【徳川家総合】 徳川家康 公スレ その12
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0001家臣団の話題も可です
2011/02/18(金) 09:46:30ID:HlJow5mC重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
※下賎の者(百姓)は過疎時のみ構って当て馬にしましょう!
0021人間七七四年
2011/02/19(土) 13:31:15ID:hQTeN1cKそもそも、オメーの>>12が>>11の回答になってないんだよ、バーカ。
家康を『謀反人』扱いしている資料やら文献やら出せればいいんだよ。
江戸期ならいざ知らず、現代においても『勝てば官軍』ルールに従ってるんですか?ww
頭わりーのは、お前だ。バーカww
0022人間七七四年
2011/02/19(土) 15:43:26ID:BzCThR/E貶めるもなにも、事実として法慣習に「謀反」という規定があるわけで
動機や理由が何であっても、「正当」というものを設定するのなら、
それに反する行為は全て謀反や反逆になる
要するに、謀反というのは行為であって、それがどんな意味を持っているのか
という評価とは別の事象を指す言葉なんだよ
家康が豊臣を滅ぼして日本を統治したことは偉大と評していいことだけど、
その行為自体はどう取り繕っても「謀反」という表現からは避けられない
それでいいと思うのだけどね
0023人間七七四年
2011/02/19(土) 16:08:38ID:3anCkBnfそんなこと言ったら、家康が政権を奪った行為は正当そのものだから、
謀反人呼ばわりできなくなるじゃないか
0024人間七七四年
2011/02/19(土) 19:15:09ID:dahkB4+s0025人間七七四年
2011/02/19(土) 19:35:02ID:qf0bfMi40026人間七七四年
2011/02/19(土) 20:33:33.33ID:HU/RjDTJ「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」だから、
世の中はどんどん腐敗していくことになるわけだ
0028人間七七四年
2011/02/19(土) 21:47:38.10ID:ikW+KAAq0029仙台藩百姓
2011/02/19(土) 22:50:49.16ID:8bHoVIEtそれはないお( ^ω^)
少なくとも日本では( ^ω^)
この国には謀叛をせずに政権を潰せるシステムが存在していたもの( ^ω^)
0030人間七七四年
2011/02/20(日) 00:18:53.57ID:fkTbzT1r0032人間七七四年
2011/02/20(日) 07:26:14.66ID:1moZBIBb0033人間七七四年
2011/02/20(日) 10:01:02.22ID:QVI21cFw秀吉死後に豊臣家に臣従する理由って何になるんだろ。家康に至っては位まで上だし。
0034人間七七四年
2011/02/20(日) 13:51:05.73ID:fs6nt/bl実力者の動向しだい
0035人間七七四年
2011/02/20(日) 13:55:52.12ID:fkTbzT1rと関白になっていた。朝廷は明らかに親豊臣であったからな。関白になってしまうと、征
夷大将軍よりもずっと格上になってしまうので、諸大名が自分に従わなくなるおそれがある。
まして自分はもう寿命が近い。そうなる前に難癖つけて滅ぼしたって事でしょ。
征夷大将軍は武士の頂点だが、関白は武士を含めた全ての臣下の頂点だからな。
0036人間七七四年
2011/02/20(日) 16:09:15.42ID:3LOpb9kZ政権交代が悪なら薩長はどうなの?
0037人間七七四年
2011/02/20(日) 18:04:31.00ID:IN8iTMg9スレ変わったのにまだ同じことやってるの?
0038人間七七四年
2011/02/20(日) 18:53:37.07ID:EYLknXXs後の評価なんてその時点での史観でいくらでも変わってくるし
行為がなされた時点の評価と言うのは語る価値があるかもしれない。
豊臣は織田に引き立てられた家臣では合ったが
徳川は臣従したとはいえそれ以前は豊臣と対等以上の関係ではあった。
このあたりの関係を整理しておかないとはいけないだろな。
0039人間七七四年
2011/02/20(日) 19:03:44.88ID:lzc0R2jM0040人間七七四年
2011/02/20(日) 21:14:20.27ID:fkTbzT1r征夷大将軍では関白には劣るから、格下である幕府が豊臣公儀を謀反で
潰したような印象を与える。
0041人間七七四年
2011/02/20(日) 22:07:15.23ID:HwNVjsD00042人間七七四年
2011/02/20(日) 22:27:12.31ID:fkTbzT1rないんだったら秀頼の存在そのものがタブー扱いされた江戸時代は
なんだったんだ?
