戦国ちょっといい話24
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0728人間七七四年
2011/02/12(土) 14:43:00ID:ej3qNQ0K俺の記憶では、暗殺に行った先で天井裏に潜んでいた所、
気配を気取ったターゲットに額を刺されたが同じような処置をして騙す事に成功、
見事暗殺してのけたが、それ以来額が窪んだままになったので
窪額だかその逆だかの異名を取る事になった忍者だったような
0730人間七七四年
2011/02/12(土) 14:59:15ID:X+dLOQHI汁の二度掛けとか兵法講義で小便に立つ話のような
テンプレ的な話だったのかな。壮絶な覚悟とかを示す。
0731人間七七四年
2011/02/12(土) 15:13:41ID:TIVEbThU0732人間七七四年
2011/02/12(土) 17:30:27ID:LCQvKY1V0733人間七七四年
2011/02/12(土) 18:05:30ID:qu/FzoBsそういやあの漫画には信玄が忍者を見破る逸話もあったな
0734人間七七四年
2011/02/12(土) 22:04:06ID:fyl04PqE「仇討ちじゃ」って、どこにかかるんだ?太腿?
それとも「仕返しじゃ」くらいの意味?
0736人間七七四年
2011/02/12(土) 23:31:45ID:QT7+EzUphttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4299.html
加藤嘉明が賤ヶ岳七本槍として名を馳せる何年か前のこと。
同輩の男が嘉明の相馬眼が優れていると聞き及んで訪ねてきた。
「HEY! ジミー、馬を買おうと思ってたんだが君の相馬眼が優れていると聞いて
やって来たよ、どうか馬喰のとこに一緒に行って見繕ってくれないかい?」
自分の相馬眼を褒められて悪い気がしない嘉明は承諾して一緒に馬喰のところまで
行って馬を見繕ってやることにした。そこである一頭の馬に目が留まった。
その馬を見た嘉明は「ちょっと癖の悪そうな馬だし本質的にはマイラーだと思うが
春のクラシックまでならなんとかなりそう」と思ったかは定かではないが
明らかに癖の悪い馬ではあるがそこ以外は申し分の無い馬であると男に薦めた。
すると男は「ジミー、確かに良さそうな馬だけどあの癖の悪い部分を再調教して
癖が無くなったら買うからって馬喰にちょっと掛け合ってくるわ」と言ってあまり乗り気ではない様子。
その態度にイラッとした嘉明は「いやいや、あの癖の悪さも含めてのいい馬で癖が無くなるように
調教したらいい部分もなくなっちゃうから今買うべきだ」と言って今が買い時だと強調したが
男は何やかんやと理由をつけて買おうとしない。
そこで切れた嘉明は「いい馬がいるのに癖があるからって理由で見逃すんじゃなく、
癖馬でも乗りこなそうという気概がないと殿のためにいい奉公なんか出来ないぜ、
あと俺はジミーじゃねぇ」と怒ってしまった。
後にそのことが信長の耳に入り「嘉明の言う事がもっともである」と言って嘉明を賞賛したとさ。
0737人間七七四年
2011/02/12(土) 23:50:18ID:9dJHA8T1徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山が
家康のもとにやってきた。
甲冑を着込んで。
どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた
「我らが手にも三人の法師武者があるわ」
これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。
この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。
大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。
0738人間七七四年
2011/02/13(日) 00:08:43ID:S+HF8EsR天海だったかな?
0739人間七七四年
2011/02/13(日) 00:12:07ID:prNQyHLp0741人間七七四年
2011/02/13(日) 00:32:35ID:GOTpJhPV0742人間七七四年
2011/02/13(日) 00:33:40ID:vdBJgzcm>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか
0743人間七七四年
2011/02/13(日) 00:40:10ID:bkRgrFXX0745人間七七四年
2011/02/13(日) 01:27:33ID:vdBJgzcm“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。
「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」
「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」
「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」
「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」
折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。
0746人間七七四年
2011/02/13(日) 04:21:45ID:k6MLXP8v関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる
0747人間七七四年
2011/02/13(日) 08:18:33ID:zQGldhXw0748人間七七四年
2011/02/13(日) 11:37:19ID:DWwt4EEW加藤光泰は文禄の役の時
迫る明の大軍に対して
兵糧の不足を理由に漢城からの撤退を主張する三成に
(`・ω・´)光泰「米がなければ砂を食えばいいんだよ!」
三成「砂なんて食べられるわけがないでしょう常識的に考えて」
(`・ω・´)光泰「食えるもん!おれ食えるもん!砂の食い方も知らないのかよバーカ!バーカ!」
という超理論をブチ上げた逸話しか知らないなあ。
そしてなぜか光泰のこの砂食いスピリッツに感化された諸将によって
明の大軍を迎え撃つことが決定してしまった
後の碧蹄館の戦いである。
0749人間七七四年
2011/02/13(日) 11:42:30ID:cULL00l1砂はいけるのか?
