖父と孫の評価が変わってしまったおかしな話。
0699人間七七四年
2011/04/03(日) 13:25:21.13ID:mCGz0VrS会津抜刀隊は、ないから。会津藩出身で西南戦争に参加した人いるけどすくないよ。しかも抜刀隊では、ないから。
抜刀隊といえば、警視庁の抜刀隊だよ。
彼らは、薩摩藩の郷士や下級藩士が主力です。
西南戦争は、前線で旧薩摩藩士同士が切り会ってたから。
0700人間七七四年
2011/04/03(日) 13:40:49.49ID:3L14CH/70701人間七七四年
2011/04/03(日) 16:29:51.42ID:kcqPaJwv暗殺が成功しました…
水野忠重→暗殺
水野信元→暗殺
水野信近→暗殺
暗殺の多い一家だな、戦じゃかなり有能なのにな
>>687確か責任とらされて2名ほど腹を切ってるはず、記録じゃ殉死扱いだけど
0702人間七七四年
2011/04/03(日) 17:16:14.63ID:LinmCTPt小田原開城後、兄の介錯を務めた氏規。
氏政の介錯を終えると、彼も自害しようと太刀を取り直した。
慌てたのは検使役の面々である。
「殿下が死罪を命じたのは両名だけでござる。失態があれば我らの落ち度となります。」
と必死に押し止めた。
この時氏照の侍童であった山角平太郎は、検使が氏規に気を取られている隙に乗じて、
氏照の首を奪い取って走り出した。
結局首は取り返され、京で晒されることになるのだが、平太郎は検使の井伊直政に召し出され、
家康に紹介された。
家康は平太郎の心意気に感じ入り、家臣の列に加えた。
彼は後に、武州多摩郡関戸に領地を与えられることになるのであった。
北条家の最期に現れた忠臣の話。
0703人間七七四年
2011/04/03(日) 18:47:38.86ID:I3FMqcu50704人間七七四年
2011/04/03(日) 19:36:23.79ID:DpVduhov多感な時期の発想だろう
0705人間七七四年
2011/04/03(日) 19:40:56.00ID:RfRE4p6G斜に構えた俺カコイイ的な
0706人間七七四年
2011/04/03(日) 19:44:02.18ID:U/eAYXID0707人間七七四年
2011/04/03(日) 19:44:27.87ID:oF8dVOFV微妙に話は変わるが、このスレだと、やたらに三河の人間だけ「面倒臭い」、理屈っぽいが義理堅いとか、
そういう硬派な感じのイメージが強調されるけど、実は結構全国的にそうだよね。近畿は垢抜けてるかもしれんけど。
0708人間七七四年
2011/04/03(日) 19:55:23.46ID:4/NwGBdw三河武士団は最終勝者になる実質があったのと、
勝者になったからこそ逸話が多く残ってるみたいなとこはある。
あとはこのスレのノリもあるw
0709人間七七四年
2011/04/03(日) 22:37:24.71ID:aS+DtlZE0710人間七七四年
2011/04/03(日) 22:55:06.77ID:us+ZgtUB今川が三河を併合したから逆に松平元康は三河のトップに立てたのかなあ
0711人間七七四年
2011/04/03(日) 23:13:45.29ID:JE/8rt2b大きく関わってて、家康は宗家の力を強化するため、少録の武士を、「旗本先手組」って
主君直属の親衛隊に編成したのね。
基本この組織の武士には所領が与えられず、かわりに徳川宗家から給米が支給された。
本多忠勝や榊原康政はこの組織の物頭(隊長)で、彼らには家康から大名クラスの
兵力を与えられていたが、それでも所領を持たなかった。
このように旗本先手組に編成された者は、自分の領地を持たない以上、主君への能力と忠誠の
提供が自己の身分を確保するために必要であり、ここから、他家とは少々色合いの違う
三河者の「忠義」なるものが生まれたと考えられる。
ちなみに家康はこのシステムに思い入れがあり、関東に移るときも配下の殆どに領地を与えず
給米で済ませようとしていたらしいのだが、秀吉に言われしぶしぶ忠勝や康政たちに
十万石与えたそうなw
0712人間七七四年
2011/04/03(日) 23:41:06.52ID:oTSz2p06達成していたということになるのかな?
領地を持たないんだから農民を徴兵することができない。
すなわち、貰ったお米で兵を雇うしかない。
0713人間七七四年
2011/04/03(日) 23:55:27.34ID:JE/8rt2b信長が兵農分離をやった事実はない。と言うか戦国期、「兵農分離はなかった」と言うのが
最近の主流だね。兵農分離は江戸期に進行した事象。
家康のところも(もちろん信長秀吉なども)惣村に軍役をかけ兵や軍夫を出させているので、
兵農分離でもなんでもない。
で、家康のやったのは兵農分離ではなく「土地と武士の分離」ですな。
その面では家康はたしかに先進的(と言うかちょっと特異)だったと思う。
0714人間七七四年
2011/04/04(月) 00:21:23.05ID:SNt26B6f秀吉は末座にいた真田昌幸に向かって「安房、来て図を見よ。汝に中仙道の先手を申し付ける。」と言った。
この事について昌幸は「この時家康と同じ仲間扱いに絵図を見せてくださったことは国郡をどんなに拝領したより忝い」といっていたという。
さらにこの後秀吉は昌幸を呼び寄せて
「お前と家康は仲が悪い。自分が仲を取り持っていいようにしてやった。
長いものには巻かれろという言葉もある。旅先のこととてよういもなかろう。礼の挨拶に行くがよい。」
と、袷二十枚を進物品にするように富田左近を添えて真田に遣わした。
事は丸く収まって徳川と真田は和解し、本田忠勝の娘と昌幸の嫡男の縁組もこの時決まった。
0715人間七七四年
2011/04/04(月) 00:22:26.25ID:DneMvEUK人間性的なものもあるんじゃないかな
そういう視点で三河者のエピソードを見ていると、忠義よりも頑固というのが正しいと思う。
その頑固が忠義の方向でなく不信の方向に行けば部下に殺されることもあるんじゃないかな
0717人間七七四年
2011/04/04(月) 02:30:23.30ID:jwcvLIQT>「兵農分離はなかった」と言うのが最近の主流だね。兵農分離は江戸期に進行した事象。
主流・・・?
黒田基樹氏は確かにそういう趣旨の発言をしているが
ほかに誰か同じようなこと書いてる研究者いるの?
「兵農分離はなかった」に反対する研究者なら山ほどいるだろうけど。
0719人間七七四年
2011/04/04(月) 06:48:18.11ID:c92ro1n+0722人間七七四年
2011/04/04(月) 15:25:23.10ID:PDeJ+KQf山ほど挙げなくたって歴史の教科書の開幕前に
兵農分離って言葉があるだろ。
江戸期でも、少録なら音頭取るだけじゃあるまいし。
0724人間七七四年
2011/04/04(月) 16:49:28.69ID:GMwmtz6m0725人間七七四年
2011/04/04(月) 16:53:52.89ID:5i/yW+dB三河一向一揆で最後まで家康に反抗した者達は信州に逃れ…
後年、鬼武蔵に皆殺しにされた
0726人間七七四年
2011/04/04(月) 17:43:57.01ID:ZZCNY7dp利家と家康の二人に呼びかける時も、かならず「大納言、内府」と
利家の方を先にしたという話もあるね
利家は、それより領地を増やしてくれる方が嬉しい、と言ったとかどうとか
0728人間七七四年
2011/04/04(月) 18:58:09.72ID:4Tke5Eiu0729人間七七四年
2011/04/04(月) 18:58:59.07ID:7sXXwUQt0730人間七七四年
2011/04/04(月) 19:21:28.19ID:/mM/XGFy0731人間七七四年
2011/04/04(月) 20:31:24.75ID:jhc9aJ4H後北条家が関東土豪の連合体の上に乗っかっていた存在というのは知られた話。そんな土豪の一つに武蔵国は府中の辺りに在する井田氏というのもあった。
この井田氏、先祖を辿れば源頼朝の陸奥討伐にも従軍した(戦死したらしい)、というからなかなか古い家柄。井田氏は代々摂津守を自称していたというのもまあご愛嬌かと。
そんな井田氏も戦国期は後北条家に従ったのだが、氏照切腹により後北条家が滅びると、当主井田是政は武士を廃業して帰農することを選ぶ。
帰農した先は井田氏代々の領地だった武蔵国横山村。当時、横山村はかなり未開拓というか荒れていたらしく、是政さんは頑張って開墾しまくったらしい。
そんな是政さんの功績を記念して後世「是政」村と言われるようになったとさ。
井田是政のお墓は今も東京競馬場内に残っており、近くに生える「第三コーナーの大欅」ともども井田氏由来の事物は今もなお府中に息づいております。
どこがいい話かわからんが、まあとりあえず
0733人間七七四年
2011/04/04(月) 20:55:10.70ID:jhc9aJ4Hうん、そっちも横山だね。でもこっちも横山と呼ばれていたらしいんだわ。察するに武蔵八党の横山党に由来するんじゃないかな?
