信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
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0001人間七七四年
2011/01/22(土) 19:54:13ID:1WMsa7dF謙信?
それともどっちも脅威ではなかった?
0002人間七七四年
2011/01/22(土) 20:25:49ID:NxERkYJH謀略外交戦闘すべてで負けてる信玄公のほうが脅威でしょう
しかも国境接してるし これからガンガン攻められてボロボロにされて滅亡必至でしたねノブは
0003人間七七四年
2011/01/22(土) 23:24:52ID:n4m4CDdQ地理的に。
謙信に対しては北陸方面が比較的守りやすいからいいが、
信玄とは、家康の所領も含め、国境を接する部分が多すぎる。
とはいえ、どちらも必要以上に脅威には感じていなかったと思うけどね。
あくまで包囲網の一翼としての脅威というか、
信玄単独・謙信単独が相手なら、決戦から逃げ回る事もなく戦い、
まあそれなりに苦戦はするだろうけども駆逐できてたと思う。
0004人間七七四年
2011/01/23(日) 09:55:10ID:AivtQyo4どちらも怖かったに違いない。
0005人間七七四年
2011/01/23(日) 12:39:08ID:YX0HbmXh長篠直後なら信玄死んでて良かったとホッとしてたかもだが
0006人間七七四年
2011/01/23(日) 12:48:55ID:+he2fCdW0007人間七七四年
2011/01/26(水) 10:27:50ID:9iJ5eS82同盟を破棄するの得意だし敵に回すと不気味でしょ
0008仙台藩百姓
2011/01/26(水) 12:41:01ID:oAdMwipP何より勝頼に脅威を感じていたのは間違いないお( ^ω^)
結局信長も捨てて置けなくなって織田家を挙げて信長自ら決戦に挑んだわけだし( ^ω^)
0009人間七七四年
2011/01/28(金) 08:21:55ID:crOxxBivいずれにしても、長篠の合戦以降はそうまで驚異を感じていたとは思えないなぁ。
すでに包囲網が崩壊しているし、やはり、人口、財力が違いすぎる。
つか、百姓にしては的を外した書き込みだな。
0010人間七七四年
2011/01/28(金) 20:49:39ID:N5TNvFZS織田オールスター家臣を派遣しながら秀吉はビビッて敵前逃亡し
オールスター家臣どももまったく役にたたず謙信に叩き出されたし。
0011人間七七四年
2011/02/02(水) 08:22:57ID:rCyPvhxE後北条にしても、織田にしても、勝手に恐れて逃げてくれる。
実際、戦が強かったのかわからない部分があると思うのだけど、今風で言うと
「持っている」って事かな。
0012人間七七四年
2011/02/03(木) 10:03:23ID:hdfk/+X40013人間七七四年
2011/02/03(木) 11:41:49ID:L/nJLl7h0014人間七七四年
2011/02/03(木) 11:57:14ID:PvNE0pkm実際何万率いて行っても勝てるかわからない相手にぶつかるより引きこもって引き上げてくれるならそれにこした事ないしね
信長にも北条にもいい時に死んでくれたもんだ
0015人間七七四年
2011/02/03(木) 12:10:45ID:op3pTmH00016人間七七四年
2011/02/03(木) 12:43:34ID:R29S+xz7引きこもるのは悪い選択肢ではなかったと思う。
謙信の死は、それが歴史って事なのかもね。
>>15
個人的には、実際に京を目指していたのかと言うと疑問があったりする。
徳川、織田に圧力や力を削いでおいて帰国、そして、再度出陣って言う算段
だった気がするんだよね。
0017人間七七四年
2011/02/03(木) 22:06:20ID:8zWfMA6z0018人間七七四年
2011/02/04(金) 00:34:24ID:0cAM/no2動員が違いすぎる。
0019人間七七四年
2011/02/04(金) 08:19:13ID:+3gHdDzZ0020人間七七四年
2011/02/04(金) 08:19:43ID:gfY/Qw/Zしいが、スレ的に伸びしろがなさそうだし、一番驚異だったのは?でも良いか
もね。
0021人間七七四年
2011/02/04(金) 14:24:48ID:56atR4ti信長も最初からそうやっとけばもっと円滑に進めたかもしれんものを
0022人間七七四年
2011/02/04(金) 18:02:18ID:RgHmAJLI0023龍虎抱擁
2011/02/04(金) 20:00:55ID:iXW3B79A0024人間七七四年
2011/02/05(土) 13:48:27ID:o4WEN72n顕如は一向勢力を完全に掌握していたわけじゃないだろ。
各地の一向勢力は基本的に自分達の判断で敵対勢力を設定していたはず。
石山本願寺の開祖・蓮如は一向一揆を抑えようとしたが失敗している。
だから顕如と親しい=一向勢力に狙われない、ではない。
0025人間七七四年
2011/02/06(日) 15:52:47ID:0IXMBYPj0026人間七七四年
2011/02/06(日) 18:54:21ID:GFr1hBQ3信玄かな
>>24
蓮如は善人というイメージが強いけど顕如はどうだったんだろう
一向宗に担がれたのかね
0027人間七七四年
2011/02/07(月) 05:59:04ID:qnk57l/c全国の一向一揆を完全にコントロールできてたわけじゃないだろうね。
蜂起を呼びかければそれに呼応する形で一向一揆が起きるけど、
勝手に起こった一向一揆を止められるほど力があったかは疑問。
0028人間七七四年
2011/02/07(月) 13:44:47ID:uyN+nsZ4は?曽祖父の開祖親鸞の教えを踏みにじり、血統だけを頼りに真宗を捻じ曲げ
門徒を増やしそれを暴徒化させるシステムを作った本人が善人?
そもそも親鸞は弟子すらとってないし、世襲どころか継ぐべき「地位」そのものも
否定してるよ。
それに親鸞は「善人」も否定してるんだがw
0029人間七七四年
2011/02/07(月) 14:51:09ID:cypwK6M2あれだけの数の信者が出来たんだから
死んだ民衆は極楽浄土に行けると安心した死を送れたんだ これ以上の至福はない
0030人間七七四年
2011/02/07(月) 15:34:51ID:+bRiLKXA0031人間七七四年
2011/02/09(水) 08:50:41ID:zS56ph4Iんな事いったらキリストもブッダも悪人だ
0032人間七七四年
2011/02/09(水) 09:18:40ID:9HX7C22r0033人間七七四年
2011/02/10(木) 15:02:23ID:0OEektdF長篠の合戦は、勝頼が家康の近郊であらしまわってwて、兵力ない家康が
信長に頼みこんでやっと来てもらったんじゃなかったっけ?
0034人間七七四年
2011/02/11(金) 17:15:01ID:DuMjSUS/秀吉っていつごろ離脱したんスかね?
川渡る直前?
謙信の襲来を予見し、危険性を進言したら
勝家に
「サルめが臆病風に吹かれおったかガッハッハ」
とか諸将の前で罵倒され、
ぶちきれて帰ったとか?
エロい人教えてくれ
0035人間七七四年
2011/02/18(金) 23:22:25ID:kNJOJU0L0036人間七七四年
2011/02/19(土) 02:00:56ID:kBfujq//0037人間七七四年
2011/02/19(土) 02:25:57ID:3tAvpgbl0038人間七七四年
2011/02/19(土) 11:45:29ID:Cq5htUcK0039人間七七四年
2011/03/01(火) 05:08:12.50ID:4CjX0u2R0040人間七七四年
2011/03/01(火) 05:33:48.83ID:HASNlBHz信玄はキシリア・ザビ
0041人間七七四年
2011/03/16(水) 12:04:39.93ID:g+VBcw2b0042人間七七四年
2011/03/16(水) 12:18:57.29ID:TyhN/xMFだろ
0043人間七七四年
2011/03/16(水) 15:10:22.16ID:r4O9FSpsわかるよw
0044人間七七四年
2011/03/16(水) 15:23:27.14ID:dzOPgxp5当時の織田勢にとって脅威だったのは「第一次包囲網」と「第二次包囲網」
その構成員のひとつにすぎない田舎大名そのものが脅威だったわけじゃない。
後年、関ヶ原を戦った徳川家康にとっても脅威だったのは三成のコーディネート力であって
最大戦力をもつ毛利でも宇喜多でも上杉でもない。
江戸期の軍学で持ち上げられた虚像を史実と取り違えるとは話にならんな。
0045人間七七四年
2011/03/16(水) 15:30:07.80ID:PrWFLvl6あと信長も尾張の呑百姓だろw
0046人間七七四年
2011/03/16(水) 16:13:10.75ID:dzOPgxp52行目は解読可能。
それではただの小学生の悪口だ。レベルが低すぎる。
「田舎大名」というのは地方戦国大名で終わったから事実。
時の中央政府を抑え右大臣にまでなった人物の出身地をからかったからといって
反論にも何もならない。
0047人間七七四年
2011/03/16(水) 16:26:56.22ID:cukj6xjv0048人間七七四年
2011/03/16(水) 16:32:06.55ID:PrWFLvl60049人間七七四年
2011/03/16(水) 19:47:22.02ID:xKl1LU7B0050人間七七四年
2011/03/16(水) 19:57:24.92ID:gzvOI5rw0051人間七七四年
2011/03/16(水) 20:15:03.81ID:PKZjbgZD0052人間七七四年
2011/03/16(水) 20:22:47.36ID:+dgpKevD0053人間七七四年
2011/03/19(土) 12:44:08.62ID:uNThsZ7x0054人間七七四年
2011/03/19(土) 12:50:41.26ID:91uGvhKb0055人間七七四年
2011/03/20(日) 17:27:19.42ID:4izbe+hg0056人間七七四年
2011/03/21(月) 03:03:18.78ID:kbdc6v99こちらは畿内でウワサにならない程度の脅威だったと言える
0057人間七七四年
2011/05/06(金) 15:58:33.62ID:wNExOLB4多分こんなかんじ。
0058人間七七四年
2011/05/07(土) 19:49:31.96ID:fC6xdhlwいまだにこんなこと信じてる奴が戦国板にいるのか。
武田上杉に限らず農繁期でも戦をしてるのに。
井沢・津本は罪深いね。
0059人間七七四年
2011/05/07(土) 20:16:03.84ID:JivGg50H0060人間七七四年
2011/05/07(土) 20:18:19.69ID:EYdKoaqb0061人間七七四年
2011/05/07(土) 21:16:38.66ID:o6sL9VJy0062人間七七四年
2011/05/07(土) 23:55:52.52ID:tM1ox7E70063人間七七四年
2011/05/08(日) 00:06:32.13ID:pOkpFHEx互いに潰しあってくれているわけだからさあ。
だから両方に頭を下げているよね。
0064人間七七四年
2011/05/08(日) 01:44:09.88ID:Qp/mPuqf0065人間七七四年
2011/05/08(日) 18:04:20.64ID:HLFdfCY50066人間七七四年
2011/05/08(日) 18:53:57.75ID:TB7d22eE0067人間七七四年
2011/05/08(日) 23:12:56.28ID:rC4BSDOK0068人間七七四年
2011/05/09(月) 01:35:22.49ID:O/aU8XRM0069人間七七四年
2011/05/09(月) 16:16:18.15ID:s5lMBMlo0070人間七七四年
2011/05/09(月) 19:14:57.60ID:1juxiNlC0071人間七七四年
2011/05/09(月) 20:26:52.25ID:YPoFkR5c織田の全力に何年も耐え忍んだ朝倉に対して
その朝倉の手を借りられずに立ち往生して死んだ人もいれば
織田の一軍を送っただけで逃げる裏切る続出で一瞬にして滅亡した所もあるんだから
0072人間七七四年
2011/05/09(月) 20:43:42.40ID:dRuqKjTy織田の一将に織田家を乗っ取られた馬鹿長ってのもいたな
0073人間七七四年
2011/05/09(月) 20:49:42.74ID:YPoFkR5cつまりこういう事なんだよ
織田の一将>信長親子>>>朝倉>>>>>>>>>>>>セロテープ>>>>>>>>>残り3aくらいの鉛筆>>>>>>>>>>>>>>>武田信玄並びに武田家
0074人間七七四年
2011/05/09(月) 21:40:03.98ID:I/nf+ADj0075人間七七四年
2011/05/09(月) 21:46:11.36ID:dMtaToSr0076人間七七四年
2011/05/09(月) 22:09:08.14ID:SO/V8MIXその理屈だと
朝倉>>>>織田>>>>>>>武田
となるな
0077人間七七四年
2011/05/09(月) 22:13:04.48ID:I/nf+ADj武田>>>>朝倉>>>>>>>織田カス
0078人間七七四年
2011/05/10(火) 08:57:42.53ID:F+jtblqy0079人間七七四年
2011/05/10(火) 09:14:11.34ID:9lkEkGvj0080人間七七四年
2011/05/10(火) 09:56:24.13ID:JH2BJWwO>本願寺フルラウンド判定
>朝倉5ラウンドKO
>武田1ラウンド逃亡
0081人間七七四年
2011/05/10(火) 09:59:04.73ID:4/t8EHjwまあ勝ったそのあとその後遺症ですぐに死んだけどね
0082人間七七四年
2011/05/10(火) 14:22:38.25ID:F+jtblqy武田や朝倉とかゴミすぎワロタwwwこんな大名信望する奴は貴重だから保護してやらないとな
0083人間七七四年
2011/05/20(金) 00:00:11.39ID:XWxCqDgZ毛利・上杉・本願寺と対面しなきゃいけなかった第二次包囲網の方がきつかった。
0084人間七七四年
2011/05/20(金) 09:48:38.06ID:QlKynUP4そんな戦略誰ももってないし
0085人間七七四年
2011/06/05(日) 22:10:17.30ID:5R/LmZqN@朝廷に泣きつく。
A義昭に泣きつく。
B朝倉から敵前逃亡して、美濃で引きこもりになる。
C徳川を見捨てる(後年、この失策を佐久間になすりつける)。
D謙信に、信玄の所業を言いつける。
E家臣にパワハラストレス解消。
さすがは、天下をうかがう信長様、生き残るためには、
なりふり構わない所が素敵です。
0086人間七七四年
2011/06/06(月) 11:16:19.69ID:PIYs+Y/u0087人間七七四年
2011/07/12(火) 10:13:08.26ID:i/IYVuuN足利義昭と六角義堯が考えた策ですが何か?
0088人間七七四年
2011/07/12(火) 19:30:43.50ID:s1AAUao90089人間七七四年
2011/07/14(木) 11:22:13.80ID:2bPsv1fS石山合戦自体が発生しなかったんじゃ?
0090人間七七四年
2011/07/15(金) 15:15:43.87ID:P/Yl3HFk信長自身が意外でびっくりして驚愕してるからなー信長アホ過ぎ。
よくいるんだよ加害側が被害側の気持ちをまったく理解できず
あれは遊びじゃんみたいなパターンが。
アスペルガー信長
0091人間七七四年
2011/07/15(金) 15:41:06.04ID:juxFB3Li0092人間七七四年
2011/07/15(金) 16:08:33.97ID:P/Yl3HFk妻を通じて本願寺とは姻戚関係なのになんでビビる必要あるんだw
0093人間七七四年
2011/07/15(金) 17:46:53.68ID:5j6BV8UB強さの違いではなく、志向の違いで。
謙信は将軍家への忠義を重んじて自家による天下は望んでなかったように思うけど、
信玄はそうではなかったろう。
つか、スレ読んで驚いたが、アンチ信長って沢山いるんだなwwww
0095人間七七四年
2011/07/16(土) 17:48:18.63ID:39BQ7Xce0096人間七七四年
2011/07/16(土) 18:06:13.10ID:39BQ7Xceいくぜ信玄
10 :ダンディー信玄:2008/09/26(金) 20:56:30 ID:p2mqeMC8
ノリノリだな謙信
0097人間七七四年
2011/07/17(日) 19:21:37.94ID:HEIkqf1K0100人間七七四年
2011/07/18(月) 19:26:43.69ID:B0XW34T60101人間七七四年
2011/07/18(月) 20:39:35.00ID:rErzQmAO信長は頭が痛いよなー。
0103人間七七四年
2011/07/19(火) 21:38:27.67ID:3yYF0ILP真面目に信長を倒す気が無いよね。あと3年動きが早ければ。
0104人間七七四年
2011/07/21(木) 12:01:46.49ID:BGkgbtWoその謙信の心に火が付いたのは義昭配下の六角義堯が説得したから。
0105人間七七四年
2011/07/21(木) 18:29:23.15ID:m0tgPcrN朝倉,浅井,伊勢長島ももう少し持ち堪えられたかもしれない
0106人間七七四年
2011/07/21(木) 21:59:51.78ID:BGkgbtWo勝頼の出陣は基本的に毛利からの要望。
しかし毛利は大友が気になり勝頼との約束をほとんど守れてない。
0108人間七七四年
2011/07/22(金) 02:03:30.71ID:42kW20pu謙信の力を借りたいと思うまでは無理だな
0109人間七七四年
2011/07/22(金) 11:28:34.10ID:KwlxMEgU0110人間七七四年
2011/07/26(火) 04:50:25.60ID:lD8x2lvT南部信直
津軽為信
0111人間七七四年
2011/07/26(火) 04:53:47.70ID:4jm5cTbb0112人間七七四年
2011/07/26(火) 08:08:38.71ID:O9YpYheJ0113人間七七四年
2011/07/27(水) 00:13:30.82ID:e7Wy3vx7戦国バサラ見てそう思ったわ
0114人間七七四年
2011/07/27(水) 01:13:09.91ID:AsiOLVjW0115人間七七四年
2011/07/27(水) 16:47:59.08ID:ti07AVoX0116人間七七四年
2011/07/27(水) 19:40:30.26ID:AsiOLVjW0117人間七七四年
2011/08/02(火) 14:21:00.62ID:GlXAgJtVそんなに影響力がある六角氏ってどんな人物?
0118人間七七四年
2011/08/02(火) 17:12:09.58ID:EcXyIfpJ醍醐寺三宝院の義堯や里見義堯の書状だと誤解して断定していて
いまいち分からなかった人物。
義堯は謙信の寵臣で近江出身の河田長親の父を使者に立てて謙信と連絡を取っている。
そして将軍義昭の越後動座を策していたのだが
それを知った毛利が義昭を手放して主導権を失い
毛利傘下に入った国人の離散を懸念し焦って義昭を奉って上洛戦を開始した。
別所や荒木の挙兵にも義堯が関わっていたと言われている。
義堯本人も四国の三好軍を指揮して摂津和泉に上陸して本願寺や紀伊国衆と共同したりしてるなど
近江六角氏正統としてむちゃくちゃ顔が広い外交活動をしていることから六角宗家の六角義秀の子の1人とされ
六角陣代を任されていた義賢親子からも義堯は大本所様と呼ばれ頼られている。
0119人間七七四年
2011/08/05(金) 17:24:05.19ID:aJn50QGX六角義曉は足利氏と親戚だったようですね。
足利幕府の後見人みたいな役割をしていたのでしょうかね。
。
もしかしたら六角氏家臣だった河田長親一族も、最初から六角氏との連絡役として越後に来たのでは!?
(゜゜;)
0120人間七七四年
2011/08/14(日) 23:22:12.59ID:t4uWaff5安土城奉公中に将軍の信長に、武勲の報償に誘われて、嫌々行ってみたんだが、
まず漬物が凄い。トン単位の塩で漬かってる。手土産に持ってった新香をみて「そんな水っぽいものが
食えるか、 打ち首じゃ!」という顔をする。京の者の薄味趣味は我慢できん、みたいな。
絶対、拙者の新香一樽より、信長の漬物500gの方が塩分多い。っつうか、それほぼ塩の塊じゃねえか。
で信長が漬物を勧める。やたら勧める。不良風の豊臣秀吉と明智光秀もこのときばかりは殿様を尊敬。
普段、目もあわせないらしい光秀が「ありがたきき幸せ」とか言ってる。やせ我慢か?畜生、高血圧で氏ね。
酒の盃も悪趣味、まず頭蓋骨。今川義元の首じゃってご満悦。まずお前が飲め。残さず飲め。つうか供養しろ。
で、やたら焼く。比叡山とか残さず焼く。邪魔者はみんな焼き打ちする。聖域とかそんな概念一切ナシ。
ただただ、焼く。焼いて、信長が家臣に取り分ける。俺には回ってこない。畜生。
あらかた片付けた後、「どうした浮かぬ顔をして?」などと、薄汚れた茶器を進呈される。畜生。
で、信長一家、五国くらい制圧した後に、みんなでさっきの頭蓋骨の盃で勝利の美酒を飲む。
「今宵は拙者も相伴に預ります」とか森蘭丸が言う。おまえ、相伴どころか男色の夜伽相手やってるだろ?
お市の方も「ああ、酔っちゃった、あなた素敵ね」とか言う。信長こっち見んな、確実に俺殺される。
千利休が「ホトトギスが鳴きませんな」とか言って、信長が「殺してしまうから大丈夫さ」とか言う。
戦国ジョークの意味がわかんねえ。畜生、何がおかしいんだ、氏ね。
まあ、おまえら、信長公に安土城に誘われたら、要注意ってこった。
0121人間七七四年
2011/08/16(火) 17:10:55.14ID:+xDQsrS10122人間七七四年
2011/08/19(金) 11:36:44.86ID:WWlfHKes実は上総介だったと気が付いた時の恥ずかしい信長
上総介と自称し直してたら今川氏真が上総介に任官された時の
ものすごい屈辱感の信長
(永禄4年1月20日の足利義輝御内書では氏真が「上総介」と呼ばれている)
0123人間七七四年
2011/08/24(水) 20:45:48.76ID:e+RySwbR0124人間七七四年
2011/10/01(土) 09:22:03.95ID:Wn8Qzmbf信玄には通用しなさそうだから信玄かな
0125人間七七四年
2011/11/02(水) 10:15:34.57ID:RoKb08WA信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢を安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
0127人間七七四年
2011/11/04(金) 01:01:47.37ID:J14S+MFLわけわからん
尾張の弱小大名だったころはみんな怖かっただろうし
0128人間七七四年
2011/11/04(金) 08:30:37.91ID:ULnQVOGuまだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
0129人間七七四年
2011/11/04(金) 08:55:39.44ID:yClqZPnlこれはひどいニワカ歴史オタク
家康の家臣が惨めな生活送りながら家康の為に蓄財してたとか
謙信は最初から越後一国持ってたとかと同レベル
0130人間七七四年
2011/11/04(金) 09:16:45.07ID:ULnQVOGu0131人間七七四年
2011/11/04(金) 10:04:50.26ID:T+q1+INK0132人間七七四年
2011/11/04(金) 11:16:37.61ID:/kH+hJel懲りないヤツだな。
0135人間七七四年
2011/11/05(土) 13:04:50.17ID:sxdyxd5/だいぶ後になってから書かれてるよね。
なんせ塙直政の一族に信長が酷いことしたことから
わざと塙直政の活躍をほとんど公記は書かないようにしてる。
義昭との調停では塙は眼病を押してまで交渉したりして苦労してんのに。
0136人間七七四年
2011/11/05(土) 23:02:37.08ID:UpGVVV5k登場数が少ない武将はマイナーで不憫。
太田の好きキライや
金をいくら太田に払ったかに左右される。
0137人間七七四年
2011/11/06(日) 09:01:05.92ID:KgK1uWZ7信玄公は敵対されロックオンされた時点で最強の恐怖
0138人間七七四年
2011/11/06(日) 09:39:04.48ID:7I+cZwYv七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の幼君畠山義春を養子に迎えた。
織田の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだから城が落ちてしまい織田は撤兵したと捏造。
0139人間七七四年
2011/11/06(日) 19:46:46.22ID:sLp3NghYそれをはっきりと示す史料はないよね?
もしあったとしても江戸中期頃から出てくる小説だったりして?
0140人間七七四年
2011/11/06(日) 20:17:13.44ID:7pDVTaqc是非は兎も角として
0141人間七七四年
2011/11/06(日) 21:50:48.49ID:MJcCWS5i二正面作戦は愚の骨頂だから
0142人間七七四年
2011/11/06(日) 23:27:43.52ID:VjTgW9mB信長にとって最優先すべきなのは経済文化の中心地で鉄砲生産地がいくつもある畿内の制圧
それをやらずして信濃や北陸に侵攻するのは愚の骨頂
0143人間七七四年
2011/11/07(月) 00:20:59.52ID:vGiWniPGあちこちで戦うバカが信長
0144人間七七四年
2011/11/07(月) 01:24:24.11ID:zCsbLmWhhttp://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1320596086/
0145人間七七四年
2011/11/07(月) 01:30:58.40ID:DSANaRw30146人間七七四年
2011/11/07(月) 01:43:46.18ID:DSANaRw30147人間七七四年
2011/11/07(月) 12:33:55.69ID:WbOS3hPdよっぽど恐怖だったんだな。
0148人間七七四年
2011/11/07(月) 13:36:39.85ID:eHXAaDYA信長って裁判官としての意識が人一倍強かった人じゃないか?
0149人間七七四年
2011/11/07(月) 13:40:35.56ID:xl7Yikwg例えば誰?一次史料と一緒に数人挙げてください。
0150人間七七四年
2011/11/07(月) 14:38:59.32ID:31p6ue/D武田が川中島で崩壊寸前まで追い込まれてるんだから
戦闘だけなら謙信>信玄みたいな当時の評価だったんじゃないの?
後北条はその信玄に小田原城下焼かれた挙句その帰り道でフルボッコにされてるし
織田は徳川が武田に圧倒されてるんだから当然脅威に感じるだろうし
0151人間七七四年
2011/11/07(月) 17:53:41.46ID:/Rxzhr0J0156人間七七四年
2011/11/09(水) 13:52:21.04ID:wCpGVWoZ戦国大名がどんなに強くても、あいつらは近代兵器を動かして戦う事は出来んし、
現代の指揮官や兵士達もハイテク兵器が無ければ弱体化する奴も多そうだしな。
戦争とは無縁の平和な自然界で生きていた人間が実は最強だった可能性もあるしな。
0158人間七七四年
2011/11/09(水) 19:21:44.31ID:we/6OeI1というよりはどちらも。と言うべきなんだろうな
でもどっちかと言えば武田かな?
締結した条約とかガン無視して攻めてくるしw
それにカチ切れたノブの書状とかも有ったはず
0159人間七七四年
2011/11/09(水) 19:32:00.55ID:pCfKu/Weいままで武田が味方だったからこそ西で好き勝手できたわけだし
織田のような非道な奴は盟約切られてもしかたない
0160人間七七四年
2011/11/09(水) 19:32:22.69ID:zcMVAo19信玄は条約やぶりの常習犯だったんだよな
そら信用もされんて
0161人間七七四年
2011/11/09(水) 19:36:06.73ID:pCfKu/We0162人間七七四年
2011/11/09(水) 19:43:25.15ID:pCfKu/We同盟の本願寺と敵対してるんだから
その段階で織田は武田にいつ攻められてもしかたない 僕を攻めないで!とお願いしてたんだろw
しかも同盟国徳川にたったの三千しか援軍を送らないビビリぶり
0163人間七七四年
2011/11/09(水) 19:51:28.40ID:zcMVAo19基本的に条約を破られて負ける
河野島、金ヶ崎なんかが顕著かな
0164人間七七四年
2011/11/09(水) 19:56:10.68ID:61bfqqVk0165人間七七四年
2011/11/09(水) 19:59:38.92ID:we/6OeI1一時の利と先々の信用は慎重に天秤にかけるべきだった
破竹の勢いが永遠に続くと思っていたかの如く振る舞った信玄の武田家は
その信玄が撒いた様々な種のせいで身を滅ぼした
0166人間七七四年
2011/11/09(水) 20:22:15.88ID:61bfqqVk0167人間七七四年
2011/11/09(水) 20:30:54.68ID:ZSus5p0Q0168人間七七四年
2011/11/09(水) 20:35:38.13ID:61bfqqVk0169人間七七四年
2011/11/09(水) 21:08:21.33ID:mPQZbDGa信玄も謙信も信長とは距離的に遠くて、しかも彼らには補給の概念がない。
しばらくすれば引返していくしかない。
だから信長は家康にも「挑発に乗って戦すんなよ〜 彼らはいずれ帰っていくから〜」
って言っていたのに、挑発に乗っちゃった家康君。
0170人間七七四年
2011/11/09(水) 21:34:00.83ID:5kKiDeuG北条、武田、上杉が今川に内緒で同盟を組みそうだと探知し、
あせった今川が上杉と同盟しようとしたから
それを対武田軍事同盟だろゴラって武田が今川を攻めた。
はっきり言って北条も同罪だから
北条が怒る意味がわからん。
0171人間七七四年
2011/11/09(水) 21:37:17.07ID:5kKiDeuG補給の概念がないのは織田。
織田は現地調達と脅迫状による現地要求が基本
0172人間七七四年
2011/11/09(水) 21:46:01.84ID:FC2HNREP兵農分離の先進的な組織、
補給や装備も近世並だった。
今は研究が進んで、全部否定されてる。
0173人間七七四年
2011/11/09(水) 21:49:05.98ID:zcMVAo19徳川→毎回援軍に行ってる(間に合ってないだけ)
佐久間→部下に条約?頭大丈夫?
信長は条約を相手に「破らせる」んであって基本的に自分からはまず破らん
0174人間七七四年
2011/11/09(水) 21:58:22.17ID:61bfqqVk長宗我部も佐久間も信長が約束を破っている。
十河と勝手に和睦した時点で同盟破り。
家康は信玄を裏切って、北条、今川と共に信玄を攻めている。
そもそも同盟破りとか侍とかいう概念が、後世の軍記物に影響されすぎだと思う。
0175人間七七四年
2011/11/09(水) 23:10:48.60ID:qNViWZV8少なくとも武田上杉よりは装備は良かったと思うぞ?
だいいち鉄砲の保有数が違う
武田が織田並の鉄砲持っていたら長篠であんなことになっとらん
0176人間七七四年
2011/11/09(水) 23:44:13.79ID:ZSus5p0Qそれは無い
脅威は脅威
ただその脅威というのは信玄やら謙信やらの個人に帰するものではなくて、大規模な勢力が敵に回って挟撃の形になることへの脅威
>>174
佐久間への折檻状に、武者道とある
0177人間七七四年
2011/11/10(木) 00:16:51.75ID:A11io9P7不思議なのは当時の鉄屑に等しい弾はともかく、どこからそんな大量の火薬を手に入れたんだろう?
もし長篠合戦が物の本の記述通りだとしたら夥しい弾と火薬が必要な訳だ
織田家ってそんなに裕福だったっけ?
0179人間七七四年
2011/11/10(木) 06:19:25.20ID:KEWEV5Xt裕福かどうかは眉唾かもしれんが
今のところは、裕福だったから尾張・美濃と取れたことになってんじゃね?
大陸に面して、港としても使えなくない場所を有したであろう越後の上杉に比して
裕福だったか?ってのは疑問だがな。
それと甲州金を持つ甲斐にしても、尾張より貧しいって言い切れるものか?