主家を滅ぼした事を説明できんからだろうがw
0043人間七七四年
2011/02/20(日) 23:35:30.51ID:HwNVjsD0只今現在、家康を謀反人扱いにしてるのなんて、空想小説くらいじゃねw
つか、全国の大名が一つ残らず、主家ではなく謀反人とやらに味方してるんだから、
不思議なもんですな〜w
0044人間七七四年
2011/02/20(日) 23:46:36.47ID:fkTbzT1rあ、今の話?
なら謀反人扱いされてるじゃんwアンチの中では。
それだけで十分だよ。
アンチの評価も後世の評価そのものだから
簒奪するってことは謀反なんだよ。
だから謀反人。
0045人間七七四年
2011/02/20(日) 23:49:31.53ID:fs6nt/bl0046人間七七四年
2011/02/21(月) 01:04:02.56ID:zS8LFjqF0047人間七七四年
2011/02/21(月) 01:18:41.02ID:x3iTNekO0048人間七七四年
2011/02/21(月) 01:32:28.23ID:jg0m4itV一般的に国民は国家に忠誠を誓うように求められてはいるが、それは国家そのもので
あって国の政治体制じゃないからなぁ。
まぁ独裁国家は往々にして国家と独裁者を同一にしているもんだが。
そういう意味ではたしかに謀反か。
0049人間七七四年
2011/02/21(月) 01:44:23.27ID:x3iTNekO0050人間七七四年
2011/02/21(月) 01:51:26.70ID:nE4NxXiI0051人間七七四年
2011/02/21(月) 05:29:29.22ID:nCRK6nxC伊賀越えで思ったのが。
堺にいたなら船で直接行けばよかったんじゃないの。徳川さん
または、無理して三河に帰らずに四国攻めのために摂津にいた。
織田軍に助けてもらえばよかったのでは
なぜ無理して伊賀越えをしたのですか
0052人間七七四年
2011/02/21(月) 06:02:38.33ID:x3iTNekO・船はいつ出発できるかわからない
・摂津の軍勢の動向がわからない
0053仙台藩百姓
2011/02/21(月) 09:18:22.57ID:vy6qBu9A正解だお( ^ω^)
家康の敗因は朝廷を取り込めきれなかった事だお( ^ω^)
>>36
薩摩は道義的には家康並に卑劣だけれども
法的には薩摩は官軍だし徳川氏は自ら政権を返上していて公的な支配権も失っていたから何ら問題はないお( ^ω^)
>>48
あれらは革命と呼ばれるものだお( ^ω^)
被支配階級が国体そのものを変えてしまおうという運動であって
家康の謀叛とは全く違うものだお( ^ω^)
0054人間七七四年
2011/02/21(月) 09:53:50.20ID:hwlKDNQTどうしてだろ。
0055人間七七四年
2011/02/21(月) 10:42:23.79ID:/UWmtW//元の政権が正しくなかったり、より偉大な政権を打ち立てた場合はイメージに合わなくなる
0056人間七七四年
2011/02/21(月) 11:20:29.55ID:CThmwxvbあの状況では、親殺しと考えるのが普通じゃないか?
ところで、家康公は三河のどの城へ逃げ込んだのだろうか?
