戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0874人間七七四年
2011/02/19(土) 02:30:57ID:Vzchav0y0875人間七七四年
2011/02/19(土) 02:40:20ID:x53vzWWY泥棒「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」
0876人間七七四年
2011/02/19(土) 08:41:41ID:nkhfZZQR0877人間七七四年
2011/02/19(土) 09:49:16ID:Qu8k2yhJ0878人間七七四年
2011/02/19(土) 11:35:31ID:66LlXUkg神聖である、信仰しているということはむやみに畏れ遠ざけることじゃないし、子供は昔から怖いもの知らず。
また、鬼神の力を借りるという意思で被り、一種のトランス状態になって恐怖を克服するのはありうるよ。
トランス状態って要するにぶっちゃけ思い込みによる自己神格化な訳で、立ち向かう勇気は溢れると思う。
0879人間七七四年
2011/02/19(土) 12:41:41ID:NMqjuvxEなるほど〜!
本当にそういう意味で清正がお面被ったように思えてきたよ。
文字通り鬼になったわけだね。
女性が化粧すると気が強くなるのと一緒かな。
0881人間七七四年
2011/02/19(土) 14:58:14ID:3Cyaw363うん、>>880の前世は福島正則なんだよきっと・・・。
0883人間七七四年
2011/02/19(土) 15:37:06ID:vAuCsby+そういうことはあるだろうね。
鈴木大拙の「日本的霊性」にも念仏宗の信徒(若い娘)が、
お伊勢参りの道でヤマイヌの群れに囲まれたときに、
もうダメだと思って無心で南無阿弥陀仏を唱えたらヤマイヌが退散したという話があった。
無心の気迫が通じるみたいなことなのだろう
0885人間七七四年
2011/02/19(土) 19:38:57ID:x53vzWWY化粧とった→化け物
0888人間七七四年
2011/02/19(土) 20:00:33.09ID:ecpPsbQH0890人間七七四年
2011/02/19(土) 20:35:20.60ID:Rc+iCtKpだがその犬を男は返り討ちにして殺し、草履を無くした上に手足に血をつけて帰宅した。
その様子を見ていた母親から問い詰められると、男は犬を殺した事は認めたものの果物を盗もうとした事は認めようとはしなかった。
そんな男を母親は家の仏間に連れて行き、父親の位牌を前に
「父上はいつもそなたを見ている。嘘をつけば地獄に落ちる。」
と諭した。この言葉を聞き男は猛烈に反省し、信仰を深め、清廉潔白な人物に育ったと言う。
この男は後の加藤清正である。
0891人間七七四年
2011/02/19(土) 21:03:52.80ID:qh1TmXW30892人間七七四年
2011/02/19(土) 21:11:01.15ID:Y549yEgw人間
虎
朝鮮人
犬←new
0893人間七七四年
2011/02/19(土) 22:20:43.40ID:ClsIMj26>>清廉潔白な人物
>>清廉潔白
0894人間七七四年
2011/02/19(土) 22:23:18.17ID:1PA64pC+天正20年(文禄元年)(1592)、文禄の役、朝鮮に出兵した播磨・三木城主の中川秀政は10月24日、
現地での鷹狩の最中気がついたら敵兵に囲まれていた、と言ううっかりプレイで討死。
享年25歳であった。
さて、主君のあんまりな死に嘆き悲しんでいる中川家の家臣のところに加藤清正がやって来た。
そしてこの家臣に品物を手渡した。その品物を見て驚く家臣に清正
「これを与える。これで元気を出せ!」
「あ、あの、これは…?」
赤鬼の面であった
「この地で手に入れたものだが、おぬしに渡す!何時までもくよくよするのではないぞ!」
「は、はあ…」
家臣はよく解らない。何故赤鬼の面なのか?どうして赤鬼の面が自分を慰めることになるのか?
ただ単に清正が赤鬼の面が好きだというだけではないか?