0180人間七七四年
2011/11/10(木) 08:24:59.86ID:e2+b2WlS収入が大きかったのも一つだと思う。
0181人間七七四年
2011/11/10(木) 08:44:23.55ID:NXRx9UJD北条の阿呆はボンクラ氏真ならいずれ国を奪えるとでも思ってたんだろう
それを強引に横取りされたからヒステリー起こして氏康は死んだ・・・
0182人間七七四年
2011/11/10(木) 13:35:38.86ID:WYIQ0YqK光秀>>>>顕如>>>>義元>>>>>義昭>>>義影・長政>>>謙信・信玄だと思う。
謙信や信玄が信長に対して与えたダメージはでかくない。
信長と戦った回数は両者とも数回だけ、おまけに後継者は信長に押されまくりで役立たず。
0183人間七七四年
2011/11/10(木) 14:02:10.49ID:96/Xh95t越後発の朱印船の記録は無かったような
金山の産出量は最盛期の佐渡で小判約四万両、筋金三十貫
甲斐のそれが佐渡の金山よりあったかどうか微妙だし、またその徴収権力も幕府のそれに比べて脆弱
と、すれば甲斐の金山で武田が手にするものはもっと少ないと思う
何分信玄時代の産出量なんて記録無いからな
長崎の運上銀が多い時で約銀四千貫
有名な信長の父親の朝廷献金が銭四千貫だっけ
献金が年間の黒字だけで賄えたとも思えないが
織田の経済政策で畿内が動揺したし、相当影響力を及ぼすほどの経済力があるんだろう
武田上杉のそういうのってあったっけ?
0184人間七七四年
2011/11/10(木) 14:08:41.03ID:rPJM22Stダントツで義元だろうな。この頃はもう敗戦スレスレもいいとこで
信長自身もあれはマグレみたいな言い回ししてる
0185人間七七四年
2011/11/10(木) 14:58:46.01ID:YwNA6m/E2.義元(本人がマグレと発言)
3.義景<志賀の陣>(敗北に近い和睦)
4.本願寺(大けが)
5.美濃攻め(敗戦アリ)
6.尾張統一戦(いつもがクライマックス)
順位付けるとこんな所だろ、信長の危機って
武田の条約破りで危険だったのは家康だけだし、謙信の手取川だって負けたのは配下の柴田で決戦まで至ってない
0186人間七七四年
2011/11/10(木) 16:04:25.38ID:EowG8MJIワシあの人嫌いやねん。
善人ズラして民を悪に引きずり込む、たち悪い左派の典型みたい。
0187人間七七四年
2011/11/10(木) 16:32:00.05ID:rPJM22St0188人間七七四年
2011/11/10(木) 16:42:46.79ID:4WxZHlQHいかに屁理屈と捏造で武田上杉を過小評価しようと躍起になってて。
脅威じゃないよ!意識してないよ!
と躍起になって否定する消防だな。
0189人間七七四年
2011/11/10(木) 17:12:30.04ID:NXRx9UJD0190人間七七四年
2011/11/10(木) 17:24:23.55ID:YwNA6m/E( ´,_ゝ`)プッ
0191人間七七四年
2011/11/10(木) 19:50:07.47ID:thsGREzj信玄が家康攻めた時も、謙信が柴田と衝突したときも
背後の信長にビビってたのか凄い中途半端な動きしてる
よほど信長と戦いたくなかったんだろうな。
0192人間七七四年
2011/11/10(木) 22:41:19.80ID:IcUnnVdt天王寺の戦いだけでも数千挺の鉄砲を保有していたんだぞ?
軍事力では明らかに武田や上杉を超えている
0193人間七七四年
2011/11/10(木) 23:36:22.05ID:pkX+0HlC0194人間七七四年
2011/11/11(金) 01:33:24.88ID:Nin2nT3Dもし畿内の勢力だったら血みどろの戦になってたんじゃないか?
まぁどれも所詮結果論よな
0195人間七七四年
2011/11/11(金) 05:04:37.71ID:GcG96WRTもし、畿内に続くルート上に信玄・謙信がいて
それぞれの厨が言い立てる程有能なら
信長が何かをなすまでもなく、信玄・謙信の連合幕府が出来てる。
戦争大好き勢力が越前にいたり、自称最強騎馬軍団が美濃にいて上洛しない訳が無いだろ
0196人間七七四年
2011/11/14(月) 05:38:13.79ID:ysGLKdvoあんな周囲を大名クラスの勢力に囲まれといて信玄が攻略できるわけもない。
信濃豪族相手に10年もかかった男だからな
0197人間七七四年
2011/11/15(火) 23:13:30.77ID:XI2kWsCi0198人間七七四年
2011/11/17(木) 20:19:47.40ID:mWMGQS2V義龍が生きてる間は一回も勝てなかったし・・・
美濃攻めで人生の半分費やしてるわけだし
0199人間七七四年
2011/11/18(金) 03:49:30.42ID:fUFUo62qあれ前から不思議なんだけどさ
道三対面が前後の関係から高校生ぐらいの時
だわなぁ。
当時の鉄砲が製造注文か既製品かしらんが何百と
入手するにはマジでガキンチョのうちに注文しんといかんわな。
いくらなんでも貴重品以前にその価値をわかってたのか信長。
数挺試しに購入ならわかるがありえんわな。
だからあのあたりは牛一が後からつい筆が滑ったというよい
証拠みたいにはなってると思う。
信玄も謙信も信長にとってかなり絶好のタイミングで死んでくれてて
その点は運がいいわな。信玄なんてもう数ヶ月生きてたら信長も
大変だったろう。どっちが強いじゃなくて強いものにはへつらってしまう
義昭が副将軍に任命するぐらいは平気でしそうだし美濃のうつけで
終わってたかもしれん。
信長ー家康と対等以上に渡り合った信玄はある意味すごいわな。
0200喃※浣
2011/11/18(金) 08:27:23.62ID:j62C3YtS大友は千丁を超す銃撃戦やってるし
雑賀根来じゃ数千丁もって傭兵やってるし
武田信玄でさえ城の応援に400丁鉄砲を送ったし
金さえ持ってれば500丁はありえなくもないだろう
0201人間七七四年
2011/11/18(金) 09:50:05.92ID:ATuljyzi那古野城主のガキンチョの趣味だからな。
元服式をやった古渡城の城主に移動してた可能性はあるが。
しかもかなりの大資金が無いと
その鉄砲を運用する火薬備蓄もできない。
まあ朝廷献金額が圧倒的ぶっちぎり日本一の信秀のガキのお小遣いだからな。
あの貿易でボロ儲けしていた
大内義隆の全2回の献金額を足しても余裕で信秀が1位献金額だし。
日本一裕福だったのは間違いなく尾張。
0202人間七七四年
2011/11/18(金) 11:59:07.02ID:dHnch67E1556年 4月 長良川の戦い、道三討ち死に
義龍、退却する信長軍を追撃するが、信長軍は無事退却
9月 稲生の戦い(柴田勝家・林秀貞vs信長)、信長勝利
義龍、織田信広に信長を謀殺させようとするが、信長に見抜かれて失敗
1557年 11月 信長、信行を謀殺
1558年 浮野の戦い(織田信賢vs信長)、信長勝利
1559年 義龍、六角氏と結んで浅井久政と戦う
信長、守護を追放して尾張統一
1560年 5月 桶狭間の戦い
1561年 5月 義龍死亡
正直ろくに戦ってないのでなんとも言えん。
0204人間七七四年
2011/11/18(金) 12:41:43.28ID:ivvhjxQM信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
0205人間七七四年
2011/11/18(金) 12:56:24.44ID:ivvhjxQM首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは太田本人の自筆本が無く後世に別人の創作である。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりとデタラメ。
一次史料には存在が認められない桶狭間の戦いの信憑性などたかがこのレベル。
尊経閣文庫蔵織田記(信長記)
首巻が改変されている。天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000討ち死とするなど、すぐに三河遠征に出かける信秀の動きからありえない数字を書いている。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の信長記の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。長篠での発掘作業で鉛玉が発掘されないことから
三段討ちも否定されているように、実際には鉄砲数は少なかったことが証明される。
信長公記に書かれている斎藤義龍が范可と署名した時期がおかしい。
また范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった
経歴を持つとの事を書いているがそんな人物は唐はおろか史記など
過去に遡っても見当たらない完全な捏造話である。
0206人間七七四年
2011/11/18(金) 16:01:58.38ID:mhXWuYnYこれはどこまで事実なんだろう。実際に使われたのかな。
信長もそうで対面時に数百持ってたのなら桶狭間ではどうして
豪快に使わなかったのだろう。
こういうことから意外と実数は少なかったかも。
鉄砲屋さんは数百注文受けたとか記録もあるが
そのうち不良品なんかも多かったろう。だから所持はしていても
意外と実戦には使えなかったというのもよく聞く話。
数の話はどうもかなり誇張があるような。
織田が金持ちなのは間違いないが献金額に関しては
朝廷に対する「考え方」というのも左右してるだろうか。
武田や今川は金山持ってるし献金が多いから日本一と
直結させると少しあれかもしれない。
弓鉄砲500は「あわせて」という解釈もなされてるし
お金もちかどうかもだけどあの時点で威力なんかをちゃんとわかってたのか
というのがより不思議な気がする。いかにも「後からこじつけた」例とも
言えるんだよね。
0207人間七七四年
2011/11/18(金) 17:20:26.44ID:ivvhjxQM紀州攻めで信長勝利のデタラメw
高野山は畿内を中心に全国で17万石を超える所領を持ってて織田から逃げ出した荒木を匿ってた。
高野山と織田は大和国宇陀郡などでの領有権で争っていたこともあり各地で衝突や紛争を指示してた。
これらが長期化しついに織田による高野山攻めが開始されるも織田は敗退が続き
本能寺の変まで粘りきった。
高野山側から上杉景勝に宛てて
本能寺の変まで山内に織田を侵入させなかったと書状も出しており
この時期の祖父信長との戦いをネタに関ヶ原後に改易され高野山に追放された孫の織田秀信は
高野山側から迫害され続けられた挙げ句に追放され野垂れ死んだとも言われる。
0208人間七七四年
2011/11/18(金) 19:01:05.85ID:ivvhjxQMお前がwikiを読んでるだけで信長公記をまったく読まずにケチつけてるのがはっきりわかった。
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ。
0209人間七七四年
2011/11/19(土) 05:29:28.02ID:BzET3CAx一般的に知られてる状況として桶狭間は雨だったからだろ?
それに当時の鉄砲は相手の瞳がハッキリ見えるまで引き付けないと
鎧は抜けないような代物だし、そこに視界の悪い雨、火薬の湿気る雨
そりゃ使えん
桶狭間時に持っていた前提での擁護はこんなもんか
0210人間七七四年
2011/11/19(土) 09:36:58.70ID:Wt3lEaYq雨って通り雨だから関係ないんじゃね?
「空晴るをご覧じ」だから突撃したのも雨がやんでから。
火種確保しておけば十分に使えるだろね。
それと義元が視認出来るぐらい近くにいたわけだから
最初は矢をいかえるにしても十分近くで使用可能でしょ。
それになんといっても、そんな使い勝手の悪い鉄砲を
どうして何百も大量に持ってたんだ?
行進の時にもってて戦で使えんでは「鉄砲の威力に
最初に気づいた」ってのもなぁ。
買ってみたら案外使い勝手が悪かった、なんてのも単にアホだし。
マジレスに戻るが国友の信長からの注文が天正18年として
信長は中学生、信秀生きてたし普通はリッチな父が注文するだろう。
買ってはみたが使えないから8年間練習、生死のかかった桶狭間でも
まだ使えない、そっからさらに8年練習、姉川でやっと使えた、でも十一段
破られて徳川に助けてもらった、ではアホの子じゃないか信長・・
0211人間七七四年
2011/11/19(土) 10:10:36.73ID:Z1ny/Hlw義元は永禄元年に家督を氏真に譲って隠居してるのも体調不良からと言われてるし、
発給文書も氏真が出してる。
実はその後に病死したのを隠蔽してた可能性もあり
(信玄と同じ)
永禄3年に桶狭間の戦いで死んだ話も怪しいんだよな。
0212人間七七四年
2011/11/19(土) 16:51:27.49ID:Wt3lEaYqあまり聞かないが斬新だな。もう少し詳しく。
0213人間七七四年
2011/11/19(土) 18:28:29.46ID:hXwX0FVz信玄と勝頼の両者の署名入り書状が出されたりしてるんだよね。
当主が死ぬということは、それだけ家中の動揺と離反の恐れが
あると言うことでしょう。
桶狭間の戦いが一次史料から証明できない。
当主が病死しただけで、実はそんな戦が発生してないと思われる同様の話が下記。
(上杉朝定が討死したと言う川越夜戦も証明不明)
(武田元繁が討死したと言う有田中井手の戦いも証明不明)
いずれも当主が討死するほどの
大規模かつ歴史的大事件のはずなのに
まったく一次史料上でそんな驚愕の事実を証明できるものが皆無。
0214人間七七四年
2011/11/19(土) 18:47:01.11ID:+EC0CEQC0215人間七七四年
2011/11/19(土) 21:50:30.21ID:scbvgryI自刃を除いて身分の高い大将を討ち取ることはあり得ない。
礼を尽くして捕虜となしても、
武士の作法として
執り成しが行われ追放または
剃髪して出家で許される(斯波義達や土岐頼芸など)
戦場で抵抗して身分の低い者に殺されるのはおかしい。
0216人間七七四年
2011/11/19(土) 23:33:26.50ID:Wt3lEaYqってことね。
だったかなぁ。
0217人間七七四年
2011/11/20(日) 11:42:08.43ID:MHlhfLI4公記の執筆者は当時の慣習を理解していないまま
慶長期においての常識で書いてる可能性がある。
自分の主君を「信長」と呼び捨て
畿内で覇権を打ち立てた頃になり「信長公」と書いている。
このように諱を避けることをまったくやっておらず
無礼この上ない呼称を使用。
あからさまにおかしい。
そもそも織田家臣では無いのではないか?
それとも慶長期の信長は旧家臣からも
呼び捨てにされるレベルまで貶められていた証拠。
どんだけ遺徳が無いどころか嫌われていたんだって言うw
利家って信長が死んだのを知り魚津から撤兵してた途中の
放生津でみんなで宴会して楽しんでるし、
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも
利家は拒否し、どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。
実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。
0218人間七七四年
2011/11/20(日) 11:43:45.09ID:UzkZZ1oN0219人間七七四年
2011/11/20(日) 13:28:00.97ID:MHlhfLI4公記曰く
信長御憑み御請の事
義昭が信長をひとえに頼み入れられたきの趣を仰せ出され、
既に国をへだて其の上にも信長沽弱の士なりと言えども
天下の忠功を致さんと欲せられ一命を軽じ信長はお受なさった。
永禄11年7/25越前へ御迎へ。
などと公記に書いてあるが実際にはその前から義昭は信長を頼りにしていたが
信長がヘタレ過ぎて半ば、呆れていた件w
永禄8年から計画された義昭の上洛作戦の主導者の箕作城の六角宗房が
武田が美濃を攻めないように協力を申し出、
「阿波から将軍の座を目指して足利義親が上洛する前に
覚慶(義昭)が家督継承宣言させないとダメ。紀伊の根来衆にも話をつけた」
と細川配下の薬師寺に書状を出してる。
一色・細川は清水寺に禁制を与えるなど京の寺院掌握に動き出し、
義昭は近江矢島に拠点を移動し、いよいよ上洛を目前に控えつつ永禄9年を迎えた。
すでに能登の畠山義綱・大和の十市遠勝も出陣準備を整え、
2年前に岐阜城を家臣竹中にパクられた斉藤龍興も公方様の上洛に協力しなければ
罪状を受けることを恐れて細川に誓詞を出している。
三河・尾張・美濃・近江・伊勢の軍勢で上洛戦開始を8/22の信長出陣に合わせよと遠勝に命じていた。
しかしビビった信長が寸前になって、やっぱり辞めようと言い出す。
これを聞き龍興(15歳)が信長はヘタレwと嘲笑するや、逆ギレした信長が8/29に美濃へ攻め込み
閏8月夜に斉藤軍に大敗するカッコ悪さ。
結局、三好軍に襲撃された義昭は朝倉を頼りに北陸へ出発。
永禄11年2月には足利義栄が将軍に就任してしまい
ヘタレ信長がまさかの逆切れで斉藤攻めを開始し六角氏の計画が崩壊した。
さらに今度は天皇まで上洛の要請を信長にしてくるまで上洛を決意できずビビり続けた信長・・・
0220人間七七四年
2011/11/20(日) 16:26:39.18ID:d7fD+WBX太田は秀吉家臣になっており徳川期に各家の求めで
再編集した時点では立場は複雑になってる。
呼称というよりは一種の記号と思ったほうがいいだろう。
家康ですら呼び捨てにしてることもある。
義昭が信長をヘタレと思ってたのには同意だが
義昭にはお手紙攻撃しかないし各大名も義昭を「恐れた」
とか「臣従しようとした」とかはなかなか言えないだろう。
この頃はお互いが利用し合う段階で情勢も混乱してる。
どこぞのお坊っちゃんの要請なんぞマジで受け取るやつなんていない。
公方様の上洛どころか「こっちが公方様にしてやるんだぞ、坊っちゃん」
ってなもんだろう。
0221人間七七四年
2011/11/20(日) 17:57:33.59ID:2NcSBASV子孫のために家訓書として記した三河物語
(同時代一次史料と合致する部分がかなり多く、
多くの学術書の出典先とされ良質な史料として評価されている)
三河物語において
「信長記はウソばかりだ。まぁ1/3は存在した話だが、
1/3は似たような話を引用。1/3は完全にウソ。
こんなんじゃ書いた人間には知恵が無いも同然。
だから信長記はウソだらけと評判になった」と記している。
0223人間七七四年
2011/11/20(日) 19:29:28.21ID:mImF5+b8なんのことを「火種を確保」って言ってるのか分からんが、当時の火縄銃は湿気が多いだけでも不発したりするぞ。
>信長は中学生、信秀生きてたし普通はリッチな父が注文するだろう。
信長はすでに元服した武将ですよ。
>そんな使い勝手の悪い鉄砲を
>どうして何百も大量に持ってたんだ?
鉄砲の性能については今さら説明するまでもなし。
>姉川でやっと使えた、でも十一段
>破られて徳川に助けてもらった
それ作り話だから。
0226人間七七四年
2011/11/20(日) 23:18:50.21ID:kf+hlsz4違うよ
違うのは「牛一信長記」って所だけど
彼が書いたのは特別に「信長公記」と別扱いで、まごうことなき一次史料です
どっかのデンパが色々言ってるけど、だがっていうデンパだから無視していいよ
0227人間七七四年
2011/11/21(月) 00:19:53.29ID:ihnqvo5sだからそんな不発だらけの火縄銃を何百も持ってたというのが
疑問と言ってるんだが。
元服しようがなんだろうが天文十八年の前に注文してたら信長は
今で言う中学生だと言ってるだが。
十一段破られた話は織豊の研究家は採用しないが
例えば長篠でどうして織田は追撃しなかったか、姉川もそうだが
これがうまく説明できない。
100%つくり話だ、と切り捨てる根拠を各記録の信憑性ではなく
前後の整合性から説明できるのか。
後生の記録だから作り話、と言うのは歴史学科の初歩レベルと思うが。
0228人間七七四年
2011/11/21(月) 00:25:26.44ID:ihnqvo5sこれ自体が「あやふや」で一次史料と使ってるのは
巷の3流研究家だぞ、牛一自筆と言われる伝来本でも
今は研究中なんだが。
藤本ー鈴木レベルでの話ならどうでもいいんだけどさ。
0229人間七七四年
2011/11/21(月) 12:37:42.52ID:9Z3+hQxR多くの学術書の出典先とされ良質な史料であって
誰も一次史料なんて書いて無い。
お前の目は大丈夫か?
つうかお前こそ読んでないから「あやふや」だとする
根拠としての具体例を一切書けないんだろ?
牛一自筆の研究中って言うよりも
金子拓・横山住雄・谷口克広・和田裕弘・岡田正人・
高木叙子・竹本千鶴・松田之利・土山公仁などが先頭にたって
多くの信長記の保存先に頼んで見せてもらい、
世間一般にも呼びかけて信長の一次史料を
苦労しながら収集してる状態。
いまの計画だと平成25年3月までに有る程度の結果を出す予定。
信長の文書は極端に少ないだけでなく、織田家自体が文書類発給が伝統的に少ない。
大日本史料などで編纂される上杉や島津や毛利などの大量文書が無いから
やっと信長についての収集が開始されたばかり。
いままでの信長研究なんて子供の遊びレベルで
90年代の信長革命児マンセーの妄想の残照でしかない。
本格的な文書研究にも至ってない状態。
0230人間七七四年
2011/11/21(月) 13:30:01.52ID:maosAjfCあと織田家全体の文書類はかなり多いぞ
領土の広さの割には少ない方だとは思うが
それでも単純な量なら同時代でもトップクラスだ。
信長の文書は極端に少ないだけというがそれじゃあ他の武将はどうなんだ?
前にも信長の文書は少ないと言った連中はいたがそういった人間は
武田家中武田領国全体の文書、北条家中北条領国全体での文書と、
信長の出した文書を比べて、信長は少ないとか騒いでいたが。
0231人間七七四年
2011/11/22(火) 03:22:14.58ID:t17jV5Vc信玄も
みんな徳川家康の作り話
0232人間七七四年
2011/11/22(火) 09:32:55.82ID:5/UUmGJv江戸時代に講談で人気を博した架空の武将
実際に天下統一の足掛かりを作ったのは上杉謙信だと当時の一級資料に書かれてる
ただ徳川幕府は上杉家との犬猿の仲だったから、江戸期に講談師に命じて天下統一は架空の天才的な武将織田信長が達成したとデマを流させた
これは事実か分からないが、天海がそれを家康に提言したらしいな
0233人間七七四年
2011/11/22(火) 09:36:21.14ID:vwd165Si本格的な研究は過去にはない、というのは何か新史料が出たときに
自分たちが「一番である」といいたいがための前振りだろうし
都合の悪い史料が出たときにもそうやって言い訳できる。
遊びレベルというのは何に対しての言い方か知らないが
今まで見つかったものを採用してその時点では最善を
尽くしているだろう。
数が多い少ないというのを指して「遊び」というのか
研究自体を指して「遊び」というのか。
本格的な研究なんていつの時点でも「今後見つかることを考えれば
まだまだである」とも言えるし結局何がいいたいのかわからん。
金子たちが「今までは遊び」と言ってるとしたらそれは少し
どうかとは思う。
金子本は予算獲得のための「すごいんだぞ」という前振りで
25年になって「とりあえずこれだけ集まった」「研究はこれから」と
さらなる予算獲得を狙ってる目的にしか思えない。
本人もそういう感じで言ってるしね。
本格研究なんて彼らの言からしたら永久にこないかもしれないなぁ。
0234人間七七四年
2011/11/22(火) 10:24:22.58ID:f/IRvYkk東大の家わけ文書の上杉や毛利や島津家文書を同列にならべるとか本気でバカだろ…
0235人間七七四年
2011/11/22(火) 10:36:58.57ID:onupTXyB0238人間七七四年
2011/11/22(火) 19:55:18.11ID:aBK5WX1u捏造なんて言ってないからさ、おちついてくれ。
あのへんの仲良し専門家は秀吉の方でも
予算獲得してるけど「うれしい」「良かった」って言ってるぞ。
これと同根かどうかは別だがその姿勢については
ベテラン専門家から苦言も出てたしね。
この時代ではあまりないかもしれないが古代史だと
発掘の関係で「予算ほしい」なんて普通に語られてたりする。
別に悪いことじゃないし深く研究するためには当然だろう。
金子本は結局「ここまでわかったぞ」という経過報告で
それが何を意味するかという「研究段階」まで踏み込んでない。
だからわざわざ出版するような内容でもない。
なのに途中経過を報告するというのは普通は何を意味するか
わかるよね。
0239人間七七四年
2011/11/22(火) 22:45:47.67ID:6YciGEb325年3月に上巻を出版するし
研究はこれからも何も
26年3月に下巻出版だから
タイムスケジュールもすでに決定済みだアホ
こんな有名なことも知らんから
織田厨は無知で妄想を根拠に反論するバカばかりと言われるんだわ。
0241人間七七四年
2011/11/22(火) 23:49:10.46ID:aBK5WX1uどうするんかね。
予定ってのはそれこそ予算の関係で発表しないといけないから
そう言ってるわけだけどわかるよね。
有名も何も「義務」みたいなもんなんだが。
だから25予定はもうそろそろ締切ってとこで今のとこ
発見ニュース出てないからまず「特に発見はなかったが進展はあった」
だろう。そして26で「これからの課題と研究」が提示されるってとこだよ。
これはどのジャンルでもそうだからね。
なんかタイムスケジュールとか決定済ってのはまさに
「予算のため」と言ってもいいぐらいだから妄想も根拠もないと思うが。
そして「公金使って学問的進展が見られなかった」らどうなるかは
わかるよね。
「旧家の協力が得られなかった」ですむと思ったら甘いぞ。
こっちは予算降りる前から事前に「こ〜いうことします」って
言われて期待してきたんだからね。
こないだの金子本でも冒頭にちゃんと言い訳してあったでしょ。
まさかあの本見て「学問的に優れた内容」なんて言わないよね。
ちなみに岐阜の発掘はかなりの成果を上げてる。たぶんいざという時は
そちらに関連させるだろう。金子はそっちとも仲良しだからね。
バカとか妄想とかじゃなくて、今回の公記調査で優れた点
新発見新事実新解釈そういう観点からレス頼むよ。
0242人間七七四年
2011/11/23(水) 00:29:32.91ID:YvL+q4gFあんな中途半端な収集じゃ話にならんよ。
まあ量が少なすぎて、武田や上杉や徳川や北条や毛利の研究者に較べて
織田研究者自体がかなり少ない理由でもあるんだがな。
やっぱり書状史料がたくさんあるトコに研究者が集まる。
おかげで織田研究とは名ばかりに妄想込みで信長の将来の政権構想やら
将来の天皇への扱いとか馬鹿馬鹿しい歴史作家みたいなヤツらばっかになってしまった。
>>241
おいおい金子だけでなく
横山住雄・谷口克広・和田裕弘・岡田正人・
高木叙子・竹本千鶴・松田之利・土山公仁らも参加してるんだがw
このメンバーが編集してるから、良いものが完成するのは間違いない。
SF作家紛いのアホ信長研究家も参加してないし。
0243人間七七四年
2011/11/23(水) 00:48:29.53ID:JVq1Xlmr文書量の多寡はどうしようもないだろ
しかもそれで文書集の価値を判断って
過去にもいたけどな、武田は文書が多いから偉い有能だ!って
中身の検討せずにな
そいつらと変わらないじゃんお前
0244人間七七四年
2011/11/23(水) 04:32:40.60ID:YvL+q4gF内政や統治に積極的に尽くしている顕れだから仕方が無い。
そして奉書式朱印状など次第に形式化されていく。
さらに領国が拡大すればするほど、文書は比例して多くなる。
北条や武田などはまさにそう。
研究者も研究する資料に事欠かない。
しかし信長の場合はそういう変化もない。
斉藤道三も発給文書があまり無いために内政を放置し結果、謀反を呼んだと指摘されているし。
0245人間七七四年
2011/11/23(水) 08:12:27.90ID:JVq1Xlmr発給した文書の全部が全部のこってりゃな
お前の話はそういう前提に立ってるが、どれだけ無意味な前提か理解してるか?
0246人間七七四年
2011/11/23(水) 08:29:06.22ID:D3OI4V0P今のところ何も新発見、重要な発見はないんでしょう。
だったら何を根拠に「間違いない」と言ってるのだろう。
単にアカデミックかぶれってことか。
アホ民間研究家は自分の金で好きなこと言ってるから
こっちも好きな事言える。
ただ「公金」使って何もできなかったらそれこそアホ以上だぞ。
まさか「東大だからなんでも良いもの」なんて言われても困るが。
結局人の事アホとか妄想とか言って自分が「完成するのは間違いない」
ってそういうのを「願望」って言うと思うのだけどな。
まぁ学生レベルでは社会に出ても通用しない。
これは学問の世界でもそうだ。
25年なんてすぐだから「良いものが完成」というのを楽しみに
待つよ。
出来たら「良いもの」も定義をしておいてくれるとうれしいけどね。
0247人間七七四年
2011/11/23(水) 11:52:24.68ID:9vNRn5sQ彼らが堕落したクズ研究者だとするソースを早く出せよクズ長厨。
0248人間七七四年
2011/11/24(木) 08:15:21.66ID:B2sIX7xK研究者は研究でのみ評価されるべきで
今のところ何も果たしてないから楽しみだって言ってるんだが。
0250人間七七四年
2011/11/26(土) 07:59:43.98ID:MvqQ9oMqそれを私利私欲とごっちゃにしてないか?
予算獲得は必要でそのための出版だから
見るべき研究成果はないと言ってるんだが。
0252人間七七四年
2011/11/26(土) 15:27:16.90ID:cAYc4qfs最大の誹謗なんだが。
0253人間七七四年
2011/11/26(土) 18:02:05.84ID:9pAhxekh実績が認められてるから予算が出る理もわからんのか
誹謗中傷が目的なのかどちらかだな。
0254人間七七四年
2011/11/26(土) 23:03:38.40ID:cAYc4qfsじゃ、その「実績」ってなに?
認められた「実績」って教えてもらえないかな?
金子はこないだの本でも「織豊研究初めてまだまもない」
って言ってなかったっけ。
編纂所の仕事はいっぱいしてるけど信長と公記に関する
「実績」って何かあるか?