0734人間七七四年
2011/04/04(月) 20:59:01.21ID:5i/yW+dBこうだそうで
井田 是政(いだこれまさ)は、日本の武士であり、地名に残る開拓を行った領主。
北条氏照の家臣であり、主君の自害後に現在の東京都府中市是政の地(古くは「横山村」)を
開拓し村を開いた。 この功績により、この地に名が付いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%94%B0%E6%98%AF%E6%94%BF
0735人間七七四年
2011/04/04(月) 21:03:13.61ID:960KCg5U俺の先祖もそういう家だし
0736人間七七四年
2011/04/04(月) 21:09:14.32ID:5i/yW+dB0737人間七七四年
2011/04/04(月) 21:21:36.66ID:jhc9aJ4H府中は歴史古い街でけっこう逸話は残っているんだけど、いかんながら戦国期の逸話は少ないのよ。
せいぜい浅野長政が蟄居(家康暗殺騒動絡み)した屋敷は府中だよね、とかその程度で…
0738人間七七四年
2011/04/04(月) 21:23:02.52ID:86Zl65l+この前見てきたけど
0739人間七七四年
2011/04/04(月) 21:32:20.88ID:5i/yW+dBあと府中の分倍河原は鎌倉末期には北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府軍が、
戦国初期には鎌倉公方・足利成氏と上杉顕房、上杉房顕などの関東管領勢が、
それぞれ「分倍河原の戦い」が行われているな。
0740人間七七四年
2011/04/04(月) 21:40:24.95ID:jhc9aJ4H>戦国初期
あ〜、それ戦国初期に入るんだ?個人的には戦国は応仁の乱からかな?と思っていたから。成氏の分倍河原合戦までおk、となるとややネタ拾えるかも。
府中はわりと歴史物保存に市が熱心だからありがたいよ。
0741人間七七四年
2011/04/04(月) 21:40:27.17ID:2s9SKT6k0742人間七七四年
2011/04/04(月) 21:50:10.58ID:5i/yW+dB関東は全国に先駆け享徳の乱から戦国時代に入ったとされてるから、その開幕である
分倍河原の戦いは充分入ると思うよ。
0743人間七七四年
2011/04/04(月) 23:50:36.08ID:hnkGq41Fその横山党の本拠地が八王子市元横山町あたり。
んで、 八幡八雲神社 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE
を作ったりした。
なので、武蔵国横山と言うと、まず八王子を思い浮かべちゃう
>>734
ふむふむ。
>>737
多摩地区で戦国期の逸話ときたら、滝山城、八王子城のある八王子が
圧倒的に多いからなぁ。
0744人間七七四年
2011/04/05(火) 01:07:55.97ID:tI+403Lr府中競馬場の大けやきのあたりは以前寺があって墓場だった。
競馬場の開設にあたり、寺と他の墓は移転したが井田さんだけが
「移転出来るかボケ、あと欅の木も先祖が植えた大切な木欅だから切るな」
とゴネたため今でもコースの第3コーナーに残ったままに。
でも、あの木は欅じゃなくて榎なんだぜwww
0745人間七七四年
2011/04/05(火) 01:25:51.15ID:nlZv24bM0746人間七七四年
2011/04/05(火) 03:21:39.05ID:SjZRUxn10747人間七七四年
2011/04/05(火) 05:42:50.28ID:t/TzRhlp欅じゃなかったのか、あれ
0748人間七七四年
2011/04/05(火) 06:57:45.75ID:9K7rEpcWただ府中は「市の木」が欅であることから判るように欅で有名。源義家が寄進したとされる欅並木が今も残っている。まあ今の欅並木は家康が寄進したものがほとんどだけど
0749人間七七四年
2011/04/05(火) 10:56:05.85ID:dRSsTBMi0750人間七七四年
2011/04/05(火) 13:55:52.99ID:9K7rEpcW後北条家滅亡に伴って徳川家康が関東に国替えなった時のこと。
現代でも引っ越した先の総鎮守などに参拝するのは比較的よく行われているが、戦国時代となればそれは半ば常識であった。
ましてや歴オタで源氏の末裔を自称する家康が源義家ゆかりの武蔵国総鎮守大国魂神社を見逃すわけもなく、
関東入部とともに早速大国魂神社に寄進をしたとされる。
この時寄進した朱印状が現存、公開されているが、それによると石高五百石を寄進している。ケチで名高い家康にしてはかなり奮発したと思うがどうだろうか。
また府中宿に対しても馬市の開催を許すなど、中世期戦乱で荒れた府中の復興を助けた。
同時に寄進した欅並木は今も府中の名物として市民に親しまれている。
珍しく気前のいい狸親父という話
0751人間七七四年
2011/04/05(火) 20:37:17.30ID:M1ohFQCL武田家滅亡の際に生き残った武士たちのうち、帰農したものは非常に多かったという。
ご存知の通り家康は武田武士を非常に買っており、徳川家に仕官する者も非常に多かったが、
手厚く迎え入れられるはずの有力な氏族さえ、丸ごと帰農したり、一家を割って帰農するという例があった。
有無の決戦で完膚無き大敗北をしたわけではない。信長の残党狩りは過酷を極めたとはいえ、武田の遺臣達の多くも生き残っている。
信長が倒れ、北条と徳川が争い、その徳川も秀吉に押されていた。
武田武士は農民に身をやつしても、まだ諦められなかったのである。
0753人間七七四年
2011/04/05(火) 21:44:13.49ID:BbRNXor2保管されてる感状の中に、本物は数百点に一点しかない。
まあ、江戸時代の百姓が作った伝説だ。
0754人間七七四年
2011/04/05(火) 21:53:01.85ID:JYKtvw800755人間七七四年
2011/04/05(火) 22:13:16.44ID:M1ohFQCL想像と言えば想像だが、武田信治が天正壬午のときに、今こそお家のために駆けつけよと
言っているから、根拠のないことでもない。
>>753
>>大概、武功を立てた伝説がある
>>本物は数百点に一点
いくらなんでも大げさだろwww
>>754
結構残ってるよ。
0756人間七七四年
2011/04/05(火) 22:32:15.34ID:5BduoJx7他の川中島のは本物幾つか残ってるけど
0757人間七七四年
2011/04/05(火) 22:38:00.11ID:BbRNXor2大げさじゃない。
山梨県立博物館の平山優の講演で聞いた。
そもそも中世文書の本物は、百点中一点あればいい方なんだ
0758人間七七四年
2011/04/05(火) 22:48:21.11ID:5BduoJx7お土産屋さんで売られてたレベルとかなんとか
0759人間七七四年
2011/04/05(火) 23:08:41.09ID:v2eKjpdu山口の百姓に関が原後帰農した毛利家家臣だ、って伝説があるようなもんだな。
0761人間七七四年
2011/04/05(火) 23:13:37.47ID:9K7rEpcWここはそういうスレだし。
じゃなきゃ武田スレなり関東スレなりに行って欲しい
0762人間七七四年
2011/04/05(火) 23:43:26.80ID:M1ohFQCLじゃあまず、あなた繋がりで武蔵の例を。
塩原勘解由
武蔵本庄に小笠原流を名乗る塩原という一族が住んでいた。
あるとき当主・塩原勘解由は武田方についたことを賞され、晴信より金作りの聖天像を贈られた。
勘解由は驚喜した。晴信が没すると出家すると出家し、堂を建てそこで隠棲した。
四つの門があったため、そのあたりは「四門堂」と呼ばれるようになったという。
勝頼期となり武蔵における武田家の影響力が減退すると、勘解由は館に戻り籠城して北条方と戦った。
武田家が滅亡すると、勘解由は降参し帰農するが、あくまで堀を埋めず、櫓を倒さなかったという。
wikiによると、その後塩原家は代々名主として苗字帯刀を許されたとか。三条婦人云々はwikiにはあるが知らない。
0763人間七七四年
2011/04/06(水) 00:06:35.24ID:rxKul2tV初鹿野伝右衛門の甥、小山田信有(たぶん弥三郎の方)の娘婿に奥脇久兵衛という者がいた。
久兵衛は武田滅亡時、まだ年若かったため、山中に隠れさせようとした人がいたが、
「私の父も戦場で敵に背を向けたことはなく、顔面に矢を受けて死んだと言います。私もそれに習います」
といって聞かず、堂々と初狩の居館に居続け、天正壬午の乱にも参加したという。
その後結局どうなったのか帰農したが、屋敷は代々本陣として使われ、立派な塀や武具類が現存する。
なお、山本周五郎の生家はまさにここである。
もう一つ不思議なお話があるけど、明日早いからこれは又今度。
0764人間七七四年
2011/04/06(水) 00:39:58.01ID:/4PMFdsB山梨の百姓だけどご同業の連中からはそんな話聞いたことネーっす
そういう話があるのは網野善彦さんの実家とかの名主クラスじゃね?