様々な疑問をかかえ、ともかくもその家臣は赤鬼の面を持って帰国した。
が、だからと言ってこれをどうしたものかよく解らず、そのまま放置し、そのうちこの家臣も死んだ。
後継ぎなどにもその面についての言及はなく、完全に忘れ去られた。
時は流れ延宝3年(1675)、この家臣の子孫がたまたまこの面を見つけた、しかも清正の
寄進状と共に。こんなモノにもちゃんと寄進状を書いていたのですね清正公。
だが、やはり子孫もこれをどうしていいのか解らず、地元の月輪寺へと奉納した。
そのうちに月輪寺が赤鬼面と対になる黒鬼面を購入し、これを用いて鬼追いの祭礼を
行うようになった。これは「三木・大宮の鬼追式」として、現在も大宮八幡宮と月輪寺にて
神仏習合の祭礼として行われている。
清正寄進の面、なんだか色々あって祭礼となる。と言うお話。
0895人間七七四年
2011/02/19(土) 22:27:54.54ID:awBWDt7y「熊と戦う前に、牛か、せめて犬と戦ってからにしろ」って
0896人間七七四年
2011/02/19(土) 23:02:08.85ID:SeT607j4後藤又兵衛が生き延びていた、という話は又兵衛桜が有名ですが
愛媛県の松前町にも、又兵衛が逃げ延びてきたという話が伝わっています
大阪からなんとか脱出した又兵衛は、旧友の加藤嘉明を頼ってこの地を訪れました
徳川家からの捜索を逃れるため、名を弟の市郎右衛門と偽り、百姓となったそうです
百姓となった後は、地域の開拓に尽力し、寛永11年にその生涯を終えます
今でも後藤新田、後藤の堰などの事跡が残っています
http://shikoku-net.co.jp/ehime/kankou/iyogun/masakikankou.htm
↑参考にさせていただきました
又兵衛夫婦のものとされる墓の写真もありますよ
個人的に「旧友の加藤嘉明を頼って」という部分が気になります
又兵衛の主君と仲良かったから交流はあったと思いますが…
なんとなく相性悪そう
0897人間七七四年
2011/02/19(土) 23:05:44.83ID:o1BraLN+松前城から松山城に移していることだが
昔の居城近く、というならありか
0898人間七七四年
2011/02/20(日) 00:11:34.18ID:zIpvnBRWそこ伊予に旅行行った時行きましたわー。
そう遠くない同県伊予市の長泉寺にも後藤又兵衛の墓があって、
こっちは生存説ではなく、戦死した又兵衛の首を持って逃げた部下がここに葬ったという伝承が。
叔父の藤岡九兵衛(又兵衛幼少時代の保護者)が住職をしていた縁で、
大坂入城前に又兵衛が加藤嘉明との交誼を頼って、妻子を託したことが碑文に刻まれています。
程近い三谷に塙団右衛門の子説もある程仲の良かった雲居国師の生誕地があったり、
松前城跡には加藤家を出奔した団右衛門の事跡が看板に書かれたりしていて、
この大坂の両豪傑好きにはちょっとした穴場地域に感じました。
>>897
松山から松前もそう遠くないしね
松山築城の際に破却した松前城の建材を再利用した話もあるし
0899人間七七四年
2011/02/20(日) 00:42:58.78ID:ojBUX0H1「寿能の蛍」
昔、池の辺りで笛を吹いている娘がいた。やがて娘の周りには蛍が集まり、その中のとびきり大きい蛍が娘を池の底へと連れさった。
やがて娘が目を覚ますと目の前に美しい上品な女がいた。
「実は私、昔この地を治めていた潮田家の能と申します。寿能城が落城した際に私は待女と共にこの池に入水したのですが竜神様にこの夏の期間だけ蛍となり一族に祈りを捧げる事ができるのです。どうか我が一族を供養してください」
この姫の気持ちに心をうたれた娘は供養塔を建てたと言う。
0900人間七七四年
2011/02/20(日) 00:56:05.58ID:eG9/zR8H寿能城が落城したのって小田原征伐の時なのか
0901人間七七四年
2011/02/20(日) 01:47:05.20ID:qcMhgtEk武田信昌のころ、甲斐に加賀美武光という武士がいた。
加賀美家は武田を初めて名乗った信義の弟である遠光以来の家である。
小笠原や南部などの名門を生んだが、それらと異なり他国へ雄飛しなかったためか、南北朝の頃には既に衰微していた。
この武光、虐められっ子だったのか、あるとき馬に乗って道を行くと、国人大井某の郎党に犬をけしかけられた。
突然のことに馬は竿立ちになり、武光は落馬した。そこへ多数の犬が襲いかかる。