0057人間七七四年
2011/02/21(月) 11:28:55.04ID:U3OmDl+M0058人間七七四年
2011/02/21(月) 11:41:29.52ID:hwlKDNQT清洲同盟によってるのかな。
0060人間七七四年
2011/02/21(月) 13:17:25.12ID:r/2AMIiA謀反したのは大阪で乱を起こした秀頼でしょ
0061人間七七四年
2011/02/21(月) 15:42:56.30ID:bgSJX3K/0062人間七七四年
2011/02/21(月) 16:31:46.23ID:1Kf+Wsc+0063人間七七四年
2011/02/21(月) 16:59:02.09ID:Tf6pGmR1に侵攻した行動についてです。
家康が織田政権から甲斐の国を簒奪したという説が有力説としてあるようですが。
本当の所どうなのか。個人的には織田家の臣下では無いものの「織田配下大名」
だった家康がそんな行動に出たとは到底思えないのですが…
0064人間七七四年
2011/02/21(月) 17:12:35.00ID:nCRK6nxC本能寺後は、国人一揆に取られました。ので織田領では、ないよ。
甲斐の守護は、河尻さんですが殺されたからね。
空白地帯をてに入れた状態です。
0065人間七七四年
2011/02/21(月) 17:21:24.25ID:1Kf+Wsc+当時、織田政権は機能していなかった
武田旧臣が煽った反抗で統治者が屠られてしまい、織田軍閥所属の部下は逃亡、無政府状態に陥っていた
国主不在状態の甲州を併呑したものであり、織田政権から奪ったというような性質のものは皆無
家康が甲州で吸収した豪族・武将は武田と関係があった者たちであって、織田旧臣ではない
(甲州事情とは無関係に尾張三河境界地域の武将が、信長横死後に家康を頼って鞍替えした例はある)
甲州侵攻といっても派手な戦は無く、硬軟併せて従属させる工作(軟派が主流だが)に励んでいる
早い段階で岡部正綱という旧知の人物に話をつけ、武田旧臣への調略を仲立ちしてもらっている
0066人間七七四年
2011/02/21(月) 18:45:43.42ID:udtWVpV4秀吉は関白に任命されたから「豊臣政権」でもいいと思うが、
信長は官職に就いていない。
一部の研究者は「織田権力」と呼んでいるが、このほうが妥当と思う。
0067人間七七四年
2011/02/21(月) 19:14:30.34ID:Biy9vf8i0068人間七七四年
2011/02/21(月) 19:27:15.75ID:hwlKDNQT0069人間七七四年
2011/02/21(月) 19:31:31.89ID:udtWVpV4アレは電波の類。
だいたい「幕府」って言葉自体江戸時代末期にできたものだし、
信長は征夷大将軍になっていない。
0070人間七七四年
2011/02/21(月) 19:50:20.58ID:jg0m4itV当時の豊家は摂関家以上の扱いで、関白は豊家が優先する事に
なっていた。むろん歳相応の人物がいた場合だが。
当然、その扱いでは征夷大将軍の徳川家よりもずっと上になるから
明らかに家康の謀反。
なお、年齢が若い秀頼が秀吉の重臣よりも官位が低いのは当たり前だよ。
そんな事例はは江戸時代でもよくある。
0071人間七七四年
2011/02/21(月) 19:50:35.47ID:1Kf+Wsc+0072人間七七四年
2011/02/21(月) 20:49:07.71ID:Tf6pGmR1なるほど織田政権は機能不全を起こしており、空白状態の所を取ったなら家康の
の行動も織田家への反逆にはなりませんね。
信長逝去後とはいえ、織田家と不和になるような行動を家康が取るだろうか?という
疑問があったのですが、スッキリしました。
0073人間七七四年
2011/02/21(月) 21:03:03.33ID:jRkQ7A0V家康の甲信略取を好意的に評価する内容を丹羽長秀宛の書状中で書いてるよ
中央で覇権を争う織田家臣にとっても、
去就定かならぬ北条が旧武田領に勢力を伸ばすよりは
既知である家康が同地を押さえてくれた方が良かったんだと思う
0074人間七七四年
2011/02/21(月) 21:29:16.14ID:Tf6pGmR1そういった内容の手紙があるんですね!
柴田、丹羽、羽柴といった織田家重臣達にとっては、家康は信長体制下
においての同僚(という言い方が適切かは分からないが)といった感じで
親近感があったんですかね。
織田重臣からも好意的に受け止められていたとなると、甲斐の国簒奪説など
どうしてそんな珍説が出てきたのか不思議です。
0075人間七七四年
2011/02/21(月) 21:31:51.02ID:y5YtIVyu滝川もボコられてるんだろ北条に
0076人間七七四年
2011/02/21(月) 21:58:47.09ID:1M8DCZEf関白は豊家が優先する事になっていたって初耳なんだけどそう言う取り決めがあったの?