うちの近隣の呑百姓共(うち含むw)は無尽で村の人と寄り合ったときも
年寄りたちは信玄さんって呼んで信玄公と呼ぶ人は皆無だったし
盲目的に崇めてる人か所詮滅ぼされた奴ってディスってる人のどちらかだったな。
山本勘(菅)助の子孫なんてつい最近までほら吹き呼ばわりされてた位だよw
>757
うちの母の実家から山梨県史編纂のときに網野先生に貸した
母の実家に伝わる武田家の軍議に参加したときの内容を書き記した書状は
先生が中々返してくれないので問い合わせたら
その書状は写しで本物はちゃんとしたところにあると言われ
な〜んだ写しか、じゃあ返してくださいよっていったけど、忙しいんだよって怒られ
それから更に色々あって貸し出してから2年くらい経ってようやく返ってきたw
どんだけ偽物出回ってるんだよって言うww
0765人間七七四年
2011/04/06(水) 00:43:02.79ID:grtDNcWg0766人間七七四年
2011/04/06(水) 07:06:26.51ID:ytPQmI320767人間七七四年
2011/04/06(水) 07:23:50.36ID:7In0Mkzd0768人間七七四年
2011/04/06(水) 09:07:39.98ID:itqgmgVU田舎の旧家には「学者と名乗るヤツは絶対に家にあげるな」なんていい残されている処もある
0769人間七七四年
2011/04/06(水) 09:24:37.64ID:INKNfd2q0771人間七七四年
2011/04/06(水) 09:57:27.11ID:lhu55Lh/小畑氏の誰かが仙台に来て、新田を開いたという話はあるようだよ
そのへんはご町内まるごと小畑さん一族w
ソースは「安永風土記御用達書出」だそうだけど原文は確認してない
地震で仙台の図書館まだ閉鎖中なんだよねえ(´・ω・`)
0772人間七七四年
2011/04/06(水) 10:15:42.10ID:7dS3pwAM亡くなってしばらくすると同業者がゾロゾロやって来て、傷心のばあさんに
「これは俺が貸してた物」、「これは俺がもらう約束をしていた」とか言いながら
洗いざらい持って行ってしまったそうだ。
0773人間七七四年
2011/04/06(水) 13:17:19.83ID:sgeGZdaG0774人間七七四年
2011/04/06(水) 13:29:54.22ID:vTQ4SoX3自分の死後蔵で埋もれたりせずに然るべき所にいくように。
研究者は遺族対して配慮すべきではあるが。
0775人間七七四年
2011/04/06(水) 14:22:32.21ID:grtDNcWgコレクターが死んだとき、そのときこそ他のコレクターにとっては、掘り出し物をゲットするめったにないチャンスといえるのである。
以前、高名なコレクターが死んだとき、こういうことが起こった。
彼の死は瞬く間に同好の士に伝えられ、それこそ全国から、数十人の「自称親友」がお通夜に訪れたのである。
「親友」たちは焼香もそこそこに、血走った目を部屋の隅々に走らせた。
そして貴重なコレクションを確認するや、「形見分け」と称して持ってきた段ボールに次々と詰め込み始めたのである。
中には堂々と軽トラックで乗り付けた奴もいたというから驚く。
価値のわからぬ家族にとっては、目の前で起こっている現象をどう解釈すればいいのか、混乱するばかりだろう。
「故人には生前たいへんお世話になりました。
つきましては、あそこにあるアレとアレ、私が以前貸したままになっていたグッズですので、
こういう場所で大変恐縮ですがご返却いただけないでしょうか」
と家族に向かって言ったコレクターが、返事を聞くのもそこそこに、
アレとアレだけではなく、コレもソレも持って行ってしまうのである。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1398.html
0776人間七七四年
2011/04/06(水) 14:32:10.07ID:FExIk0lU0777人間七七四年
2011/04/06(水) 14:44:16.21ID:aAzV/RoN0778人間七七四年
2011/04/06(水) 14:46:24.31ID:itqgmgVUもしかしたら粗末に扱われたり処分されたりする可能性もある
だから価値の判る人に引き取ってもらえるのならそれはそれで悪いことではないのだが
問題は、それを正規の取引でなく虚偽で詐取していくことなんだよなあ
0779人間七七四年
2011/04/06(水) 17:06:53.33ID:i6+KW8o5自分がどれだけ価値を感じるかが値段だからな。
まあ、古物収集家たちの相場ってのはあるんだろうけど、
興味ない人間にはまったく見えない世界だよね
0780人間七七四年
2011/04/06(水) 17:50:25.86ID:eZDyEYRh俺の母方の実家は山形で代々鋳物業を営んでいたのだが、
伝来の事物の中に「義光公御手蹟注文書」による寺の鐘の発注書が残ってんだけど、コレが細かい、細かいw
寸法から飾り付けから材質にいたるまでキッチリ書き込みされていて、納入日時も切られている。「オマエはト○タか」とツッコミたくなるくらい。
0781人間七七四年
2011/04/06(水) 20:35:27.31ID:V8v5WRd607831/2
2011/04/06(水) 23:02:01.45ID:Gxi8CuwB時に慶長20年(1615)、大阪夏の陣が始まろうという頃、この中根伝四郎、栗原又三郎と言う旗本に頼み込まれた
「どうか、どうかお主の具足を譲っていただきたい!」
中根は大いに困った。彼もこれ一着しか持ってはいないのだ。
「着替えを持たぬ。無理だ」
が、栗原「侍一人を助けることだ!どうか!!」と達て望む。
これに根負けし、中根はついに自分の具足を栗原に譲ってしまった。
さて、それにて中根は自分の具足が無くなった。「まさかハダカ(具足無し)で戦場に出るわけにもいかんなあ…」
と方々を訪ねて具足を探すが、戦乱が目前に迫ったこの時期である。市場に出ている武具は軒並み出払い、
余り物など有り用もないのだ。
「困った困った」
と、半ば絶望していたところ、なんとその時、清十郎と言う侍が罪を得て処刑され、その具足が遺物として寺に
残されている、という話を聞いた。
「これだ!」
中根は大急ぎでその寺に行きその具足を所望。無事それを手に入れることが出来た。
さて大阪夏の陣も五月七日、この戦役最後の戦い、天王寺・岡山合戦である。
幕府方越前勢が真田勢を追い崩すと、ここに幕府大番組の大久保玄蕃頭が騎馬で真っ先に突進した。
ちなみにこの大久保玄蕃、かつて小田原の役で家康に注意され、鉄砲の音が鳴る度にピョコピョコ飛び跳ねた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1974.html
この子の成長した姿である。
そして我らが中根伝四郎も騎馬で、二番手に居た。彼は同僚で未だ歳若い今村伝四郎(後の下田奉行。下田港に
防波堤(武ガ浜波除け)の大工事を行った郷土の偉人)が徒歩で居るのを見て
「やあ、馬から離れてはいかん!そのために討ち死にすることもあるのだ!何とぞ馬に乗りなされ!」
と挨拶し加速、大久保より先に駆け抜けた!…が
07842/2
2011/04/06(水) 23:04:10.18ID:Gxi8CuwB体中に傷を負い、兜の鉢も3枚に割られるほど打ち付けられ、しまいには冬の陣の時に、井伊勢が仕寄の為に作った
堀に突き落とされた。言ってる側からこれである。騎馬は関係なかった。
そこに同僚の高木忠右衛門がやってきた。彼は堀を覗き込んで
「おーい、生きてるかー?」
「…な、なんとか」
中根がボロ雑巾のようになりながらも生きているのを確認した高木は、彼を堀から引き上げた。が、傷が深く
とても歩けそうもない。そこで馬具の青漆の障泥(あおり:馬の胴体側面に付ける。
http://isomura.info/blog.php?ID=14&cID=6←コレ)に乗せ、
それを槍の柄に通してこれを肩にかけ、えっちらおっちら退き始めた。
まあ、障泥に載せたとは言えズリズリ引きずったわけですな。これでは当然
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!」
引きずられるたびに、地面との振動が中根の体中の傷に大ダメージを与え続けるのだ。
このままではこっちに殺されてしまう!