武光は応戦するが、落馬した時に怪我でもしたのか、抵抗虚しく噛み殺されてしまった。
後日その弟が訴えを起こしたが既に証拠はなく、また誰もが大井某を恐れて証言しなかった。
逆に「武光は盗みに入って犬に食われた」という噂がまととしやかに流れ、
「いぬ(く)いなる おとにきこへし かかみのたけみつ」と彼を囃し立てる歌まで流行った。
「乾の方向に住む加賀美武光は、名刀を持っているという噂だったけれど、実は鏡のような竹光だったのだろう、犬に食われてしまったよ」。
これに激怒した竹光の弟は弔い合戦を挑むが、大井他の連合軍に敗れて死に、領地も奪われてしまった。
しかし武光の子は信虎に仕え、大井、栗原などの仇を取って領地を回復し、代々の信濃守を名乗ったということである。
子孫は後に家康に仕え、武蔵に移されるも、旗本加賀美家として800石あたりで存続した。めでたしめでたし。
0902人間七七四年
2011/02/20(日) 01:50:01.88ID:qcMhgtEk×これに激怒した竹光の弟は
○これに激怒した武光の弟は
0903人間七七四年
2011/02/20(日) 05:58:02.23ID:I/FrWL2Z面で思い出した逸話
享禄3年(1530年)、大内勢が東肥前へ侵攻してきた。
迎え撃つは、少弐氏被官の龍造寺家兼公。
神埼郡田手畷にて、両軍は攻防。
さしもの家兼公も、大内の大群には苦戦する。
その時、面をかぶった「赤熊」姿の軍勢が、大内の横腹を突いた!
大内勢を打ち破るきっかけとなった赤熊勢の親玉は、鍋島清久公。
これ以後、龍造寺家と鍋島家の親しき関係が始まった。
そして、これをきっかけに、佐賀の伝統芸能「面浮立」が始まったとも言う。
0904人間七七四年
2011/02/20(日) 09:51:18.64ID:z2tHLap4http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3989.html
0905人間七七四年
2011/02/20(日) 12:04:08.42ID:Sb8t4MgA戦国時代の双子に関する逸話ってないのかね?
歳の近い兄弟の話は聞いたことあるけど
こと双子となるとその存在すら聞いたことが無いもんで
0906人間七七四年
2011/02/20(日) 12:07:00.18ID:1fl5kBdC0907人間七七四年
2011/02/20(日) 12:07:20.00ID:kGgISsUyこれってイジメ云々じゃなくて、普通に狙ってやった暗殺でねえの?
信昌のころの甲斐なんて、普通に世紀末だろ。
甲斐犬(かいけん)は日本固有種の中では最も凶暴で、オオカミの血が混じってる。
というか犬の血が混じったオオカミ。無茶苦茶獰猛だし、訓練すれば集団行動も出来る。
0910人間七七四年
2011/02/20(日) 13:55:45.75ID:f9vTY7Jn月曜夜八時の枠の「江戸を斬る」のTなんかがそうだったかな。
0912人間七七四年
2011/02/20(日) 16:05:30.51ID:3we+YkSQでは、代わってもう少し解説させてもらおうか。
甲斐犬はオオカミのハーフと一般に言われるが、ニホンオオカミよりはタイリクオオカミに近い。
甲斐犬と呼ばれるようになったのは割と最近で、それまでは甲斐虎と呼ばれていた。
文献上の初出は奈良時代、東北などに導入されてクマ狩りなどに使われていたという。
かつては山岳地帯でよく野犬が見られたそうだが、あまり群れでの行動はしないという。
甲斐の人間と違うのは、主人だけにはなつくことだろうか。
ただし家庭で飼っても主人は基本的に一人(夫婦の力関係によっては母親の場合もww)にのみしかなつかず、
その主人の命令ならば下位の人間の言うことも聞くが、とにかく非常に飼育が面倒だそうである。
戦後品種改良が進み、「一吠えされたので犬がいることは分かったが、次の瞬間には地面に引き倒されていた」
というような、典型的な甲斐犬の個体は少なくなっているという。が、筆者は散歩していた主従にやられたことがある。
0913人間七七四年
2011/02/20(日) 16:15:34.68ID:3we+YkSQオオカミとしての傾向
ものすごく敏捷、身軽、よじのぼる。
人を噛む。馴れない。訓練は無理。
遠吠えをする。ワンと吠えない。
イヌとしての傾向
尾を振る(食事の時)、人にも接する。
帰家性がある。
用途は、家庭犬・番犬・猟犬。臭い、毛抜けは気にならないので