金子の過去の中世の論文がどういう「成果」かは知らないが
予算降りた「公記調査」についてこないだの本は
「見るべき成果がない」と言ってるんだぞ。
「そもそも実績」なんて話そらさずにこないだの本に
関して「どういう成果があったか」教えてくれないか。
それと成果が出るのは「間違いない」という根拠ね。
まぁ、結構評価してるから厳しいことも
言うんだが単に「アカデミックだぞ、東大だぞ」というだけで
「なんでもすっご〜い」と言うレベルだと逆に編纂所仲間がかわいそうだ。
誹謗中傷、なんて言葉を使う時点でもはやおかしいのだけどね。
そういうのは247や249に言う言葉でしょう。
まあ25〜6年本を楽しみにしてるからがんばってほしいけどね。
0255人間七七四年
2011/11/29(火) 12:33:48.80ID:BypaRwfc「金子の過去の中世の論文がどういう「成果」か知らない)
とか金子のことを
何も知らずに語ってるのがまた痛い。
金子氏の奥羽の関ヶ原研究は非常に高い評価を得てるのも知らんとはw
知らんで非難するのは馬鹿の最上級。
恥知らずこの上ない。
0256人間七七四年
2011/11/29(火) 15:51:26.60ID:r8fI43cwお帰りはあちらですので、お気をつけてお帰りください
0257人間七七四年
2011/11/29(火) 18:03:35.13ID:goZuRCatせっかくだから俺は一向宗が脅威だったとおもうぜ!1
0258人間七七四年
2011/11/29(火) 18:08:44.76ID:r8fI43cwだからこそ、当初大義名分に使ったわけで
0259人間七七四年
2011/11/29(火) 18:54:58.73ID:14cV4inG擁立して幕府存続に必死で
毛利に対しても
義尋を新しい大樹と呼んで挨拶に来いと
服属を要求し
信長が岐阜へ行く時も京へ行く時も
義尋を自分の身から離さずに
連れまわして離さない信長。
他人に奪われたら信長も身の破滅だと思ってたんだろうね。
0260人間七七四年
2011/11/30(水) 04:48:33.35ID:oscmZXdd信長はどれだけ小心者なんだって話だわ。
0261人間七七四年
2011/11/30(水) 09:01:26.23ID:VWdjw8+Mそれに信玄が呼応したからこの合体はこわい。
脅威と言っても遠くなれた地にいるのは後回しで
こっちがでかい勢力になってからで十分対応できる。
にしても信玄はすごいタイミングで死んだものだとは思う。
0262人間七七四年
2011/11/30(水) 12:32:40.07ID:te8xV9No信長の成功をあったわけで、義昭上洛とともに将軍の討伐の名目で
一気に但馬の山名氏や播磨の赤松まで翌年には従えてるからね。
その義昭と敵対したことで畿内は一気に反織田で蜂起してる。
義尋が信長の手元になかったら、混乱を収束することはできないでしょ。
結局、織田政権自体が、細川高国政権や三好長慶政権などの
過去の畿内政権よりも短命に終わったのも頷ける。
織田政権は内政や国人への支配力を強めるようなことをせずに
とりあえず国人に安堵するから軍役をやれと言って回ってるだけで
国政などはほとんどやらずに幕府組織に寄生していた宿り木に過ぎなかった。
そして大幅な軍事権限を与えられていた配下が
各地で独自勢力化していたので、織田家は急速に失墜した。
0263人間七七四年
2011/11/30(水) 14:18:12.45ID:VWdjw8+M幕府組織に寄生というかそこにあるのをとりあえずそのまま
使ったってとこなのかな。
武力での統一が果たせれば秀吉や家康や内政管理的に優秀なのが
いたからそれに管理システムをまかせればうまく行ったかもしれない。
意外と徳川システムに近いものが出来て長く続いたかもね、織田政権。
ただ、鎖国ではなく豪快にアジアに攻め込んで行ったかもしれんが・・
0264人間七七四年
2011/11/30(水) 16:06:36.20ID:6XeVpN/+信玄や謙信が信長本隊と激突する所まで進出出来なかっただけじゃね?
0265人間七七四年
2011/11/30(水) 16:15:41.98ID:CR0cReu00268人間七七四年
2011/12/01(木) 01:22:37.57ID:yHnDkokyロシアやアメリカの様な開拓精神が無い愚か者だったから、
日本は東西の未開の地に進出できず、超大国になれなかったわけで。
0269人間七七四年
2011/12/01(木) 01:31:10.03ID:TWv7ovpl東は太平洋以外何もないぞ?
そして西は不毛の地・朝鮮
日露戦争後に領有したが逆に大赤字になってしまった
0272人間七七四年
2011/12/01(木) 13:21:20.09ID:93HLAO3E信玄が同盟をしてあげたから、織田が畿内に進出できたの。織田が勢力拡大が早かったのは信玄のおかげなのよ。だから信玄が脅威というより信玄の半家臣的立場なの。
そのせいか、信長ちゃんは一度も信玄に逆らったことないでしょw信長ちゃんは忠臣だわwww
0273人間七七四年
2011/12/01(木) 13:45:22.24ID:FptnXfO9勝頼じゃなく信玄のせいだな武田滅亡は…
0274人間七七四年
2011/12/01(木) 14:24:46.47ID:dlOeFMC+0275人間七七四年
2011/12/01(木) 14:55:05.22ID:hAi29xf5将軍権威に助けられながら
あんだけ負けまくり
天皇な将軍に和睦斡旋してもらいまくりのチート多用したけど
義昭追放からたった10年で謀反死して
実質織田滅亡とかずるいチート多用してたくせにアホ過ぎ。
0276人間七七四年
2011/12/01(木) 15:46:23.92ID:kN+2A8un今川と不仲になって北条とも手切れ
上杉とは相変わらず険悪
何がしたかったんだとしか・・・
西に向かうには補給路的に駿河から東海道西に行きたかったんだろうけどさ
今川に徳川抑えさせて武田は木曽から岩村経由で美濃に乱入したほうが良かったよな?
駿河と東美濃じゃ経済規模が違いすぎる
0277人間七七四年
2011/12/01(木) 15:57:07.00ID:geMZdhtj永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようと
この一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
277:人間七七四年 11/27(日) 16:38 hakxTxcr
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で17名中4名は名前に花押がない。
これは決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
281:人間七七四年 11/28(月) 11:24 debTWBHq [sage]
>>276
噂を察知って義昭の斡旋した同盟だね。
武田が今川攻めて武田と北条が敵対状態に突入したけど、
同盟の話はかなり進んだらしく
甲越和与秘密同盟と越相同盟の二つが存在していて、
北条がいくら謙信に武田攻めを頼んでも謙信は武田攻めしなかった。
そのせいで越相同盟が破綻したが謙信の養子に景虎が入ったので、
北条と上杉もなあなあになってお互いの本領を攻めることなく、
第三勢力による緩衝地帯の帰属に関する代理戦争みたいになり
次第に下火になり謙信は上洛を目指す方針になる。
義昭の斡旋で天正元年初頭には事実上三國同盟は成立していた。
0278人間七七四年
2011/12/01(木) 15:58:34.81ID:p4+vI2rP信玄、秀吉、木曽、信長、皆無理ないし厳しいと認識してるのに武田厨は楽勝とか言ってるからな
幸せだ
しかし木曽だけ規模的に浮いてるな
0279人間七七四年
2011/12/01(木) 16:22:11.24ID:geMZdhtj勝頼15000や秀忠38000が通過したのを無視かワロタw
西から東へは信長本隊が
一説に60000が行軍したとも言われてるのに。
織田厨馬鹿過ぎw
0280人間七七四年
2011/12/01(木) 16:36:01.04ID:uSGpDr39とにかく塩が欲しかったんじゃないかな
南信にも現在飯田街道と呼ばれる道の前身である塩の道をしっかり整備してたし
美濃行ったって塩は取れんしな
0281人間七七四年
2011/12/01(木) 16:48:39.86ID:geMZdhtjまったく問題ないし、
そもそも飯田街道の前身なんて無い。
そもそも飯田街道は現在ですらダムや湖の近くを通過する
過疎地であるように、
中仙道のような人口集住地じゃないから
そんな海抜が高い山谷森で昼も暗いといわれたところを
何日もかけて通過できるようなもんじゃなかったから。
0282人間七七四年
2011/12/01(木) 17:11:09.66ID:hAi29xf5飯田街道はその距離がむちゃくちゃ長く険しく、
しかも何もない。
あんなところをむりやり通過するくらいなら
普通に信忠みたいに
中津川から飯田に行った方がいいに決まってる。
妄想戦記も大概にしろ。
そもそも道幅が狭いも何も木曽氏が武田側であれば何の問題もないし、
当時の軍道は細い道もたくさんあったし
一列行軍もふつうにやってたわ。
だから織田が大軍を出す際に
安土から岐阜まで兵がつらなったとか書かれたりする。
0283人間七七四年
2011/12/01(木) 17:48:11.06ID:93HLAO3E海上ルートを確保しなければ、絶対に天下統一はできない。陸だけでは輸送 にも防衛にも経済にもすぐ限界に なってしまう。どんなにすごい要塞があっても海上拠点をもっている勢力にはいずれ負ける。山賊の身分なら東美濃経由でいいけどね。
0284人間七七四年
2011/12/01(木) 18:18:07.15ID:geMZdhtjなんの問題もないじゃんアホなの?
岐阜さえ奪ってしまえば勝敗は決するんだから
石高の低い三河なんて局地戦にこだわる必要性はまったくない。
岐阜を奪った後にゆっくり海岸部を頂けばいい。
0285人間七七四年
2011/12/01(木) 19:36:43.46ID:uSGpDr39ちなみに言っとくと三遠駿は石高低くないぞ
0286人間七七四年
2011/12/01(木) 19:45:08.77ID:93HLAO3E徳川を潰すのが武田の第一目標なのね。しかし織田が陰で徳川を支援するから、武田と織田が関係悪化したわけ。東美濃経由なんて徳川活性させるだけの愚策。
0287人間七七四年
2011/12/01(木) 20:49:24.51ID:ICa3mmKV三河美濃は水害も多いし米よりも穀物が多かったようにも思う。
だから味噌が発達した、というオチがあるんだが
すぐそばを飯田街道が走ってていまだにちゃんと日常会話でも
使われてるんだよな、すごいもんだ。
0288人間七七四年
2011/12/01(木) 21:13:09.22ID:p4+vI2rPなぜ木曽方面ではなく、駿河方面をつかったのかを考えれば、木曽方面が使いにくいって結論にいたるわな
0289人間七七四年
2011/12/01(木) 21:17:02.32ID:ICa3mmKV遠くても進軍には安全だし楽だし。
0290人間七七四年
2011/12/01(木) 22:25:23.74ID:UNpSL3M5遠三を制圧しても55万石にしかならない。
しかし濃尾なら110万石で倍もあるんだから。
それに信玄は越後を攻めておいて駿河を攻めたり
伊豆を攻めておいて上野から小田原を襲ったり
関東を攻める情報を流しておいて徳川を攻めたりしてる。
真の目標を狙う前に必ずフェイク行動を取る。
しかも信玄は書状で
来春に美濃を攻めると明言してるし、
実際に東美濃で武田方を増やしてる。
信玄の戦略目標は
来春に朝倉軍と合同し信長を滅ぼし
比叡山を復興することであり、
義昭の決心と挙兵を促している。
義昭の挙兵は来春までの時間稼ぎ行動にすぎ無い。
フェイク行動してただけで徳川なんて最初から歯牙にもかけてない。
だから浜松城を素通りしようとしてただけの話で
家康が勝手に玉砕しただけ。
0291人間七七四年
2011/12/01(木) 23:11:49.39ID:yHnDkoky新大陸に進出できる民族は、欧州、中国、日本くらいなものであり、
戦国時代に日本が開拓精神を発揮していれば、新大陸かシベリアのどちらかを
領有できる絶好の位置に居た。
しかし日本は出遅れ、もはや地球にフロンティアは無くなってしまった。
0292人間七七四年
2011/12/02(金) 12:33:31.33ID:pa/Dbbg5信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
0293人間七七四年
2011/12/02(金) 15:47:30.01ID:CwaezTr+岩村を抑えて居る訳で側背を脅かす可能性のあった徳川もフルボッコにしたし何の問題もなく東美濃に進出できそうだけど
勝頼時代にあっけなく明智城が調略で落城しているのを考えれば包囲網下で東美濃の豪族が動揺してたのは間違いなく
武田軍が進出すれば織田崩れが起きてた可能性もありそうだが
0294人間七七四年
2011/12/02(金) 18:51:56.45ID:N4RAAakb0295人間七七四年
2011/12/02(金) 20:47:02.33ID:VprH9eM9岩村城の秋山隊と合流すればいいし、
補給は木曽川から下流に流せばいいだけだし。
美濃に帰国した土岐頼芸と一向宗と呼応して東美濃西部の土岐を大軍で落として、
中濃の加茂郡の加治田城や
関市の一柳城(津保城)や
北濃の美濃市の鉈尾城や
郡上八幡城の兵力と可児を挟撃合流し
一気に岐阜城を襲えばいいだけ。
そもそも可児の森長可が簡単に東美濃を平定してるほど
弱い東美濃全域なんて簡単に攻略できるわ。
0296人間七七四年
2011/12/03(土) 00:31:24.49ID:sxP/Yxyuその加治田城まで武田方になってるし
さらに武田の大軍なら余裕で岐阜城なんざ落せる。
0297人間七七四年
2011/12/03(土) 03:39:15.71ID:qIvkE4PC岐阜に籠城しても周りは全て離反するだろうしかと言って武田軍相手に戦えるほどの戦力が美濃に残ってるとも思えない
0298人間七七四年
2011/12/03(土) 12:36:35.72ID:cNlKExyT信長の敵はあちこちにいるからねぇ。もう織田軍は安全な行軍はおろか
背後での挙兵と補給分断の脅威に悩まされ士気の著しい低下に陥るでしょうね。
そもそも義昭討伐に出かけた織田軍は米も鉄砲の火薬も足りない、
たった一万の軍勢しか作れなくて、信玄にボロくそにされた家康に援軍を泣き付き
味方だと思ってた内藤が(松永弟の子)5000を引きつれ二条城に入城したため
義昭の二条城すら攻略不可能で、補給不足を解消するために京で恐喝殺戮略奪し
さらに御所まで燃やす構えを見せて天皇を脅迫し義昭との和睦を斡旋してもらい
和睦が決まるやすぐさま背後を遮断した六角氏と百済寺の攻撃に向かったくらい追い込まれてる。
朝倉・西近江幕府奉公衆高島七頭
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293203118/476
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293203118/489
長政には湖北十ヶ寺一揆が味方・伊勢長島一揆軍は濃尾国境を襲ってる
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284482205/850
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293203118/468
伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始め
1575年に信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで初めて伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
0299人間七七四年
2011/12/03(土) 14:51:30.77ID:bWOOvJAN離反に次ぐ離反で破滅寸前だったのがよくわかるな。
この時点で武田の方が石高でも織田を
大幅に上回っていたと見てよいだろうね。
まぁせいぜい織田は85万石程度だろう。
0300人間七七四年
2011/12/03(土) 15:03:42.17ID:2Dq4v/Gjそのモチベの源泉を拝聴したいわ
0301人間七七四年
2011/12/03(土) 15:09:19.49ID:bWOOvJAN>>蘭奢待採取
ここでも天皇権威を利用www
やはり内政無視の遠征軍役動員連投ばかりで
(しかも金・糧・硝煙・武器は自弁もしくは現地調達)
人徳がまったくなく裏切られまくってる屑長は
人民をまったく帰服させることができず
天皇を悪用する姿ばっかり・・・
0302人間七七四年
2011/12/03(土) 16:11:29.27ID:VeQJ5du8なんかあの人神がかりだし、損得で動く感じじゃないし。
理屈や利益で動かない人って偉いんだろうが
付き合いたいタイプではない。
0304人間七七四年
2011/12/04(日) 14:30:13.88ID:5Lp30/ex自分で言ってるし。そんな頭がおかしい奴で野戦では天才の大名に狙われたら
誰だってビビって閉じこもるだろ。
北条や武田がそう。
で、実際野戦したらあっさり壊滅したからな、織田軍は。
秀吉が参戦してたらどうなってたかはわからんが、、、
いや同じだろうなあ。叩き潰されたんだろうな。仮に数で押されても謙信は動じないシナ。
宗教団みたいな越後軍とは関わってはいけない。自滅を待つのが最善。
0305人間七七四年
2011/12/04(日) 19:30:13.21ID:ee0baLMU0306人間七七四年
2011/12/05(月) 11:46:29.30ID:xOyOMgw+から来たから美濃から侵入するには不利な面があったということだろう。
美濃勢が離反するかどうかもタラレバだし実際どうなってたかは
静岡ルート以上に武田有利だったという前提は少しむつかしいところがある。
それより蘭奢待採取で鍵を開けて修理させたという記録が「天正二年〜」で
東大寺側に残ってるでしょう。
あれは多聞城での話かその前の正倉院直封倉での話かどっちなんでしょう。
多聞城だと主語は信長になるけど正倉院だとすると日野とかが主体になる。
これによって少し切り取りの意味合いが違ってくるかもしれないと思って。
0307人間七七四年
2011/12/05(月) 12:20:33.92ID:jCWatW2p徳川に一撃を加える目的であり、
信玄は岩村に兵力を入れた&春に美濃攻めると
書いていて事実、春に向けて北上し東山道から美濃を攻める行軍をしている。
なぜそれを根拠も無く否定しようとするのか?
鴨川氏もそれを主張し
森田善明も賛同している。
0308人間七七四年
2011/12/05(月) 13:02:09.66ID:kBZQ07lK春に向けて北上し東山道から美濃を攻める行軍をしていた、とする根拠は何?
ひょっとして鴨川氏も君と同じく妄想大好き人間なのかw?
0309人間七七四年
2011/12/05(月) 13:32:21.66ID:Wx39+Toa包囲網を敷くための威勢の良い文言と実際の行軍が一致するとは限らないし
東山道攻めが主なら、野田城攻めに拘ったのは何故?
煽るつもりじゃなくて純粋に東山道攻め予定の根拠を知りたい
0310人間七七四年
2011/12/05(月) 13:39:45.41ID:jCWatW2p木曾の行軍が無理なら、
織田軍や羽柴軍が通過しまくったキツイ峠のあった
近江〜伊勢の土岐多羅越や大君ヶ畑や安楽越や鈴鹿越とかも
みんな通過不能だろwww
0311人間七七四年
2011/12/05(月) 15:01:23.40ID:XrixD9av補給面のことを持ち出すかもしれないけど美濃に入ればある程度地調達も可能だろうし
0312人間七七四年
2011/12/05(月) 17:29:14.51ID:df3EnClf内通したやつらに砦の構築とか急がせてるから
中仙道や東山道から東美濃を襲うのは間違いないタイムスケジュールなんだよな。
そのために野田城から北上したんであって
甲斐に帰る予定で北上したわけじゃない。
などと書いてから>>292に同じことが書いてるのに気がついた。
0313人間七七四年
2011/12/05(月) 17:43:16.01ID:q4XL6OSO背後に徳川も残ってるし
0314人間七七四年
2011/12/05(月) 23:13:47.19ID:LfGTo3on妄想痛すぎだろwwwwwwwwww
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320387370/530
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317840988/662
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293203118/534
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284482205/880
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1305979699/577
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1295693653/312
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287332671/309
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284917479/940
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1285335883/64
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320387370/535
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293203118/537
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284482205/882
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317840988/665
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287332671/311
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320387370/537
0315人間七七四年
2011/12/06(火) 07:53:15.60ID:IUBm6HZw複数の敵対勢力を抱えている織田。
どっちを先に叩くべきかね。織田が元気ならば徳川も元気。た゛とするならばこの時を逃せば徳川潰しは難しくなる。
0316人間七七四年
2011/12/06(火) 08:16:36.54ID:IUBm6HZw0317人間七七四年
2011/12/07(水) 07:14:52.38ID:coPb+APP徳川だと勝ったとしても損耗率が多いから織田だろうね。普通に考えると。
謙信みたいな奴だと先に徳川叩きそう。
0318人間七七四年
2011/12/07(水) 07:52:17.57ID:XFKMCW+70320人間七七四年
2011/12/07(水) 23:38:32.39ID:c6Ei14Et武田信玄が怖くて、必死だったのか、
上杉謙信が怖くて、必死だったのか、
なかなか判断が難しいw
0321人間七七四年
2011/12/08(木) 02:17:05.01ID:ao8MJPJKよく書いてあるけどあれは儀礼的に年がら年中そっこらじゅうと
やってるわけで別にそうたいした意味はないよ。
0322人間七七四年
2011/12/08(木) 06:52:25.87ID:hLA/7uDB当然逆もしかり。
0323人間七七四年
2011/12/08(木) 08:52:15.48ID:/GAsbPf7当事者としては戦ってみなけりゃわからんのだからそりゃみんな必死だろ。
謙信だけは毘沙門天の加護とか我こそがとか矢玉が当たろう筈もなしなんつってからちょっと違うかも試練が。
0324人間七七四年
2011/12/09(金) 06:57:17.80ID:pc2r4rTn言うけど、謙信もその類なのかね。どう考えても毘沙門天の化身だと本気で思っていたら、
病気なんだけど。
まあだからこそ強いんだろうけどね。
0325人間七七四年
2011/12/09(金) 07:14:37.69ID:Pv3/MI03後世の逸話も恐らくそういうところからきているのも多い。
信長からすれば変に手出しするよりご機嫌振りまいて謙信との戦闘を避けた
無論謙信も信長の強さと勢力の大きさは痛いほどわかってる。だから避けた
0326人間七七四年
2011/12/09(金) 08:04:08.98ID:EBU5nsrE謙信は権威が大好きなミーハーだけど、信玄は実益を優先する。 謙信は越後衆のおかさ゛り。
だから後継者騒動が泥沼化した。
0327人間七七四年
2011/12/09(金) 16:18:09.55ID:r1OAzjVC後継者争いで家臣に乗っ取られる
0328人間七七四年
2011/12/09(金) 18:58:48.05ID:W9Hlk8ON0329人間七七四年
2011/12/10(土) 18:26:02.40ID:njx4YYju北畠、、
0330人間七七四年
2011/12/10(土) 20:36:16.46ID:z4hmgnCQこの時期の越後勢はあまりにも損失が多いな。
そういうや、信玄と一騎打ちした武将って誰なの?
0331人間七七四年
2011/12/10(土) 20:40:31.73ID:OFbewjIV0332人間七七四年
2011/12/10(土) 20:47:32.36ID:njx4YYju0333人間七七四年
2011/12/10(土) 20:48:39.69ID:9mfGMLUH三好も家臣でもない、松永はお爺ちゃんだから勘弁、あとも大したことないだろう。
どうせなら義昭と言って欲しかったが。
0335人間七七四年
2011/12/11(日) 13:40:10.32ID:Djkegssg鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
1万しか兵力が集まらない信長は信玄にフルボッコされた家康すらも
近江へ援軍に来るように命じている。
家康が近江へ向かえば、岐阜を落とした信玄と尾張への帰路を封鎖する伊勢長島一揆と
浅井・朝倉・義昭に包囲され、尾張・三河へ帰ることすらできない。
>>316
いい加減にお前の願望を書くのは止めようなw
>>333
アスペ信長が長政を配下扱いしたのが離反原因。
別所と浦上は同じ赤松の重臣で同格なのに
アスペ信長が浦上の配下に別所を配したのが離反の根本原因。
荒木は織田が1万しか兵を集められなくて大苦境にいた時に
数少ない味方になってくれて、信長が大喜びしたほどなのに離反www
松永も頻繁に軍役を命じられ、自分が大和から出兵すると必ず
大和で叛乱が相次ぎ統治不能になるから、ついに信長の動員をすっぽかした。
内政なんてものを一切やらない信長の元では、叛乱は虐殺根切りで対抗だから
およそ統治なんてもんですらないから離反や謀反が相次ぐ。
0336人間七七四年
2011/12/11(日) 18:24:31.07ID:JV02TUEvってか、伸び盛り企業で優秀な部下がたくさん伸びてきて
落ちこぼれが「こんな会社やってらんね」ってやめただけじゃないのか、それって。
0338人間七七四年
2011/12/12(月) 09:33:27.14ID:1r5Zk/16あと一度謀反起こした上にその後これといった実績もなかったんだから扱いが悪くなるのは仕方ない
0339人間七七四年
2011/12/12(月) 11:34:15.00ID:eCuCrXXC12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。
0340人間七七四年
2011/12/12(月) 13:03:02.88ID:8xLHDWCh光秀が優秀なのはあくまで信長配下のことであって
自分独自の行動は10日しか続かなかった、と信長は
光秀も落ちこぼれ箱に入れてるだろなあ。
裏切りとか謀反とか言うが、ちゃんと信長に攻めかかってきたのは
義昭ぐらいじゃないのか。
荒木たちには「なんで?レポートにして提出して」というぐらいの余裕がある。
0341人間七七四年
2011/12/12(月) 19:59:46.46ID:9a/2hkJK0342人間七七四年
2011/12/12(月) 21:07:06.54ID:GfaRNwQb信長公記で4万5千とか超絶水増しされててワロタwww
相変わらず信長公記はデタラメ過ぎwww
ギャグで笑いを取る目的で書いてるなら成功してるけどw
0343人間七七四年
2011/12/12(月) 21:14:52.75ID:8xLHDWCh0344人間七七四年
2011/12/12(月) 23:16:44.14ID:O1ydQKkc学会で是非発表してくださーい
0345人間七七四年
2011/12/12(月) 23:27:18.44ID:vfp29GWM0346人間七七四年
2011/12/13(火) 14:34:13.21ID:7Bi0Kwwd0347人間七七四年
2011/12/13(火) 18:31:53.40ID:BIObmWM+0348人間七七四年
2011/12/14(水) 11:30:14.03ID:SlHTaVvN0349人間七七四年
2011/12/15(木) 16:17:26.88ID:wsTox81S0350人間七七四年
2011/12/16(金) 11:44:51.66ID:xIrMr+mk0351人間七七四年
2011/12/18(日) 00:32:29.88ID:sqQGmqn0http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/21.html
0352人間七七四年
2011/12/18(日) 10:18:52.85ID:s+PaPHHb信長は絶対に東の強国とは戦わない事にしていた.
0353人間七七四年
2011/12/18(日) 11:59:12.81ID:IfUB/uj10354人間七七四年
2011/12/18(日) 17:33:47.59ID:qqPBZbnVもしそれが本当なら二人とも厨二病www.
0355人間七七四年
2011/12/18(日) 17:38:27.15ID:bWE2FsNw0356人間七七四年
2011/12/18(日) 18:37:19.49ID:SMWMB0Yw0357人間七七四年
2011/12/18(日) 23:49:53.82ID:lbRTmCpg上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
0358人間七七四年
2011/12/20(火) 22:16:23.14ID:Unl4Emfb謙信だろ
0359人間七七四年
2011/12/20(火) 22:17:49.29ID:Unl4Emfb0361人間七七四年
2011/12/22(木) 09:13:13.79ID:Og3JLnW30362人間七七四年
2011/12/22(木) 09:42:48.08ID:6HEnWQw3荒木が摂津一円で謀反した際に信長が追い込まれて
天皇に和睦を願ってた矢先に
和睦を無視して毛利が第二次木津川の戦いを始めて大敗。
信長の本願寺攻撃を察知したので織田兵力の分散を図って
毛利の進軍という挟撃計画に元づいて勝頼が南下するも
毛利の出撃が延期になってしまったので
勝頼がやむなく単独行動で長篠までやってきて大敗。
0364人間七七四年
2011/12/24(土) 16:49:46.15ID:3zoaF2rJ戦争経済ってのは、この時代においては
金山採掘・船舶流通収入・街道関収入・略奪がもっとも高収入だろう。
武田は金山収入と伊勢水軍
上杉は金山収入と北陸水運
織田が街道関収入だが、これは六角や一揆衆の蜂起で破綻してるし
比叡山・石山本願寺・堺・尼崎・奈良・京を略奪して荒廃させてきたがもう限界。
0365人間七七四年
2011/12/24(土) 17:15:49.59ID:FEKCn8tW0366人間七七四年
2011/12/24(土) 17:32:47.15ID:jyzMlbDs0367人間七七四年
2011/12/24(土) 23:15:07.37ID:ic2tzrPyあっこ信秀時代から織田弾正忠家が握ってたじゃないか
アソコらへんの奪い合いで今川と戦って、結局桶狭間で信長が掌握してるだろ
反信長が奪えてるのはせいぜい長島周辺ぐらいだわ
武田は駿河周辺の水運だけだろ、何考えてるんだよ
0368人間七七四年
2011/12/25(日) 02:34:42.27ID:WFpXROdT「ウイスキー謙信」
0369人間七七四年
2011/12/25(日) 07:26:40.76ID:YxrcaOAaあれは正面からぶつかったのではなく
後ろを向いて撤退する織田軍を川で追いついて襲撃したという戦いだから
まあそれでも謙信が織田軍を撃退したと言ってもいいが
それぐらいなら美濃の斎藤が何度もやっている
だが最終的には信長に滅ぼされた
0370人間七七四年
2011/12/25(日) 09:22:23.25ID:5eqwgsQ10371人間七七四年
2011/12/25(日) 09:53:15.15ID:4Mx3L5hv0372人間七七四年
2011/12/25(日) 11:55:53.61ID:LWomy4Hm上杉謙信なんて、信濃も大して抑えられなかった。
武田信玄なんか、信濃を握ったから、徳川とは完全に国境を接してる。
万が一、徳川を寝返らされたら、流石にどうやっても詰む。
現実問題は、どっちかじゃなく、全部脅威だったんじゃね?
脅威が多すぎて、明智なんて自分に臣従してきた小者にまでは気が回らなかったんだろ
0373人間七七四年
2011/12/25(日) 12:03:12.66ID:U3MQS3VS武田軍と上杉軍どっちが強いかって言われたら間違いなく上杉軍だと思うけど
0374人間七七四年
2011/12/25(日) 12:05:23.33ID:3DbZ9Vkgあの戦いで総大将が秀吉ならば謙信は負けていたと思うが、勝家だもんな。
勝てるわけがない。
0375人間七七四年
2011/12/25(日) 12:14:20.13ID:U3MQS3VS実際は地理的な問題も絡んでくるし、何よりも結構早めに死んじゃったからなあ
逆に言うと謙信が死んだのを機に群雄割拠の乱世が始まったとも言える
0377人間七七四年
2011/12/25(日) 13:31:49.03ID:qdnJvilJそりゃ信長も脱糞逃走するわ
0378人間七七四年
2011/12/25(日) 13:58:45.55ID:qHCZ9zbM岐阜城を攻めようとしたら
大雨で渡河出来ずに立ち往生してたら、
柴田が攻勢をかけてきた情報を得て、
賤ヶ岳に戻ってきて
柴田を撃破したけど、
大雨が降らなければ
岐阜攻め開始してて
賤ヶ岳の戦線崩壊に間に合わないといる
ラッキーっぷりで、
実際は調略崩しと城包囲の名人だが、
謙信のような相手にはまずラッキーだけでは勝てない。
0379人間七七四年
2011/12/25(日) 14:01:16.16ID:LWomy4Hmウンコたれと言えば家康だろ?
あの人だって実際はビビって脱糞というより、食い過ぎじゃないの?
武田信玄が手も出せない今川家中で平気で立ちションするくらいイカレた奴なんだから、
恐怖云々より戦争前だからって日頃より少し良いマカナイ出してもらって
舞い上がって食い過ぎただけの気がする。
だから石田三成のお腹痛い状況を解説する逸話が出るんだろ。
0380人間七七四年
2011/12/25(日) 14:03:33.40ID:qdnJvilJ0381人間七七四年
2011/12/25(日) 14:29:10.72ID:LWomy4Hmまあ、引きこもり文化を醸成した信玄の功績を賛美したい後継者が多いのは仕方ないかもだが
0382人間七七四年
2011/12/25(日) 14:32:22.20ID:E6Ei/OEsあるけどなにか武将的に業績ってあるのか?