そこで高木、中根をしばらく置いて、そのあたりに捨て置かれていた槍の柄などを拾い集め、これらを紐で結び
どうも上手く担架のようなものを作って、それにのせて引き上げさせた。
この時の味方を救った高木の働きは高く評価され、後の出世の基になったという。
さて、戦後中根伝四郎は傷を治せと越前に湯治に行かされた。が、中根は
「夏場に熱い湯に入るのはよくない」と、最後まで温泉には入らなかったらしい。なんなんだそれはw
そしてその後、大阪の陣での論功が行われた。大久保玄蕃頭がその首尾を尋ねられた時、彼はありのまま、
自分が中根に先を取られたことを申し上げた。そのため中根は確認されることもなく、そのおりの一番乗りを
認定されたという。
ものすごく人が良くてものすごく不器用で、周りに愛されている、そんな人格が見えてくる。
中根伝四郎さんの大坂の陣のお話
0785人間七七四年
2011/04/06(水) 23:49:14.17ID:/gbCO5Ar0786人間七七四年
2011/04/07(木) 00:56:00.46ID:jhkgJ5qU0787人間七七四年
2011/04/07(木) 07:42:36.33ID:WRyGhAQG0788人間七七四年
2011/04/07(木) 08:50:23.22ID:wkx8rPJQ「相馬救援隊」立ち上げ 旧藩主子孫の兄弟
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110406t63054.htm
ご子孫も「〜胤(たね)」というお名前なんですね。
どうか頑張ってください。
0789人間七七四年
2011/04/07(木) 18:37:57.74ID:n7XLXqRB0790人間七七四年
2011/04/07(木) 19:17:00.95ID:fMweHUUgまもなく、トイレの方角から盛大な排泄音が響いてきた。明るい声で「聞こえたか」と叫ばれた。俺は泣いた。
実話です
0791人間七七四年
2011/04/07(木) 20:05:33.19ID:y0u/E6p+あいおいニッセイ同和の事ですね?判りますよ。普通に詐欺る連中がデカイ顔する今様もどうかと思われでは在るんだが(慨嘆
0792人間七七四年
2011/04/07(木) 20:35:18.39ID:XiQX8yck光栄時代に出版していた信長の野望の武将ファイルとか辞典とかに、逸話が面白おかしく
書かれていたな。
当時の編集・ライターがよく調べていたなぁと思ったよ。
井伊直政の芋煮汁の逸話とか、豊臣秀吉の割粥の逸話とか、石田三成が
佐竹家の石高まけた逸話とか。
0795人間七七四年
2011/04/07(木) 22:14:17.54ID:gAN0P7fl「○太郎」→「○衛門」と続いていた。
この間、何代目かの「○太郎」に長男が生まれたんだが
「将来いじめにあう」ということで伝統は途切れたな。
0798人間七七四年
2011/04/08(金) 01:42:06.51ID:Wv0dJWa+うち近所だと庄屋って名称は使わずに先生って呼んでたな
子どもの頃は何で教師でも無い人間が先生って呼ばれてるのか不思議だったが
調べてみたら明治維新にゆかりのある郷士の子孫だった
0799人間七七四年
2011/04/08(金) 01:48:56.86ID:CVaiX11z東北→肝煎
関東→名主
関西→庄屋
という説明だったが、受験の時はこんな単純な分類の訳ないと思いながら暗記した。
0800人間七七四年
2011/04/08(金) 02:12:17.58ID:3c2S7Cau0801人間七七四年
2011/04/08(金) 10:32:16.37ID:rnjZOqY6譲った先代は当主になる前の名を名乗る感じ〜
0802人間七七四年
2011/04/08(金) 13:36:55.91ID:5fTUQk1/ちょうどそのへん習う時期に関西にいて、肝煎や名主は使わないつーたら
教師にすごい形相で睨まれたけど
0803人間七七四年
2011/04/08(金) 14:54:59.19ID:ZJoD4tkIうちも東北だけど庄屋の方を使ってた。>爺さんの実家が庄屋
つーか、肝煎は聞いたことがない。
0805人間七七四年
2011/04/08(金) 19:55:41.73ID:KqqtF62b0806人間七七四年
2011/04/08(金) 20:12:54.21ID:qUwChzvx名主は江戸以降。
0807人間七七四年
2011/04/08(金) 20:19:29.34ID:3qhVpZ2k東北には荘園がなかった?から庄屋とは呼ばれなかった。しかし時代が下ると、庄屋は上方風のハイカラな呼称として東北でも使われるようになった、とか?
0808人間七七四年
2011/04/08(金) 22:32:43.91ID:WTLYu8Acその蘆名盛高の家臣、猪苗代某は当時14・5歳の美少年であったが、新國藤兵衛という者の愛人であった。
この両名が談合して、蘆名盛高が向羽黒が出かけた留守に、若松の城を乗っ取る、という事件があった。
しかし高盛はそれを知ると直ぐに取って返し城に突入、猪苗代、新國両名を城中にて討ち取り
さらにその協力者たちも皆撫で斬り(皆殺し)にした。
この時の事、『盛高の武勇、世の常にあらず』と、人々から大いに感嘆されたという。
さて、この時蘆名盛高麾下の河原田如礫と言うもの、若松の城への突入前、盛高に
「今宵は首三つほど取りましょう」
と言い、その言葉の通りの働きをした。
この河原田如礫というのは、会津三千騎の内でも無双の勇者と呼ばれる男であった。
彼は常に
「総じて戦場にあって、軍勢が集中している所に同じように寄って行っても居、手柄を立てることは
出来ない。私はそういう時はあえて、軍勢が集まって居ないところから攻めかかるようにしている。」
と、言っていたと云う。
さてある時、城下である者が足軽を殺して立てこもる、という事があった。
この者強く人々手を出しかねているところに、河原田如礫が来て、自分の太刀を縄でくくりつけ
立てこもっている者に投げ渡し、語りかける。
「このように武器は渡した!安心して私を近付けよ!その方の言い分を私に聞かせなさい!」
立てこもりの男、これに納得し如礫が近づくことを許した。
と、
如礫、間合いに入った瞬間踏み込み、たちまちこの男を召し捕った。
蘆名盛高の勇将、河原田如礫について伝わる話である。
0809人間七七四年
2011/04/08(金) 22:41:12.71ID:/bDl+/Iz若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な
ちなみに会津若松と松坂は蒲生さんつながりで交流がある
0810人間七七四年
2011/04/08(金) 23:40:12.48ID:WTLYu8Ac> 若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な
なので「若松の城」と、「の」を付けておいた。まあ察してくださいw
0811人間七七四年
2011/04/09(土) 03:43:58.42ID:sR5X/vuM上泉信綱が剃髪して僧体を装い人質の子供に飯を与えたいと言って小屋に入り
相手の油断を誘った逸話にも似ているね
0812人間七七四年
2011/04/09(土) 11:08:12.20ID:QDhaV8040813人間七七四年
2011/04/09(土) 12:14:41.89ID:msNTlpon0814人間七七四年
2011/04/09(土) 12:17:14.48ID:bvxPlWF0「昔から戦場において指物や、その他何であっても落とす事を『比興』だといって
批判することがあるが、それは不詮議の至りというものだ。
戦場で何を落としたとしても、武功を示せばそれは許されてしかるべきである。
例えば敵の頚を取るという時、落とすのが嫌だと槍を脇に抱える、などというのは
かえって分別の無い話ではないか。」(武功雑記)
モノに気が入って本来の仕事を果たせないのでは本末転倒である、と言う事だろう。
一方で家康の言うように戦国期の記録などには、指物や武具などを落とし敵に奪われることを
必要以上に恥辱視する考えなども見え、主君としては、こういうことを言って本来の目的が
歪むことを防ぐ必要があったのだろう、なんて事を考えさせるお話。
0815人間七七四年
2011/04/09(土) 13:29:01.98ID:Q843b7+Y0816人間七七四年
2011/04/09(土) 13:32:33.32ID:o8uUu5ry0817人間七七四年
2011/04/09(土) 13:41:57.80ID:E6v2s/tP警察が警察手帳紛失するようなもんだぞ
最悪その旗を使って敵に成りすまし大将を暗殺・・
あれっ?昔ジャンプで読んだ事があるような・・・
0818人間七七四年
2011/04/09(土) 14:16:34.66ID:KngJwupr勝つことを目的とする大将と、
手柄を上げて恩賞に預かることを目的とする戦闘員とでは
利害が真っ向からぶつかるところですな
0819人間七七四年
2011/04/09(土) 14:42:38.31ID:tXZ/2maR『比興』という言葉を聞くと、昌幸さんを思い出す。
0820人間七七四年
2011/04/09(土) 15:10:10.86ID:y7R1QEJS形式主義だと創造性が失われるし、形式がないと集団の統率がとれないからな。
権現様くらいの武士になると偏ることがないね
0821人間七七四年
2011/04/09(土) 15:24:51.90ID:6A+FBkFa0822人間七七四年
2011/04/09(土) 15:58:37.08ID:sK41aDV80823人間七七四年
2011/04/09(土) 16:33:02.91ID:+MtgMfEw>>91
>天庵さまの企画展が開かれるそうです
>土浦市立博物館第32回特別展
>「戦国武将小田氏と法雲寺」2011年3月19日〜5月8日
地震の影響で会期が変更になったり、休館の建物があったりと
いろいろと変更があったみたい。
残念・・・
http://www.city.tsuchiura.lg.jp/news.php?code=1475
0824人間七七四年
2011/04/09(土) 17:44:52.90ID:roc95oOj0825人間七七四年
2011/04/09(土) 17:46:52.87ID:E6v2s/tP0832人間七七四年
2011/04/09(土) 21:46:42.57ID:roc95oOj0833人間七七四年
2011/04/09(土) 21:49:42.48ID:Tdd5DE4Pこれ読んで察しろw
http://ja.wikipedia.org/wiki/SAKON%EF%BC%88%E5%B7%A6%E8%BF%91%EF%BC%89_-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E9%9B%B2%E9%8C%B2-
0834人間七七四年
2011/04/09(土) 21:52:04.58ID:y7R1QEJS偉大な人物の失策をいつまでもいい続ける性根もどうかと思う。
別に理由なく民を殺した類の失策でもあるまいに
0835人間七七四年
2011/04/09(土) 22:19:09.76ID:14IbLkFn単純に失策っていうんじゃなくて、
それを教訓に後日に生かしたってエピソードまであるもんだから、
今まで長々とつたわってるんじゃないかな
0836人間七七四年
2011/04/09(土) 22:29:46.48ID:Tdd5DE4Pビビッてウンコ漏らしちゃって部下にそれを知られちゃったけど
いろいろあって最終的に天下人になったんだから、
オマエも諦めずにがんばればいい事あるって
0837人間七七四年
2011/04/09(土) 22:43:05.60ID:2PQiCWejでも本当に漏らしたほうが人間「臭い」ということで面白いんだろうなぁw
0838人間七七四年
2011/04/09(土) 22:43:28.71ID:sK41aDV8それを絵に残し教訓にしたところに天下人の器を感じないかい?