0750人間七七四年
2011/02/13(日) 12:01:01ID:GOTpJhPV0754人間七七四年
2011/02/13(日) 18:25:54ID:2vFxlbxn宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
実は八丈島で捕れた鯨の腸をつなぎ合わせた浮き袋を考案して
泳ぐ際の負担を軽くしていたことはほとんど知られていない
江戸中期、八丈島を飢饉が襲った際
試みにこの浮き袋をつくり江戸で売ったところ泳げない武士の間でたちまち大人気となり
その儲けで島民全員を糊して余りある米を買う事ができたと言う
そのとき島民が考案者である秀家に感謝を示す意味でこれを「宇喜輪」と名づけたことは
賢明な読者諸氏には既にお分かりのことであろう
なお八丈島宇喜多氏が「浮田」と改姓したのもこの頃であるが
これは宇喜輪の利益で軍備を整えた宇喜多の子孫が幕府に弓をひくのではないかと
危ぶむ幕閣の視線をそらすためであったという
さらに余談であるが、ドイツ起源の料理として今日著名な「ソーセージ」も宇喜輪に端を発する
遠州灘で宇喜輪を使って泳いでいる秀家にオランダ東インド会社の帆船が食料を売ったと言う記録があり
このときにオランダ人が腸をつなぎ合わせる料理の発想を得それをドイツ人が実用化したという
その証拠に「ソーセージ」を表す「腸詰」と言う単語は
オランダ人から体調を聞かれた秀家の「超つれえ」という日本語から来ているという話が
ドイツの限られたソーセージ・マイスターの間で口伝として残っている
0755人間七七四年
2011/02/13(日) 18:33:21ID:pZRAq/J+遅レスだが茂庭綱元の日記に、何かの祝い事のときに
政宗が紅白幕の模様の眼帯をしていたという記述があった
ということを本で読んだ覚えがある。アイパッチではなく
そういう柄の布を巻いていたかもしれない
0758人間七七四年
2011/02/13(日) 19:05:40ID:zQGldhXw> 宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
この一行目でさすがに解るだろw
0759人間七七四年
2011/02/13(日) 22:02:15ID:iWpNnSfo0761人間七七四年
2011/02/14(月) 01:15:23ID:puwfzaQQ0762人間七七四年
2011/02/14(月) 01:18:57ID:rRCpTngr0764人間七七四年
2011/02/14(月) 02:31:31ID:gKCVeQYw0766人間七七四年
2011/02/14(月) 10:47:27ID:jQK1vxKn信長「三河殿、古今の英雄と言われる人物は数多いるがあなたは誰が最も優れていると思うか」
家康「それは上様以外ござらりませぬ」
信長「余の事はおけ。小平次(酒井忠次)、そちはどうだ?」
忠次「安土様の破格の偉業には頼朝公も義満公も足元にも及びませぬ」
このように信長は居合わせた重臣一人一人に親しく問うたので皆感涙したという。
そして全員が信長こそが古今最も秀でた英雄と褒めちぎるなかただ一人、違う人物を挙げる男がいた。。。
信長「平八郎(本多忠勝)、そなたはどうだ?」
忠勝「それは我が殿、徳川家康公でございましょう。殿は仁篤く、臣下を慈しみ、戦に置いては勇猛、仮に上様がいなければ天下を統べるのは我が殿以外ござらん!」
これは歪曲して聴けば謀反とも取れる言いようであり、家康以下一同は仰天して腰を抜かし、中には今にも忠勝を切ろうとする者までいたが。。。
信長は嬉しそうに手を叩き上機嫌で忠勝を褒め囃し、天下統一成れば家康の陪臣として武蔵一国を宛がう約束をしたという。
信長の死により約束は反古になったが家中に面目を施した忠勝は死ぬまで息子達にこの話しを誇ったという。
0767人間七七四年