あと征夷大将軍が関白に従わないといけないってのも初耳なんだけど。
だったら鎌倉時代から江戸時代までの各将軍って当時の関白に従ってたの?
当時の関白って既に空気だったと思うんだけど。あくまで秀吉が統治の理由付けに
就任しただけでしょ。実際に支配できたのは軍事力の後ろ盾があったからで。
そーじゃないとしたら家康が将軍になった頃って関白は九条兼孝だったけど
兼孝の命令に家康従わないといけなかったの?
0077人間七七四年
2011/02/21(月) 22:09:37.08ID:jRkQ7A0Vどうしても何も、甲斐の領主である河尻秀隆が、
家康のことを信用できない男と見なしてたからじゃね
家康から便利屋として遣わされた本多信俊を
「こは謀をもて我をうしなはせ給ふならん」(『徳川実紀』より)
と言って斬って捨ててるわけで
まあこれは河尻の邪推だったのかもしれないが、
その後の旧武田領接収の異常なくらいの手際の良さを見たら
事前に何らかの根回しがあったんじゃないか、
というのが家康陰謀説の根拠でしょ
自分は陰謀説に積極的に与しようとは思わないが、
だからと言って珍説と言って切り捨てようとも思わないな
0078人間七七四年
2011/02/21(月) 22:22:04.71ID:Tf6pGmR1珍説は言い過ぎだったかもしれませんね。
当時は甲斐の国も混乱状態とすると真偽のほどは永久に分からないのかもしれません。
ただほぼ信長配下に組み込まれていた家康が、織田家の不興を買うような行動を
積極的に取ったのかとなると、個人的にはそれは無いんではとは思います。
0079人間七七四年
2011/02/21(月) 22:29:24.71ID:hwlKDNQTどさくさに乗じたというのはあるだろうけど織田側から見て
徳川は同盟相手だしそんなに不愉快というほどのことはないと思うし
逆に早期の混乱鎮圧と言う意味では勝家のいうことも問題ないんじゃないかな。
0080人間七七四年
2011/02/21(月) 22:30:42.21ID:xHBT/7H40081人間七七四年
2011/02/21(月) 22:37:33.41ID:jRkQ7A0V河尻と同じ居残り組の滝川も後北条との戦に敗れはしたものの、
関東諸侯との関係は始終良好だったと言われてるからね
時勢を見る目がなく、在地領主と信頼関係を築くのにも失敗した河尻は
(旧武田家臣撫で斬りが信長の命令だったとはいえ)
評価低くならざるをえないだろうね>河尻秀隆
家康の陰謀であろうがなかろうが、一国を保てる器量の人間じゃなかったのは明白
0082人間七七四年
2011/02/21(月) 22:44:44.41ID:xHBT/7H40084人間七七四年
2011/02/21(月) 22:55:29.95ID:x3iTNekO0085人間七七四年
2011/02/21(月) 22:56:45.82ID:xHBT/7H40086人間七七四年
2011/02/21(月) 23:04:13.81ID:jg0m4itV秀吉が関白につけたのも、当時の関白のありかたに関する混乱に乗じて
だが、その際に秀吉は関白職は一時的なものですぐに返すような事を
示唆したが、秀次につがせる事で反故にし、豊家で世襲していくものとした。
それと現実はどうにせよ、朝廷の官職の順位上、征夷大将軍は関白の下につくものだろ。
関白の命令は天皇の命令なんだぜ。どう考えても征夷大将軍が上回る事はない。
(まぁそれも軍事力の背景がないとたしかに形式論にすぎんがな)
豊家は天皇の代理人であり、公家、武家等、全ての臣下の頂点を出せる家。徳川家は武
家の頂点をだせる家。どちらが格上かはわかるだろう。まして徳川家は豊家に臣下の礼を
取っている。だから徳川家が豊家を滅ぼしたのは謀反
1615年以前までは豊家は奥州や西国大名の家政に干渉したり、領地安堵をしたりした