0839人間七七四年
2011/04/09(土) 23:04:12.28ID:Tdd5DE4Pそもそも出典は何なんだ
まあ広く一般に流布したのは明治以降で間違いないだろうけど
0840人間七七四年
2011/04/09(土) 23:20:50.51ID:nAV08Rap0841人間七七四年
2011/04/09(土) 23:22:09.51ID:HLEolBKd山岡荘八の創作だそうでw
0842人間七七四年
2011/04/09(土) 23:27:52.80ID:Ol0YDV1f0843人間七七四年
2011/04/09(土) 23:29:07.24ID:RSc80+p60844人間七七四年
2011/04/09(土) 23:46:20.59ID:KngJwupr0845人間七七四年
2011/04/09(土) 23:48:56.06ID:fIYiFsNB徳川家康三方ケ原戦役画像から、うんこと焼き味噌を想像してできた話なのかな?
0846人間七七四年
2011/04/10(日) 00:23:08.98ID:tLkCR/1M0847人間七七四年
2011/04/10(日) 00:30:05.85ID:/grdY33dはずだが、広く一般に流布してるし人の噂を封じるというのは難しいもんだな
0848人間七七四年
2011/04/10(日) 00:54:44.55ID:yU4PEo+/話半分にしとけ
0849人間七七四年
2011/04/10(日) 10:58:07.52ID:FUeFao9e0850人間七七四年
2011/04/10(日) 21:01:09.96ID:ltuJoQyO2人の間にできた子供が直江兼続
0851人間七七四年
2011/04/10(日) 21:14:09.57ID:oamIdSI30853人間七七四年
2011/04/10(日) 22:04:11.37ID:gqNsgD110854人間七七四年
2011/04/10(日) 23:00:19.10ID:ElT9OsE4山本常朝
「中野杢之助が出仕したばかりの頃に、
彼の不正を報告した御目付の者がいた。
それを聞いた勝茂公は杢之助を呼びだされ、
人払いをした上で、
『こんなことを致していると風の噂に聞いたが、
それぞれ事情もあろうが、十分気をつけて仕事をしような。』
と他人をはばかるようにアドバイスしたとのことだ。
杢之助はこのとき勝茂公に追腹する覚悟を決めたということである」
0855人間七七四年
2011/04/10(日) 23:07:02.46ID:oamIdSI30857人間七七四年
2011/04/11(月) 00:57:38.45ID:EIL712g9大坂の陣の時のこと、この牛之介、伊賀の百姓を足軽にして連れてきていた。
牛之介は自分の連れてきた足軽たちが備に置いて戦闘の緊急事態に対処できるか試そうと、突然
「それっ!敵が出てきたぞ!」
と叫んだ。この時彼の連れてきた足軽たちはみなしっかりと戦闘準備をした。
それを見て牛之介
「今のはお前たちに油断がないか見極めるために、偽りに申したのだ。
いや悪かった。今後はもう二度と。このようにお前たちを試すような真似はしない。」
と皆の前で誓った。するとこの時、足軽の中に一人老人あったのだが、これが進み出て
「はっはっは。ワシも牛之介殿の謀り事だと思っておったが、それでも油断しちゃいかんとほれ、
このように鉄砲の火縄に火まで付けましたよ。他の者はそこまではしなかったようですがね!」
と高笑い。嫌味な爺さんである。
戦争が始まる。牛之介の部隊も城の近くまで攻め寄せた。
と、この時この方面に籠る城方に、元藤堂家家臣、能勢九郎右衛門という者がいた。
能勢は牛之介の知り合いであり、彼が近くにいることを知ると牛之介、なんと仕寄(攻手の境界)の
外まで出て
「能勢ー!能勢九郎右衛門はそっちに居るかー!?」
と城方の人間に尋ねて回った。これには藤堂家の同僚たちも流石に
「牛之介はなんと馬鹿な事をしているのだ」と、戻ってきた牛之介を叱りつけ批判したが、この時
先の老足軽だけは
「いやいや牛之介殿、あなたは少しも問題のあることはしちゃいませんよ。
だいたいあなたくらい若い時には、あのくらい伊達なことをされるのが良いのです。」
と言ったという。
爺さんいい奴である。
そんな、平佐牛之介と老足軽のお話。
0858人間七七四年
2011/04/11(月) 01:00:47.30ID:8nuG0BRh0859人間七七四年
2011/04/11(月) 03:23:31.98ID:wre6UBza昔から独自の自治能力があって、統治者泣かせだったというから
そうとうデキる百姓たちだったんだろう。
0860人間七七四年
2011/04/11(月) 09:20:08.09ID:pqLZfEf6肥前は鍋島家の保険のかけ方はちょっと変わっていた。
6月のある日、鍋島家の重臣葉次郎左衛門が直茂に呼ばれた。
次郎左衛門「殿、なにか」
直茂「ここに銀五百貫がある。お前に預けるゆえ、東海道の村々に行って、ありったけの米を買い付けてこい」
次郎左衛門「はっ。して、その米はいかがいたしましょうぞ。大坂に送りますので?」
直茂「いや、そのまま村々の庄屋に預けておけ。おって沙汰する」
次郎左衛門「かしこまって候」
当時の米一石は銀十匁ほど。つまり銀五百貫で少なく見積もっても三万石は軽く買えた。
こうして東海道各地に買い付けた米は後に東海道を引き返してくる家康に献上され、
東軍諸部隊の兵糧として消費されたという。
鍋島の軍勢は西軍に属して、結構手柄立てたというのに、戦後鍋島家に一切の咎めが無かったのはこの米献上が効いたとされる。
鍋島直茂のちょっとどころではない大変あたまのいい話でした
0861人間七七四年
2011/04/11(月) 13:29:42.17ID:iIZ05fob兵糧不足で東軍の動きが鈍って西軍大勝利、鍋島大幅加増だったじゃね?というのは浅はかか。
0862人間七七四年
2011/04/11(月) 16:35:59.11ID:q+qWzZ/k0863人間七七四年
2011/04/11(月) 17:47:53.16ID:o+TjW5kS0864人間七七四年
2011/04/11(月) 17:58:53.95ID:pqLZfEf6そうした声は当時からあったと言われる。なんといっても、鍋島勝茂は伏見城攻撃に参加してるしね。
常陸の佐竹なんかは表立っての攻撃はしとらんのに常陸ボッシュートだったのに比べりゃ不公平だろ〜、と。
そう言われた家康はこう言ったという。
「お前たちは誰の米食って戦ったと思ってんだ」
0865人間七七四年
2011/04/11(月) 18:14:23.02ID:ipRC2aUC言い訳の効く状況だった、という事はある。
あと九州は何のかんので遠隔地だからなあ。江戸に近い常陸とは条件が違いすぎる。
0866人間七七四年
2011/04/11(月) 18:31:19.54ID:pqLZfEf6>早くから家康に
確かに直茂は個人的に家康を買っていたのは確からしい。
けども、例えば同じ国持ち大名で遠国なところも一緒な長曽我部さんちの盛親クンは問題無用の領地ボッシュートだったわけだし。
長曽我部さんのとこは小牧・長久手の時から家康の先物買いだぜ?
っていうか島津・鍋島の処遇に比べて長曽我部の処遇厳しすぎだろjk
0868人間七七四年
2011/04/11(月) 18:51:02.94ID:ipRC2aUC多分おいら宛だと思うので答えるがw
長宗我部は関ヶ原の直後にお家騒動起こしてる。しかも友人である藤堂高虎とのつてを使って
長宗我部存続の交渉をしていた、実兄の津野親忠を疑い殺害する、という形で。
まああの状況の中で権力闘争をやってたのね。
ともかくこれで、それまでの交渉経路を一方的に断絶された家康の側が激怒、
盛親は斬首されるところを井伊直政の説得で罪一等を減じて改易、というのが
土佐没収までの流れだな。
とにかく当時の盛親の、君主としての指導力の無さや立場の弱さが招いた改易だったと言える。
0869人間七七四年
2011/04/11(月) 19:12:06.28ID:tWXZLPcP大事な時に日和見決め込んだ結構な石高の外様が本拠地のすぐそばにいるとか不気味で嫌だろ
0870人間七七四年
2011/04/11(月) 19:16:57.95ID:N53taArO0871人間七七四年
2011/04/11(月) 19:35:34.47ID:kywsxU/T外様の大大名が徳川領に隣接しているのを家康は嫌うだろうからどのみち転封
↓
しかし味方した以上加増しないといけないから100万石くらいにはなるだろう
代わりに津軽か九州等におもいっきり遠国に飛ばす
↓
でも清和源氏で100万石とか危険過ぎるよね
いずれ理由を付けて潰されるよ
なら西軍が勝つ方に本領安堵を賭けたほうがベターじゃね?