室内でも飼える。用便をかねて散歩が必要。暑さ寒さにも強い。
性格は、一人の飼い主にしかなつかない忠犬。きつい面もある
ので他人や他犬とフレンドリーになるようなしつけが大切。
頭脳明晰で訓練はOK.。
野性味のある体型から想像できるように、いったん野に放せば
敏捷性に優れ、その跳ぶ姿は疾風のごとくで、この甲斐犬ほど
山野に似合う犬はいない。
確かに甲斐犬は二君に交えない武士道を地でいく忠犬だし、日本刀に例えられるほど頭脳明晰だ。
しかしながら甲斐犬には3kイメージ−きつい、怖い、咬みつくといったマイナーな面があるのも事実だ。
とくに猟場において他人を咬んだり、友猟犬とけんかするので、「友人を無くす犬種」だと言われている。
柴犬と比較して甲斐犬の飼育登録数が極端に少ないのは、この辺が原因かもしれない。
甲斐犬愛好家のみなさんが、あまりにも酔いしれて「この性格こそ甲斐犬の本質なり」、
「これでこそ甲斐犬なり」と申されても、あばたもえくぼでは世間には通用しないだろう。
0914人間七七四年
2011/02/20(日) 16:16:09.95ID:kHIbRhgP武田信玄は犬だったのか!!
0915人間七七四年
2011/02/20(日) 16:24:41.07ID:7MUt+Xv+0917人間七七四年
2011/02/20(日) 16:31:07.66ID:P9eXwdkGおお914よ 死んでしまうとは情けない…
0918人間七七四年
2011/02/20(日) 16:49:37.31ID:tTFXFs/9,::´::::::::::::::::::、::::`, 小
で {:::::::::::::r ''"__ _、::} 甲 痛 島
も ',:::::"::/ rqrq|/ 斐 っ
ち !,::、ゝ J.| 犬 : 弥
ょ j:,| -=,| に : 太
っ "j /. 噛 .く 郎
と ,┴─`─='. ま ね
用 ,, -": : : : : : : 0 : : └-. 、 れ |
あ ,‐" : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ``i. た 全
る /: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :| け .然
し /: : : : :i : : : : : : : : : 0: : : : : : :|: :| ど 痛
越 /./: : : : :|: : : : : : : : : : : : : : : : | : | 痛 く
後 ,' /: : : : : :,: : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :|. く ね
帰 , i: : : : : : / : : : : : : : : : 0: : : : : : : :|: : :| ね え
る ; |: : : : : / : : : : : : : : : : : : : : : : : : | : : | え
わ ; | : : 三i : : : : : : : : : : : : : : : : : : : | : : | わ
', , : : : : ,: : : : : : : : : : : 0: : : : : : : :| : : |
|: : : : :ハ : : : : : : : : : : : : : : : : : : ', : : l
i : : : : : ,: : : : : : : : : : : : : : : : :/: 〉: :/
',: : : : : :, : : : : : : : : : 0: : : : : :/: } :/
ハ: : : _:_〉: : : : : : : : : : : : : : : :/ヾ
ィ ヽ,: : : : : : : : : : : : : /: : : l
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http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-594.html
0919人間七七四年
2011/02/20(日) 16:55:54.22ID:FwNe6wyD0920人間七七四年
2011/02/20(日) 18:22:56.29ID:lM2a2qKkなにそのジャンプマンガ?