二重公儀制ではあったけれど、家康が欲をだして難癖つけて汚名をかぶってでも滅ぼした
ってのが現実だろう。
0087人間七七四年
2011/02/21(月) 23:11:01.09ID:pVcZK2fg0089人間七七四年
2011/02/21(月) 23:19:31.70ID:ydpig5yk0090人間七七四年
2011/02/21(月) 23:20:10.11ID:76ISbdSkまして当時は武士が統治していた軍事政権とも呼べるわけで。
0091人間七七四年
2011/02/21(月) 23:27:54.36ID:jg0m4itVそうでもなければあんな恥ずかしすぎる難癖つけんだろう。
たぶん1615年間近になるまで滅ぼすつもりは毛頭なかったんだろうと思う。
幕府が諸大名に大坂への伺候を勧めていたんだぞ、それまではな。
秀頼が諸大名率いて滅ぼしに来る事を恐れたのかはわからないが、なにか
心変わりがあって慌ててああいうことをしたのだろう。
0092人間七七四年
2011/02/21(月) 23:42:56.40ID:hwlKDNQTずっと機会を伺ってて丁度旧家臣がいなくなったから
満を持してってとこじゃないかな。
それまでにまず自分とこの政権安定のためにやることはいっぱいあったし
中途半端に仕掛けても自分の死後磐石の体制が出来なかったら意味がない。
恥ずかしいナンクセも子孫のために最後の大仕掛けってとこだと思う。
それと秀頼は満足に外にも出られないような人間だから
諸大名率いるとかそういう心配はまずしてなかったんじゃないかね。
もちろん想定はしてたろうがやってきてくれるならかえって助かるぐらいでね。
0093人間七七四年
2011/02/21(月) 23:43:09.36ID:8o4E8fNA0094人間七七四年
2011/02/22(火) 00:03:06.29ID:7d7nujMd豊臣政権下の織田家みたいに
そうすれば豊臣家は存続できたし家康もタヌキと言われなかったのに
0095人間七七四年
2011/02/22(火) 00:24:16.24ID:IUJiOZqT在地領主との関係を築けなかったという意味では、川尻だけでなく森も滝川も変わらない
というか、勝利者として入って三ヶ月で本能寺では、関係を築くも何もない
どこもまだ戦後処理の途中、これから新たな体制を構築していこうという矢先のことだったのだろうから
本能寺(のようなイベント)が、せめて一年後くらいにおきていたら、その後の展開もまた変わっていたと思うよ
極端な話、家康だって北条征伐のあと、関東入府して三ヵ月後に上方で異変勃発、
中央政府が消滅して戦乱再開なんて状況に直面していたらさあどうなっていたか
0096人間七七四年
2011/02/22(火) 04:35:11.24ID:FzBv38QZ0097人間七七四年
2011/02/22(火) 08:00:01.07ID:02LVVuGa滝川は築いてるよ>在地領主との関係
与力の関東諸侯と茶会を開いたりしてるし、神流川の戦いで
後北条に敗れた後も諸侯は滝川との別離を泣いて惜しんだとされる
だから領地を失ってもとりあえず生きて上方に帰れたわけで
ここらへんの流れは斎藤慎一氏の『戦国時代の終焉』を参照してね
河尻と同じく武田狩りに参加して恨みを買った森は、
危険な新領に執着せずに即座に帰国するという見切りの早さを見せている
後世の立場から気楽な論評を加えることを
許していただけるなら、河尻は愚直過ぎる
信長に旧武田家臣を虐殺しろと言われれば素直に従うし、
戦後甲斐一国を宛てがわれたら幾ら危険でもそこに居座って命を失う
信長に忠実である分信長から見れば信頼できる男であったろうが、結局は裏目に出た
家康は旧武田家臣を適当に保護してその後の領国経営に役立ててるし、
秀吉だって延暦寺焼き討ちのときは撫で斬りの指示に従わず慈悲を見せてる
そういう柔軟なところが河尻にはなかった
0098人間七七四年
2011/02/22(火) 09:05:52.77ID:7d7nujMd0099人間七七四年
2011/02/22(火) 09:23:48.52ID:IUJiOZqTそういった傾向がなかったとは言わないが
信長も川尻も、少なくとも降伏や帰順を求めたものを殺すようなことは例外(小山田)を除いてしていない
あくまでも未だ抗戦しているものを捕らえて処分しているだけ(逃亡中というのは降伏していない以上追跡するのは当然)
そもそもね、川尻に対して旧臣が蜂起したとか、徳川が入国したら従ったという時点で、
甲斐国内にそれだけの数の旧臣が虐殺も弾圧もされず残されていたという証拠なんだがな
少なくとも、期間が短すぎるので一概には言えないが、残されている川尻の甲斐における文書をみると、
逃亡して捕獲した者の処刑を命じる書類や、あるいは甲斐豪族の所領安堵の書状はみつかるが、
わざわざ無抵抗のものを虐殺した、命じた一次資料はない
残された書状から伺えるのは、抵抗を続ける者は討伐し、降伏帰順したものには所領を認める
通常の戦後処理の活動しかない
そもそも本気で一国の勢力を虐殺しつくすつもりが織田にあったのなら、川尻とその手勢だけを残すなんてしない
伊賀や越前のように、大軍を導入して一万二万と殺しつくして、大勢の武将を駐留させて押さえつけるだろう
あと、秀吉の叡山について慈悲とか柔軟とか言っているけど、仮に叡山ではそうやって慈悲を見せたかもしれないが、
その後の越前一揆根切りでは光秀と協調して虐殺におおいに行っているし、播磨でも見せしめでやっている
0100人間七七四年
2011/02/22(火) 10:12:18.80ID:6Pdx0oXm0101人間七七四年
2011/02/22(火) 10:59:51.11ID:cBU11ePX0102人間七七四年
2011/02/22(火) 11:14:54.86ID:IDJgWofi正しく地盤固めという言葉がぴったりです。上記の各意見を参考にさせてもらうと
家康はそれを織田家の意向に適する形で行っているということになるのですね。
しばし後の信雄の対秀吉出兵要請に応じたのを見ても、この当時の家康はあくまで
織田体制内の所属大名として振る舞っているように見えます。
信雄が仮に織田家督に就いたとして、家康は本能寺前の信長に対してと同じように
「配下大名」として接し続けたのでは?と本気で思えてきます。
この頃の家康の目標はあくまで「東海地方の太守」であり、後のような
「天下人」を目指す意思は全く無かったように思えます。
0103人間七七四年
2011/02/22(火) 11:17:00.59ID:Ct/6pVdr0104人間七七四年
2011/02/22(火) 11:29:34.81ID:7d7nujMdあの時点っていうか家康には「天下人」を目指す意図は後々もなかったような気する
あくまで自家の安泰が第一
関が原も大阪の陣も「やらないと滅ぼされるかもしれない」という強迫観念に突き動かされて
0105人間七七四年
2011/02/22(火) 11:29:52.07ID:JS8lf3gF0106人間七七四年
2011/02/22(火) 14:08:49.69ID:+JFfiCrKダメなら独立して今川同様織田に牙を向いて攻め取ることもしたかもしれない
実際には織田家臣が仇討ちに成功したものの家中は内ゲバ三昧の混沌
はたから見てたらこいつらは一体何がしたいんだって迷うのはわかる
同盟してた織田という組織が生きているのか死んだのか審議中だった家康
0107人間七七四年
2011/02/22(火) 15:37:56.65ID:qFuGpqdW甲斐信濃:川尻
北陸:柴田
尾張伊勢:織田
近江:サル くらいしか思いつかないから
美濃と近畿と中国四国地方や信長光秀領は、無法状態?
