>>100
正しく地盤固めという言葉がぴったりです。上記の各意見を参考にさせてもらうと
家康はそれを織田家の意向に適する形で行っているということになるのですね。
しばし後の信雄の対秀吉出兵要請に応じたのを見ても、この当時の家康はあくまで
織田体制内の所属大名として振る舞っているように見えます。
信雄が仮に織田家督に就いたとして、家康は本能寺前の信長に対してと同じように
「配下大名」として接し続けたのでは?と本気で思えてきます。
この頃の家康の目標はあくまで「東海地方の太守」であり、後のような
「天下人」を目指す意思は全く無かったように思えます。