戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0075人間七七四年
2011/01/02(日) 09:45:46ID:RjQttS5F刀や槍さえ当たらなければ、逆に重い鎧を着けてるより裸の方が身軽で強いんじゃないか?
0077人間七七四年
2011/01/02(日) 10:03:51ID:3c+m0KrM避ける技量さえあれば強いかもな
0080人間七七四年
2011/01/02(日) 11:11:02ID:+MTiclYJ忠勝は東国無双だからな
よほど命が惜しくない者じゃない限り、近寄ろうともしないだろう
それに対して、直政は家康ですら夢中になるくらいの超絶美男子
敵も味方も「ウホッ、井伊男!」とタックルをかましてくることは想像に難くない
重装備にせざるを得ないのも、傷だらけなのもやむなし、といったところだろう
0081人間七七四年
2011/01/02(日) 11:26:05ID:iHSzXeX50083人間七七四年
2011/01/02(日) 12:03:57ID:Ps+00b1o0084人間七七四年
2011/01/02(日) 12:23:25ID:GlwnJVbhなんでも鉄砲の使い手らしい。
0085人間七七四年
2011/01/02(日) 12:39:16ID:epnRnGCQ秀吉「日輪の子のわしが銃弾に当たるわけない」
鬼武蔵「そうだな。名将が銃弾に当たるわけ無いよな」
セジウィック将軍「だいたい、あいつら象にさえ弾を外す腕だしな」
0086人間七七四年
2011/01/02(日) 15:32:51ID:4ngxtFfmパジャマで駆けつけたのを思い出した
0087人間七七四年
2011/01/02(日) 15:54:27ID:9wHJdKru「何してんの遅刻だよ!」と叫ばれ
ランドセル背負って町を激走した奴なら知っている
0088人間七七四年
2011/01/02(日) 18:22:53ID:9GcPxagR0090人間七七四年
2011/01/02(日) 18:36:01ID:xYD9XC/0逸話ではないが大晦日にやっていた「大戦国鍋TV」という番組で、
お正月に城を落とされた部将として、よりにもよって天庵様が「天才的な戦下手」として
紹介されてた。多分いい悪いスレの影響w
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/corner/daisengokunabe/index.html
0092人間七七四年
2011/01/02(日) 18:52:22ID:0wClpZpJねえ、もしかして、ひょっとすると、
それって、昔、正月になると先代の林家三平がやってた、
和尚がtwo???
このネタのどこが面白いかと言いますと・・・
0095人間七七四年
2011/01/02(日) 22:46:54ID:a7bxF7TD0096人間七七四年
2011/01/03(月) 16:05:11ID:IneLxYYjヲチは忘れたけどw
0097人間七七四年
2011/01/03(月) 16:23:35ID:YjbfaFUK「わしが信長公にご奉公に出たのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿の跡目を継ぐこととなり、
合計で1450貫となった。
その後越前府中3万3千3百石を下され、能登一国を下され、
さらにその後秀吉公から加賀の石川郡、河北郡を下され、さらに越中も我らが手により
切り取りにした。
このようにわしは若い頃から色々と骨を折り、主君から引き上げていただき、今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」
前田利家流新入社員への心得(?)というような逸話である。
0099人間七七四年
2011/01/03(月) 18:38:32ID:IVtnMDmk0100人間七七四年
2011/01/03(月) 18:39:11ID:CMhZf/Gu0101人間七七四年
2011/01/03(月) 21:39:53ID:TyTIM82V0102人間七七四年
2011/01/03(月) 23:28:45ID:SOr+bBPG0104人間七七四年
2011/01/04(火) 00:19:03ID:4i0NMg49怒りを抑えることを自らに課していた家康公だが、この時ばかりは怒り顕にして、