という高度な政治判断があったとしたのが漫画、雪の峠
0872人間七七四年
2011/04/11(月) 19:43:57.95ID:ipRC2aUC決断したとしても、それで即他所を攻められるような体制ではない。
どうしたって徳川が攻めてくるか、よほどの勝ち馬状態にならない限り、武装中立が
精一杯だっただろうね。
0873人間七七四年
2011/04/11(月) 20:02:49.58ID:pqLZfEf60874人間七七四年
2011/04/11(月) 20:08:52.51ID:hNsF5SVz0875人間七七四年
2011/04/11(月) 21:05:24.28ID:pqHlFajX絶対に潰されてた
0876人間七七四年
2011/04/11(月) 21:58:19.29ID:pqLZfEf6時は1566年。やっと三河をまとめあげた松平家康が突如
「今日からウチは徳川家だからね。そこんとこよろしく」と宣言した。
突然のことに目を白黒させる家臣の前に家康が取り出したのは一枚の家系図。
それによると徳川の御先祖様は八幡太郎の弟、新羅三郎義光の甥の子のそのまた子供の末子らしい。(ややこしいw)
で、その御先祖、義季が上野国徳川郷に領地したことから「徳川氏」と名乗れるらしい。
なるほど、ウチは源氏直系でござったか!武田、今川にも負けない名門でござるな!
感心する家臣一同。
家臣達は知らなかった。その家系図、家康が前関白近衛前久に頼んで、「銀三百貫、駿馬一匹/毎年」の約束で手に入れた、という事を…
家康のちゃっかりした調子いい話
0877人間七七四年
2011/04/11(月) 22:17:11.97ID:OL3Jno1oこの辺の逸話が適当に広まって、家康が源氏を突然名乗った、源平交代思想で
織田の次の天下を狙ってたからだ、とかいう話になるのかな。
0878人間七七四年
2011/04/11(月) 22:29:31.64ID:pqLZfEf6清康の時は国内の吉良さん対策だったけど、確か吉良さんに全力で否定されて引っ込めてなかったっけ?
0879人間七七四年
2011/04/11(月) 22:41:35.23ID:EIL712g9> 家臣達は知らなかった。その家系図、家康が前関白近衛前久に頼んで、「銀三百貫、駿馬一匹/毎年」の約束で手に入れた、という事を…
それは徳川の系図云々ではなく三河守叙任のため。
あと家康は徳川姓改正以前から源氏を名乗っているが、永祿9年(1566)の「徳川」への改姓の後は
『藤原氏』を名乗ってる。(藤原家康)
これは家康が望んでいた三河守就任が、朝廷側の「得川氏」の三河守就任の先例が無いと
言う事で頓挫しかけ、そこで近衛前久が「藤原姓徳川氏」なら先例があることを見つけ出し、
藤原氏として叙任させたため。
しかし家康は、そもそも「元信」から松平清康にあやかって「元康」に改名するなど
祖父清康を非常に尊敬しており、清康から始まった源姓松平宗家、というものにも
拘りがあったらしく、天正14年(1586)ごろには源姓に『戻して』いる。
0880人間七七四年
2011/04/11(月) 22:53:23.51ID:pqLZfEf6あーそうなんだ。詳しい解説を誠に忝なくござ候。
しかし家康も本姓を源氏→藤原→源氏→豊臣→源氏と動かして、まったく忙しい人だぜw
0881人間七七四年
2011/04/11(月) 23:52:43.84ID:pzaY4RQQ俺は家康嫌いだけど、人質時代とか信康の腹を切らせたとか凄い苦労してたんだなぁ、と感心しちまう
0882人間七七四年
2011/04/12(火) 00:20:52.97ID:/iBRPO5H金なり武力なりコネなり、そういう実力だからね。
ここで大事なのは家康ないし松平氏に京とのコネクションが着実に
あったということだと思うんだ。
早くから近衛前久と関係を深めていたのもそうだし、室町幕府に対しても
伊勢氏の被官となって以来の世紀を跨いだ古くからのパイプを持っていた。
0883人間七七四年
2011/04/12(火) 00:29:39.45ID:Et+tUtHVいや、俺がそう思ってるわけじゃなくて、源平交代思想とか征夷大将軍は源氏しか成れないとか
根拠不明の理由で徳川=源氏を名乗る理由をつけてる本が未だに多いよね、って話。
0885人間七七四年
2011/04/12(火) 09:08:56.66ID:On3CxfrW0886人間七七四年
2011/04/12(火) 10:46:37.88ID:LaKUvIAJ島原の乱の時のことである。
肥後細川氏の家臣、志水伯耆守元五は総攻め直前、攻め口の前線にいたが、
突然、あることに気がついた
「あ!指物忘れてきた!」
うっかりさんである。
そこで取り急ぎ本陣の小屋に使いをやって、指物を取りに行かせた。
さて、使いが本陣に戻ると、志水の小屋は年老いた料理人が一人留守をしていた。
「おや?どうかしたのかね?」
「いや殿様が指物をお忘れになってな、それを取りに来たのだ。」
と言いつつ指物を見つけると、それを取って帰ろうとした。が、そのとき
「いかーーーーーーーん!!!」
老料理人、この使いの者追いすがると老人にも似合わぬ剛力で、無理矢理にその指物を奪い取る!
そして
「今この時城攻めが始まり城へ乗り入れた場合、その後から指物を持っていくような事態になれば
どうなる!?伯耆守は乗り遅れたかと人々に思われるではないか!!
その危険性を考えろ!」
と叱りつけた。
後でこの話が伝わると、人々はこの老人を『功者の料理人』と呼んだという。
この老人も若い頃は戦場で鳴らした者なのだろう。そんなことを想像させる、志水家の
老料理人のおはなし。
0887人間七七四年
2011/04/12(火) 10:50:37.01ID:plUJtz6h0888人間七七四年
2011/04/12(火) 18:07:08.98ID:G5+c9nV+0889人間七七四年
2011/04/12(火) 18:51:28.45ID:AlAlghJT0890人間七七四年
2011/04/12(火) 19:04:58.07ID:hcb0G+Yb0891人間七七四年
2011/04/12(火) 19:48:13.74ID:/1hwdDuo0892人間七七四年
2011/04/12(火) 20:01:42.75ID:Hv3aLHe5そういうもの戦国時代にあったかは知らないけど。
0894人間七七四年
2011/04/12(火) 21:30:13.85ID:34KzDPm3弟「遺言よし!毒味よし!鎖帷子よし!」
0897人間七七四年
2011/04/13(水) 03:16:06.99ID:/MNHOddX「戦国よくある主従の話」
藤堂高虎の生涯最大の苦戦は、大阪夏の陣であった。
徳川家康から先陣をまかされ、奮闘の末討ち取った首級は700を越えた。
しかし、自軍の痛手も大きく、主だった武将70人余が討ち死にとなった。
翌日の先鋒の辞退を申し入れると、家康もそれを受け入れざるをえなかったほどである。
藤堂新七郎良勝は、高虎の従兄弟であり、高虎がもっとも頼みとする勇将であった。
新七郎は両親亡き後、高虎の父に引き取られ二人は共に育った。
大阪夏の陣での戦死者の四十九日の法要が営まれたその日。
高虎は、新七郎の遺族らと法要の膳を囲み、その武勇伝を語っていた。
「新七郎は、戦場を経ること13回、強く勇ましいこと他に並ぶ者はなかった。
毎度大きな手柄をあげ、何度も加増を申し渡したが、一度として頑として受け取らなかった。
夏の陣は14回目の大いくさだった。
いくさの前に二万石の加増を申し渡したが、例によって固辞する。
わしがついに怒ると、
この戦いが勝利しその凱旋ののちにこそ褒美を頂きましょう、と笑っておった。
今となっては、それが何としても悔やまれる!」
そう言うと、高虎は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。
身の丈6尺の大男が、(携帯電話のごとく)その身を二つに折って泣き伏した。
もはや食事どころではなく、ついに膳は取り下げられたという。
亡くすに惜しい家臣はどこの家にもいた。
戦国にいたるところで繰り広げられたであろう、主従の話のひとつである。
0898人間七七四年
2011/04/13(水) 03:33:51.66ID:zyrap50H0899人間七七四年
2011/04/13(水) 06:39:24.77ID:8U9yXD3fこんなに断る奴らがホントにいたなら、美談扱いにされないと思うんだが
0900人間七七四年
2011/04/13(水) 07:48:34.18ID:dwkmYvlX美談として残されてんじゃないのか?