0921人間七七四年
2011/02/20(日) 19:20:49.32ID:64Nbr+Xbその影に軍用犬として甲斐犬が使われていた事は
あまり知られていない。
甲州流軍学によると武田軍の軍法とは、
まず甲州犬を敵陣に放ち敵を混乱させ、次に小山田勢による投石で
敵の足をとめ、最後に騎馬軍団による突撃で止めを刺すというものだった。
このように先鋒として活躍した甲州犬であるが、警護犬としても優秀で
第四次川中島の合戦で上杉謙信が単騎武田の本陣に斬り込んだ時、武田信玄
の傍らにいた信玄の愛犬「竹虎」が主人の命を救った事は有名である
民明書房刊『戦国時代のトップブリーダー』より
0922人間七七四年
2011/02/20(日) 19:41:03.64ID:9NLJ9Rqt0923人間七七四年
2011/02/20(日) 20:26:52.45ID:Nolio+8m馬鹿に見えるけど実際軍用犬に使われたくらいで頭だっていいんだぜ。
まあ知力体力ともに傑出するも、気性の問題で採用されなかったんだけどな。
http://www.geocities.jp/atommirai/aso/fuji.html
人だろうと犬だろうとやたら周りに噛み付く(しかも離さない)のは、
ご主人様だーいすきなヤンデレメイドみたいなもんで。
本当はいい子なんだぜ。うん、性根は悪い子じゃないんです。山梨県民と違って。
さて犬の話題はこれくらいにしておこうか。
0925人間七七四年
2011/02/20(日) 22:05:09.72ID:hcoJILWV不思議に思いこれを占ってもらったところ、「大変な吉夢だ!」と言う。
その理由はこうだ
「『是』と言う文字を分解すると『日の下の人』となります。これを握るというのは
日の下の人をすべ掌握するということ、すなわち天下を握るということです。
松平の家より必ず、天下を握る人が出てくることでしょう!」
清康はこれに大いに喜んだ。後、彼の孫である徳川家康が天下人となること、
誰もが知るところである。
清康の見た「是」の夢、と言うお話。
0926人間七七四年
2011/02/20(日) 22:05:47.61ID:DnFIAaCI既にそのジャンルは開拓済みです
http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/50378957.html
0930人間七七四年
2011/02/21(月) 01:18:19.80ID:w0xBGyAf武田信玄・・・敵に回したらこれほど恐ろしい男はおるまい。
0931人間七七四年
2011/02/21(月) 01:30:06.05ID:8YxABTNe>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4068.html
の逸話で知られるように、北条家において「大道寺の九つ提灯」と言ったら武勇の
誉れ、名誉の象徴となる旗指物であった。
それにあやかって、北条家中では提灯を旗指物にする者も多かったのだという。
松田康郷の与力であった山下民部左衛門もその当時、やはり「九つ提灯」にあやか
って「六つ提灯」を旗指物としていた。
しかし天正十三年、北条氏政が皆川氏征伐の為に下野国に出征した際の話である。
同じく北条家中の三好孫太郎が、民部左衛門の旗指物を眼にして声を掛ける。
「アンタが指してる六つ提灯、これには何か謂れがあるのかい?例えば親から継い
だとか……」
「いえ、その様な事はありません。私の好みであり、勇者たらんという決意の現れ
です」
「そうか。だがな、提灯の指物はそんな軽い物じゃねえんだ。俺が初めて手柄を上
げたのは天文の頃だが、それ以来、氏康公に直接声を掛けて褒めていただけるよう
な手柄を七度上げた。そのたびに提灯を一つずつ増やして行き、今はホレ、この通
りだ」
孫太郎が自らの背中を示すと、そこには「七つ提灯」の旗指物があった。
「まぁ、それは俺の勝手な思い入れさ。大した武功もねぇ内から六つの提灯を背負
うなんざ、普通は気後れしちまうもんだが、それを平然としてるのは肝が太い、理
想が高いと褒めるべきかもな」
「…………」
民部左衛門は数日後の戦場にて、大石八郎という大力の侍を討ち取った際、八郎の
首を取るや否や、自らの旗指物から提灯を五つ引きちぎると、「一つ提灯」を背負
って自陣へと帰還したのだという。
0932人間七七四年
2011/02/21(月) 01:35:44.67ID:IxFnV1Fh0933人間七七四年
2011/02/21(月) 01:41:57.00ID:8m2BbT/E小田原提灯【オダワラヂョウチン】
おだわら‐ぢょうちん 〔をだはらヂヤウチン〕 【小田原▽提▽灯】
円筒形で、不用のときは畳んで袂(たもと)または懐中に入れて携帯のできる提灯。
天文年間(1532〜1555)小田原の甚左衛門の創製という。懐(ふところ)提灯。
http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%8F%90%E7%81%AF
天文年間だから氏綱末期、氏康初期くらいだな
0934人間七七四年
2011/02/21(月) 16:31:42.08ID:7uzgP5wZこんなに早くレスポンスがあるとは予想外、ありがとう!