「武田勝頼に大将の器量なし。
勝頼は勇士を使う法をまるで知らない男だ。
鳥居のような豪の者には、敵であっても命を助け、その武勇に応えるべきである。
これは味方に忠義を教えることにもなる。
それを、主君のために命を賭けた忠義の士を磔にかけるなど、とんでもないことだ。
見ていろ。勝頼の運が尽きるときは、譜代の武士も代変わりして敵となることだろう。」
と言ったという。
0105人間七七四年
2011/01/04(火) 14:58:56ID:0wAMeUdu「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
でも信長公寵愛の小姓に嫉妬して斬り殺したら追放された。反省はしてない。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿から強引に家督を奪い
合計で1450貫となった。
その後、出世のために一向門徒を殺しまくったら越前府中3万3千3百石を下され、
能登一国を下され、土壇場で上司の柴田勝家を裏切るというウルトラCで秀吉公から
加賀の石川郡、河北郡を下され、さらにの元同僚の佐々成政が孤立して弱ってたので
越中も我らが手により切り取りにした。
このようにわしは若い頃から色々と汚い手を使い、主君から引き上げていただき、
今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」
0106人間七七四年
2011/01/04(火) 15:10:06ID:JVJouXOv0107人間七七四年
2011/01/04(火) 15:27:29ID:nlmKLoph0109人間七七四年
2011/01/04(火) 16:40:48ID:yP2btYx9「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった(チラッ)。この時初めて50貫を頂いた(チラッ)。
0110人間七七四年
2011/01/04(火) 17:13:29ID:eezC2J2+名乗りをあげてたよな・・・
家康も少し警戒してたみたいだけど、経歴的に全然敵じゃないだろw
0111人間七七四年
2011/01/04(火) 17:18:25ID:nlmKLoph分裂状態の豊臣大名を糾合しうる唯一の人物ではあった。
0112人間七七四年
2011/01/04(火) 18:45:35ID:/jAvkES6あの時では確かに又佐くらいにしか出来なかったな
ただ、利長が遺志を継いでそれやってたら、家康に取り潰されてた恐れはある
0113人間七七四年
2011/01/04(火) 19:36:30ID:VR4k0w+i0115人間七七四年
2011/01/04(火) 20:01:53ID:rTQaRzwq豊臣政権内部に友達が多いから侮れない
0116人間七七四年
2011/01/04(火) 20:28:54ID:OBCOKX6Jあれ?最近どっかで聞いたような?
0117人間七七四年
2011/01/04(火) 20:37:41ID:v0tL8FEQ秀吉が信長ばりに外様大名ぶっ潰して織田系大名配置してたら、
家康が同じように250万石持ってても形勢はわからなかったな
0118人間七七四年
2011/01/04(火) 21:08:17ID:/jAvkES6まとめで門番に対していちゃもん付けた利家様ご一行の中に氏郷いたよねw
印象ではもっとお行儀よさそう…って言っても、先陣切って
ノブ様に「おめー、いつまで一兵卒の気分でいるんだ」って言われたんだっけ
あの人も人のこと言えないけどw
>>116
やめてよ…。酒が不味くなる
0119人間七七四年
2011/01/04(火) 21:22:26ID:bdiAfRl+前田利家は豊臣秀吉の関東征伐の時、秀吉の機嫌を甚だ損ね(秀吉に無断で
無血開城したことが原因らしい)、大変立場が悪くなった。
こうなると利家が日ごろ出入りを許し目をかけていた者たちも一気に敵となり
利家を非難しはじめ、秀吉の前であからさまに利家の悪口をいうものも多かった。
利家の軍勢は1万を超えていたのに
「前田殿のご人数は4,5千といったところだそうです」
などと過小に伝えたりもされたそうだ。(つまり軍役をきちんと果たしていない、ということか)
木村常陸介重茲などは利家と兄弟のように親しくしていたのに、そんな彼でさえ
八王子城攻めの頃は利家のことを秀吉に悪し様に報告していたそうだ。