書状では威勢がいいけど口だけどヘタレに思えて
仕方がないんだ。
0383人間七七四年
2011/12/25(日) 14:43:48.04ID:qdnJvilJ寿命で死ぬ人間が無能なら有能な人間なんていない
家臣に背かれて敗死する信長はあきらかに無能だけどな
0384人間七七四年
2011/12/25(日) 14:51:35.45ID:RgzgQfMc武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
0385人間七七四年
2011/12/25(日) 17:14:47.90ID:4TQq5wrAこれって上手く行けば兵站の負担も軽くなるし大きな武器になりそうなんだけど
0386人間七七四年
2011/12/25(日) 17:22:16.89ID:3DbZ9Vkgまあ謙信存命中はそんなことあまりなかったけど。
本当に相手を潰すなら大軍じゃないと無理なんじゃないかな。戦術で
勝つなら1万でもいいけど。
0387人間七七四年
2011/12/25(日) 18:03:57.87ID:RgzgQfMc少数精鋭。
0388死
2011/12/26(月) 01:07:41.88ID:CsQRD6YW秀吉は戦略で勝つ人だからなー
高松城の水攻めがそう、戦わないで勝つ術を持ってるから
謙信はいづれ負けるだろうなー
0389人間七七四年
2011/12/26(月) 01:14:24.51ID:fnRcjyII0390死
2011/12/26(月) 01:30:39.25ID:CsQRD6YW秀吉はやっぱり天下人の器だと思うな
合戦しか出来ない謙信や信玄では戦ってる間に年とって寿命が来てしまうわ
0391人間七七四年
2011/12/26(月) 01:34:42.06ID:UCIwX9bK信玄なぞ片手でひねられる
0392死
2011/12/26(月) 01:37:34.98ID:CsQRD6YWノブには桶狭間みたいな奇襲戦法もあるし
0393死
2011/12/26(月) 01:42:58.74ID:CsQRD6YWどうなったか?って想定
あり得ない話では無いぞ
いづれ衝突する運命になる
ノブVS秀吉の戦いだわ
0394人間七七四年
2011/12/26(月) 02:02:53.07ID:fnRcjyIIスレタイ読めカス
そんなに信長vs秀吉で語りたいなら自分でスレ立てろ
0395人間七七四年
2011/12/26(月) 02:33:42.42ID:1G52dcdO恐れていたのは信玄。
戦略>戦術の図式に当てはめるなら信玄かなあ。
軍神謙信とは絶対ガチで戦いたくはないだろうけど、戦以外なら
幾らでもやりようがあったろうし。
家康が晩年謙信の事を目先の事しか気にしない子供のような人だった
と評していたから御しやすい部分はあったと思う。
0396人間七七四年
2011/12/26(月) 06:13:25.18ID:dn7GSILx自分とこの従業員の前で
そいつらが昔、勤めてた会社の社長の悪口言う阿呆は珍しい。
家康が武田信玄を誉めるのは当たり前。
それでなくても、ウンコ伝説のいわく元だし。
0397人間七七四年
2011/12/26(月) 09:48:03.10ID:RCLIb4Ptだーれもリスペクトしない 秀吉も信長は滅んで当然とあざ笑うw
0398人間七七四年
2011/12/26(月) 09:56:30.91ID:ppU3sDKtだから裏切られまくるし一向宗は調子にのる
0399人間七七四年
2011/12/26(月) 11:01:39.60ID:ZwK1iiw70400人間七七四年
2011/12/26(月) 11:56:45.45ID:CWhgPhmA国人・土豪・惣村・寺社らが
自分が命じる指揮官に付いて
大虐殺の行使も含む
遠方遠征の無限軍役に
物資は基本的に自弁前提で
素直に従うか、従わないかのみだから。
0401人間七七四年
2011/12/26(月) 12:41:01.04ID:cInJC8mY身内に甘いとかなんの評価対象にもならないからどんな独裁者にも取り巻きくらいいるもんな
0403人間七七四年
2011/12/26(月) 13:57:36.49ID:cInJC8mY0404人間七七四年
2011/12/26(月) 14:51:16.43ID:dn7GSILx武田信玄が遠方といえるような遠征
ていうか、遠征自体したことがあるか?
チマチマ隣国をうろちょろしただけだろw
武田信玄が暴君って誰に対して?
家臣との合議にもたついてるから、信濃の小豪族一つ落とせないんだろ?
別スレによると一万人しかいない信長軍に対して、浅井朝倉本願寺と連合するくらい慎重wなんだから決して暴君じゃない
0405人間七七四年
2011/12/26(月) 14:53:29.82ID:CYzBfng+独裁制の信長は家臣に殺害される。
明智の謀反も秀吉の乗っ取りも、
近江国人や民衆の意思だったんだろう。
0406人間七七四年
2011/12/26(月) 14:58:55.07ID:ZMSD+msX目的地遠すぎてオラにはむりだって軍役拒否がある
そういう主観的な部分じゃなくて、命令に従わないと寺領すら接収、物資も空手形で自前って部分が信玄まんまだなってこと
>>405
信州の山の中で野垂れ死にしたのはさしずめ神仏の意志だな
0407人間七七四年
2011/12/26(月) 15:10:28.36ID:Z1nORfC4血の気の多い息子信忠は
雑兵の手にかかって自滅。
勝頼以上の猪武者。
残りの息子も馬鹿しかいない。
0408人間七七四年
2011/12/26(月) 15:16:22.55ID:dn7GSILx>オラには無理だ
普通軍役拒否なら士分なら死罪だろ
それでもし、殺して無いなら信玄は仏様だろ
寺領の横領(だっけ?)なんかやってない奴がいるのか?みんなやってんじゃね?
まあ出自が良い上に、信濃駿河も基本的に諜略で取ってんだから、
信長みたいな苦労は無いだろ。
あと
信玄後継者の勝頼と信勝は織田に攻められて死んだ敗死であって
命を救われてから(貧窮のあまり?)病死した秀信とは悲惨さが違う。
成り上がりの子供にはバカしかおらんってテンプレが織田信長の子孫じゃね?
武田信玄がもう少し賢ければあるいはと思う。
0409人間七七四年
2011/12/26(月) 15:35:18.63ID:ZMSD+msX役の拒否で斬首なら武田領国は首で城が作れるぞ
だから、武田もまんまじゃんって言ってるんだけど?
何が主張したいのか見えてこないね
0410人間七七四年
2011/12/26(月) 16:33:29.34ID:fnRcjyII0411人間七七四年
2011/12/26(月) 18:00:37.59ID:CWhgPhmAまんま信長のことじゃないかワロタw
軍役に従わないから謀反だと疑われたのが
荒木や松永だしw
信長に一度でも疑われたら
絶対に疑いは晴れないとか言われてるしw
命令に従ってても、いきなり改易とかされるしw
>>409
へぇ?具体的に複数の実例挙げてみろよw
0413人間七七四年
2011/12/26(月) 18:21:36.89ID:cInJC8mY0414人間七七四年
2011/12/26(月) 18:42:22.24ID:CWhgPhmAお前のデタラメばかりの
あちこちのスレのレスを読ませてもらったよw
なぁ根幹地ってお前の造語か?
(武田勝頼って信玄以上の名将だったんだなスレ)
0415人間七七四年
2011/12/26(月) 18:44:51.33ID:Z1nORfC4名将勝頼を後継者として育成。
最期に上洛を夢みるが、
家臣の尊崇を集めたまま病没する。
謙信…度胸と威厳を併せ持つ景勝を育成。
家臣に天下の采配を任せらる兼続を残す。
手取川で織田軍を敗走させる。
死後も軍神として神格化。
信長…信忠は頭の弱い子で無謀なふるまいが多く、
家臣がお膳立てしたお使いしかできない。
その家臣も信長死後は野心むきだしで、
織田を滅亡に導く。
本能寺の変がなくても織田は信忠で滅びた。
0416人間七七四年
2011/12/26(月) 18:50:50.60ID:CWhgPhmA義晴義輝親子の例を出さずとも近江に将軍が移動するなんてしょっちゅうだ。
将軍が京にいないこと自体はなんら問題ない話だ。
0417人間七七四年
2011/12/26(月) 18:53:37.64ID:ZMSD+msX話そらしてんなよ
本当に武田厨はせこいというかみみっちいというかw
敬愛する新原稿みたいにどっしりと横綱相撲よろしくぐうの音も出ないほどに叩きのめしてみろよw
0418人間七七四年
2011/12/26(月) 21:55:07.53ID:v08QLfxQ秀吉や家康に比べたら確かに甘いな
この二人にいちゃもんつけられて潰された大名や寺社は数え切れないし
信長と謙信は甘かったからこそ謀反起こされまくったと思う
0420人間七七四年
2011/12/26(月) 22:28:29.00ID:fnRcjyII0421人間七七四年
2011/12/27(火) 02:54:15.28ID:WBi5iNQu敵対勢力もあっさり帰順を許している。
結局これがもとで本能寺の時に日和見勢力がかなり増えたのを受けて
秀吉家康がきっちりやりだしたのではと思うくらい。
0422人間七七四年
2011/12/27(火) 03:42:38.69ID:KR3NiFVs信長の一向一揆と武田家虐殺までは。
0423人間七七四年
2011/12/27(火) 07:18:14.19ID:cNhEIrvT召し上げとか言って
すぐ恐喝するから最悪だな。
朱印状貿易も簒奪者の成り上がりだから正統と認められず許可されなかったし。
0424人間七七四年
2011/12/27(火) 14:54:17.87ID:mhunsbe2越前加賀で大虐殺して帰ってきて
これでゆっくり休めると思ってたら
「お前ら自分らの田畠を潰して軍用道路作れ」だもんなw
道路普譜開始でまったく休ませてくれないwww
しかも信長が公家に家格が上がり安土城まで建設開始www
さらに瀬田大橋も新調しろ!
石山本願寺に敗北や丹波で光秀が敗北情報がやってきても
お前らは休まず道路作れwww
本願寺の砦攻撃で半数以上が討死してボコボコの荒木には
「お前さ、本願寺だけ気にしてればいいってもんじゃねぇぞ!
浦上へ兵糧を運び込んで宇喜多攻撃を支援しろや」
大和国人には「道路普請しつつ、松永久通と一緒に十市平城攻撃もやれよ」
信忠「俺の領地の尾張美濃でも道路普請だな」
吉田兼見「俺さ、道路普請の免除もらったわwww」
もう疲弊しまくりのムリゲー過ぎワロタw
案の定、塙直政と丹羽小四郎が討死し、松永久通戦死(誤報)し
佐久間信栄・三好康長・荒木村重・細川幽斎・明智光秀
(丹波で敗北してばっかなのにwww)
が本願寺に敗れて孤立www
0425人間七七四年
2011/12/27(火) 15:21:57.51ID:6KahY8TH織田弱いわって
天正4年5/7に輝元が穂田元清に
織田と断交を表明してるからな。
公記の天王寺の信長無双もウソくさい。
実際にはその後にも、
5/12から5/18まで右大将出陣御祈祷をやってるし、
大敗北に怒り狂ってる信長は、
丹羽二介や塙の一族を捕縛し、
大和衆にも塙一類に関するものは紙一つでも残さず回収すると厳命してる。
5/17には大坂の詰城構築を開始し戦線の膠着化を図ってる。
これは公記が書くような信長無双で圧勝なんてなかったって事だ。
しかも過労からか光秀が摂津で病になってて治療してる。
ちなみに塙も天正元年に眼病を押して義昭との和睦交渉に出たりしてる。
織田家臣になったらガチで精神おかしくなるよ。
0426人間七七四年
2011/12/27(火) 18:28:52.49ID:wWt+F+YR0427人間七七四年
2011/12/27(火) 20:48:28.52ID:lHtszOxY0428人間七七四年
2011/12/27(火) 21:30:47.98ID:LC2t5mFsみんな生き生きとして楽しそうなんだよな。
小田原征伐とか名護屋在陣とか、
もう旧織田家臣達はピクニック気分だし。
信長いたら大名同士で仲良く茶会やったり出来なかっただろうしな。
0429人間七七四年
2011/12/27(火) 22:50:38.84ID:QoYnM6Qy418のために言っておく。これ自演じゃないよ。
最近公記の信憑性を疑う人増えてるみたいだけど、
にも関わらず、長島一揆の公記記事はしっかり信じ込んでる人いそう。
0430人間七七四年
2011/12/27(火) 23:27:30.83ID:2S9o3xOV価値評価みたいな部分は盲信できないというだけなんだけどね。
あとは数字の部分とか。
0433人間七七四年
2011/12/28(水) 11:19:47.94ID:qh1/uV/f外交文書の意図みえみえの裏づけの取れない文言でも、事実だったという人もいらっしゃるわけで
誰とは言わないけど
0434人間七七四年
2011/12/28(水) 12:59:02.77ID:suNE31ye戦いのとこしか見ないのか?
>>433
井沢じゃないが、誰どころかみんなそうじゃないのかね。
「史料を出せ」ってさ。
0436人間七七四年
2011/12/28(水) 13:34:09.67ID:2yoCETeWただ単に信長が悪政ゆえに極端に発給文書が少ないから
分からないことだらけで、
公記を参考にせざるを得ないだけなのに…
0437人間七七四年
2011/12/28(水) 14:07:09.40ID:qh1/uV/f0439人間七七四年
2011/12/28(水) 19:23:04.94ID:suNE31yeすまん、よくわからないんだ・・
>>436
後半部分はほぼ事実記録に関しては完璧
なんだけどね。
悪政とか発給が少ないとかなにかに書いてあったのか?
0440人間七七四年
2011/12/28(水) 22:55:50.81ID:a8T0KopJ436はただ単に、
「信長の善政により社会は安定して」と書いたフロイスと喧嘩したいだけだと思うよ。
0441人間七七四年
2011/12/28(水) 23:20:24.39ID:Yg67Jg7C織田信長が大嫌い
0442人間七七四年
2011/12/29(木) 00:11:56.69ID:1YoGLhHH僧侶ブチ殺しまくり
寺社を燃やせば
フロイスは善政って言うからな…
0444人間七七四年
2011/12/29(木) 07:52:00.29ID:3fMHFhTaそりゃ天正4年5/7が公記で言うところの天王寺の信長無双の日なんだから
その時点でそのことを毛利が認識しているはずないだろ
知っているのは原田の大敗北までぐらいだろうから
そりゃ織田弱いなーと判断するのは当然じゃね
0445人間七七四年
2011/12/29(木) 12:56:26.52ID:ex5iZjOT古ポルトガル語ってのでみんな読んでるのか?
すごいもんだ。
0446人間七七四年
2011/12/29(木) 19:22:56.76ID:EOpUrTEXそういって公記を事実とか言ってるヤツに限って
今までの経験だと天正9年の信長が竹生島参詣で遊びに出かけた時に
桑実寺に薬師参りに出かけていた女房衆と、
彼女らを殺さないでくれと侘びた桑実寺長老を皆殺しにした
信長の話はウソとか言うヤツらばっかだったけどな。
だいたい天正8年に北条が関東八州を織田の分国になりたいと申し出たとかウソだし
天正9年の勝頼が織田との和睦を願って
信玄が岩村城を落城させた際に捕虜にした織田勝長を返却してきた話を
信玄の養子として信長が送っていたと歪曲していたり
天正10年になっても高野山攻めで大苦戦してた織田軍の話が
鈴木孫一が同地の土橋平次を殺害の話にすり変わってたり
どこが事実を反映してんだよw
発給文書が極端に少ない・悪政→岐阜市史とか勝俣鎮夫氏
>>444
天王寺の信長無双なんて捏造なのは5/7にそれがあったとしていながら
京では戦況を危惧して5/12から5/18まで右大将出陣御祈祷してる矛盾w
5/17に本願寺の動きを封じる砦の構築を開始したので
信長が大軍を残して自分だけ京に戻ってきたから祈祷も終了。
0448人間七七四年
2011/12/30(金) 07:04:04.32ID:qcC5OVcbそんなだったらほとんどすべての大名が(ry
0450人間七七四年
2011/12/30(金) 09:25:06.65ID:0RX0ET0V信長無双は作り話なんだよ。
0452人間七七四年
2011/12/30(金) 13:34:38.90ID:E33jn4C3信長がしてるが
摂津が京から近すぎて
5日も経つと詳細が洩れ
苦戦してるのがモロバレで
ついに祈祷開始ですね。わかります。
0453人間七七四年
2011/12/30(金) 14:14:14.00ID:mGTUPrjJ桑実寺の件については、「公記がウソを書いている」のではなくて
公記の記事の「現代人の解釈(翻訳)が間違っていた」ということだ
0455人間七七四年
2011/12/30(金) 15:35:13.06ID:0RX0ET0V「成敗」が必ずしも死刑ではないという話だろ?
しかし死刑以外で使われた例を他に見たことないんだが。
0456人間七七四年
2011/12/30(金) 17:45:37.03ID:E33jn4C30458人間七七四年
2011/12/31(土) 19:33:00.13ID:kM6X99Yn最新は岐阜市ではなく長久手史じゃなかったかなよく引用されるのは。
公記は全て完璧というのじゃなくて
間違ってる部分正しい部分を比較すると
はるかに正しい部分が多くてそれは1次史料並み
というのはそんなにおかしいかな。
あくまで何時誰がどうしたという記録部分についてで
解釈部分は別だよ。
それとウソというのと牛一が知らなかった間違えた
というのはどう区別するんだろう。
成立の事情で手心を加えたというのはそれなりに想定は
つくしそれは数多くの記録部分の確かさを決して
貶めるものでもないと思うが。
部分の間違いを強調して軍記モノで信用ができないというのなら
それはそれでかまわないと思うけど他の1次史料とつけあわせしてると
かえって驚くぐらい記録部分は正しいとこが多いとは普通に
感じるものじゃないのかな、ということだ。
0459人間七七四年
2011/12/31(土) 21:10:59.32ID:u7IABh34一次史料の意味わかってる?
0460人間七七四年
2011/12/31(土) 22:10:10.58ID:aMm5tRDYABC戦犯のABCと似たような意味に過ぎないのに
0461人間七七四年
2011/12/31(土) 22:21:11.45ID:E98n4YHv一次史料は書状や公家の日記などです。
0462人間七七四年
2011/12/31(土) 22:37:03.04ID:6v2+9y1z単位落とすぞ
0463人間七七四年
2011/12/31(土) 23:21:12.02ID:u7IABh34いいえ違います。
一応教えといてあげるけど、一次史料ってのは同時代人が自分の見聞きした事を書いたものの事ね。
大田牛一が書いた信長公記も、君の言ってる書状や公家の日記も、どれも一次史料。
0464人間七七四年
2012/01/01(日) 14:25:21.09ID:a95gEW7U信長公記は軍記なので編年体として書かれる日記とはまったく違います。
軍記は紀伝体であり、そこには脚色が入るのであり
一次史料とは明確に峻別されます。
しかも中立性すらも担保されないのが軍記の特徴。
そもそも公記は日記ではなく、後から政治的な思惑と実利収入を勘案して
後から編集されたものであり、
日記のようにリアルタイムに書かれたものでもない。
三次史料程度に考えるのが一般的良識です。
0465人間七七四年
2012/01/01(日) 14:35:24.11ID:Iy7WIunN全く中立な文書なんぞ存在するかよw
あるなら出してミロやw
絶対に誰かしらの思惑が混じっとるわボケw
0466人間七七四年
2012/01/01(日) 14:36:54.94ID:guL6l+en違います。
「リアルタイムに書かれたかどうか」「脚色があるかどうか」「中立性」といったものは、一次史料である事とは関係がありません。
また「軍記」というのは一次史料、二次史料といったカテゴライズとはまた別のものです。
ちなみに三次史料というのは、二次史料を参考にして書かれたもののことです。
0467人間七七四年
2012/01/01(日) 14:57:58.03ID:gK9psCmE一次史料を参考に作られた編纂史料。
今されている議論のように
何を一次史料というのか定義するのは難しいが、
信長公記を一次史料と呼ぶのは、
一次史料なる言葉がもつ権威でもって
あたかも信長公記が生の文書や公家の日記と並ぶ
重要史料と誤解させる恐れがある。
信長公記が一次史料なら、
高坂の書いた甲陽軍鑑も一次史料?
0468人間七七四年
2012/01/01(日) 15:13:32.53ID:guL6l+en難しくもなんともない。
一次史料の定義は>>463
貴方がどう言おうが信長公記は生の文書や公家の日記と並ぶ重要史料ですよ。
>高坂の書いた甲陽軍鑑も一次史料?
本当に高坂昌信が書いたんだとすれば、彼と同時代のことについては一次史料だよ。
そして信憑性についてはまた別だがね。
0469人間七七四年
2012/01/01(日) 15:22:20.99ID:c9D8qyYeただの馬鹿。クソガキ。ゲーム脳。
0470人間七七四年
2012/01/01(日) 15:34:57.33ID:gK9psCmEあなたの言い分だと三河物語や老人雑話など、
江戸時代に書かれた一部の編纂史料も一次史料になりますね。
確かに信長公記は戦国時代を生きた人の作品ですが、
これを一次史料と呼ぶ研究態度は多くの賛同を得られないと思います。
0471人間七七四年
2012/01/01(日) 15:44:03.73ID:HZwH4rUm0472人間七七四年
2012/01/01(日) 20:56:18.35ID:guL6l+en態度がどうあろうが一次史料という単語の意味は変わらないから。
何度でも言うが、一次史料という単語の意味は「同時代の人間が書いた史料」。
三河物語も老人雑話も、著者が自分の生きていた間のことを書いている限り、それは一次史料だ。
0473人間七七四年
2012/01/01(日) 23:21:39.39ID:j1/0AQND信長公記は所詮は軍記でしかない。
0474人間七七四年
2012/01/01(日) 23:45:58.09ID:rafzYYOh一,一次史料は中立である
一,一次史料は脚色が排除されている
一,一次史料はリアルタイムに書かれたものである
一,一次史料は二次史料に対し、常に優勢である
0476人間七七四年
2012/01/02(月) 10:43:26.44ID:H+23gJKx信長公記で儲けている新人物往来社ですら帯に「一級史料」と苦し紛れの謳い文句を掲示するのが精一杯という事実がある。
信長公記は記事ごとによる文体や敬称や固有名詞の文字がばらばらで同一人物が著したとする根拠すら論破されている。
一次史料の条件としては同時代の原本であることが学術的に証明されていて執筆者も特定されていることが前提である。
この前提を無視するならば武功夜話ですら一次史料と成り得る。
信長公記は一次史料ではない。
0477人間七七四年
2012/01/02(月) 11:15:25.11ID:Jl9Zl+li脳内一次史料妄想に取り憑かれてる気持ち悪さw
0478人間七七四年
2012/01/02(月) 11:18:10.11ID:oChGtVwS「信長公記と心中しなさい」
と教えてるくらいのバイブル。
0479人間七七四年
2012/01/02(月) 14:40:09.97ID:90CoNdWp>「一級史料」と苦し紛れの謳い文句
一次史料の中でも特に信頼性が高いからそう呼ばれている。
原本は残っているし、作者が太田牛一なのも特定されている。
0480人間七七四年
2012/01/02(月) 15:11:12.92ID:QZrlCpco一次資料かどうかは歴史学のお偉いさんが決めてるから、そっちに聞いてみれば?
というよりも、信長関連で信長公記よりも信頼性高い本を>>476は知ってるの?
もし知ってたら教えてくれ、割とマジで。
0482人間七七四年
2012/01/02(月) 16:38:26.66ID:QZrlCpco俺頭悪いから見たまましか思えないんだけど、
>>476の頭の中では一次資料=信頼できる資料で、
「信長公記は本当は一次資料じゃない=信頼できない資料」って思ってるんじゃないの?
0483人間七七四年
2012/01/02(月) 16:53:28.60ID:78FsLkHH取捨選択を他の一次史料や他家史料と
比較し、慎重に吟味し、
参考史料の範疇として使用するべきもの。
歴史初心者にオススメできる程度のもので
学術的には疑問符が多くある。
0484人間七七四年
2012/01/02(月) 17:25:46.61ID:oChGtVwS信長公記より信頼性の高い「本」はほとんどない。
普通一次史料は「本」の形にはなっていない。
特に近現代史の研究がそうだが、
回顧録など物語性のある記録は二次史料や二次文献に分類される。
信頼できる史料を読みこみたければ、
公家の日記や古文書を見るしかない。
0485人間七七四年
2012/01/02(月) 17:30:43.25ID:H+23gJKx原本とされているものは信長死後30年経過した江戸時代に成立されたもので、
経年的事実として、安土桃山時代の事象から信長に関する伝聞や時代史料を取捨選択した
後年編纂の信長の伝記である。
奥付から牛一なる人物の齢が80歳を過ぎていること、文体・敬称・固有名詞に一貫性の無いこと、
これらのことから牛一に仮託した複数の筆者がいた可能性も指摘されている。
史料価値、史料批判とは関係なく、その性質から一次史料と認定する者は学会にはいない。
信長公記は一次史料ではない。
0487人間七七四年
2012/01/02(月) 18:00:03.90ID:Bipb3bwdその言い方なら、一次史料は吟味や検討の必要はないのかな?
貴方は他スレで史料の恣意的解釈が目立つようだけど。
0488人間七七四年
2012/01/02(月) 20:14:31.16ID:NCBGxDXr463や466の定義は「古いから一次史料で内容は関係ない」と
言ってるようなものなんだけど。
そういう定義を教えてる学校や先生がいるってことなのかな。
だとすると日本の歴史資料はいいかげんという結論にも
つながるしなにかおかしな史観の下でそういうこと言い出してるような
匂いもする。
つまりは定義問題で「同時代なら内容は問わない」という定義を
振り回してるのだけどそれ自体を「正しい」というのがどういう
根拠なのか教えてほしいもんだな。
自分個人の考え?
0489人間七七四年
2012/01/02(月) 21:35:51.64ID:90CoNdWp>「古いから一次史料で内容は関係ない」と言ってるようなもの
全然違います。
古くても同時代の人間が書いていないものは一次史料ではありません。
>だとすると日本の歴史資料はいいかげんという結論にもつながるし
つながりません。
むしろ貴方のように「一次史料」という単語の意味を誤って使用する方がいい加減になってしまいます。
>どういう根拠なのか教えてほしい
歴史学上そういう意味で使われている、というのが根拠です。
なんならプロの歴史学者の方に聞いてみてください。
0490人間七七四年
2012/01/02(月) 21:45:31.01ID:1LwUj+kX0491人間七七四年
2012/01/02(月) 21:47:46.49ID:1LwUj+kX0492人間七七四年
2012/01/02(月) 21:55:09.40ID:90CoNdWpなぜ架空戦記スレを持ち出すのか分かりませんが、私は議論しているつもりはありませんよ。
もっとも>>489で述べた通り、これ以上その定義の根拠は何だと聞かれても、学者さんに聞いてみてください、
と答えるしかないところまで話が進みましたので、これ以上は多分話題にはならないと思います。
0493人間七七四年
2012/01/03(火) 03:02:56.57ID:HNBJJ/Vn逃げておいて
勝利宣言かよw
信長スレ飽和してるから、
もうこのスレ終了でいいでしょ。
0494人間七七四年
2012/01/03(火) 09:24:16.94ID:zecUyvkFもし会社の上司にするなら、信長、信玄、謙信の中で
どの人が一番理想的ですか、皆さん?
0495人間七七四年
2012/01/03(火) 10:02:43.57ID:50sb+AaR上司
信玄=謙信>信長
信玄は合理的で堅実だから心配が少く、謙信はキチガイだが生真面目なので信長よりマシ
敵にしたくない
信長≧信玄>謙信
信長は負けた後が恐い。信玄はすぐ侵略してくる。
旦那にするなら
信長>信玄>謙信
魔王の妻ってカッコいい。信玄は妻も子供も大事にしてくれるから。
0497人間七七四年
2012/01/03(火) 11:28:45.42ID:oifZnrDJ0498人間七七四年
2012/01/03(火) 11:30:00.03ID:9QeJ8QKe>旦那にするなら
信長の妻って正室のお濃は飼い殺し状態だったし、
息子達が多い割にはその母親はばらばらで、しかも母親が不明なのも多いから
相当ちぎっては投げちぎっては投げ、を繰り返していた事が伺われるぞ
そんな風に扱われるのが本当に幸せか?
0499人間七七四年
2012/01/03(火) 11:56:56.77ID:2A+2oEWw>>「リアルタイムに書かれたかどうか」「脚色があるかどうか」「中立性」といったものは、
一次史料である事とは関係がありません
大いに関係あります。伝聞をリアルタイムに書いている
武家では無い公家と言うある程度の中立性の担保が認められる公家の日記と違い、
生活のための収入を得る目的から書かれる軍記は、支払い元への便宜を図る記述も行うと共に
一次・二次史料などを収集し、その軍記の主役を持ち上げて
脚色編集しているので、事実を反映しているとは限らず、
この点において信長公記も例外ではなく、
一次史料ではなく三次史料です。
0500人間七七四年
2012/01/03(火) 12:01:39.19ID:hq4AJ3bG長男を殺すような人間だぞ
0501人間七七四年
2012/01/03(火) 12:14:49.87ID:va8fN3aw>信長の妻って正室のお濃は飼い殺し状態だったし、
歴史小説を根拠にされても説得力がないですよ
0502人間七七四年
2012/01/03(火) 12:15:53.53ID:ADPbKffg何十年と武田に尽くした重臣も粛清するし
諏訪も跡目相続させなかったし
0503人間七七四年
2012/01/03(火) 12:17:51.72ID:Qy5cCv7F今の価値観と昔の価値観で一緒に考えるのはどうかと。
まあ、母親が不明なのは記録上しょうがないんじゃない?
ちぎっては投げ、ちぎっては投げしているのはこの頃はどこも一緒だし。
0504人間七七四年
2012/01/03(火) 12:32:47.44ID:ooIkS/E2一般人を数万単位で虐殺した奴をキチガイ信長を上司にしたい奴とかいるの?wwww
0505人間七七四年
2012/01/03(火) 12:33:24.15ID:oAHe9oBQ違います。
「伝聞をリアルタイムに書いている」
「中立性の担保が認められる」
「脚色編集している」
「事実を反映しているとは限らず」
これらは全て一次史料である事とは関係がありません。
0506人間七七四年
2012/01/03(火) 12:51:16.26ID:UI700GzR信長は親族にはかなり甘いからその3人の中じゃ
信長がましかな
謙信はよくわからんしw
まあ一族での争いが無かった北条の方がいいけどね
0507人間七七四年
2012/01/03(火) 13:35:24.66ID:oifZnrDJ謀反した弟を一回許してさらに企てた弟を殺したらキチガイ扱いなのかw
穀潰しを追放しただけでキチガイ扱いなのかw
殺さないとまた刃向かってくる奴を殺したらキチガイ扱いなのかw
歴史を少しは知ってから書き込もう、な?
0508人間七七四年
2012/01/03(火) 13:47:25.25ID:ADPbKffgところで信勝の死亡に関与してる証拠ってあるの?
公記はあてにならない!!!って喚いてる神奈川県民さんも納得できるように証明できる?