秀康の双子だったかも、か
永見貞愛が長生きしてたらどうなってたんだろ?
とにかく興味深い話も聞けたしサンクス!
0935人間七七四年
2011/02/21(月) 22:27:09.76ID:M8Izn4y+桃太郎侍と松平備前守も双子だからな。
0936人間七七四年
2011/02/21(月) 23:40:08.30ID:hTDmhYiJちなみにネーミングの由来は謙信だったりする。
朝倉・長尾・松平もいたな・・・・・・
0937人間七七四年
2011/02/22(火) 00:29:16.34ID:09Bhuv3vちなみにみどり牧場の関係者はみんな武田だったりする。
本多・服部・滝川・毛利もいたな・・・・・・
0938人間七七四年
2011/02/22(火) 00:35:08.30ID:V6SQDpBL0939人間七七四年
2011/02/22(火) 00:37:53.15ID:rKRc8A0I0940人間七七四年
2011/02/22(火) 00:38:59.72ID:3V9agx/b0941人間七七四年
2011/02/22(火) 01:17:13.00ID:DLDxfB7c残念ながら既出かも。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-767.html
0942人間七七四年
2011/02/22(火) 03:19:49.16ID:KdGcoVKGををぅ……なんたることか。
まとめサイトに反映されないから、どうしたのかと思っていたんですが。
くそぉ、これで三度目だぜ。
毎回、確認はしているつもりなんだけどなぁ。
御眼汚しどころか、ホントにゴミになってしまって申し訳ない。いや、マジで。
0945人間七七四年
2011/02/22(火) 13:07:02.93ID:42FAuTqy二人の逸話がごっちゃになって後世に真田幸村の逸話として残ったに違いない
0947人間七七四年
2011/02/22(火) 18:16:01.62ID:519b1JRZ0948人間七七四年
2011/02/22(火) 18:58:19.73ID:lZBNHHnrそして曽根内匠と武藤喜兵衛のことである。
いずれも次代の武田家を担うと見込まれた男たちであり、特に内匠と喜兵衛は今川領侵攻戦において
物見・先鋒として衆目を驚かす活躍を見せ、信玄に「内匠と喜兵衛は、わが両の眼」とまで言わしめた。
将来を期待された六人だったが、その後それぞれ劇的な人生を歩んだ。
甘利左衛門は、要衝・上野箕輪城を任され出世頭となったが、落馬事故がもとで早くに世を去った。
土屋右衛門と三枝勘解由は、長篠の露と消えた。
長坂源五郎は、義信事件に連座して死んだとも、父・釣閑斎とともに勝頼の馬前で果てたともいう。
残る二人、駿河興国寺城を守っていた曽根内匠は、武田崩れの際に徳川家康の軍門に下り、
兄たちを長篠で失った武藤喜兵衛は、真田安房守昌幸と名乗り、実家の名跡を継いだ。
天正13年(1585)8月、押し寄せる徳川軍を上田城で迎え撃った昌幸は、辛くもこれを撃退した。
徳川軍には武田旧臣も多く参加しており、昌幸が去って行くその背中を櫓上から見つめていると、嫡男・信幸が
報告にやって来た。日ごろ冷静沈着な信幸も、思わぬ大勝に興奮しながら語った。
「いや〜しかし、何とか勝ちましたな!それにしても、武田の旧臣どもの腰の抜けた様ときたら。
『信玄の両眼』などと言われし曽根内匠も、今日は槍を引きずって逃げて行きましたぞ!」
「たわけ。
わしから見れば、内匠の逃げっぷりは、お前たちの追撃の仕方よりも上手であったわい。
(内匠が逃ふりハ、おぬしらが追よりハ増して見えし。)
立場が逆なら、お前たちなんぞとっくに内匠に討たれておるわ。」
昌幸の言葉により熟練の士としての評判を保った内匠は、のちに蒲生氏郷の懇請により蒲生家に仕え、
会津若松城の縄張り等にも参画し、奥州にもその名を轟かせたという、比興者の友情?の話。
0949人間七七四年
2011/02/22(火) 20:13:37.16ID:DAvt/LVK三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛の三人が共に城門に詰め寄り
一番槍は三枝勘解由だったが二番槍は曽根内匠と武藤喜兵衛だったそうな。
0950人間七七四年
2011/02/22(火) 21:27:09.39ID:WqW1caRX武田で近習と言えばやっぱりそういう関係があったのかなと思ってしまう