こんな中でも蒲生氏郷と浅野長政などは秀吉に向かって利家を弁護したと言う。
さて、そんな利家が秀吉との関係を修復し、再び重用されるようになると、
利家の京伏見の屋敷には、利家と関係を結びたい人々により門前市をなすという活況となった。
このころ利家は、前に自分に対して悪し様に言った連中を陰で笑っていたそうである。
(ホントにそう書いてある。『前廉支へ口を仕候衆を、陰にて御笑ひなされ候』(村井勘十郎覚書))
利家さんの生涯に何度かあったうち、最後の方の浮沈のお話。
0120人間七七四年
2011/01/04(火) 21:24:21ID:KCzVLr070121人間七七四年
2011/01/04(火) 22:32:45ID:dquYRhtL幕末まで大藩を保った前田家はもっと評価されていいと思う。
内ゲバ起こして潰れた家もごろごろあるわけだし。
0122人間七七四年
2011/01/04(火) 23:20:38ID:1TsHjgBe逆に、そう家だからこそ100万石を保てたんだろうけど〜
0123人間七七四年
2011/01/05(水) 00:46:00ID:TNPjoUr9・現在の東大赤門を建てる
・禁門の変で負ける
・アップルジャムをつくる
0125人間七七四年
2011/01/05(水) 07:56:17ID:ocM7vvGm0126人間七七四年
2011/01/05(水) 08:18:57ID:OwE9n3On0127人間七七四年
2011/01/05(水) 08:45:11ID:U+fECar9幕末は勤王派の跡継ぎと重臣を粛清して、佐幕派で藩内を統一したと思ったら、第二次長州征伐で幕軍が負けて、
勤王派に鞍替えしなきゃと大慌て。
藩内政治に右往左往している間にいろいろ乗り遅れた。
対外的には何もしてないけど、藩内は大流血してる。
0128人間七七四年
2011/01/05(水) 12:29:38ID:7UfslUNG0129人間七七四年
2011/01/05(水) 13:38:01ID:FAdblp3Q【歴史/愛知】甚目寺観音の仁王像の中から福島正則の墨書発見
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1294141215/
0131人間七七四年
2011/01/05(水) 16:44:06ID:4eMjUwDq天正十年、本能寺の変を受けて関東の情勢も流動的になってくる。
特に上州では神流川合戦の直後、沼田城の真田氏が北条氏に仕掛けて撃退されると、
今まで真田氏に従っていた国人衆は一気に北条寄りか、日和見に傾いて行った。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html
表向きでは和睦を結んだり、北条に従うと言ってみたり、外交の駆け引きを続けて
いる真田昌幸ではあったが、徳川氏や佐竹氏の動きを睨みつつ、逆襲の機会を窺っ
ていた。
そして勿論、北条氏の側もそれを十分承知の上であった。
先の交戦から三ヶ月、今度は北条氏から攻撃を仕掛ける。
富永主膳、多目周防守等を大将として吾妻郡に侵入した北条軍約五千は、大戸真楽
斎&但馬守兄弟の守る手子丸城を落した。
手子丸城を落せば真田信幸の守る岩櫃城まですぐである。
「今すぐに進撃するべきだ」
「いや、一旦建て直し、手子丸の支配を万全にした方がいい」
そんなこんなで長引く軍議。北条軍のお約束だNE☆!
勿論、北条軍は五千、信幸率いる真田軍は八百。数が違う。信幸が取る策は篭城以
外にありえない、と言う余裕があったのだろう。
が、「東の目立たないお兄ちゃん」は「東のミスターパーフェクト」でもあった。
信幸は篭城では勝ち目がないと見るや、八百騎で手子丸城に攻め寄せてきたのであ
る。
まずは二百騎を裂いて城に攻め懸ける。北条軍が応戦に出てくると、すぐに川沿い
を下って退却。追撃にかかる約一千騎を城から引き剥がした。
そして百五十騎で城に攻撃を始めると同時に、裏手の寺に放火する。
寡兵の筈の真田軍が、あちらからも、こちらからも湧いて出てくる。
圧倒的多数の筈の北条軍に動揺が広まり始めた時、
「あ、あれこそが真田信幸!」
寄せ手の中に金の馬鎧をつけた武将を見つけた北条軍は、深く考えるゆとりもなく、
飛びついてしまう。
……ところがどっこい。
この金の馬鎧をつけた武将、唐澤玄蕃允と言う。ハッキリと言ってしまえば囮だ。
本物の信幸はどこに?