0509人間七七四年
2012/01/03(火) 13:53:22.73ID:YEO5+V8x0510人間七七四年
2012/01/03(火) 14:28:37.07ID:gL+D0Ska部下の男、上司の女、アイドル歌手の三角関係を描いたラブストーリーです。
30年たってもいまだに根強いファンがいます。
無料動画なので、取り合えず5話まで見てください。
↓
超時空要塞マクロスTV&劇場版 Part53
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ranime/1324317769/462
0511人間七七四年
2012/01/03(火) 14:30:18.61ID:ADPbKffgいかれてるだろ?w
マジで言ってるんだぜ神奈川県民のだがはw
0512人間七七四年
2012/01/03(火) 15:04:58.28ID:YEO5+V8x0513人間七七四年
2012/01/03(火) 15:06:56.06ID:ADPbKffg反論できなくなってそっちに走ったかw
いいぜ、遠吠えしたいだけすればwww
0514人間七七四年
2012/01/03(火) 15:16:39.45ID:YEO5+V8x0516人間七七四年
2012/01/03(火) 15:35:39.45ID:YEO5+V8x謀反起こそうとしたんだから粛清されて当然だろ?
謀反した弟を一回許してさらに企てた弟を殺したらキチガイ扱いなのかw
穀潰しを追放しただけでキチガイ扱いなのかw
殺さないとまた刃向かってくる奴を殺したらキチガイ扱いなのかw
歴史を少しは知ってから書き込もう、な?
この理論そのままお返ししてやるよ
0517人間七七四年
2012/01/03(火) 15:38:42.36ID:2jXKIUh0歴史学、と一言で言うけど、関東と関西の学会では
前提も解釈も違うと言うのはよくある話でしょう。
この時代限定で、浅尾、橋本、三鬼、最近だと山本とか
公記の調査してる金子あたりもそっちのいう「定義」を採用しているか?
大体公記自体確認されてるので70以上あってその比較研究は
これからということに国家予算がついてるのだけど
どうして一言で「公記は一次史料」「定義も一つ」と言えるか
その根拠を教えてほしいということ。
歴史学者、とくくらずにもう少し具体的な学会、研究会
所属大学教えてもらえないか?
そちらが「定義は一つ」というのなら名前を複数あげてくれれば
迷惑はかからないだろう。
とりあえず、金子拓氏が「公記は一次」と言ってるのならその
出典はどれ?
たくさん論文書かれてるからこちらで調べて聞いてみるが。
0518sage
2012/01/03(火) 15:49:49.76ID:AQ8nvaMK0519人間七七四年
2012/01/03(火) 20:48:34.55ID:oAHe9oBQ関東でも関西でも同じです。
公記が一次史料である理由は、すでに書いたように同時代の人が書いたから。
公記同士の比較研究は関係ありません。
定義が一つなのは学問上そう決まっているからです。
以上の事は、どの学者さんにでも聞いてくださって結構ですよ。
どの学会・研究会・大学だろうと構いません。
0520人間七七四年
2012/01/03(火) 21:09:00.66ID:JBy6RCvo謙信はほっとけば本職の関東管領の方に行かないといけなくなるから
0521人間七七四年
2012/01/03(火) 21:57:12.17ID:oifZnrDJ謙信は関東出兵なんて略奪する為だけに行ったようなもんだぜ
わりかしマジで
長野が支配してた時上杉と盟約してたから上野が荒らされずに済んだ事がピックアップしてるしな
さらに北条と同盟だってするし一度ほいほい上洛してるし
0522人間七七四年
2012/01/03(火) 22:17:53.76ID:WX39t32E信玄のように女を手込めにしてものにするようなことはしなさそう
0523人間七七四年
2012/01/03(火) 22:19:02.64ID:WX39t32E信玄のように女を手込めにしてものにするようなことはしなさそう
0524人間七七四年
2012/01/03(火) 23:36:25.24ID:Kvn/Oj530525人間七七四年
2012/01/04(水) 00:16:45.36ID:rFoDGouF特に信長は中性的なイケメンらしかったから若い頃は女に相当モテただろう
息子の信忠に『松姫にこまめに手紙出しとけよ』と女のこまし方まで教えているし
レイパー信玄とは大違い
0526人間七七四年
2012/01/04(水) 08:09:25.66ID:U1gUPFyy略奪目当てだった説は成立しない、
でFAでてるよ。
で、信長が本気で怖がったのは信玄じゃね?。
でなきゃ最後の武田攻めであそこまで
虐殺しないだろ。
0527人間七七四年
2012/01/04(水) 10:54:17.77ID:flOU0Bxf0528人間七七四年
2012/01/04(水) 11:03:41.65ID:gsgFSfj30529人間七七四年
2012/01/04(水) 12:05:26.39ID:ZuP2iPx4でさ、なんで公記が一次史料だと主張してる人名を全く挙げられないで、
ひたすら曖昧にして逃げ回るの?
0530人間七七四年
2012/01/04(水) 13:31:27.47ID:02FpalIi>>525
織田厨の妄想極まれりだな。
信長は秋山信友の嫁になったゆうを、姦婦呼ばわりして自ら切り殺している。
その際、ゆうは
「織田の女達は信長1人の為に不幸になっていった」と言い残してる。
それに中性的イケメンだの何だの現代日本臭い価値観、当時にはない。
そもそも信長が中性的だとかイケメンだとか、それ自体痛い妄想だけど。
0531人間七七四年
2012/01/04(水) 13:43:10.37ID:2NWlXkV9そんなことをしたら、およそ日本の歴史学者全ての名前を挙げなくてはなりませんよ。
そこまで一次史料の定義にこだわるのであれば、それなりに歴史学に興味があるんでしょうから、どうぞご自分でお聞きになってみてください。
0532人間七七四年
2012/01/04(水) 14:07:38.00ID:M+joJc4O和田裕弘や桐野作人レベルでさえ
牛一は一種の売文家と評されるように
注文主に応じて増補している。
日記や書状類とは同列には扱い得ない。
などと書いてるのに
なにが公記は一次史料だよwウソ連発ワロスw
0534人間七七四年
2012/01/04(水) 15:15:30.72ID:2NWlXkV9わざわざ言う必要もないくらい当たり前だから例がないんですよ。
あなたこそ自分の考えが否定されるのが怖くて聞けないのではないですか?
0535人間七七四年
2012/01/04(水) 16:24:38.42ID:364qaM1a0536人間七七四年
2012/01/04(水) 21:35:36.45ID:4h+wxoAFだからこそ貢ぎ物を沢山やってるんだろうね。
真正面から戦えばひょっとしたら負けると本気で思っていたはず。
ただでさえ、多方面作戦をして全てに勝ってるわけでもなく、単に
多人数で攻め勝っているだけだから、本格的な戦上手と戦ったら
負けると思ってたんだろうね。
仮に光秀や秀吉がトップでも勝てない可能性のが高い。
それに信玄と同じく、慢性的な財政難で有力大名と戦って大負け
したら国人集も一斉に離脱するだろうね。
0537人間七七四年
2012/01/04(水) 21:58:13.87ID:ZQkZDxzJ楽したいだろうしな
0538443
2012/01/04(水) 22:33:49.83ID:EFm+4FKZ信長が上司なんて常にロシアンルーレットやってるようなものだろうと思うが・・。
0539人間七七四年
2012/01/04(水) 22:44:46.23ID:gsgFSfj30540人間七七四年
2012/01/05(木) 00:37:33.70ID:dhcf0FDy>>530
秋山嫁は流石の信長でも許せないだろ
裏切り者で一族の恥だしな
あれを許したら他に示しがつかんわ
>織田の女達は信長1人の為に不幸になっていった
信長のせいで不幸になった織田の女って誰よ?
秋山嫁は自業自得でただの逆恨みだろ
つーか逆に信玄のせいで不幸になった武田の女は知っているけど
禰々=信玄に夫をぶっ殺された
黄梅院=信玄のせいで離婚
松姫=信玄のせいで行かず後家に
0541人間七七四年
2012/01/05(木) 08:14:51.64ID:tdlJoJR+降伏して秋山の言いなりになるしか道は残ってないのだから
0542人間七七四年
2012/01/05(木) 09:01:06.38ID:3/PEnqNnその時の状況を鑑みないで、送らなかったからで済ませるのはどうかと思う。
まあ、その前に秋山は関係ないと思うが。
0543人間七七四年
2012/01/05(木) 09:06:09.71ID:Vo6zjDew0545人間七七四年
2012/01/05(木) 10:02:41.83ID:OT7W5tHm例え親族衆の男でも同じ様に武田に無条件降伏→織田にあっさり転向
なんてしたら織田方に殺されるわw
0546人間七七四年
2012/01/05(木) 10:07:46.93ID:Vo6zjDewおまけに無抵抗の女子供を虐殺しまくってるのが自称フェミニスト信長だ
0547人間七七四年
2012/01/05(木) 10:45:23.88ID:YR+Fcrp3長政の母親の指をじわじわ切りおとしたりする極度のサド
0548人間七七四年
2012/01/05(木) 11:21:48.48ID:lYTIh4ZJ男も女も性別関係なくグーパンで顔面殴れるやつこそ真のフェミニスト。
戦国時代なら撫で切りだな。
0549人間七七四年
2012/01/05(木) 11:40:02.77ID:Vo6zjDew0550人間七七四年
2012/01/05(木) 18:01:59.27ID:e1LI/Rbaなんか、歴史学者、歴史学会、とまとめて書いてあるあたりが気になる。
そんな普遍的なのは存在しないしもしかして小和田あたりの本を見て
歴史を知ったつもりのレベル?
たまに同じような表現をする人が現れるけど同一かね。
名前を出せないのなら研究会でいいから教えてもらえないかな。
0551人間七七四年
2012/01/05(木) 18:52:53.54ID:OZKH8trU>どの学者さんにでも聞いてくださって結構ですよ。
>どの学会・研究会・大学だろうと構いません。
0552人間七七四年
2012/01/05(木) 20:39:19.48ID:ONZFcwWy誰がそんなこと言ってるのw
だってさ。
おかげで恥かいたんだけど責任とれるの?
0553人間七七四年
2012/01/05(木) 20:46:51.03ID:b6UB/6A5名前ぐらい出せるよね?
嘘だと偽計業務妨害になるかもしれないから心して応えなよ?w
0554人間七七四年
2012/01/05(木) 20:46:56.16ID:arWVHoUL0556人間七七四年
2012/01/05(木) 20:55:03.06ID:arWVHoUL0557人間七七四年
2012/01/05(木) 21:01:10.21ID:ywpcixfX>>550-554は、史料スレ?で決着つくまで話し合ってこいよ。
なんで戦国時代の史料が極端に少ないのか?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293967094/l50
0558人間七七四年
2012/01/05(木) 21:04:43.47ID:Coj05OMLさすがにそんなのは信長厨でも思ってねーよ
信雄や書状の話見てると親バカだとは思うけどな。
つかいつまで一次史料のこと言い合ってんだよw
いくらなんでも見苦しすぎw
信長公記が一次史料ではない=信長公記は江戸時代、明治時代にできた史料ということ
それを証明できない以上信長公記は一次史料だろ馬鹿w
0560人間七七四年
2012/01/05(木) 21:08:00.10ID:Coj05OMLマジレスするとこんなの他のスレでも受け付けてくれない
あまりに基礎事項すぎて他のスレ住民に馬鹿にされるのがオチw
0561人間七七四年
2012/01/05(木) 21:09:24.05ID:Yw4lkUay>>559には済まない事をした。
あとは放置でいいよ。俺も放置するから。
0562人間七七四年
2012/01/07(土) 23:14:58.71ID:roxxIzXk上杉と北条は強いから、
弱い織田を倒す選択をしたのは賢かった。
0563人間七七四年
2012/01/08(日) 12:57:46.18ID:ck5sixeW徳川○
信玄はせいぜい包囲網のドサクサににかこつけて三河と遠江掠め取るぐらいのビジョンしかなかっただろうよ。
0564人間七七四年
2012/01/08(日) 14:39:42.85ID:qSXlCtC90565人間七七四年
2012/01/08(日) 14:45:56.63ID:UgUbuX90結果的に武田が引き上げたお陰で命拾いしただけ 自分ではなにも打開できなかった
0566人間七七四年
2012/01/08(日) 20:59:02.38ID:5iURpj7D長男殺した、って誰がいったんだ?
謀反した義信を信玄は数年にわたって生かしてる
その最後も病死とも自殺とも言われてる
少なくとも「信玄が殺した」わけではないな
>>501
信長正室のお濃は輿入れ後は資料にほとんど現れず、
後の有力な信長息子達の母親にもなっておらず
はっきり言って存在感希薄すぎ
常識的に見れば飼い殺しになっていたとしか見れない
むしろお濃を信長の愛情受けたとか、その側に常にいたとかしてるのが歴史小説であって
史実で見ればお濃は信長の愛情を特に受けなかった事跡不明の飼い殺しの正室でしかない
>>502
弟を殺した?誰が?
信長が弟の信行殺したのはれっきとした史実だが、それがどうかしたのか?
飯富は謀反企てたから殺されただけだし、諏訪は勝頼に継承させたが?
てか、数十年前の事穿り返して重臣粛清して、他家乗っ取って跡目相続させなかったとかいうなら
織田がぶっちぎりだろ
0567人間七七四年
2012/01/08(日) 21:02:09.75ID:5iURpj7Dちゃんと室として扱われているならばその記録や事跡は史実に残る
信玄の息子の母親達はほぼ明らかになってる
特に正室三条婦人とは仲良しだった事は記録にもあり、さらには信玄の息子数人の母になってる事からも
それは裏付けられる
それに比べたら信長の場合は明らかにひと時遊んで捨てて、の繰り返しだったと見られるな
0568人間七七四年
2012/01/08(日) 21:10:00.86ID:5iURpj7D史実?ああ、信勝の2度目の謀反露見は当時他の家臣を寵愛した信勝から阻害されていた柴田の密告によって
明らかにされたといわれている
しかし柴田の密告が事実であるならば、なぜ信勝は当時阻害していた柴田に大事を打ち明けたのか、という話になる
その後の柴田の行動から見ても、単に信勝の寵愛が他に移った事を憤った柴田が信長に寝返っただけに見えるが
ゴク潰し?佐久間とか直近まで本願寺戦司令官として働いてたが?
お前の中では普通に働いてる奴もゴク潰しなのか?
そんな価値観ならそりゃ謀反されるわけだ
殺さないと歯向かってくる?一向宗だって普通に命は惜しいだろ
だから降伏申し入れたわけだし
ま、信長が騙まし討ちにして虐殺したせいで一族が大量に殺されて、
挙句の果てに後々まで自領の癖に宿泊拒否される事態になったんだよな
0569人間七七四年
2012/01/08(日) 21:14:39.69ID:nuRG9Hze0570人間七七四年
2012/01/08(日) 21:14:58.63ID:5iURpj7D毎度毎度一人認定ばっかで
同じパターンの口調併用して別IDで二組一セットで書き込む自演楽しいか?
ゴミニートの価値観ってそんなもんかもしれないが、
とりあえず信長の行動で信長公記参考にしないんだったら
ぶっちゃけ織田信長の歴史なんて中身スカスカで謎だらけで正体不明
本来2次資料に過ぎない信長公記にでも頼らないと研究ろくにできないのが
信長の実態だから信長公記がやたらと使われてる
でも2次資料で織田家万歳の大田が書いたもんだから色々変なところもあるんで
一次資料とのすりあわせや内容精査が必要になるわけな
そこら辺理解できた?妄想全開自演ゴミニート織田厨君
0572人間七七四年
2012/01/08(日) 21:22:48.91ID:5iURpj7D手篭めにしたって誰が?
信長のほうが母親不明の息子が何人もいることからして
手篭めにして捨てて、を繰り返してたんじゃねーの
信玄に関しては、諏訪姫相手でさえちゃんとした側室として迎える為の輿入れだぞ
軍鑑でもはっきりと諏訪姫を室に迎える為の合議を開いて、それから正式に側室として迎えてる
>>525
信長が中性的なイケメン〜〜?どこの世界の話だ、それ?
狩野筆肖像画見れば明らかに神経病みまくりの疲れた中年男性だろ
もてるとかじゃなくて普通に殿様の権威やら力使って手篭めして捨てただけだろ
母親が正体不明の息子達が何人もいるとか、凄すぎだろ
0573人間七七四年
2012/01/09(月) 02:31:30.83ID:Jh1aUwQTわかってたわけだ。
責任取るところは偉いじゃないか。
0574人間七七四年
2012/01/09(月) 10:20:35.39ID:dOhwcOqQ信玄は親の仇なんだしさ
0575人間七七四年
2012/01/09(月) 10:34:20.72ID:EeJWWZqC義弟は騙し討ち
その義弟の娘を浚って力尽くで妾に据える
長男である実子は幽閉の後処刑
その守り役の重臣も連座で処刑
盟約破棄は日常的
こんな男に誰がした
0576人間七七四年
2012/01/09(月) 14:06:16.73ID:KeKFRhZw0577人間七七四年
2012/01/11(水) 17:14:52.54ID:npDQ3DqIレイプ?普通に室として迎えてるだけだろ
ま、それいったら信長なんざ奪って捨てての繰り返しで本当の下種だな
>>575
実親は騙してry→甲斐国民大喜びで民意そってました
義弟騙ましry→最初に協定破ったのは諏訪です
義弟の娘を妾→普通に側室として迎えてる、扱いもれっきとした貴人対応
長男ry→処刑なんかしてない。2年間生かしており、何度も仲を調停する試みがされていた
その最後も自殺とも病死ともいわれる、どっちであっても信玄が処刑した事実は存在しない
重臣処刑→謀反の首班だから仕方ない
盟約破棄→日常って何が?三国同盟は20年以上続いてて、最後も今川が上杉と組んで武田を包囲したのが契機
0578人間七七四年
2012/01/11(水) 17:19:10.80ID:npDQ3DqIゴミ長の実態
青年時代から嫌われまくり
守役にも守り立て甲斐無しとして自害される絶望的素行
母親不明の息子多数、女ポイ捨て日常茶飯事
弟謀殺、他の親族も殺す
重臣を20年以上前の事穿り返して粛清、というか粛清日常茶飯事
領内は常にどこかで反乱オンパレード
死んだ後はそっこーで反乱続出、家臣も家臣で誰も織田を守ろうとせずに崩壊
和睦詐欺、騙まし討ち、欺瞞土下座、盟約破り、約束不履行、なんでもござれで日常茶飯
こんな最低人格にどうやったら信長はなったんだろうな
0579人間七七四年
2012/01/11(水) 19:34:50.28ID:5j2dT64Vそもそも包囲なんて今川上杉の関係を積極的に評価してるやつはいない
信玄に裏切る兆候があるから、裏切ったら知らせるをどう読み取ったら包囲になるんだかw
0580人間七七四年
2012/01/16(月) 12:00:29.12ID:X16gK5zHただ、信玄死後は、謙信を最も恐れていたと思われる。
0582人間七七四年
2012/01/16(月) 15:58:24.85ID:UL9lXk09って理由で信玄の方がやばかっただろうね。
0583人間七七四年
2012/01/16(月) 16:01:40.42ID:sqWPgo4H0585人間七七四年
2012/01/21(土) 01:51:19.09ID:WQrSEa9R川中島とか相手より兵が多いのに勝ちきれない。味方が原は倍以上の兵力があったから
勝って当然。
ながしのが実力じゃないの?教えてえらいひと
0586人間七七四年
2012/01/21(土) 07:54:42.30ID:E65yKilo謙信が長生きしてたら御館とかその後のゴタゴタもなくてだいぶ歴史の流れが違った。
0587人間七七四年
2012/01/21(土) 08:42:37.12ID:7nGidqTo0588人間七七四年
2012/01/22(日) 02:28:01.46ID:r+p0teXc謙信にチャンスがあるとすれば毛利がどこまで頑張れるかどうかだと思う
ただ毛利の当主はあの輝元だしなあ・・・・
0589人間七七四年
2012/01/22(日) 19:23:47.25ID:CWUKmEcH信玄の西上の時は、信玄得意の調略もあり
美濃や近江でも離反が出てて
信長の実質支配は80万石以下。
織田に余裕がまったくないのに乗じて
毛利は火事場泥棒で東進。
謙信上洛戦の時は手取川で織田を排除して加賀を領国化してるし
毛利も義昭を自領に呼んで本気で織田攻撃をしている。
信玄も謙信も死んでなければ信長を潰して上洛に成功していた。
0590人間七七四年
2012/01/22(日) 20:40:13.56ID:NW95adFN0591人間七七四年
2012/01/22(日) 23:59:40.41ID:Zk4oIz69引っ込め知ったか荒らし。
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/687
武田信玄上洛成功
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287332671/801
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287332671/810
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287332671/813
島津家久公之スレ
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251381553/302
信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1295693653/589
0592人間七七四年
2012/02/02(木) 09:10:03.64ID:KHLNNSfg信長の戦績は全勝無敗なのがわかる。
武田や上杉ごときは、
信長が前線で怒号を放つだけで大敗させられるのがオチ
0593月孔雀
2012/02/02(木) 10:59:42.97ID:orQws2rR0594人間七七四年
2012/02/02(木) 11:52:23.79ID:2aef+K0d病持ちの信玄が53も生きりゃ充分だろ
信長が53まで生きてたら天下統一してただろうし
0596人間七七四年
2012/02/02(木) 17:55:58.84ID:4GuP7lhUこういう神がかりの何考えているか分かんない
人は正直恐ろしい。
0597人間七七四年
2012/02/02(木) 18:12:07.82ID:eYhTM+AM義龍が尾張で内乱起こさせまくってたからなぁ。
弟の信勝の謀反も義龍の後援だし
義龍が病没してくれなかったら
信長は大規模内乱で死んでただろうね。
0598人間七七四年
2012/02/02(木) 19:44:03.30ID:cghDFd+E0601人間七七四年
2012/02/03(金) 00:21:57.35ID:kfkurpTT斎藤が追撃もまともに出来ないような機動力ゼロの軍勢でもない限りは
0602人間七七四年
2012/02/03(金) 06:55:08.89ID:1a4doiF5願望妄想で返答するキチガイ
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
0603人間七七四年
2012/02/03(金) 07:11:32.43ID:lY+ZbTtwおめでたい思考だなw
0604人間七七四年
2012/02/03(金) 19:11:11.07ID:D0JQsEt8改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
0605人間七七四年
2012/02/03(金) 20:06:01.27ID:NCI6p6mv0606月孔雀
2012/02/03(金) 20:19:19.86ID:p0doy4nt0607人間七七四年
2012/02/03(金) 23:01:13.34ID:kfkurpTT全力で侵攻しなくてもせめて砦の一つや二つくらいは取ってもおかしくないぞ?
たとえ浅井がいてもさ
しかし斎藤が尾張に侵入した形跡は皆無なんだよなあ
0608人間七七四年
2012/02/05(日) 19:21:53.15ID:E9FYuUis信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。
実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。
事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに
描かれているあたり、所詮信長公記も軍記でしかないわな。
0609人間七七四年
2012/02/07(火) 11:18:01.49ID:R2Ct6aXj幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
0610人間七七四年
2012/02/07(火) 12:01:24.37ID:B+/ewNXW0611人間七七四年
2012/02/07(火) 13:35:27.04ID:l+oMXANa0612義経
2012/02/07(火) 16:21:31.36ID:sVv91E0v兵脳分離でさ、まけてもすぐに出兵できるのがミソ。
信長軍団に野戦で勝ったのは上杉謙信しかいないんじゃね?
0613人間七七四年
2012/02/07(火) 17:11:46.79ID:6r/aMvlM生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず
運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。
普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。
幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない
兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。
1546年
信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年
信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年
舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年
桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
スーパーラッキーパンチ。
0614人間七七四年
2012/02/07(火) 17:12:24.94ID:6r/aMvlM1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年
鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。
あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出して
たまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。
逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
0615人間七七四年
2012/02/07(火) 17:12:59.39ID:6r/aMvlM幼君に不安を感じた美濃三人衆寝返る。
これに乗じて稲葉山攻略
これより信長は畿内・伊勢の侵攻に移る。しかし相変わらず…
1567年
楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年
義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年
北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年
朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年
姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る
0616人間七七四年
2012/02/07(火) 17:13:39.03ID:6r/aMvlM伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。
氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年
信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年
武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
0617人間七七四年
2012/02/07(火) 17:14:24.73ID:6r/aMvlM反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。
朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。
伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
朝倉浅井を滅ぼし、年号も天正に変わって更なる戦いに臨む信長。
しかし相変わらずその戦いには悲惨な前途が待ち受けているのであった。
1574年
越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年
家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討しはじめる
0618人間七七四年
2012/02/07(火) 17:43:09.68ID:GmdGYD/1本願寺も出ていったな
0619人間七七四年
2012/02/07(火) 17:46:58.69ID:6r/aMvlM0620人間七七四年
2012/02/07(火) 17:51:20.03ID:GmdGYD/10621人間七七四年
2012/02/07(火) 19:56:30.90ID:eKJXOUV4織田家
本能寺の変で信長と信忠が死ぬ
関ヶ原で豊臣準一門だった秀信が改易され信忠系は絶える。
信孝は賤ヶ岳のgdgdで自害してこれ以降信孝系も絶える。
信長弟では老犬斎と有楽斎の家系が奮闘して大名に。
信長子息では織田信雄が最終的に大名に返り咲く。これ以降信雄系が信長子孫の主流に。
七男信高、九男信貞が関ヶ原の戦功などで旗本に取り立てられる。
武田家
武田征伐によって武田勝頼、仁科盛信、武田信勝、武田信廉、葛山信貞、武田信豊、一条信龍ら数えきれないほどの一族衆が多く死ぬ。
武田勝頼には信勝の他にも勝親という子供がいたらしいが、そのまま歴史の表舞台から消えている。
武田勝頼の兄である義信は廃嫡され、男子なし。その弟の武田竜芳は息子を逃がして自害、息子の信道は後に高家旗本になる。
その弟の信之は夭折。ここまで勝頼の兄たち。仁科盛信の子孫たちはのちに徳川旗本となったようだ。
弟の葛山信貞は甲斐征伐で死亡しこの家系はここで断絶。そのまた弟の武田信清はかつての仇敵上杉家を頼るという屈辱的な対応を迫られた。
勝頼の父信玄にも山ほど弟がいたが、長篠で死んだ武田信実の子孫が旗本に取り立てられる以外は目立った躍進はなし。
まとめ
織田家は大名として織田信雄系、老犬斎系、有楽斎系など主流三家を残し安泰。
旗本としても信高系、信貞系ほか数家が残った。
武田家は仁科五郎、武田竜芳、武田信実の家系が旗本として残ったものの、
それ以外の家系は概ね断絶あるいは他家の家臣へと転向するなどして、大名に返り咲いた家系はゼロ。
よって武田家の敗北。ID:6r/aMvlMは涙をのむ結果となった
0622人間七七四年
2012/02/07(火) 20:26:16.46ID:4X4OtFo5徳川御三家の水戸藩の前身だし。
0623人間七七四年
2012/02/07(火) 20:31:26.64ID:eKJXOUV4しかも武田信吉が継いだのは正確には穴山家だし。
0624人間七七四年
2012/02/08(水) 11:39:17.11ID:mEb7fqIF信玄上洛の時の織田は十数カ国の太守とか、時間軸がちょっとずれてるところがあるから話半分で読んだほうがいいんじゃね、森田善明
0625人間七七四年
2012/02/08(水) 22:04:55.86ID:xmeqYL4+実質支配力ではなく、
あくまで名目的なものを杓子定規にすれば
間違ってはいない。
信長は義昭上洛成功の翌年には播磨や但馬まで遠征軍を派兵して
勢力圏に編入してる。
信玄西上中に毛利に火事場泥棒されているがw
0626人間七七四年
2012/02/08(水) 22:52:44.71ID:KTPiTSxHあくまで追放された山名の救援に出ただけ。
結局その後も山名が戻って領地治めてるしな
0628人間七七四年
2012/02/08(水) 23:04:41.91ID:xmeqYL4+木下や池田らが山名を滅ぼしたんだ。
山名は信長に大金払って帰国を許されただけ。
毛利に対しても再三に渡り、
信長は但馬は織田のだと主張してるし、
浦上には播磨、美作、備前の支配を信長は許していた。
0629人間七七四年
2012/02/08(水) 23:08:39.57ID:KTPiTSxH0631人間七七四年
2012/02/11(土) 17:51:44.17ID:D1PzB4Kzそりゃあ泣きつかれた結果の恩赦なんだから領有権は主張するだろ
実行支配できているかどうかはまた別問題
0632人間七七四年
2012/02/19(日) 15:55:09.31ID:P+sErgHu0634人間七七四年
2012/02/20(月) 02:59:45.57ID:OHLF8v/u0636人間七七四年
2012/02/20(月) 17:51:05.18ID:M74H6Oxu都合の悪い事実は見ようとしない武田厨w
0637人間七七四年
2012/02/20(月) 18:55:43.54ID:E5+54m2I即断即決型がいいか、信玄、家康のような合議制みたいな
のがいいかどっちいいすかね?
0638人間七七四年
2012/02/20(月) 18:58:47.55ID:J3hQE44W0639人間七七四年
2012/02/20(月) 23:58:22.52ID:c6/OSSBj0640人間七七四年
2012/02/21(火) 11:10:12.20ID:W2Q0kViYってタイプに当てはまるのはその中じゃ武田家じゃないっすかね。
三河家はかなり独裁色強いと思う。
0642人間七七四年
2012/02/21(火) 21:36:02.49ID:FXnUj0bj0643人間七七四年
2012/02/22(水) 00:54:55.98ID:AhYJwOY/通説としても定番だけど、上洛する信長にとって東の信玄は相当面倒臭い悩み種だったのは間違い無いと思うけど。
現に信長は越中一揆鎮圧に邁進してた上杉に信濃へ攻める用に頼んでるでしょ?
信玄が浅井や朝倉や本願寺勢力を煽って信長を足止めしようとした様に、
信長は上杉や徳川を動かして自分が入京するまで信玄を抑えたかったと推測するのが頗る自然なんだけど。
だいたいにして、あの時期に信長が警戒すべきは信玄と謙信なのに
それを「違う」ってのは無理がある。
0644人間七七四年
2012/02/22(水) 01:11:36.03ID:AgZ48Wfl信長 上洛はできなくなるが別に問題が起きるわけではない
信玄 織田と組めなかったら上杉・北条・徳川にやられる恐れ大
それで家臣に「いま信長に見捨てられたら滅亡だ」という書状を出してるらしいし
0645人間七七四年
2012/02/22(水) 01:48:41.43ID:bUPYj0u2まず、時系列が無茶苦茶
そもそもからして「何が」違うのか明確じゃない
突っ込まれるとそう言う意味の違うじゃないとか言い出すんだろw
>>642が指摘してるのは武田から尻尾振っていったって事
それが全てだろ
0646人間七七四年
2012/02/22(水) 18:17:31.10ID:BSFpEmKAはっ?何が言いたいんだ?お前は池沼か?
0647人間七七四年
2012/02/22(水) 18:27:17.03ID:bUPYj0u247 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/14(火) 22:50:15.21 ID:Kmz5yGgs
>>44
たった三分しか税をとらなかったのか、
三公七民の善政とはすごいな。
三分収めたら残りは納めることはない。
その後は文が抜けてて主語が誰なんだかサッパリわからん。
棟別銭を半分にしてやったから
新築して繁盛しまくりって書いてあるから
父の時代と違い、信玄が税を軽くする政治で民が豊かになったと書いてんのか?