0951人間七七四年
2011/02/22(火) 22:25:19.19ID:vtrdKpLz0952人間七七四年
2011/02/22(火) 22:36:07.66ID:8ygyoD2d,r' `' 、
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0953人間七七四年
2011/02/22(火) 22:36:50.30ID:lUl7ZWDf0954人間七七四年
2011/02/22(火) 22:40:58.04ID:0oPze45R0955人間七七四年
2011/02/23(水) 00:00:51.81ID:pGVFFn9O0956人間七七四年
2011/02/23(水) 01:23:22.26ID:d687VlU/0959人間七七四年
2011/02/23(水) 19:25:12.44ID:Wn8666Dd0960人間七七四年
2011/02/23(水) 19:55:58.84ID:sHX13SSe0961人間七七四年
2011/02/23(水) 22:14:49.01ID:j2+rYow30963人間七七四年
2011/02/24(木) 00:07:20.10ID:nrv3cI8P0964人間七七四年
2011/02/24(木) 00:07:27.54ID:LjbneSLB飼い主(甲斐主)には大人しくしとこうってことだよ。言わせんな、恥ずかしい。
0966人間七七四年
2011/02/24(木) 00:47:48.95ID:1DCjvkL+0967人間七七四年
2011/02/24(木) 10:30:12.95ID:+btdGJvw「身上之義〜まーくん、息子の就職を心配して口利きをしてもらう」
高知市の旧家で、伊達政宗から、徳川家家臣本多正純に宛てた長男秀宗の、今でいうところの就職斡旋依頼書(口利き依頼書?)みたいな書状が見つかったそうな。宇和島藩の成立と政宗の冬の陣参戦にも関係している書状らしく、
時代は大坂冬の陣の頃(慶長19年)1614年の11月10日付けで、徳川家康が大坂冬の陣に向かうため二条城に居たときに書かれた書状らしい。
内容としては、「うちの息子(秀宗)が秀吉の傍にいた経緯もあった上に、側室の子なので役職に就けなかったから、本多さん、両御所(家康と秀忠)様にお願いして何とかしてください。返す返すお願いします」
と念を押した内容だそうな。
徳川幕府の公式記録「徳川実紀」に書かれたものによると、この日に二条城で家康と会って翌日の軍議にも参加。この時に本多正純に根回ししたものと言われており、それから伊達親子は冬の陣に参加し、その功績から秀宗は宇和島藩を貰うことになる。
どの時代も自分の子供の就職を心配する親はいるもんなんですねぇ・・・。
0968人間七七四年
2011/02/24(木) 12:31:34.06ID:piSKvOMi0969人間七七四年
2011/02/24(木) 21:12:22.89ID:LjbneSLB座布団より>>962のわんわんおの画像をいただければ頭をひねった甲斐が(ry
あ、森さま、直家公より握り飯を頂戴しておりますがおひとついかがでしょうかw
0970人間七七四年
2011/02/25(金) 01:14:41.59ID:qCs374Pj栄えた当主の務め的なところもあるんだろう
0971人間七七四年
2011/02/25(金) 04:04:33.53ID:RIOyyr4j秀宗が家継いだらどうなったかな
たいして変わらんか
0972人間七七四年
2011/02/25(金) 06:02:41.15ID:U252Cr3w>どの時代も自分の子供の就職を心配する親はいるもんなんですねぇ・・・。
そこまでやったのにその息子は後に和霊騒動起こして政宗公を激怒させると・・・・・・。
親の心子知らずとはよく言った話ですわな。
0973人間七七四年
2011/02/25(金) 06:36:47.29ID:TDAkbb7u和霊騒動後に率直に話し合って和解もしたわけだし。
殺された山家公頼一族はお気の毒様だけどね!
忠宗は輝宗的な優等生だな。政宗が頭の上がらない男とはそういうタイプ
のようであり、あるいは故父を意識して教育したのかも知れない。
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