2011/02/14(月) 10:57:14ID:6/+txjmT0768人間七七四年
2011/02/14(月) 11:30:34ID:KfaXMPAtまあ自分の殿様が好き過ぎるんだろうけど。
0769人間七七四年
2011/02/14(月) 11:33:21ID:gKCVeQYw0770人間七七四年
2011/02/14(月) 11:42:46ID:o3jjrn0l作左やタダーヨならどんなことをいっていたであろうか。
0771人間七七四年
2011/02/14(月) 11:48:50ID:6/+txjmT豊田市周辺だけ見ると尾張と変わらないけど、
足助、飯田とかになると奥地な感じが今でもする。
あと、信長と秀吉は残ってる趣味言動が都会的だけど、三河武士は田舎者の臭いが強い。
良い意味でねw
0772人間七七四年
2011/02/14(月) 11:49:59ID:sqTNEcos0773人間七七四年
2011/02/14(月) 12:07:31ID:Pkfpiuuo作左たち連れてきた方が覚えよかったかもなw
0774人間七七四年
2011/02/14(月) 12:30:24ID:LaaNxEpS0775人間七七四年
2011/02/14(月) 12:40:54ID:LFHduT5a0776人間七七四年
2011/02/14(月) 12:50:07ID:bRq9Wt0z0777人間七七四年
2011/02/14(月) 13:42:44ID:6/+txjmTみんながみんな三河アゲしたら信長みるみる機嫌悪くなる気がするw
織田家臣も主君ないがしろにされて面子立たないし、
近江衆と尾張衆の喧嘩の再現になりそう
0778人間七七四年
2011/02/14(月) 17:06:56ID:HJqyiNuZ0780人間七七四年
2011/02/14(月) 18:25:00ID:NYnHwWSu0781人間七七四年
2011/02/14(月) 19:10:44ID:295YJYYp0782人間七七四年
2011/02/14(月) 20:34:49ID:9Tyxn4CtTERUのいい話ないか。
一応一流の文化人だろ、TERU。それ系の話をくれ。
0784人間七七四年
2011/02/14(月) 21:28:04ID:B/8gKS5Q対武田戦で家来でもない徳川家が果たした役割を考えれば悪口の一つや二つ言って叱るべきだし
0785人間七七四年
2011/02/14(月) 21:42:50ID:Pkfpiuuo0786人間七七四年
2011/02/14(月) 22:05:41ID:a6DCbeqi後で、陰口をたたいてるだけ?まあ、そう言わないで
0787人間七七四年
2011/02/14(月) 22:19:34ID:ErCRo6fT-‐―- 、
/..::::::::::::::::::.丶
. /..::::::::::::::::::::::::::: ヽ
i.::::::::::::」:::」:::」::」」i l
∞ / (● (● ∞
‖| ~" ゝ~" |l
‖八 З ./ |l <伯父上は間違ってごじゃる
‖ |ヽ\_ /ソ
0788人間七七四年
2011/02/14(月) 22:23:36ID:l/vd/fek0789人間七七四年
2011/02/14(月) 22:26:50ID:nyeM28P7必ず上と下の呪いがかかる。
0790人間七七四年
2011/02/14(月) 22:40:08ID:iRa36T0V6人中半分端折っとるがな
0792人間七七四年
2011/02/14(月) 22:41:52ID:a6DCbeqi蘭丸・坊丸・力丸の三人、名前は出さなかったけど、6人兄弟で5人在命と答えてたんで、鬼武蔵や忠政がdisられたわけじゃない
0793人間七七四年
2011/02/14(月) 22:57:13ID:pByIXCAz三法師の母親は森可成の娘じゃなかった?