0648人間七七四年
2012/02/22(水) 18:48:33.13ID:BSFpEmKAで、その原文のソースは?
戦国遺文元亀3年8月に絶対あると君は主張してるが
現実には何度探しても存在してないんだけど。
0649人間七七四年
2012/02/22(水) 19:02:49.88ID:WWdpmG+D↓
原文出せ
↓
原文を全部出せ
↓
日付と宛名も出せ
↓
その史料は捏造だ!
or
そんな史料は存在しない! ← new!
0650人間七七四年
2012/02/22(水) 20:40:12.48ID:A89HLZbl0651人間七七四年
2012/02/22(水) 21:21:38.50ID:bUPYj0u2ほうほう
じゃあ代わりに教えてあげよう
その代わり、戦国遺文にあるという彼のレスを君が提示したらねw
捏造もほどほどになwww
0652人間七七四年
2012/02/22(水) 21:22:55.92ID:bUPYj0u2曲解しそうだから厳密に言っておこう
>>47の原文を示したと考えられる人間が、その引用元が戦国遺文にあるという発言のレス
な
その誤訳みたいに曲解するなよw
0653人間七七四年
2012/02/22(水) 22:56:06.74ID:QmPn3Owa確かにあのとき織田と友好関係じゃなかったら武田は滅んでいた可能性あるな
つーか本当に信長にとって武田が脅威ならあのとき上杉北条徳川と組んで潰していたんじゃね?
0654人間七七四年
2012/02/22(水) 22:57:10.16ID:PUPSZzad0656人間七七四年
2012/02/23(木) 23:39:01.58ID:CvP+I76x0658人間七七四年
2012/02/24(金) 20:17:13.19ID:RgP2wyQu0659人間七七四年
2012/02/24(金) 20:37:07.74ID:AA7P8lgF0660人間七七四年
2012/02/24(金) 20:51:44.59ID:hORpuViq美濃攻略できたとか
上洛できたとか増長してんのかよワロタw
0661人間七七四年
2012/02/24(金) 20:54:26.04ID:DautaOuB足利義昭から上洛救援要請
↓
信長が斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤は受諾
↓
破棄、斉藤領土襲う
↓
敗北
0662人間七七四年
2012/02/24(金) 21:26:45.12ID:Y57GrO/x信玄も信虎にバレていたら、村上に討たれていたら、幸隆が味方になってくれなかったらとか山のようにあるわけで
起きてない事象を持ち出しけなすとか相変わらず妄想癖の激しい奴だ
0663人間七七四年
2012/02/24(金) 22:12:34.99ID:INAGQWr8織田厨涙目乙
0664人間七七四年
2012/02/24(金) 23:02:57.51ID:Y57GrO/x涙目になるのは織田に滅ぼされた武田ぐらいじゃないかなぁ
上杉は生きてたというのに…w
0665人間七七四年
2012/02/24(金) 23:10:19.53ID:CW1u5qNw0666人間七七四年
2012/02/24(金) 23:51:47.84ID:FWMgDTp5別の家臣に家を乗っ取られて息子を殺されたりするのと、
天寿を完うできたのとを比較したら後者の方いいな。
0667人間七七四年
2012/02/25(土) 00:00:37.37ID:ugiUZ3zV真相
足利義昭から上洛救援要請
↓
信長が斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤は受諾
↓
斎藤「騙されてやんのwwww」
↓
織田軍敗北 斎藤「ざまぁwwwww」
↓
斎藤「将軍を軽んじるつもりはない。ただ織田が気に入らなかった」書状で弁解。
斎藤家中島文書に見える斎藤家の嘘
・足利義昭を軽く見るつもりはない、織田が上洛しなかったから悪い
→大嘘、足利義昭の協力者である織田信長を急襲しておきながらのこの言い訳。結局織田斎藤が近江に来れなくなったせいで足利は越前に。
・織田軍は天下一の臆病者、大惨敗だ
→死者も負傷者も不明。死んだ名のある武将もいない
・勝手に織田が入ってきたから追い返してやった
→戦場の河野島は木曽川流域。木曽川以南は織田領。つまり斎藤は織田領ギリギリで織田を襲った
0668人間七七四年
2012/02/25(土) 00:23:00.13ID:G1yd6ctS織田が勝ってなかったら美濃三人衆が寝返ってきたりしません
>>666
滅ぼした相手に家を再興されて捏造話で持ち上げられ、歴史研究によってそれが暴かれる
武田家のような末路がお望みで?w
0669人間七七四年
2012/02/25(土) 01:03:31.32ID:nHOsGxuz調略の成功をムリヤリ合戦での勝利と一緒にする
調略っつうのは事前の工作や金品や自家の統制支配力などで成功するかどうか決まる事も理解できない馬鹿
赤井戦での波多野離反、播磨での離反&国人蜂起、関が原での西軍の内応
例をあげればキリがない
織田厨馬鹿はそういう事が全く理解できず負けた史料を無視
戦で負けてたら調略されるはずはないなどと勝手に妄想
斉藤が幼君で家中でクーデター騒ぎおきる程、おまけに浅井とも激しく交戦してたのを無視
馬鹿は死んでくれ
お前の好きな雑魚長は美濃を火事場泥棒しただけ
0670人間七七四年
2012/02/25(土) 01:05:22.99ID:nHOsGxuzまんま織田のことだろ
勝手に妄想してんじゃねえよボォケwwww
0671人間七七四年
2012/02/25(土) 01:07:38.14ID:nHOsGxuz雑魚長が勝ってたら離反なんてされるわけねえしw
0672人間七七四年
2012/02/25(土) 01:21:19.62ID:pXWPdaJA0673人間七七四年
2012/02/25(土) 01:25:47.21ID:nHOsGxuz0674人間七七四年
2012/02/25(土) 01:52:38.91ID:ugiUZ3zVなんのために織田秀信がいると思ってるんだ?
武田厨のコピペ
斎藤龍興
織田信長に終始優勢でだまし討ちも看過する逸材。
にもかかわらず18のガキにやられた信長になぜか家臣が殺到して美濃を追われる。
浅井長政
織田信長をものともせず姉川でもぶっちぎりで織田に打撃を与える。
終始織田に優勢だったが城の管理がまともにできず佐和山城、横山城を織田に盗まれる。
朝倉義景
織田信長の天敵で終始織田を圧倒していた。しかし領土欲がなく野心もなかったがために織田の専横を許す
挙句撤退しようとしたところを信長に見透かされ事故死。
足利義昭
15代将軍、のちに織田信長と対立。堅牢な二条城からボロ城の填島城へと引っ越しをする。
信長が泣きつくくらいの苦境だったにもかかわらず引っ越し費用に金兵糧を使い切り、あえなく信長に京を追われた
本願寺顕如
石山本願寺総帥。伊勢長島や越前の一向宗らと協力し武田信玄や足利義昭を援護して信長を苦しめる。
しかし超がつくほどのチキンで土壇場になって作戦を変更して武田、足利、伊勢長島と味方を数多く見捨てた。
武田信玄
武田家当主、当代一の無能者。信長の6倍の兵力を所持していたにもかかわらずやることは若造の家康いじめと方法が姑息。
しかも信長にビビって攻めあぐねていたところを冬場に徳川勢と長対陣し体を崩して撤退途中に信濃で野垂れ死に。
死後武田家は信長に滅ぼされるという絶好の好機を逃した無能当主
0675人間七七四年
2012/02/25(土) 01:58:47.48ID:nHOsGxuz坂本の明智軍はすでに崩壊
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
0678人間七七四年
2012/02/25(土) 09:43:39.01ID:Qm3dQLfPこれが武田厨の頭かぁ…
アホしかいないんだな
これじゃ武田厨の言うことなんか信憑性皆無になるわけだ
0680人間七七四年
2012/02/25(土) 14:14:46.81ID:yHd8zryd家臣がやりたい放題するための傀儡として秀信がいただけだろ。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった25日後には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
信長が重用してた織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよって、ポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに無理だな。
どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
0681人間七七四年
2012/02/25(土) 14:15:17.26ID:yHd8zryd龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。
0682人間七七四年
2012/02/25(土) 14:26:52.39ID:nHOsGxuz雑魚長が勝ってたら離反なんてされるわけねえしw
0683人間七七四年
2012/02/25(土) 15:39:34.64ID:G1yd6ctS0684人間七七四年
2012/02/25(土) 21:49:38.82ID:eXXXs02Z0685人間七七四年
2012/02/25(土) 22:08:23.72ID:ugiUZ3zVただのお飾りなら中納言とか貰えねーよ
挙句主君秀吉が自分のおばを娶ったおかげで自分は羽柴準一門
一旦明智のせいで滅亡しかけた家としちゃ破格の扱い
どこぞの家は家康にやりたい放題された挙句大名として復帰しなかったよなw
誰だったっけあ武田だったわw
0686人間七七四年
2012/02/25(土) 22:13:47.59ID:ajr/Vrk20687人間七七四年
2012/02/25(土) 22:54:27.33ID:ugiUZ3zV中納言で豊臣家中ではかなりの序列
豊臣家準一門
これのどこがお飾りなのか逆に聞きたいな
まあ織田も滅んだと言いたい武田厨には厳しい事実だろうなw
実は織田が滅ぶのは明治維新の版籍奉還までなかった、なんて
0688人間七七四年
2012/02/25(土) 23:02:59.21ID:nHOsGxuz出兵したり織田家再興が「実質的に」なされた事実を
論証してから言ってくれ
0690人間七七四年
2012/02/25(土) 23:27:51.50ID:nHOsGxuz信清とか仁科の子供とか生き残ってるし
0691人間七七四年
2012/02/25(土) 23:31:29.36ID:cWcd5XTIんで旧武田家臣たちは何していたのかな?
保科にしろ真田にしろ自分の出世ばかりに躍起で旧主家なんて完全無視していたろうが
まあ彼らは強欲の限りを尽くした信玄を見習っただけかも知れないが
秀吉や家康がそれなりに織田家を尊重していたのとは大違いだな
0692人間七七四年
2012/02/25(土) 23:39:32.24ID:nHOsGxuz秀吉は天下取りの大義名分のための傀儡にしただけ
北条が足利義氏を利用したのと同じ事
家康に至ってはそのレベルですら利用していない
織田家は秀信時代なんてないも同然
0694人間七七四年
2012/02/26(日) 00:06:42.75ID:FnmpSfFc0695人間七七四年
2012/02/26(日) 00:18:17.87ID:buGz5EPB武田の子孫は江戸時代に大名になってないから。
家臣が武田を大名として家を残すような努力もしていないどころか
好き勝手旧領である甲斐信濃を分配されているんだから全くの無意味。
秀信は父親の旧領を貰っているし、信雄にしても十分すぎる領地を貰っている。
これで秀吉や家康が織田を尊重していないとかどんな扱いが望みなんだ?
さすがに秀吉も家康も実権返上するほどの義理はないわな。ただえさえ信長当人は死んでるし
0696人間七七四年
2012/02/26(日) 00:23:16.36ID:FnmpSfFcしかも結局改易されたし
秀信も傀儡だし
秀吉や家康のどこが織田家を尊重してるんだ?
秀吉は天下取りの大義名分のための傀儡にしただけ
北条が足利義氏を利用したのと同じ事
家康に至ってはそのレベルですら利用していない
織田家は秀信時代なんてないも同然
0697人間七七四年
2012/02/26(日) 00:29:13.70ID:FnmpSfFcようは信長の死をいい事に織田を乗っ取り、秀信を傀儡として利用しただけ。
北条に利用された古河公方や戦国大名に利用された他の公方なんかと同じ事
実質的には滅亡も同じ
織田家としては全く機能せず皆好き勝手に行動するようになったんだから
0699人間七七四年
2012/02/26(日) 00:30:39.15ID:buGz5EPB織田秀信は岐阜貰って天下人準一門、中納言というおまけつき。
誰にも認知されずに忘れ去られる寸前だった子供にしては十分すぎるくらいの扱いだろ。
信雄なんかもっと酷くて別に家康について戦功を立てたわけでもなく大和に領地を貰う有様。
ほぼ何もしてないのに大名昇進とか、家康が織田家を尊重してなきゃ絶対に起きないことだなw
0700人間七七四年
2012/02/26(日) 00:34:16.86ID:buGz5EPB大御所と現当主が子供なしに一緒になって死んだんだから当然だろ。
おまけに残った子供は信雄信孝除いてみんな子どもで、信雄信孝にしてもまだ新米のぺーぺー
そんな崩壊寸前のところからようやく立ち直って、現当主に遺児がいましたって発覚してまとまったというだけ。
それが天下人の一門格として豊臣家中で重視してもらい、官位も高いの貰って父親の旧領まで貰ってるんだから、
これを尊重していると言わないんならどんな状況でも傀儡だの言えるわな
0701人間七七四年
2012/02/26(日) 00:47:30.33ID:FnmpSfFc実権が織田にないんだから
0702人間七七四年
2012/02/26(日) 00:47:46.29ID:Jv5+EgAi旧武田家臣でそれなりに武田一族を気にかけていたのって大久保長安ぐらいだし
他の連中はほぼ完全無視
0703人間七七四年
2012/02/26(日) 00:54:06.89ID:Jv5+EgAi傀儡の意味がわかっているのか?
秀吉にしても家康にしても別に織田一族の誰かを(名目上の)トップに据えたわけじゃないんだが?
トップは自分自身がなった
満州国の皇帝は溥儀だったが実権は関東軍が握っていたとかいうのを傀儡という
0704人間七七四年
2012/02/26(日) 01:01:28.06ID:bfW4a1Zx秀吉が関白になった後はもう傀儡じゃない。
もう利用する必要がないからね。
秀次になってからはよりそう言える。
これを認めないなら、秀吉は関白・太閤になった後も秀信を名目上の政権主としてかついでいたということになってしまう。
0706人間七七四年
2012/02/26(日) 01:27:28.34ID:34tv7vWJ0707人間七七四年
2012/02/26(日) 01:31:59.72ID:dY2FCqy5ベストメンバーぶつけたらまとめてフルボッコw
あげくに毛利ー武田ー北条ー本願寺と周囲ほぼ全部敵、
内部も波多野ー別所ー松永ー荒木とズタズタ。
まさに天国から地獄の心境、悲惨すぎるwww
0708人間七七四年
2012/02/26(日) 01:34:19.48ID:8/0H8Xt2じゃあ誰が実権握ってたんだい?
史料も添えてね
いつもの誰から誰宛の何日付ってあたれない書き方じゃなくて、たとえば戦武2009みたいにね
0709人間七七四年
2012/02/26(日) 01:37:29.00ID:FnmpSfFc羽柴は秀信の命令で動いてたってかw
0711人間七七四年
2012/02/26(日) 01:42:36.04ID:FnmpSfFc二度とくんなタコ織田厨がw
0712人間七七四年
2012/02/26(日) 01:44:10.56ID:8/0H8Xt2秀信以外の誰かが実権を握っていたとお前が考えていることは理解できた
それを裏付ける、又はそう考えるにいたった史料を以下>>708
0714人間七七四年
2012/02/26(日) 02:12:41.99ID:buGz5EPB多分「尊重する」の意味をはき違えている。
正確には尊重する、の対象と言うべきか。
秀吉や家康が尊重した(本音はどうあれ)のは天下に近づいていた信長個人とその一族で、
だからこそ織田秀信や織田信雄を「尊重する織田信長の一族子孫」として見ていたからこその好待遇に繋がるわけで、
それを無視して「秀信を尊重するなら秀信に実権があるはず、ないのは傀儡だ、操り人形だ」と言い出すからおかしくなる。
0715人間七七四年
2012/02/26(日) 03:12:25.17ID:bfW4a1Zx0716人間七七四年
2012/02/26(日) 06:41:08.75ID:sAFn6TZHワロタw
0717人間七七四年
2012/02/26(日) 06:49:46.09ID:sAFn6TZH実質的に信雄が織田の当主として振舞ってたが、
秀吉に改易されて秋田に流罪にされてんのに秀吉が織田を尊重してるわけがない。
尊重してたらそもそも信孝を殺したりしねーし
だいたい信玄死去10年後の滅亡まで
信玄の原因にする無理やりな論法を持ち出すなら
信長死後すぐ織田なんて、
家臣達が織田旧領地分配したり
市を嫁にしたりやりたい放題じゃんよw
0718人間七七四年
2012/02/26(日) 07:24:09.53ID:buGz5EPB当主が武将として一人前になったのに実質当主の信雄なんて秀吉からすれば邪魔なだけ。
この頃から秀信の扱いがどんどん良くなって親父の旧領貰うわ官位貰うわあからさまに厚遇されている。
>>尊重してたらそもそも信孝を殺したりしねーし
内面はどうあれ表面上では信孝を自害させたのは信雄なんだが。
まあこのあたりに秀吉の狡猾さが見えなくもないがそれこそ推測の域。
>>家臣達が織田旧領地分配したり
分配されたのは明智勢力圏がほとんどじゃん。
信忠の旧領は順当に信雄信孝が貰っている。
適当に領土争いしてたわけじゃないぞwこの頃はまだ対立なんてしてないんだから
0719人間七七四年
2012/02/26(日) 07:33:21.33ID:buGz5EPBこれは豊臣家中でいうと豊臣秀長、前田利家、徳川家康といった連中のすぐ下。
いかに秀吉が秀信を厚く遇していたかがわかる。
0721人間七七四年
2012/02/26(日) 20:05:58.98ID:6eOk/AJr信雄が流罪にされたのは当主筋の秀信が元服したから。
腹痛いわwww
0723人間七七四年
2012/02/26(日) 20:28:50.70ID:dY2FCqy5ついでに一言。
要素としてありうるから,お前の指摘の方がずれてる。
このスレにお前みたいな馬鹿イラネ。
0724人間七七四年
2012/02/26(日) 23:08:58.08ID:VywmrtPyねーよ馬鹿たれwww
嘘ばっかり書いて恥知らず織田糞長厨房くん乙
0726人間七七四年
2012/02/28(火) 07:30:34.19ID:Ii4StGctマジで何も知らないんだなだがw
信長が死ぬまでで戦国は終わりじゃないんだぞw
織田信雄が改易されたのは体のいい厄介払い。
後でぶち殺された尾藤や神子田と違いあっさり許されて秀吉の御伽衆に入ってるし、
信雄の旧領は当時秀吉の後継者と目された豊臣秀次、のち子飼いの福島正則が入っているんだが。
既に織田秀信という織田家直系を中納言+豊臣準一門+美濃旧領領主と十分すぎるくらい優遇している以上
信雄が邪魔になって難癖つけて改易したのも明らか。
0727人間七七四年
2012/02/28(火) 09:07:47.07ID:aYyjA2/4お前の願望妄想はいらないから
早く信雄が流罪にされたのは当主筋の秀信が元服したからとする
一次史料か論文出せよ。
0728人間七七四年
2012/02/28(火) 09:52:05.30ID:Ii4StGct本当に信長死後の知識はないんだな
一次史料も論文も何も織田信雄の改易理由を明確に示している一次史料そのものがない。
よく言われるのは家康の旧領に対しての国替えを拒否ったから、というのがあるが、
これが記されているのは江戸時代の甫庵太閤記で信憑性もお察し。
で件の秀信だが、小田原の2年前にいきなり従四位下・侍従という破格の官位を貰っていて、
同年4月15日による豊臣秀吉による後陽成天皇の聚楽第への行幸の際に織田秀信の名前があること、織田信雄の名前がないことが
織田秀信を優遇し織田信雄を冷遇しはじめたとする根拠。これは大友家文書録なり適当な史料漁ればわかると思う、有名行事だから。
一応その1年後には信雄は内大臣にはなってはいるが、結局そのまた1年後には改易されて
そして2年後にはなぜかあっさり許されて息子に越前5万石が渡されている。
史料だの論文だの言わせずとも、秀吉が豊家の権力基盤と信雄の厄介払いだとしたのは明らかだと思うけどね。
改易したのに理由が適当な講談にしかない時点で、意図的に封殺しているとしか思えんな。
0729人間七七四年
2012/02/28(火) 09:58:43.03ID:Ii4StGct「秀吉が織田家を尊重しているわけがない」とのたまっているが、
実際にはわずか9歳の秀信が元服して官位貰って公的行事にまで参加してと織田家の当主筋としての活動を立派にこなしている。
そして信雄が許された文禄元年には秀信は美濃岐阜に領土を貰い石高で秀信>信雄の図式が完成してしまった。
信雄だけをもって織田家を尊重せずやりたい放題であったとする>>717の説はいささか偏見だろう。
0730人間七七四年
2012/02/28(火) 10:15:34.22ID:IHbkqLpI完璧な嘘つきだな。
0731人間七七四年
2012/02/28(火) 11:01:30.62ID:mbYR9yaX0732人間七七四年
2012/02/28(火) 11:39:38.60ID:H5IW6Tej0733人間七七四年
2012/02/28(火) 11:55:35.25ID:GMoyGDiUそもそも信雄は九州征伐での秀吉への忠誠への論功行賞において正二位にしてもらっているし、
翌年の聚楽第の時に名前が上がってる信包や有楽斎などは秀吉への忠誠を誓わされたもの。
冷遇の証拠になるわけが無い。
そもそも秀吉は信雄から取った人質を養女にしており、
北条征伐開始寸前に、
養女を徳川秀忠と婚姻させて尾張から駿河までを婚姻安定させた上で関東攻めしてる。
信雄や家康は北条征伐でももちろん秀吉の為に働いている。
その年のうちに養女と秀忠は離婚しているから、
小田原攻め論功行賞で秀吉と信雄が不和になったことを受けて
秀忠と養女が離婚したとする可能性は高い。
だいたい秀信はフロイスも生まれながら高貴な身分と書いており、
織田家臣を従えている秀吉としても担ぎ上げられる存在にされないように無力なままを維持しつつ、
それなりの身分にしてやらないとならず、
堀配下扱いで秀信を軍役にコキ使う現実もある。
信雄を遠国に飛ばして権威失墜させた上で許してやるってのも、
織田などもはや過去のもんだと言外に発信したもの。
秀信が岐阜貰ったのも秀勝が死んだから、そのあとを受けたからだが、
やはり高位に見合わないことに
たった13万石しかもらえないにも関わらず
きっちり朝鮮へ行かされる。
秀吉は秀信も信雄も駒として扱ってただけ。
0734人間七七四年
2012/02/28(火) 12:37:48.05ID:Ii4StGct養女と秀忠の婚姻がならなかったのは肝心の養女が死んだからだぞ、大丈夫か?
織田家の人間で秀吉の養女が死んだから今度はそれに近い血筋であった崇源院が秀忠に嫁いだだけ。
>>織田などもはや過去のもんだと言外に発信したもの。
もちろんそういう意図もあるよ。というか本気で秀信に実権を移譲することが「織田家への尊重」と思ってないか?
秀吉が信雄や秀信を尊重するのは「信長の一族」だったからで、極端な話秀吉がその2人から直接恩を受けたわけじゃない。
もともと信雄に手を焼いたのが小牧長久手であり信雄よりも幼いころからきっちり扱っていた秀信の方が御しやすいという側面もある。
だから豊臣準一門として扱い格別の軍功もないまま美濃岐阜を与えて官位も家康や利家に準じるポジションを与えた。
まだ10歳近くの人間に与えるものとしては破格の待遇だろ。改易にされた信雄と比べても歴然。
0735人間七七四年
2012/02/28(火) 12:39:25.76ID:Ii4StGct0736人間七七四年
2012/02/28(火) 13:52:43.07ID:iSeglIit一次史料を出せよ嘘つき
0737人間七七四年
2012/02/28(火) 19:58:18.39ID:4i8Z9q4q秀吉が初めて加増されたのが小谷13万石(のちに今浜を長浜に改名して移る)
所詮この程度しか領地を秀信にあげてないから
旧主の嫡孫を大して厚遇なんてしてない。
0738人間七七四年
2012/02/28(火) 20:48:31.58ID:Ii4StGct下手にでるとすぐこれだw
>>翌年の聚楽第の時に名前が上がってる信包や有楽斎などは秀吉への忠誠を誓わされたもの。
ほとんどが有力家臣クラスなのにそこに際して名前がないというのは立派なマイナス要因だろ。
まあ秀信優遇の根拠としては確実に使えるものだろうがな。
>>秀吉としても担ぎ上げられる存在にされないように無力なままを維持しつつ、
無力のままでいいんなら御伽衆みたいにすればいいだけ。
わざわざ養子の旧領をそのままあげるというのは明らかすぎる寛大処置。しかも13万石。
>>岐阜13万石
おいおい豊臣政権で13万石って相当の大領だぞ。
豊臣政権で莫大な石高を誇っているのは毛利上杉徳川なんかの元大名クラスがほとんどで
従来からの秀吉家臣の禄高はそんなに高くない。
ちなみに石高を挙げると石田三成が佐和山19万石、黒田孝高が中津13万石、福島正則が尾張21万石、宮部継潤が但馬8万石で
織田秀信は若干10歳近くにしていきなり豊臣家譜代家臣クラスの領地を貰っていることになる。
若干イフが絡むが豊臣家とのパイプを考えたら将来的には領土がさらに増えた感も否めない。
元服したてでほとんど何もしていない人間がいきなりこの規模の領地を貰うというのが異常。
0739人間七七四年
2012/02/28(火) 21:55:59.62ID:4i8Z9q4q養子の旧領をそのまま引き継いだわけじゃねーよ。
秀勝は甲斐と信濃半国から美濃へ移封しており
朝鮮出兵では8000と言う巨大兵力を動員してる。
ちなみに小牧長久手の家康の動員も8000
秀信は譜代扱いされてるのに重用されてるなんて歪曲をよくできるなw
0741人間七七四年
2012/02/29(水) 09:16:28.96ID:dgBt79GY名前があるのはたった23人。
名前がない上杉や毛利や宇喜多や佐竹や島津や鍋島や伊達や最上や南部や安東らの大名はみんな冷遇されてたんだなワロタw
しかも秀勝が死んだ後に秀秋がまるまる相続する予定が、
小早川に養子に入ることになり、
美濃を細分化して複数人に充てがわれただけであり、
実質たった10万石が棚からぼた餅で秀信に与えられたにすぎ無いだけ。
もう主張がデタラメすぎ。
0742人間七七四年
2012/02/29(水) 09:50:13.27ID:pZDY63Wwおいおい時期を見ろよ伊達や安東や最上はまだこの時豊臣臣下じゃねーよw
しかも名前の挙がっている23名のほとんどは旧織田系の家臣。
ここに信雄の名前がないのは不自然すぎるくらい不自然なんだがなw
>>しかも秀勝が死んだ後に秀秋がまるまる相続する予定が、 小早川に養子に入ることになり、
>>美濃を細分化して複数人に充てがわれただけであり、
おいおい時系列バラバラだぞ。
豊臣秀秋が小早川家に下向するという案件が決まったのが1594年の12月、
織田秀信の岐阜統治はその前年から始まっているわけだが。
領地に関しても岐阜を貰った時の織田秀信と豊臣秀秋はほぼ同格の扱いなんすけど・・・
0744人間七七四年
2012/02/29(水) 10:58:47.40ID:Qa/G/fxF文書読んでないみたいだが、
あれに挙がる名前は単なる聚楽第での警備係だし…
北条の名前があがってないから間違えてはいなくね?
佐竹や伊達なども豊臣奉行や前田や徳川経由での外交チャンネル持ってたし。
もともと輝元の養子でと言う話が九州征伐の後に本格化してるのが秀秋にはあるから、
隆景への養子への紆余曲折を考慮に入れないと。
0745人間七七四年
2012/02/29(水) 11:32:18.08ID:pZDY63Ww里見はともかく秀康は秀吉の猶子だから秀吉準一門に近いところにはいるだろう。
確かに豊臣秀秋は一度毛利家の養子へとなっているし、秀勝の旧領を貰ってはいるが、
養子に入る前の秀秋の禄高は、正直岐阜を得たころの秀信と大して変わり映えしない。
もともと秀秋自身にそこまで優遇の兆しがなかったとも取れるが、秀吉の養子ともなった人間と
同じくらいの禄高をいきなり秀信が貰えたというのは正直冷遇とは言い難い。
0746人間七七四年
2012/02/29(水) 11:40:47.58ID:pZDY63Ww警備は警備でも後陽成天皇の聚楽第行幸の警備だからそれに任命されたのが格に関わらないことだとは思わないけどね。
しかも織田秀信はこの時若干10歳かそこらだったはず。それで官位も貰えて公式行事に参加するというのは破格の待遇だろう。
時期的に関して言えば伊達が挙がっている時点でかなり苦しい。この後伊達が惣無事令を破って蘆名を攻め滅ぼし、秀吉に帰参するまで2年もあるんだから。
0747人間七七四年
2012/02/29(水) 11:42:17.92ID:pZDY63Ww0748人間七七四年
2012/02/29(水) 12:03:00.91ID:Qa/G/fxF信雄が警備員として稲葉貞通や筒井定次らと一緒に名前が挙がるわけがないし、
秀信は彼らと所詮は同列の扱い程度でしかない。
つうか織田家臣と同列とか致命的な地位低下でしょ。
官位で祭り上げられてるが、
実が伴わないんだから。
0749人間七七四年
2012/02/29(水) 12:06:42.35ID:Qa/G/fxF名前が上がらないと冷遇とする
意味不明な判断基準が
頭悪い発言だと気付けないの?
0750人間七七四年
2012/02/29(水) 12:53:24.62ID:pZDY63Wwこの警備係って豊臣家中の中では豊臣秀勝や前田利家もいるんだからむしろ地位向上。
致命的な地位の低下というなら信長信忠が本能寺で死んで清洲会議が行われた時点で天下から滑り落ちてる。
いい加減豊臣基準で考えないとダメだろ。官位ですら秀吉は信長を上回っているんだから。
0751人間七七四年
2012/02/29(水) 12:59:55.58ID:pZDY63Ww言ってしまえば信長と信忠が後継者明確にしないで消えた時点で織田家はいったん崩壊しているようなもの。
残った信雄にしても信孝にしても秀信にしても信長の血族というだけで織田家当主としての正統性はない。
そして1588年時点では既に豊臣秀吉が関白に就任して織田家は豊臣家に従う一大名となっている。
この状態で若干10歳の織田秀信が官位を貰い聚楽第行幸に参加するというのがどれだけいい待遇か。
いつまでも全盛期基準で語っちゃダメだろ。今川武田足利朝倉などなど滅びた名家も多くないんだからこの時期は。
0752人間七七四年
2012/02/29(水) 21:26:31.19ID:Hl81FzEEスレ違い。織田スレか豊臣スレでやれ。
ここは信玄、謙信の畿内侵攻をメインに語るスレだ。
君は言っている事とやっている事が違う。
94 :人間七七四年:2012/02/29(水) 10:13:37.32 ID:pZDY63Ww
>93
公平に判定するってのは、一次史料を盲信することじゃないぞだが
一次史料を羅列するだけなら歴史研究者なんていらんから。
あと天正壬午なんて上杉北条徳川がメインだろ?
織田も武田もいないのにそんなところで織田氏ねとか暴れてたら怒られるの当然だから。
0753人間七七四年
2012/02/29(水) 21:59:54.86ID:pZDY63Wwまあスレ違いで誰も話題に出さなければやめますわ
0754人間七七四年
2012/03/01(木) 22:34:33.36ID:AiAOQz/g捏造乙
利家がなんで秀秋如き風情に書状で誓わなきゃならんのだwww
いつからほぼ武功すらない森忠政と利家が同列になったんだよウソつきが。
0755人間七七四年
2012/03/02(金) 00:15:59.96ID:5AbHVLN3時期的に考えても秀秋は7歳で元服したてホヤホヤだし別に後継者というわけじゃない。一門に近い存在ではあったが。
出された際の行事を考えても明らかに相手は秀吉。忠誠を誓うための起請文は新参だけにやらせるものじゃないし、その点は武田信玄とか見てればよりわかるだろ?
つかおまえ本気で大丈夫か?
しまいに戦国時代は武田幕府によって終わりましたって言い出しかねないくらい、
書状の背景や言外の意図を読むのに致命的に欠陥がある
0756人間七七四年
2012/03/02(金) 11:14:16.57ID:9/O6o+5A間違いなく秀吉後継者候補(秀次が死んだ場合)に引き上げられた証拠。
むしろ翌年になり丹波に領地を与えられ外に出されたのが地位低下を表すもんで、
原因はお拾い様が誕生したから。
さらに聚楽第には信雄も参上してるから、
>>755の話は最初から間違いまくり。
天皇の行列のあとに秀吉、
その後に供奉したのが、
公卿になった信雄と家康と秀長、秀次、秀家の五人。
信雄が冷遇されてたとする論法は成立しない。
さらにその後にも地位が低い大名が煌びやかに衣装して天皇の行列に続いた。
秀秋が警備責任者として(実質的にその家老らが)
秀信らに命令して警備をさせてたわけで、
一世一代の晴れの日に煌びやかな衣装で天皇供奉で沿道から注目される立場になれなかったのはかなり痛い。
0757人間七七四年
2012/03/02(金) 22:13:07.29ID:eBEI0YJV信玄は物欲が強く姫や品々送れば時間稼げたもん。
信玄も内心よしよし。尾張の若造やるのう。て少し喜んでいただろ
0758人間七七四年
2012/03/02(金) 23:15:05.20ID:qVLUcSY0北条支援に来たのは武田だけでなく、
今川軍もやってきていて、
上杉vs北条・武田・今川連合軍だったんだよな。
しかも越中戦線も同時に抱えてた謙信。
これだけ投入しても謙信を破ることが全く出来なかった。
0759人間七七四年
2012/03/02(金) 23:22:03.67ID:C9jRBwTB戦国時代の知識が無い人だろ?
正しくは「これだけ投入しても景虎は氏康を破ることが全く出来なかった。」
北条は武田と今川の少人数の援軍
長尾は関東連合軍
規模の違いを考えることができるかい?
0760人間七七四年
2012/03/03(土) 02:45:03.04ID:5lB0BvoL天正20年の方とごっちゃになっていないか?
もうその頃は秀秋は小早川へ養子にいったあとだろう。
信雄の冷遇に関しては謝るが、=秀信の不遇に繋がるとは思えない。
年齢的にも秀信はまだ9歳だし、前田利家や豊臣秀勝らが任じられている以上
日の目を見ないとはいえ重要な役目であることには間違いない。
小田原以前までは信雄>秀信だったというだけだと思う。
ってスレチか
0762人間七七四年
2012/03/03(土) 10:57:31.84ID:5lB0BvoL0763人間七七四年
2012/03/06(火) 04:52:01.44ID:RLWb4hVJ「相手が謙信なら逃げるが最上。それ程の恐るべき相手」
0764人間七七四年
2012/03/06(火) 07:00:57.39ID:ApFA3T6T明らかに稲葉山城乗っ取り以降の
家臣離反が滅亡原因だよな。
西美濃衆と東美濃衆の対立を調整できる人材がいなかったのが痛い。
龍興の寵愛が東美濃衆に偏っていたのと、
西美濃衆が六角勢の協調しての
近江浅井衆との戦役で負担過大だったこともあるんだろう。
0767人間七七四年
2012/03/06(火) 10:07:38.40ID:4aloi4Sw0768人間七七四年
2012/03/06(火) 10:45:09.63ID:tIuQZ8yO備中・備前での対毛利戦遂行のために、信長側へ帰属してんだよな。
最初は直家が永禄13年に上洛して従順な態度を示してるし
それを知った宗景も直家との和睦に同意してる。
元亀3年には宗景が義昭に実子まで人質に提出してるほど。
毛利は浦上・宇喜多は毎回表裏と非難してるな。
美作の国人の草苅氏なども信長の命で浦上攻撃をしていたりもしていたし
美作・備前・備中・播磨とそれだけ織田は版図を広げながら
信玄の西上を契機として、
すべてが織田を裏切り毛利・義昭側になってしまった。
0769人間七七四年
2012/03/06(火) 13:25:18.54ID:CAoPIaiq信長政権は但馬から備中まで勢力圏を維持して
毛利なんて恫喝するだけで傘下に加わっていただろう。
0771人間七七四年
2012/03/07(水) 14:48:40.87ID:xdqKsf3T実際信玄がもう少し長生きだったらヌッ殺されてただろ。
目指すものも同じだったから絶対避けて通れない敵。
謙信は強かっただろうけど、外交努力や調略でいくらでも戦を回避できそう。
0772人間七七四年
2012/03/07(水) 18:36:53.40ID:/XGe+UId0773人間七七四年
2012/03/10(土) 11:31:04.69ID:ZHp1AGGD義昭に呼応して東進する毛利。
信玄死去したのちも
毛利が本願寺と協調して東進を進めていたら信長死んでたな。
ここで諦めたから宇喜多が同僚になり不満タラタラの三村が
織田方に走る導火線に火をつけた。
0774人間七七四年
2012/03/10(土) 13:23:19.55ID:Ntode1xZ〜だったら〜だったって言い訳ばかりだな
引きこもりの言いそうなことだw
0775人間七七四年
2012/03/10(土) 14:44:54.05ID:V36Rogp8信玄はいつでも倒せるから放置していてまでのこと
現実に長篠で容赦なく撃破している
0776人間七七四年
2012/03/10(土) 15:17:17.68ID:XeI20aEM0777人間七七四年
2012/03/10(土) 15:37:51.76ID:n1xzPldB0778人間七七四年
2012/03/10(土) 15:38:06.14ID:2/PQlWs40779人間七七四年
2012/03/10(土) 15:59:43.55ID:UzxofApy信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
まさか柴田とか言わないだろうなw
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのかね?
それは9/1現在の情勢で、信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら
織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。
しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており
水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。
9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。
9/27には逃げ帰った信長が美作の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。
信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
こんな感じだろうね。結局、信長が京か安土城にいた一次史料は出せないわけだ。
もっとも信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまいやチと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが
明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。
8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに
松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。
ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。
結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣が徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。
徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる防御力向上を図ったんだろう。
松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し
後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
しかし信長公記は秀吉や丹羽ら北陸出兵組まで松永攻めに動員されたとする。
公記は実にウソくさい。
0780人間七七四年
2012/03/10(土) 16:00:12.26ID:UzxofApyちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし
本願寺方面には松永離脱と同日に信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから
信長が京や石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし
手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、
大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。
1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから
佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。
松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には細川の増援が決まったな。
3月27日には
黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。
結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され
代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから
上野や信濃で緊張なんて無かったわけだが。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても
秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?
また織田軍全体でも天正5年末から天正7年まで活動が鈍りまくっている。
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉
三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間
これらの戦域で増援が必要だったのに
ぜんぜん信長は増援派兵できないからなぁ。
彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。
丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったんじゃないかな。
光秀がラッキーだったのは謙信に続いて丹波の赤鬼赤井直正が死去したことだな。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし
そもそも数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
そもそも越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は
北条との対立には該当してない
0781人間七七四年
2012/03/10(土) 16:58:43.30ID:fF0AGYbZ0782人間七七四年
2012/03/10(土) 17:46:22.83ID:F+QGeJxP0783人間七七四年
2012/03/10(土) 18:14:44.56ID:Ntode1xZ0784人間七七四年
2012/03/10(土) 18:17:16.04ID:fF0AGYbZ0785人間七七四年
2012/03/10(土) 18:23:18.06ID:UzxofApy死んでくれ
0786人間七七四年
2012/03/10(土) 18:24:54.10ID:Ntode1xZ0787人間七七四年
2012/03/10(土) 18:30:18.38ID:fF0AGYbZそれしか壊れかけた自我を保つ術がない織田厨アワレ
0788人間七七四年
2012/03/10(土) 19:23:18.19ID:Ntode1xZ0789人間七七四年
2012/03/10(土) 20:11:54.53ID:V36Rogp8偽書と名高い資料的価値の無い甲陽軍鑑w
0790人間七七四年
2012/03/10(土) 21:42:23.24ID:E1BoHmz30791人間七七四年
2012/03/10(土) 22:35:29.37ID:vXie4bth>柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのかね?
信長の許可をもらっていれば別に越権行為ではない
つーかその後の北陸攻略で普通に前田や佐々を指揮しているし
0792人間七七四年
2012/03/10(土) 22:42:47.96ID:UzxofApy「京や安土にいた記録が残ってないから、石山や紀伊を差し置いても上杉謙信への対応に全力を注いでいたに違いない」
という妄想だったのか・・・
651 :人間七七四年:2011/10/03(月) 20:43:32.69 ID:cJqiV3Iw
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいたとかワロタw
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし
本願寺方面には松永離脱と同日に信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから
信長が京や石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし
手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、
大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。
654 :人間七七四年:2011/10/03(月) 21:33:19.02 ID:cJqiV3Iw
1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから
佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。
松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には細川の増援が決まったな。
3月27日には
黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。
結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され
代わりに信忠が派兵されることになる。
658 :人間七七四年:2011/10/04(火) 08:21:42.68 ID:Svv9z974
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから
上野や信濃で緊張なんて無かったわけだが。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
659 :人間七七四年:2011/10/04(火) 09:22:43.20 ID:Svv9z974
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても
秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?
また織田軍全体でも天正5年末から天正7年まで活動が鈍りまくっている。
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
661 :人間七七四年:2011/10/04(火) 09:53:31.48 ID:s8m1/X+N
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉
三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間
これらの戦域で増援が必要だったのに
ぜんぜん信長は増援派兵できないからなぁ。
彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。
丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったんじゃないかな。
光秀がラッキーだったのは謙信に続いて丹波の赤鬼赤井直正が死去したことだな。
670 :人間七七四年:2011/10/05(水) 09:07:56.22 ID:ME40zgiB
越山すると言ってしない時が何度となくあるし
そもそも数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
そもそも越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は
北条との対立には該当してない
0793人間七七四年
2012/03/10(土) 22:43:32.42ID:UzxofApy討死してないが滝川・稲葉らが重症を負ったようで
当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。
>>野田福島の戦いや志賀の乱でもちゃんと記述がある
お前がwikiを読んでるだけで信長公記をまったく読まずにケチつけてるのがはっきりわかった。
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ。
敗北してる手取川の戦いを隠蔽している可能性は高いし
そもそも筆者の太田からして、北陸情報に疎いので
柴田に関する記述もほとんどないし、
>>774>>785のように前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。
>>秀吉に一切のお咎めを与えない
お前は信長公記を読んでないからそういうことを平気で発言する。
公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って働いたと書いてる。
もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。
そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?
天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。
しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。
もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・
それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
0794人間七七四年
2012/03/10(土) 22:56:59.20ID:aUT9xMS6信長居ぬ間に近江、京を横取りしようとしたら、摂津に軍を少し残して信長が早々帰還。
結局何もできないまま比叡山で閉じこもるしかなかったのが浅井朝倉。
挙句坂井を討ち取るときに前波を犠牲にする有様。
挙句同調するはずのない三好や細川をアテにしていたと言いだす。
0795人間七七四年
2012/03/10(土) 23:04:39.97ID:vXie4bthだから上田原は武田の勝ちだの長篠で酒井別働隊によって砦を落とされたのは大したことないとか言う
0796人間七七四年
2012/03/10(土) 23:40:55.19ID:F+QGeJxP結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322744022/
395 :人間七七四年[sage]:2011/12/15(木) 17:37:07.28 ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。
0797人間七七四年
2012/03/10(土) 23:41:54.82ID:PyQM/oBj敵前渡河しないとならんからリスクあり過ぎ。
はっきり言って側面から武田を攻撃するのは不可能。
0799人間七七四年
2012/03/11(日) 00:12:36.10ID:il6/SbLqゲームじゃないので当然勝頼方は別働隊が誰が率いていて何人いるかなんてのは把握できない。
そのため勝頼からすれば前後に軍を挟まれどちらを攻撃すべきか、どこから攻撃すべきかという方策も考える必要がある。
もちろん後ろに敵軍がいる以上悠長に待機している時間はない
0801人間七七四年
2012/03/11(日) 00:56:43.46ID:cMUUwJlsどちらにしても大軍と陣地に無謀に突っ込んで大打撃を受けた状態でも
長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ
かなりの兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&丸で城攻めみたいな陣城&雨でぬかるんだ地面
この基地外のような不利な状況下で馬場や山県はじめとする武田軍は勝頼の発狂につき合わされ
8時間以上戦って柵も所々突破できるほど名将ぞろいだったんだから総大将が馬鹿じゃなかったら
織田軍は瞬殺されてたのは間違いない
0803人間七七四年
2012/03/11(日) 01:04:54.14ID:cMUUwJls・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
0804人間七七四年
2012/03/11(日) 01:19:37.79ID:JaT77AIfあれほど無様な死にかた、逃げ方はしないだろう
武田家臣は他国とは違い一定の権限を持った連合体のようなものだから
負け戦と分っていて勝頼に従うわけがない
戦略を知らない脳筋集団が敗戦を疑うことなく死んでいったのであろう
0806人間七七四年
2012/03/11(日) 02:58:01.70ID:cMUUwJls長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ
かなりの兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&丸で城攻めみたいな陣城&雨でぬかるんだ地面
この基地外のような不利な状況下で馬場や山県はじめとする武田軍は勝頼の発狂につき合わされ
8時間以上戦って柵も所々突破できるほど名将ぞろいだったんだから総大将が馬鹿じゃなかったら
織田軍は瞬殺されてたのは間違いない
0807人間七七四年
2012/03/11(日) 03:52:47.32ID:cfaPEK+Vこんな感じで思考停止して延々と突っ込んでったんだろうなぁ…
武田家臣マジ無能
0808人間七七四年
2012/03/11(日) 04:05:59.20ID:il6/SbLq勝頼が思考停止していたかどうかはともかく余裕など全くない状況。
敵が後ろにあらわれて長篠城の包囲をとかれた時点で終了。
あとは信長か家康の首でも取らなきゃ好転しないような状況。
0809人間七七四年
2012/03/11(日) 05:06:29.21ID:cMUUwJls長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ。普通に退却すればよかっただけ。
かなりの兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&丸で城攻めみたいな陣城&雨でぬかるんだ地面
この基地外のような不利な状況下で馬場や山県はじめとする武田軍は勝頼の発狂につき合わされ
8時間以上戦って柵も所々突破できるほど名将ぞろいだったんだから総大将が馬鹿じゃなかったら
織田軍は瞬殺されてたのは間違いない
0810人間七七四年
2012/03/11(日) 05:22:41.17ID:cfaPEK+V信長の小勢が勝利してる戦いが存在するから包囲網どうこうは大して重要ではない
信玄が無能で病死しただけ。普通に信長には敵わなかっただけ。
かなりの兵力差&高性能二条城で待ち構える義昭&領国全部で起こる一揆&娘婿の蒲生まで裏切り
この基地外のような不利な状況下で浅井や朝倉はじめとする包囲網は信長の乞食兵に滅ぼされ
足利義昭追放して一向一揆も所々全滅できるほど古今無双の名将だったんだから信玄が病死しなかったら
武田軍は瞬殺されてたのは間違いない
0811人間七七四年
2012/03/11(日) 05:27:06.08ID:cMUUwJls動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
天王寺は信長公記の講談ネタでしょ。
まともな史料には見られないし
0812人間七七四年
2012/03/11(日) 05:38:02.39ID:cMUUwJls信玄なら撤退を装い、
追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、
軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、
鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、
信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、
朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメ
になる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、
重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、
運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。
0813人間七七四年
2012/03/11(日) 12:31:14.38ID:JaT77AIfこれ信玄だよね
0814人間七七四年
2012/03/11(日) 13:01:40.90ID:0GqmK1cCんでリベンジ戦はやったの?
0815人間七七四年
2012/03/11(日) 13:08:34.19ID:uWFVE9C00816人間七七四年
2012/03/11(日) 16:34:06.79ID:cfaPEK+V動員力ならはるかに家康上回るにも関わらず遠江で手薄な体を運悪く病気で死んだ信玄雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって坊主や念仏が吹いたから勝てただけ
信長公記によると三河一向一揆のところに家臣半分が寝返ったので苦戦したとある。
耶蘇会日本年報にある「坊主600人を同伴せり」は一向宗坊主と念仏が徳川側がいた城の前から
徳川家康のいる本陣に流れた、って事だろうな。
つまり徳川勢は猛烈な坊主と念仏を向かい側に受けながら武田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際徳川方にしてみれば坊主と念仏を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「家康が脱糞する如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが東海一の弓取りといわれた家康だけだった
これが実力で勝ったというなら病死は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な体を奇襲されて死んだんだから
狙撃はの講談ネタでしょ。
まともな史料には見られないし
0817人間七七四年
2012/03/11(日) 16:54:37.17ID:DjphQraZ動作の主体に成り得るモノで、且つ、それを受ける?
わからん、他の言葉に言い換えてくれ
0818人間七七四年
2012/03/11(日) 18:00:10.09ID:ADO3/QG/明らかに日本人じゃないな。
日本人だったら池沼レベル。
0821人間七七四年
2012/03/11(日) 19:53:50.05ID:il6/SbLq0822人間七七四年
2012/03/11(日) 20:33:33.16ID:cMUUwJls0824人間七七四年
2012/03/11(日) 21:09:09.31ID:tCL6Awp2こうですね、解ります
0825人間七七四年
2012/03/11(日) 21:16:15.77ID:DjphQraZ武田厨語はむずかしいな
0826人間七七四年
2012/03/11(日) 21:28:09.70ID:HEh2lj/w信長厨は相変わらずあれだな
0827人間七七四年
2012/03/11(日) 21:32:26.70ID:Dovnexco0828人間七七四年
2012/03/11(日) 21:34:56.25ID:0GqmK1cC0829人間七七四年
2012/03/11(日) 21:37:31.73ID:HEh2lj/w0830人間七七四年
2012/03/11(日) 21:42:03.04ID:cMUUwJls毎回妄想垂れ流すだけ。
罵倒でやり返すのが一番
0832人間七七四年
2012/03/11(日) 21:52:42.52ID:cMUUwJls毎回言う事が一緒だからな
一々反論なんてめんどくさくてやっとれん
0833人間七七四年
2012/03/11(日) 21:54:14.30ID:HEh2lj/w0834人間七七四年
2012/03/11(日) 22:11:09.31ID:cfaPEK+V>>812「長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう」
↓
>>814「んでリベンジ戦はやったの?」
↓
>>826「自分であるのかと聞いておいて自分で調べもできないとは」
↓
>>828「挙証責任という言葉を知っているか?」
ここから予想されうる流れ
織田「言いがかりをつけた方が証明すべきだろ?」
↓
だが「馬鹿か?数字の問題じゃないんだよ」
参考
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/20.html
0835人間七七四年
2012/03/11(日) 22:13:44.41ID:0GqmK1cC0836人間七七四年
2012/03/11(日) 22:17:27.64ID:U2JuEww90838人間七七四年
2012/03/11(日) 22:30:23.31ID:Dovnexcoは?なんで歴史議論に法律用語が関係あるわけ?
バカのシッタカとかワロタw
0839人間七七四年
2012/03/11(日) 22:52:11.50ID:0GqmK1cC0840人間七七四年
2012/03/11(日) 22:54:43.44ID:cMUUwJls0841人間七七四年
2012/03/11(日) 22:59:38.38ID:o+7himJ90842人間七七四年
2012/03/11(日) 23:02:48.78ID:U2JuEww90843人間七七四年
2012/03/11(日) 23:10:21.61ID:cMUUwJls信玄なら撤退を装い、
追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、
軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、
鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、
信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、
朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメ
になる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、
重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、
運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。
0844人間七七四年
2012/03/11(日) 23:14:19.67ID:cMUUwJls勝頼の長篠の自爆、御館の乱の外交失敗、あの時期での新府築城という失敗
無理な中央集権化といった失敗の連続があって成立しただけ
上記のような失敗を繰り返さず普通に織田徳川を侵攻していたら滅びていないのは
まともな知能を持った織田厨以外の人間ならわかる
0845人間七七四年
2012/03/11(日) 23:15:20.94ID:il6/SbLq「他の用事(=関東出兵)ができたからやれませんでした」って負け惜しみの類。
しかもその後の武田勝頼はといえば、遠山氏の城を落とした時に盗んできた信長の息子津田源三郎を信長に返還したり、
関東、上野への出兵を重ねたりと明らかに信長との直接対決を避けている。
まあ、父親の信玄が無茶苦茶やったせいで信長はガン無視していたが。
0846人間七七四年
2012/03/11(日) 23:21:09.62ID:cMUUwJlsカス長がバ勝頼にビビって徳川と北条相手に疲弊して木曾の離反が起こるまで勝頼に手も足も出せませんでしたって妄想でもするか?
0847人間七七四年
2012/03/11(日) 23:23:30.03ID:il6/SbLq「撤退したら織田軍は追撃してくる」と言い出す無知なだがw
織田からすれば長篠が落ちようが落ちまいが他人の領土なんだからどうでもいいわけで、
織田が徳川を助けるという姿勢だけを見せればいいだけ。
あとは最低限徳川が武田の攻撃を凌ぎつつ自分は畿内で悠々と領土拡大を狙えばいい。
のちの対上杉氏との戦いでも信長は全く同じことをやって、家臣に軍を預けて救援させたのに
信長と直接対決するという土俵にすら立たせてもらってないのに信長を瞬殺できるとかのたまう武田厨哀れw
0848人間七七四年
2012/03/11(日) 23:25:39.90ID:il6/SbLq長篠後の信長に武田領を攻める理由はゼロ。
国力が貧相で得ても仕方がない領地を無理して攻めるよりは
肥沃な畿内、播磨などを攻めていった方がいいのは馬鹿でもわかる。
勝頼がしつこく攻撃してきたとかならまだしも、当の武田勝頼は逃げ腰。
攻める理由は何もない、武田の相手は徳川にでもやらせとけばいい。
0849人間七七四年
2012/03/11(日) 23:27:47.69ID:cMUUwJls長篠時ですらもう我慢の限界
一方的にこき使われてばかりでこんな役に立たない同盟者他にいるまい
最初から武田を頼ってたら良かったのにな>家康
信長は>>847みたいな信義のかけらもない人間だったから離反され殺された馬鹿
0850人間七七四年
2012/03/11(日) 23:30:05.65ID:U2JuEww9土俵に入る前にすべってころんで大敗したのが手取り川
0851人間七七四年
2012/03/11(日) 23:30:25.37ID:tCL6Awp20852人間七七四年
2012/03/11(日) 23:32:11.09ID:cMUUwJls長篠後の信長に武田を放置する理由は0
勝頼の自爆で弱らせたただでさえ貧相な土地しか持たない弱小国
さっさと潰せば戦力回復される暇もなく再出兵の手間もかからない
肥沃な畿内や播磨は国力に富んでいるだけに待ち受けている敵も兵力や装備など充実してるはず
貧国な上に弱ってるならならさっさと滅ぼした方が利多し
本願寺が外征能力に長けているならともかく当の信長は待ち構えてればいいだけ
攻める理由は何もない
本願寺の相手は佐久間にでもやらせとけばいい
0853人間七七四年
2012/03/11(日) 23:32:20.90ID:il6/SbLq武田の相手はもっぱら徳川に委ねて、不利なようなら持ちこたえられるだけの軍を援軍に出すだけ。
長篠はたまたま余裕があった、家康が三方が原でボコられたのこともあって心配になったから自分も来ただけのこと。
のちの武田征伐も便宜上武田征伐とされているが信長にとっては征伐と呼ぶことすら烏滸がましい余興にすぎない。
所詮は後継者の織田信忠の箔塗りや経験積みのための戦で、信長は美濃で休んでただけで何もしてない。
織田家後継者の格上げのために利用された武田は惨めと言わざるを得ないな。
0854人間七七四年
2012/03/11(日) 23:32:34.61ID:0GqmK1cC0856人間七七四年
2012/03/11(日) 23:36:09.23ID:U2JuEww90857人間七七四年
2012/03/11(日) 23:37:15.20ID:il6/SbLq貧相な国を攻めるのは損だらけ。経済に対しても無知なだが
兵を雇うのに金がかかり、平らげた国を維持するのも一苦労、しかも国から上がる収入も少なく労に見合わない。
行って帰ってくるだけでも莫大な金を費やすのに得られるものは乏しいという無駄な戦略。
一方畿内は国力が充実し資源も豊富、仮に攻め取るのに苦労しても後からいくらでもおつりがくる。
だからこそ各大名は畿内に固執したわけ。
ましてや本願寺なんて、経済的にも防衛的にも最高の立地。
武田領がいくつあっても足りんわw
0858人間七七四年
2012/03/11(日) 23:38:58.11ID:OWkrbaADそれを裏切ったとか号泣して信義信義とわめきちらす雑魚長厨
0859人間七七四年
2012/03/11(日) 23:39:06.91ID:cMUUwJls雑魚長の相手は謙信や本願寺、毛利に任せて不利なようなら軍を出して
織田軍をひきつければいいだけ
長篠はたまたま織田軍が来た、信長が上村合戦や東美濃攻防戦、三方が原でボコられた事もあって
ちょっと調子にのってた勝頼がやらかしただけのこと。
のちの本能寺の変も便宜上本能寺の変とされてるが勝頼にとっては
自分の意思をついだ光秀にまかせた余興にすぎない
所詮は武田軍団が天下人の資質たる家康の元で大暴れして名を上げるための戦で
武田家臣の格上げのために利用された織田は惨めといわざるをえないな
0862人間七七四年
2012/03/11(日) 23:41:18.16ID:il6/SbLq武田が毛利や本願寺に援軍を派遣するのかwww
初耳すぎるソースはどこ?wあとどこから兵を送るんだ教えてくれw
まさか手狭な瀬戸内海大坂湾通るとか言わないでくれよw
0863人間七七四年
2012/03/11(日) 23:42:36.68ID:cMUUwJls富裕国でしかも外征能力微妙&防衛戦めちゃ強くて数も多く装備も優れた本願寺等⇒放置して迎撃に徹するが吉
せめてもせめても負け続け、長い年月を無駄に費やした雑魚長であった。
0865人間七七四年
2012/03/11(日) 23:43:45.15ID:DjphQraZあれか、過去にだがはメガトン級爆笑に次ぐ名言が無いってのを気にしてたのか?wwwww
0866人間七七四年
2012/03/11(日) 23:45:29.16ID:il6/SbLqド田舎の象徴みたいなところだからw経済格差でいえば当時とそう変わらん。
神奈川住まいなんだから電車一本でいけるだろw
で、そんな山だらけで木以外何もないところに攻めるメリットを教えてくれw
山狩りでもする気か?まさか甲州金山とか言わないよな?
0867人間七七四年
2012/03/11(日) 23:47:06.82ID:Xk57Wc7X0868人間七七四年
2012/03/11(日) 23:47:09.86ID:cMUUwJls富裕国でしかも外征能力微妙&防衛戦めちゃ強くて数も多く装備も優れた本願寺等⇒数が多く防衛拠点も堅固、放置して迎撃に徹するが吉
せめてもせめても負け続け、長い年月を無駄に費やした雑魚長であった。
一方織田厨は戦国時代の人口密度が現代程差が大きいと勘違いしてる低脳であった。
0869人間七七四年
2012/03/11(日) 23:49:32.11ID:Xk57Wc7Xそこらじゅうにケンカふっかけて火達磨になって最後は手薄になって家臣に討ち取られる
0870人間七七四年
2012/03/11(日) 23:51:04.85ID:il6/SbLqつまりおまえは大阪府や兵庫県といった大都市圏よりも
山梨県や長野県の方が取る価値はある、と言いたいんだよな?w
あと戦国時代の人口比率は実は今とそう変わらないんだよだがさんw
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html(縄文時代から1995年まで)
これを見ると近畿、関東はほぼ平安時代から人口が多い地域であることがわかる
おまえの大好きな武田は東山の部分だ、畿内の5分の1いるかどうかも怪しいなw
0871人間七七四年
2012/03/11(日) 23:51:39.25ID:cMUUwJls政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍w
0872人間七七四年
2012/03/11(日) 23:53:14.38ID:DjphQraZ0874人間七七四年
2012/03/11(日) 23:53:39.88ID:il6/SbLq最弱織田家に負ける武田家w
0875人間七七四年
2012/03/11(日) 23:55:04.14ID:Xk57Wc7X0877人間七七四年
2012/03/11(日) 23:56:14.81ID:Xk57Wc7X織田厨が公認してくれたみたいだからこれからは文句言うなよ?w
0878人間七七四年
2012/03/11(日) 23:57:28.64ID:cMUUwJls全国的にみても相当低いレベル
0879人間七七四年
2012/03/11(日) 23:57:39.70ID:il6/SbLqこれは石高じゃなくて日本の年代別の人口グラフ
一応抜き出しておく
1600年関ヶ原合戦の時の人口(万人)
東山(甲斐信濃):43万人
畿内(大和摂津山城河内和泉):228万人
畿内周辺(近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨):140万人
東海(伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃):108万人
ちなみに信濃は石高こそ高いが国土の広さに比べると大したことない。
長野県見ればわかるだろ、山だらけで平野部少ないんだよ。
0880人間七七四年
2012/03/11(日) 23:58:22.06ID:Xk57Wc7X0881人間七七四年
2012/03/11(日) 23:58:54.04ID:tCL6Awp2外交失敗は信玄時代からの伝統だから
例:三国同盟反故、対今川共闘反故、信長との同盟破棄
0882人間七七四年
2012/03/11(日) 23:58:57.23ID:il6/SbLq何言ってんだおまえ
その雑魚織田に負けたんだから最弱は武田家だよw
織田なら勝てんだろ?wそれで負けたんだからそれ以下なのは当然w
0883人間七七四年
2012/03/12(月) 00:00:02.93ID:cMUUwJls対石高の密度でいえばあんまり人口比変わんないじゃん
畿内は石高が高いからその分人口も多いってだけ。
あとそのソース元はなに?
0884人間七七四年
2012/03/12(月) 00:01:33.34ID:d7oT+tSu大体>>882の論理だと徳川>豊臣>織田となって
武田>>徳川は確定してるから
どの道武田は織田より遥に上にくる
0885人間七七四年
2012/03/12(月) 00:01:46.02ID:iiDpNeB3表現が微妙に違う
全国一斉ではないが各地域ごとに人口や村の人員は把握されているから。
ちなみに余計な情報だがこの研究している人は東京大学の教授。
まあ、妄想こじらせただがよりはアテになると思っておけば。
0887人間七七四年
2012/03/12(月) 00:03:38.26ID:iiDpNeB3>>883
全世界の人口統計のうち日本を抜き出して、
その日本の時代ごとの人口比率の推移をまとめたもの。
0889人間七七四年
2012/03/12(月) 00:05:52.15ID:iiDpNeB3どこで武田>徳川が確定しているの?w
あ、まさか3倍以上の兵力で家康いじめた三方が原?
まさか徳川家滅ぼしてないのに武田の勝ちなんて言うとは思わなかったけどw
0890人間七七四年
2012/03/12(月) 00:07:43.60ID:cMUUwJlsこの戦闘で最も醜態晒したのは佐久間などの織田の中での一軍部隊だから
武田>>>>>織田なんて火を見るより明らか
0891人間七七四年
2012/03/12(月) 00:09:58.30ID:CAR+1ObW0892人間七七四年
2012/03/12(月) 00:10:12.75ID:iiDpNeB3明治維新までは人口から読む日本の歴史、というのが文献。
あとの時代は日本国国勢調査による。
まあ大筋では間違ってないだろう。
甲斐信濃が発展したのは中山道が整備された江戸時代になってからで、
それまでは街道も乏しく大都市もないというド田舎状態。
国土や立地を見てもとても発展した経済都市としての側面はない。
0893人間七七四年
2012/03/12(月) 00:10:22.03ID:ef1WCmzn手取川で逃げずに謙信と戦えば信長の首が飛んでたのは誰でも予想つくよな
0894人間七七四年
2012/03/12(月) 00:10:27.53ID:d7oT+tSu0895人間七七四年
2012/03/12(月) 00:11:43.63ID:iiDpNeB3それじゃあ武田>佐久間の証明にしかならんなw
佐久間信盛が織田家で超優秀な人材で、主要な功績は全部佐久間が立てたとかなら
佐久間の負け=信長の負けでもいいけどなw
0896人間七七四年
2012/03/12(月) 00:12:18.56ID:ef1WCmzn0897人間七七四年
2012/03/12(月) 00:13:06.36ID:d7oT+tSu徳川との盟約に答える意味でも武田を放置する理由なんてない
ただでさえ決戦で破れて弱ってるなら。
ようは勝頼にビビって攻められなかっただけ
木曾が離反して北条徳川との戦闘で弱りきった所を圧倒的大軍で襲ったら
離反の嵐になったのに高遠攻めで信忠は醜態晒して信濃で伝説になった雑魚
0898人間七七四年
2012/03/12(月) 00:13:25.74ID:iiDpNeB3徳川家康は何のために生きてるの?信長のパシリするために生きてるわけじゃないよw
0899人間七七四年
2012/03/12(月) 00:13:31.07ID:CAR+1ObW0900人間七七四年
2012/03/12(月) 00:13:53.73ID:ef1WCmzn自分の言葉に責任を持てよ あと信玄公と勝頼を同列に語るなら
信雄と信長も同列ってことだからそのつもりで
0901人間七七四年
2012/03/12(月) 00:15:52.51ID:iiDpNeB3信雄同列にしても武田以上なので何の問題もないよw
なんせ織田信雄はしぶとく頑張って大名家として家を残したんだから
で、お家を滅ぼされた挙句一族皆殺しにされた無能の武田勝頼がなんだって?
0902人間七七四年
2012/03/12(月) 00:16:13.59ID:d7oT+tSu三方が原、姉川、対徳川の攻防全般
これだけソースあれば武田>>>>>徳川>>>>>>>織田なんて馬鹿でもわかる
織田なんて斉藤やら長島やら本願寺やら北畠やらまけまくってる程雑魚だから
武田と比べるより北条や伊達と比べた方がまとも。
ちなみに佐久間は追放されるまで織田家でトップだった超優秀な人材
お前が大好きな丹羽なんかより遥に上の石高
0903人間七七四年
2012/03/12(月) 00:17:28.83ID:RUYDo+Dc家臣の犬になりさがっただけだろ 秀吉→家康と
0904人間七七四年
2012/03/12(月) 00:17:50.90ID:d7oT+tSu織田の方が圧倒的大軍もってる上に家康が義理堅いから助かっただけ
何せ一方的に助けられっぱなしだし
畿内平定なんてほとんど家康のおかげみたいなもん
0905人間七七四年
2012/03/12(月) 00:18:38.36ID:EYfDblMV合戦を公平なスポーツか何かだと思ってるんだろうか?
0906人間七七四年
2012/03/12(月) 00:19:20.76ID:iiDpNeB3え?姉川のどこがソースになるの?w
徳川史料の当代記ですら稲葉伊予守の活躍で退けたって記録があるのに?
>>佐久間は追放されるまで織田家でトップだった
与力が多いだけで佐久間個人の領土や家臣はそこまで多くないぞ
俺が大好きなのが丹羽?いや俺はどっちかというと秀吉や光秀の方が好きなんだけど
0907人間七七四年
2012/03/12(月) 00:19:55.14ID:d7oT+tSuその上装備も優れているだろうし
その有利な状況ですら大敗、大苦戦、大損害を繰り返しまくったのが雑魚長始め織田武将共
0908人間七七四年
2012/03/12(月) 00:21:01.37ID:d7oT+tSu敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから
織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから
織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
0909人間七七四年
2012/03/12(月) 00:21:30.44ID:iiDpNeB3家臣の犬でも大名家として残ったんだから優秀じゃん。
武田家なんて悲惨だぞ、仇敵の犬になって飼い殺しにされるわ、
徳川家康に勝手に自分の家名使われるわ、挙句大名の犬どころか野良犬扱いにされるわ・・・
涙出てくるわ
0910人間七七四年
2012/03/12(月) 00:22:14.40ID:CAR+1ObWどっちにせよだがの主張は主観塗れすぎて気に留める価値のかけらもない意見だな
0911人間七七四年
2012/03/12(月) 00:22:44.91ID:d7oT+tSu家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞
4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
5結城晴朝 1558年 1万石 23万石 23倍
6佐竹義重 1570年 8万石 150万石 17倍
7上杉景勝 1578年 8万石 120万石 15倍
8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍
9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
0912人間七七四年
2012/03/12(月) 00:23:43.44ID:iiDpNeB3まあハナから武田>織田って決めつけてるからな。
お情けで高家旗本に残ったのを「旗本だから大名より上」なんてわめていた時もあったし。
高家旗本くらいなら織田家でも信高とか信貞とか残ってるのにな。
0913人間七七四年
2012/03/12(月) 00:24:11.14ID:d7oT+tSu版図領域が段違いで最も重要な摂津戦線などを任されていた
こいつでも武田相手には全く通用しないレベルだった事が織田家がカスなのをよく示している
0915人間七七四年
2012/03/12(月) 00:25:48.22ID:d7oT+tSuアンチ織田派が1人に見えてしまう織田厨哀れw
0916人間七七四年
2012/03/12(月) 00:28:08.84ID:iiDpNeB30917人間七七四年
2012/03/12(月) 00:29:06.46ID:CAR+1ObW0918人間七七四年
2012/03/12(月) 00:29:09.36ID:d7oT+tSu直轄領でも間接領でも大身だったのに変わりない
0919人間七七四年
2012/03/12(月) 00:30:37.41ID:iiDpNeB3与力は一時的に信長の指揮下を離れるだけで間接領土どころか佐久間が一切関与できない領土だぞw
つかおまえアンチ織田派が1人に見えるのが哀れとか言いながら丹羽大好きの織田信者と俺と勘違いしてたじゃんw
0920人間七七四年
2012/03/12(月) 00:32:25.03ID:d7oT+tSuよって任務継続中は少なくとも佐久間の物も同然
他の方面軍の軍団長核だって同じ事
0922人間七七四年
2012/03/12(月) 00:35:17.20ID:d7oT+tSu佐久間が命令だしたら従わなきゃならない
そうでなければ与力の意味がない
0923人間七七四年
2012/03/12(月) 00:36:58.69ID:iiDpNeB3それ以外のことで佐久間が命令したら信長にチクられて佐久間がクビにされるのがオチ
0924人間七七四年
2012/03/12(月) 00:37:59.04ID:TVfYAmT2これ戦争論でいわれていること
0926人間七七四年
2012/03/12(月) 00:39:27.56ID:d7oT+tSu下にたくさん人間付けられてるのは身分高い証拠
大体軍団長って任務を真っ当するためにおかれてるんだから
任務に関して命令聞く=自分の命令下
ようは自分の下に付けられてるだけ
0927人間七七四年
2012/03/12(月) 00:39:31.27ID:RUYDo+Dc0928人間七七四年
2012/03/12(月) 00:40:57.16ID:iiDpNeB3>>大体軍団長って任務を真っ当するためにおかれてるんだから
おまえその理屈だとたくさんの与力をつけられなきゃ任務も真っ当にできないってことになるんだがw
0929人間七七四年
2012/03/12(月) 00:41:02.95ID:d7oT+tSuバラバラで結束力のない軍になるだけ
こんなぐちゃぐちゃな軍政しかできないのかね織田信長は。
0931人間七七四年
2012/03/12(月) 00:43:26.34ID:RUYDo+Dc主君(笑)は襲うわ身内で争うわ
0932人間七七四年
2012/03/12(月) 00:45:09.30ID:iiDpNeB3そもそも佐久間の地位をおまえが勘違いしているだけ。
信長の指揮権を一時的に佐久間に委任しているだけにすぎない。
佐久間含めて軍団長(ともいうべき存在)の武将の兵力だけでは敵大名と戦えないから
仕方なく信長が差配して他の大名を与力として協力させているだけ。
>>バラバラで結束力のない軍になるだけ
むしろ信長にとってそれは最善の処置なんだが。
結束力ができて佐久間に全部従ってたら佐久間が謀叛起こしたらそれこそどうするの?与力帰ってこないよ
それこそ光秀の本能寺で与力の細川も筒井も皆即答で光秀についちゃうよ。
0933人間七七四年
2012/03/12(月) 00:48:08.12ID:NBY+hOli与力の立場から見た命令の優先順位
信長>佐久間
基本的には佐久間に従うが、信長より佐久間を優先することはない。
おしまい。
0934人間七七四年
2012/03/12(月) 00:50:38.76ID:d7oT+tSu>信長の指揮権を一時的に佐久間に委任しているだけにすぎない。
委任できるほど信頼にたると見られているという事
>佐久間含めて軍団長(ともいうべき存在)の武将の兵力だけでは敵大名と戦えないから
>仕方なく信長が差配して他の大名を与力として協力させているだけ。
だったら始めから軍団長をおく必要なし
佐久間に一定の差配権が認められて与力も自由に動かせるからこそ軍団長をおくメリットがある
一々佐久間の元におかれてる軍隊に信長が命令を伝えるなら信長の元において
信長から直接命令だした方がよい
>むしろ信長にとってそれは最善の処置なんだが。
つまり外敵と戦うために設けられたはずの軍団長制度が、信長へ反旗を翻す事を想定して作り
外敵との戦闘を2の次に考えなきゃいけないほどお粗末で馬鹿な軍制だったという事ね
0935人間七七四年
2012/03/12(月) 00:51:06.41ID:WgCcdiuHむしろ信長にとってそれは最善の処置なんだが
さすが信長だな 最弱雑魚軍団なのも自分が殺されるために仕組んだ構造的欠陥だったんだ
0937人間七七四年
2012/03/12(月) 00:58:49.80ID:iiDpNeB3逆だ逆、そういう謀叛を起こさないように作られてるんだから。
そもそも佐久間追放後がより顕著だが織田に単独で抗する大名なんてもういないわけで、
残りは残党処理にすぎない。で時間の節約のためにやったのが軍団長ともいうべき制度なんだから。
つか、これのおかげで光秀は本能寺の後も与力の細川や筒井を丸め込めなかったのに何を言ってるんだかw
軍団の結束力重視していたら山崎の合戦なんて起こらない、皆明智について終了。
0938人間七七四年
2012/03/12(月) 01:05:51.58ID:WgCcdiuH軍団長だろうと与力だろうと信長にはそれを統率する力量がなかっただけだ
0939人間七七四年
2012/03/12(月) 01:07:15.64ID:iiDpNeB3結局信長の遺産が光秀の天下という可能性を絶った、それだけのこと。
0940人間七七四年
2012/03/12(月) 01:08:29.51ID:WgCcdiuH信長の遺産(笑)なんぞないわなwwww
0941人間七七四年
2012/03/12(月) 01:10:42.24ID:iiDpNeB3あ、もしかして常備軍とかそういうの信じてるタイプかw
本能寺の時は有事じゃないんだから信長が軍を連れてないのは当たり前
0942人間七七四年
2012/03/12(月) 01:12:41.55ID:WgCcdiuH0943人間七七四年
2012/03/12(月) 01:16:26.92ID:iiDpNeB3織田軍がいても京に信長が来るとき軍を率いるわけないんだから軍を率いた光秀にかなうわけないのは当然
どうせ京にどうやって軍勢を留めるとか、その間の軍に対する資金とかを考えてないんだろうけどなw
0944人間七七四年
2012/03/12(月) 01:27:50.67ID:d7oT+tSu軍団が設置された時点では武田上杉本願寺毛利赤井波多野雑賀その他諸々健在
本能寺時点でもまだ大名なんてたくさん残ってるのに
寝言は寝て言え
>>939
信長は軍でいえば織田家全体持ってるといえるけど注意力不足のせいで光秀に奇襲されて死んだ間抜け
有する軍でいえば織田家当主でありまだ実権は信長にある分全体を操れる立場だが
寡兵の光秀に奇襲されて織田家は滅びましたとさ
0946人間七七四年
2012/03/12(月) 01:37:00.08ID:TVfYAmT2主君勝頼を見捨て逃亡・降伏という醜態を晒した武田家臣団
0947人間七七四年
2012/03/12(月) 01:43:40.51ID:NBY+hOliで、君が>>884で述べた武田が織田より上にくる理由は?
>>890の件なら、三方ヶ原で佐久間の率いている兵力は信玄の10分の1程度だったんだから、何の証拠にもならんよ?
0948人間七七四年
2012/03/12(月) 02:25:31.13ID:iiDpNeB3本能寺時点で織田に対抗できる大名なんているかよ
皆羽柴柴田といった各軍団の兵すら満足に追い返せなかったのに
設置された段階でもまともに抗しうるのは毛利と本願寺だけ。
ビビって追撃と直接対決を諦めた上杉やハナから信長と直接対決を避けた武田なぞ論外。
0949人間七七四年
2012/03/12(月) 02:38:35.15ID:TVfYAmT2毛利、上杉は死に体
島津は九州統一すら出来てない
長曽我部は雑魚
武田は滅亡w
0950人間七七四年
2012/03/12(月) 03:30:08.74ID:iiDpNeB3せめて信長本隊を釣りだして奮闘した上での滅亡ならまだよかったが、
信長どころか信忠すら満足に倒せず、一方的にボコられての滅亡。
結果、武田家より弱い大名家(長宗我部家など)や武田家より辛い情勢にある大名家(三方に敵を抱えた上杉家など)は
武田家とほぼ大差ない状況で滅亡するであろうことが容易に想像され、まともに抗しうるのは毛利や北条くらい。
その毛利家が信長の畿内軍の侵攻を間近に受け危急存亡状態になり、北条は従属に近い状態。
のちに秀吉や家康がより完璧な状態で天下統一したから霞んでるが、鎌倉室町政権と比べれば
信長の勢力圏も決して見劣りしないことが、信長を半ばおまけで天下人している要因。
つまり言い換えれば、武田家の滅亡が織田信長の天下取りに貢献している。
0951人間七七四年
2012/03/12(月) 12:32:40.96ID:OwzZbOQRデタラメはいてんのは笑えるw
実際の地図を見てないで書いてるの丸分かりw
武田本隊前方の左の川向こうに酒井隊が進出してきただけで
どうやって背後を取ったことになるんだ?
しかも当時の武装は重量ハンパじゃないのに
どうやって渡河するつもりだよw
どう考えても船は全部、長篠攻撃側の武田方にあるはずだぞ。
0952人間七七四年
2012/03/12(月) 13:58:04.77ID:TVfYAmT20953人間七七四年
2012/03/12(月) 14:03:27.16ID:hoV2R0/dまあ甲陽軍艦も読んでない事が前に発覚してるわけだが…
0954人間七七四年
2012/03/12(月) 14:11:37.28ID:jJI2Lx2O何回も同じ事言わせないでくれ>>902
最も醜態晒したのは織田軍だから十分証明になる
織田なんて武田と比べるまでもなく斉藤浅井朝倉本願寺北畠長島一揆どことやっても醜態さらしてるだけだから
武田と比べる事自体間違い
北条や伊達あたりと比べた方がまだまとも。それでも北条や伊達のが遥に上だろうけど
>>948
全方面敵&内乱で自壊して極端に疲弊&圧倒的兵力で不利な上杉にすら
越中中部〜魚津松倉間の短い距離で2年も食い止められ
挙句の果てに越後侵攻軍を大破させられ長沼奪われた雑魚織田軍がどうかしたか?
どちらにしても軍団が設置された状況では織田の天下なんて程遠いから>>937
はただの妄想 もしそうだとしたら信長はただの馬鹿
0955人間七七四年
2012/03/12(月) 14:17:56.43ID:jJI2Lx2O主君なき後自家同士で潰しあい
挙句の果てに徳川に天下奪われた織田家臣団と
主君なき後徳川の貴下に入って大活躍して出世した武田家臣団の間違いでしょ
>>948
つうか君はいつ軍団が設置されたと勘違いしてるの?
>>950
高遠の戦いで50〜60倍の兵力比で絶対的に兵数が物を言う城外戦で大損害だして信濃の伝説になった雑魚信忠がどうかしたか?
信ヤボでいえば統率20くらいだろこんな戦下手
信長は天下なんて取ってませんが??
0956人間七七四年
2012/03/12(月) 14:18:46.84ID:jJI2Lx2O今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
0957人間七七四年
2012/03/12(月) 14:19:37.28ID:jJI2Lx2O1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
0958人間七七四年
2012/03/12(月) 14:21:10.14ID:jJI2Lx2O反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
0959人間七七四年
2012/03/12(月) 14:21:38.63ID:jJI2Lx2O実戦経験がかなり乏しい北条氏直に完膚なきまでにやられた滝川
加賀平定に四年も費やし手取川でボロクソに負け内乱で相当疲弊し
新発田の乱が起き蘆名も介入してる状態の上杉も滅ぼせない柴田
信玄にボロクソに負ける家康に大軍で挑んで緒戦で負け長久手でボロ負けし
本多忠勝500に足止め喰らいその後の攻防も終始苦戦する秀吉
家康にあっけなく討ち取られる森、池田
国内が疲弊してる上に勢力的にさほど大きくなく多方面に敵がいる上杉に
魚津を取り返され越中に釘付けにされる佐々
信濃から追いされる森 甲斐の一揆で殺される川尻
わずか3万石程度の赤井に敗戦した光秀
こんな雑魚が織田家トップクラス(笑)
0960人間七七四年
2012/03/12(月) 14:22:11.45ID:jJI2Lx2O・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
0961人間七七四年
2012/03/12(月) 14:22:45.15ID:jJI2Lx2O岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も2500〜3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
0962人間七七四年
2012/03/12(月) 14:23:25.65ID:jJI2Lx2O秀吉は光秀より6.25倍戦下手
信忠は仁科より2500〜3600以上戦下手
光秀>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
仁科>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信忠
0963人間七七四年
2012/03/12(月) 14:25:25.57ID:jJI2Lx2O信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
0964人間七七四年
2012/03/12(月) 14:58:18.41ID:tUVzGuqw戸籍管理する前の人口なんてアテにならんだろ。
江戸時代に新潟県の人口が超巨大だったから
越後最強とか主張するやつすらいなかったのに
織田チョンってやっぱりバカだな
0965人間七七四年
2012/03/12(月) 16:24:00.31ID:NBY+hOli>>964
そんなどうでもいいところまで遅レスか。
そういうレスってさ、「くやしいです」って言ってるようなもんだから、やめといた方がいいと思うよ?w
0966人間七七四年
2012/03/12(月) 16:31:02.76ID:jJI2Lx2O六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
0967人間七七四年
2012/03/12(月) 16:31:54.61ID:jJI2Lx2O北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
0968人間七七四年
2012/03/12(月) 16:42:31.12ID:jJI2Lx2O織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
大友はその島津に篭城戦で何回も撃破し、地理的不利や馬鹿な息子でなければ勝っていた
大友>>>>島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
知能指数でいえば
一般人>>高校生>>中学生>劣等人種>>小学生>>>幼稚園児>>>>>(ワープ)
>>>>>犬>>>>猫>>>鳥>>>>>ヘビ>>>>魚>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>ミドリムシ、ゾウリムシ>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>織田廚(笑)
関東でいえば
佐竹>里見、太田>結城、壬生、由良、成田、長野>足利長尾、宇都宮、佐野、皆川>梁田、深谷上杉、多賀谷、富岡>小山、小田>>>>>>>>>>>>信長秀吉
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬鹿織田厨
0969人間七七四年
2012/03/12(月) 16:44:04.28ID:jJI2Lx2O森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
0970人間七七四年
2012/03/12(月) 17:23:23.48ID:t8r0hzrS主君を見捨て徳川に取り入り徳川家臣として出世した旧武田家臣
そんな武田をひたすら擁護するだが
哀れ
0971人間七七四年
2012/03/12(月) 17:38:20.08ID:jJI2Lx2O徳川だけが歴史の勝者であり誰が強くて誰がカスだったか決める権利がある
0973人間七七四年
2012/03/12(月) 17:55:09.66ID:jJI2Lx2O神戸北畠は分家であって織田とは別物。織田家ではない。秀信は幼すぎて実権なし。
現に織田武将達は信雄信孝秀信を当主として機能していないから実質織田家は信長の死と同時に崩壊。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
徳川が滅んだのは幕府開かれてから250年以上後だから家康どうこうと関係ない
戦国でもないしな
0975人間七七四年
2012/03/12(月) 17:57:26.21ID:jJI2Lx2O旗本として残ってる事にかわりないんだから
しかも信長が死んで0になった事に変わりないから雑魚長や雑魚織田が滅ぼされた事実に変わりはない
それを秀吉の情けにすがって申し訳程度領土もらっただけ
その秀信も結局改易されたカス
織田家は信長1人が衰退させたみたいなもん
0976人間七七四年
2012/03/12(月) 17:58:18.34ID:jJI2Lx2O現実みるのはお前の方だよ
信長は領土拡張率0の雑魚
武田を罵倒する権利は全くない
0977人間七七四年
2012/03/12(月) 18:04:48.67ID:jJI2Lx2O家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞
3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍
5葦名盛氏 1532年? 2万石 105万石 52.5倍
6津軽為信 1540年 0.7万石 24万石 30倍
7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍
8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
0978人間七七四年
2012/03/12(月) 18:13:27.99ID:TVfYAmT2こうなるのか
0979人間七七四年
2012/03/12(月) 18:16:04.10ID:jJI2Lx2O徳川視点で強かったのが武田だから武田最強だろ
0980人間七七四年
2012/03/12(月) 18:23:03.60ID:TVfYAmT2武田最強は徳川幕府が作り上げた幻想にすぎず
客観的に見れば田舎の山賊の類みたいなもんだ。
0981人間七七四年
2012/03/12(月) 18:35:55.82ID:jJI2Lx2O武田最強は天下人家康が語った現実
客観的に見て天下人であり最終勝者であり徳川だけが誰が強く誰が雑魚だったか語る権利がある
織田は徳川と比較するまでもなく雑魚
武田はおろか浅井朝倉斉藤本願寺長島一揆雑賀赤井波多野どこと戦っても圧倒的大軍で寡兵の敵に負け続け
家を滅ぼされた雑魚
武田・徳川はおろか、北条や伊達以下
0982人間七七四年
2012/03/12(月) 18:43:21.61ID:jJI2Lx2O上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
織田両国内の記録
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
0984人間七七四年
2012/03/12(月) 18:47:15.48ID:NBY+hOli0985人間七七四年
2012/03/12(月) 18:48:56.69ID:jJI2Lx2O武田最強は天下人家康が語った現実
客観的に見て天下人であり最終勝者であり徳川だけが誰が強く誰が雑魚だったか語る権利がある
織田は徳川と比較するまでもなく雑魚
武田はおろか浅井朝倉斉藤本願寺長島一揆雑賀赤井波多野どこと戦っても圧倒的大軍で寡兵の敵に負け続け
家を滅ぼされた雑魚
武田・徳川はおろか、北条や伊達以下
0986人間七七四年
2012/03/12(月) 19:57:55.36ID:vAhYP/kU上洛するする詐欺で周りをがっかりさせて死んじゃったら世話ないわ
0987荒らされたので住人が集まるまで宣伝します
2012/03/12(月) 20:31:36.47ID:Rr+emi9G万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0988人間七七四年
2012/03/12(月) 22:29:41.66ID:6VGlRGZc厳密には徳川幕府が作ったわけではない
甲陽軍鑑は頼山陽すら否定している。
だから信玄最強なんて徳川幕府からすれば本来預かり知らぬこと
幕府の考える戦国最強は権現様こと家康ただひとり。
実際どの徳川史料を見ても家康の力量才覚に信玄を持ってきているものはない。
結局家康をダシにして信玄最強を捏造したいのが武田厨
ま、家名を残せず滅びた勢力のわるあがきだな
0989人間七七四年
2012/03/12(月) 22:37:30.88ID:0kTUxvAQ信長さすがの弓取りにて、と信長を好意的に見る文章があり、
当代記、家忠日記など他の主要史料にしても同様
逆に信玄最強なんていうの文章はほとんどなく、
当代記では三好家の扱い
天下をとった徳川基準で考えると間違いなく織田>武田の構図が完成して
武田涙目になるぞw
0990人間七七四年
2012/03/12(月) 22:38:17.75ID:NBY+hOliその徳川の力量を見抜き同盟者にした信長
徳川を織田と同時に敵にまわすという愚を犯した信玄
知力に天と地ほどの差があるなw
0991人間七七四年
2012/03/12(月) 22:54:15.17ID:jJI2Lx2O東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
織田両国内の記録
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
>>989
要するに徳川が負けたから武田が最強だったというだけ
武田最強は天下人家康が語った現実
客観的に見て天下人であり最終勝者であり徳川だけが誰が強く誰が雑魚だったか語る権利がある
織田は徳川と比較するまでもなく雑魚
武田はおろか浅井朝倉斉藤本願寺長島一揆雑賀赤井波多野どこと戦っても圧倒的大軍で寡兵の敵に負け続け
家を滅ぼされた雑魚
武田・徳川はおろか、北条や伊達以下
0992人間七七四年
2012/03/12(月) 22:56:28.01ID:jJI2Lx2O信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
0993人間七七四年
2012/03/12(月) 22:58:30.74ID:jJI2Lx2O大関 西 上杉謙信 東 武田信玄
関脇 西 毛利元就 東 北条氏康
小結 西 前田利家 東 島津義弘
前頭 加藤清正 柴田勝家 伊達政宗 福島正則 真田昌幸 大谷吉隆 大内義興 尼子義久
片桐且元 細川藤孝 木村重成 鈴木孫一 小早川隆景 吉川元春 蒲生氏郷 長宗我部元親
丹羽長秀 今川義元
スケ前頭 明智光秀 山上道及
前頭(十両) 宇喜多直家 石田三成 島左近 直江兼継 本多忠勝 新納武蔵 池田信輝 井伊直政
黒田長政 浅野長政 筒井順慶 三好長慶 浅井長政 朝倉義景 佐竹義宣 大友宗麟
榊原康政 滝川一益 加藤嘉明 中川清秀馬場信房 宇佐美定行 堀秀政 堀尾吉晴
酒井忠次 山県昌景 小西行長 武田勝頼 斎藤道三 陶晴賢 蜂須賀正勝 鍋島直茂
奥平信昌 森長可 藤堂高虎 増田長盛 内藤昌豊 高坂昌信 山中鹿之助 後藤又兵衛
(以下208名)
行司 羽柴秀吉 羽柴秀長 結城秀康 羽柴秀次 羽柴秀勝
差添 織田信長 織田信忠 織田秀信 織田信雄 織田信孝
世話人 山本勘助 竹中半兵衛 真田幸村 真田幸隆 明智光俊
勧進元 信長記 太閤記 後風土記
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/goods/vol002/vol002.html
0995人間七七四年
2012/03/12(月) 23:00:53.35ID:jJI2Lx2O其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる
徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない。
0996人間七七四年
2012/03/12(月) 23:03:28.27ID:iiDpNeB3肝心の徳川は三方が原を武田の勝ちとみてないんだがw
三河物語では「家康は何事もなく城へ戻った」と無事を強調しすぐに野田開城から信玄病死で撤退したことに至る。
そこから家康が信玄に奪われた諸城を奪還している話に入り
「最初こそ武田に苦戦したが、やがて武田が攻めあぐねて撤退し、家康が諸城を取り返した」という美談で締めくくられている。
もちろんこんなしめくくり方をしている時点で信玄最強など当の徳川達が毛ほども思っていないことがわかり、
結局主君である徳川家康がまた難局を打開した、と家康の才知や武運を褒め称えるエピソードとして紹介しているだけw
それすらわからずあまつさえ「信玄最強は天下人家康のお墨付き」と妄想するだがには恐れ入るw
0997人間七七四年
2012/03/12(月) 23:06:36.01ID:jJI2Lx2Oこれ家康から見て信玄が手ごわい証拠
講談だとか江戸期の創作とか関係ない
天下人の立場から見てそうなんだから徳川だけが歴史をかたる権利がある
三方が原は一次資料類にもソースありだから語る価値もない
0998人間七七四年
2012/03/12(月) 23:07:11.24ID:iiDpNeB3信長と秀吉ただ2人だけであり、この2人は最大でも家康と同格に並び立つ功績と存在感を存分に出している。
この2人を罵倒しこき下ろすことは、=同格の徳川家康に対する侮辱であり、
こき下ろす際はその旨を含めて家康に対する補足(褒め言葉、家康と比較してのこき下ろし等)が絶対に入る。
こんなこともわからず家康がたかだか地方大名の信玄最強だのとのたまっていた、とか言い出す武田厨哀れw
0999人間七七四年
2012/03/12(月) 23:07:21.42ID:jJI2Lx2O徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる
徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない
1000人間七七四年
2012/03/12(月) 23:07:38.87ID:jJI2Lx2O10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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