そう、主力中の主力、信幸直轄の兵三百と共に森の中に潜んでいた。
唐澤の姿しか見えていない富永&多目の主力部隊の、横腹からその精鋭部隊が伏兵
として襲い掛かる。
圧倒的多数の兵を持ちながら、散々に追い散らされた北条軍は、手子丸城に逃げ込
み、篭城を決め込む。
0132人間七七四年
2011/01/05(水) 16:45:14ID:4eMjUwDqこの時点で味方が追い散らされ、自分達を城外に残したままで篭城を始めた事を知
った一千騎(先ほど深追いした連中)、城兵との合流や連携を諦め、厩橋城目指し
て退却を始める。
そしてまた、榛名山の方角に逃げていく味方の旗を見た城内では、我も我もと逃げ
出す兵が続出する有様であった。
この様子を見た信幸は、
「裏門から逃げて行く連中がいるな。よし、裏門を封鎖して落ち延びる連中を片端
から討ち取ってしまえ。後、敵は大手門の防衛ばかりに気を取られ、北の丸には誰
も居ないように見える。そこから侵入するのだ」
この命を受けた唐澤玄蕃允ら五十名は、岩伝いに北の丸に侵入すると、信幸の見た
通り、人っ子一人いない。
ちょうど腹が減った彼等は飯を食って腹ごしらえした後(大手門では只今絶賛戦闘
中)、周囲の建物に火を放ち始める。
富永&多目は城中から上がった火の手を見て、「裏切りだ」「国人衆が寝返った」
などと叫びながら逃げ延びて行った。
北の丸に侵入し五十人は、逃げ延びる敵に紛れ込み、それぞれが五人、三人と討ち
取る高名を挙げたという。
中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち
取る手柄を立て、信幸直属の馬廻りとして取り立てられたという。
思いの他「やる夫真田」を読んでる方が多いようなので、ご存知の話かも知れませ
んが、真田信幸のお兄ちゃん無双。もしくは鬼いちゃんモード発動。
本来なら、引っ張り出された一千騎でも、信幸の総勢より多いんですけどね。
首を斬るより、心を折っちゃったんですかね。
一応、出典は「やる夫」じゃなくて「加沢平左衛門覚書」です。
0133人間七七四年
2011/01/05(水) 17:32:58ID:h2bLm+vj0134人間七七四年
2011/01/05(水) 17:54:58ID:Sj2FWFQg:::::::: | 信之がやってくれたようだな… │
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴は真田一族の中でも最弱 … │
┌──└────────v──┬───────┘
| 小松姫ごときに尻に敷かれる │
| ようでは真田の面汚しよ… │
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
幸隆 昌幸 信繁 大助
0135人間七七四年
2011/01/05(水) 18:00:08ID:v7LYiDk/0136人間七七四年
2011/01/05(水) 18:23:17ID:gwaZ52X/>中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち取る手柄を立て
なんというボーナスステージw
0137人間七七四年
2011/01/05(水) 19:31:39ID:FDGTaPWU0138人間七七四年
2011/01/05(水) 19:51:11ID:7UfslUNG六文銭着用前
/\___/\
/'''''' ''''''::\
|(へ), 、(へ)、.|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:| <もしも〜私が〜城を〜建てたな〜ら〜
| `-=ニ=- ' .:::::|
\ `ニニ´ ._/
(`ー‐--‐‐―/ ).|´
| | ヽ|
ゝ ノ ヽ ノ
↓
六文銭着用後
/\___/ヽ
/ノヽ ヽ、
/ ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
| ン(○),ン <、(○)<::| |`ヽ、
| `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l |::::ヽl
. ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/ .|:::::i |
/ヽ !l |,r-r-| l! /ヽ |:::::l | <サツガイせよ!サツガイせよ!
/ |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
/ | .| | .| ,U(ニ 、)ヽ
/ | .| | .|人(_(ニ、ノノ
0139人間七七四年
2011/01/05(水) 20:45:25ID:PEfG71Ru本能寺の変から3日経った頃、東福寺霊源院の裏手にある山から1人の男が降りてきて、長老にこう頼んだ。
「我々は本能寺の変で山に隠れた者ですが、三日何も食べておらず餓死寸前です。どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快く食事を差し出すと、その男は自分の分を平らげた後、残りを手ぬぐいに包んで山に持って帰っていった。
その日の夕刻、今度は先程の1人に加えて4人が降りてきて、同様の説明をし匿って欲しいと恭順の証か5人とも刀と脇差を手拭いで括い、差し出した。
長老は5人を院の天井に隠して寺の他の連中にも知らせないようにしていた。
その後、彼らが東国に帰ってしばらくすると刈谷城主水野忠重の使者が来て、先頃は長老のお陰で急難を免れ恩儀は付きませぬと言った。
そうあの5人は水野忠重とその家臣だったのである。
その後、霊源院は水野家の菩提寺となり寺領50石を与えられたそうである。
そしてもう一人、京にいた男がいた。
その名は鳥居元忠、彼は家康と共に上洛していたのだが堺へ行く前に瘧を患い京の旅館に投宿をしていたのである。
本能寺の変を聞いたとき元忠は狂乱した。
自身が危うい事にではない、家康の側にいないことにである。
京では様々な噂が飛び交い家康の安否は全くの不明、ここに至り元忠は決心した。
「此の様な状況下では家康様も逃れられまい。自分は病に倒れ、主君側に居れぬは何とも悔しい。この期に及んでは死んで冥土のお供をせん」
…何と言うか流石に幼少よりの仲というか言うことがクリソツである。
しかし老臣の高須信次がこう言って押しとどめた。
「家康様は並の大将ではございません。それに切腹するのは家康様の是非が解るまで抑えるべきです。短慮はいけません」
その説得に元忠も切腹を思いとどまり、潜伏することになったが問題はその場所である。
これも高須が長年祈願をしていた愛宕山の長床坊を提案し、これが容れられた。
しかし、長年のよしみとは言え何があるか解らない。そこで高須のみを馬上とし、元忠含めた彼らは下郎の格好をして元忠の家臣として長床坊へと向かった。
結果として長床坊の者達は快く迎えてくれたので、元忠も直ぐに身分を明かしてそこで身を潜めていた。
その間、長床坊の者たちが堺などで情報収集をするさなか、家康が三河に生還したという飛脚が届き、元忠も急ぎ三河へと戻った。
戻った元忠を家康は大いに喜び、また元忠も高須に大いに感謝して彼に何時も佩用している刀を与えたそうである。
どっちもいい話なんだが、やっぱり京にはセーフハウス的なモノが必要なんだなと思ったり。
0140人間七七四年
2011/01/05(水) 21:44:00ID:TlENGPMs0142人間七七四年
2011/01/05(水) 22:50:54ID:H2lH6u2r家康さんらより一世代上のイメージあるけど〜
0143人間七七四年
2011/01/05(水) 23:04:55ID:7UfslUNG「〜どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快くぶぶ漬けを差し出すと〜ということになる
0144人間七七四年
2011/01/05(水) 23:52:19ID:UwLpa3H80146人間七七四年
2011/01/06(木) 08:07:55ID:2fFFgccM元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね
前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・
0148人間七七四年
2011/01/06(木) 13:15:13ID:8mb9beZL0149人間七七四年
2011/01/06(木) 15:41:13ID:Eyqnb04f0150人間七七四年
2011/01/06(木) 20:16:33ID:d9Gr09Yv城攻めの前夜、前田利家の家臣、村井又兵衛長頼が軍営地の小屋で寝ていると、その夢に山伏が出てきて、
又兵衛に語りかけた
『時もよし!絶対に左の道を行くのだぞ!』
又兵衛、驚き目を覚ますと
「さてはわしが日頃から愛宕山を信仰している故に、このようなお告げを頂いたのだな!」
と愛宕権現に感謝し水垢離を行い、すぐに具足を付け大喜びで主君前田利家の陣所へと駆けつけた
「又左衛門(利家)様ー!合戦の準備できましたよー!」
「何刻だと思っているんだバカヤロウ!」
出てきたのは寝入ったところを起こされ不機嫌この上ない前田利家。
「まだ一番鶏すら鳴いていないじゃないか!もう少しあとになってから来い!」
「ちぇ〜」
村井又兵衛、仕方なく小屋に帰り二度寝をはじめると、その夢にもまた山伏が出てきて
『良いな、左だぞ。左に付くのだぞ』
と語りかけた。愛宕権現、なかなかしつこい。
さて、夜明け前信長の本陣より一番貝が轟いた!合戦の始まりである!
織田軍の先陣は一斉に金ヶ森城に押し寄せた!その中に当然村井又兵衛も居る。
彼らが城下にたどり着くと道が左右に分かれていた。織田軍はみな右の道へと進んだ。又兵衛も
皆と一緒に進んだが途中で「いやいや、愛宕山のお告げがあったではないか!それに従うのだ!」
と、分かれ道のところまで取って返し左の道を進むと、空堀と柴折垣で防御されている場所に出た。
と、その柴折垣の側に、誰とも知れぬ4,5人の男達がいる。又兵衛が
「そこにいるお前たちは敵か、味方か!?」と問いかけるとその中の一人
「ここに居るのは柴田修理(勝家)の甥、佐久間玄蕃(盛政)という者だ!」
「わたしは前田又左衛門(利家)の家来、村井又兵衛です!」
「又左殿の家来か。前からその名を承ってはいたが、この合戦場で初めてお会いできるとは実に喜ばしい。
夜が明ければ共にこの柴折垣を切り、ここから侵入しようではないか。」
そうしているうちに後から、後備の味方も駆けつけてきた。そこで又兵衛は玄蕃と声を掛け合いながら
柴折垣を斬り倒し、両人共に即座に敵の首を取った。
さて、このとき前田利家は、信長の居る本陣にいた。
又兵衛が利家に首を見せるとその姿が信長の目に止まり
「兼ね兼ねからの事だが又兵衛、手柄を立ておったな!」
と、陣所に置いてあった吊し柿を手ずから又兵衛に下し、また「並々ならぬ働きの験だ」と
南蛮からの献上物も又兵衛に与えたそうだ。
ところで同時に首をとった佐久間玄蕃。
彼は信長の本陣から離れた場所にいた、柴田勝家に首を見せに行っていたため、その首を
信長のお目にかけたのはかなり遅くになってからだったという。
村井又兵衛長頼、夢のお告げで手柄を立てる、と言うお話。
0151人間七七四年
2011/01/06(木) 23:37:14ID:iq9DhIn8時は天文の頃。尾張の国に初陣を迎えようとしている若武者がいた。
戦支度で忙しい中、城主の息子である若武者の姿が見当たらない。
はてどこへ行ったかと家中の者が探したところ、城の裏手で見つかった。
初々しい具足姿で泥だらけの両手を合わせ、一心に何かを祈っている様子だった。
「若、何をしておられるのです」
「ああお前か。すまぬな、すぐ行く」
若武者はその場を離れ、声をかけた家中の者と連れ立った。
その者は不思議に思い若武者のいた場所を振り返って見たが、
それこそ木立ちがあるばかりだ。
「何をあのように祈っておられたのです?」
「いや、大したことではない。気にするな」
このとき若武者は、城の裏手に一本の松を植えた。そして次の歌を詠んだ。
『初陣に松一本を手植えして死なば墓場のしるしとやせん』
残念ながら、この戦については資料が残っていない。
相手は誰だったのか、規模はどのくらいだったのか、勝算は高かったのか低かったのか。
それらは推測するしかないが、彼の根城はそれほど大きなものではなく、
あるいは城を枕に討ち死にすることを考えていたのだろうか。
結果的に彼はこの戦では死なず、その後も幾度もの戦を潜り抜け手柄を上げ、
長じては天下布武を掲げる男の下、織田家の筆頭家老にまでなった。
主君を失った後、かつての同僚に敗れ越前は北ノ庄城で自害、その生涯を終えた。
松を植えた故郷から遠く離れてはいるが、やはり自らの居城が墓場となったのである。
彼の戦に臨む覚悟は、その初陣の頃から変わらなかった、と言えるかもしれない。
柴田権六勝家の生誕地、明徳寺に伝わる逸話でした。
0152人間七七四年
2011/01/08(土) 00:53:28ID:1dFQn9tB0153人間七七四年
2011/01/08(土) 00:54:57ID:A00qfwHb0154人間七七四年
2011/01/08(土) 03:53:27ID:vmGhrQlv天正十年六月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html
天正十年九月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html
天正十年十月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5019.html
まで書いたんだから、最後まで書かなきゃ落ち着かない。
と言う事で天正十年真田vs北条の最終章。
阿曽、鎌田の両城を落とし、後は片品川を渡ればそこは沼田城、という所まで漕ぎ
着けた北条軍。
真田軍に立て直す暇も与えずに五千の兵が進軍を始めたのは十月二十八日。
沼田からも千三百の兵を出したというから、まさしく総力戦であろう戦いが沼田城
外、田北原にて行われる。
が、この戦いは互いに兵力をすり減らすだけの消耗戦となってしまう。
敵兵二百を討ち取ったとは言え、味方も百五十が討たれたという報告を聞くと、矢
沢頼綱はあっさりと引き上げの下知を下す。
全軍が沼田城に籠もり、堅く守って敵を寄せ付けない。
三日三晩、攻めに攻め続けても尚、崩れる気配さえ見えない沼田城に、北条軍は一
旦阿曾城まで退いて建て直しと兵の休息を図る。
しかし、阿曾城は元々、沼田城から片品川を挟んだ対岸の河岸段丘上に築かれた城。
沼田を攻める為に渡河を試みる敵軍を背後から牽制する為の城なのだ。
当然、大軍を収容する為の設備などあろう筈もない。
五千の北条軍の殆どは阿曾城と片品川に挟まれた丘陵地帯に野営せざるを得なかっ
た。
「さて、頃は良し……と言った所か」
北条軍が包囲を解いたその晩、真田家随一の猛将が動き始める。
「皆、三日三晩も城に引き篭もって、さぞや退屈しただろう。今夜は思う存分暴れ
るがいい!」
頼綱自らが大将として、塚本肥前守、金子美濃守、渡辺左近丞と言った沼田の主力
メンバー計七百騎が、揃いの装束に身を包んで秘かに出撃する。
阿曽城外……この三日、夜通しで戦い続け、体力気力共に使い果たした兵士達が、
ぐっすりと眠りこけている。
当然見張りも立ててはいるが、兵力差による慢心と、野営続きによる疲労が彼等の
集中力を削いでいた。
「うむ、この分なら勝利は動かんな。……総勢、かかれぇいっ!!」
ドンッ!ドンッ!ドン……ッ!
真夜中の片品川に響く太鼓の音。
それを契機に一気に北条軍へと雪崩れかかる真田軍。
山国の晩秋の寒さの中、野営と戦闘による疲労に蝕まれた北条軍兵士達の反応は鈍
い。
彼方此方であるいは真田兵に討たれ、あるいは同士討ちを始め、あるいは片品川に
落ちて流されるという混乱状態に陥る。
0155人間七七四年
2011/01/08(土) 03:55:22ID:vmGhrQlvが、数に劣る真田軍は深追いはしなかった。
「落ち着け! 敵は少数だ! 備えを立て直して包み込めば簡単に殲滅出来る!!」
将官クラスの名のある者共は流石に反応も早い。
完全武装の姿を兵士に見せ、当たり前ではあるが簡潔で的確な指示を飛ばすと、徐
々に兵士達の動揺も収まってくる。
しかしその時には既に、真田の夜襲部隊は戦場を離脱し、闇の中に消えていた。
「ぬぅ、逃げられたか。……いや、待て!あそこだ!沼須方面に夜襲の軍が逃げて
行くのが見えるぞ!」
引き上げの時にはもう、姿を隠す必要はないという事だろうか、松明を掲げて退却
する兵士の一団を発見したのは猪俣能登守。
「追え!今からならまだ追いつける!奴等を殲滅して沼田城の連中に見せつけてや
るのだ!」
「釣れたのは猪か」
「懲りるって事を知らないんでしょうかねぇ」
「金子、猪俣も貴様に言われたくはないだろうよ」
闇の中に消えた真田軍の陣中、矢沢頼綱と金子美濃守がほくそ笑む。
そう、皆さんご想像の通り、松明を掲げた一団、これは矢沢頼綱の計略であった。
金子美濃守の手勢から五十人を裂いて、わざと明かりを灯して北条軍の目の前に姿
を見せたのである。
「皆、判っているな。合言葉は『天』『気』だ。揃いの服を着て、合言葉を口にす
る者は斬るな。合言葉を知らん奴は服が揃いだろうと斬り捨てて良し! ……かか
れぇっ!!」
逃げて行く真田軍と思しき一団を追跡して突出した猪俣勢。
その腹背に喰らい付いたのは沼田城の中でも精鋭中の精鋭、矢沢頼綱率いる五百の
兵であった。
先の夜襲には素早く対応し、すぐさま立て直した猪俣も、二度目の奇襲には狼狽え
るばかり。あっと言う間に散り散りになって逃げて行ったという。
しかし……
「こっちにも居るぞ!」
「私もちょっとは働かないとね!」
逃げ惑う猪俣勢の逃げ道には、更に渡辺左近丞&金子美濃守の手勢が立ち塞がる。
こうなれば最早殲滅戦である。
矢沢勢によって二百、渡辺&金子勢によって百人を討たれた猪俣は、身一つで命か
らがら逃げ延びて行ったという。
この夜の真田軍の死者は僅かに十人。負傷者が五十人という大勝利であった。
北条軍は猪俣勢の死者のみでも三百。ましてや猪俣は数日前にも三百を討たれる大
敗北を喫している。
二千居た猪俣勢の内、六百がこの沼田で命を落したのである。
北条氏邦にとっても、自分の目の前で副将格の猪俣の惨憺たる有様を見せつけられ
たのは大きかったのかも知れない。
十月二十九日には信州で徳川家と和睦を結び、天正壬午の乱も終結している。
ここが引き際と、氏邦は遂に沼田を諦めて北条全軍を厩橋城に撤退させたのである。
これ以降、北条氏は武力ではなく、徳川家を相手取っての政治交渉で沼田を落そう
と方針を転換させる事になる。
二千の内六百を討ち取られるって、それ壊滅ですよね?(^^;
そりゃ猪俣さん、沼田に拘るだろうし、真田を恨むよね。
つか、金子さんが働いてる!?
0156人間七七四年
2011/01/08(土) 07:42:53ID:Jkxdo6Gr0157人間七七四年
2011/01/08(土) 07:43:28ID:QrYkurgm戦国DQN候補でありながら、ヘタレてしまう市松さんと権六・小六を並べるとは無礼な…
そこに直れ!成敗してくれる
0158人間七七四年
2011/01/08(土) 14:42:18ID:Vesf48T6ダウト!
0159人間七七四年
2011/01/08(土) 16:34:03ID:1keFmAl2この手塚という男、心根は正直で真面目なのだが、ある欠点があり中々出世に恵まれなかった。
それを知っていた官兵衛が、不憫に思い大事の奉行に起用したのである。
そんなある日、広間で官兵衛が近臣と碁を打っていると手塚がやってきた。何事か言うつもりが、
「……ぁ…………」
実は手塚は生まれつき「どもり」で、しかも極度のあがり症であった。
その為初手から殆ど声が出ず、顔を赤らめあたふたするばかり。
そんな様を見ていた小姓や近臣はなにがなにやらと首をかしげていると、碁盤を見ていた官兵衛が振り向きもせず
「材木が足りないなら、金に糸目はつけない。必要なだけ買うがいい」
すると、手塚は安心した様子で一礼をし、広間を去っていった。
周りの者に今のやり取りの事を問われた官兵衛が答えるに、
普請用の材木が足りないので、材木屋で買おうか山から伐らせるかを尋ねに来たのだそうだ。
それに対しての答えが「いくらでも買え」だとの事。
なぜ言いたいことが分かったのか?なぜああいう不便な者をお使いになる?と近臣が問うと、
「根気良く付き合っていたら、言いたい事、やりたい事は大体解るようになった。
確かに聞き取りにくいかもしれんが、仕事は長年真面目に務めてくれている。
だったら言いたい事を理解するよう努めるのは、上に居るわしの領分さ」
碁の相手は感嘆せざるをえなかったと言う。
0160人間七七四年
2011/01/08(土) 16:38:52ID:FUWVX7Fy0161人間七七四年
2011/01/08(土) 17:57:07ID:yWVtF2tQ0162人間七七四年
2011/01/08(土) 18:03:41ID:kXH96JVa長政「いや無理、無理」
0163人間七七四年
2011/01/08(土) 18:49:39ID:Vesf48T60164人間七七四年
2011/01/08(土) 18:55:55ID:A00qfwHb官兵衛は部下のよい所を見て愛してる感じ。
0165人間七七四年
2011/01/08(土) 20:11:29ID:kZtwCh+2この人心収攬術は絶頂期のころの秀吉のそばにいて学んだのかな
生来のたまものだとしたらまさに天才
0166人間七七四年
2011/01/08(土) 22:35:29ID:WEKcnV6a0167人間七七四年
2011/01/08(土) 22:44:13ID:ToPlwLO2家臣団が結束して黒田家を支え続けたので、家臣団に対して恩があるからな。
0168人間七七四年
2011/01/08(土) 22:51:52ID:gMzS+4Sq「あぅ、あぅ」しか言わないのに理解出来るとかないわwww
0169人間七七四年
2011/01/08(土) 23:06:40ID:RrZkjW6b0170人間七七四年
2011/01/08(土) 23:13:47ID:50AfToIEありゃ帰ってきちゃったの?だったら嫌だなw
0171人間七七四年
2011/01/08(土) 23:21:04ID:ianFumFU予想外のトラブルを持ち込まない。なら、普請仕事は天職じゃないか
0172人間七七四年
2011/01/08(土) 23:48:08ID:GtrGXPIJ例えば小一郎。
秀吉の異父弟だから下層の出なんだろうけど、他の戦国大名と伍して、
文武共に遜色無くこなしているよね。
加藤清正なんかの賤ヶ岳の七本槍だって、碌な出自じゃないし・・・
秀吉の周りってそう言うの多いyんだよね。
0173人間七七四年
2011/01/09(日) 03:56:37ID:w1h1wjF6全部網羅してるやる夫真田って、相当好き者が書いてるんだな・・・
真田系の逸話は悉く「やる夫で見た」になってるw
0174人間七七四年
2011/01/09(日) 17:42:34ID:cbJPsRPNスレまで建てたのに盛上らないんだが、、、
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