0794人間七七四年
2011/02/14(月) 22:59:41ID:a6DCbeqi0795人間七七四年
2011/02/14(月) 23:04:38ID:+yj+V6GU0796人間七七四年
2011/02/14(月) 23:05:17ID:thF9AuNQ役者のせいでわかりにくいが初はまだ10歳くらいなので勘弁してくださいw
>>793
という説がある、という感じで確証はないはず。>三法師の母親は森可成の娘
0798人間七七四年
2011/02/14(月) 23:31:47ID:ybOV8tnMまぁスレ違いだ
0799人間七七四年
2011/02/15(火) 00:04:18ID:xyafO0yT……あたかも史実のように語ってくる知人さえいなければなぁ
0800人間七七四年
2011/02/15(火) 01:42:15ID:k/6hapsQだけどバサラ、てめーはダメだ
0801人間七七四年
2011/02/15(火) 10:25:08ID:CZFhRDCk「さんさいさま、さんさいさま!おうたをうたってくださいな。」
「おう、よしよし!さて、何の唄が良いかな?」
養女のお三にせがまれた三斎こと細川忠興は、快く求めに応じた。
「いつもの、さつまのうたがききたいです!」
「いいともいいとも。この唄はな、わしの古い友達に教えてもらった唄なのだよ・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4768.htmlの後、
細川忠興は上洛して来た島津家一行の中に、新納忠元の姿を認めた。
「忠元殿、いつぞやは。」
「これは忠興殿!・・・・・・そうでしたか、あの旗印は、幽斎殿のものではなく、忠興殿でしたか。
小牧の戦いで、徳川軍相手に水際立った殿軍ぶりを見せたという勇士に、無粋な物言いをしてしまいました。」
恐縮する忠元に、忠興は素直な感謝の気持ちを述べ、以後二人は互いに宴会等に招きあう昵懇の仲となった。
“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”
琉球の使節が薩摩での歓待ぶりを本国でも語ろうという筋の隆達節は、ある席で忠元が唄ったものだという。
のちに忠興の孫・細川立孝の正室となったお三(源立院)は養父の面影を懐かしみ、この隆達節と
それにまつわる話を、家臣たちに語った。
お三の語りは家臣たちによって「細川家記」に収録され、忠興と忠元の交誼を現代に伝えている。
0802人間七七四年
2011/02/15(火) 20:23:20ID:P0Ix4H4Aわかります
三斉様は大河出演の可能性が高くなって
今からアットホームなイメージアップをはかる気ですな
しかしながら浅井家と言えば森家の敵
例え娘だろうとあの方が黙って見過ごすとお思いか?
0803人間七七四年
2011/02/15(火) 20:43:37ID:Wn3XMCki「その者は私をあまり訪ねて来ませんので、人柄をよく存じません」
利勝がそう答えたことは、家康を怒らせた。
「お前のところに出入りする奴ばかり役職につけたら、おべっかばかりになって
家中に無能しかいなくなるじゃあないか。
お前のところに出入りしない者や、お前に対して不遜な奴でも有能な者を見抜いて推薦し、
出入りしている者であっても軽薄者は退けるよう、わしに進言するのがお前の役目なんだぞ」
利勝はこの言葉を胸にして家康の補佐役として成長した。
その成長ぶりを見て家康は
「利勝は同じ誤りを繰り返さず、真心を持って使える人物だ」と言った。
0804人間七七四年
2011/02/15(火) 20:48:06ID:ldT9RDI+0805人間七七四年
2011/02/15(火) 21:28:15ID:A6/EccxDhttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/news/20110213-OYT8T00036.htm
これを見て
あの鈴木大学の弓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-753.html
が見つかったのか!?