そういう話って何万という加増されるケースのうち十数個ぐらいでしょ
0901人間七七四年
2011/04/13(水) 09:05:33.36ID:nhGe1sxn0902人間七七四年
2011/04/13(水) 09:49:15.81ID:vebyTZW+0903人間七七四年
2011/04/13(水) 09:52:34.25ID:lAREr/Yb「俺、戦争に勝って帰ってきたら加増してもらうんだ」
あれ? どう見ても死亡フラグです。本当にありがとうございました。
0904人間七七四年
2011/04/13(水) 12:10:26.54ID:t+JqO3vM0905人間七七四年
2011/04/13(水) 12:17:15.25ID:ZdO2Bo8E0906人間七七四年
2011/04/13(水) 13:38:42.38ID:ePXIP9Yzやっぱり死亡フラグだな
0907人間七七四年
2011/04/13(水) 13:50:09.07ID:dhpEzJl10908人間七七四年
2011/04/13(水) 13:55:04.43ID:aoZPw7Er0910人間七七四年
2011/04/13(水) 17:54:38.03ID:lHKmDvcp「俺、戦で手柄立てて大国加増してもらうから帰ってこないよ」
フラグを踏み潰す市松、最強
0912人間七七四年
2011/04/13(水) 21:53:26.56ID:vejKEILy0913人間七七四年
2011/04/13(水) 23:02:02.61ID:mZN9x4Nkまあそんなことしたら一門衆でも出ていくんすけどね
0914人間七七四年
2011/04/13(水) 23:28:10.35ID:sW4VnynR0915人間七七四年
2011/04/13(水) 23:48:19.19ID:KdC8KYCR優等生が常に85点〜90点取り続ける。そんなイメージだな
0916人間七七四年
2011/04/13(水) 23:59:14.00ID:/Oy1QzdYできることなら勝負を避けたいところ
よく突っ込んでいったと思うよ
0917人間七七四年
2011/04/14(木) 00:49:16.39ID:EI+VBDhP0918人間七七四年
2011/04/14(木) 03:47:47.55ID:KcSTpi7p0919人間七七四年
2011/04/14(木) 10:52:04.35ID:ZtiEQ3VJ戦国時代で強兵と評判がよかったのは甲州に越後、三河、美濃、土佐、九州あたりか。
関東も強いはずだけど、いつもやられ役の北条さんのおかげで弱いイメージがあるな。
0920人間七七四年
2011/04/14(木) 11:21:01.09ID:IyIzAZGi0921人間七七四年
2011/04/14(木) 13:51:54.96ID:bPn4rmA7源平の頃から兵は関東、だったはずなのに戦国だと今イチパッとしないよな
近藤勇も近畿の人間は使い物にならねぇ、やっぱ兵は関東!って手紙を兄貴に送ってるし
やっぱ気質としては兵士向きだったんだろうけど
0922人間七七四年
2011/04/14(木) 18:09:50.19ID:xmGitMN+0923人間七七四年
2011/04/14(木) 18:46:32.79ID:ZzkTuyMN関東は、指揮官がイマイチだけど、兵は強いのか。
0924人間七七四年
2011/04/14(木) 18:55:49.97ID:tgULMNer戦国時代の相模武蔵の兵は確かに他地域にくらべて弱い。
この時代にしては都会っ子になっちゃったんだろうな
0925人間七七四年
2011/04/14(木) 20:04:04.35ID:CNfhhpy30926人間七七四年
2011/04/14(木) 20:10:48.31ID:G/rIfqQm0927人間七七四年
2011/04/14(木) 20:41:02.53ID:NexIq5820928人間七七四年
2011/04/14(木) 21:42:48.88ID:KSzbGU2l関東は上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、長尾景春の乱、享徳の乱
と大戦が続発してて戦国時代になる前に疲弊しきっている感じがする
0929人間七七四年
2011/04/14(木) 22:29:14.04ID:xoOjcRDPだね。常に関東の中で内紛していて関東の外で戦うことが非常に少ない。
せいぜい、北条vs今川で河東あたりでごちゃごちゃやっていた程度。
>>927
んなわけがない
>>928
だからこそ北条が伸してこれたわけで
0930人間七七四年
2011/04/14(木) 22:30:38.44ID:1QlWxmfk引き立て役になってただけで、弱くは無いでしょ
0931人間七七四年
2011/04/14(木) 22:38:28.16ID:I0Q0kNCW実際には第一次上田合戦の後、北条は沼田城を攻め城下まで侵入した挙句、
沼田城からわずか3キロの場所に砦を築いた。
これにより真田の動きをほぼ完全に封じ、北条は当時の主目的である北関東制圧を進めた。
真田はこの北条の砦に、秀吉の北条征伐まで一切手が出せなかった。
ここから見ても北条は非常に強力な軍隊だったことは理解できると思う。
0932人間七七四年
2011/04/14(木) 23:00:09.48ID:ExD2nHRY0933人間七七四年
2011/04/14(木) 23:13:07.92ID:CNfhhpy30934人間七七四年
2011/04/14(木) 23:13:57.74ID:rE8evXx+自分に自信があるから「やぁやぁ我こそは……」とかやっちゃって
その隙に畿内流仁義なき鉄砲で蜂の巣にされたり
甲斐越後ヒャッハー!流情け容赦ない突撃を食らって負けてる訳か
0935人間七七四年
2011/04/14(木) 23:23:13.72ID:I0Q0kNCW日本の歴史上存在しない。
というか一騎打ちはごく稀な状況でのみ、偶発的に行われたことに過ぎない。
源平鎌倉の頃でも基本的な戦術は、趨勢な数で敵を取り囲み遠矢でハリネズミにするという物。
元寇でもモンゴル軍はこの日本軍の戦術に散々にやられ上陸できず神風。
0938人間七七四年
2011/04/14(木) 23:59:34.84ID:O7XYBGhtつーか外国人相手にそれをやる鎌倉武士の神経も良く分からんw
三国志でも読んで、外国も一騎打ちが基本だと思ってたんだろうかwww
0939人間七七四年
2011/04/15(金) 00:04:56.69ID:8WscTJVQどれについてのソース?武士の戦術に関しては講談社の日本の歴史シリーズの、
山本幸司先生の「頼朝の天下創世」が詳しかったな。
0941人間七七四年
2011/04/15(金) 00:10:10.96ID:J8zIrcwP0942人間七七四年
2011/04/15(金) 00:13:08.64ID:pN9Qo1Sh実際は土塁や盾で身を守り上陸してきたところに矢の雨を降らして敵がひるむと騎馬突撃、
というようなものだったらしいよ?
元軍はとにかく日本の武士の矢に非常に手こずり恐怖したそうで、そういう報告の記録が残ってる。
0943人間七七四年
2011/04/15(金) 00:14:48.80ID:tzuzFXLS敵じゃなくて味方にだけど
話が戦国から外れてきとる
0944人間七七四年
2011/04/15(金) 00:14:58.04ID:gppu6zFr御家人が各地から集結したわけだから。
0945人間七七四年
2011/04/15(金) 00:15:18.87ID:J8zIrcwP0946人間七七四年
2011/04/15(金) 00:16:45.32ID:jdKY4+p3福島には素晴しい偉人が居たんだ(´・ω・`)
0947人間七七四年
2011/04/15(金) 00:19:43.80ID:26VHgID7占領した土地の人間を正面前線に置いて後ろから追いたて騎兵で左右に廻り込むという戦法だから
モンゴル人の割合が少ないのは当たり前
あと資料には蒙漢軍でモンゴルと漢人がまとめられてるはずだが
0949人間七七四年
2011/04/15(金) 00:35:59.62ID:Wi1nP/pa0950人間七七四年
2011/04/15(金) 03:36:28.38ID:fzfo+BVj0951人間七七四年
2011/04/15(金) 05:36:52.84ID:RunRzYYg0952人間七七四年
2011/04/15(金) 06:35:41.02ID:izjs4ceD太い木の上に逃げた男を掴まえようと、両の乳房で木を叩き折ろうとしたら乳房がもげてしまった山姥とかか?
0953人間七七四年
2011/04/15(金) 06:45:00.89ID:iqyJ7Ytf痛くないのかね
0954人間七七四年
2011/04/15(金) 07:07:00.96ID:CO70cBcn0956人間七七四年
2011/04/15(金) 10:17:30.39ID:rC5SC4SZ今ほどおっぱいのセクシャリティは重視されてなかったろうに
巨乳好きの男はいただろうが、江戸時代の女性向けオシャレガイドに
胸を小さく見せるための方法が書かれていたくらいだし
0957人間七七四年
2011/04/15(金) 10:19:41.72ID:O9EUvYXo平和ボケみたいな感覚だったんだろうなあ。
為す術のない圧倒的な存在について想像力を働かせることも出来なかったんだろうて。
0958人間七七四年
2011/04/15(金) 10:20:27.35ID:tAjnIkQR小さい→タレない→美乳? ってことか
0959人間七七四年
2011/04/15(金) 10:21:52.56ID:Mfxgxd6Z関ヶ原の前哨戦で西国勢が伊勢討伐戦を行っている際のこと。
伊勢討伐戦は安濃津城攻防戦に舞台を移していた。八月二十四日、ついに大手門に取り付いた寄せ手の士気は高く、
備中は鬼身で八万石を領する宍戸元続も最前線に出て陣頭指揮をふるっていた。
と、その時である。サッと大手門が開き、中から城兵が押し出してきた。先頭に立つのは槍を小脇に抱えた一人の壮漢。
この壮漢こそ誰であろう上野城主分部光嘉であった。
分部が名乗りをあげると宍戸が名乗り返し、両者はそのまま一騎打ちに突入した。
二人は槍を合わせ、馬をぶつけ、刀をふるったが、元続は小腹を斬られ、光嘉は股を刺されて、お互い落馬したところで引き分けたと言われている。
信玄・謙信の一騎打ちは作り話だけど、こちらはホントにあった大名同士の一騎打ちな話
0961人間七七四年
2011/04/15(金) 11:27:19.92ID:c1ulH4TYびゅ〜〜〜ん
0962人間七七四年
2011/04/15(金) 11:47:29.74ID:5ItBH8Zx子供の頃教科書で読んで
子供心にあのオチはひどいと思った
0963人間七七四年
2011/04/15(金) 11:59:03.23ID:c1ulH4TY0965人間七七四年
2011/04/15(金) 12:13:56.38ID:1muyV1Yyとはいえ、一騎打ちなんていつの時代もあまりなかったんじゃないかな
逆に希少な例が今の時代に残ってるんだと思う
0966人間七七四年
2011/04/15(金) 13:06:44.80ID:dlKboS+l0967人間七七四年
2011/04/15(金) 13:53:01.68ID:RunRzYYg知ってるよう
っつか三國志読んだぐらいで釣り野伏せ回避できてたら世話無いよっていうか
隆信を脳みそ筋肉みたいに言われるのが鼻持ちならなくてくて
0968人間七七四年
2011/04/15(金) 13:59:43.89ID:0n0Qf1MS0969人間七七四年
2011/04/15(金) 14:16:53.06ID:mkTw3YqV前からのTV東京アニメと、BSと、TBSあたりで全部深夜w
中国人は名前が読めないから興味無かったけど
ほぼ同じ内容で良い感じに復習になってる。
あと「へうげもの」ってのも地味に面白いw
0970人間七七四年
2011/04/15(金) 14:58:42.22ID:Mfxgxd6Z大軍率いて会戦に臨みながら、哀れ首になってしまった熊さんとその家中。
しかし文字通り全滅してしまったというのに肥前は名将鍋島直茂の統率下、一丸にまとまりその戦意は衰えることがなかった。
「あのオトコがいるかぎりダメでごわっそ」
流石の薩摩隼人たちも諦めて、熊さんの首級を送ることで和解しようとしたという。
その使者を迎えた直茂が
「合戦で死ぬような不運な首は要らん。出陣の門出に縁起でもないし。持ってかえってそっちで始末してくれ」
なんと主君の首を「要らん。」と邪魔もの扱い。しかも薩摩隼人を挑発。オソロシスギル。
薩摩隼人たちも勝手が違ったか、ついには手ぶらで引き上げてしまったそうな。
直茂公ならDQN四天王程度なら片手であしらったくれたに違いない!そんな格好いい話
0973人間七七四年
2011/04/15(金) 15:28:50.53ID:pN9Qo1Sh0974人間七七四年
2011/04/15(金) 15:33:07.78ID:pN9Qo1Sh↓スレタイ
戦国ちょっといい話26
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話25
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0975人間七七四年
2011/04/15(金) 16:50:23.09ID:BcK12vfM0976人間七七四年
2011/04/15(金) 16:52:42.62ID:BcK12vfM戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
0977人間七七四年
2011/04/15(金) 17:13:59.00ID:/fOP8BgW0978人間七七四年
2011/04/15(金) 17:27:27.21ID:wl9qxT5kもっとも蒲生氏郷が一騎打ちして勝ったら信長に軽率だと叱られたり、
派手な旗指物ばかりの若武者達に大阪の陣で徳川家康があきれたり、
例外は探せばいくらでもありそうだが。
0979人間七七四年
2011/04/15(金) 17:56:35.63ID:dccP34Is0980人間七七四年
2011/04/15(金) 18:02:07.47ID:aE+5u85H諸説ある。
wikipediaによると
「島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった赤星親家の未亡人に引き渡されて
なぶり物にされたとも、島津家久によって願行寺(玉名市)に葬られたとも、
島原の川に流されたとも言われる。」
ってな具合。
赤松になぶりものにされたって話はまとめwikiにもあったかな。
0981人間七七四年
2011/04/15(金) 18:16:22.36ID:JofiGt0B0982人間七七四年
2011/04/15(金) 18:19:32.34ID:wl9qxT5k文永では元軍は上陸して戦って博多箱崎まで達しているじゃないか。
これに懲りて水際を土塁で固めまくった弘安でさえ一部が上陸して日本軍と戦っているぞ。
0983人間七七四年
2011/04/15(金) 18:21:52.46ID:wl9qxT5k0984人間七七四年
2011/04/15(金) 19:00:52.51ID:pN9Qo1Shありがとう。埋めがわりに
徳川家康の馬印といえば有名な金の開扇であるが、家康の馬印が扇となったのには
こんな理由があったそうだ。
永禄8年(1565)というから、家康22歳の時のことである。
三河統一を進める徳川家康は東三河の拠点、吉田城(当時今橋城)攻めの軍勢を出撃させた。
さて、その軍旅の途中休憩を入れ、家康は橋の側にあったお堂に腰をかけた。
そこでふと、「これは何のお堂であろうか?」と周りの者に尋ねた。
すると一人が「これは太子堂です」と申し上げる。家康これを聞くと
「さては守屋退治の聖徳太子であるか。なればこれは今日の吉端であるな」
そう言って皆と笑った。と、その時不思議なことが起る。空から開いたままの一本の扇が、
家康のもとにヒラヒラと落ちてきたのだ。
この扇、黒骨に白地であったとも、金地であったとも伝わる。
周りに怪しい者もおらず、皆大変不思議なことだと思ったが、家康は太子の霊験かとも思い
「ふむ…、これを今日の馬印として使おう」
と言い出した。
そして扇を馬印にしたこの日、徳川軍は見事に吉田城を攻略した。
これ以後、家康の馬印は開扇と決まったのだという。
ちなみにこの吉田城攻略の日は、その月の二十日であったという。
この吉田城陥落で家康は三河統一をほぼ確実にしたが、家康はこれを記念し、
徳川家において具足祝は二十日にするようになった、とのことである。
家康の馬印にまつわる逸話である。
0985人間七七四年
2011/04/15(金) 22:26:49.33ID:5uJs87VM0986人間七七四年
2011/04/15(金) 22:41:14.81ID:CnKEhfPf南蛮具足がかなり格好良かった
あと家康が関が原で着用した具足で有名なのは大黒頭形兜伊予札黒糸威胴丸具足
(歯朶具足)だけどこっちは戦の前に大黒天の夢を見たから作ったんだよな
家康吉夢見すぎ
0987人間七七四年
2011/04/15(金) 22:58:47.48ID:NjAxzWvzなんか社会の授業では下を向いて暮らせみたいな解釈になってるけど、
本来はイザという時に上を見るために下を向けという教え
0988人間七七四年
2011/04/15(金) 23:02:07.42ID:V0Dm1RmH戦国時代なんて俎板だらけでBカップもあればかなりでかい方だったんだろうなぁ……
だれか詳しい人はおらんのかね?
0989人間七七四年
2011/04/15(金) 23:21:04.42ID:78081Bckあと、その辺の一般ピーポーはどうだったか分からんけど、
武家の女性はきちんと和服を着付けていただろうから。発育しづらかっただろうな。
つか、和服は胸が小さい方が綺麗に見える民族衣装だし。
0991人間七七四年
2011/04/15(金) 23:38:41.15ID:iqyJ7Ytfあれいらいオレの貧乳萌えが始まったんだよな…
やはり高貴なひとは貧乳じゃなくちゃね
0992人間七七四年
2011/04/15(金) 23:42:02.31ID:Fj9qM7m/でもあれはきちんと帯締めるの前提だから一般人は違うと思うけど
0993人間七七四年
2011/04/15(金) 23:43:06.51ID:gppu6zFr>>990
説三分って芸人が宋代にはいたそうだから、日本にも伝わっていたかも?
0994人間七七四年
2011/04/16(土) 00:19:01.38ID:elsCaFKt帯を今みたいに胸のすぐ下で締めるのではないと思うので(肖像画なんかであるけど腰で締めてる)、
身体や胸を締め付けてるというより、崩れない程度にゆったり着てるんじゃないかな
江戸時代も現代とは着方が違って、もっと楽に着てるイメージ
(現代の着方もうまく着ればそうきつくないし、結構動きやすいけど)
0995人間七七四年
2011/04/16(土) 01:48:21.29ID:K2oPa+8Zそれでノーブラだからまあ…重力に従って自然に発育したのではないかと推測
大祝鶴姫の甲冑は胸があるそうだけどサムネサイズの小さい画像しか見たことない
どなたかご存じないですか?
0996人間七七四年
2011/04/16(土) 01:56:39.25ID:Jhp2TmsG0997人間七七四年
2011/04/16(土) 02:41:04.55ID:Et5OxR+Xみたいに
0998人間七七四年
2011/04/16(土) 09:37:54.46ID:YyQTvtIo0999人間七七四年
2011/04/16(土) 10:03:41.87ID:XYPjieOT1000人間七七四年
2011/04/16(土) 10:46:23.92ID:kEZLn7cC10011001
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