0108仙台藩百姓
2011/02/22(火) 17:48:48.60ID:5O48GOX7討って出ようとしたけど出来なかったのだお( ^ω^)
明智討伐の為に鳴海まで出て来て尾張、美濃、伊勢辺りの諸将に
「明智討つから協力してお( ^ω^)」と交渉してたら
秀吉の使いが来て「もう終わったから帰っていいお( ^ω^)」と言われてしまったからすごすごと帰るしかなかったのだお
家康が出兵の準備して協力者探している間に
秀吉は毛利と休戦して清水宗治に腹を切らせ
例の大返しで上方まで取って返しつつ諸将を次々取り込んで明智を討ち
更に尾張に出て来た家康を牽制して追い払ったわけだお( ^ω^)
それで家康は逆方向に進むしかなかったのだお( ^ω^)
この時点で家康は早々と中央の争奪戦から脱落したわけだけど
まあ、家康が無能というより秀吉が異常過ぎたのだお( ^ω^)
0109人間七七四年
2011/02/22(火) 21:51:46.75ID:R/GNsBa6あの時点ではもはや同盟じゃないだろ。
織田家中ほどでなくても、支配されていた関係が正しいと思う。
家康は信長に加増されているからなぁ。
それが家康が信長に事実上臣従していた事にほかならないでしょ。
0110人間七七四年
2011/02/22(火) 22:13:23.57ID:17OSaXx/いろいろとごっちゃにしているところがあってアレだが…
甲斐:河尻(織田臣下)が踏みとどまるが、結局討死
北信濃:森(織田臣下)が放棄したことでゴチャつく。隙を突いて真田(旧武田傘下豪族だが、主家滅亡で織田傘下に)が若干食い込む
中信濃:木曾(旧武田傘下豪族だが、能動的に織田傘下へと鞍替えしていた)が踏みとどまるものの、内乱で勢力後退
南信濃:毛利(織田臣下)が放棄、逃亡。後に徳川が接収
上野:滝川(織田臣下)が北条(独立勢力)と対決、敗北して逃亡。現地の有力豪族・真田とは良好な関係だった
真田は滝川逃亡後、独立勢力化
伊勢:織田信雄の基盤があるが、滝川の本拠もここ。後に秀吉と戦うことになる
美濃:織田傘下に入っていた領主同士が争うカオスも発生
東中国:羽柴(織田臣下)が掌握
西中国:毛利(独立勢力)領有で、織田には従えないと態度を硬化させていた(足利義昭を保護していた都合?)が、
信長死後は一転して秀吉に従属。秀吉の大きな味方となる
四国:最大勢力は長宗我部(独立勢力で、織田に攻められる直前だった。信長横死によって四国侵攻が流れたため、四国完全制圧に乗り出す
0112人間七七四年
2011/02/22(火) 22:31:41.01ID:02LVVuGa決戦前から近畿の諸侯に信長生存の書状を送って味方に付け、
山崎の戦いが終わって数ヵ月後には山城で検地したりしてる
家康も遅くはないが、ここらへんの秀吉とは比較にならない
0113人間七七四年
2011/02/22(火) 23:37:39.90ID:W+grz21Kそれでおしまいだったんじゃないの?
スムースに行ってたら、サルが幼児操りレースに勝っただけか。
0114人間七七四年
2011/02/22(火) 23:51:56.45ID:wQjO0JnSそれができりゃ苦労しなかったんじゃないかな?
主君の敵を討った筑前は名声を高め、
その勢いは留まるところを知らなかった。
もはや信長の子という肩書きだけで抗うことなど
できないところまできていた、という感じかと思う
0115人間七七四年
2011/02/23(水) 00:03:20.95ID:/QqntYp10116人間七七四年
2011/02/23(水) 00:12:40.82ID:rLXri9Yy大差ないな。
大義名分は殿下の御前で不埒な言動があったとかいって。
0117人間七七四年
2011/02/23(水) 01:05:49.97ID:gzx6xsVr0118人間七七四年
2011/02/23(水) 01:17:45.47ID:OYBDPVhx0119仙台藩百姓
2011/02/23(水) 08:41:05.49ID:1y/lzSpl協力して織田家を復興させれば秀吉も付け入る隙がなくて難儀したものを
つまらない色気出して潰し合い始めるから羽柴、柴田、徳川といった連中が
織田家を差し置いて勢力広げる口実を作ってしまったお┐ (´ω`) ┌
無能なのに欲だけ人一倍な駄目駄目パターンだお┐ (´ω`) ┌
0120人間七七四年
2011/02/23(水) 11:39:32.27ID:GJglO8VJ最大のライバルが消せるじゃん。
秀長と黒官と三成が死に物狂いで弔い合戦するか?
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