と思ったのは俺だけではあるまい
0807人間七七四年
2011/02/15(火) 21:52:55ID:kuNRN1C8明清の秀吉伝説まとめ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
明史日本伝
薩摩州の奴隷で、信長に木の下で出会ったので、「木下人」と名づけられ重用。
阿奇支(明智or安芸氏?)を信長の命令で討滅した折、信長が明智に殺されたのを知り、
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅す。その後、信長の三子を廃し、
関白を僭称し、信長の後継者となる。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4202.html
関ヶ原軍記大成成立の頃の中国における伝説
秀吉は元々、呉か越のあたりに居た書生(中国人)。
科挙に受かることが出来ず将来に絶望し、中国を捨てて日本に渡り、
遂に日本人となってその天下を取った。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4201.html
「笑府」
関白(秀吉)は、身のたけ数丈、腰の太さが百まわり
首の重さは数千斤の妖怪
追加
「水滸後伝」第三十回
関白は身の丈八尺、白象に乗ってシャム征服を図る。
髪をぐるぐる巻きにし、先の丸まった鉄棒を武器とする。
清・康熙年間成立の小説「野叟曝言」
関白木秀は、美男の明の使者二人をものにしようと、
酒に睡眠薬を入れ眠らせるが、一人は関白夫人・寛吉が奪い取る。
関白は眠っていてはもの足りぬと、残った一人(主人公)を覚醒させる。
驚いた主人公は刀で斬りかかるが、関白は椅子で受け止め、格闘。
主人公は敵せぬと自殺。もう一人も関白夫人を殺したのち自殺。
「斬蛟記」
関白平秀吉は西晋の神仙・許真君(許遜)に斬られた蛟の子が
日本で長じた物であり、一兵卒より身を起こし、旧関白を殺害し
六十六州を平らげる。
蒙仙師や黄石公などの仙人により、頭を落とされるがその死体は
長さ数千丈、蛇形にして魚鱗あり、という姿だった。
とっくに妖怪にされまくりだから、バサラなんてかわいいもんだ
0809人間七七四年
2011/02/15(火) 22:37:51ID:uhSCI7/m昔から全く進歩してないなw
0812人間七七四年
2011/02/15(火) 22:44:07ID:dQGmBJ0o0813人間七七四年
2011/02/15(火) 22:47:48ID:Isx4cWlZガラシャ様見に行こうぜ!!
0814人間七七四年
2011/02/15(火) 22:47:51ID:kuNRN1C8水滸後伝「第三十回」→水滸後伝「第三十五回」
「いい話」には微妙かもしれないが、下二つを紹介していた
青木正児「江南春」拘肆野語・支那戯曲小説中の豊臣秀吉、に
「我が不世出の英雄豊臣秀吉の誇りを毀けること甚だしいものであるが、
それにしても外国の小説にまで描かれてその雷鳴を轟かしたことは
吾々の痛快を覚ゆるところである」(昭和二年)
と書いていたもんで
>>805のネタを遮ってスマン
0817人間七七四年
2011/02/16(水) 00:48:22ID:5tCQd1A0よくある話よくある話
0819人間七七四年
2011/02/16(水) 01:25:57ID:iLbrX0+N0820人間七七四年
2011/02/16(水) 01:35:25ID:kyTwzR6c朝鮮役もその枠に入れられて考えられたんだろう。
0821人間七七四年
2011/02/16(水) 01:41:17ID:lgARsKsc>>819
>>807
> ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4202.html
にちゃんと書いてある
> ところがこれ、実は倭寇の頭領であった王直の履歴そのままなのである。
> 同じく日本から大陸を攻めた人物として、いつしかそれぞれの話が重なってしまったのだろうか?
0822人間七七四年
2011/02/16(水) 02:49:59ID:lM/fH4M+そんな与太話は流布されてすぐに戦前の史学会で否定されてるしw
あんなトンチキ説を取り上げるのはインパクト与えたい三流メディアだけなんだけどな。
それを例に出すのはお前の程度も知れるから止めておけ。
0823人間七七四年
2011/02/16(水) 03:44:45ID:l72QDUwYいや、815は本気でそれを持ち出したわけじゃないと思うのだが・・・
さすがにこのスレにまで来る奴が義経=チンギス説を信じてる筈がなかろう。
根拠のないトンチキ認定はどこの国も少なからずやってるって事でしょ。
0824人間七七四年
2011/02/16(水) 04:14:46ID:eLnB+5Prだからうちの民族凄いんだぜ!と言い出すのと、
負けて悲劇的な最後を遂げた人物が
実は死なずに生き延びていて・・・ってのは
なんか同じように見えて違う感覚のような気がする。
トンチキ認定ってくくりは一緒だけど。
0825人間七七四年
2011/02/16(水) 06:50:16ID:5YKPD8aCそれでも日本では20世紀になってから出てきた話だよ。
どこの国も一度は通る道だ。
半島では21世紀になってからもやってるみたいだけどね。
0826人間七七四年
2011/02/16(水) 06:58:14ID:dB8VfThd0827人間七七四年
2011/02/16(水) 07:09:48ID:hlLwehjX■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています